中国に960年から1279年まで存在した王朝。1127年(靖康2)の靖康の変によっていったん滅亡したので,それ以前を北宋,以後の南遷して杭州に都した時期を南宋という。
後周世宗の武将であった趙匡胤(ちようきよういん)は,世宗の没後,部下の将兵に擁立されて皇帝となり,宋朝を開いた(960)。宋の太祖である。彼は世宗が始めた天下統一の事業を受け継いで,在位17年間に,南方に割拠していた荆南,楚,南漢,後蜀,南唐を相ついで征服した。残る呉越は,太祖を継いだ太宗のはじめに併合され,遼(契丹)の後ろだてをえて山西地方に独立国を建てていた北漢も,979年(太平興国4),親征した太宗によって滅ぼされた。かくして8世紀中ごろの安史の乱以後,2世紀以上にわたって分裂の状態がつづいた中国は,ようやくここに統一された。太祖は統一事業をすすめる一方で,唐末五代の混乱が武人の専横に起因したとの反省から,地方軍閥が握っていた軍事,財政,司法等の権限を取り上げて〈強幹弱枝策〉を推進し,さらに宰相等の職掌を分散して皇帝のみが全権を掌握するという君主独裁体制を築いた。しかも,武人をおさえて文臣を重用する文治主義を統治の基本方針とした。つづく太宗は,太祖の諸政策を継承するとともに,さらにいっそう強化して,宋朝の基盤をかためた。なかんずく,科挙の門をひろげて大量の知識人層を官僚に登用したことは,士大夫階級が政治,社会の指導層として進出する道を開くことになった。
宋朝は中国統一によって国内の平和と繁栄をもたらしたが,対外的にはつねに周辺の新興国家の圧迫をうけた。太宗は北漢を平定した余勢をかって,五代後晋が遼に割譲したいわゆる燕雲十六州の奪回をめざして出兵したが,2度とも大敗して,その望みを断たれた。かえって1004年(景徳1),遼の大挙侵入をうけ,澶(せん)州において和議(澶淵の盟)を結び,宋は兄,遼は弟の関係とし,宋から多額の銀と絹とを歳幣として贈ることを定めた。そのころ西北辺にはタングート族が興起し,東西貿易の利を占めて強大となり,1038年(天授礼法延祚1)ついに独立して大夏国を建てた。宋側はこれを西夏とよんだ。西夏もまたしばしば宋の領内に侵入したので,仁宗は大軍を派遣して,4年間もこれと戦ったが,勝利をおさめることができなかった。44年(慶暦4)に和議が結ばれ,宋は西夏に毎年銀,絹,茶を与えることにした。その後も北辺に衝突が起こるごとに,宋は歳幣の額を増やすことで問題を処理した。こうして,周辺諸国を対等の国と認めてこれと和を結び,しかも多額の歳幣を贈るという,唐代にはなかった新しい外交関係がつくられた。宋はいわば,名より実をとり,消極的だが現実的な外交策を選んだのである。
統一して数十年もたつと,ようやく社会のひずみが表面化してきた。ことに長期にわたる西夏との戦争によって軍事費がかさみ,そのうえ官僚と軍隊の数が年々増えて財政を圧迫した。そのしわよせが農民への重税となり,生活に苦しむ農民の中には流民や群盗となって各地に反乱を起こす者があった。しかし太平になれた政府は,これに対して無為無策であったから,社会矛盾は年とともにはげしくなった。そこで1043年,范仲淹(はんちゆうえん),欧陽修らは仁宗の信任をえて行政改革を試みたが,多くの反対にあってわずか1年で挫折した。事態がいっこうに改善されないうえに,英宗朝になると,英宗の生父を礼法上いかに処遇するかをめぐって,朝廷を二分する大論議(濮議(ぼくぎ))が起こり,いたずらに政治の空白が生じた。このような危局に即位した神宗は,王安石を抜擢(ばつてき)して,大規模な改革を行わせた。これを王安石の新法とよぶ。改革の第一の目的は,破綻した国家財政を立て直すことにあったが,従来のような重税と節減といった単純な施策では,もはや解決できない状態になっていた。王安石はそこで〈生財の道〉すなわち積極的に財源を生み出す方策をとり,改革は単に財政の問題だけに限られず,ひろく社会政策にも及んだ。69年(煕寧2)より均輸法,青苗法,市易法,募役法,保甲法,保馬法とやつぎばやに〈新法〉を発布した。
これに対して既得権を侵害されることを恐れた官僚,大地主,大商人,それに宗室たちは猛然と反対したが,神宗は断固としてこれを遂行し,相当の成果を挙げ,財政は黒字に転じた。しかし神宗の没後,哲宗の摂政となった宣仁太后は,旧法党の領袖司馬光を宰相に任じて,新法をことごとく廃止し旧法にかえした。やがて哲宗が親政すると,今度は新法党人を起用したが,彼らは改革よりは反対派に報復することに力を注いだので,新旧両党の争いに拍車をかけることになり,政治の混乱を招いた。加えて事実上の北宋最後の皇帝となった徽宗は,政治のことは宰相の蔡京にまかせて,日夜遊興にふけり,書画骨董の収集に熱中し,豪壮な宮殿,庭園,道観等を造営したりして,莫大な金銭を使った。その補塡のために,蔡京はあらゆる手段を用いて誅求を行い,人民を苦しめたので,浙江の方臘(ほうろう),山東の宋江はじめ各地で反乱が勃発し,政府はその鎮圧に手をやいた。そのとき,東北地方に起こった女真族の金が遼を滅ぼし(1122),さらに南侵して,1127年都の開封を占領し,徽宗,欽宗らを捕らえて北に連れ去った(靖康の変)。
地方に出ていて難を免れた欽宗の弟高宗は,その年のうちに南京応天府(河南)で即位して宋朝を再興したが,金軍に追われて江南に逃がれ,杭州を仮の都臨安と定めた。このとき,高宗に従って華北の官民が多数江南に移住した。このことは,4世紀の晋の東遷につぐ中国史上の大事件であり,江南の開発が一段と促進され,華北に対する江南の経済的優位を決定づけることになった。南宋ははじめ,岳飛らの活躍によって一時は開封近くまで盛り返したが,高宗は金から帰還した秦檜(しんかい)の献策に従って,武将たちを都に召還し,42年(紹興12),金と和議を結んだ。それは淮水(わいすい)と大散関(陝西)を結ぶ線を両国の国境とし,宋は金に対して臣礼をとり,歳幣として銀25万両,絹25万匹を贈るという,宋にとってはなはだ屈辱的な条件であったが,これによって以後20年間は平和がつづき,国力の充実をはかることができた。そして61年,中国統一を夢見た金の海陵王の南侵が失敗に終わったのち,金の世宗と南宋の孝宗との間で再講和が成立し,歳幣の額を減らし,宋主は金主を叔父とよぶなど,宋に少しく有利に改められた。
その後,両国とも自国の整備につとめたので,しばらく平穏であったが,13世紀はじめ,寧宗の宰相韓侂冑(かんたくちゆう)は,金が北方のモンゴルに苦しめられている機に乗じて,北伐を敢行して,大敗を喫した。そのため,今度はきわめて不利な条件で和を結ばねばならなかった。しかもこのころになると,年々増加する軍事費のために財政が窮乏し,正税のほか諸種の雑税が加徴され,強制的な軍糧調達も行われた。さらに会子とよぶ紙幣を乱発して物価騰貴を招き,経済界を混乱させた。そこで賈似道(かじどう)は公田法を施行(1263)して大地主の土地を買い上げることにし,ある程度の成果を挙げた。しかし国力を挽回するまでにはいたらず,元の世祖フビライの攻撃をうけて,1276年に臨安が陥落,恭帝は元の軍門に下った。文天祥らは幼帝を奉じてなおも抵抗をつづけたが,79年(祥興2),広州湾の厓山島に追いつめられて全滅し,宋朝はここに完全に滅亡した。
