自由民主党(読み)じゆうみんしゅとう

精選版 日本国語大辞典 「自由民主党」の意味・読み・例文・類語

じゆうみんしゅ‐とう ジイウミンシュタウ【自由民主党】

昭和三〇年(一九五五日本自由党日本民主党とが合同して結成した保守政党。初代総裁は鳩山一郎。自民党。

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デジタル大辞泉 「自由民主党」の意味・読み・例文・類語

じゆうみんしゅ‐とう〔ジイウミンシユタウ〕【自由民主党】

昭和30年(1955)自由党日本民主党が合同して結成した保守政党。初代総裁鳩山一郎。以降、財界の利益を代表しつつ、福祉社会保障の拡充などにも努めて長く政権を担当。平成5年(1993)に下野するが、平成6年(1994)政権に復帰。小泉純一郎政権のころから新自由主義の政策に転換を図るも、平成21年(2009)の総選挙民主党に大敗し、再び下野した。平成24年(2012)に政権を奪還。自民党。
ドイツの中道右派政党。1948年設立。以来、キリスト教民主同盟社会民主党のどちらかと組み、連立与党である期間が長い。FDPエフデーペー(Freie Demokratische Partei)。
英国の中道政党。かつての二大政党の一翼ながら衰退していた自由党が、労働党を離脱した社会民主党と1988年に合同し、社会自由民主党として結成。翌年に改称。小選挙区制のため得票率の割に議席数は伸び悩むが、2010年に保守党と連立しキャメロン政権の与党となった。

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百科事典マイペディア 「自由民主党」の意味・わかりやすい解説

