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新潟(県) にいがた

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

新潟(県)
にいがた

日本列島中央部の北西岸にあって、日本海沿岸の北よりの中央地域に位置する県。県庁所在地は新潟市。1980年代以降は、県などの推進する「環日本海経済世界」づくりの重要な拠点圏域であることから、「日本海東岸中央地域」に位置づけられる。伝統的な社会地理的地域区分では、中部地方東北端に位置する。中央日本の中部山岳地の北に展開する。歴史的には、福井・石川・富山3県とともに古く「越(こし)の国」を構成した北陸地方の一部である。隣接する長野県とは県境が長く接して「信越地方」とまとめられ、郵政関係では同一行政区である。北陸とあわせて「北信越地方」とまとめられることもある。北陸道を介して長らく近畿(きんき)地方の畿内と結び付いてきた。江戸期以降は北前船などの歴史的な海上交通圏から、関西地方を通じて全国と関係し、近代以降は早く整備された中央線・信越線を介して東京および愛知・岐阜・三重の東海地方と結び付いた。電力資本の統合や産業振興、地域開発政策および国土整備政策からは、東北地方との関係も深くなっている。三国山脈によって長らく隔てられていた関東地方とも、1931年(昭和6)の上越線の開通によって直結し、就職や出稼ぎなどでのつながりは東海地方、関西地方、東京と急速に拡大していった。戦後、1962年、上野―新潟間が全線電化されると、特急「とき号」によって4時間40分で結ばれた。さらに上越(じょうえつ)新幹線、関越(かんえつ)自動車道が完成すると、産業取引や、習い事、演劇、音楽など文化・娯楽面、買い物、日常生活のうえから、関東地方の北西端に接して、東京などの文化経済圏と密接につながるようになった。
 夏場(夏季)単作に限られた米作とコシヒカリなど普及種の全国市場制覇により、農業県の名をほしいままにしている。豊富な用水、石灰石と石油・ガスなど天然資源に恵まれて、早くから県内各地に電気化学工業や石油化学などが立地した。国際化時代にあたって、環日本海地域の中核県の役割をつとめ、環日本海経済交流と国際交流の中心に位置する「グローバルポリスにいがた」の性格を強くしている。
 県の面積は2010年(平成22)には1万2583.81平方キロメートルで全国第5位。うち佐渡島(さどがしま)は855.31平方キロメートル、粟島(あわしま)は9.86平方キロメートルである。耕地面積だけなら北海道、茨城県に次いで全国第3位、可住地面積なら全国第2位となる。越後(えちご)の海岸線は336.9キロメートルに及び、佐渡島は264.1キロメートル、粟島22.3キロメートル、合計で623.6キロメートルとなる。2010年の人口は237万4450人で全国第14位である。人口推移を見ると、1995~2000年は1万人強、2000~2005年は4万5千人弱、2005~2010年は5万7千人ほどの減少となっている。
 2010年6月現在、20市9郡6町4村で構成される。[高津斌彰]

自然


自然と風土
新潟県のおもな平野は北から越後(えちご)(新潟)平野、柏崎(かしわざき)(刈羽(かりわ))平野、上越(頸城(くびき))平野であり、越後平野は信濃(しなの)川水系を主体として、阿賀野(あがの)川、荒川などの各河川の沖積平野で形成されている。東部は標高2000メートル内外の朝日・飯豊(いいで)・越後・三国(みくに)の各山地が連続して山形・福島・群馬各県との県境をつくり、西部は中部山岳アルプスの北端を形成する3000メートル級の白馬(はくば)山地とこれら東西の山地をつなぐ南部に1000メートル級の山地が長野県境をなす。西部の糸魚川(いといがわ)‐静岡構造線と東部の新発田(しばた)‐小出(こいで)線(これはさらに千葉県の銚子(ちょうし)まで連続するといわれる)が構成している大地溝帯を、頸城・魚沼(うおぬま)など第三系丘陵が埋めている。とくに興味深いのは、糸魚川‐静岡構造線である。基本的にはユーラシアプレートと北アメリカプレートとが接触する線に、太平洋プレートがぶつかって構成されて、複雑な地形と地質構造をつくっている。
 生活の主要舞台は中部地方の中央部長野県内の各河川に源をもち、長野の諸盆地を貫流して成長する信濃川によって形成された広大な信濃川盆地であり、北半部は東北地方の福島県から流入する阿賀野川が形成する盆地・平野から構成されている。柏崎平野は鯖石(さばいし)川、高田平野は関川など河川のもつ諸営力によって形成されている。とくに日本最長の信濃川がつくる越後平野には、十日町(とおかまち)市、小千谷(おぢや)市、見附(みつけ)市、長岡市、三条(さんじょう)市、燕(つばめ)市、新潟市などの多くの市町村が成長している。[高津斌彰]
気候
気候は日本海型の北陸・山陰型に属し、冬季の積雪が非常に多く、夏季は高温多湿で、台風の影響は少なく比較的温和である。年間降水量は新潟市では全国平均に近く平均1750ミリメートル、降雪の多い上越市(高田)では約3000ミリメートルであり、日本では紀伊半島と並んで降水量のもっとも多い地方である。積雪は山間部では2~3メートルを超えるところもあるが沿岸部では少なく交通に支障をきたすことはほとんどない。降雨日数は200日であり、太平洋側の150~170日間に比べてかなり多い。冬季の降雪による降水量が50%以上を占め冬季は曇天と湿気が特徴である。しかし春季には乾燥する日が多く、夏場には太平洋側の低気圧の影響による山脈越えのフェーン現象にみまわれて、火災を発生することがある。冬の湿気も漬物や織物産業および近年の集積回路産業には最適環境であり、これら産業の発達をうながしている。素朴な山地と雪景色はスキーをはじめ観光資源として価値の高いものである。[高津斌彰]