宋朝は建国にあたって,抜本的な統治制度の改変を行うことなく,前代の制度を踏襲して,その足りないところを補うという,現実的で穏和な方策をとった。そうした傾向をもっともよく表すのが官制である。宋代の官制は唐の三省六部制を継承したが,五代の軍閥政権のあいだにその実質的な機能は失われた。宋代になると,旧来の〈官〉はほとんどが職掌をもたず,ただ官員の序列と俸禄の高とを示すものにすぎなくなった。実際に職務を帯びるのは,《大唐六典》には記載されない令外の〈差遣〉であった。ほかに科挙に及第した文学の士に授ける館職,略して〈職〉があった。このように宋代とくに北宋では官と職と差遣という三本立ての複雑な官制が行われたのである。そのうえ唐末五代の混乱の一因が皇帝権の弱体化にあったことの反省から,職掌を分散し重複させて,特定の官員に権力が集まるのを防ぎ,あらゆる権限をすべて皇帝に集中せしめる君主独裁体制を築いた。
すなわち,中央官制では,宰相の同中書門下平章事は複数とし,ほかに副宰相の参知政事を置いて,あわせて宰執と称し,政務はこれら宰執の合議ですすめられ,最終の決定は皇帝にゆだねられた。さらにもと兵部の管掌であった軍政は,皇帝直属の枢密院がつかさどり,財政は,唐末以来しだいに大きくなった三司が担当し,その長官である三司使は計相,すなわち財政上の宰相といわれた。事実,三司使は宰相に匹敵する権限を有した。ほかにも官僚人事をつかさどる審官院,司法をつかさどる審刑院など,六部を離れて皇帝に直属する独立機関がいくつも設けられた。その結果,唐代では〈事の統べざるなし〉といわれ,全権をにぎっていた宰相は権限が著しく縮小されて,皇帝の秘書官のような地位になり下がった。
地方官制でも,特定の官僚が独断専行できないように組織され,さらに中央の監督が強化された。州の長官には刺史に代わって中央の官員が派遣され,これを権知某州軍州事,略して知州といった。また新たに通判を置いた。通判は地位こそ知州よりやや低いが,知州の副官や属官ではなく,権限は知州と対等で,共同して州の行政を担当するものであった。しかも知州の行動を監視し,随時朝廷に報告したので,通判は監州ともよばれ,知州にとってはうるさい存在であった。末端の県の官吏は,五代のとき軍閥に籠絡されて,そのなすがままになっていたので,ここでも中央の官員を知県に任命し,政府が直接に県政を掌握することにした。一方,州の上には路という監督区分を設けて,転運司(漕),提点刑獄司(憲),経略安撫司(帥)を置き,それぞれ一路の財政,司法,軍事をつかさどり,のちに提挙常平茶塩公事(倉)を置き,総称して監司といった。路の数ははじめ15であったが,のちに23に増え,北宋末期には26路になった。本来は監督区分であったが,後代には行政区分に変わり,現在の省の区分の起源となった。このように在来の官制の上に新しい官職を加えていったので,宋代の官僚機構は複雑で膨大なものになった。
そこで神宗は,1082年(元豊5)に中央官制の大改革を断行して,《大唐六典》に記す旧制にもどし,名実を一致させた。たとえば審刑院は刑部に,三司の業務は戸部に移管するなど,機構を整理統合した。これによって形式的には整然たる組織に復帰したけれども,六部の分掌に不均衡や重複が多く,けっして機能的なものとはいえなかった。また時代の変化にともなって,すべてを旧に復することはもはや不可能であり,枢密院は唐制になかったが存続され,権限を分散する方針も維持された。なお宰相の名称も改められて尚書左僕射兼門下侍郎と尚書右僕射兼中書侍郎となり,さらに南宋には左右丞相に改められた。
宋代における主要な官僚供給源は,科挙であった。科挙の制は隋代に始まり,唐代でも行われたが,もっとも重要な官吏登用制度となったのは,宋代以後のことである。とくに太祖が従来の解試と省試とに加えて,皇帝みずからが試験する殿試を創設したことは,重要な意味をもった。すなわち,皇帝が試験の及落に最終の決定権をもち,及第者はその恩義に感じ,天子の門生として終生忠誠をつくすことになり,君主独裁制を強化するのに貢献した。また太宗以後は及第者の数が激増し,とくに進士科が重視されて,〈進士及第者にあらずんば美官を得ず〉といわれたように,進士でなければ出世できないことになった。事実,宰相などの高官にのぼった者の大部分がその及第者であった。そして進士に何年に及第したかは,その官僚にとってきわめて重要な経歴事項とみなされ,宋代以後の官僚の伝記には,必ず何年の進士かが記載されることになった。
君主独裁体制を支えたもう一本の柱は,強力な軍隊であった。すでに五代において,後唐の明宗,後周の世宗が親衛隊である禁軍の強化をはかった。宋の太祖はその禁軍をそっくり引き継ぐとともに,地方の強壮な兵卒を中央に集めて禁軍に編入し,地方軍たる廂軍をすっかり骨抜きにした。禁軍は殿前軍,侍衛馬軍,侍衛歩軍の3軍(三衙)から成り,それぞれが皇帝に直属して,3軍を統べる総司令官は置かれなかった。また3軍の指揮官は部下の将兵を管理し訓練する握兵権をもったが,軍隊を動かす権限はなかった。その発兵権は文臣の枢密使にゆだねられていた。禁軍は首都の警護に当たるほか,国境付近や内地の軍事的要衝に派遣されて防衛に任じた。これを駐泊とか屯駐と称し,路の都総管,州の兵馬鈐轄(けんかつ),都監の指揮を受け,知州はこれに干与できなかった。しかも地方に派遣される禁軍は2,3年ごとに定期的に交代させられた。これを更戍法(こうじゆほう)といい,地方に勢力を扶植したり,将兵間に親密な関係が結ばれるのを防止した。
こうして,唐末五代にしばしばみられた,禁軍の策動によって皇帝が廃立されたり,地方に軍閥が割拠したりするおそれがなくなって,皇帝の地位は安泰なものとなった。ところで宋代の軍隊は召募制であったから,用がなくなってもすぐに解雇するわけにいかず,その数は年とともに増加して,国初40万にすぎなかったものが,北宋中期には140万にも達し,財政赤字の一因となった。そこで王安石は保甲法を実施して,兵員の数を大幅に削減し,代わって民兵制度を拡大し活用する改革を行った。しかし兵は社会の落伍者がなるものとの通念にはばまれて,その強兵策は十分な効果を上げることができなかった。
税法もまた唐代の両税法を継承し,田土を基準にして夏には銭,秋にはアワ,米を納入させたが,実際には銭の代りに絹,綿,麦などを徴収した。こうした正規の両税に加えて,農民を苦しめたのは,租税を他の州県まで運ばせ,その運賃を徴収する支移,規定の銭物の代りに他の物を納めさせる折変であった。そのうえ江南地域では,五代の遺制である身丁銭米,沿納とか雑変とかよばれる付加税があった。また政府が強制的に米を買い上げる和糴(わてき),春に銭や塩を貸しつけて,絹で返済させる和買絹なども,後には代価を支給しなくなって付加税に等しくなった。北宋中期以後,財政が苦しくなると付加税はいっそう重くなり,南宋では経制銭,総制銭などの新税がつぎつぎにつくられ,朱熹(しゆき)(子)が指摘するように,〈古(いにしえ)の刻剝の法は,本朝(宋)にみな備わっていた〉のである。
宋代に特徴的なことは,唐代まではおもに土地税によって財政がまかなわれていたのに対し,宋代になると,塩,茶,酒等の専売益金や商税など課利の収入が急激に増加して,額において租税に匹敵するほどになったことである。これはいうまでもなく,経済の発展,なかんずく商業の飛躍的な発展によるものである。その点は銅銭の鋳造額にも示される。唐代では752年(天宝11)の32万7000貫が最高であったが,宋初ですでに約80万貫(995),王安石の新法実施中の1080年(元豊3)には506万貫にのぼり,北宋160年間の鋳銭総額は実に2億貫に達したと推定されている。それでも鋳造が需要に追いつかず,しばしば銭不足(銭荒)の現象を生じた。一方,鉄銭の流通圏であった四川では,北宋中ごろから,持ち運びに不便な貨幣に代えて,交子という紙幣が発行された。南宋になると,紙幣は会子とよばれ,全国的に流通した。
