富山(県)(読み)とやま

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

富山(県)
とやま

本州中部地方の北部、日本海の富山湾に面した県。東は立山(たてやま)連峰を境にして新潟県、長野県に接し、西は宝達(ほうだつ)丘陵により石川県に、南は飛騨(ひだ)山脈により岐阜県に境する。中部山岳地帯、飛騨高地からは黒部(くろべ)川、常願寺(じょうがんじ)川、神通(じんづう)川、庄(しょう)川などが北流し、山麓(さんろく)から富山湾岸にかけて複合扇状地の富山平野をつくる。富山平野は県の生活舞台の中心をなし、県都富山市がある。
 富山県の産業は長く米作主体の農業が中心であったが、第一次世界大戦後、豊富な水資源を利用する電源開発が進み、化学肥料、電気製鋼などの工場が立地し、日本海沿いでは有数の工業県となっている。
 2010年度(平成22)の国勢調査による富山県の人口は、109万3247人で全国総人口の1%に満たない。第1回国勢調査時(1920)の約72万5000人に比べると約36万8000人の増加である。1920年以降人口は増加を続けたが、1960年から1965年にかけてはやや減少した。これは京浜、阪神、中京工業地帯に人口が流出したためで、1965年以降はふたたび増加に転じた。1995~2000年には-0.2%、2000~2005年には-0.8%、2005~2010年には-1.7%と近年は微減傾向が続いている。富山市と高岡市の人口で県人口の半分以上を占め、富山市周辺の町村では増加傾向にあるが、山間地区では減少が著しい。
 北陸道越中(えっちゅう)一国からなり、2012年6月現在10市2郡4町1村で構成される。[深井三郎・中藤康俊]

自然


地形
富山県は日本の地体構造上、西南日本内帯の北東端にあたる。三方を山地に囲まれ、北部は富山湾に面する。東部は標高3000メートル内外の山々が連なる飛騨山脈(北アルプス)の中央部から北部を占め、その北部は親不知(おやしらず)の断崖(だんがい)で日本海に臨んでいる。北アルプスの北西部は、黒部峡谷によって、立山を主峰とする立山連峰と、富山・長野県境にそびえる白馬(しろうま)岳、鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)などからなる後(うしろ)立山連峰に二分される。立山連峰の前山山地は第三紀の低い山地となって平野に臨んでいる。北アルプス一帯は中部山岳国立公園域で、薬師(やくし)岳圏谷群(特別天然記念物)など氷河期の名残(なごり)もみられる。また黒部峡谷は特別名勝・特別天然記念物に指定されている。県南部の岐阜県境にある山地は飛騨高地から続く1500メートル内外の山地で、北に延びて丘陵性の山地となる。西部の石川県境の山地は大門山(だいもんざん)(1572メートル)から医王山(いおうぜん)(939メートル)に至り、北に延びて、標高300メートル以下の礪波(となみ)山地となり、さらに延びる500メートル以下の山地は能登(のと)半島の基部を形成する。県中央部にある呉羽(くれは)丘陵(最高145メートル)は富山平野を東西に二分する。呉東(ごとう)の平野は東部山地から流れ出る黒部川、片貝(かたかい)川、早月(はやつき)川、常願寺川、神通川などがつくる扇状地の複合した平野である。呉西の平野は飛騨の西部山地から流れる庄川の扇状地と、小矢部(おやべ)川の流域を含めた礪波平野、富山湾に面する射水(いみず)平野、および氷見(ひみ)平野からなる。