歴史


先史・古代
信濃川上流の津南段丘崖(がい)の貝坂(かいさか)・楢ノ木平(ならのきだいら)遺跡から、プレ縄文期の石器や住居跡が発掘されており、阿賀野川上流の津川盆地では、小瀬ヶ沢洞窟(こせがさわどうくつ)や室谷(むろや)洞窟から縄文早期から後期にかけての十数層にわたる数万点の石器、石鏃(せきぞく)、土器や人骨が発掘され、越後の縄文文化の編年が明らかにされている。また、津南の先土器時代人は、縄文中期には谷口の越路原(こしじはら)や関原(せきはら)台地に移って、有名な火炎型土器文化の黄金時代をつくった馬高(うまたか)遺跡を残し、縄文前期の大集落群も発掘されている。さらに、近くの三十稲場(いなば)に残る後期遺跡や、段丘東麓の藤橋・富岡(とみおか)遺跡には、縄文晩期から弥生(やよい)時代の遺跡が続いている。また、火焔型土器を含む十日町市中条の笹山(ささやま)遺跡から出土した土器群は県内唯一の国宝に指定されている。同様な関係は下越の山麓台地面にも多くみられるし、佐渡の国中平野の大佐渡・小佐渡山麓台地には縄文中・後期の遺物出土遺跡に続いて、段丘崖端には多くの「玉作(たまつくり)遺跡」が分布し、国府(こくぶ)川中流には、農耕生活を示す千種(ちぐさ)弥生遺跡が発掘されている。これらの縄文期遺跡は、前期は北方系のものが多く、中・後期遺跡は関東・北陸型の南方系のものが多い。
 古墳時代に下ると、越後では頸城平野の斐太(ひた)・菅原(すがはら)古墳や六日町盆地の余川(よかわ)古墳、角田(かくだ)山麓の菖蒲塚(あやめづか)古墳(国指定史跡)などの大古墳群が県の史跡として保存されているし、佐渡の真野湾岸にも西三川(にしみかわ)古墳群が残り、これらは北陸・上毛(じょうもう)型の影響を受けているといわれている。『古事記』『日本書紀』などの史書にみえる本県の古代は、「越ノ州(こしのしま)」「佐渡州(さどのしま)」の2国であるが、このころの越国(こしのくに)(高志(こし)国)は日本海岸の北陸一帯を総称したもので、中央からはほど遠い蝦夷(えぞ)との接点であった。記紀では、北陸道の四道(しどう)将軍大彦命(おおひこのみこと)がこの蝦夷の平定にあたったとされている。高志国が越前(えちぜん)、越中、越後に分かれたのは7世紀の持統(じとう)朝のころからで、久比岐国造(くびきのくにのみやつこ)、高志深江(ふかえ)国造、佐渡国造が置かれていた。文武(もんむ)天皇の702年(大宝2)には越中国の蒲原(かんばら)、魚沼(いおぬ)、古志(こし)、頸城の4郡を分けて越後国とし、越後・佐渡の両国の範囲も確立され、渟足柵(ぬたりのき)、磐舟柵(いわふねのき)がつくられて、蝦夷に対する前線基地をなしていた。721年(養老5)には越後7郡34郷、佐渡3郡22郷の行政区も定まり、佐渡の真野と越後の久比岐(頸城)(比定地不確定)に国府・国分寺が置かれた。743年(天平15)佐渡は越後に合併されたが、752年(天平勝宝4)独立した。『和名抄(わみょうしょう)』に載る平安時代の越後の水田面積は1万4997町余で、現在の10分の1にもあたらない少ないものであったが、班田制施行に必要な条里制の遺構は、いまも佐渡の国中平野山麓や頸城平野の飯田(いいだ)川沿岸で確認されている。「燃ゆる水」(石油)や越後上布(じょうふ)を特産として朝廷に献上し、佐渡が「遠流(おんる)の島」に指定されるのもこのころであった。[山崎久雄・高津斌彰]
中世
源頼朝(よりとも)が鎌倉に幕府を開くと、関東御家人(ごけにん)の秩父(ちちぶ)平氏や三浦・和田・佐々木氏などを守護・地頭(じとう)として越後一円を支配させたので、越後も中央政権とのつながりが深くなり、関東分国的地位を保つようになった。室町時代は足利尊氏(あしかがたかうじ)の命によって、関東管領(かんれい)家の上杉氏が守護職につき、守護代長尾氏が春日山(かすがやま)城を居城とし実権を握っていた。南北朝時代から戦国時代にかけては、関東管領家の上杉氏と守護代長尾氏の長い国内争乱期が続いたが、これを鎮めたのが長尾景虎(かげとら)で、のちに上杉氏の家督を譲り受けて上杉謙信となった。謙信は春日山城を根城として甲斐(かい)の武田氏と覇権を争い、関東・信越を征服して北国最大の戦国大名にのし上がった。当時府内の春日山城下は人口3万余といわれた大城下町であった。その山城(やまじろ)遺跡春日山城跡は国の史跡に指定されて保存されている。[山崎久雄・高津斌彰]
近世
豊臣(とよとみ)秀吉は上杉氏の越後における実力を恐れて、1598年(慶長3)には上杉景勝(かげかつ)を会津120万石に移封し、越後は譜代(ふだい)の堀秀治(ひではる)一族と、与力(よりき)大名溝口秀勝(ひでかつ)や村上義明(よしあき)を新発田、村上に配し、佐渡の金山は直轄領とした。江戸時代に入っても、徳川家康は秀吉の分国策を引き継いで、六男松平忠輝(ただてる)を高田城主に配して親藩とし、長岡には駿河(するが)以来の直臣牧野氏を置いてこれを助けさせ、新発田、村上、村松の外様(とざま)大名を抑えた。かかる近世初期からの所領分割策で、幕末には越後11藩と多くの天領・諸大名領が交錯する徹底した小藩分立国となった。