自由民主党【じゆうみんしゅとう】

自民党と略称。1955年11月吉田茂緒方竹虎の自由党と鳩山一郎日本民主党とが合同して結成された保守政党。綱領は,文化的民主国家の完成,自由独立の完成,民生の安定と福祉国家の完成など。同年10月の左右両派合同による日本社会党結成は保守陣営に衝撃を与え,特に保守政権の安定を望む財界からの強い要求もあって保守合同が実現した(55年体制)。この結果衆議院議員は300名となり,これを基盤に第三次鳩山一郎内閣が成立。1956年4月鳩山が党総裁に就任し,綱領に憲法改正,安保体制堅持などをかかげた。のち石橋湛山(たんざん)(1956年12月),岸信介(1957年),池田勇人(はやと)(1960年)がそれぞれ総裁となり組閣。池田は所得倍増政策をかかげ高度経済成長を軌道にのせたが,のち官僚派の佐藤栄作と党人派の河野一郎との対立を中心に派閥抗争が激化,池田の推薦で1964年佐藤が首相,総裁となる。 自民党は1969年末の総選挙でも第一党となり1970年1月第三次佐藤栄作内閣が成立,さらに同年10月佐藤は4度総裁に選ばれたが,1972年6月辞任,代わって田中角栄が総裁に選出された。1974年,金権・金脈体質を指弾されて田中角栄総裁が辞任。代わって三木武夫が総裁に選ばれたが,1976年のロッキード事件の処理をめぐって党内で三木降し工作が行われ福田赳夫(たけお)に代わった。同年,河野洋平らは離党し新自由クラブを結成。1978年,初の全党員参加による総裁選挙が行われ,大平正芳が総裁に就任。その後,鈴木善幸(ぜんこう),中曾根康弘竹下登宇野宗佑(そうすけ),海部俊樹宮沢喜一,河野洋平が総裁に就任。1983年―1986年には新自由クラブとの連立内閣を結成したが,長期間の実質的な自民党一党支配は,省庁の官僚機構との結合を前提に,派閥ごとの後援会や業界団体との連携を介する集票と利益分配のシステムに支えられてきた。長期にわたる政権独占は必然的にさまざまの腐敗をもたらした。 1993年,新生党新党さきがけの分離により衆議院で過半数を維持できず,細川護煕(もりひろ)を首班とする非自民連立内閣の成立により野党となった。しかし1994年日本社会党,新党さきがけと連立し与党に復帰。1995年橋本龍太郎が総裁に就任,1996年村山富市首相の辞任を受けて首相について自民党主導の政権を復活させた。橋本は第二次まで内閣を率いたが,1998年7月の参議院選挙で自民党が大敗したため総裁を辞任,同時に内閣総辞職し,自民党総裁,内閣総理大臣には小渕恵三(おぶちけいぞう)が就任した。小渕恵三内閣は,発足当初は自民党単独であったが,1999年に自由党,さらに公明党と連立した。2000年小渕首相の病気入院による退陣を受けて森喜朗内閣が成立したが,低支持率に陥り,2001年に小泉純一郎が総裁・首相に選出,2003年再選された。2005年に衆議院選挙(郵政選挙)で圧勝したが,2007年小泉退任後総裁・首相に選任された安倍晋三は,参議院選挙で惨敗し結党以来初めて,参議院で第一党から転落,その後,福田康夫麻生太郎と総裁・首相が毎年替わる事態が続き,支持率が低迷。2009年8月の衆議院総選挙で,獲得議席119で,民主党に歴史的な大敗を喫し,野党に転落した。しかし,2010年7月の参議院選挙で51議席を獲得,改選第一党となり,与党を参院過半数割れに追い込んだ。さらに地方選でも勝利し党勢を回復基調とした。2012年12月の衆院選では,谷垣禎一の後を襲った安倍晋三総裁のもとで294議席を獲得,第一党の座を奪還,公明党との連立で第二次安倍晋三内閣を発足させた。議席数では自民党の圧勝となったが,投票率は歴史的な政権交代となった前回に比べて10ポイント下落の59.32%と過去最低であり,自民党も比例区の得票を減らす結果となっている。これは前回民主党を支持した無党派層が民主党政権に失望して投票に行かず,さらに第3極の新党や少数政党が乱立して選挙戦の争点が焦点化されないまま,自民党が漁夫の利を得た結果。2013年7月の参院選では自民党が現行制度下では最多となる65議席を獲得し参議院でも第一党に返り咲き,自公与党が多数を占める。2014年12月の衆院選では単独で絶対安定多数の266を超える291議席となり政権与党としては公明と合わせて議席数の3分の2を超える。ただしこの衆院選の投票率も,戦後最低だった前回2012年の59.32%を大きく下回る52.66%で最低記録を更新した。
→関連項目池田勇人内閣石橋湛山内閣宇都宮徳馬宇野宗佑内閣大平正芳内閣岡田克也小沢一郎海部俊樹内閣岸信介内閣自由党(日本)新進党鈴木善幸内閣竹下登内閣武村正義田中角栄内閣中曾根康弘内閣二階堂進日本日本維新の会橋下徹橋本龍太郎内閣羽田孜鳩山由紀夫福田赳夫内閣藤山愛一郎細川護煕内閣松村謙三三木武夫内閣宮沢喜一内閣民主党(日本)村山富市内閣森喜朗

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改訂新版 世界大百科事典 「自由民主党」の意味・わかりやすい解説

自由民主党 (じゆうみんしゅとう)

日本の保守党。略称自民党。1955年11月15日に結成された。自民党は敗戦の1945年以降,昭和20年代を通じ離合集散を繰り返した保守諸党が合同した保守単一政党であった。時を同じくして左右両派を統一した日本社会党と二大政党制(政党制)を形成し,〈55年体制〉と呼ばれた。しかしその実質は,11/2政党制であり,自民党は以後38年間,単独政権の座を保持し長期支配を続けた。この間,93年の分裂,野党への転落にいたるまでに,76年に小分裂が起こり新自由クラブが結成されたが,83年12月,自民党はその新自クと結成以来初の小連立を成立させ,やがて86年には新自クを解消させ吸収した。

