自由党(読み)ジユウトウ(英語表記)The Liberal Party

デジタル大辞泉 「自由党」の意味・読み・例文・類語

じゆう‐とう〔ジイウタウ〕【自由党】

明治14年(1881)板垣退助を中心に結成された政党。フランス流急進的自由主義を唱えた。明治17年(1884)解散。
大同団結運動ののち、明治23年(1890)に大井憲太郎らがを再興した政党。第1回総選挙後、大同倶楽部愛国公党と合同して立憲自由党を結成、翌年自由党に改称。明治31年(1898)進歩党と合同し憲政党に改組。
昭和20年(1945)鳩山一郎を総裁に日本自由党として発足した政党。鳩山の公職追放後、吉田茂が総裁となり第一次吉田内閣を組織。のちに民主自由党と改称。昭和25年(1950)民主党の連立派を併せて自由党となり、昭和30年(1955)に日本民主党と合同して自由民主党となる。
平成6年(1994)4月、細川護煕内閣の退陣後、自由民主党渡辺美智雄を非自民政権の首相にするため、先行して同党を離党した議員らが結成した政党。結局、渡辺の参加を得られず新生党羽田孜内閣の連立与党となり、同年12月新進党結成により解散。
平成10年(1998)に新進党の分党に伴い小沢一郎らが結成した保守政党。平成11年(1999)1月自由民主党と連立政権を組織。同年10月公明党が加わると、翌年自由党は連立政権を離脱。この際、離脱に反対した議員が保守党を旗揚げし分裂。平成15年(2003)民主党との合併に伴い解散。
平成28年(2016)に「生活の党と山本太郎となかまたち」から党名変更をした政党。平成31年(2019)4月に国民民主党に合流。
Liberal party》英国の政党。ホイッグ党を前身として、1830年代に同党の急進派を中心として改称。保守党と交互に政権を担当したが、労働党の進出などで第一次大戦後は衰退。20世紀末に自由民主党となった。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「自由党」の意味・読み・例文・類語

じゆう‐とうジイウタウ【自由党】

  1. [ 一 ] 明治一四年(一八八一)国会期成同盟の中から植木枝盛・河野広中らが結成した日本で最初の全国的政党。総理は板垣退助。自由の拡充、立憲政体の確立などを綱領に掲げ、自由民権運動の中核として活動した。同一七年解党。
  2. [ 二 ] 明治二三年(一八九〇)大井憲太郎らが再興した議会主義政党。第一回総選挙後解党し、板垣退助の愛国公党、河野広中らの大同倶楽部、九州同志会と結束、立憲自由党を設立したが、翌年改組して復名。同三一年進歩党と合同して憲政党を組織した。
  3. [ 三 ]にほんじゆうとう(日本自由党)」の略称。
  4. [ 四 ] 平成九年(一九九七)小沢一郎が、新保守主義を掲げて結成した政党。同一五年、民主党と合併し解散。
  5. [ 五 ] ( [英語] Liberal Party の訳語 ) イギリスの政党。ホイッグ党の後身。一八三〇年ごろ結成され、グラッドストーンのもとで全盛期を迎えたが、第一次世界大戦後、進歩派は労働党に、保守派は保守党に吸収されて、少数派に転落。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「自由党」の意味・わかりやすい解説

自由党(イギリス)
じゆうとう
The Liberal Party

保守党と並んで長い歴史をもつイギリスの政党。18世紀から19世紀に存続したホイッグ党の後身。ホイッグという党名は名誉革命のとき、トーリーに対抗して立憲君主制の成立に尽くした進歩派のホイッグにちなむ。ジョン・ロックに代表される政治理論をもち、議会に依拠して絶対主義的王権と闘い立憲君主制の樹立に寄与した。18世紀にはホイッグ党のウォルポール内閣の下に議院内閣制(責任内閣制)が成立した。19世紀に入ると、産業革命による社会経済的変動を背景にして、議会(選挙)改革や政治的自由を求める改革派もホイッグ党内に現れ、1832年にはホイッグ内閣の下に新興の中産階級にも参政権を認めた第一次選挙改革が行われた。自由党のリベラルLiberalという語は、自由主義的改革運動が高揚したこの改革の十数年前から、ホイッグ党進歩派を意味するものとして使われていた。

[犬童一男]

成立および沿革

自由党は1859年6月、ホイッグ党や、1846年の穀物法廃止を契機に保守党とたもとを分かったピール派Peelites(自由貿易派)、そして非国教徒や産業界を基盤とする急進派のリーダーたちの会合から院内党として生まれた。以後この党は、穏健リベラル派を中心にして、右にもっとも有力なホイッグ、左に急進派の3派構成の党となった。院内党の形成に対応して院外でもバーミンガムをはじめ各都市で組織化が進み、1877年自由党全国連合が設立された。この形成期自由党の代表的政治家がピールとともに保守党を離れたW・E・グラッドストーンであり、彼の内閣の下に1880年代にまでわたって自由主義的改革が行われ、自由党全盛時代を迎えた。だが自由党の自由放任主義や小イギリス主義は、帝国主義時代に失業や貧困などの社会問題やアイルランド自治問題に面して苦悶(くもん)し、1886年には新急進派のJ・チェンバレンやホイッグ派がアイルランド自治法案に反対して自由統一党を結成し、保守党に移行する端緒となった。この分裂で自由党勢力は衰え、1900年の労働党の成立もそれを促進させることになった。

 1894年にグラッドストーンは首相と党首の座を離れ1898年に他界するが、後継者のローズベリー首相の下に行われた1895年の総選挙で自由党は大敗した。さらに1900年総選挙では、保守党議席の半分にも及ばぬ敗北を喫し、保守党政権が10年も続いた。

 こうした政党政治の流れを変えたのが、自由党進歩派の台頭によるニューリベラリズムとよばれる政策への切り替えである。それは自由放任主義の政策から貧困や教育などの社会問題の解決に国がかかわる社会政策への転換であり、南ア戦争(ブーア戦争)を批判し、南アフリカの自治権を認めるといった対外政策の選択であった。この立場を代表した政治家が1899年から8年間党首を務めたキャンベル・バナマンである。この党首と1908年に後継者となるアスキスの下に自由党は1906年総選挙で前回を逆転する勝利を得て、安定した政権下に公約の政策課題に取り組んだ。歴史に残るこの自由党政権の業績は、(1)社会政策で福祉国家の原型をつくったこと、(2)1911年の議院法制定で貴族院に対する庶民院の優越性を確定したこと、の2点である。

 第一次世界大戦期に自由党内閣は挙国一致の連立内閣に改組されたが、アスキス首相の緩慢な戦争指導の責任が問われて、1916年末首相の座はロイド・ジョージに移り、第二次連立内閣の下強硬な戦争遂行にあたることとなった。この経緯から自由党はアスキスの自由党とロイド・ジョージの挙国自由党に分裂した。大戦後1923年に再統一したが、著しく党勢を伸ばしてこの年の総選挙で第二党となる労働党に二大政党の一党たる地位を奪われ、その後院内第三党の地位に甘んずることになった。1945年から1979年までの11回の総選挙での実績をみると、議席14、得票率19.3%の1974年2月選挙が最高で、1951年の議席6、得票率2.5%が最低の結果である。しかし党員は1981年に18万を数え、中流階級で教育水準も高い人々が多いのが特徴である。こうした党員に支えられて自由党は逆境のなかでも生き抜いてきた。

[犬童一男]