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、県内諸藩は征討(官)軍を支持して順応したが、長岡藩は会津方に味方し西軍と対立し、各地で激戦が行われた。このため長岡城は二度の落城で城下町は焼け野原と化し、壊滅的打撃を受けた。
 廃藩置県(1871)により、新潟、柏崎、相川の3県に分けられたが、1873年(明治6)柏崎、1876年相川が統合されて新潟県となった。さらに1886年、福島県に属していた東蒲原郡が新潟県に編入されて、現在の県域が確立された。[山崎久雄・高津斌彰]
近・現代
本県の最大の課題は、低湿平野の治水干拓と新潟港の築港であった。砂丘裏のラグーンは、分水や用排水機場の完成で美田化され、蒲原平野は全国一の越後米の産地となった。この間、蒲原平野の干拓地は大地主に集積され、いわゆる千町歩地主は5家を数え、わずか10人の地主で蒲原平野の耕地の75%が独占される大地主王国を誕生せしめた。この蒲原大地主も、第二次世界大戦後の農地解放(1945~1948)で自作農化が進み、地主制も消滅した。1964年(昭和39)6月には粟島を震源地とするマグニチュード7.5の新潟地震にみまわれて、砂質土壌を基礎とする新潟市域には地盤液状化現象で多くの建物が沈降や倒壊するなど大きな被害があった。奇跡的に人命被害はなかったが、石油施設に大規模火災がおこり、臨港町など信濃川河口近くの広範囲の家屋が浸水にみまわれた。[山崎久雄・高津斌彰]

産業

県民所得は全国の中位にあることが多かったが、1990年(平成2)の全国の第26位から1994年には第18位にあがっている。上越新幹線の整備や北陸・関越自動車道路の拡充による全国随一の工場進出と商業活動の高度化・活性化がもたらしたものである。早くから石油、石灰石、ガス、水力発電による低廉な電力エネルギーさらに用水供給に恵まれて、新潟県は硫酸・石油・化学・肥料・電気鉄・アルミなど重化学工業の工場が立地されてきた。しかし、高度経済成長以降は広範な産業構造変化に遭遇して、多くの中央資本による新潟工場の移転引上げや閉鎖、生産縮小、業種転換などによって、工業生産額は比重を下げてきている。このような動向ではあるが、1970年代後半以降になると、日立製作所(胎内市)、松下電子工業新井工場(妙高市、2011年閉鎖)、新潟三洋電子(現オン・セミコンダクター社、小千谷市)等の機械産業(電気・輸送・一般機械など)の都市型製造業が立地・展開し、工業生産の中心を機械工業が占めるようになった。機械製造業が県内工業出荷額の第1位である。一方、米の生産量は全国の約8%を占めて第1位であり、現在でも日本の代表的な穀倉地帯である。米単作地帯の性格にもようやく、果樹、花卉(かき)、野菜など高度多角化経営農業への指向が若手農家を中心に生まれてきている。[高津斌彰]
農林業
米の作付面積が77%、野菜が10%で、米単作地帯の特徴はいまだに強く、米生産量は全国の8.4%で第1位である。しかし野菜や花卉の作付がゆっくりだが増えつつあり、切り花のユリ、チューリップ、球根のユリ、チューリップ、アイリスの生産は全国第1、2位を占めるなど、1980年代以降ようやく付加価値の高い農業経営の研究が若手農家で取り組まれている。農家数・農家人口はともに減少しているが、県人口に占める割合はいまだ22.4%であり、秋田、岩手、山形、福島、鳥取、島根、佐賀県に次いで全国第8位である。耕地面積3ヘクタール以上層が7.2%もあるなど、平均経営規模は小さくないが、1戸当りの平均農家所得は80%が農外所得に依存している。専業農家は依然として少なく、専業農家率は全国第28位である。水田は越後・柏崎・高田平野に多くみられる。近世末から明治初めに千町歩地主が成立したが、大正期から木崎、大番田(おおばでん)、和田などの大規模な小作争議も頻発した。戦後は大規模な耕地整理が進められたことと大型の近代的排水機場が多く設けられて、乾田化が進み、1965~1966年の「新佐賀段階」に続いて、米作収量も増大し、新潟米の安定した市場を確保し、「コシヒカリ」など差別化された米産地の確立ができた。
 森林面積は民有林が卓越し56万ヘクタールで、広葉樹が多く、林業はふるわない。とくに山林所有者の95%が農家でその90%が3ヘクタール以下の零細経営である。用材も積雪と地滑りの影響で「根曲がり杉」となり、薪炭需要がなくなった近年では高価値経済林の経営は望めないのが実態である。[高津斌彰]
水産業
サンマ・イワシが漁獲高の主体であり、カツオが10%、マグロ、イカが5%内外となる。漁船は3トン未満が88%を占め、沿岸沖合い漁業で、海岸線が長く漁港も多いわりには、漁獲量はきわめて少なく、全国の2割弱を占めるにすぎない。内水面漁業に三面(みおもて)・阿賀野川のサケ、山古志(やまこし)・小千谷の錦鯉があるが、わずかであり、水産研究所を中心にした新しい養殖漁業の革命的な発展が期待されるところである。[高津斌彰]
鉱工業
日本の原油生産量はもともと総消費量の1%内外であり、きわめて微々たるものであるが、その90%近くは新潟県で産する。また天然ガスの生産も全国の65%を占める。早くから水力電気生産に恵まれ、1960年(昭和35)からは火主水従にかわり、1984年からは東京電力柏崎発電所第1号機の原子力発電も加わり電力生産は盛んである。県外への送電割合は電気事業者で70%、自家用でも34%に上る。
