鳥取(県)(読み)とっとり

日本大百科全書(ニッポニカ)「鳥取(県)」の解説

鳥取(県)
とっとり

中国地方の北東部にあり、日本海に面した県。面積は3507.05平方キロメートル。北は日本海を隔ててロシア連邦の沿海地方に対し、東は兵庫県、西は島根県、南は岡山・広島の両県に接する。因幡(いなば)と伯耆(ほうき)の2国からなる。県庁所在地は鳥取市。県名のもとは、鳥取部(ととりべ)がいた因幡国鳥取郷(ととりごう)で、戦国時代に鳥取城が築かれ、江戸時代には因幡、伯耆を治める池田氏の城下町となり、藩名、県名となった。

 鳥取県は海流によって早くから大陸や北九州との交流があったと推定され、遺跡密度は畿内(きない)と肩を並べている。東西に細長い県で、鳥取、倉吉(くらよし)、米子(よなご)の3市を中心とする3定住圏からなるが、山がちであるため山陰線の開通が遅く、中央市場との連接は大正期以後のこととなり、産業の近代化が後れた。隠岐堆(おきたい)を中心とする大型巻網漁業や智頭(ちず)林業、畜産や砂地農業とナシ栽培などにより知られた農林水産県である。1960年代後半より電機産業の誘致や境港(さかいこう)の整備、中海(なかうみ)新産業都市計画などにより格差を縮めた。大山(だいせん)隠岐国立公園をはじめ国立、国定公園が四つあり、温泉も多く、観光県でもある。

 人口は、1920年(大正9)の第1回国勢調査では45万4675人、2000年(平成12)には61万3289人であり、80年間に約16万人(指数135)増えた。この間、1955年の61万4259人をピークに過疎化が進行し、1970年には56万8777人となった。以後は微増に転じ、2000年には1970年に比べて7.8%増となった。これは社会増と自然増による。しかし65歳以上の人口構成比(2015)は29.7%であり、全国都道府県中第16位の高齢化を示している。2015年の人口は57万3441人。

 1889年(明治22)の市制町村制施行時には1市4町233村であったが、第二次世界大戦後の町村合併により、1953年には2市28町150村になり、2018年4月現在4市5郡14町1村からなる。

[岩永 實・豊島吉則]

自然

地形

南部の岡山県境の中国山地は、三郡変成岩や花崗(かこう)岩類からなり、600~700メートルの低位侵食平坦(へいたん)面上には、高位侵食平坦面とみられる道後(どうご)山や残丘状の大倉(おおくら)山など、1000メートル級の山々がそびえ、その西部は比婆道後帝釈(ひばどうごたいしゃく)国定公園になっている。低位侵食平坦面上の川は浅い谷を緩く流れているが、下流の谷頭侵食部では急な峡谷や滝となり、石霞(せっか)渓や小鹿(おしか)渓(国の名勝)、三滝(みたき)渓などの名勝地となっている。大山火山帯の主峰大山(1711メートル)と岡山県境の上蒜山(かみひるぜん)(1200メートル)は大山隠岐国立公園の主要部をなし、その東方の氷ノ山(ひょうのせん)(1510メートル)などの兵庫県境の山地は氷ノ山後山那岐山国定公園(ひょうのせんうしろやまなぎさんこくていこうえん)を構成している。北流する千代(せんだい)、天神(てんじん)、日野(ひの)の3主要河川は、間・後氷期の旧内湾を埋積して鳥取、倉吉、米子の3平野を形成し、砂丘列の内側には潟湖(せきこ)群が並ぶ。一方、東部の山地が海に迫るリアス式の海岸には、典型的な海食地形が発達した浦富海岸(うらどめかいがん)(国の名勝・天然記念物)があり、鳥取砂丘(国の天然記念物)とともに山陰海岸国立公園の西縁部を構成している。このほか、三朝(みささ)東郷湖、奥日野、西因幡の3県立自然公園がある。

[岩永 實・豊島吉則]

気候

日本海沿岸気候区のなかの山陰型に属し、降雪やフェーン現象では北陸地方と共通しているが、より暖かく雪も少ない。年平均気温は鳥取市で14.9℃(1981~2010)で、山間部は約2~3℃低い。年降水量は鳥取市1914ミリメートル(1981~2010)、大山は2838.9ミリメートル(1982~2010)で、北西季節風に対向する大山や東部山岳地帯は深雪地となり、2メートル近くにまで達する。また標高500メートル以上の気候は、秋田県に似た多雨夏冷涼気候となる。

[岩永 實・豊島吉則]