自由党から自由民主党へ

この自由党にとってふたたび有力政党となるための隘路(あいろ)は、小選挙区単純多数代表制であった。民意を代表する公正な制度に変えることがこの党の重要な政策であり、そのために自由党は1981年、労働党を捨てた自由党寄りの政治家たちが結成した社会民主党(SDP)と連合(The Alliance)を形成した。この連合体で1983年と1987年の総選挙に挑むが、1983年は23議席、得票率25.4%、1987年は22議席、得票率22.6%と期待に反して落胆させられる結果であった。しかし、議席獲得には至らなかったものの、国民から示された支持の表れである得票率に期待をつなぎ、連合ではなく一つの政党とすることになり、1988年に両党が合同して社会自由民主党(SLD)を結成。翌年SLDは自由民主党(Liberal Democrats、略称LD)と党名を改めた。党首には下院議員のアシュダウンPaddy Ashdown(1941―2018)が選ばれた。この自由民主党成立後の1992年総選挙では保守党が強く、自由民主党は前回1987年よりも下回る20議席、得票率17.8%であった。だが、次の1997年総選挙では保守党が大敗した結果、46議席、得票率16.8%を得て、議会内でも影響力を強めた。

 自由民主党は1997年総選挙後のブレア政権の下で、地方分権制への移行、選挙制度の抜本的改革、上院改革などさまざまな問題に関する諮問委員会に参画した。1998年末に下院議員選挙制度改革案を答申した同党のジェンキンズは、ブレア首相の師ともいわれた。自由民主党はもはや以前のような小さな野党ではなく、国の政治運営に強くかかわっている党であり、政治制度改革によって、よりいっそう安定した地位を国政、地方政治、EU(ヨーロッパ連合)政治の場で占めることになる。

 党員数は自由民主党成立時に旧自由党の時点よりかなり減少したものの、1997年には10万にまで回復し、地方議員数では労働党に次ぐ第二党である。日本の自由民主党はLiberal Democratic Partyであるが、イギリス自由民主党はLiberal Democratsと表記され、より深く自由と民主主義にかかわっている。

 第二次世界大戦後の歴代党首は、1945年から1956年までデービスClement Edward Davies(1884―1962)、1956年から1966年までグリモンドJoseph Grimond(1913―1993)、1967年から1976年までソープJohn Jeremy Thorpe(1929―2014)、1976年から1988年までスチールSir David Martin Scott Steel(1938― )。1988年からの自由民主党(LD)での初代党首は自由党系のP・アシュダウン、1999年からは社会民主党(SDP)系のケネディCharles Kennedy(1959―2015)。

[犬童一男]

『V. Bogdanor(ed.)Liberal Party Politics(1983, Clarendon Press)』『V. BodganorMulti-Party Politics and the Constitution(1983, Cambridge University Press)』『A. CyrLiberal Politics in Britain(1989, Transaction Press)』


自由党(1998年結成)
じゆうとう

1997年(平成9)の新進党の解党によって、新進党党首小沢一郎を中心に98年1月6日に結成された保守政党。党首小沢一郎の「私党」としての性格の強い政党で、国際政治における軍事的役割の発揮や規制緩和などの「新保守主義」を掲げ、衆議院40人、参議院12人の議員が参加した。結党直後は、2月の長崎県知事選や衆院長崎4区の補欠選挙で自由民主党に敗れるなど不振が続いたが、7月の参院選では、予想外に善戦して改選5議席を1上回る6議席を獲得した。直後の首班指名では第1回投票から当時の民主党代表菅直人に投票するなど野党色を強めたが、臨時国会での金融関連法案の審議に際して「政局にしない」と発言した菅民主党代表の対応への不満から次第に自民党に接近し、同年11月19日の自民党総裁(首相)小渕恵三(おぶちけいぞう)と自由党党首小沢一郎との党首会談で、次期総選挙での協力や連立政権の樹立などで合意した。その後、両党の政策協議が進められ、日米新ガイドライン関連法案や国連のPKO(平和維持活動)への対応など安保・外交問題をめぐって難航したが、結局、通常国会召集の直前に決着をみた。こうして、99年(平成11)1月14日の小渕恵三内閣の第一次内閣改造で幹事長野田毅(たけし)が自治相として入閣し、自民党と自由党の「自自連立」政権が発足。同年10月5日には、第二次内閣改造で公明党を含めた自民・自由・公明(自自公)3党による自自公連立政権が発足した。その後、議員定数削減問題など自由党主導の政策決定が進められたが、2000年4月に同党は政策合意実現の遅れから連立を離脱した。一方、離脱に反対する野田毅ら自由党議員の過半は新党「保守党」を旗揚げして政権与党にとどまり、自由党は結党以来2年3か月で二つに分裂した。2003年7月、小沢は民主党代表の菅と会談し、自由党と民主党の合併に合意、同年9月、自由党は解散し、民主党と合併した。

[五十嵐仁]

『五十嵐仁著『概説 現代政治――その動態と理論』第3版(1999・法律文化社)』


自由党(1881年結成)
じゆうとう

明治時代前期、自由民権運動の指導部として結成された日本史上最初の全国政党。1880年(明治13)空前の高揚をみせた国会開設請願運動に直面した政府は、請願書の受理拒否と、集会条例による弾圧体制の強化をもって臨んだ。これに対して、同年11月の国会期成同盟第2回大会では、政党を結成して人民の団結を図り、勢力を強化しようとする動きがおこった。しかし、賛成多数を得るには至らず、12月15日、植木枝盛(えもり)・河野広中(こうのひろなか)らの有志が「自由党」を結成したにとどまった。今日これは自由党準備会とよばれている。以後、各地方で政党結成への気運は盛り上がり、開拓使官有物払下げ事件をめぐって世論が沸騰していた翌81年10月、国会期成同盟第3回大会に集まった全国の代表は、自由党の結成を決定。「明治十四年の政変」後の同月29日、総理板垣退助(たいすけ)、副総理中島信行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15章を決定して正式に発足した。結党は立志社系の土佐派の先走り的側面をもち、これによって嚶鳴(おうめい)社や九州の活動家が脱落していったともいわれる。自由の拡充、権利の確保、幸福の増進、社会の改良を目的に掲げ、翌年4月結成の立憲改進党に比して急進的であった。党員数は結党時101人、84年5月2224人。遊説活動を展開して組織の拡張を図り、82年6月には機関紙『自由新聞』を創刊した。政府は82年後半、集会条例の改正追加、請願規則の制定、福島事件などにより抑圧、規制、弾圧を強化。11月には党首板垣が政府の懐柔策にのってヨーロッパ視察に出発した。党首脳部は、これに反対した馬場辰猪(ばばたつい)ら国友会(こくゆうかい)グループを指導部から追放し、また、洋行を批判した改進党に対しては、同党と三菱(みつびし)が癒着していると非難して、対決姿勢を強めた。ついで、翌年4月の大会以後展開した改進党撲滅活動によって、民権陣営は分裂する。一方、弾圧の強化と松方デフレ政策のもとで、関東・東海地方の党員のなかには、没落した貧農と結んで挙兵しようとする急進的傾向が強まり、84年5月群馬事件、9月加波山(かばさん)事件が起こった。前年6月の板垣帰国後、早くも解党論を唱え始めていた党首脳部は、これら党員の動きを統制しきれず、84年10月29日、解党を決定するに至った。同党にはさまざまな限界があったとはいえ、諸階級・諸階層を提携させ、また、地域の運動を全国的運動へと発展させる指導組織が誕生したことの意義は大きい。

[大日方純夫]

『板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂『自由党史』上中下(岩波文庫)』『内藤正中著『自由民権運動の研究』(1964・青木書店)』『後藤靖著『自由民権運動の展開』(1966・有斐閣)』