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。その変化の一つは,支配階級の交代である。六朝以来の支配階級であった門閥貴族は唐末五代の混乱のなかですっかり没落し,代わって士大夫階級が新たな指導層として登場した。士大夫は科挙の受験をめざして儒教の教養を身につけた知識人,読書人であり,科挙に及第して官僚となり,国政を担当して人民を統治することを目標とする者であった。彼らはおもに唐末五代に台頭してきた新興地主階級つまり形勢戸の出身であったが,その例外も少なくはなかった。官僚になると,官戸として差役の免除をはじめ諸種の特典にあずかることができ,官僚の地位を利用して土地を買い集め,あるいは本来は官僚に禁じられている営利事業を行って大資産家になる者も多かった。しかし科挙は個人の実力いかんによるものであったから,子孫に引きつづき及第する者がいなければ,その家は衰えていく。もとより宋代でも,高官の子弟は無条件で任官できる任子の制が行われていたが,任子によって得られる地位は,科挙及第者にくらべて低く,また何代もつづいてあずかれる恩典ではなかった。そのうえ均分相続の慣習があって,家産もそのままでは先細りであった。事実,宋代以後,官僚を出す家はたえず入れかわり,浮沈がはげしかった。そこで一族の繁栄と永続を願って,同族の経済的援助を目的とする義荘が,11世紀以降盛んに設置された。その先駆は,宋代第一の名臣とうたわれた范仲淹の范氏義荘である。
農民は戸籍上,主戸と客戸とに分けられた。主戸は原則として土地財産を所有する者で,財産高によってさらに5等に分けられ,3年ごとに,主戸の資産と丁口の数目を記載し徴税や差役割当の基準とした,五等丁産簿が作成された。5等のうち1等戸から3等戸までは地主階級に属する〈上戸〉であって,国の労役奉仕に当たる義務を負った。それは差役とか職役とよばれて,官物の保管と輸送(衙前),州県官衙への出仕(承符),租税の徴収(里正,戸長,郷書手),郷村の治安維持(耆長,弓手,壮丁)などに従事した。
これらの差役に就くことは,唐代では名誉とされ,代償として諸種の恩典も与えられたので,希望者は多かったが,宋代には中央集権化がすすんで地方の負担が多くなり,農民にはこれが大きな重荷となった。ことに衙前に当てられると,官物を損傷すれば弁償しなければならず,そのため一家破産に追い込まれることも珍しくなかった。当時,差役はもっとも農民を苦しめていたものであり,農村疲弊の原因をつくっていたので,王安石は募役法を実施して,上戸から免役銭を徴収し,その銭で希望者を募って役に当てる方法に変えた。しかし南宋になると,徴税や警備の役務は都保正,大保長らが担当するようになり,免税銭は総制銭に繰り入れられ付加税の一種になった。差役のほかに,官府の治水工事や官舎の修築,官物の輸送などに臨時に徴発される夫役,雑徭があって,戸等に関係なく割り当てられた。主戸の大部分は4等戸と5等戸とであって,所によっては全戸数の7割から9割以上を占めた。彼らはわずかな土地しかもたない自作農ないしは自小作農であり,5等戸中には,財産がないのに納税の義務を負う無産税戸も含まれていた。
客戸は,もともと客来の戸を意味し,僑居する商工業者もその中にはいったが,大部分は佃戸,佃農などとよばれ,地主の土地を耕作する無産の小作人たちであった。佃戸は唐代の部曲とは異なって,社会的にも法的にも自由民であって,地主とは契約によって結ばれていた。北宋中期,江南では,秋の収穫が終われば,地主の許可証なしにどこへでも移住してよいとの命令が出されていた。もっとも労働力が不足する僻遠の地では,佃戸を土地にしばりつける古い法律を行用し,あるいは地主保護のために,佃戸が地主に暴行を加えると,常人より重く罰せられた。また小作料は一般に収穫量の5割にも及び,無一物の佃戸は地主から農具,耕牛,種子をはじめ食糧,冠婚葬祭の費用まで借り,経済的に地主に大きく依存する者がいた。反面,独立して生計をたて,小作地を他に転貸して利をかせいだ者もいた。しかも江南の先進地帯では,南宋になると,佃戸の地主に対する小作料の不払いや,地主に味方する官憲への抵抗など,いわゆる〈頑佃抗租〉の風潮が強まった。
五代十国の分裂時代,江南に割拠した諸王国はそれぞれ富国強兵につとめて,国内産業の振興に努力したが,国境にはばまれて諸国間の自由な交易ができなかった。宋の統一によって国境という障害が取り払われ,五代の間に培われた諸産業は,全国的な販路を得て,飛躍的に発展することになった。農業についていえば,長江(揚子江)下流のデルタ地帯では,稲の品種改良や囲田(いでん),圩田(うでん),湖田など水利田の開発によって,生産量が著しく増大し,〈蘇常熟すれば天下足る〉とのことわざが生まれたほど,この時代から中国の穀倉地帯として重きをなした。領土が半減しながらも,南宋が150年間も存続できたのは,実にこの地域を擁していたからである。一方,生育が速く干害に強い南方の占城稲(チャンパ稲)が移入されて,江西,湖南,福建,広南等の水の乏しい地帯で普及した。
唐代までの農業は自給自足を原則として,たまたま余剰があれば売りに出すという程度であったが,宋代になると,はじめから商品としての作物栽培がおこり,それぞれの土地に適した特産物がつくられた。また江西,福建等の山地では茶の栽培が盛んになり,茶は専売品,貿易品として重んぜられた。江西の景徳鎮,河北の磁州をはじめとして各地に陶磁器産業が勃興して,陶磁器は絹と茶につぐ重要な貿易品として遠く海外にも輸出された。金,銀,銅,鉄,鉛,スズなどの鉱山の開発もすすみ,その産額は唐代の10倍ないし数十倍に達した。製鉄の燃料に,木炭と並んで石炭が使われるようになり,生産量の増大をもたらしたことは,とくに注目される。そのほか温州の漆器,湖州の筆,徽州の墨など名高い特産品が生まれ,四川をはじめとする製紙業の発達は,印刷術の発展と相まって,文化の普及向上に貢献した。これらの手工業では,工程の分業がすすみ,農村から出てきた労働力を吸収した。
これら諸産業の勃興をうながしたものは商業であり,とくに宋代は商業が飛躍的に発展した時代と特徴づけることができる。商人には,遠隔地商業を専門とする客商,都市に常住して店舗をかまえる坐賈(ざこ),仲買を業とする牙儈(がかい),牙人に大別することができ,大都市の商人たちは業種ごとに行(こう)という商人組合を結成した。行はもともと自律的な組織であったが,その大部分は政府所要の物資を調達するかわりに営業の独占権が認められた御用組合となり,二,三の豪商に牛耳られることが多かった。職人もまた同業組合を結び,これも行とか作といった。
商業の発展は,都市の姿を一変させた。従来の都市は政治都市,軍事都市の性格が強く,高い城壁をめぐらし,城内も坊に区切られて,夜間の外出は禁止され,商業は〈市〉区域でのみ許されていた。宋代にはこうした坊市の制がくずれて,自由な都市生活が行えるようになり,都の開封,臨安はかつての長安,洛陽などとは異なって,活気にみちた商業都市,娯楽都市に変わった。一方,村落には各地に草市とか村市とよばれる定期市が立ち,それが成長して市,店などの市場町となり,かつて軍隊の駐屯地であった鎮は,軍事的機能を失って,交易の拠点として発達し,小都市に成長した。こうした鎮市は,農村の交易の中心となり,都市と農村とを結ぶ中継点の役割を果たした。