 富山県の海岸線の延長は約95キロメートル。小矢部川河口左岸から能登半島にかけては一部の海岸砂丘帯を除き、おおむね岩石海岸で山地が直接海に迫る。白砂青松の雨晴(あまはらし)海岸、島尾(しまお)海岸とともに能登半島国定公園の一部となっている。小矢部川河口右岸から東部の常願寺川河口までは砂浜海岸が続き、それ以東は礫浜(れきひん)海岸となっている。富山湾は水深200メートルの陸棚が魚津(うおづ)の沖1キロメートルまでしかないなど、日本本土沿岸では例をみない急峻(きゅうしゅん)で大深度の湾である。神通川や庄川などの河口付近には顕著な海底谷がある。晩秋から冬季にかけて「寄り回り波」という暴浪による海岸侵食が激しいため護岸堤防が連続し、所々に離岸堤がある。なお、富山湾岸で発見された魚津埋没林、富山湾のホタルイカ群遊海面はともに特別天然記念物に指定されている。
 自然公園には前記の国立・国定公園のほかに、朝日、有峰(ありみね)、五箇山(ごかやま)、白木水無(しらきみずなし)、医王山、僧ヶ岳の6県立自然公園がある。[深井三郎・中藤康俊]
気候
典型的な日本海式気候を示す。富山市の年間平均気温は14.1℃(1981~2010)。春から夏にかけて南風が卓越するとフェーン現象がおこる。とくに春先の礪波平野南部で顕著で、異常高温になる場合が多い。年降水量は地形によって異なり、平野部で約2300ミリメートル、山沿いでは3400ミリメートル前後、山岳地帯では5400ミリメートル以上になる。積雪は4メートルに達することもあり、年降水量の約3分の1は雪によるものである。降雪の影響で冬の日照時間は少なく、東海地方の約3分の1にすぎない。
 自然災害は海岸侵食のほか、梅雨期と融雪期の水害が多かったが、河川堤防の改修などで大河川の水害はほとんどなくなった。地盤災害としては氷見山地の第三紀層地すべり、ことに胡桃(くるみ)の地すべり(胡桃の大地すべり)は全国的に知られている。台風による被害は少なく、地震災害も全国的にみて比較的安全な地域である。[深井三郎・中藤康俊]

歴史


先史・古代
富山県東部の上市(かみいち)町からナイフ型石器が発見され、魚津市桜峠からは縄文早期の押型文土器、氷見市朝日貝塚(国の史跡)からは縄文初期の朝日式土器が発掘された。朝日貝塚の近くにある海食洞の大境洞窟(おおざかいどうくつ)(国の史跡)からは縄文・弥生(やよい)式土器のほかに多数の人骨が発見されている。県内の古墳は4世紀以降のもので、高岡市の桜谷(さくらだに)古墳、富山市の王塚古墳(ともに国の史跡)は5世紀ごろの築造で、県の古墳中最大級の前方後円墳である。いまの射水・氷見地方に伊弥頭(いみづ)の国造(くにのみやつこ)が置かれ、大化改新(645)後、北陸地方一帯は越国(こしのくに)とよばれた。阿倍比羅夫(あべのひらふ)が越国の国司に任ぜられ、北辺の蝦夷(えぞ)に対する大和(やまと)朝廷支配の第一線地帯であった。天武(てんむ)天皇のころ越国は越前(えちぜん)、越中、越後(えちご)に分かれた。当時の越中には頸城(くびき)、魚沼(うおぬま)郡も含まれていたが、702年(大宝2)に越後に属し、741年(天平13)越前の羽咋(はくい)、能登、鳳至(ふげし)、珠洲(すず)の4郡が越中にあわされたが、757年(天平宝字1)4郡は能登国として分立した。越中国は新川(にいかわ)、婦負(ねい)、射水、礪波(となみ)の4郡となり、ほぼ現在の富山県の地域となった。越中国府は現在の高岡市古国府に置かれ、746年(天平18)には大伴家持(おおとものやかもち)が越中守に任ぜられている。当時東大寺の墾田(こんでん)が射水、礪波、新川各郡に開かれていた。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると礪波臣志留志(となみのおみしるし)が広大な土地を所有し、東大寺に三千碩(せき)を献じたことが記されている。また『和名抄(わみょうしょう)』には越中国の田数1万7909町5段30歩とある。[深井三郎・中藤康俊]
中世
保元(ほうげん)の乱(1156)後の平氏の全盛期には平教盛(のりもり)・盛俊・業家(なりいえ)らが越中の国司となった。1181年(養和1)源義仲(よしなか)が城資永(じょうのすけなが)を破って越後に入ると越中の武士団は義仲にくみした。1183年(寿永2)の「礪波山の戦い」後、敗走する平家を追って義仲は都に入った。