生物相

寒地系と暖地系の混在が特徴。垂直的には、砂丘植物群落や沿海照葉樹林、内陸照葉樹林から下部夏緑樹林に移行、約600メートル以高では日本海型夏緑樹林(チシマザサ―ブナ群団)となり、約1200メートル以高では風衝低木、草原に移行し、大山山頂には特別天然記念物ダイセンキャラボクの純林がある。鳥取市の白兎海岸(はくとかいがん)のハマナス自生南限地帯は国の天然記念物に指定されており、琴浦(ことうら)町箆津(のつ)には県の天然記念物で暖地系のハマヒサカキがあり、ほぼ自生北限地帯とみられている。なお特別天然記念物オオサンショウウオの生息域として日野川流域や天神川流域と大山内小河川が知られる。鳥類ではコハクチョウ、カモなどが中海などに飛来し、大山など高山にオオタカ、クマタカもみられる。

[岩永 實・豊島吉則]

歴史

先史・古代

先史時代の集落跡や古墳などの遺跡数は1万を超え、分布密度は大阪府や奈良県に匹敵する。生活圏の形成は、大山山麓(さんろく)での尖頭(せんとう)器の出土からみて縄文草創期にさかのぼる。縄文・弥生(やよい)時代の遺跡は日野高原や大山山麓、沿岸砂丘帯などに多い。その特色は、貝塚が少なく、米子市目久美(めぐみ)遺跡にみられるように、縄文前期の遺跡が標高5メートル以下の低地にも分布すること、銅鐸(どうたく)15例と銅剣・銅鉾(どうほこ)2例から、通説では畿内(きない)、北九州の両文化圏の漸移地帯にあたること、玉造(たまつくり)遺跡22例のほか、弥生中期以後の西日本最大級の集落遺跡として福市(ふくいち)遺跡、青木遺跡(ともに国の史跡)が発見されていること、山陽側との交流をうかがわせる分銅形土製品が出土していることなどである。湯梨浜(ゆりはま)町の長瀬高浜遺跡のような砂丘地帯の古墳期遺跡がみられることも特色である。ついで四隅突出型の阿弥大寺(あみだいじ)古墳群(国の史跡)などの墳丘墓時代を経て古墳時代になり、注目される点は、40メートル以上の大型古墳54中の70%が伯耆にあること、梶山(かじやま)古墳(国の史跡)など彩色装飾古墳や線刻装飾古墳数が50に上ること、北九州や朝鮮半島との関係を思わせる石馬(いしうま)(国の重要文化財)が出土していることなどである。また、倉吉市の不入岡(ふにおか)遺跡(国の史跡)は10棟の大規模倉庫(8、9世紀)が発掘されている。また、米子市、大山町にまたがる地域に妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)(国の史跡)があり、縄文時代の動物をとるための落し穴や弥生時代の墳丘墓、住居跡、古墳等が発掘されている。

 奈良時代の廃寺跡は、伯耆14、因幡13が確認されており、そのなかには、琴浦(ことうら)町の斎尾(さいのお)廃寺跡(特別史跡)や、伯耆国分寺跡、伯耆国府跡、国分尼寺であった可能性が考えられる法華寺畑遺跡、伯耆国庁跡や因幡国庁跡(以上、国の史跡)などがあり、律令(りつりょう)体制の盛時を物語る。伯耆守(ほうきのかみ)として山上憶良(やまのうえのおくら)、因幡守として大伴家持(おおとものやかもち)らの万葉歌人も来任し、家持が759年(天平宝字3)元旦(がんたん)に詠んだ歌は『万葉集』の最後を飾る歌となった。また、東大寺の因幡国高庭庄(たかにわのしょう)などが置かれたが、11世紀初頭には荒廃した。米子市の上淀廃寺(かみよどはいじ)(国の史跡)からは壁画が出土している。

 平安時代には、山岳信仰と結ばれた大山寺(だいせんじ)や三仏(さんぶつ)寺は天台密教の霊地となった。しかし律令制の乱れとともに院政初期以後に台頭した在地武士団や在庁官人の対立を背景に、寺院内部の抗争や両寺院の対立が激化した。1094年(嘉保1)の大山衆徒の上洛強訴(じょうらくごうそ)などはその現れである。

[岩永 實・豊島吉則]

中世

源平の争乱期には、大山寺と三仏寺は反平家勢力の拠点となったが、鎌倉時代になると、多かった皇室御領や大社寺領の荘園(しょうえん)内には、1258年(正嘉2)の「伯耆国河村郡東郷荘下地中分図(したじちゅうぶんず)」にみられるように、地頭(じとう)の私領化が進み、国衙(こくが)領にも同様な領主化が進んだ。