貨幣経済の農村への浸透によって,農民の生活にも大きな変化をもたらすことになった。自給自足の農業がくずれ,農民は生産物を市場にもっていって日常品と交換した。また農業の分業化がすすんで,11世紀中ごろでも,すでに,農民でありながら野菜を買う者すらいた。農家の大多数は零細経営であったから,自分の土地だけでは生活できず,小作を兼ねたり,季節労働や日雇いに出かけたり,売薬や卜占などの副業を営む者もあった。それでも生活できないと,大都市に流れ込んだ。都市に出れば,賃仕事などでなんとか食いつなぐことができたのである。貧農に限らず,地主も都市に移住した。およそ,都市のほうが農村より国家負担がはるかに軽微であった。農村では差役という重い負担があったが,都市の住民は,政府所要の物資を調達する科配と,町長ともいうべき坊正の役務につけばよかった。しかも地主が都市に移住すると,都市住民と同じ扱いをうけることができた。政府は何度も命令を出して都市への移住を禁止したが,効果は上がらなかった。こうして人口は都市に集中し,開封は100万,臨安は150万に達したと推定されている。
宋代は文化の面においても一大転換期であった。その特色は,新興の士大夫階級が前代の貴族文化を否定して,きわめて個性的で自由清新の気風にあふれた新文化を創造したこと,大都市を中心にして,文芸や演劇などに新しい庶民文化が生まれたことである。木版印刷術の発達によって,知識の伝播普及が容易になり,知識人の層が飛躍的に厚くなったことも,宋代文化の顕著な特色の一つである。
士大夫による新文化運動は,彼らの政治的社会的地歩がかたまった11世紀中ごろ,范仲淹,欧陽修らを中心として一気に盛り上がった。彼らが朝堂にあったときの年号をとって,これを〈慶暦の正学〉とよぶ。強烈な個性の持主であった彼らは,既存のあらゆる権威を否定し,経書そのものに没入してその真の精神を体得し,それを現在に生かそうとする理想に燃えていた。范仲淹,欧陽修らはそれを学問的に体系づけるまでにはいたらなかったが,これをうけた周敦頤(しゆうとんい)は,宇宙の生成過程を図式化して説明を加えた《太極図説》を著して,新儒学の青写真を示した。その学説は張載,程顥(ていこう),程頤(ていい)に受け継がれ,南宋の朱熹(子)にいたって大成された。宇宙生成の原理や人間の本性を究明する学問なので性理学,理学などといい,あるいは朱子学,程朱学,道学,宋学などとさまざまによばれる。朱子の生前,道学は偽学として迫害をうけたが,彼の死後,多くの学者に継承されて儒学の正統の地位を占めるようになり,明代には官学として大いに興隆し,朝鮮や日本の学術思想にも影響を及ぼした。朱子と同時代の陸九淵は,朱子学の知識偏重に反対して徳性の修養を強調し,浙学といわれる陳亮,葉適らは経世功利の説を唱えて,道学の空理空論に走るのを批判した。
思弁的な道学の流れのほかに,《春秋》を学んで歴史のうえから道義を明らかにしようとする歴史主義の流れがあった。先駆者の欧陽修は《新唐書》《新五代史》を著し,後者において,《春秋》の精神にもとづいて五代の政治,世相を痛烈に批判した。つづく司馬光は,《春秋》の後を継いで戦国から五代までの編年体の通史《資治通鑑(しじつがん)》を著した。これは,治乱興亡の跡をたどって客観的に大義名分論を展開し,帝王の治政に資することを目的として書かれたものであるが,できた当初から高い評価をうけ,史書の模範とされて,後代これにならう史書が多くつくられた。朱熹の《資治通鑑綱目》は史実よりは義理を重んじ,宋学の道徳史観を結集したものである。宋代の史学にみられる一つの特色は,当代史への関心が強く,北宋通史である李燾(りとう)《続資治通鑑長編》はじめ,多くの宋人による宋代史書がつくられたことである。この傾向は,彼らの現実肯定の思想と無関係ではなかろう。
このほか宋代には,欧陽修《集古録》にはじまる金石学,特異な歴史理論と目録学を展開した鄭樵(ていしよう)の《通志》の学,考証学の源をつくった王応麟の学問など,多種多様の学術が開花し,清代学術の淵源をなした。さらに宋代の士大夫は実用的な学問,水利,算数,兵法,医薬,農学などの広範な科学技術に深い関心を示した。官僚でもあった彼らには,むしろこうした実学の知識は,行政を行ううえに欠くことのできないものであった。そこで実用的な学問に理解を示すとともに,在野の水利学者を登用したり,その業績を顕彰したりした。
宋代には文体も一変した。貴族文化の象徴ともいうべき駢儷体(べんれいたい)の文章をやめて,それ以前の古文にかえれとする運動は,唐の韓愈,柳宗元らに始まったが,なかなか普及しなかった。ところが欧陽修が古文復興を唱道すると,大きな反響をよび,形式にこだわらず達意の文章を書くことが一躍盛んになり,彼の門下からは王安石,曾鞏(そうきよう),蘇軾(そしよく)兄弟らの名文家が輩出し,以後清代まで,古文は文体の主流を占めることになった。詩も唐代にひきつづいて盛んで,王安石,蘇軾,黄庭堅,陸游(りくゆう)らの大詩人が生まれたが,南宋後期になると,浙江温州の〈永嘉四霊〉,臨安の書店主陳起を中心とする江湖派など,市井の小詩人たちの活躍がみられた。これは,士大夫文化の庶民への拡大を示すものとして,注目される。また唐代に民謡からおこった詞(塡詞,詩余)は宋代に全盛期を迎え,大都会の盛場(瓦子)で演じられた語り物のテキスト(話本)は刊行されて読物となり,後代の口語小説の起源となった。盛場では,このほか人形劇(傀儡(かいらい)),影絵芝居(影戯),雑劇などが盛んに演じられ,とくに雑劇は金代では院本とよばれ,元代の雑劇に発展した。
宋代文化の特色は,書画にも顕著にみられる。書はもともと士大夫が習得すべき六芸の一つであったが,唐代までは,立派な書をつくるのは専門家にゆだねられ,一般知識人が趣味としてこれを楽しむ風はなかった。しかも均整のとれた冷厳な書が尊ばれた。ところが宋代には,書は士大夫だれもが参加して楽しめる芸術となり,士大夫はそれぞれ個性にあふれた,人間的で親しみある書をつくり,また鑑賞した。絵画でも,宮廷の画院につとめた専門画家による院体画が隆盛であった一方,士大夫や禅僧たちが余技として描いた文人画が流行した。彼らは伝統的な写実主義よりは,胸中の心情を率直に表現する理想主義の描写を好み,多く自由な筆致で簡素な水墨画を描いた。
→宋代美術
執筆者:竺沙 雅章
日本の朝廷では,9世紀末に遣唐使が中止され,10世紀はじめに渤海との交渉が終わると,諸外国と公使の往来を伴うような外交関係はなくなり,一方では日本人の海外渡航を禁止するなど,しだいに対外関係に消極的になっていった。また来日商人に対しても10世紀はじめに毎三年一航という制限規定を作り,宋商人に対しても適用して,規定を守らない商人には貿易を許さずに帰国を命ずる場合もあった。しかし貴族たちの唐物欲求は根強く,ほとんどの場合貿易を事実上認めた。また外国への渡航を禁止されていた時期にあっても,おもに天台山・五台山巡礼を目的とする入宋僧が宋船を利用して往来した。宋では,唐末五代の混乱によって多くの経典,一般書籍が散逸し,入宋日本僧がもたらす,かつて中国から日本に舶載された典籍が珍重された。入宋僧の中でも奝然(ちようねん),寂照,成尋(じようじん)らは著名で,日中両国の宗教界に大きな影響を残している。1073年(延久5)には国内産業の発達を背景として対外活動を熱心に進めた神宗皇帝から,自筆の文書と多くの品物が日本に贈られてきた。それまでにも宋商人の中には,来航に際して明州刺史の大宰府あるいは朝廷あての牒状をもたらす場合があったが,日本の朝廷は消極的な対応に終始し,公式の外交関係を結ぶにはいたらなかった。今度は皇帝自身からの文書および贈物であったが,なお文書の語句を問題にしたり,返礼品を何にするかなどについて延々と審議を重ねた末,ようやく78年(承暦2)に使者を遣わして返書および水銀等の品物を贈った。しかし,このときの返書も大宰府からの回答という形をとっていたようであり,対宋外交関係に積極的に取り組む姿勢はみられない。