 鎌倉幕府成立後、越中の守護には比企能員(ひきよしかず)が任ぜられ、1221年(承久3)には名越朝時(なごやともとき)が越後・越中守護に任ぜられ、以来名越氏が越中守護職についた。守護所は放生津(ほうじょうづ)(射水(いみず)市)に置かれた。建武(けんむ)新政(1334)後、足利(あしかが)方の普門蔵人(ふもんくろうど)利清が守護となり、以来30余年の間、越中国は南朝方と足利方の北朝方との抗争が続いた。
 戦国時代の越中には西に神保(じんぼ)氏、東に椎名(しいな)氏が威を張り、武田、上杉、織田の勢力に対抗し、これに瑞泉(ずいせん)寺、善徳寺、勝興寺などを中心とする一向一揆(いっこういっき)が介在した。一揆は初め武田と結び上杉勢の侵入に抗したが、のちに和して織田方に抗した。上杉謙信(けんしん)の急死後は織田方の攻勢が始まり、1580年(天正8)織田氏の臣佐々成政(さっさなりまさ)が富山城に入った。[深井三郎・中藤康俊]
近世
本能寺の変後の1585年(天正13)成政は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の軍門に降(くだ)り、越中の支配権は前田利家(としいえ)に移った。前田氏は加賀、越中、能登の3国を統治したが、1639年(寛永16)加賀3代藩主利常は次男利次(としつぐ)に神通川流域の婦負郡と、能美(のみ)郡、新川郡の各一部を分封し、ここに富山藩10万石が成立した。利次は富山城を修築し、城下町の整備に努めた。富山藩2代藩主正甫(まさとし)は富山売薬を始めたとされる。1767年(明和4)藩は反魂丹(はんごんたん)役所を設け富山売薬の保護、統制をした。加賀藩領の礪波、射水、新川郡の大部分では大規模な灌漑(かんがい)用水路の工事が行われ、芹谷野(せりだんの)や山田野、舟倉野(ふなくらの)、十二貫野(じゅうにかんの)などの用水をつくり、丘陵地や高台の開田が進んだ。[深井三郎・中藤康俊]
近代
1871年(明治4)の廃藩置県によって婦負郡と新川郡の一部が富山県となったが、まもなく新川県に改められ魚津に県庁が置かれた。1876年加賀・能登・越前・越中の全域が石川県となったが、1883年には越中国が分離して富山県として独立した。1875年伏木(ふしき)港に北陸で最初の西洋型汽船が寄港した。まもなく伏木港はロシア、樺太(からふと)(サハリン)、朝鮮向けの特別輸出港となり、1899年には開港場に指定された。1898年には北陸線が開通した。
 1917年(大正6)から1918年にかけて米価が高騰し、全国に米騒動が発生したが、その発火点は富山県だといわれている。米価の引下げと県外移出の禁止を求めて、中新川郡の漁婦たちが集会を開いたが、それが「越中女一揆」として報道され、全国各地に広まったのである。
 一方、明治から大正にかけての農村不況は全国的な北海道移住をもたらしたが、富山県下でとくに多く、1897年からの10年間に約6万人が移住したといわれる。[深井三郎・中藤康俊]

産業


農林業
富山県農業の特色は米作中心の水田単作農業にある。耕地面積は1990年(平成2)の6万8000ヘクタールから1995年の6万4200ヘクタール、2001年の6万1000ヘクタールと減少した。うち水田は5万8600ヘクタールで耕地面積の96%(全国第1位)を占める。水田が多いのは広大な扇状地平野があること、河川水が豊富であるため灌漑に好都合であること、藩政時代からの農業政策として開田事業が強力に進められ、用水路の建設が行われたこと、昭和初年からの電源開発と結んで扇頂部に用水ダムを建設し取入れ口を合口化して農業用水の安定化を図ったことなどがあげられる。
