李朝(ベトナム)(読み)りちょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「李朝(ベトナム)」の意味・わかりやすい解説

李朝(ベトナム)
りちょう

10世紀中葉に中国から独立したベトナムの、最初の長期王朝(1009~1225)。大瞿越(だいくえつ)(ダイコベト)を国号に称した丁朝(ディン朝)に次いで興った前黎(れい)朝(レ朝)の左親衛殿前指揮使李公蘊(りこううん)(リイ・コンウアン)が前黎朝第3代竜鋌(りゅうてい)(ロンディン)の没後、自立して帝位につき、前黎朝にかわって創立した。李公蘊(太祖)は即位の翌年に年号を順天と改め、今日のハノイを昇竜(タンロン)とよんで都に定めた。中国の諸制度に倣いながら民族的伝統を重んじた制度を整備して独立国家の体制を確立し、その後700年にわたる、昇竜を中心とする歴代の王朝政治の基礎をつくった。李朝は第3代聖宗が国号を大越(だいえつ)(ダイベト)と改めて太祖の事業を発展させ、第4代仁宗までの約120年間、中央集権の実をあげた皇帝統治のもとでベトナムは独立以来ようやくにして内政の安定をみた。太祖をはじめ歴代の諸帝は仏教の興隆に努めたが、第3代聖宗が昇竜城内に文廟(ぶんびょう)を建てて孔子(こうし)を祀(まつ)り(1070)、仁宗はまた1075年に科挙の制を創設した。以後しだいに儒教が重んぜられて中国文化の移植も著しく、越南漢字音形成もほぼこの時代に完成した。また宋(そう)の南征を撃退するとともに中国南辺に進攻し、またチャンパに遠征して王都ビジャヤを落とし、今日の広治(クアンチ)・広平(クアンビン)地方を割譲せしめて、歴代王朝による南進の歴史の先駆けを演じた。しかし12世紀末から帝権が弱まり、第8代恵宗が外戚(がいせき)陳(チャン)氏に実権を奪われ、9代昭皇のときに陳氏の謀略によって滅亡した。

川本邦衛

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