 工業では、石油、電気、石灰石化学原料とエネルギー源などに恵まれて、石油精製、化学、硫酸、肥料、鉱山機械などの生産が早くから展開し、近代工業発展の基盤が形成された。さらに石灰石と低廉な電気に恵まれて、電気化学工業、電気製鋼部門が発展し、戦時の工場移転による機械・アルミ産業、戦後のガス開発ブームによるアセトアルデヒド・ホルマリンなど化学工業の基礎部門が確立した。新潟や中条(現妙高市)に肥料製造など化学コンビナートも形成された。近代工業は、新潟、長岡、柏崎、上越、糸魚川など広範に形成され、1963年には新潟市を中心にした5市16町村が「新産業都市域」に指定されたが、資源型工業から加工組立型工業あるいはハイテク型へと広範な産業構造変化にオイル・ショックも加わって、順調な発展は望みえなかった。1977年には長岡ニュータウンの開発事業が始まった。1983年には長岡テクノポリス開発機構が設立されて、信濃川流域平野に、本格的な近代的電子産業やバイオ産業などの立地発展の基礎が形成された。翌年、小千谷市には半導体・集積回路生産の大手新潟三洋電子(現オン・セミコンダクター社)が進出した。
 これに先んじて新井市(現妙高市)には豊富で良質な水と労働力を求めて1976年に松下電子工業の工場が進出し(2011年閉鎖)、中条の日立製作所をはじめ、柏崎市、佐渡などに新しいIC集積回路およびその加工産業も誘致されて、工業近代化も進んだ。長らく化学、繊維、食品、金属工業中心であった産業構造も、近年では電気機械工業、一般機械工業を中心に機械工業の発展が著しい。電気機械工業は電子部門を中心に出荷額5兆円の5分の1を占めるに至って、すっかり様相を一変している。出荷額5兆円は石川県と福井県の合計を上回る。工場立地件数が日本最高であることも理解できる。
 他方、三条市・燕市およびその周辺の金属加工・洋食器生産や十日町、見附(みつけ)、五泉(ごせん)・加茂(かも)市などの絹・合繊織物、あるいはニット(編み物)産業など古くから伝わる在来・伝統産業を基礎とした地域企業も各地に広く発展している。しかし、広範な国際経済環境の変化と日本経済の国際化は県内地場産業の基盤をも揺るがせており、五泉を中心とする新潟ニット産業の総売上の86%は海外からの輸入品となっている。1980年代中ごろの産地状況からは考えられなかったことである。現在は中国、韓国、アメリカからの輸入の順であり、今後は高級品部門にイタリア・フランス製品が増加する可能性が高いとみられている。近年の課題には単純に環日本海経済圏や従来どおりの生産基地つくりである東港工業地帯のFAZ(ファズ)(輸入促進地域)指定や、国際空港および西商業港のインフラ整備があげられているが、抜本的なものづくり哲学のチェックと人間的情報の授受こそが新しい本県の産業基盤整備とならざるをえない。県内各地のバイオ・ハイテク産業、新しい地域企業育成があげられているが、これらを従来どおりの土木工事的基盤整備に終わらせてしまうか、21世紀の全地球的人間都市の情報発信基地化するかは、ひとえに、この地域の全住民が人間的都市づくりにどの程度目覚めるかによっているといわなければならない。とくに1970年代後半から、長岡技術科学大学の設立をはじめ長岡市、柏崎市、新潟市などに造形・産業・経営・国際情報など関係大学および研究機関が続々と設立されたが、そこにどんな新しい自主的・主体的内容を盛り込むかが発展の課題である。とくに本県工業は、産額3兆8000億円の富山県に比べて事業所規模は小さく、1事業所および従業員1人当り出荷額が低い。この点では新しい需要に敏感に対応可能な小回りの利く、ネットワーク経営社会の構築には、経営者の主体性いかんによっては、かえって有利と考えることもできる。婦人団体を中心にして、「県民にやさしく、緑豊かな『オアシスにいがた』」や「世界に開かれて、環日本海時代の国際交流と平和の拠点『グローバルポリス=新潟』」を合い言葉に県民あげて新しい新潟県づくりにまい進している。[高津斌彰]
交通
新潟空港が1996年(平成8)に「地域拠点空港」指定を受けるなど、日本の航空交通網の整備進展と同時に新潟県の航空網整備も著しいものがある。1997年の国内線では札幌、仙台、小松、名古屋、大阪、広島、福岡、佐渡便の定期航空路に女満別(めまんべつ)(6~10月)、函館(4~10月)、沖縄(11~3月)の季節便があり、国際便ではソウル(140分)、ハバロフスク(135分)、ウラジオストク(140分)、イルクーツク(270分)への定期便が運航していた。滑走路の2500メートル化と空港ターミナルの新装もなって、上海(シャンハイ)経由で西安(せいあん/シーアン)と結ぶ便は1998年2月に、新潟―ハルビン便は同年3月に運行が開始され、2008年10月では国内7路線、国際6路線に定期便が就航している。
 新潟港は国際拠点港湾ならびに中核国際港湾に指定されており、船便による定期航路は、近年の東南アジアに対する貿易拡大もあって、とくにコンテナ船の増便が著しい。1996年(平成8)には、フルコンテナ船航路が釜山(ふざん/プサン)航路(高麗海運)、同(興亜海運)各週2便、釜山航路(南西海運)、東南アジア航路(ACL)各週1便、新潟―天津(てんしん/テンチン)―大連(だいれん/ターリエン)―上海の中国航路が月約3便、新潟―ボストチヌイ経由でヨーロッパと結ぶトランスシベリアコンテナ航路が月1便、定期化されていた。このほか随時船として、ジャパン―ナホトカ航路の在来船、客船・貨客船も年6便のウラジオストク航路などがある。内国航路としては新潟―小樽(おたる)新日本海カーフェリー(17.5時間)などが活躍している。新潟―佐渡間はジェットフォイールで60分、カーフェリーでも140分と目覚ましく時間が短縮された。