自由党(1950年結成)
じゆうとう

1950年(昭和25)3月1日、民主自由党が民主党連立派の一部を吸収して結成した保守政党。1949年1月総選挙の結果、絶対過半数を制した民主自由党総裁吉田茂は、持論の保守合同を実現すべく、まず民主党に提携を申し入れた。吉田の保守合同の目的は、講和条約締結と独立後の保守安定支配体制の確立にあった。この申入れに対して民主党は提携派と野党派に分裂し、また提携派の犬養健(いぬかいたける)総裁に対する民自党内部の反発もあって交渉は難航し、結局、連立派28名の民自党入党という吸収合同の形で結成された。初代総裁吉田茂、幹事長広川弘禅(こうぜん)。

 自由党は衆議院で288名、参議院で60名を確保した結果、第三次吉田内閣の基盤は強固となった。政局運営は自由党主導で進み、吉田内閣は1950年9月サンフランシスコで講和条約と日米安保条約を締結し、占領体制を終結させる一方、日米同盟体制の確立と日本経済の復興を政策の基軸に据え、漸進的な再軍備路線をとった。しかし1951年6月公職追放が解除されて鳩山(はとやま)一郎、三木武吉(ぶきち)らが自由党に復党すると、吉田の党内基盤は動揺した。すなわち、党内反吉田勢力は鳩山派を結成して総裁の交替を求め、政策でも吉田の対米協調・経済重視に対して、憲法改正、再軍備、日ソ国交回復など政治課題を掲げ、両派は対立した。このような鳩山派の攻勢に吉田は1952年8月衆議院の「抜き打ち解散」で対抗し、同時に反吉田派の急先鋒(きゅうせんぽう)である河野一郎と石橋湛山(たんざん)を除名した。他方鳩山派は民主化同盟を結成して反吉田の旗幟(きし)を鮮明にし、1953年3月「バカヤロー」発言問題で野党が提出した吉田茂懲罰動議と吉田内閣不信任決議案に同調し、いずれも欠席して成立させた。吉田首相はこれに対して衆議院解散で対抗したため、硬化した鳩山派と反吉田にたった広川派の39名が脱党して自由党分党派(鳩山自由党)を結成、自由党は事実上分裂した。

 1953年4月自由党は第五次吉田内閣をつくったが、過半数を割って政局は動揺し、その後鳩山自由党の一部の復帰をみたものの、1954年に入って保全経済会事件、造船疑獄が相次ぎ、自由党と吉田内閣に対する批判は高まった。この事態に鳩山らは1954年11月自由党を再脱党して改進党などと日本民主党を結成、自由党は再分裂し、翌12月吉田内閣は総辞職して鳩山一郎内閣の野党に回った。1955年11月、財界の圧力で日本民主党と保守合同し、自由民主党となった。

[吉田健二]


自由党(1891年結成)
じゆうとう

1891年(明治24)3月20日、立憲自由党を改称して成立した政党。議会内で最大の勢力をもちながら、第1議会での土佐派議員の裏切りによって分裂状態となった立憲自由党は、党名を自由党に改称し、板垣退助(たいすけ)を総理に迎えることで党の再建を行った。しかし新たに議員党員と院外団との対立が先鋭化し、同年10月の党大会で議員団の優位と総裁専制の体制へと党組織・運営を変更したため、従来の各地での大衆的闘争を基礎に党運営を行うという体制は崩れ、事実上、自由民権政党としての性格を喪失した。そのため92年6月院外団の中心大井憲太郎(けんたろう)は脱党し、以後党内では河野広中(こうのひろなか)=東北派、星亨(とおる)=関東派、林有造(ゆうぞう)=土佐派、松田正久(まさひさ)=九州派が相互に対立しつつ、しだいに政府に接近した。とくに日清(にっしん)戦争前後、立憲改進党が対外強硬論を主張するなかで、逆に政府与党化し、96年4月板垣は第二次伊藤博文(ひろぶみ)内閣の内相として入閣、また98年6月には立憲改進党の後身進歩党と合同して憲政党を結成し、第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣(隈板(わいはん)内閣)を組織した。これは同年11月分裂したが、旧自由党主流は1900年(明治33)伊藤の立憲政友会結成に参画した。

[猪飼隆明]

『升味準之輔著『日本政党史論 第2巻』(1966・東京大学出版会)』『坂野潤治著『明治憲法体制の確立』(1971・東京大学出版会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「自由党」の意味・わかりやすい解説

自由党 (じゆうとう)

(1)明治前期の自由民権運動隆盛のころに誕生した政党。自由党結成の動きは,国会開設運動が全国的に高揚した1880年に始まる。すなわち植木枝盛らから,全国に拡大した運動の組織強化のため,国会期成同盟を改組して自由主義を標榜する政党を組織すべしとする意見が提出される。そして,国会論,財政論の対立に開拓使官有物払下問題が加わって引き起こされた明治14年の政変により,国会開設の勅諭が発布される81年10月に相前後してこの提案は議決され,次いで自由党の盟約・規則の審議が行われた。その過程で機関紙発行問題や主導権争いから,沼間守一ら東京嚶鳴社(おうめいしや)グループと九州派が参加を拒否するに至った。結局,役員選挙において総理板垣退助,副総理中島信行以下の党役員が決定し,自由党は正式に発足する。党の盟約には〈自由を拡充し,権利を保全し〉〈善良なる立憲政体を確立する〉ことがうたわれていた。党指導部の中核は板垣を中心とする土佐派,とくに立志社系の民権家たちであった。それに加えて愛国社の活動や国会開設運動を通じて,全国的に有名になった河野広中ら,地方の有力な政治家たちも幹部を構成した。さらに,彼らの傘下にあった地方民権結社とそこに結集した士族や豪農,地主などの地方有力者たちが,自由党の支持基盤を形成している。

 自由党の活動はまず,82年6月,党の機関紙たる《自由新聞》の発行に始まり,末広鉄腸,馬場辰猪,中江兆民,植木らが自由民権を称揚する記事を寄稿した。次に党幹部は全国を遊説し,各地で政談演説会,有志懇親会を開いて地方有力者の組織化を図った。しかし,このような活発な活動の展開にもかかわらず,自由党の目ざす具体的な政策は必ずしも明確ではなく,盟約自体がきわめて抽象的であった。また自由党としての憲法草案も結局作られなかった。なお,自由党はフランスにならった議論を主張したが,念頭にあったのは共和主義ではなく,あくまで〈君民共治〉の立権君主制であった。自由党は,地方レベルの着実な活動の積重ねを行った改進党とは対照的に,天下国家的活動を優位においたといえる。ところで,82年以後政府による硬軟両様の政党攻撃が行われ,自由党は板垣外遊問題をめぐって動揺をきたす。このような問題をめぐる改進党との暴露中傷合戦的な対立抗争の拡大に,松方デフレによる農村経済の逼迫(ひつぱく)が加わり,自由党の活動はしだいに衰退していった。84年に入ると各地で自由党急進派を中心とする激化事件が頻発し,これに対して幹部は党内を十分統制できず,10月解党を決議するに至った。

 内閣制度創設後,86年に入ると星亨らは,後藤象二郎を中心に自由・改進両派の連携を軸に旧民権派を結集してきたるべき国会開設を目標とした大同団結運動を起こす。しかし,改進党は参加せず,後藤も運動が高揚した89年3月黒田清隆内閣に入閣したため,運動は分裂してしまった。にもかかわらず,90年7月の第1回衆議院総選挙の結果,民党系の議員が過半数を占めたため,板垣率いる土佐派と大井憲太郎を中心とする関東派および河野ら東北派の自由党系3派に,九州同志会が合同して9月,立憲自由党(翌年自由党と改称)が発足した。第1議会を通じて,自由党は第一党(130議席)だったにもかかわらず,4派の対立抗争に院外の壮士団の圧力が加わった結果,亀裂が生じ,ついに政府との妥協を図った土佐派が脱党してしまった(第2議会後に復党)。