 南北朝の争乱時代になると、伯耆の豪族名和長年(なわながとし)は隠岐(おき)脱出の後醍醐(ごだいご)天皇を船上(せんじょう)山に迎え、北朝軍を破って建武(けんむ)新政の先駆となった。しかし、新政の挫折(ざせつ)と長年戦死後の1363年(正平18・貞治2)、山名時氏(ときうじ)は因幡、伯耆ほか3国の守護職を安堵(あんど)され、以後山名氏は約200年間因幡と伯耆を支配した。しかし応仁(おうにん)の乱(1467~1477)後、内部抗争によって山名氏が弱化すると、出雲京極(いずもきょうごく)氏の守護代尼子氏(あまごうじ)は東進を開始し、伯耆に次いで因幡も治下にした。やがて尼子氏にかわって安芸(あき)(広島県)の毛利氏(もうりうじ)が因幡に入り、鳥取城をその前進拠点とし、部将吉川経家(きっかわつねいえ)を城主とした。しかし1581年(天正9)鳥取城は羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に落とされ、因幡は織田氏の治下となり、伯耆の毛利氏と境を接することになった。

[岩永 實・豊島吉則]

近世

関ヶ原の戦い後、西軍にくみした因伯(いんぱく)の大名の多くは領地を没収され、かわって鳥取城に池田氏、若桜(わかさ)城に山崎氏、鹿野(しかの)城に亀井氏、米子城に中村氏が入城したが、1617年(元和3)因伯は姫路城主から鳥取城主となった池田光政(みつまさ)32万石の治下となった。さらに1632年(寛永9)光政は岡山へ移り、岡山から移封した池田光仲が鳥取城主となった。以後明治維新まで池田氏鳥取藩が続き、光仲を藩祖としている。藩制の特色は、家老筋に6か所の自分手(じぶんて)政治をゆだねていたことである。その間藩財政の窮乏打開のための請免(うけめん)法の施行をめぐり、1739年(元文4)には因伯両国に元文一揆(げんぶんいっき)(因伯一揆)が起こった。一方、国産奨励では弓ヶ浜の米川(よねかわ)用水の開削と新田開発、伯耆のたたら製鉄と綿業、因幡の和紙と木蝋(もくろう)などがあげられる。明治維新時、鳥取12代藩主慶徳(よしのり)は尊皇攘夷(じょうい)派で、朝廷と幕府や長州藩との間を周旋した。

[岩永 實・豊島吉則]

近・現代

1871年(明治4)の廃藩置県で鳥取藩は鳥取県となり、隠岐国を編入、ついで1876年には島根県に合併された。しかし共斃(きょうへい)社などによる旧士族団の抵抗もあり、1881年には鳥取県が再置された。一方、1883年には士族団が開拓農民となって北海道へ移住、鳥取村をつくり釧路(くしろ)市開発の先駆となった。産業開発では、在来の綿作と綿業にかわり、1891年以降は桑作と養蚕や製糸業が盛んになり、1904年(明治37)には千葉県松戸(まつど)から二十世紀ナシが移植され、まもなく全国首位の産地となった。1900年山陰線は資材輸送に便利な境(現、境港)から着工されたが、日清(にっしん)、日露の戦争に阻まれ、山陰線が全通したのは1912年で、中央市場との接触が後れたことは後進性の一要因となった。やがて満州事変を契機に境港は大陸貿易港、弓ヶ浜は空路基地として脚光を浴び、第二次世界大戦中・戦後も引き継がれた。

 第二次世界大戦後の農業は、農地解放の目標達成率133%という民主化を背景に、桑作にかわる二十世紀ナシ栽培の普及、人工灌漑(かんがい)による砂地農業や畜産などの進展が顕著である。一方、工業では、電機産業のほか、女性労働力を背景にした縫製品や繊維工業などが農工併進の形で拡散した。1966年(昭和41)には中海(なかうみ)地区新産業都市計画が実施され、菅沢(すげさわ)ダムによる発電や工業用水道、米子鉄工団地、境港木工団地などの整備が進行した。観光人口は1951年の300万人から2002年(平成14)には879万人となった。治水では1931年(昭和6)の千代川新流路通水、1934年の新袋(しんふくろ)川通水でいちおう完了した。一方、1943年の鳥取地震、1952年の鳥取大火災を契機に県都鳥取市は耐震耐火都市となり、やがて駅高架と駅周辺の再開発のほか、新都市開発整備事業を進めた。1972年には弓ヶ浜半島と島根半島とを結ぶ境水道大橋の完成、1992年には米子自動車道の全線開通、1994年の智頭(ちず)急行智頭線の全線開通等徐々に交通の整備が進行した。2000年に起きた鳥取県西部地震ではマグニチュード7.3、日野町、境港市で震度6強を記録した。死者はなかったが、住居の全・半壊、落石などによる鉄道・道路の不通、液状化現象による被害は大きく、県は防災体制、防災計画の見直しと構築を進めている。

[岩永 實・豊島吉則]