 高速交通時代の幕開けは、高速鉄道である「新幹線」と高速自動車道である「自動車専用道路」の全国展開をもたらしたが、新潟県内では、大宮―新潟間の「上越新幹線」が1982年(昭和57)に開業し、続いて1991年(平成3)には東京駅までが完成した。2015年(平成27)には北陸新幹線が金沢まで延伸し、県内に新たに上越妙高、糸魚川の2駅が設置された。一方、長野―直江津(なおえつ)間の信越本線および直江津―金沢間の北陸本線はJRから第三セクターに移管され、新潟県部分はえちごトキめき鉄道となった。1985年には新潟―東京間の「関越自動車道」が全線開通し、1988年には新潟―北陸・関西への「北陸自動車道」が相次いで全線開通した。1997年10月には新潟―会津―磐城(いわき)間の「磐越(ばんえつ)自動車道」と長野オリンピック開催に先んじて「上信越自動車道」の長野―東頸城郡中郷村(現、上越市)間が相次いで開通した(上信越自動車道も1999年に全線開通)。全県が高速自動車道時代に入ったといえる。残されているのが「日本海沿岸東北自動車道」の一部区間の建設整備である。また長年にわたる魚沼・頸城地域住民の希望であった六日(むいか)町―犀潟(さいがた)間の「北越北線」敷設計画は、上越新幹線の越後湯沢駅から、直江津経由の富山・金沢行きスーパー特急の要求と重なり、1997年4月に第三セクターの北越急行ほくほく線として開通した。越後湯沢―直江津間が特急「はくたか」で50分内外、普通で100分で結ばれ、沿線には10の駅が山間盆地に新設されて西魚沼・東頸城地方の経済活性化を促してきた。しかし、北陸新幹線の金沢までの延伸に伴い「はくたか」での連絡は廃止された。
 新潟県の陸上交通は、歴史的に早く開けた新潟の西の玄関口である上越地方から始まった。1886年(明治19)には早くも直江津―関山(せきやま)間が開通している。それは国防上・国策上早くに計画された「中山道幹線」(現在のほぼ中央本線)への資材運搬線として直江津―上田間に計画されたからである。幹線計画が東海道に変更されても、工事は進められた。その後1888年には軽井沢まで、1893年には上野まで開通して、新潟と東京とが西の玄関口で直接結ばれた。三国(みくに)峠の清水トンネルが開削されて、越後湯沢を南の玄関口にした「上越線」が開通するのは、38年後のようやく昭和に入ってからの1931年(昭和6)であった。県内の民間鉄道整備の動きも西の地に早かった。渋沢栄一(しぶさわえいいち)と上越市出身で日本の郵政事業の確立につくした前島密(まえじまひそか)らが、私鉄「北越鉄道」を興し、上越市の春日新田(かすがしんでん)から東の新潟の沼垂(ぬったり)まで開通させた。これが国に買収されて今日に至っている。北陸本線(新潟県部分は現えちごトキめき鉄道)、羽越(うえつ)本線も整備されて、日本海沿岸諸都市との近代的な連絡と交通が可能になった。ちなみに1877年(明治10)の陸上交通の未整備期に新潟を訪れたイギリスの女流探検家で、『日本奥地紀行』を著し、後にイギリス王室地理学会員に列したイサベラ・バードIsabella Lucy Bird(1831―1904)なども東の玄関口であった会津から阿賀野川下りの船便によって新潟訪問を果たした。
 道路は日本海沿岸沿いの基幹道路に、北には国道7号が新潟―青森間、西には国道8号が新潟―京都間を結んだ。南には国道17号が三国峠を越えて新潟―関東を結び、国道18号が新潟―長野県と結んだ。49号は阿賀野川・会津街道沿いに、国道113号は米沢街道沿い、国道148号は糸魚川からの姫川街道を上る形で整備された。このほか1980年ごろから県内の山間僻地(へきち)をつなぐ自動車道も整備され、冬季の交通途絶の状態はほぼ解消された。一般的な生活の向上も著しく進んで、交通整備の社会発展との関係の深さを証明している。[高津斌彰]

社会・文化


教育・文化
新潟県は、良寛や鈴木牧之(ぼくし)など多くの偉人を生んでいる。僧職にあって多くの漢詩、和歌、書芸に偉才を示しながら、豊かな慈悲と寛容の精神によって今も時代を超えて広く世に親しまれている良寛は、1758年(宝暦8)出雲崎の名主兼神官の長男として生まれ、18歳で就いた名主見習い役を1か月で辞して僧職に入った。豪雪地の越後住民の生活の実態を記述して、今日も広く文庫本で親しまれている『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を江戸(東京)に出て出版した鈴木牧之は、1770年(明和7)当時の縮(ちぢみ)の集散地の魚沼郡塩沢村の縮仲買兼質屋に生まれた。牧之の文才・画才は俳諧をよくした父や姉婿などをはじめとする身近な魚沼俳壇の影響が強いといわれている。
 こうした越後庶民の文化に越後各藩の藩学の流れが加わるのは、藩政の弱体化が始まる宝暦(1751~1764)のころからである。全国的には寛政~文政のころ(1789~1830)といわれるから越後雄藩における藩校設置はけっして遅くないことを知ることができる。越後には11の藩校が数えられるが、新発田(しばた)藩の「道学堂」は5代藩主溝口重元(しげもと)によって1715年(正徳5)に開かれた講釈から始まっている。伊藤仁斎(じんさい)の門人緒方源十郎を師範として「仁斎学」を講じた。長岡藩の「崇徳館(そうとくかん)」は1808年(文化5)9代藩主牧野忠精(ただきよ)が設けた茅葺(かやぶ)き二階建て160坪半の藩校として始まった。講義の中心は「徂徠学(そらいがく)」であり、生徒は足軽階層を除く武士階級で年齢は問われず、常時200人を数えたといわれる盛況であった。村上藩の「学館」は後には「克従館」と改められたが、文化年間(1804~1818)に、6代藩主内藤信敦(のぶあつ)によって始められた。藩主信敦自らが「経書」の素読・講義を行い、儒教的徳治主義を説いて始まった。後に藩出身の平井佳融(よしあき)(松蔵)に譲られた。家老以下15~59歳の藩士全員が聴講する決まりであったといわれる。高田藩の「修道館」は1866年(慶応2)14代藩主榊原政敬(さかきばらまさたか)の設置による。1869年(明治2)の新学制発布により新しい「修道館」として引き継がれた。