 その後,このような弱点を知悉(ちしつ)し,その克服を目ざした星を中心に,板垣の総理推戴によるリーダーシップの強化と,議員団中心の党組織への改革とが実施された。かくて,星は党内の主導権の確立と並行して,政策面においても〈民力休養,政費節減〉という消極的方針から,鉄道・河川改修等の地方への利益の供与と〈民力育生〉を図る積極政策への転換を考慮するに至った。日清戦争後,戦後経営を焦点に明確に積極主義への転換を決断した自由党は,95年公然と伊藤博文内閣との提携を宣言し,翌年板垣内相の就任に成功した。それは自由民権以来の藩閥対政党の対立という横断的な政界の構造を大きく変容させ,藩閥各派と政党各派との提携を軸とした縦断的な政界の構造へと転換したことを意味する。そして自由党と進歩党の合同による隈板内閣の失敗を含め,数次の試行錯誤の後,第2次山県有朋内閣との提携に限界を感じた星主導の憲政党(旧自由党)は,1900年伊藤を擁して立憲政友会を樹立するに至った。ここに自由党は,民権運動以来の民党的立場と,名実ともに断絶することにより,日本における政党政治への道を開いたのである。
自由民権
執筆者:(2)第2次大戦後の保守政党。大戦直後から1950年代後半の二大政党制確立期に至るまで,日本の政治は多党化状況にあった。占領体制下の多党化状況の中で第1次から第5次までを数えた吉田茂内閣が成立。これらの吉田内閣を支えたのが自由党であり,党名は日本自由党,1948年3月に民主自由党(民自党),50年3月に自由党へと変遷した。

 1945年11月9日,鳩山一郎を総裁とし,幹事長を河野一郎とする日本自由党が結党された。1週間遅れて結党された日本進歩党が大日本政治会の多数を結集し旧政党復活の印象を与えたのに対し,自由党は旧政党人であっても翼賛体制下における反東条派を結集する姿勢を示し,西尾末広など社会民主主義者の一部をも包含する動きを見せた。さらに,吉田茂などの新しい政党人を迎える方向で結党されたので,自由党は新保守党のイメージを選挙民に与えることに成功した。公職追放では,自由党も進歩党と同様な打撃を受けたが,戦後第1回の総選挙(46年4月)で141議席を獲得,第一党となった。ただし,鳩山一郎内閣成立直前に鳩山が追放の指示を受け,第1次吉田内閣が進歩党との連立内閣として成立する。吉田茂は46年8月,自由党総裁となり,これ以降,鳩山が追放解除されるまで吉田が自由党を代表する時代が展開された。

 自由党の政権構想は,社会党との連立策,民主党や国民協同党との合同による新党工作,あるいは保守連立政権構想と揺れた。1947年の二・一スト前後,吉田茂は社会党書記長西尾末広に閣僚ポストの提供を条件とする連立工作を試みているが,それは労働攻勢への対応策であるとともに当時のGHQの示唆による方針であったと見られる。戦後第2回の総選挙(47年4月)の結果,社会党政権としての片山哲内閣が誕生,自由党は社会党と政策協定を結んだが連立には加わらず,47年8月,野党宣言を発表した。これ以降,自由党は保守合同による新党構想を提示する方針に転換するが,この転換はGHQ内部の対立露呈に対応するものとなっている。しかし,民主党は社会党との連立政権に走り芦田均内閣を樹立,吉田による〈救国大政党〉工作は,民主党の幣原喜重郎ほか少数を加えた民主自由党の発足(48年3月)として結実しただけであった。

 芦田内閣倒壊後,第2次吉田内閣が少数単独政権として成立。この段階で政権構想は総選挙における過半数獲得を第一条件とする内容に変わる。民自党内では保守合同論と単独政権論が対立した。49年1月総選挙の結果,民自党は264議席を獲得,絶対多数を背景とする組閣に入る。ここで第3次吉田内閣が民主党に閣僚ポストを提供したのは,保守安定政権を求めるようになったGHQの意向を体するものであったと見られるが,同時にそれは民自党による民主党の包含工作でもあった。民主党は犬養健総裁を含む連立派と野党派に二分され,民自党は連立派を吸収し,講和条約締結の態勢づくりとして自由党を結党(50年3月)した。

 冷戦構造に即応した占領政策の転換,ドッジ・ラインによる日本経済復興策の指示,講和条約締結の機運,朝鮮戦争の勃発とダレス訪日による再軍備要請の動向等への対応によって自由党と吉田内閣は絶頂期を迎える。池田勇人ら官僚出身の政治家の活躍が状況対応の巧みさを支える主要因であった。その自由党に内部分裂の兆しが見えたのは,50年を境に鳩山一郎を先頭とする追放解除組の活発な動きが開始されはじめてからである。党内に民主化同盟ができ(52年10月),自由党分党派が日本自由党を結党(53年11月),鳩山が離党し復党し再離党して日本民主党を結党(54年11月)する等の経過の中で自由党は第4次,第5次吉田内閣を単独政権として樹立するが,53年4月の選挙で過半数を割り,55年2月選挙で第二党となる。1954年12月,吉田内閣は総辞職,自由党総裁には緒方竹虎が就任。55年11月自由党は民主党と合同,保守合同として自由民主党を誕生させた。
執筆者:


自由党 (じゆうとう)
Liberal Party

イギリスの政党。前工業化段階に生まれたホイッグ党の工業化社会における発展形態で,19世紀から20世紀の初めにかけて,保守党とともにイギリスの二大政党制を担った。その歴史は,1870,80年代を境に大きく二つに分けて考えることができる。

自由党は,その前身のホイッグ党の系譜を引く進歩・革新の政党で,19世紀の初頭にいたるまでは,もっぱらホイッグ,すなわち進歩的地主貴族の政党であった。だが,ナポレオン戦争終了後,1820年代から新興ブルジョア階級と結びつき,以後この階級の思想・利害を積極的に代弁するようになった。その最初の契機となったのは選挙法改正問題で,30年に成立したグレー・ホイッグ党内閣は,参政権(=下院議員の選挙権)を要求するブルジョア階級の意向を全面的に支持し,32年に第1次選挙法改正を実現した。また同党は,国教と非国教の区別がもたらす社会の不合理を攻撃して,非国教徒やベンサム主義者の支持をも取りつけた。こうしてホイッグ党は,ブルジョア階級をはじめとする社会の中間諸勢力との結びつきを強め,40年代以降は,改正選挙法にもとづいて議会に進出してきたR.コブデン,J.ブライトらのブルジョア急進主義者を党員に加え,46年には,彼らの主張する穀物法撤廃の要求を承認して,完全な自由貿易の達成を党是とするにいたった。一方,この間,党の指導権は,なおホイッグ貴族の手中にあったが,ホイッグ党と並んで自由党Liberalsの呼称がしげく用いられるようになり,40年代には,後者の自由党のほうがむしろ優勢となった。50,60年代の自由党は,自由貿易主義の旗の下に,今や完全に保守党を圧倒したが,党の最高指導者は,なおホイッグ貴族のJ.ラッセルとパーマストンであった。だが,65年にパーマストンが死に,67年にW.E.グラッドストンが党首に就任するに及んで党の性格は一新され,党勢の伸張もその極点に達した。68年から74年にかけての第1次グラッドストン内閣の時代は,古典的自由主義体制の黄金時代で,自由貿易は完成の域に達し,自由と節約は国民全体の信条となった。また,アイルランド国教会の廃止(1869),大学教育における宗教差別の撤廃といった政策を通じて非国教徒の解放が進んだほか,対外政策の面では,グラッドストンの強い個性を反映して,平和主義が党の路線として定着した。