産業

鳥取県の産業構造を生産所得と就業人口の構成比からみると、農林水産業の第一次産業比が全国平均よりも高く、製造業・建設業などの第二次産業比は低い。近年サービス業などの第三次産業比は67.0%(2010)と高まっている。また1人当り県民所得は205万5000円(2010)で、1人当り国民所得の72.7%である。

[岩永 實・豊島吉則]

農業

山地が多く耕地率は10.6%、うち水田率は67.7%という水田卓越県で、大山山麓や砂丘地帯の畑地や樹園地の多いことが特色で、ナシやラッキョウ・スイカ栽培、ブロイラー飼育などは全国的にみても主産地形成が進んでいる。農業粗生産額の構成比からみると、米の26%に次いで野菜、果実の順である。おもな生産物は傾斜地利用の二十世紀ナシで、2003年(平成15)現在栽培面積1040ヘクタール、生産量2万3200トンで、全国総生産量の49.7%を占め、質・量ともに首位にあり、二十世紀ナシの花は県花とされている。ほかに北条(ほうじょう)砂丘のブドウ、東部八頭(やず)郡のカキがある。また、北栄(ほくえい)町を中心とするスイカは全国第4位で3万1600トンの生産量をもっている。福部(ふくべ)砂丘のラッキョウは全国第2位で3140トン、ナガイモは2350トン、ネギは全国第6位で1万4800トンで集団産地化が進んでいる(2001)。畜産では、かつての役肉牛の因伯牛から酪農と和牛の基礎牛の生産と育成にかわった。ブロイラーの生産は全国第9位(2002)にある。農家の経営規模は、1~2ヘクタール層が25.0%、専業農家は全農家中14.3%でほぼ安定している。また農業所得は全国平均より低いが、農業所得を主とする主業農家では全国平均を上回るという特徴がある。

[岩永 實・豊島吉則]

林業

東部の智頭(ちず)・若桜(わかさ)地方は、西日本有数のスギ、ヒノキの林業地で、温暖多雨な古生層山地は植林に適し、鳥取藩の奨励以来の挿木(さしき)苗の造林法が特色である。西部の日野山地は古来たたら製鉄用の木炭産地で、たたら衰退後は製炭中心地となったが、第二次世界大戦後の燃料革命で衰微した。2001年(平成13)現在の林業粗生産額は23億2000万円でうち7割が木材、2割がシイタケを主とした栽培キノコ類である。

[岩永 實・豊島吉則]

水産業

対馬(つしま)暖流とリマン寒流が合流して湧昇(ゆうしょう)する隠岐諸島付近の大陸棚は、その北方の大和堆(やまとたい)とともに好漁場をなし、境港は日本海沿岸最大の漁業根拠地となっている。イワシ、サバ、アジなどの大・中型巻網漁業のほか、ベニズワイガニ籠(かご)網漁業、沖合イカ釣り漁業の基地でもある。一方、沖合底引網漁業は、東部の網代(あじろ)、田後(たじり)、鳥取の各港が中心で、カレイ、マツバガニ(ズワイガニ)、ハタハタを主とするが、マツバガニは乱獲で漁獲量が減少傾向にあり、漁期の短縮や漁獲量の制限等を行い、資源保護を図っている。

[岩永 實・豊島吉則]

鉱業

日南(にちなん)町多里(たり)にある若松・広瀬のクロム鉱山は、かつて耐火れんが用原料として全国首位の生産量を誇っていたが、輸入鉱石に押され閉山した。また人形(にんぎょう)峠、東郷などの堆積型ウラン鉱床の推定埋蔵量は約495万トンとされ、岡山県側の動力炉・核燃料開発事業団人形峠事業所(のちの核燃料サイクル開発機構。現、日本原子力研究開発機構の人形峠環境技術センター)では、1979年(昭和54)から2001年(平成13)までウラン濃縮プラントの運転が行われていた。なお岐阜県の東濃鉱山の発見により、埋蔵量は全国第2位となった。

[岩永 實・豊島吉則]

工業

工業製品の出荷額からみると、近年の不況の影響もあり、停滞傾向にある。出荷額順にあげると、(1)電子部品・デバイス、(2)食料品、(3)飲料・タバコ・飼料、(4)電気機械、(5)情報通信機械となっており、電子部品・デバイスがもっとも出荷額が多く、製造品の28.9%を占め、2968億円であった(2002)。鳥取県は鳥取市を中心とする東部、倉吉市を中心とする中部、米子市、境港市を中心とする西部の3地域に分けられるが、鳥取三洋電機とその関連企業などのある東部と、全国有数の水揚げ漁獲と結合した水産加工の西部が対照的である。なお、東部が出荷額では47.3%(中部12.8%、西部39.9%)、製造業事業所数では44.0%(中部20.7%、西部35.3%)、同従事者数では47.0%(中部18.9%、西部34.1%)と、高い構成比(2002)を示し、1990~1997年度間の誘致企業数144中41.0%を占めているのは、国道29号と中国自動車道の開通による京阪神との時間的距離の短縮による。