その後,1126年宋は金によっていったん滅ぼされ,翌年に再興したが,金との攻防が続いたため国内の社会・経済が混乱し,その影響が対外貿易にも及んで日本に来航する商船も減少した。一方,このころ日本では武士階級が成長し,源・平2氏と貴族たちとが複雑に絡んで権力争いが起こり,保元・平治の乱(1156,59)を経て,平氏ついで源氏による武家政権が樹立された。平氏は旧来の方針にとらわれずに開国的政策をとり,対外貿易を積極的に進めたため,日本商人が宋へと進出するようになった。すなわち,12世紀後半に平清盛が政権を握ると,彼は大輪田泊(兵庫港)の修築,音戸瀬戸の開削等を行い,大船の瀬戸内海の航行・停泊の便宜をはかっている。一方では日宋関係の促進も従来の慣習にとらわれずに推し進めた。たとえば,宋人の滞在する別荘に後白河法皇の御幸を求めたり(1170),1172年(承安2)に明州刺史から法皇および清盛に贈物があったときも,貴族には受け取るべきではないという意見が強かったが,清盛はこれを受納したうえ,返書および律令で国外への搬出を禁じられている武器を贈っている。このような清盛を中心とした平氏政権の開国的性格は鎌倉幕府にも引き継がれ,3代将軍源実朝はみずから渡宋を企てたほどである。また宋商人の中には,博多など貿易上の要地に居留し,地方豪族と姻戚関係を結ぶものも現れてきた。
こうして,日本がそれまでの対外的消極策から積極策へと変化していったころ,宋でも金との紛争が終わり,国内の秩序が回復して国家経済の発展をはかるようになった。このため日宋間に活発な貿易が展開され,1279年に宋が蒙古(元)によって滅ぼされるまで,両国商人によって多くの宋の文物がもたらされ,日本の社会,経済,文化の諸方面に大きな影響を与えた。たとえば宗教では,12世紀後半に栄西,道元らによって禅宗が本格的に伝えられると,禅僧の入宋,宋僧の来日が相次ぎ,急速に禅宗が国内に流布していった。また社会・経済面では,多量の宋銭が輸入され,貨幣経済が飛躍的に展開されるようになった。1171年(乾道7)に宋朝廷は銅銭の対日輸出を禁止したが,その後も続々と舶載されて,日本の貨幣経済を支えた。このほか,宋学は五山禅林の間に行われて漢学興隆の基礎を築き,芸術にも大きな影響を与えた。
→宋元銭 →日宋貿易
執筆者:石井 正敏
中国,南朝四王朝の一つ。420-479年。創業者は劉裕(武帝)。曾祖父の代に彭城(江蘇省銅山県)から京口(江蘇省鎮江)に移住。京口に置かれた北府軍団の一部将から身をおこした劉裕は,やがてその軍団長として孫恩・盧循の乱を鎮圧,410年(義煕6)には南燕,417年には後秦を征服,このような武功によって東晋から王朝を譲られた。第3代文帝治世下の天子と貴族たちとの合議政治の体制は〈元嘉の治〉とたたえられたが,主要な軍鎮の長官には宗室諸王が配せられ,また中央集権を志向した孝武帝以後,手足となって働く実務官僚を寒門や寒人にもとめたため,貴族たちはしだいに棚上げされはじめた。一方,439年(太延5)には北魏の太武帝が北涼を滅して華北の統一に成功,南北朝対立の緊迫した形勢がかたまり,明帝期には淮水(わいすい)以北から山東半島にいたる領土を北魏に奪われた。そして宋王朝を奪ったのは,この北部戦線で実力を築いた軍閥の蕭道成(斉の高帝)であった。
→魏晋南北朝時代
執筆者:吉川 忠夫
東晋のあとを継いだ宋は,東晋と交渉のあった諸国王をそのまま自王朝の藩臣として位置づけようとして,東晋が諸国王に与えていた将軍号のランクを昇進させた。宋朝樹立の420年に高句麗王高璉を征東将軍から征東大将軍に,百済王扶余腆を鎮東将軍から鎮東大将軍にそれぞれ進めた。しかし,この時点での倭国王の昇進はなく,421年倭国の朝貢をまってはじめて倭国王の讃を任官した。このときの官爵号は安東将軍・倭国王であったと思われる。倭国王の将軍号はこの後も高句麗王や百済王よりも低く,そこに宋の倭国に対する評価が示されている。宋の基本目標は北魏を滅ぼすことであったが,現実には北魏の勢力は強大で征服は困難であった。次善の策は北魏と境域を接する諸国と連携して対北魏包囲網を作り,北魏勢力を封じ込めることであった。宋のこの外交政策からみたとき,倭国の利用価値はうすい。倭国王の地位の低さはここに原因があろう。
→倭の五王
執筆者:坂元 義種
中国,春秋時代の侯国。?-前286年。殷の滅亡後,殷王帝辛(紂王)の兄微子啓が,殷の故都商邱(河南商邱県南)に封ぜられた国。春秋時代には河南東部を中心として勢力をもち,第19代襄公は桓公死後の斉の内乱を治め,覇者を志したが,楚に敗れ死亡。以後晋・楚の間にあり,両国の圧迫に苦しんだ。その間前588年,前546年の2回,宋が中心となって晋・楚の和平を実現させた。戦国時代には小国に転落,前286年斉,魏,楚に三分され滅んだ。
→春秋戦国時代
執筆者:伊藤 道治
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中国の王朝(960~1279)。開封(かいほう)を都とした北宋(960~1127)と臨安(りんあん)(杭州(こうしゅう))を都とした南宋(1127~1279)をあわせてさし、300余年続いた。南朝の宋(劉宋(りゅうそう))と区別して趙宋(ちょうそう)ともいう。
中国2000余年の中華帝国期を文化、社会、経済のうえでくぎるとき、普通、唐末から宋の時代(9~13世紀)を唐・宋変革期といい、あるいは中期中華帝国の始源をなす中世革命期と考える。この区分の指標は、官僚制機構の刷新、社会経済や技術の変革、文化の新鮮さにあり、中華帝国という文化伝統の枠内での断絶と革新に着目する。そして宋型の国家、社会経済、文化が、元(げん)、清(しん)という異民族支配を被りながらも、以後1000年近く続いたことを重視する。一方、東アジア史でも、唐の世界帝国が滅びたあと、民族自立化の動きが盛んとなり、日本では平安から鎌倉初期の武士政権が、朝鮮半島では軍事色の強い高麗(こうらい)朝が、ベトナムでは初めて中華世界から独立した呉(ご)朝、李(り)朝が生まれた。北方では遼(りょう)、西夏(せいか)、金(きん)、モンゴルが興り、いずれも外交、政治で中国との対等を求め、国字や固有文化を育て始めた。
[斯波義信]
宋王朝の性格はこうした唐・宋の間の時代変革のなかに位置づけねばならない。かつての中国史では、軍事・外交の劣勢や過度の理想主義的政治哲学で彩られる宋朝への関心は低く、政治・外交の盛期にあたる漢、唐、清朝の歴史が詳しく説かれていた。しかし社会、経済、文化全般の研究が進んだ結果、宋朝の革新性、文化・技術水準の高さが再認識された。唐・宋変革期は唐の玄宗(げんそう)朝の安史(あんし)の乱(755~763)で始まり、ここに200年余も続いた混乱のなかで旧伝統は一新された。六朝(りくちょう)以来の門閥(もんばつ)貴族は一掃され、新興の地主、富商が新しい支配層の母胎となり、これに応じて官僚制も、新人登用、昇進制、行政監察、職権分化、官僚哲学、教育制度を整え、独裁制が強まる反面で社会の支持基盤が広がり、社会の流動性、弾力性も増した。
財政上では両税法(りょうぜいほう)が採用され、新興の社会勢力(地主、富商)に対する国の政策は柔軟となり、しかも貨幣経済、産業分化の勢いに巧妙に対処した。こうして財政基盤は広がり、膨大な常備軍、官僚集団を養い、交通が発達し、産業が開発され、教育文化の施設も充実した。