19世紀の70,80年代は,対内的にも対外的にも歴史の大きな転換期であった。対内的には,67年と84年の選挙法改正によって労働者階級にまで選挙権が拡張された。自由党が党勢を維持・拡大していくためには,党と政治のあり方を民主化して労働者階級の利害を政治に反映する一方,選挙において彼らの支持を取りつけていくことが不可欠となった。そのため,この状況に対応して,1867年の第2次選挙法改正後,バーミンガムを中心に有権者の組織化が進み,77年,全国自由党連合が成立して,それまで,すぐれて議会内の政党であった同党は,全国的に有権者の大衆的組織をもつ統合政党へと発展した。だが,80年代以降,第2期の自由党を根底から大きく揺り動かしたのは,対外的な問題,とくにイギリス帝国の問題であった。この時期のイギリスは,アメリカ合衆国,ドイツ等列強の世界市場進出に押されて帝国への依存度を高めたが,党首グラッドストンは,議会内のアイルランド党と協力して,あくまでも平和主義の路線に固執し,その見地からアイルランド問題の解決に熱中した。だが,党内ホイッグ貴族とJ.チェンバレンをはじめとする急進派は,イギリス帝国の利害を重視する立場から党首に同調せず,86年のアイルランド自治法案の審議を契機に脱党して自由統一党を結成した。以後,ボーア戦争(1899-1902)にかけて,自由党は,議会内で多数党の地位を失っただけでなく,党内もグラッドストン派と自由帝国主義者が対立して弱体化し,政局の主導権を保守党にゆだねなければならなかった。この時期の自由党に必要であったのは,進歩・革新の党として帝国主義と大衆民主化の時代に対応する新しい自由主義の政治理念を確立することであった。しかし,古典的自由主義者のグラッドストンはそれを果たすことができず,次代の若い党指導者たちも,なおそれを見いだしかねていたのである。

 ボーア戦争後,保守党が,チェンバレンの提起した関税改革問題で混乱に陥ったとき,自由党にもう一度チャンスが到来した。自由党は,自由貿易の旗の下に再び結集して1905年の選挙に大勝し,以後,キャンベル・バナマン,アスキス,ロイド・ジョージの指導の下に,約10年間にわたって政権を担当した。この間に,相続税と累進課税による所得の再分配,社会福祉政策の拡大,貴族院の権限縮小等の民主的な大改革を実行する。だが,このときすでに,新しい革新の党として,労働者階級の利害をより直接に代表する階級政党の労働党が台頭してきており,その社会主義の主張の前に,自由党の革新主義はしだいに色あせていった。第1次大戦後,自由党は,20年代のあいつぐ選挙に敗北を重ね,ついに保守党と労働党につぐ第三党の地位へと転落した。そして第2次大戦後は,二大政党の地位を完全に上記の両党に譲り,今日にいたっている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「自由党」の意味・わかりやすい解説

自由党(日本)【じゆうとう】

(1)自由民権運動の中心的政党。明治14年の政変で高揚した自由民権運動のなかで,1881年10月国会期成同盟を基盤に結成。板垣退助を総理に,中島信行後藤象二郎馬場辰猪・大石正巳らの幹部を擁し,フランス流の急進主義を唱え,《自由新聞》を中央機関紙として発行した。自由の拡充・藩閥政府打倒・立憲政体の確立などを説いた。しかし,当時進行しつつあった松方デフレ政策によって貧窮した農民とともに行動に立ち上がろうとする地方党員は,次第に中央の統制から離れた行動をとり,さらに,板垣の洋行問題で党内対立は決定的となり,一連の激化事件の中で1884年10月解党。(2)大同団結運動の過程で結集した旧自由党員を集めて大井憲太郎らが1890年再興した政党。第1回選挙後愛国公党,大同倶楽部とともに立憲自由党を結成して政府に対抗するが,漸次妥協的となり,1891年再び自由党と改称し,1900年旧自由党の主流は立憲政友会の結成に参加した。(3)吉田茂の率いる民主自由党が1950年に改称した政党。1955年鳩山一郎日本民主党と合同して自由民主党(自民党)となる。(4)1998年1月新進党が6分割して生まれた新党の一つ。初代党首は小沢一郎。新進党は,1996年10月に党の方針や政治手法の対立から羽田孜ら10名が離党したあとも内紛,離党が続き,1997年12月に小沢一郎の主導で解党を決定,翌年1月小沢派によって自由党が結成された。1999年1月自由民主党との連立政権に参加したが,2000年4月に連立は破綻し,自由党の反対派は離党して保守党を結成した。2003年9月,衆院選をひかえて自由党は民主党に合流した。
→関連項目飯田事件伊藤博文内閣井上伝蔵宇都宮徳馬絵入自由新聞大江卓大阪事件緒方竹虎奥宮健之小渕恵三内閣改進党菅直人群馬事件憲政党江湖新聞公明党酒屋会議佐藤栄作静岡事件車会党自由党史進歩党(日本)石陽社壮士芝居高田事件竹内綱秩父事件帝政党中島湘烟名古屋事件福島事件星亨三井財閥山県有朋内閣立志社

自由党(英国)【じゆうとう】

 現在のイギリスの自由民主党の前身となる政党。19世紀半ば〈選挙法改正〉後ホイッグ党が産業ブルジョアジー勢力と結合して形成。自由党の名称は1830年ころに始まる。1868年グラッドストンが党首就任以後,約50年間にわたり保守党とともに政界を2分し,6度政権を握り,自由主義的政策を推進した。第1次大戦後労働党の進出によって少数党に転落した。1981年,労働党右派が分離して社会民主党を結成,自由党は社会民主党と選挙連合を組み,83年の総選挙で25%の得票率を獲得,選挙連合からさらに進めて89年に社会自由民主党を結成,89年に自由民主党と改称した。経済における市場主義と社会福祉の双方を重視する姿勢で,保守・労働の二大政党に有利な小選挙区制に阻まれ英国議会での議席数は伸びなやんだが,得票率は常に20%台を維持,2000年代には地方選で二大政党と互角の勢力となった。2010年の総選挙で二大政党が過半数を取れず,自由民主党は,国政選挙に比例代表制を導入するための国民投票の実行を条件に,保守党との連立に合意,デビット・キャメロン保守党党首を首班とする連立政権に参加した。しかし,保守党が主導する税制圧縮策など基本理念の相違が表面化し,従来からの支持者から厳しい批判が相次ぎ,2011年5月の地方選では惨敗,念願の国民投票でも選挙制度改革は否決された。政治的主張としては労働党に近く,組織とは無縁の無党派層や草の根民主主義者の支持で党勢を拡大してきた自民党は岐路に立たされている。
→関連項目小イギリス主義チャーチル

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「自由党」の意味・わかりやすい解説

自由党
じゆうとう

日本の政党。1950年3月1日にそれまでの民主自由党から改名した。その前身の日本自由党は 1945年11月に発足したが,翌 1946年鳩山一郎初代総裁が公職追放となり,吉田茂が総裁となった。民主党幣原喜重郎派が結成した民主クラブと合同し,1948年3月,民主自由党を結成。1949年1月の衆議院議員総選挙で絶対多数を獲得したにもかかわらず,幹事長広川弘禅らは犬養健民主党総裁に合同を働きかけ,1年あまりも難航して民主党連立派を吸収したのを機に自由党に改名した。自由党は,第3次から第5次に及ぶ吉田内閣の安定基盤となり,吉田政治を支えた。しかし,1951年夏以降は戦後派で固めた吉田勢力と,追放解除組の鳩山勢力との対立が激化した。この党内抗争は,1952年7月福永健司幹事長指名阻止の反乱に始まり,1953年3月の分党派自由党(鳩山自由党)の結成と同 1953年11月の自由党への復帰および三木武吉ら 8人による日本自由党の結成など間断なく続いた。1954年に入り,造船疑獄などによって長期政権の腐敗を露呈して人心を失い,同 1954年11月には分党派が離党し,改進党とともに日本民主党を結成する。同年 12月吉田首相は退陣して総裁の地位を緒方竹虎に譲った。緒方総裁は保守合同に積極的で,1955年11月15日,自由党は鳩山総裁の日本民主党と合同し,自由民主党となった。(→55年体制