 全農家戸数は4万7227戸(2000年世界農林業センサス)、販売農家数3万9397戸で、そのうち専業農家2771戸、兼業農家率93%である。耕地面積1ヘクタール未満の農家は50%を占め、3ヘクタール以上の耕地をもつ農家は約4%にすぎない。地域的にみると、東部の諸扇状地平野は砂礫(されき)質の浅耕土のうえに雪解け水による冷害のため従来から反当り収穫量は少なかったが、1951年(昭和26)に黒部川流域で始まった粘土質の土を田に流し込む流水客土による画期的な土地改良事業の結果、収穫量は30~40%も増加した。農用機械の導入は1950年ごろから始まり、1960年ごろにはその普及率は全国一となった。1995年には耕うん機・トラクター4万7556台、動力田植機3万4533台などとなっている。農業構造改善事業は1962年から実施され、圃場(ほじょう)整備率は80%(2001)である。圃場面積の大型化、農業従事者の減少などから集団化農業が進められており、稲作請負業、小作請負会社も出現している。1990年からの5か年間で農地の転用は2759ヘクタールになった。その50%は住宅および建物用地で、そのほか工場用地、道路水路用地に転用されている。米作が主体なので野菜などの畑作地は少ない。富山市近郊では呉羽丘陵西側、高岡では庄川の自然堤防帯、氷見の海岸砂丘帯などがおもな畑作地である。礪波平野はチューリップの球根の産地として知られる。球根栽培は1918年(大正7)ごろに始まり、いまではアメリカ、ヨーロッパに輸出している。作付面積は203ヘクタール(2001)、出荷量は4630万球で、全国第1位。下新川(しもにいかわ)郡入善(にゅうぜん)町は長円形の黒部スイカを特産し、呉羽丘陵一帯ではナシの栽培が行われる。
 畜産業はあまり振るわない。乳牛・肉牛飼育、養豚、養鶏などが行われるが、飼養農家、飼養数とも激減している。
 林野面積は県総面積の56%、約24万ヘクタールで、そのうち国有林が26%を占める。保安林は15万0107ヘクタールで、保安林率は62.6%。水源涵養(かんよう)林、土砂流出防備林などの保安林が占める割合は全国でも高いほうである。造林は人工造林の限界とみられる1000メートルを超える山地が約20%を占め、積雪量の多いことが造林上の支障となっている。林産物にはシイタケ、キノコ類、クリなどがある。[深井三郎・中藤康俊]
水産業
富山湾は寒暖両流の影響で魚類は豊富で、沿岸漁業は古くから発達していたが、大正初期から漁獲高が減少している。従来からの定置網のほかにハマチ、ワカメなどの養殖が行われている。漁業世帯数は1706(2000)で、漁民の高齢化が目だつ。漁獲量は4万6304トン(2001)で、おもにサンマ、スルメイカ、マグロ、カツオ、アジ、ブリ、サケ、マスなどが獲れる。このほか4月から6月上旬にかけて富山湾の滑川(なめりかわ)、魚津沖合いでのホタルイカ漁や、10月から2月までベニズワイガニ漁がある。定置網はとくに灘浦(なだうら)、氷見浦、新湊、魚津沖で盛ん。漁港は16港、うち第1種漁港は10港。漁船は5トン以下のものが半数を占める。北洋へのサケ・マス漁は5、6月ごろ魚津、経田(きょうでん)漁港などから根拠地の函館(はこだて)方面へ向かう。[深井三郎・中藤康俊]
水力発電
中部山岳地帯に源を発する黒部川、片貝川、早月川、常願寺川や、飛騨高地から流出する神通川、庄川など大小50余の河川があり、流量が豊富で地形上からも水力発電に適し、明治中期から発電所がつくられている。かつては流れ込み水路式、ダム水路式の発電所が多く、融雪期や梅雨期には大量の余剰電力を生じ、これを安く供給したため、大正末年ごろから電力消費型の化学、鉄鋼の工場が進出した。第二次世界大戦後、有峰ダム、黒部ダムなどの大容量のダムが建設され、莫大(ばくだい)な資本投下のため低廉な電力料金のメリットは失われた。2001年度の県内発電所数は150(うち水力125)、発電電力量は143億キロワット(うち水力は63%)に上る。黒部川と庄川水系の関西電力と、常願寺川、神通川水系の北陸電力の発電所が中心である。[深井三郎・中藤康俊]
工業