社会経済上では、デルタ干拓を含む生産開発、新技術の普及によって生産性、生産量が高まり人口が急増し、これが活力となって地主制が広がり、商業が社会に浸透し、都鄙(とひ)が分化し、社会全体が高度な分化を遂げて組織性が強まり、ギルドや結社が育って社会の自律性が増大した。文化は官僚哲学にとどまらず、実学や庶民文化に幅を広げ、その到達水準は王朝史上の黄金時代とよぶにふさわしかった。
世界史のうえでこうした発展は、官僚制については古代エジプト、帝国については東西ローマと並ぶものであったが、隋(ずい)・唐の統一で再生した帝国は、唐・宋変革を経て体質を再編し、ローマ帝国よりもさらに数世紀長く続いた。
[斯波義信]
唐末に軍閥や反乱勢力の争いの焦点となった政治・経済の中心地は、もはや長安や洛陽(らくよう)でなく、黄河と大運河という交通大動脈が交わる開封の周辺であった。唐を倒した朱全忠(しゅぜんちゅう)の後梁(こうりょう)をはじめ、五代の中原(ちゅうげん)王朝のほとんどは、この戦略要地を争って興亡し、その間に、唐代まで政治や社会を左右した貴族門閥は姿を消した。
五代の中央や地方の政権が富国強兵を目ざして争ったため、地域ごとの開発は進み、地主や富商、地方の知識人など新しい社会の指導者の間で、しだいに軍閥を排して統一を求める動きが生まれた。ときに東北地方において契丹(きったん)族の民族統一が成り、南進して燕雲(えんうん)十六州という中国内地の農耕地を占めたため、中国側では集権と統一そして社会の安定回復は死活問題となった。
このとき、中央政権として最後に登場した後(こう)周(951~960)では、節度使(せつどし)の趙匡胤(ちょうきょういん)(在位960~976)が契丹討伐の機会に乗じて宋(北宋)王朝を建てた。太祖(たいそ)趙匡胤は混乱期の経験を生かし、着実に統一と集権の強化、富国強兵に向けての革新策を断行した。全国統一は次の太宗(たいそう)(在位976~997)のときに成り、もはや五代のような分裂は以後の王朝には二度と生じなかった。
宋朝は開封に都し、まず節度使をやめ、すべての軍隊を皇帝に直属させた。また民事、軍事、財務の行政で文臣を重用した。官僚制を不動のものとするため科挙(かきょ)制を整え、最終試験を皇帝が課する殿試(でんし)を加え、官僚の人事権を皇帝が握って旧貴族の復活する道をふさいだ。また全国を通じて行政官の権限の分割と行政監察を徹底させ、結局、軍事、行政、財政のすべての権限の裁決権を皇帝1人に集中する独裁制を樹立した。
この文治主義の確立に伴い、両税と専売を柱とする財政収入は激増し、唐の盛期に20倍する銅貨を流通させたこともあずかって、王朝の財政は豊かになった。100万を超す常備軍、3万余の有給官僚が生まれ、水利や交通も大いに整ったので、消極外交をとりながらも、富力では周辺を圧倒できた。しかし、建国から1世紀もたつと、遼や西夏などの強国との戦争のため、財政も官僚・軍事機構も肥大してしまい、これを支える社会にもそのひずみが及んできた。神宗(しんそう)(在位1067~85)に起用された王安石(おうあんせき)(1021―86)は、新法という政治改革を唱えて富国強兵策を見直し、国と社会の全般にわたる改善を試みた。しかし、すでに確立された官僚機構のなかで、官僚の利害に衝突するこの急激な改善案はすぐには受け入れられず、かえって新法党と旧法党とで政界を分ける政治指導権の争いを招き、問題の本質がゆがめられていくうちに王安石は失脚した。
この間に、遼の背後で東北地方を統一した女真(じょしん)族の金は、遼を宋と挟攻して滅ぼし、ついで宋をも滅ぼした(靖康(せいこう)の変)。残る華中・華南を砦(とりで)に防戦した宋は、一族の高宗(在位1127~62)のもとで南宋を建て、都を臨安(杭州または行在(あんざい))に置いた。両国の戦いは、和親派の秦檜(しんかい)が岳飛(がくひ)らの主戦論者を抑えて和議を結んだことで収まった。以後の1世紀半、南宋は消極外交と互市場(ごしじょう)、市舶司(しはくし)による辺境貿易の統制によって領土を保全しながら、金やモンゴルの侵入を防いだので、社会経済や文化はますます発達した。しかしやがてモンゴル帝国が1227年に西夏、34年に金を滅ぼし、71年に元を建てたフビライ・ハンは76年に臨安を落とし、79年、厓山(がいさん)の戦いで南宋を滅ぼした。
この中国の変革期に宋が平和と文治主義の路線を確立したことは、これに見合う学問や思想界の新しい潮流を生んだ。周辺からの外圧によって漢民族固有の伝統や倫理観、歴史観、そして排外的な外交観が目覚め、政治や社会経済の発達による刺激は、新しい政治哲学としての宋学や実用知識を育てた。ことに科挙制度が定着したことで多くの知識人(士大夫(したいふ))が生み出され、政治と学問のかかわりが強められた。古来、人間関係を重んずる中国の伝統思想は、仏教や道教の宇宙観を吸収して体系づけられてゆくうちに、中華主義的な世界観、道徳観に仕上げられた。北宋の周敦頤(しゅうとんい)に始まり、南宋の朱熹(しゅき)(朱子)が大成した朱子学(宋学)がそれである。宋学はのちに国の正統儒教思想となって科挙と合体し、日本や朝鮮の思想界にも大きく影響した。こうした新興の宋学が理想主義に走り、知識万能のために空論にふける偏りをもつのに対し、朱熹と同時代の陸九淵(りくきゅうえん)(象山(しょうざん))は、むしろ人間の心性と実践倫理を重んじて支持者を集めた。その後、この学風は明(みん)の王陽明(おうようめい)が大成して思想界をリードするようになり、江戸時代の日本にも伝わった。
[斯波義信]
唐代に6000万であった人口は急増して1億を超えた。この時代に集中的に開発されたのは江南などのデルタや低湿地であった。平和の到来とともに華中・華南の豊かな資源が移住を誘い、揚子江下流の洪水常襲地帯は一変して穀倉地となり、「江浙(こうせつ)熟すれば天下足る」といわれた。また安徽(あんき)、江西、湖南、福建、広東(カントン)、四川(しせん)などの山地では、鉱物資源や茶、材木、漆、陶磁器、果樹、砂糖、養蚕、絹織物などの産業がおこり、民間の交通運輸も改善された。水利改良とともに占城稲(せんじょうとう)など早稲(わせ)の改良品種が普及して農業は安定した。両税法と富国強兵策のもとで、国が商業をはじめあらゆる財源を効率的に利用すべく、直接の統制を緩め、その一方で多量の貨幣や紙幣を流通させたことも手伝って、経済は未曽有(みぞう)の好況を呈した。
国内商業では茶、塩、絹、青磁、白磁、漆器などの特産品が広く流通し、海外からは馬、羊、銀、香料、薬物が流入し、絹、陶磁、茶などと取引された。国際貿易は北辺の互市場、海港の市舶司を通じて政府に統制されたが、宋が財源として海上貿易を進めたため、泉州や広州、寧波(ニンポー)などの海港都市の貿易は盛んになり、以後の中国で銀が社会に流通する糸口となった。造船、航海の技術も一新され、唐までは東南アジア、アラブの海商に抑えられていた東アジア、東南アジア、インド洋貿易の実権は中国商船に移り、日本や高麗(こうらい)はもとより、遠くアラブ、アフリカ東岸にまで銅銭、絹、陶磁などを積んだ中国商船が進出を始め、東南アジア諸港には中国人が住み着き、華僑(かきょう)の先駆けとなった。
