以下,日本の〈まち〉について記述するが,〈都市〉などの項も参照されたい。
古代都城における〈まち〉
古代都城の〈まち〉は条坊制によって大路で区画された1坊をさらに小路で16分の1に分けた区画をさす。このような町の存在が確認できるのは平城京である。一辺120mの正方形をした町=坪があったことが発掘調査の結果からも確認されており,これは平安京と同じ規模である。貴族の宅地はこの坪を複数あわせもつものがあったが,一般の庶民はこの町をさらに細分化して16分の1ないし32分の1に分けて使用していたことが知られている。さらに平城京より前の藤原京では,1坊の大きさが平城京のほぼ4分の1にあたっており,その中は,四つの町からなりたっていたものと推定されており,発掘調査の結果そのような単位の存在が坪と坪との間の小路の検出によって確認されている。もっとも,この坪の区画は藤原宮造営以前にも存在していたらしく,このような坪が藤原京を始源にするものなのか,さらに古く倭京と呼ばれるころから存在したものかについては,今のところ確かめられていない。
執筆者:鬼頭 清明
中世経済都市への移行
10世紀前期に編集された《和名抄》に〈町,和名末知(まち),田区也〉と注釈されているように,元来〈まち〉は畔道によって囲まれた田地の区画とされている。平安京の場合,一つの坊が16の〈まち〉からなり,〈まち〉は1から16までの序数が付けられていた。〈まち〉は方40丈で,四行八門の32に地割され,最小の単位は南北5丈,東西10丈で戸主(へぬし)と呼ばれる宅地の区画である。32の戸主からなる方40丈の区画〈まち〉が,平安京都城制の基礎となっている。しかし,平安時代末期の漢和辞書《類聚名義抄》には〈店家俗に町と云う〉とあり,ここでは〈まち〉の意味が変化している。《和名抄》でも〈店,坐売舎也〉と記され,その注として〈今俗に町と云う,この類なり〉とあるから,10世紀前期に町は方40丈の区画から商店街を指す用語に変化しているとしてよい。この変化は,方40丈の区画としての〈まち〉のみを支配する古代政治都市から,街路を生活の重要な手段とする中世経済都市への変容を示している。平安京都城制により規定されている町は,東西の2方向にだけ開口することを認められていたが,南北の2方向にも戸口を開放するようになる。これは二面町(にめんまち)から四面町(しめんまち)への移行である。平安時代末期の平安京を描いている《拾芥抄(しゆうがいしよう)》には,大内裏周辺の官人の集住地として大舎人町,御倉町(みくらまち),織部町,修理職町,縫殿町,木工町などが記されている。これらの町は律令国家が抱える工人の住居や官工房や倉庫の所在する区画であった。大舎人町,織部町は応仁の乱後,西陣の機業地域の中心になる区画である。
これらの区画としての〈まち〉は,平安時代末期になると四方の街路に口を開き,四面のそれぞれが一つの町を意識するようになり,それがさらに分化,独立したものと意識されるようになると,四面町から四丁町(しちようまち)へと展開する。四丁町は形態的には四面町と異なるところはないが,四面町は四つの面をもつ一つの区画〈まち〉とされるのに対し,四丁町は四つの面が一つの〈まち〉から分立するものとみなされている。律令制的都城制の〈まち〉が解体し,一面が分立し,それが〈ちょう〉と認識され定着するのは室町時代である。〈まち〉から分立した一面が街路を挟む向い側の一面と合わさって両側町(りようがわちよう)としての一つの〈ちょう〉を形成する。鎌倉時代末期から成立する一面単位の片側町は,対する面と合わさって,応仁の乱後,廃墟の中から誕生する京都町民の自治組織となる。この両側町こそ,現代京都の都市形成の単位である〈ちょう〉である。両側町はたとえば現在京都市中京区柳馬場通三条下ル槌屋町と表示される槌屋〈ちょう〉に該当する。京都の両側町はすべて〈ちょう〉で〈まち〉ではない。京都の場合,旧市街で〈まち〉は街路名の室町通,新町通などに限られ,生活共同体である町は〈ちょう〉である。京都において,〈まち〉から〈ちょう〉への移行は,古代政治都市から中世経済都市への移行であった。
→町(ちょう)
執筆者:仲村 研
近世の町
近世初頭の兵農分離によって武士層は城下に集められ,武家町がつくられた。領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ,いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく,足軽町などは郭外に置かれることが多かった。また足軽などの居住する町には町名もついたが,重臣層の屋敷地などは町名をつけず,道路に小路名がついているだけの場合がある。
武家町と濠や堤をはさんで町人町がつくられた。身分のちがいによって武家町と町人町が截然と区別されていた。この町人町には,現在も所によっては残っているが,職人町では大工町,塗師町,桶町,鍛冶町,紺屋町,畳町など,商人町では呉服町,瀬戸物町,材木町など,そして交通関係では伝馬町とか旅籠屋町などの町名がつけられていた。こうした町名をもつ町の場合,同業者が集住していたというだけでなく,近世初頭に城下町ができたとき,領主側の必要によってつくられたのである。領主側は町人町に対しては農村とちがって年貢をとることなく,地子免除にしている例が多く,その代りに町々は人足役や伝馬役,そして領主御用の負担を課される。城下町がつくられたときに,職人や商人への統制を強め,御用の負担をさせるために計画的に町人町をつくったのである。