[岩永 實・豊島吉則]

開発

鳥取県では、国際貿易港である境港を中心に、世界各国との経済交流をさらに進めるため、さまざまな取組みを進めている。

 境港を中心とする地域では、新しい整備計画「FAZ計画(輸入促進地域計画)」が1995年(平成7)に国の承認を受けて動き出しており、日本海を取り巻く国々の国際貿易の拠点となるよう、港湾・空港およびその周辺地域の整備が進んでいる。港湾施設では、境港外港で4万トン岸壁、1万トン岸壁が供用されており、2004年には5万トン岸壁も供用開始された。ほかに、大型クレーンが整備されており、倉庫、流通加工施設や、輸入品取扱企業の集積を進めている。また、米子市では1998年に米子コンベンションセンター「ビッグシップ」が開館した。また、新しい国際定期航路の開設も進めており、あわせて空港の国際化や鉄道、高速道路、航空網など、関西・山陽地方、ひいては全国各地域との高速交通ネットワークの構築を進めている。空港では、米子空港の2000メートル滑走路が1996年に完成、2009年には2500メートルに延長され、供用を開始した。この延長にともない、JR境線の路線が変更され、米子空港駅(旧、大篠津駅)が2008年に移転・開業している。

 このほか、鉄道では1994年(平成6)の智頭急行智頭線(鳥取県智頭町―兵庫県上郡(かみごおり)町)の開通、高速道路網等の整備では、中国横断自動車道米子―岡山線の開通により山陽・四国との交流が活発になっている。現在、中国横断自動車道姫路―鳥取線や、鳥取―米子間の自動車専用道の早期開通が望まれている。重要港湾鳥取港も、大型岸壁の整備により物流拠点として供用開始されており、国内はもとより対岸諸国からの貨物船が入港している。

[岩永 實・豊島吉則]

交通

鳥取、倉吉、米子の3市は、東西系のJR山陰本線や国道9号で結ばれる。山陰と山陽を連絡する南北系の交通路は、東からJR因美(いんび)線、国道29号・373号・53号・179号・313号、JR伯備線、国道181号・180号・183号などがあり、中国自動車道や東海道・山陽新幹線と連接している。鉄道では、1982年に電化した伯備線を除きほかは複線電化が課題である。第三セクターによる智頭急行智頭線が1994年(平成6)完成。米子自動車道開通、米子―大阪・京都が約3時間で結ばれている。鳥取自動車道で中国自動車道、山陰自動車道と接続。山陰近畿自動車道、江府三次道路などが走る。なお、鳥取空港は東京と、米子空港は東京・ソウル・香港と結ばれている。

[岩永 實・豊島吉則]

社会・文化

教育・文化

藩校尚徳館(しょうとくかん)は1757年(宝暦7)から1870年(明治3)の間、藩士と子弟の教育にあたった。一方、幕末には約300の寺子屋があった。その間、鳥取藩医の稲村三伯(いなむらさんぱく)は大槻玄沢(おおつきげんたく)に蘭学(らんがく)を学び、辞書『波留麻和解(ハルマわげ)』(1791)を著し、歌人香川景樹(かがわかげき)は桂園(けいえん)派の祖となった。明治時代になると、尚徳館は師範教育に次いで中学校教育の発祥地となった。以後輩出したおもな学者や文化人は、日本初の理学博士村岡範為馳(はんいち)、唱歌の作曲家田村虎蔵(とらぞう)・岡野貞一(ていいち)、詩人生田春月(いくたしゅんげつ)・伊良子清白(いらこせいはく)、俳人尾崎放哉(ほうさい)、洋画家前田寛治(かんじ)、日本画家菅楯彦(すがたてひこ)、憲法学者佐々木惣一(そういち)、精神医学者橋田邦彦(くにひこ)らである。

 高等教育機関は、1876年(明治9)に鳥取師範学校、1921年(大正10)に鳥取高等農林学校、1926年に鳥取県女子師範学校、1945年(昭和20)に米子医学専門学校が設立され、第二次世界大戦後、鳥取高等農林、米子医専などを統合して国立鳥取大学が創設された。このほかに公立鳥取環境大学、国立米子工業高等専門学校、鳥取短期大学がある(2018)。文化施設には、県立の博物館、図書館、とっとり花回廊、大山自然歴史館、山陰海岸学習館、公立の歴史民俗資料館など、私立の鳥取民芸美術館、渡辺美術館などがある。