これとともに貨幣経済や都市が発達し、銅銭は年間最高500万貫を超えて鋳造された。民間では為替(かわせ)、手形が普及し始め、政府もこれを採用したほか、交子(こうし)、会子(かいし)、交鈔(こうしょう)という紙幣を発行して全国に流通させ、その額は数千万貫にも達した。各地には巨大な都市が生まれ、北宋の開封、南宋の臨安は人口も100万を超え、当時の世界で一級の都市であった。唐まで続いていた政府の商工業統制は大きく後退し、行(こう)や作(さく)とよばれる都市の商工業者の組合ないしギルドが明確な形で出現してきた。商店、倉庫、料理屋、酒場、市場(いちば)の開設、営業は、時間も場所も自由となり、瓦子(がし)とよばれる娯楽場が都市内外に生まれて、演劇、音楽、講釈、辻芸(つじげい)など庶民社会の文化がおこった。また農村部でも自給が失われ、鎮(ちん)(町)や村市が網の目のように広がり、地方レベルの民衆生活は鎮や村市のブロックを生活空間とするようになり、社会の自律化を助長した。
農村社会も激変した。貴族や軍閥が一掃されると、新しい地主階層が土地経営者として登場し、とくに稲作による辺地開発と人口集中が進んだ江南を中心に地主制が広がった。彼らは貧困な小作人(佃戸(でんこ))を集めて農地を開き、新たな社会勢力となった。当時、官僚身分のものは農地の保有を有利に保証されていたので、新興地主は農業や商業で富を築き、官界に登用されれば特権にあずかることができた。こうして生じた特権的な地主階層は官戸(かんこ)、形勢戸(けいせいこ)とよばれた。広く官僚、知識人をさす士大夫は、こうした地方エリートのなかから生まれた。ただし官職の世襲は許されないので、家系は長く続かず、旧貴族が復活することは、もはやありえなかった。
[斯波義信]
宋代の文化は文治主義と社会経済の急成長による活力に支えられていただけに、洗練性、独創性、庶民性、実用性などの特色を備え、到達水準も高く、中国文化の黄金時代とよばれるにふさわしいものであった。文化をつくりだし、それを味わう階層も官僚だけでなく知識人、地主、商人から都市民にまで及んだため、創造活動は幅を広げ洗練を加え、さらに時代が漢民族固有の精神を呼び起こし、内省を深めたので、美の追求もその本源に迫る鋭さを示した。
美術、工芸の水準は史上最高となり、工芸では青磁、白磁、天目(てんもく)などの逸品を生み、漆器では螺鈿(らでん)、攅犀(さんさい)、剔紅(てきこう)(堆朱(ついしゅ))などの名品が出た。絵画では唐代の宗教画の発達に伴って進んだ写実主義、彩色主義の伝統のうえに、山水、花鳥などの自然観察を通じて磨かれた形状や空間の表現、画家の内心から発動する理想の表明に重きが置かれた。このうち写実主義の流れは、北宋朝の宮廷の画院の職業画家たちや、徽宗(きそう)など天子による山水画、花鳥画を生み、李龍眠(りりゅうみん)、郭煕(かくき)、李唐らが輩出し、南宋では馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)らが名高い。一方、理想主義の画風は、士大夫や禅宗の僧侶(そうりょ)、道士(どうし)らの手により、線描主義と自由な水墨手法の調和を求める方向で発達を遂げ、五代の石恪(せきかく)から北宋の蘇軾(そしょく)(東坡(とうば))、米芾(べいふつ)、王庭筠(おうていきん)らの文人画家を生み、南宋では梁楷(りょうかい)、牧谿(もっけい)らの水墨画の逸品が出た。これと並んで書道も高水準に達し、蔡襄(さいじょう)、蘇軾、黄庭堅(こうていけん)、米芾らの個性的な書風が生まれて書壇が隆盛した。
文学では簡潔な文体が重んじられて、欧陽修(おうようしゅう)、王安石、三蘇(さんそ)(蘇洵(そじゅん)、蘇軾、蘇轍(そてつ))らの文章が模範とされ、韻文では唐の詩にかわって詞(し)(詩余(しよ)、填詞(てんし))が士大夫に流行し独自の叙情と象徴を表現するジャンルとなった。一方、都市民の間では唐以来おこった口語の俗文学が小説に発展し、戯曲演劇のたぐいでは歴史講釈の講史(こうし)、仏教説話の説経(せっきょう)、掛け合い噺(はなし)の合生(ごうせい)などが瓦子で上演された。これらの演芸のテキストは話本(わほん)とよばれ、『大唐三蔵法師取経記』は後の『西遊記(さいゆうき)』のもとになったほか、後世の演劇小説でポピュラーな『三国志演義』、さらに『水滸伝(すいこでん)』などの原型はすでに宋代につくられた。また、こうした上下の社会層に広がった文化活動が、印刷文化の興隆で支えられていたことも、宋代の大きな特色である。印刷術の萌芽(ほうが)は唐代にあるが、四川を経て宋の国都開封の国子監(こくしかん)(国立大学)が印刷文化の中枢となった。おりから科挙が確立し、地方に国立学校が制定されたため、印刷業が手工業として発展し、成都、杭州、建州など地方都市にも公私の印刷業がおこった。これらを通じて、古典、史書、詩文集、技術書、医書、地誌地図、官文書、百科辞書、大蔵(だいぞう)経、小説、話本、暦、家訓、族譜などが大量に印刷され、国内はもとより、漢字を共有する東アジア諸国に広く流布した。
同時に実用的科学知識も長足の進歩を遂げた。印刷術、羅針盤、火薬の三大発明は、西欧世界に先駆けて実用化され、天文、医術、薬理、建築、数学、農学、地理、金石、考古、水力知識も進歩し、『夢溪筆談(むけいひつだん)』の著者沈括のように、諸学に通じた学者が出た。
宗教では国際性のある仏教が土着化の動きをみせ、禅宗、浄土宗が教勢を広げたほか、道教が一新されて社会に浸透した。家族主義的実践倫理が復権し、宋学がおこったこの時代には、儒、仏、道三教は融合、調和し始め、儒教の教学が仏、道から多くを学んで理念を補強したほか、士大夫、文人は中国の風土になじんだ禅宗にも傾倒し、一方、民衆レベルでは浄土宗が来世の救済を説いて民衆の心をつかんだ。道教は真宗(しんそう)に保護されて教勢が栄え、「道蔵(どうぞう)」も編集印刷された。南宋時代、金の領域で全真(ぜんしん)教がおこり、教団の堕落を是正し、民衆教化、実践主義を重んじて道教信仰を社会に大いに普及させた。
[斯波義信]
『周藤吉之・中島敏著『中国の歴史 5 五代・宋』(1974・講談社)』▽『『岩波講座 世界歴史9 中世3』(1970・岩波書店)』▽『斯波義信著『宋代商業史研究』(1978・風間書房)』▽『孟元老著、入矢義高・梅原郁訳註『東京夢華録』(1983・岩波書店)』▽『Mark ElvinThe Pattern of The Chinese Past (1973, Stanford University Press)』▽『E. Reishauer, J. Fairbank, A. CraigEast Asia, Tradition and Transformation (1973, Harvard University Press)』
中国、南朝最初の王朝(420~479)。彭城(ほうじょう)郡(江蘇(こうそ)省)の人、劉裕(りゅうゆう)(武帝)がたてた。下級武将出身の劉裕は、桓玄(かんげん)を討って東晋(とうしん)を再興、また南燕(なんえん)、後秦(こうしん)を滅ぼして内外に勲功をあげ、恭(きょう)帝の禅譲を受けて建康(南京(ナンキン))に王朝を開いた。その死後、長子の少帝が継いだが、かわって第2子の文帝が擁立され、その治世30年は元号にちなんで「元嘉の治(げんかのち)」と繁栄をたたえられた。しかし晩年北魏(ほくぎ)討伐に惨敗して国勢を傾け、皇太子劉劭(りゅうしょう)に斬殺(ざんさつ)された。兄の劉劭を討って即位した孝武帝は、身分の低い寒人を寵任(ちょうにん)して皇族や貴族を弾圧し専制政治を行った。これ以降、前廃、明(めい)、後廃と暴君が続き、軍閥蕭道成(しょうどうせい)(南斉(なんせい)の高帝)が後廃帝を暗殺して順帝を擁立したのち禅譲を迫り、8代で滅びた。初め武帝は貴族から軍権を奪って皇族で政権中枢を固め、強力な王朝体制を築いたが、文帝のころから皇族が下級貴族や地方豪族と結んで反政府化する動きが強まり、政乱が絶えなかった。