自由党[コロンビア]
じゆうとう[コロンビア]
Partido Liberal

コロンビアの政党。 1830年代に結成された政党で,同時期に設立された保守党とともに二大政党をなす。近代的商工資本家層を支持基盤とし,反教権主義的立場と連邦主義的立場をとる。結党以来保守党との紛争が絶えず,1899~1902年には「千日戦争」と呼ばれる内戦にまで発展した。その後 30年までは保守党が政権を握っていたが,34年にアルフォンス・ロペスが大統領に選出されてからは自由党が政権を獲得。しかし,46年の選挙をめぐり党内が分裂し,政権は保守党に移った。さらに 48年4月に自由党左派の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺されたのを契機にボゴタッソと呼ばれる大暴動が発生,さらには自由,保守両党を巻込んだ内戦に発展した。その後,自由,保守両党は和解を進め,両党が4年ごとに大統領を交代し,立法議会のポストも両党に均等に配分するなどの協定を盛込んだ「国民戦線」を 58年に組織し,協定にのっとった政府が 74年まで続いた。 74年からは自由選挙が復活し自由党政権が続いたが,79年5月以降党内対立が激化し,82年の大統領選挙には党内の調整がつかず2人が立候補し,保守党の勝利を許した。しかし 86年3月の総選挙で過半数の議席を確保した余勢をかって5月の大統領選挙でもビルヒリオ・バルコ前ボゴタ市長が勝利,党内分派の新自由主義派も復党して自由党政権が成立した。 90年5月の大統領選挙は,3人の大統領候補が暗殺されるという麻薬戦争の最中に行われたが,セサル・ガビリア元内相が当選し,保守党との連立内閣を発足させた。 92年4月にアルフォンソ・ロペス・ミチェルセンが党首を辞任したのち,党内は再び派閥争いが激化したが,94年大統領選挙では旧新自由主義派のエルネスト・サンペル元経済開発相が勝利した。 98年の大統領選挙では決戦投票の末に保守党に敗北したが,同時実施の議会選挙では過半数議席を得て第1党の地位を保った。

自由党[イギリス]
じゆうとう[イギリス]
Liberal Party

19世紀中頃から第1次世界大戦直後まで保守党と並んでイギリスを支配した政党。党の前身はホイッグ党であるが,党名を変更した時期については定かでない。すでに 1839年に党首 J.ラッセルは自由党と呼んでいたといわれるが,一般に受入れられるようになったのは,ホイッグ的な H.J.パーマストンに代って,W.E.グラッドストンが指導権を握った 65年以降のことである。そのとき以来,まさに党は名実ともに自由主義の旗手となった。党の精神的基盤はベンサムやミルの功利主義哲学であり,その背後には有力な工業ブルジョアがいた。第1次世界大戦に際しては戦争遂行の任にあたり,戦後も連立政権の中心に収まった。しかし 1922年に保守党は独自の道を歩もうとして,ついに連立政権を倒壊させた。このとき以来自由党は,政権の座から遠のくことになり,さらに第2次世界大戦中アスキス派とロイド・ジョージ派とに分裂したことで党勢を弱めることになった。しかし保守=労働の2党間の議席差がわずかであるため,政策決定にキャスティング・ボートを握る場合もままあり,二大政党制の連続にあきたらぬ中間層の支持を集め,勢力回復の兆しをみせつつある。事実,74年 10月の総選挙では 13議席を獲得しキャスティング・ボートを握り,77~78年には労働党政権を支えた。 83年6月の総選挙では社会民主党と組み,合計4分の1の票を獲得,87年の総選挙でも 17議席を獲得し第3党となった。 88年3月,社会民主党の一部と合併し社会自由民主党を結成,その後 89年には自由民主党と改称した。

自由党[ホンジュラス]
じゆうとう[ホンジュラス]
Partido Liberal de Honduras

ホンジュラス二大政党の1つで,中道右派政党。設立の起源は 1890年にまでさかのぼる。都市部の住民をおもな支持基盤とし,社会改革,民主主義,中米統合を掲げてきた。 1980年4月の民政移管のための制憲議会選挙で勝利し,翌 81年の総選挙でも国民党を下して,ロベルト・スアソ・コルドバ党首が大統領に当選。だがその後党内は分裂し,85年大統領選挙でスアソ大統領派はオスカー・メヒア・アルジャノを擁立するが,人民自由同盟の支持を受けたホセ・アスコナ・オヨが当選した。 87年には親米派のカルロス・フロレス・ファクセが党首に就任し 89年の大統領選挙に出馬するが,国民党候補のラファエル・レオナルド・カジェハスに敗北した。続く 93年大統領選挙ではカルロス・ロベルト・レイナが出馬し政権を奪回,同時に実施された総選挙でも過半数を制して第1党についた。 97年 11月の大統領選挙ではフロレス・ファクセ国会議長が再出馬して当選した。

自由党
じゆうとう

日本の政党。 1890年1月 21日大同団結運動のさなか旧自由党員を結集して,大井憲太郎,内藤魯一らが再興した政党。8月板垣退助の愛国公党,旧自由党系の大同倶楽部と合同して庚申倶楽部を結成。これを中心に9月立憲自由党を結成し,91年3月再び自由党に改称。藩閥政府に対し,「政費節減,民力休養」をスローガンとして対立。歴代の藩閥内閣がしばしば議会を解散して選挙干渉を行なったにもかかわらず,選挙では常に第1党となった。 98年6月進歩党と合同して憲政党を結成したがまもなく分裂,1900年旧自由党系主流は立憲政友会の結成に参加した。

自由党[オーストリア]
じゆうとう[オーストリア]
Die Freiheitlichen

オーストリアの政党。 1956年設立。かつてのオーストリア・ナチ党員を糾合して 1949年につくられた独立連盟が母体で,民族主義的社会主義勢力を支持基盤とした。 1970年代に入り極右路線を修正,リベラル派の取込みをはかった。 83年の総選挙では第3党につきオーストリア社会党 (オーストリア社会民主党 ) と連立内閣を樹立した。しかし 86年9月,党首に親ナチ派の E.ハイダーを選出したため連立は解消された。その後も移民受入れ反対を掲げて,同年 11月の総選挙,89年3月の地方選挙,90年 10月の総選挙では議席数を倍増させた。 92年 11月に「オーストリア第1」を掲げ移民反対の署名キャンペーンを展開したが,党内穏健派の分裂を引起し,93年2月には穏健派が分離し自由フォーラムを結成。 95年には政権獲得を目指して党名を自由運動に改称した。

自由党
じゆうとう

日本の政党。新進党小沢一郎を中心として 1998年1月に結成された保守政党。衆議院議員 42人,参議院議員 12人で発足。1999年1月自由民主党との連立政権に参加。2000年4月連立政権を離脱したが,このとき扇千景参議院議員らが政権に残留し新たに保守党を立ち上げた。2003年9月民主党と合併したことで,民主党は同年 11月の衆議院議員総選挙で躍進し,自民党とならぶ二大政党体制がもたらされた。解散時衆議院議員 22人,参議院議員 8人。