近世初頭にできた町人町には,役負担の代償として各種の営業特権が与えられていた。奥羽地方に多い町座とか町株などがそれである。江戸でみると,日本橋の本町(ほんちよう)一~四丁目は呉服物御用とか値段書上げなどをつとめる代りに,この町々以外に呉服屋の存在が実質的に認められていなかった。三井越後屋が江戸ではじめて呉服屋を開いたのは本町一丁目である。三井が本町での呉服屋商売を急激に発展させていくと,同業者の営業妨害をうけ,そこで両替屋の集まっていた駿河町に店を移し,そのとき三井は両替店も開設することになったのである。また,たとえば現在の秋田市である久保田城下の大町三丁目の場合,町内の者が家屋敷を売買するときの規制や町銀という無尽による融通金の制度などがあり,明らかに町内居住者に対する町の規制力には厳しいものがあったといえよう。
近世初頭にできた町の性格は,中・後期にかなり変わってくる。それは町内部で,地主・家持(いえもち)の層と店借(たながり)・借家人の層との階層分化が進んでくるためである。近世の都市住民のなかでの店借層の比率は,奥羽・北陸では20~30%であるが,瀬戸内地域では50~60%で,地域により異なっている。また一つの都市のなかでもちがいがある。江戸の中心部の町は数少ない地主が広大な町屋敷地を占有し,そこに家守(やもり)という管理人を置いて店借を支配しているという状況がみられ,一方,周辺の場末町ではわずかな土地しかもたない地主が多く,みずから家守を兼ねて店借を支配していた。店借は周辺の場末町に多く,60~70%に達するところがあった。18世紀以降,町の役負担は形骸化していくが,行政の末端部門としての町の性格は色濃く残っており,町は新たに問題となってきた店借層の生活維持などに対応するようになった。
家持と店借の区別は,住居のちがいでいえば町家と長屋(家)である。京都の町で,町家の人々相互のかかわり方をみると,(1)おたがいに隣家に立ち入らない,(2)隣人間で物の貸し借りをしない,(3)井戸端会議をしない,(4)近所づきあいは冷たいが,町内というムラづきあいは盛んである,(5)こうした町家社会では義理が守られているかどうかが問題になる,といった点である。家持は義理づきあいとしての町内のさまざまな行事,祇園会などの祭礼を執行し,町家(ちよういえ)という集会所を所有・管理していた。こうした表通りに面した家持たちの町家が維持していた町にくらべて,路地に入った長家の借家人相互が取り結んだ関係は,落語に出てくる熊さん,八つぁんのように,生活は貧しいが人情味あふれるものであった。この借家人たちが町の問題として登場してくるのは,何か事件をおこし,治安を乱したときに限られるといってよい。
しかし中・後期の場合,町の仕事を担ったのは,近世初頭や京都におけるような家持ではなく,江戸や大坂の場合のようにその代理人である家守たちであった。都市行政は一般に町奉行-町年寄-町名主というルートで行われるが,中・後期には家守のなかから選ばれた月行事(がちぎようじ)などが諸触書の順達や町内預り者の責任を負い,また人別改めや諸出入の処理に当たり,家屋敷の売買手続を行うなど,町内事務の処理をとりしきり,他町の月行事などとの連絡もしたのである。
住民に店借層が多くなってきたところで,町の仕事は店借層を支配する家守が掌握するようになったことに象徴されるように,これまでの町の性格は変わってこざるをえなかった。町のいろいろな仕事の経費は地主,家持が負担したが,借家をもっている場合は毎月の店賃(たなちん)収入から支出された。問題は,店借が支払った店賃などで賄われていた町の経費であるにもかかわらず,その店借たちに還元されるものがあまりに少なかったことである。そうした矛盾の解決策の一つとして寛政年間(1789-1801)につくられた江戸の町会所をみていこう。町会所は店借の生活困窮者への対策として設置されたものであるが,この費用も実は恩恵をうける生活困窮者である店借たちの店賃に上乗せされた分で賄われた。寛政から慶応年間(1865-68)まで,米価高騰,風邪,はしか等の流行などで,江戸の全住民の60~70%が生活困窮の状態に陥ったとき,大量の金穀が放出され,かろうじて生活を維持することができたほどである。店借たちによる生活維持の要求は,享保期(1716-36),天明期(1781-89)の打毀(うちこわし)などでは町の規模での行動としてみられた。慶応期にも町単位で困窮人が結集し,施行(せぎよう)を求めてデモを行ったりしたが,それによって町の性格を変えていくほどにはならなかった。明治維新期には家の家持・地借たちによって,地域の経済復興や教育,社会問題に独自に取り組む姿勢がみられるようになっていった。しかし明治維新以後,京都や大阪では,学校をつくったり,大区会所を運営したりする動きもみられたが,全国的には政府のための地方行政機関として改変させられていき,町は住民の要求をもとにした自治体とはなっていかなかった。
→町人 →町割
執筆者:松本 四郎