 新聞は、『日本海新聞』がある。前身は1883年(明治16)創刊の『山陰隔日新報』である。1885年(明治18)廃刊、『鳥取新報』と改題。1939年(昭和14)に『因伯時報』(1892)、『山陰日日新聞』(1908)と合同し、『日本海新聞』(一時『山陰同盟日本海新聞』)となった(1946年米子で創刊の『山陰日日新聞』は1963年合併)。1975年(昭和50)経営難で休刊、同年設立の新日本海新聞社に翌1976年引き継がれ『日本海新聞』を再刊した。放送は、NHK鳥取支局が1936年(昭和11)に、ラジオ山陰(現、山陰放送)が1953年に、日本海テレビジョン放送が1958年に開局、テレビ放送については3局とも1959年に開始した。

[岩永 實・豊島吉則]

生活文化

因幡と東伯耆、西伯耆の3地域社会に分かれ、地域性を異にする。方言は因幡と東伯耆が但馬(たじま)(兵庫県)を含む東部山陰方言に、西伯耆は出雲(いずも)(島根県)を含む雲伯(うんぱく)方言に属する。一方、県南の岡山県と接する地域のうちでも、因幡と東伯耆の場合は美作(みまさか)方言が、西伯耆の場合は備中(びっちゅう)方言が複合しているが、峠が低く日本海側と瀬戸内海側との交流が密であった西伯耆の場合は、備中方言との複合地帯の幅が広い。また大山以東の山地に多い木地師(きじし)起源の集落に対し、以西の日野山地では製鉄に関連するたたら、かんななどの小字(こあざ)名と金屋子神祠(かなやごのかみのほこら)の分布が多い。

 衣生活では、晴れ着や普段着と仕事着があり、大正期までの普段着は手紡ぎや手織りの木綿、麻が主で、雪の下では綿入れの胴服(どうぶく)や袖(そで)なしを重ねて着た。水田地帯の野良着(のらぎ)は、紺か縞(しま)の木綿の筒袖(つつそで)か法被(はっぴ)で、山仕事はつづれにももひき、パッチをはいた。しかし漁師はそれをはかず、厚手のさくりや刺子(さしこ)を長めに着用し、冬は綿入れの袖なしを重ねて着た。冬の履き物では藁(わら)製のふんごみ(雪靴)やかんじき(雪輪)、雨具ではスゲ製のひねりみの、雪用には胴丸(若桜町)や防寒用のオッボ(倉吉市関金町地区)を着た。

 第二次世界大戦前の農村の食生活は、麦米の混食が一般的で、いもやイリゴ(屑(くず)米)の粉でこねた餅(もち)ヤキモン(因幡)、イスンカダンゴ(伯耆)などのほか、粟(あわ)餅、栃(とち)餅、サツマイモの切干しを煮て粥(かゆ)にしたネボシ(弓ヶ浜)などの代用食があった。漁村ではダイコンやサツマイモなどの葉を混ぜた菜飯(なめし)や、海藻を混ぜたヒジキ飯、貝を混ぜたイガイ飯もあった。また副食には糠漬(ぬかづ)けの保存食ヘシコイワシ、甘味料にはギョウセン飴(あめ)(鳥取市三山口(みやまぐち))、甘茶、カキの皮などがあった。

 民家の屋根は多雨多雪に備えて一般に急傾斜で、材料は平野部では藁、山間部では茅(かや)や笹(ささ)、奥地ではささ板や杉皮、石などをのせた屋根が混在した。屋根型は東伯耆の天神川以東は入母屋(いりもや)圏で、山間地域では角材千木(ちぎ)型(烏踊(からすおどり))、天神川以西の伯耆は寄棟(よせむね)圏で、とくに日野川流域では赤瓦(あかがわら)をのせた箱棟型が特色であった。冬の北西季節風が強い大山北麓(ほくろく)の集落では、防風林を巡らし、因幡東部の深雪地の民家では雪囲いで周りを囲むほか、若桜町の民家では道路側に雁屋(かりや)(雁木(がんぎ))を付設するなど、北陸的な地域性がみられた。農家の間取りは一般に座敷と土間を等分した四間取りが多く、トノグチ(玄関)に近く内厩(うちまや)(牛馬小屋)と通ずる小便所を設けていた。いろりには神棚を背に主人のヨコザがあり、ほかの座名は因幡と伯耆では異にした。

[岩永 實・豊島吉則]