2006年(平成18)の製造品出荷額は3兆7254億円で、日本海沿岸では新潟県と並ぶ工業県である。業種別出荷額は一般機械、化学、金属製品、電子部品、非鉄金属、プラスチック、鉄鋼、石油・石炭などが上位を占める。従業者数は12万6030人で、従業員300人未満の中小規模の事業所が大部分を占め、300人以上の事業所は全体の0.2%にすぎない。
 富山県の近代工業は「豊富な水」「低廉な電力」「勤勉な労働力」を背景に主として富山市、高岡市の臨海部に発達した。1917年(大正6)伏木港に電気製鉄(現JFEマテリアル)、北海電化工業(現日本重化学工業)の工場が立地し、以後、化学、製紙、金属などの工場が進出した。富山港周辺には1933年(昭和8)日満アルミ(現昭和タイタニウム)が立地、その後、日本曹達(ソーダ)、不二越(ふじこし)などの工場の進出をみた。現在、県内の重化学工業の大部分が両地区に集まっている。一方、繊維、木工などの軽工業は礪波平野などに多く、黒部市にYKKのファスナー、アルミサッシ、高岡市に三協立山アルミなどアルミ工業の工場群がある。1964年、富山・高岡両地区を中心とする地域が新産業都市に指定され、1968年には放生津潟に掘込み式の富山新港が完成し、工場用地に企業誘致も進んだ。しかし1973年のオイル・ショック以降、経済事情の変化に伴って工場の進出は停滞している。なお、1984年に富山地区がテクノポリス(技術集積都市)に指定され、八尾中核工業団地がつくられた。
 伝統産業のうち、富山売薬は藩政時代に始まり、明治以降も「越中富山の薬売り」として日本だけでなく、朝鮮、中国にも販路を広げた。現在も中小の工場でつくられた家庭薬が、売薬配置員によって全国に配られている。高岡銅器も加賀2代藩主前田利長(としなが)が高岡に鋳物師を招いたのに始まるという。武具、農具をつくっていたが、仏具、花器などもつくるようになり、江戸末期には彫金の技術も加わった。現在では銅像、梵鐘(ぼんしょう)などの製作も行う。風景花鳥を精密に彫刻する南砺(なんと)市(旧、井波(いなみ)町)の井波欄間(らんま)も近世初期に始まる。欄間以外に衝立(ついたて)、屏風(びょうぶ)などもつくられる。このほか、高岡漆器、高岡・魚津両市の仏壇、氷見市の畳表、ござ、南砺市のプロ野球用の木製バット製造などが知られている。[深井三郎・中藤康俊]
交通
県下で最初に鉄道が敷設されたのは1897年(明治30)中越鉄道による黒田(現高岡市)―福野間であった。1912年(大正1)には氷見まで延長され、1920年に国鉄(現JR)城端(じょうはな)線・氷見線になった。北陸線は1898年金沢から高岡まで開通し、翌年富山まで延長、その後新潟県境の親不知(おやしらず)をトンネルで貫き、直江津(なおえつ)まで開通した。高山本線は1934年(昭和9)に全通した。1969年(昭和44)に北陸本線の複線電化が完了し、輸送力は飛躍的に改善されたが、富山―東京間は北陸の県庁所在地中ではもっとも時間を要し、北陸新幹線の早期建設に多大の期待がかけられていた。2015年(平成27)3月、その北陸新幹線が金沢まで延伸、富山県内に黒部宇奈月温泉、富山、新高岡の三つの駅が設置された。新幹線の開業と同時に北陸本線の金沢―直江津間は第三セクターに移管され、富山県部分はあいの風とやま鉄道となった。富山地方鉄道は富山市を中心に本線、立山線、不二越(ふじこし)・上滝(かみだき)線などがあり、宇奈月(うなづき)温泉や立山方面へも通じている。また、高岡市、射水(いみず)市を路面電車の万葉(まんよう)線(旧加越能(かえつのう)鉄道)が通り、旧JR富山港線には富山ライトレールが走る。黒部峡谷に沿っては黒部峡谷鉄道がある。
 国道は東西に走る8号、名古屋から中部地方を横断して富山市に至る41号、庄川沿いの156号、能登方面への160号のほか、304号、359号、415号、471号、472号がある。滋賀県米原(まいばら)市と新潟市を結ぶ北陸自動車道は県中央部を南北に走り、砺波市・小矢部市(小矢部砺波ジャンクション)と名神高速道路を結ぶ東海北陸自動車道も全線開通した。富山空港は1984年にジェット化が実現し、東京―富山間を1時間で結んでいる。[深井三郎・中藤康俊]