 明治期からの教育行政の展開も早く、1874年(明治7)県内初の教員養成機関の新潟師範学校が設立され、1890年ごろからは県内中学校・師範学校の整備が進み、新潟商業学校(1889)、新潟(1892)、高田・長岡(1893)、新発田・佐渡(1896)、柏崎・村上(1900)などの中学校が続々と設立された。師範学校には、高田師範学校(1899)、新潟県立女子師範学校(1900、古志郡)が続いた。一方、近代医学教育の整備は戊辰(ぼしん)戦争時の1868年(明治1)、官軍による仮設の「新潟軍病院」におけるイギリス公使館付き医師ウイリスWilliam Wilis(1837―1894)の指導などから始まった。制度的には新潟病院の県営化による「県立新潟病院」の1876年開設が始まりとされる。1878年に明治天皇医学所訪問と眼病治療御下賜金による眼科講習所の設置があり、1879年には「県立新潟医学校」と改称されて、病院付属の形から医学校付属の病院へと初めて現在に近い形になった。しかし軍備拡張と医学教育の国家管理強化との政府の意向による1887年の「勅令48号」とこれに迎合する県議の動きによって、1888年には医学校はあえなくもいったん廃校された。その後の地元の強い官立医学専門学校の設立運動と1903年の「専門学校令」によって、ふたたび医学校が新潟の地によみがえることになり、1910年「官立新潟医学専門学校」が設立された。さらに1922年(大正11)には政府の近代化策と富国強兵策の一環としての教育の普及の波にのって「官立新潟医科大学」に昇格した。岡山、千葉、金沢、長崎の4医科大学と同時の昇格創立であった。直接のつながりはないが、県内には新潟開港もあって設けられた「種痘所」と、一般には「施蘭薬院(せらんやくいん)」として知られた「新潟県施薬院」が1869年に設けられた。
 第二次世界大戦後は1949年(昭和24)の「国立学校設置法」に基づき同年6月旧制「新潟医科大学」を中心にして旧制「新潟高校」、新潟、長岡、高田、新発田など各地に分散していた旧師範学校、旧農業、旧工業各専門学校を母体にして5学部からなる国立「新潟大学」が生まれた。初代学長は最後の医科大学長橋本喬が勤めた。その後、歯学部の増設や人文・法・経済学部の独立や各種付属研究所の設置、大学院修士課程に自然系・人文社会系の総合大学院博士課程などが次々と整備されて、人文、法、経済、教育、理、工、農、医、歯の9学部と7総合大学院で構成されている。大学院には自然科学研究科、現代社会文化研究科および医歯学総合研究科の博士課程が設けられており、そのほか医療技術短期大学部、脳研究所、および各種の研究センターが附置されている。積雪地域災害研究センター、地域共同研究センター、総合情報処理センター、アイソトープ総合センターなどがあり、まさしく総合大学のかたちを表している。
 また国立大学には上越教育大学、長岡技術科学大学が加わり、私立には新潟薬科大学をはじめ南魚沼市の国際大学、そして新潟産業大学、長岡造形大学、新潟工科大学、新潟国際情報大学、新潟経営大学、敬和学園大学などが設立されて2010年(平成22)時点で、17大学(国立3、公立2、私立13)となっている。そのほか県立新潟女子短期大学、私立の新潟青陵短期大学など6短期大学(公立2、私立5)、1高等専門学校がある。大学進学率は2009年度は過去最高の49.0%となった。
 トリケラトプスの骨格模型や県内ではもっとも優れた科学教育施設や模擬実験施設を擁して県民に親しまれている「新潟県立自然科学館(恐竜博物館)」、地球誕生からの地球発達史とプレートテクトニクスおよびフォッサマグナを生き生きと説明する糸魚川市の「フォッサマグナミュージアム」をはじめ、「長岡市立科学博物館」「上越市立総合博物館」など多くの博物館が広く県民に親しまれている。美術館には豊かな所蔵品を研究し定期的に展示する「新潟県立近代美術博物館」、ボナールやレジェの作品の所蔵を誇る「新潟市美術館」、近代日本美術を中心として1270点余のコレクションを誇る私立の「敦井(つるい)美術館」、長岡市に建設された県立美術館で、国際的な海外美術から、「大光コレクション」を中心にした明治以降の日本美術、県内出身作家の郷土の美術作品まで系統的なコレクションと展示をする「新潟県立近代美術館」をはじめ特徴のある美術館が多数存在する。記念館には日本の郵便制度の整備につくした前島密(まえじまひそか)の関係遺品を展示する「前島記念館」、豊かな童話作家の遺品を展示する糸魚川(いといがわ)市の「相馬御風(そうまぎょふう)記念館」、出雲崎(いずもざき)の「良寛記念館」、塩沢の「鈴木牧之記念館」、書家を楽しませる「会津八一(あいづやいち)記念館」など郷土が生んだ偉人の記念館が多くみられる。産業関係では、近代石油産業の発展史の関係文献と産業遺産を展示する「石油記念館」、佐渡の金山の産業遺産を展示する「相川郷土博物館」をはじめ多くの記念館を県内各地にみることができる。このほか公民館は早くから県内各地に用意されてきた。
 新聞には、日本海側最大の地方紙である『新潟日報』があり、放送は、NHK新潟放送局が1931年(昭和6)に放送を開始しており、民放は、BSN新潟放送、NST新潟総合テレビ、TNNテレビ新潟放送網、NT21新潟テレビの4社がある。[高津斌彰]