民俗芸能

年頭に年神(としがみ)を迎え(南部(なんぶ)町、若桜町)、年神を送るトンドウ(鳥取市、米子市)が済むと、作柄を占う管粥(くだがゆ)の神事(倉吉市、大山町)がある。3月終わりに八頭町で行われる茂田神社(もだじんじゃ)の春祭では榊神輿(さかきみこし)が集落内を練り歩く。旧暦の3月3日に人形に穢(けがれ)を移して流すひな送り(鳥取市)や旧3月15日には九品山会式(えしき)で流れ灌頂大施餓鬼供養(かんじょうだいせがきくよう)が行われる(湯梨浜(ゆりはま)町)。4月の春祭では、4台の屋台を出す城山神社祭(鳥取市)と、神官が矢を射て悪疫を払い豊凶を占う百手の神事(ももてのしんじ)(鳥取市姫路神社)がある。5月には三朝(みささ)町の陣所(じんしょ)とよぶ綱引き(国の選択無形民俗文化財)、旧暦5月には鳥取市、岩美(いわみ)町の菖蒲(しょうぶ)綱とよぶ綱引き(国の重要無形民俗文化財)があり、6月の大山山開きでは山頂の梵字(ぼんじ)ヶ池の水をくむ古式の「もひ取り」(弥山禅定(みせんぜんじょう))神事が行われる。7月には茅の輪(ちのわ)くぐりのあと人形(ひとがた)を流す祭り(米子市、琴浦(ことうら)町)があり、月末から8月の盆にかけては、流れ灌頂(米子市淀江町)や、琴浦町のコナカリサン(この明かりをめどにと呼びかける仏迎えと仏送りの行事)があり、9月の仲秋の名月の日には因幡の古寺摩尼寺(まにでら)(鳥取市)でヘチマ供養が行われる。旧暦9月には高杉神社(大山町)の嫐神事(うわなりしんじ)がある。神がかりした氏子3人が正室の細(くわし)姫と側室の松姫、千代姫になり、嫉妬(しっと)して互いに打ち合い、神官が正室に勝ちを宣して鎮めるという神事。10月には主神の乗った船をタコが護(まも)ったとの由来から、伯耆(ほうき)町福岡神社の蛸舞(たこまい)式が行われる。秋祭の季節を迎えると、因幡南部の智頭町一帯では花籠(はなかご)祭りがあり、鳥取市では旧暦の10月に復活した亥の子(いのこ)行事もみられる。12月には西伯耆の各地で収穫感謝の申上げ祭りが催され、藁蛇(わらへび)を供えての荒神や水神の祭りがみられる。ともあれ、ひな流しや流れ灌頂、精霊(しょうりょう)送りなどには、『伯耆国風土記(ふどき)』逸文の少彦名命(すくなひこなのみこと)が常世(とこよ)に渡る神話に読み取られるように、海上他界信仰がみられる。一方、大山や摩尼山などには山中他界信仰の存在を思わせるものがある。また、荒神や塞神(さえのかみ)信仰が雲伯方言と同じく西伯耆以西に多いことが注目される。

 県指定の無形民俗文化財の踊りは傘踊りと手踊りからなる。因幡の傘踊り(鳥取市)は、神前で雨乞(あまご)い踊りに狂死した五郎作老人慰霊のため、江戸末期に始まり、明治中期に剣舞の型を入れたものと伝える。それを群舞に改作したものが8月16日の鳥取しゃんしゃん祭である。日置(ひおき)のはねそ踊り(鳥取市)は、江戸中期に因幡に普及した踊りの名残(なごり)で、青竹を依代(よりしろ)として立てた梵天(ぼんてん)の周囲で踊る。牧谷のはねそ踊り(まきだにのはねそおどり)(岩美町)は古い伝承で、長柄(ながえ)傘の女と編笠(あみがさ)の女が一対となって踊る。そのほか、タカの餌(えさ)を鳥もちで刺してとる狂言風の踊りさいとりさし(三朝町、倉吉市)、念力節(がんりきぶし)につれて所作をする鳥取市の円通寺人形芝居(県指定無形民俗文化財)、落人(おちゅうど)慰霊の念仏踊りといえる江尾(えび)のこだいぢ踊り(江府(こうふ)町)、亀井踊(鳥取市)、浪人踊(湯梨浜町)がある。獅子舞(ししまい)には、鳥取市の大和佐美命(おおわさみのみこと)神社の獅子舞(県指定無形民俗文化財)のように、立耳との間に一角をもつ麒麟(きりん)獅子と朱面の猩々(しょうじょう)とによる舞いと、垂れ耳で無角の神楽(かぐら)獅子とときに鶏(とり)かぶとをかぶる天狗(てんぐ)面とによる舞いがある。麒麟獅子は正倉院御物や隠岐国分寺に保存され、大陸渡来を思わせ、分布は因幡と但馬で知られている。

 現存する神楽は、日野郡の日南神楽(日南町)や、下蚊屋荒神(さがりがやこうじん)神楽などで、大蛇(おろち)退治や神能杵築(きづき)、八重垣(やえがき)などを上演する。

[岩永 實・豊島吉則]