社会・文化


教育文化
富山藩10代藩主前田利保(としやす)は本草(ほんぞう)学者として知られ、富山だけでなく江戸にも薬草園をつくるなど富山売薬の振興に大きく寄与した。共立富山薬学校は売薬業振興のために1893年(明治26)設立され、その後幾度かの変遷を経たのちに国立富山医科薬科大学に引き継がれていった。1924年(大正13)には日本海側で最初の高等商業学校である高岡高等商業学校が開校、1944年(昭和19)高岡経済専門学校と改称、さらに高岡工業高等専門学校になった。富山大学工学部の前身である。国立富山大学は旧制富山高等学校、富山師範学校などが母体となって1949年(昭和24)に発足した。2005年(平成17)に富山医科薬科大学、高岡短期大学と統合、現在の富山大学は人文、経済、医学、薬学など8学部からなる。このほか高等教育機関として、富山県立大・同大短期大学部、北陸職業能力開発大、私立の桐朋学園大学院大学、高岡法科大、富山国際大、富山短大、富山福祉短大。国立の富山高等専門学校がある(2012)。
 1884年富山県最初の日刊新聞『中越新聞』が発刊された。民権運動の越中改進党の機関紙ともいうべきもので、1888年に『富山日報』と改めた。1940年の新聞統合で他の3紙とともに『北日本新聞』となり現在に至っている。『富山新聞』は1923年発刊の『越中新聞』を母体としている。放送関係では1935年にNHK富山放送局が開局。ほかに北日本放送(KNB)、富山テレビ放送(BBT)などがある(2012)。[深井三郎・中藤康俊]
生活文化
江戸時代、越中全域が前田氏の支配下にあったために全般的には衣食住の地域差は少ないが、山間僻地(へきち)や急流河川の多い新川地方では独特の生活風習がみられる。昭和初期まで農民は新しい綿服を晴れ着とし、それが古くなると仕事着とした。男性の仕事着の上着は半袖(はんそで)で丈は腰あたりまでで、アンコモモヒキをはいた。昭和10年代の初期ごろにモンペが普及するまで女性の仕事着は長着で、それを腰紐(こしひも)でたくし上げ、腕貫(うでぬき)、手甲、脚絆(きゃはん)をつけた。隔絶地であったころの五箇山(ごかやま)では、自分たちで織った麻を城端(じょうはな)町(現、南砺(なんと)市)の紺屋で裾(すそ)模様に染めて長夏着に仕立て、祭りの際に着たという。いまも五箇山では『こきりこ節』などの民謡で踊るとき長夏着を着用する。
 米作県ではあるが、昭和初期までは山間地ではヒエ、アワが主食で、米食は盆と正月ぐらいであった。平野部でも平日は粥(かゆ)の中へダイコン、サトイモなどの野菜を入れたゾロという雑炊(ぞうすい)が一般的であった。魚類は、海岸地域を除けば塩物・干物で、暮れにブリを婚家へ送る風習があった。
 礪波平野の散村にはカイニュ(垣入)という屋敷森に囲まれた家が多い。屋敷森はスギ、ケヤキのほかカキなどの果樹からなり、スギの葉は燃料に、材は改築時に利用した。農家は藩政時代、間口5間を超えないこと、草葺(くさぶ)きであることなどの制限があり、屋根は四注(しちゅう)造で、間取りは広間を中心に三方を囲むよう仏間、納戸(なんど)、オイの間(ま)(応接間)が配置され、台所は北側に置かれた。いろりの周囲に座る位置も主人の横座(よこざ)などそれぞれ定まっていた。[深井三郎・中藤康俊]
民俗芸能