昭和20年代の末期,保守政治勢力は吉田茂自由党鳩山一郎民主党の対立に二分された。吉田長期政権が退陣して鳩山民主党内閣となり,自由党総裁は緒方竹虎に代わって,保守合同の機運が強まった。熱心な推進者は三木武吉であったが,その背景には,再建から発展過程にはいった日本資本主義を支える保守政治勢力の結集を望み,同時に左翼勢力の伸張傾向に危機感を強める財界の強い意向があった。このため,保守合同-自民党結成は,自由,民主両党の対立感情を残したまま,理論的にも組織的にも急造・速成の弊を免れなかった。そうした経緯と体質が,その後の自民党の歩みにさまざまな影響を及ぼすことになった。さらに党結成の際導入された総裁公選制が,衆院の中選挙区単記制と相まって,激烈な総裁争いと派閥政治を生み出したことも指摘しておく。

 党綱領は次の3項から成る。〈一,わが党は,民主主義の理念を基調として諸般の制度,機構を刷新改善し,文化的民主国家の完成を期する 一,わが党は,平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して,国際関係を是正し,調整し,自主独立の完成を期する 一,わが党は,公共の福祉を規範とし,個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し,民生の安定と福祉国家の完成を期する〉。文化的民主国家,自主独立,福祉国家の3本柱は,きわめて常識的かつ抽象的な表現である。しかしこの綱領を受けた〈党の政綱〉は,策定当時も難航し,その後も論議の的となってきた。(1)国民道義の確立と教育の改革,(2)政官界の刷新,(3)経済自立の達成,(4)福祉社会の建設,(5)平和外交の積極的展開,(6)独立体制の整備--の6項目であるが,最大の問題点は第6項で,その内容は〈平和主義,民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ,現行憲法の自主的改正をはかり,また占領諸法制を再検討し,国情に即してこれが改廃を行う。世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保障するため,集団安全保障の下,国情に相応した自衛軍備を整え,駐留外国軍隊の撤退に備える〉となっている。

 この項目は結党当時,改憲-再軍備を強く主張した鳩山,重光葵(まもる),岸信介らの民主党と,改憲に消極的で経済再建の政治路線をとった吉田自由党との妥協の産物であった。ようやく最終項にはいったとはいえ,政綱に掲げられた以上,憲法改正が自民党の大きな政治目標となったことは間違いない。党発足後の数年間,鳩山,岸両政権のもとで,改憲の企て,その準備としての小選挙区制,警察官職務執行法改正などの努力が続けられ,また新日米安全保障条約が締結されたのは,この政綱線上のものであった。

 しかし60年安保後,吉田直系の池田勇人佐藤栄作が相次いで党総裁となり政権を担当すると,護憲勢力と国論二分の激突を招く憲法改正の試みは棚上げされ,自民党は軽軍備,経済発展優先の政治路線をとってひたすら経済大国への道を走った。といっても政綱に掲げた党の改憲志向は根強く,今後も機を見て改憲の動きが表面化する可能性は十分ある。

自民党は,長く保守単一政党,最大の資本主義政党として,いわゆる財界の強力な支持を基盤としてきた。また戦後の農地改革によって,有産化,保守化した農業者の伝統的支持も強力な票田である。1960年代から70年代前半にかけての高度経済成長と,それに伴う急激な人口移動,農村人口の都市流入によって,自民党の農村優位はやや揺らいだが,現在は小康状態にある。また自民党単独の政権が長期化するにつれ,官僚機構と党支配の癒着が進行し,農業補助金や公共事業費などの予算配分を通じて,いわゆる〈票とカネ〉の循環による自民党支配が定着していったのも事実である。政官財三位一体の癒着といわれる現象である。

 一党支配の長期化,政権交代のない議会政治は,必然的に歪曲され腐敗する。一党支配が逆にその腐敗を覆い隠すという面もあったが,20年余を経て自民党の金権腐敗はロッキード事件という形で76年に一挙に暴露された。この大ショックにもかかわらず,自民党の長期政権,野党の分裂,多党化がなお10年余も続いた原因の一つは,自民党が党内派閥による擬似政権交代を巧みに演じてきたことによるとみられる。