[安田二郎]
中国、周代の諸侯国の一つ。子(し)姓。周公旦(しゅうこうたん)が武庚(ぶこう)の反乱平定後、殷(いん)王の紂(ちゅう)の庶兄の微子啓(びしけい)を殷の旧都商邱(しょうきゅう)(河南省商丘県)周辺の地に封じ、殷の遺民を治めさせたのに始まる。春秋時代初期には中原(ちゅうげん)の大国として栄え、襄公(じょうこう)のときには諸侯を会盟して覇者となろうとしたが、紀元前638年、楚(そ)と泓水(おうすい)に戦って大敗し、「宋襄(そうじょう)の仁(じん)」の侮りを後世に残した。その後、晋(しん)、楚の南北抗争の間にあって、しばしば楚に苦しめられた。一時、執政の華元(かげん)や向戌(しょうじゅつ)の主導のもとに宋で和平会議が行われて平穏を得たが、戦国時代になると国はますます衰えた。ただし、偃(えん)のとき王を称し、斉(せい)、楚、魏(ぎ)の三強国を破って領土を広げた。しかし、前286年、偃は逆にその三国連合軍に反撃されて殺され、国は滅んだ。
[江村治樹]
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①〔南朝〕420~479 劉宋(りゅうそう)ともいう。魏晋南北朝時代の南朝の王朝。東晋の軍人劉裕(りゅうゆう)(武帝)は,東晋の末簒奪を企てた桓玄(かんげん)を殺して安帝を復位させ,北伐を敢行して後燕,後秦を滅ぼし,恭帝の禅譲を受けて即位した。子の第3代文帝の30年の治世は内政が整い元嘉(げんか)の治といわれたが,北魏との交戦には失敗が多かった。やがて皇族・武将らの反乱が続き,武将の蕭道成(しょうどうせい)が実権を握って,順帝の禅譲で斉を建て,宋は8代で滅んだ。
②960~1279 太祖趙匡胤(ちょうきょういん)が建国してから,帝昺(へい)が元の世祖(クビライ)に滅ぼされるまで約3世紀続いた王朝。中国史上の重要な転換期=唐末五代に続き,分裂割拠と武人支配を収拾して統一する一方,新興の地主,自作農,都市庶民の富を背景とし,その有力者,形勢戸(けいせいこ),官戸を科挙制を通じて官僚層に吸収して建国した。そこで対内的には軍事,政治,経済の中央集権を徹底し,文治主義の君主独裁制を樹立した。対外的には澶淵(せんえん)の盟以後,遼,西夏,金,モンゴル帝国に対し守勢に立ち,歴代の統一王朝のうち最も狭い領域を保った。宋の国家体制は仁宗ないし神宗(しんそう)のときに頂点に達し,文運の隆盛,新文化の誕生をみる。しかし文治主義に起因する弱兵や,社会進化に伴う不平等が軍事・財政危機をもたらした。神宗が王安石を登用して新法改革を断行,財政,経済,軍事警察,科挙,学校改革を企てるが,旧法党の反対で徹底しなかった。北宋末は政局不安定が続き,遼を滅ぼした金の侵入を受け,1127年北宋は滅亡する(靖康(せいこう)の変)。秦嶺(しんれい)‐淮水(わいすい)線で金の南侵を支えた南宋では,人口移住による江南開発で経済力は充実するが,対外的には金,モンゴルの勢力に終始圧倒される。こうした対外不振の反面,宋代には農業,手工業の生産が著しく発達し,その結果外国・国内貿易が栄え,大小の都市が興り,消費階層の官僚,庶民を中心に新文化が形成された。宋文化の特色は,唐の貴族的・国際的に対して,国粋的・庶民的・内省的である。仏教を消化吸収した新儒学(宋学)をはじめ,歴史叙述の盛行,古文復興運動,民間文芸(詞,雑劇,小説)の発達,絵画の二大流派(北画,南画)の形成,青磁・白磁ほか工芸品の高度な発達がみられた。
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1劉宋(りゅうそう)とも。中国の南北朝時代の王朝の一つ(420~479)。東晋の末,南燕と後秦を討って軍功をあげた武人の劉裕(りゅうゆう)(武帝)が,恭帝から禅譲をうけ建康(現,南京)に王朝を開いた。華北からの流浪者を江南の戸籍につけ(土断法),富国をはかって北魏と対抗したが敗れ,順帝が武臣の蕭道成(しょうどうせい)(斉の高帝)に禅譲して王朝は滅んだ。外交では倭の五王(讃・珍・済・興・武)に,使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍倭王などの称号を贈り,百済(くだら)とともに東方政策の基軸とし,北魏と高句麗に対抗した。
2中国の王朝。北宋(960~1127),南宋(1127~1279)。趙匡胤(ちょうきょういん)が建国。南朝の宋に対し趙宋ともいう。唐末五代に武人政権が台頭したため,宋では皇帝直属の禁軍の強化,行政・監察・軍事の分掌化によって文官主導の政治体制がとられた。大土地所有容認の両税制下に新興地主が登場したが,科挙(かきょ)の拡充で彼らの貴族化は阻止され,皇帝独裁制が確立。製陶業などの産業が発達し,大量に作られた銅銭は海外でも流通,紙幣も登場した。農業や南海貿易の発展で江南の比重が増し,黄河と長江を結ぶ大運河ぞいに北宋の開封(かいほう),南宋の臨安(りんあん)(杭州)両首都がおかれた。金の侵入で北宋が滅び南宋がたつと,江南の経済はいっそう発展した。日宋間に正式の国交はなかったが貿易は盛んで,奝然(ちょうねん)・成尋(じょうじん)ら入宋僧も多かった。
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…中国に960年から1279年まで存在した王朝。1127年(靖康2)の靖康の変によっていったん滅亡したので,それ以前を北宋,以後の南遷して杭州に都した時期を南宋という。
【政治過程】
後周世宗の武将であった趙匡胤(ちようきよういん)は,世宗の没後,部下の将兵に擁立されて皇帝となり,宋朝を開いた(960)。宋の太祖である。彼は世宗が始めた天下統一の事業を受け継いで,在位17年間に,南方に割拠していた荆南,楚,南漢,後蜀,南唐を相ついで征服した。…
…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
…中国,南朝宋の初代皇帝。在位420‐422年。…
…以上のように,唐以前の私的な土地所有者には公権力とつながりをもつ者が少なくなかったが,彼ら自身は国君,諸侯や皇帝とは異なり,公権力の掌握者ではなく,この点でヨーロッパや日本の封建領主と区別されるとして,中国の学界では彼らを地主の範疇に入れている。
[唐・宋変革以後の特徴]
8世紀の中葉以降,唐の後半になると,個人の才能を学科試験で評定して官僚を任用する科挙制度がしだいに発達し,均田制が崩壊して,土地所有を政治的・社会的地位のいかんによらず万人に開放し,おのおのの民戸の私有を承認する両税法が施行された。この時期は世襲的な官僚としての貴族が没落し,伝統的な同族結合を保持し,奴婢や部曲(ぶきよく),佃客(でんきやく)など隷属性の強い労働力を用いた土地所有によって貴族制を支えていた豪族に代わって,小作農としての佃戸を使用する土地所有者がしだいに増加する。…
…中国で1004年(宋の景徳1∥遼の統和22)宋と遼の間に結ばれた和平条約。五代から宋初,河北に領域を広げる遼と,失地回復を目ざす漢民族王朝の間に攻防がくりかえされた。…
※「宋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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