生活文化
新潟県の民家を代表するものに「中門造(ちゅうもんづくり)」がある。雪が深く建物を分散すると生活に不便なので、母屋(おもや)に厩(うまや)、納屋(なや)、便所などをくっつけた、いわゆるL字形の「曲屋(まがりや)」形態の民家のことである。佐渡では中門造は少なく、越中風の広間型間取りとなって、高床式で柱や天井張りを漆塗りにした豪華な民家が多い。
 雪国の町屋づくりは店の間口が問題となるので、妻入(つまいり)で通り「ニワ」に沿って店、茶の間、台所、寝間と続く縦割型が多く、前は「雁木(がんぎ)通り」となる。冬は主道が屋根の雪下ろしで通れなくなるので、雁木通り形態が各町を特色づける名物であったが、いまはアーケード通りにかわって昔の雁木通りを残す所は少ない。
 長い冬の農閑期をもつ雪国の食生活にも、食い延ばしに苦心した各地のカテメシ、ゾウスイなどの主食や、アンブ、カキッポなどの間食となった粉食の郷土食に珍しいものが多かったが、いまはその名前さえ忘れられてしまっている。昔は、米飯が食べられるのは、盆、正月の「晴の食(はれのしょく)」のときのみで、正月などにはサケの切り身にごった煮などの料理を食べて、鳥追い行事や小(こ)正月のどんど焼き(塞神(さえのかみ))を楽しんだものである。魚沼や頸城地方はこれらの民俗行事の宝庫とよばれた純朴な風土であったが、現在ではほとんど廃れてしまっている。
 方言では、蒲原地方の東北弁、頸城地方の信州弁、西頸城地方の越中弁、佐渡地方の上方訛(かみがたなま)りに特色がある。
 国の特別天然記念物、天然記念物、名勝などには三条(さんじょう)市笠堀(かさぼり)のカモシカ生息地や、白馬岳(しろうまだけ)のライチョウ、尾瀬の湿原、糸魚川市小滝(こたき)川のひすい原石地、村上(むらかみ)市の笹川(ささがわ)流、佐渡の外海府(そとかいふ)・小木(おぎ)海岸の景勝地など数多い。また、小千谷市では、越後上布や小千谷縮の生産技工者が人間国宝(重要無形文化財)の指定を受け、奥三面(おくみおもて)の狩猟習俗「マタギ」、津南町のアンギン工具、糸魚川市大所の木地屋(きじや)習俗などとともに、全国的に珍しい民俗風習も保存されている。
 郷土芸能や風俗習慣面では、弥彦(いやひこ)神社の灯籠(とうろう)おしと舞楽、柏崎市女谷(おなだに)の綾子舞(あやこまい)、長岡(ながおか)市、魚沼(うおぬま)市、小千谷市の牛の角(つの)突きの習俗、糸魚川市根知山寺(ねちやまでら)の延年(えんねん)、同市能生地区の舞楽、魚沼市の「大の阪(だいのさか)」、佐渡の文弥(ぶんや)人形、のろま人形芝居、車田植、糸魚川市青海地区の竹のからかい、村上市の山北(さんぼく)のボタモチ祭りが重要無形民俗文化財となっている。祭事では、浦佐毘沙門(うらさびしゃもん)堂の押合祭(おしあいまつり)や糸魚川市のけんか祭、佐渡相川の鉱山祭などが全国的に有名である。また、端午の節供に揚げられる白根・見附の大凧(おおだこ)合戦や、8月の新潟祭・長岡祭の前夜祭に行われる民謡流しなども郷土的色彩の濃い行事で、とくに長岡の大花火大会に打ち上げられる全国一の四尺玉や大スターマインは名物である。
 史跡・旧跡としては、十日町市の笹山遺跡出土品が1999年(平成11)新潟県初の国宝に指定されたほか、高田の春日山城跡(国指定史跡)、新発田城の表門や旧二の丸隅櫓(すみやぐら)(国指定重要文化財)、佐渡の真野(まの)にある国府・国分寺跡(国指定史跡)、順徳(じゅんとく)上皇火葬塚の真野御陵、小木の蓮華峰(れんげぶ)寺(金堂、弘法(こうぼう)堂が国指定重要文化財)、新穂の塚原(つかはら)山根本(こんぽん)寺の日蓮(にちれん)遺跡などが有名である。ほかに大地主王国のおもかげを残す関川村の渡辺家住宅、新潟市南区味方(あじかた)の旧笹川家住宅、魚沼市の旧目黒家住宅などが国の重要文化財指定建築物として昔のままの姿で保存されている。[山崎久雄]
伝説
親鸞上人(しんらんしょうにん)は越後に流罪になって、8年間行脚(あんぎゃ)して里人を教え導いたので越路(こしじ)の伝説が多い。阿賀野(あがの)市には都婆の松(とばのまつ)、梅護(ばいご)寺の八房梅(やつふさうめ)と数珠掛(じゅずかけ)桜、孝順(こうじゅん)寺の三度栗(ぐり)の伝説があり、ほかには新潟市中央区鳥屋野(とやの)西方寺の逆竹(さかさだけ)などがある。良寛の生家跡に良寛堂が建っているが、周辺に多くの伝説がある。近くの妙法寺に日蓮(にちれん)ゆかりの妙法の石がある。豪族の屋敷跡と伝える長岡市寺泊(てらどまり)の聚感園(しゅかんえん)の井戸は、もと良水が湧(わ)き茶席に使用されたが、弁慶手掘りの井戸と伝えている。三条市笠堀(かさぼり)にある大蛇ヶ淵(ふち)に五十嵐小文治(いがらしこぶんじ)という勇士誕生の伝説がある。小文治は大蛇ヶ淵の主(ぬし)の子との伝承がある。西蒲原郡弥彦山(やひこさん)は農耕・漁業の神、弥彦(いやひこ)神社という古社が祀(まつ)られている。近くの宝光(ほうこう)院に安置する醜悪な女人像は鬼婆(おにばば)伝説の弥三郎婆(やさぶろうばば)で、弥彦山を舞台に活躍したという。本堂の裏にそびえる巨杉(おおすぎ)は婆杉とよばれているが、弥三郎婆の死体をかけた木と伝えている。新潟市西蒲(にしかん)区岩室(いわむろ)温泉は大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の出生地といわれていて、村の川にすむトチという魚を妊婦が食べると、男の子は盗賊、女の子は淫婦(いんぷ)になると伝えている。