1月15日を田植正月ともいう。中新川(なかにいかわ)郡の山間地や礪波地方の農家では、家の土間で田植のほか、いっさいの田作業のまね事を行い、そのあと豊作を祈って御馳走(ごちそう)する習わしがある。魚津市小川寺集落では1月15日の朝、小豆粥(あずきがゆ)の大鍋(おおなべ)の表面を田んぼに見立てて田打ちをし、表面をならしたあと、女たちが田植のまね事をしてその年の豊年を祈る風習がある。6月21日の「御影様(ごえさま)」は、黒部(くろべ)市の黒部川に架かる愛本(あいもと)橋の上で、南砺(なんと)市善徳寺の親鸞上人(しんらんしょうにん)絵像を川の西方講中から東方の講中へ渡す真宗の行事。そのあと御宿を定めて「御影様」が村々を一巡する。黒部市宇奈月町下立(うなづきまちおりたて)、宇奈月町浦山(うらやま)などで「えびすこ」「えびすさん」というえびす迎えの行事がある。11月20日旅先から金をもうけて帰ってきたえびす様を現実の人を迎えるように村境で待ち受け家へ案内する。入浴をさせ、神棚の下で二の膳(ぜん)付きで馳走する。そのあと主人がえびす様に感謝のことばを述べ、家中で夕食をとる風習である。翌年1月20日早朝、旅へ出かけるえびす様を神送りの行事で送り出す。南砺市福野地区には藩政時代からの年の市(いち)がいまも伝承されている。近郊の農家の人々がめいめいの場所で正月用の野菜、臼(うす)、杵(きね)、蒸籠(せいろう)、天神様の掛軸、注連縄(しめなわ)などを売るもので、県で唯一残っている年の市である。
 富山県を代表する郷土芸能に越中オワラ節と麦や節がある。富山市八尾(やつお)地区のオワラ節は9月1~3日に豊作と風災害のないことを願って行われる。「風の盆」ともいい、胡弓(こきゅう)の音が町を流れ、編笠(あみがさ)をかぶった人々が三日三晩町を練る伝統行事である。麦や節は、庄川上流の五箇山を安住の地とした平家の落人(おちゅうど)にちなむものとも、また能登の遊女が伝えたものともいわれ、麻と麦と菜種が詠み込まれた感傷的な哀惜のリズムをもつ。踊り手は羽織袴(はかま)に脇差(わきざし)姿である。また五箇山には室町時代に禅宗が入り、田楽(でんがく)法師、放下(ほうか)僧が歌と踊りを伝えた。田植や祭りの際に行われる『こきりこ節』である。このほか五箇山には「といちんさ」「お小夜(さよ)節」「古代神(こだいしん)」など多くの民謡と踊りが伝えられ、「五箇山の歌と踊」として国の選択無形民俗文化財とされている。国の重要無形民俗文化財には、射水(いみず)市加茂中部(かもちゅうぶ)加茂神社・黒部市法福寺・富山市婦中町中名(ふちゅうまちなかのみょう)熊野神社の稚児舞(ちごまい)(越中の稚児舞)、高岡御車山(みくるまやま)祭の御車山行事、魚津のタテモン行事、滑川のネブタ流しなどがある。[深井三郎・中藤康俊]
文化遺産
高岡市の瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、加賀3代藩主前田利常が2代利長の菩提寺(ぼだいじ)として建てたものである。近世初期の禅宗伽藍(がらん)を代表する建築で、総門、山門、仏殿、法堂などを対称的に配置し、仏殿、法堂、山門は国宝、それ以外の7棟は国指定重要文化財とされている。南砺(なんと)市の瑞泉寺山門は1785年(天明5)に建てられた重層入母屋(いりもや)の大建築で、同市の善徳寺の山門とともに県を代表する山門である。
 神社建築では、中新川(なかにいかわ)郡立山(たてやま)町岩峅寺(いわくらじ)の雄山(おやま)神社前立社壇本殿は北陸地方最大のもので、室町中期に修補されている。高岡市伏木一宮(ふしきいちのみや)の気多(けた)神社本殿、南砺市の白山(はくさん)宮本殿も室町時代の建築である。小矢部(おやべ)市埴生(はにう)の護国八幡宮(はちまんぐう)の本殿、釣殿、拝殿及び幣殿の3棟は江戸初期に建てられたもので、加賀藩主前田氏の寄進による。以上の建築物はすべて国の重要文化財に指定されている。民家建築では、五箇山の合掌造が有名で、南砺市西赤尾の岩瀬家は庄川筋最大の合掌造で、同市の村上家、羽馬(はば)家とともに国の重要文化財に指定されている。なお、合掌造の多い南砺市の相倉(あいのくら)集落、菅沼(すがぬま)集落はそれぞれ国の史跡に指定されている。1995年(平成7)には岐阜県の白川郷の集落とともに世界遺産の文化遺産に登録されている。