文化財

特別天然記念物のダイセンキャラボク純林は大山頂上付近にあり、オオサンショウウオは伯耆南部の渓流に生息する。特別史跡斎尾廃寺跡(さいのおはいじあと)(琴浦町)は、法隆寺式伽藍(がらん)配置で白鳳(はくほう)時代の創立と推定。国の名勝・史跡の三徳山(みとくさん)(三朝町)内の国宝建造物三仏寺奥院(投入(なげいれ)堂)は8世紀初めの建築と伝えられ、三仏寺納経堂、地蔵堂、文殊堂は国の重要文化財。大山寺の阿弥陀(あみだ)堂(国の重要文化財)の原型も12世紀前半と考えられている。これらは平安時代の山岳仏教史上貴重な文化財である。同様に智頭町豊乗寺(ぶじょうじ)の絹本著色普賢菩薩(ふげんぼさつ)像(国宝、平安時代)は金銀の切金細工(きりかねざいく)の文様で彩られた仏画の優秀作。東郷町の伯耆一宮経塚(ほうきいちのみやきょうづか)出土品は康和(こうわ)5年(1103)在銘の経筒ほか9点で、その価値は高く、国宝に指定されている。このほか、江戸時代には因幡東照宮とよばれた樗谿(おうちだに)神社の本殿・唐門などや、福田家住宅・後藤家住宅など江戸時代の民家建築、明治建築の仁風閣(じんぷうかく)などが国の重要文化財に指定されている。

[岩永 實・豊島吉則]

伝説

鳥取市湖山(こやま)の「宇文の長者(うぶみのちょうじゃ)」は古くから知られている伝説である。湖山池の周辺にはすくも塚や長者の墓など、長者にまつわるものが多い。田植の際に長者が沈む太陽を扇で呼び戻し、その天罰で没落したという。これは柳田国男(やなぎたくにお)が『日を招く話』で指摘しているように、全国に流布する伝説である。米子市の安養(あんよう)寺には歯形の栗(くり)の話がある。「瓊子姫(たまこひめ)」は、隠岐へ配流になった後醍醐(ごだいご)帝の内親王。父帝を慕って車尾(くずも)まできたが、供を許されず、髪を切って尼僧となり、隠岐の見える地に庵(いおり)を結んだ。あるとき、栗を献じられ、この栗が芽生えたなら父帝の還御がかなうであろうと、栗を皮のままかみ砕き、祈願を込めて植えたのが芽生えて実を結んだという。県西部の豪円山(ごうえんざん)(大山(だいせん)町)の山頂に「豪僧豪円」の地蔵が立っている。関ヶ原の戦い後の国替のとき、米子中村藩は大山寺領の取り込みを図った。住職の豪円はその圧力に屈せず抗議し、その怨念(おんねん)によって藩主は死に中村氏は断絶し、寺領は安堵(あんど)になったという。県東部の岡益(おかます)の里(鳥取市国府町)に「安徳(あんとく)天皇御陵参考地」がある。台地にある謎(なぞ)の石堂が陵墓に擬せられたのは明治になってからのことである。平家一族とともに海底に沈んだ幼帝の後を追った祖母二位局(にいのつぼね)は、泉ヶ谷に葬られたと伝えている。鳥取砂丘の裏に「多鯰ヶ池(たね)」という池がある。宮下の長者の娘お種は、前世の因縁により大蛇になる宿命にあり、あるとき池に飛び込んでそこの主(ぬし)になった。それからその池を多鯰ヶ池とよぶようになったという。湯梨浜(ゆりはま)町に羽衣石(うえし)という地名があり、付近の大岩は天女が羽衣(はごろも)を干した所と伝えている。天女は羽衣を隠した男の女房になって子を生(な)したが、やがて羽衣をみつけだして天へ帰るという、諸国にある「天人女房」と同じである。

[武田静澄]

『『鳥取県史』全18冊(1967~1982・鳥取県)』『四宮守正著『日本の民俗 鳥取』(1972・第一法規出版)』『岩永實著『鳥取県地誌考』(1978・記念論文集刊行会)』『野津龍著『生きている民俗探訪 鳥取』(1982・第一法規出版)』『野田久男・清水真一著『日本の古代遺跡9 鳥取』(1983・保育社)』『『角川日本地名大辞典31 鳥取県』(1982・角川書店)』『『鳥取県大百科事典』(1984・新日本海新聞社)』『『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』(1992・平凡社)』『豊島吉則編『ビジュアルにっぽん再発見鳥取県』(1997・同朋舎)』『内藤正中他著『鳥取県の歴史』(1997・山川出版社)』『平山輝男他編『鳥取県のことば』(1998・明治書院)』


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緑酒

〘名〙 緑色の酒。よい酒。うまい酒の色としていう。※菅家文草(900頃)五・雨晴対月「緑酒猶催醒後盞、珠簾未レ下暁来鈎」※一高寮歌・嗚呼玉杯に花うけて(1902)〈矢野勘治〉「嗚呼玉杯に花うけて 緑酒...

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