いまも童子屋敷、童子田(だ)などの地名が残っている。新潟市中央区の蒲原神社は稲作の豊凶を占う神として有名であるが、この神社は別の名を六郎さまといい、土瀬(どせの)長者の没落伝説をもっている。近くの法光院に長者の供養塔と伝える五輪塔がある。東蒲原郡阿賀町三川(みかわ)地区の阿賀野川と白崎川との合流点にある御前ヶ淵(ごぜんがぶち)は、昔、平家落人(おちゅうど)が捕らえられて殺された所。遅れてきた女たちがこの川にみな入水(じゅすい)したという悲話を伝えている。同町鹿瀬(かのせ)にある麒麟山(きりんざん)温泉にお鶴(つる)ヶ沼の名をもつ小沼がある。この沼は小姓と村娘との悲恋の伝説をもっている。山形県と大里(おおさと)峠を境に接している岩船郡関川(せきかわ)村に大蔵(おおくら)神社、一名を座頭(ざとう)の宮がある。蛇喰(じゃばみ)集落の女が大蛇のみそ漬けを食って蛇体となり大里峠に住み着いて害をなした。それを退治して死んだ旅の琵琶法師(びわほうし)蔵の市(くらのいち)を神に祀ったという。蔵の市の琵琶は同社の宝物になっている。日本海に注ぐ三面(みおもて)川上流に平家村があった。川下に流れてきた香箱で発見されたという秘境で、奥三面集落はダム建設により水没した。この地に大納言(だいなごん)平頼盛(よりもり)、水草局(みずぐさのつぼね)が側近を連れて隠れ住んだと伝えている。佐渡は流人島で、順徳(じゅんとく)上皇、日蓮上人、能の世阿弥(ぜあみ)をはじめ多くの流人が配所の月を見て涙した地である。上皇と里の娘お花との恋を物語るお花屋敷の碑が、佐渡市金井の熊野(くまの)社境内に建っている。近くに上皇の黒木御所(くろきのごしょ)がある。上皇が愛(め)でた石抱え梅(いしかかえうめ)・苔梅(こけうめ)・八つ房梅(ふさのうめ)などが星霜を経たいまも花を咲かせる。日蓮ゆかりの伝説は上皇に次いで多い。金井の御井戸庵(おいどあん)は、上人の霊験(れいげん)の井戸で、良水が湧いている。世阿弥の配所は正法(しょうぼう)寺で、黒木御所に近い所にある。72歳の老齢で罪のない身で配所の月を見るに至った。正法寺の寺宝に、世阿弥伝説の雨乞(あまご)いの面(おもて)がある。
 また、説経節『阿新丸(くまわかまる)』で知られている日野資朝(ひのすけとも)が牢内(ろうない)で書いたと伝える写経(国指定重要文化財)が、佐渡市妙宣寺の寺宝になっており、その墓は同寺境内にある。阿新丸仇討(あだうち)の助人(すけっと)、山伏大膳坊(やまぶしだいぜんぼう)の屋敷跡は同市野浦(のうら)で、腰掛け石がある。この石を汚すと祟(たた)りがあるという。伝説音羽(おとわ)ヶ池で有名な長福(ちょうふく)寺は越(こし)ノ松原の近くで、池は寺の後方の大佐渡スカイラインの大平(おおひら)峠付近である。少女音羽の形見の品は同寺に保存されている。相川金山の下相川の伝説、炭焼き藤五郎(とうごろう)は、戸川神社の祭神で鉱山の守護神になっている。佐渡には狢(むじな)が多かったとみえて伝説が根づいている。江戸時代は金山の冶金(やきん)用のふいごの材料に用いるために狢の繁殖を計ったという。狢伝説の大親分は相川の二つ岩団三郎で、その活躍ぶりは『怪談藻塩草(もしおぐさ)』に詳しい。説経浄瑠璃(じょうるり)の語物として近世以前から世に行われた『山荘太夫(さんしょうだゆう)』は、貴種流離譚(たん)の要素をもつが、佐渡は安寿姫(あんじゅひめ)と厨子王(ずしおう)の母が鳥追う下婢(かひ)にされ盲目となった地である。片辺鹿野浦(かたべかのうら)には母を尋ねてきて死んだ安寿姫の塚と祠(ほこら)がある。日に三度毒水が流れたと伝える中ノ川は、いまは細い水が河原の石を縫う小川にすぎない。木下順二の民話劇『夕鶴(ゆうづる)』は佐渡の民話「鶴女房」に取材したもので、そのふるさとは鹿野浦の浜続きの藻浦崎(もうらざき)の集落である。[武田静澄]
『『新潟県史』全37巻(1977~ ・新潟県) ▽『新潟県大百科事典』上・下・別巻(1977・新潟日報事業社) ▽『新潟県の文化財』全3巻(1971~1980・新潟県) ▽山崎久雄他編『新潟県の地理散歩 上・中・下越篇』(1980~1981・野島出版) ▽井上鋭夫著『新潟県の歴史』(1970・山川出版社) ▽『新潟県の地名』(『日本歴史地名大系15』1986・平凡社) ▽水沢謙一編『越後の民話1・2』(1957、1978・未来社) ▽小山直嗣著『越佐の伝説』正続(1967、1972・野島出版) ▽山本修之助著『佐渡の伝説』(1986・佐渡郷土文化の会) ▽『新潟県百年史』上・下2冊(1969・新潟県史研究会) ▽『新潟県百年のあゆみ』(1971・新潟県) ▽『日本地誌』9巻(1972・二宮書店) ▽是沢他編『新潟県風土記』(1979・暁和出版/考古堂) ▽『新潟県史』(1984・新潟県) ▽植村元覚・中藤康俊著『産業地域の形成と変動』(1985・大明堂) ▽井手策夫他編『地方工業地域の展開』(1986・大明堂) ▽『新潟県の昭和史』(1989・新潟日報事業社) ▽『新潟市史』(1990・新潟市) ▽『新潟県風土記』(1990・旺文社) ▽山田安彦・山崎金哉著『歴史のふるい都市群5』(1993・大明堂) ▽『日本地名大百科』(1996・小学館) ▽『新潟県勢要覧』(1997・新潟県) ▽『第107回新潟県統計年鑑』(1997・新潟県) ▽『新潟大学医学部七五年史』上巻(1994・新潟大学医学部創立七五周年記念事業期成会/新潟大学医学部学士会)』

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