 富山市本法(ほんぽう)寺の「絹本著色法華経曼荼羅(ほけきょうまんだら)図」21幅は、鎌倉末期のもので、法華経を大和絵(やまとえ)の手法で綿密美麗に描いている。富山市大津賀家の「紙本著色野郎歌舞伎(かぶき)婦女遊楽図」は歌舞伎風俗画中注目される優秀作である。南砺市安居(あんご)寺の木造聖観音(しょうかんのん)立像は県最古の平安初期のもの。富山市常楽(じょうらく)寺の木造聖観音立像と木造十一面観音立像は藤原初期の作である。上市町日石(にっせき)寺の不動明王は凝灰岩の大岩壁に半肉彫りした磨崖仏(まがいぶつ)で、丈3.5メートル、藤原時代の作といわれ、立山の修験者(しゅげんじゃ)と関係が深い。高岡市蓮花(れんげ)寺の銅製双竜飾錫杖(しゃくじょう)頭は1893年(明治26)立山大日(だいにち)岳で発見されたもの。以上の美術工芸品は国の重要文化財に指定されている。
 関野神社の春祭に市内を巡行する高岡御車山7基は、前田家が秀吉から拝領したと伝えられている、彫刻、染色などに桃山時代の特色を伝える豪華絢爛(けんらん)たるもので、「立山信仰用具」「富山の売薬用具」とともに国の重要有形民俗文化財に指定されている。[深井三郎・中藤康俊]
伝説
立山に咲くクロユリは、「早百合(さゆり)」の怨念(おんねん)がこもるといわれる。富山城主佐々成政は、愛妾(あいしょう)早百合が不義をはたらいているとの讒言(ざんげん)を信じ、早百合を神通川の磯部(いそべ)堤でつるし斬(ぎ)りにした。早百合は「立山にクロユリが咲くとき、佐々家は滅びる」という呪(のろ)いのことばを残した。のち成政は豊臣秀吉から切腹を命ぜられ、佐々家は滅亡した。また、風雨の夜、早百合がつるされた堤のエノキに鬼火が現れるようになり、人々は「ぶらり火」とよんだという。立山の開祖佐伯有頼(さえきありより)(慈興上人(じこうしょうにん))は83歳のとき雄山神社の窟(くつ)に入り、生きながら入定(にゅうじょう)したという。その後若狭(わかさ)(福井県)の尼僧が女人禁制の立山へ入ったが、たちまち神の怒りに触れて「姥石(うばいし)」と化した。連れの女もスギの木に変じたという。立山の地獄谷(じごくだに)では、死別した縁者を目の当たりに見ることができるという。陰暦7月7日の夜、地獄谷の地蔵堂に信者たちが集まっていると、無数のチョウが飛んでくる。「精霊市(しょうりょういち)」といい、死者の霊がチョウに姿を変えたのだと信じられている。黒部峡谷にも「雪女(ゆきおんな)」のほか数々の伝説がある。「祖父谷(じじだに)・祖母谷(ばばだに)」の伝説は、嫉妬(しっと)深い妻から逃げた男が誤って黒部の谷へ落ちた。男を追ってきた妻も別の谷に落ちた。男の落ちた谷を祖父谷、妻の落ちた谷を祖母谷とよぶようになったという。中新川郡稗田(ひえだ)(上市町)の鍛冶(かじ)屋が、一夜に槍(やり)千本を打つ者を婿にすると触れた。それに応じた若者が仕事場にこもったが、音が聞こえないのに不審を覚え、中をのぞくと鬼が鉄を鍛えていた。鍛冶屋がニワトリを鳴かせて夜明けを報じると、千本打てなかった鬼は逃げていった。これは「鬼の刀鍛冶」の類話である。[武田静澄]
『『富山県の歴史と文化』(1960・富山図書館) ▽坂井誠一著『富山県の歴史』(1970・山川出版社) ▽『私たちの富山県 新版』上下(1973・北陸出版) ▽深井三郎著『富山県の地形・地質』(1976・富山県) ▽『富山県大百科事典』(1978・富山新聞社) ▽『角川日本地名大辞典 富山県』(1979・角川書店) ▽『富山県史』全19巻(1972~1985・富山県) ▽『富山大百科事典』上下(1994・北日本新聞社) ▽平山輝男他編『富山県のことば』(1998・明治書院) ▽『日本歴史地名大系16 富山県の地名』(2001・平凡社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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