 自民党の派閥はなぜ生まれ,しかも党中党の観を呈するようになったか。第1に,党結成が急造・速成で,自由,民主両党の対立はもとより,右から左までの雑多な保守理念が持ち込まれたこと。第2に,総裁公選制の導入が,長く続いた中選挙区制と相まって党中党の派閥形成を促進したことが原因であろう。3~5人の中選挙区制では,同じ選挙区で同じ自民党の複数候補が争うことになる。資金や支持票を求めて,甲候補が党のA実力者に頼れば,乙候補は対抗上B有力者の支援を仰ぐ。党のA,B,Cの有力指導者は,総裁公選で多数議員の支持を得て総裁の座を獲得するため,子分議員の育成に狂奔しなければならない。親分と子分の利害が一致してここに党内派閥が誕生する。

 自民党の派閥は,1956年12月の第1回総裁公選で,岸,石橋湛山,石井光次郎の三つどもえの激戦から石橋第2代総裁(初代総裁は鳩山)の誕生,57年2月,石橋病気退陣のあとの岸第3代総裁の登場にかけて形成された。岸信介,池田勇人,佐藤栄作,河野一郎,三木武夫,石井光次郎,大野伴睦,石橋湛山の各実力者が率いるいわゆる8個師団であった。以来約30年の離合集散を経て,1985年ごろには,岸-福田赳夫,池田-鈴木善幸,佐藤-田中角栄,河野-中曾根康弘,三木-河本敏夫の五大派閥となっていた。他の群小派閥はすでに消え去ったが,五つの派閥のみごとな系譜継承といえよう。しかも,岸から池田第4代,池田から佐藤第5代と,60年安保から巧みに高度経済成長政策に転換し,池田-佐藤合計12年の自民党黄金時代を築いた。その後も,第6代田中,第7代三木,第8代福田,第9代大平正芳,第10代鈴木,第11代中曾根と,党首交代による局面転換の妙を演じて自民党の命脈を保ってきた。

 しかし,中曾根政権5年のあとの第12代竹下登総裁下の88年,リクルート事件が暴露されるに及んで自民党政権は崩壊の道を辿った。翌89年(平成1年)以降,第13代宇野宗佑,14代海部俊樹,15代宮沢喜一に至り,佐川急便事件など腐敗の連続,政治改革を求める世論のなかで,ついに党の分裂を招き,93年総選挙で過半数を割り,38年間の長期政権に終止符を打った。ただし,後継の細川護煕,羽田孜の両非自民連立政権は,内紛と弱体のため1年足らずの短命に終わり,94年7月,自民党は村山富市社会党委員長首班の連立政権に参加し,96年総選挙の結果,橋本竜太郎総裁のもと単独政権として復活した。

 この動揺の数年間,派閥政治の弊はやや薄れたが,橋本政権以後復活の気配がある。また自民党の金権政治体質もなお根強い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「自由民主党」の意味・わかりやすい解説

