文字や絵をかくための文具。一般には穂に墨や絵具をふくませて用いる毛筆をさすが,広義には万年筆やボールペンなど内部にインキを納めるものや,ペン,鉛筆などの筆記具全般をも含めて呼ぶことがある。西洋では絵筆と筆記用のペンは明確に分かれて発達したが,東洋ではもっぱら毛筆が用いられ,用途によって大小,形態ともさまざまなものが作られた。
毛筆は毛の部分すなわち筆毫または穂と,管の部分すなわち筆管または軸から成る。筆毫にはウサギ,羊,鹿,馬,犬,タヌキ,キツネ,鶏,キジ,カモシカ,人髪など動物の毛または羽のほか,竹,藁(わら),茅(かや)など植物性の繊維も用いられる。2種以上の毛を合わせて作ったものを兼毫という。筆管は竹についで木が多く,玉,陶,骨,角,金,銀,石などが用いられ,しばしば美しい彫刻や彩色,漆などが施される。筆毫には,心(しん)を建てて紙を巻き,その周囲に毛を植えていく巻筆(まきふで)または有心筆と,心のないねりまぜ式の水筆または無心筆とがある。
中国
筆の字は甲骨文や金文にも見え(,),手で管をもつ姿をかたどっている。〈聿(いつ)〉は竹冠のない筆の字で,《説文解字》には〈書くのに用いるもの〉と説明されている。《説文》の〈筆〉の字を見ると,秦ではこれを筆というと解説され,筆の字は元来竹冠がなく,秦以後〈筆〉の字が一般化したと考えられる。《博物志》や《古今注》によると,秦の蒙恬(もうてん)が初めて筆を作ったという。しかし筆またはそれに類したものは,それ以前からすでに存在したので,彼はむしろ筆の改良に貢献した人物とみるべきであろう。
新石器時代の彩陶の文字や殷墟から出土した陶片の文字は,毛筆によって書かれ,甲骨文も毛筆によって下書きされたと推定される。1954年,湖南省長沙近郊の左家公山で発掘された戦国時代の楚の墓から兎毫の筆が出土し,〈長沙筆〉と名づけられた。これが中国現存最古の筆である。73年湖北省江陵県鳳凰山168号漢墓(墓主嬰遂は前167年5月に埋葬)から,硯,墨,削刀とともに竹管の筆が発掘され,75年にも同じ鳳凰山167号漢墓から竹管の筆が出土した。いずれも筆を収める収筆管が付随していた。これより前,1930年から31年にかけて西北科学考査団がエチナ川流域のカラ・ホト付近(内モンゴル自治区)で漢代の居延県城の遺址を発掘した際,木簡とともに筆が出土し,〈居延筆〉と名づけられた。これは前漢末・後漢初のころのものと推定され,筆管は木を四つ割にして毛を挟み,麻糸でしばり,根元を漆で固めたものである。このほか漢代の筆としては,甘粛省武威県出土の〈武威筆〉(竹管のみ),朝鮮平壌付近の漢代楽浪郡出土の〈楽浪筆〉(穂のみ)などが知られている。筆管もすでに後漢のころから斑竹を用いたり,宝玉をちりばめたものが作られた。
魏晋南北朝時代の筆の実物はほとんど残されていないが,魏の韋誕の《筆墨法》や晋の成公綏(すい)の〈棄筆賦〉その他の文献によると,漢代につづいて有心筆が広く用いられたと考えられる。隋の僧智永は多くの千字文を書いたことで知られ,彼はちびた筆を瘞(うず)めて〈退筆塚〉を作ったという。
これが筆塚の始まりである。唐代には初唐の三大家(欧陽詢,虞世南,褚遂良(ちよすいりよう))をはじめ多くの書家が現れ,それぞれの好みにあった筆を用いたと思われるが,大勢としては漢代以来の有心筆が多く用いられたとみられる。ただ盛唐の李陽冰の《筆法訣》には〈散卓〉すなわち無心筆の語があり,無心筆はこのころから五代にかけて増加の趨勢をたどった。そして宋代になると,煕寧(1068-77)の後,〈世始めて散卓筆を用い其の風一変す〉(《避書録話》)というように,有心筆から無心筆へ,剛毛から柔毛へと大きく移行していったと考えられる。宋代には欧陽修,蘇軾(そしよく),黄庭堅,米芾(べいふつ),蔡襄ら高名な文人,書家が競って精妙な文房具を求め,蘇易簡の《文房四譜》など文房清供に関する著述が刊行された。それにともない,諸葛高などすぐれた筆匠が現れ,彼らの製筆がもてはやされた。元代の筆匠としては呉興(浙江省湖州)の馮応科(ふうおうか)が名高く,その製筆は趙孟頫(ちようもうふ),銭選とともに三絶と称された。