自由党
じゆうとう

日本の政党。日本最初の全国的自由主義政党。自由民権運動のなかで重要な役割を果した。 1881年 10月 18日に板垣退助,中島信行,後藤象二郎,末広重恭,馬場辰猪らが結成。総理板垣,中央機関紙『自由新聞』を発行。薩長両藩出身者が支配する藩閥政府と対決,自由民権の伸長,地租軽減,条約改正などの要求を打出し,各地で急速に勢力を伸ばした。しかし 82年6月の突然の集会条例改正による地方部の解体や,福島事件をはじめとする政府の激しい弾圧政策,不況による資金の欠乏,板垣の外遊をめぐる党内抗争などにより,84年 10月 29日ついに解党に追込まれた。

自由党[アメリカ合衆国]
じゆうとう[アメリカがっしゅうこく]
Liberal Party

アメリカのニューヨーク州を中心とする政党。 1944年アメリカ労働党 American Labor Partyの右派が分離して組織した小党。右派の分離の直接的契機は,アメリカ労働党内に共産党の勢力が浸透してきたことによるもので,ニューヨーク市を中心に教育者,宗教指導者,ホワイトカラー層,大政党への不満を持つ社会層に基盤をもち,61年の市長選挙,62年の知事選挙,64年の大統領選挙では民主党の候補を支持。 65年市長選挙で共和党の J.リンゼーを推して以来,共和党の進歩派を支持するようになった。

自由党[フィリピン]
じゆうとう[フィリピン]
Liberal Party

略称 LP。フィリピンの政党。 1946年ロハス上院議員が中道派のナショナリスト勢力を結集して創設。反マルコス派勢力である民主国民連合 UNIDOの一員。 87年5月の総選挙では上院8議席,下院 42議席を獲得したが,のちにサロンガの率いる主流派と右派傾向の強いカラウ派に分裂した。 92年5月の総選挙では離党者が続出したため勢力を大きく後退させた。

自由党[オーストラリア]
じゆうとう[オーストラリア]

「オーストラリア自由党」のページをご覧ください。


自由党[カナダ]
じゆうとう[カナダ]

「カナダ自由党」のページをご覧ください。


自由党[スリランカ]
じゆうとう[スリランカ]

「スリランカ自由党」のページをご覧ください。


自由党[ベルギー]
じゆうとう[ベルギー]

「自由進歩党[ベルギー]」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「自由党」の解説

自由党
じゆうとう

1明治期の政党。1881年(明治14)成立。全国的に活況を呈していた民権派結社を結集する中央政党結成の気運をうけ,板垣退助を総理,中島信行を副総理として結党。立憲改進党とともに自由民権運動の中心として活動したが,国会開設まで10年という長期間の運動を指導していくことの困難さや,板垣・後藤洋行問題に端を発した内紛,改進党との軋轢,弾圧強化,資金難などで行き詰まり,84年10月解党。やがて大同団結運動で民権派再結集の気運が盛り上がり,大同倶楽部・再興自由党・愛国公党の旧自由党3派に九州同志会が合同し,90年9月,立憲自由党を結成(翌年自由党と改称)。改進党とともに民党連合を形成し,初期議会で藩閥政府と激突したが,第4議会頃から第2次伊藤内閣に接近し,日清戦後の96年4月には板垣退助が内相として入閣。98年6月,地租増徴などをめぐり藩閥が政権維持の展望を失ったのをうけて進歩党と合同,憲政党を組織した。

2昭和戦後期の政党。1950年(昭和25)3月,民主自由党と民主党連立派の合同によって成立。総裁吉田茂。成立時は第3次吉田内閣期で,以後第5次吉田内閣まで政権を担当。この間サンフランシスコ講和条約の締結,日米安保体制の確立,資本主義経済の再建,警察予備隊の新設など,戦後日本の進路を決定づける諸政策を遂行した。55年11月,日本民主党からの保守合同のよびかけや財界の要請に応じて解党し,自由民主党の結成に参加した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

知恵蔵 「自由党」の解説

自由党

自由党は新進党の解党を受けて1998年1月、小沢一郎を党首に発足、衆参54人を擁した。自民党への批判を強め、98年7月の参院選では比例区で500万を超す得票をして、「新保守」勢力の一角を占めた。小渕政権発足当初は批判的立場を維持したが、99年1月には自民党との連立に踏み切った。野党戦線で民主党などと共闘しても展望がなかった中、小渕からの連立の要請を小沢が受け入れた。99年10月には自自公政権となった。しかし、連立政権内での主導権争いが次第に激しくなり、小沢は自民党への揺さぶりの狙いもあって、衆院議員定数の削減などを主張。実現できない場合は連立を離脱する考えをたびたび表明した。小沢は、さらに自民党と自由党との合流などを要求した。4月の小渕首相と小沢党首との会談で、合流問題などは決裂。自由党は連立を離脱したが、小沢の党運営などに反発するメンバーは保守党を結成して連立政権に残った。自由党には24人、保守党には26人が、それぞれ参加した。自由党は2000年の総選挙では、衆院18人の勢力から22人に増えた。01年の参院選では改選3議席を6議席に伸ばした。小沢は自民党に対抗できる政党作りが急務だとして、民主党との合併を提唱。菅との合意を踏まえ、03年9月に民主党に吸収される形で合併を実現し、自由党は解党した。

(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「自由党」の解説

自由党
じゆうとう

①明治時代,自由民権運動の中心的政党(1881〜84,'90〜98)
③ 第二次世界大戦後の保守政党(1950〜55)
④小沢一郎を中心に結成された保守政党(1998〜 )
国会期成同盟を中核に結成。総理板垣退助,副総理中島信行。幹部には後藤象二郎・大井憲太郎・植木枝盛らがいる。フランス流の急進的自由民権論の立場で士族・豪農商などの支持を得た。政府の弾圧と懐柔,貧農の闘争の激化のため,幹部が動揺して1884年解党。その後大同団結運動を通じて再建の気運がおき,'90年立憲自由党として再発足。'91年自由党と改称したが,一時政府と接近し板垣が入閣。'98年進歩党と合同して憲政党を結成。
② ⇨ 日本自由党
1950年3月,民主自由党が日本民主党連立派を加えて成立。総裁吉田茂。第3〜5次吉田内閣の与党として政権を握る。'55年11月,日本民主党と合同し,自由民主党を結成した。
1994年12月,新生党,公明党,民社党,日本新党の4党および自由民主党離脱議員らによって,新進党が結成されたが,党内対立により,'97年12月に解党。翌年1月小沢を中心に自由党が結成された。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「自由党」の解説

自由党
じゆうとう
Liberal Party

イギリスの政党。ホイッグ党の後身
産業革命後の新たな社会構成に対応し,新興商工業者を中心に1830年ごろ結党。トーリー党の後身である保守党と政界を二分し,自由主義的諸改革を進めた。19世紀後半のグラッドストン時代が全盛期。第一次世界大戦後,労働党の進出により衰退した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の自由党の言及

【インド[国]】より

…正式名称=インドBharat∥India面積=328万7263km2(ジャンムー・カシミール(12万1667km2)を含む)人口(1996。ジャンムー・カシミールを含む)=9億5296万人首都=ニュー・デリーNew Delhi(日本との時差=-3.5時間)主要言語=ヒンディー語(公用語),英語(準公用語),テルグ語,アッサム語,マラーティー語,ベンガル語,タミル語など憲法にあげられている17の地方の公用語通貨=ルピーRupee国名はヒンディー語ではバーラトBharatという。…