自由民主党
じゆうみんしゅとう

日本の政党。保守政党。第2次世界大戦後の保守合同以来,長期間政権の座を占め,日本の政治を支配した。1955年11月,自由党日本民主党が合同して結成された。結成当初は総裁を置かず,鳩山一郎緒方竹虎三木武吉大野伴睦が総裁代行委員となったが,1956年4月の総裁選挙で鳩山一郎が初代総裁に就任。その後,1983年の新自由クラブとの連合を除き,1993年まで単独政権を維持した。鳩山内閣は 1956年に日ソ共同宣言に調印した。岸信介内閣は 1960年に日米安全保障条約の改定を行ない(→安保改定問題),池田勇人内閣は 1964年に経済協力開発機構 OECDに加盟,佐藤栄作内閣は 1972年5月に沖縄返還を実現した。また,同 1972年7月に成立した田中角栄内閣は 9月に日中国交正常化(→日中共同声明)を実現するなど,戦後日本政治史の大きな部分で,政権担当政党としての役割を果たした。最大の保守政党として,財界の強力な支持のみならず,建設業者,中小企業者,農業従事者の支持を集めた。最初の総裁選から有力政治家中心の党内派閥が明確なかたちをとり,当初成立した 8派閥は合従連衡を繰り返したが,弱小派閥の淘汰と世代交代により,1970年代以降には五大派閥に整理され,福田赳夫(岸信介派),大平正芳(池田勇人派),田中角栄(佐藤栄作派),中曽根康弘河野一郎派),三木武夫(三木派)が各派閥の領袖を引き継ぎ,総裁・内閣総理大臣を務めた。
1993年7月の衆議院議員総選挙で単独過半数割れとなったため,非自民・非共産による細川護煕連立内閣が成立,保守合同以来 38年ぶりに野党に転落,「55年体制」と称された長期政権は終わった。1994年日本社会党村山富市を首相とする社会党(→社会民主党),自民党,新党さきがけによる 3党連立内閣で政権政党に復帰。1996年1月に橋本龍太郎内閣が成立した。同 1996年10月の総選挙後に社会民主党,新党さきがけが閣外協力に転じ,少数単独政権となったが,1998年に成立した小渕恵三内閣は 1999年に自由党(2000離脱),公明党保守党(2000より参加)と組んで政権基盤を固めた。2001年小泉純一郎が政権の座につくと経済と行財政の構造改革を推進,派閥政治打破で歴史的な役割を果たした。2005年郵政民営化の是非を国民に問う総選挙で圧勝,15年ぶりに単独で衆議院の過半数を占めた。しかし小泉後,構造改革のひずみ,社会保険庁の不祥事,衆議院と参議院の「ねじれ国会」,世界金融危機などの処理に苦しんだ安倍晋三福田康夫麻生太郎の各内閣は低迷する内閣支持率にあえぎ,いずれも 1年の短期政権となり,2009年総選挙で惨敗,政権の座を民主党に譲った。稚拙な政権運営を続けた 3代の民主党政権に対する国民の低い評価が 2012年総選挙に反映して,民主党が下野し,安倍総裁が公明党との連立内閣を組織して政権に復帰した。

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知恵蔵 「自由民主党」の解説

自由民主党

1955年11月15日、自由党と日本民主党との保守合同で結成された。前月に左右社会党が統一し、政権獲得を掲げたことに保守勢力が危機感を抱いたことが、自民党結成につながった。初代総裁は鳩山一郎、2001年4月に首相に就任した小泉純一郎は第20代総裁。小泉首相は参院選後の01年8月、自民党両院議員総会で総裁に再選された。03年9月の総裁選でも再選され、総裁任期が3年に延長された新しい党則が適用されて小泉の任期は06年9月までとなった。自民党は発足以来、1993年の非自民の細川護煕連立政権の誕生まで、一貫して政権の座にあった。非自民の細川、羽田孜両政権が計10カ月で幕を閉じたあと、社会党の村山富市委員長を首相に担ぐ形で政権に復帰。96年1月には再び自民党の橋本龍太郎総裁が首相に就任、その後も自民党の首相が続いている。自民党の存在理由は、まず米ソ対立という冷戦構造の下で、米国との同盟関係を維持してソ連に対抗することだった。反共のイデオロギーが、自民党の最大のアイデンティティーだった。さらに、日本が右肩上がりの経済成長を遂げる中で、日本国内で政治、官僚、業界の密接な関係を築いて利益を配分することだった。しかし、冷戦構造が崩壊し、バブル経済の破綻で利益配分もままならなくなった。自民党は反共と利益誘導という2つの旗印を失ったにもかかわらず、新しい時代の保守主義を確立できないでいる。そこに、90年代以降の日本政治が置かれた混迷の大きな原因がある。99年10月に自民党は公明党と連立を組み、本格的な連立政治に踏み込んだ。2001年に総裁となった小泉首相は「自民党を壊す」とも表明、経済構造改革だけでなく自民党の改革も打ち出しているが、具体的な改革の成果は上がっていない。小泉は03年の総裁選で圧勝すると、49歳の安倍晋三前官房副長官を幹事長に起用、党の若返りをアピールした。03年の総選挙で自民党は過半数(241議席)に4議席足りない237議席を獲得、公明党との連立による政権を継続させた。この総選挙では民主党が177議席をとり、自民党に迫る勢いを見せた。続く04年の参院選では自民党が49議席だったのに対して民主党は50議席を獲得。04年9月の党役員・閣僚人事では安倍が幹事長代理に降格。幹事長に武部勤元農水相が就任した。05年9月の郵政総選挙で自民党は296議席を獲得、86年の中曽根政権下の300議席に並ぶ巨大与党となった。05年11月には結党50周年を迎えた。小泉は「小さな政府」を掲げて、ともすれば「大きな政府」を指向しがちだった自民党政治を改めようとした。しかし、構造改革などによる中央と地方の格差に対する不満も募っている。基本的には小泉路線を引き継ぐ安倍政権が「小さな政府」の方向を維持するのか、修正するのかが争点となっている。