明代は文房清玩(文房四宝)の趣味が最も高まった時代で,端渓水巌の開削,程君房,方于魯ら著名な墨匠の輩出にともない,筆もそれらに適合した柔毛の羊毫を愛用するものがしだいに増加した。特に明末・清初に流行した長条幅の連綿草には,含墨量の多い弾力性のある筆が多く用いられたであろう。またこの時代には,さまざまな技巧をこらして筆管を装飾した〈飾筆〉が文人の間で喜ばれた。このような一種の装飾趣味は清代にもうけつがれ,とくに乾隆帝の豪華好みは文房具全般にも及び,明代特有の大らかさに代わって,いっそう華麗精緻なものになった。いっぽう,文人,書家の間ではむしろ筆の機能性を重んずる傾向があり,それに応ずる多くの筆匠が現れた。この時代には,筆に関する代表的な著録として,梁同書の《筆史》が刊行された。清末から中華民国時代(1945まで)にかけて喧伝された筆匠,筆店として曹素功,胡開文,周虎臣,賀蓮青,徐葆三,邵芸巌(しよううんがん),戴月斬などがあった。文化大革命(1966)以後は企業合同が行われたが,四人組追放後は,解放以前の名人芸を尊ぶ風潮が出てきた。
→文房四宝
日本
日本の筆は最初中国や朝鮮から伝えられた。《日本書紀》応神10年2月条によれば,百済の王仁(わに)が《論語》と《千字文》を貢進したとする。このうち《千字文》は手習用を主眼としたので,筆は5世紀ごろにはすでに一部の人々に使われていたとみられる。また同推古18年(610)3月条には高麗(高句麗)僧曇徴(どんちよう)が紙墨の製法を伝えたとされ,製筆の法もこのとき伝えられたと考えられる。奈良時代には写経や公文書を作成するために多くの筆が必要となり,中務(なかつかさ)省図書寮内に造筆手10人が置かれ,諸国から貢進される筆も少なくなかった。正倉院の中倉には〈天平筆〉17枝と〈天平宝物筆〉1枝が伝存する。これらの用毛はウサギ,鹿,タヌキなどを主とし,筆管は斑竹,仮(げ)斑竹,篠竹(しのだけ),煤竹(すすだけ)などに美しい装飾が施されている。すべて巻心造りで,当時の中国の製法を伝え,形状は〈雀頭筆〉と呼ばれる短鋒が多い。
平安時代になると,写経の需要は漸減し,代わって詩歌や尺牘(せきとく)の応酬が盛んになった。806年(大同1)空海は唐から帰朝すると,唐様の製筆法を伝えた。その後,仮名の成立,漢字の和様化は筆の改良と並行しておし進められた。鎌倉時代になって武士が台頭し,豪健闊達(かつたつ)な墨跡が好まれたが,それらの筆は,馬,タヌキなどの大筆が多く用いられたと思われる。鎌倉鶴岡八幡宮所蔵の〈籬菊螺鈿蒔絵硯筥〉に収められた菊模様の筆は当時の華麗な技法を伝える逸器である。江戸時代になると,本阿弥光悦が筆屋妙喜を重用して自分の好みの筆を作らせた。1654年(承応3)隠元の来日を機として長崎を門戸とする明・清との交流が始まり,筆も舶載されるようになった。肉太で丸味のある黄檗(おうばく)系の書は多く羊毫筆から生まれたものであろう。また藤野又六,雲平など専門の筆匠のほか,下級武士や浪人たちも〈筆結(ゆ)い〉の内職に携わるものが増え,技を競った結果,製品の質も向上した。一方では庶民教育としての寺子屋が普及するとともに,簡便低廉な〈椎の実筆〉〈勝守〉など手習用の筆が大量に生産された。元禄期の唐様書家細井広沢(こうたく)は《思貽斎管城二譜(しいさいかんじようにふ)》を著し,所蔵の唐筆や自己の体験をもとに製筆法を説き,唐様の無心筆を考案した。
幕末の市河米庵(べいあん)も蔵筆200余枝の図録《米庵蔵筆譜》(1834)をはじめ,《米庵墨談》正・続,《小山林堂書画文房図録》などを刊行し,文房具に関する研究を深めた。製墨で有名な奈良の古梅園が京都に店を出し,薬物薫香を業とした鳩居堂が,筆の販売にも携わるようになった。明治になって学制が改革されると,寺子屋で行われてきた通俗な御家(おいえ)流にかわって雄勁な唐様が採用され,用筆も巻心を廃して水筆(無心筆)が多く使われるようになった。1880年楊守敬が来日して北派の書を鼓吹し,日下部鳴鶴らは長鋒ないし中鋒の純羊毫水筆を愛用した。このほか勝木平造が天平筆を復元し,また高木寿穎が清人筆匠馮畊三(ふうこうさん)を招き,梁同書の《筆史》を翻刻し,筆祖蒙恬将軍碑を建立したことなどが注目される。明治,大正,昭和と時代が下るにつれて,実用面では万年筆や鉛筆などが広く普及したが,一方では展覧会や学校教育の面で書道はますます活況を呈し,筆の需要も伸びつつある。なお,筆に関する専著として最近,木村陽山《筆》が刊行された。
執筆者:杉村 邦彦