【オランダ】より


[宗教]
 国民のうち,カトリックが40%,プロテスタントが30%(改革派23%,再改革派7%),諸派(アルミニウス派,再洗礼派,ルター派)およびユダヤ教が8%で,残りの約20%は無宗教である。オランダは歴史的にはプロテスタントの国であったが,改革派教会の特権の廃止(1796),憲法改正による信仰の自由の確立(1848),ローマ・カトリックの教権制度復活(1853)によって自立した勢力になったカトリック教会は,19世紀後半の自由党員と自由主義の支配に抗して,政治・社会・文化・教育の全領域で信徒を統合し指導した。自由主義とさらに19世紀末以後の社会主義の浸透による世俗化の進行は,カトリック教会よりも改革派教会にいっそう強い打撃を与え,加えて再改革派の分離(1892)も改革派の勢力を低下させた。…

【カナダ】より

…カナダの政党は連邦と州のレベルに二分される。連邦議会に議員を送ったことのある政党としては,自由党,進歩保守党,新民主党,社会信用党(クレディスト党)のほかに1980年代末から90年代初めに急伸してきた改革党とケベック連合があげられる。これらのうち政権担当の経験をもつのは自由党と進歩保守党である。…

【コロンビア】より

…保守党は伝統的大地主層に基盤をもち,中央集権的で教会の権益をも代弁する。一方,自由党は近代的商工資本家層を基盤とし,連邦主義的かつ反教権主義的であった。しかし,こうした区別が可能だったのは初めのうちだけで,両党の指導者たちは目的達成と自陣営強化のために,じきに中間層や労働者・農民をも系列化し,いずれも階級縦断的な性格を帯びるようになる。…

【スリランカ】より


[政治]
 独立後の政権は,シンハラ人中産階級の利害を代表する二つの政党が,総選挙のたびに与・野党を交替しながら担っている。ともに非同盟の外交政策をとっているが,統一国民党Eksat Jātika Pakshaya(シンハラ名)は親欧米色が強く,自由党Sri Lanka Nidahas Pakshaya(シンハラ名)はより民族主義的であり,社会主義諸国との友好関係を重視するといわれている。植民地時代には,分割統治政策によって,相対的に優遇されていたタミル人中産階級は,独立後の政権に参画する機会が乏しく,多数民族への不満が大きい。…

【チリ】より

…他のラテン・アメリカ諸国とは異なって,1833年憲法以来,これらの支配階級の権益を保持しながら,ヨーロッパ型の立憲政治が確立された。その後,保守党,自由党などが結成されて,政党政治が定着した結果,政治は安定し,クーデタ,政変はきわめて少なかった。政治は選挙制度,大統領の権限,宗教・教育・言論などの自由などをめぐり,秩序重視派の保守党と自由尊重派の自由党との二大政党間の対立を軸として展開した。…

【パラグアイ】より

… ストロエスネル大統領失脚後の民主化の過程で言論・集会の自由が認められ,政党・労組活動が活発化している。現在の与党は国民共和協会(通称コロラド党),主要な野党は真正急進自由党,国民会合運動,二月革命党などである。コロラド党,真正急進自由党の前身はいずれも1880年代に結成され,前者は保守的,後者はやや進歩的な傾向をもっていたが,現在では両者の違いは明確ではなくなっている。…

【板垣退助】より

…78年9月立志社が中心となって愛国社を再興し,国会の開設を求める自由民権運動を推進した。81年10月自由党の結成にあたって総理に推され,翌年4月遊説途中の岐阜で刺客に襲われ負傷。このとき叫んだという〈板垣死すとも自由は死せず〉のエピソードは,彼の経歴中最も輝かしい時期の象徴である。…

【保守合同】より

…1955年11月15日,民主党と自由党の合同による自由民主党の結成をいう。1952年4月のサンフランシスコ講和発効後,政界に復帰した追放解除者と戦後派保守政治家との対立がしだいに表面化した。…

【明治時代】より

…政府はこの明治14年の政変(1881)により民権運動に一定の譲歩をする一方で,政府内の異端を排除して藩閥政府の態勢を整えるとともに,欽定憲法主義や天皇大権確立など立憲制採用の基本方針を決定し,翌年には参議伊藤博文を憲法調査のために渡欧させた。 他方,自由民権派は愛国社から国会期成同盟へと組織を変更しながら国会開設運動を推進してきたが,それが母体となって1881年10月に自由党が結成され,板垣退助を総理に推した。この自由党は一院制議会を構想し基本的人権の確立をめざして,地主や農民など農村部に主たる基盤をおいた。…

【イギリス】より

… 19世紀後半に入り,都市化と産業化の成熟,あるいは1867,84両年の選挙権の大幅拡大などを背景に,トーリーとホイッグは,土地貴族支配を頂点では残しながらも,院外党組織の拡充,党規律の強化,社会政策の積極的導入を進めた。この過程で名望家政党から大衆組織政党への脱皮が進み,トーリーは保守党,ホイッグは自由党と名称も変え,現代的な二大政党制が成立する。同時に,選挙によって多数派となった政党が,党首を首班とする内閣を通して,選挙公約に掲げた一連の政策を実施する傾向,つまり政党内閣化が進んでいく。…

【グラッドストン】より

…45年,植民大臣となり,46年,穀物法の廃止に際してこれを支持,ピールと行動をともにし分裂した保守党を離れた。52年,自由党とピール派が連立して成立したアバディーン内閣(1852‐55)に蔵相として入閣,翌53年,自由主義的な画期的予算案を成立させ,財政家としての名声を博した。57年,第2次アヘン戦争(アロー号事件)に際し,平和主義の立場からパーマストンの砲艦外交を厳しく非難したものの,59年にはついに自由党に入党,同時にパーマストン内閣(1859‐65)の蔵相となり,関税引下げ政策の徹底,英仏通商条約の締結(1860)によってイギリスの自由貿易政策を完成の域へともたらした。…

【自由帝国主義】より

…19世紀末葉から20世紀初頭にかけてイギリス自由党内に生まれた一部の思想・主張をいう。グラッドストンの引退後,ローズベリー伯(1894‐95首相),R.B.ホールデーン,E.グレー,H.H.アスキス(1908‐16首相)ら一部の自由党議員は,イギリス帝国の統合に強い関心を寄せるようになり,自由帝国主義者と呼ばれた。…

【政党】より


[イギリス]
 しかし,政党はまさしくこの時期に発達し,しだいに政治的に無視できない勢力を形成するようになった。イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。…

【中道】より

…もともとは道の中央あるいは中庸公正な道の意であるが,政治用語としては,一般的に左右の政治勢力の中間に位置する政治的立場を指す。このような立場を標榜する政党が〈中道政党〉であり,この種の政党の典型としてあげられるのが,西ドイツのキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)とドイツ社会民主党(SPD)の中間に立ち,1949‐66年にはCDU/CSUとの,69年以降はSPDとの〈小連立〉に参加してきた自由民主党(FDP)や,社会主義なしの社会改革を主張し,政治的スペクトル上で保守党と労働党の中間点を占めるイギリス自由党,さらに労働党よりは穏健で保守党ほど保守的でない立場を唱えて労働党からの離脱者を中心に81年3月に結成されたイギリス社会民主党などである。日本で中道勢力をめぐる論議が盛んになってきたのは,1970年代後半以来の1955年体制崩壊期においてで,〈55年体制〉下の保守・革新の二分法的政治勢力配置状況のなかで,その中間に立つ第三勢力として台頭してきた諸政党が中道勢力と呼ばれてきたが,とくに公明,民社,社会民主連合のみを指して〈中道3党〉という場合と,これに新自由クラブを加えて〈中道4党〉という場合がある(新自由クラブは1986年解党)。…

【ロイド・ジョージ】より

…イギリスの自由党政治家。父はウェールズ出身,ユニテリアン派の学校教師であったが1864年死亡。…

※「自由党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android