(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「自由民主党」の解説

自由民主党
じゆうみんしゅとう

1955年(昭和30)11月15日,自由党と日本民主党の合同により結成された保守政党。55年体制のもとで一貫して政権党の地位にあった。党の基本路線として安保体制維持と経済成長優先策をとった。70年代初めには,公害問題の深刻化に二つのニクソン・ショックが重なったこともあり支持率が低下したが,補助金政策と派閥指導者の交代で乗り切った。80年代には,行財政改革を進めたことと,経済の活況に支えられたことによって長期政権を維持できた。衆議院の多数を支配してきた巨大政党であるので党内には多数の派閥があり,ハト派とタカ派,官僚派と党人派などの抗争がつきなかったが,反面派閥実力者による党首交代によって長期的な一党支配が可能となった。国際化にともなう外国からの圧力,70年代半ば以来次々と暴露される田中金脈問題・ロッキード事件・佐川事件などの構造汚職に対する批判が高まるなかで,93年(平成5)分裂し,はじめて野党となった。94年村山内閣で与党に復帰し,96年には自民党を主軸とした橋本連立内閣が成立。2009年に民主党に政権を交代したが,12年末に安倍晋三内閣が成立。

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旺文社日本史事典 三訂版 「自由民主党」の解説

自由民主党
じゆうみんしゅとう

1955年11月,自由党と日本民主党が保守合同して成立した政党
最初,総裁代行に鳩山一郎・緒方竹虎らがなったが,緒方が急死して鳩山が初代総理となる。'60〜'90年代前半,長期にわたって政権を担当。'93年分裂(新生党・新党さきがけ結成)。同年の総選挙で敗北し保守合同以来初めて政権の座をおりたが,'94年連立政権与党に復帰。'96年に橋本竜太郎内閣が成立すると連立を解消して単独政権となり,'98年に小渕恵三内閣が発足した。2000年4月小渕が病気で倒れたあとを引き継いで,森喜朗内閣が発足。

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世界大百科事典(旧版)内の自由民主党の言及

【55年体制】より

…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
 1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…

【派閥】より

…それは,〈公的公式集団の中に形成された私的非公式集団で,閉鎖的な同調性をもち〉(石田雄),〈権力を私的に把握し,あるいは把握せんとして,他者あるいは他集団と対立抗争し,集団成員に対しては私的な庇護の恩恵を与える〉(安田三郎)ものである。しかし現在狭義には,〈派閥〉という言葉は,1955年の結党以来ずっと日本の支配政党である自由民主党の,いわば本質的属性としてほとんど国際的にも認知された用語といえるであろう。 自民党の派閥が〈権力の私的な把握〉と,〈その内部で“親分”の私的庇護と“子分”の従属〉という典型を形づくった原因は二つある。…

※「自由民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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