自由民主党(読み)じゆうみんしゅとう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

自由民主党(日本)
じゆうみんしゅとう

第二次世界大戦後、日本の政治を長く支配してきた保守政党。略称、自民党。1955年(昭和30)の保守合同による結党以来、1993(平成5)~1994年の細川護熙(もりひろ)内閣、羽田孜(はたつとむ)内閣期を除いて、ほぼ一貫して政権与党の座を占め、世界的にもまれな長期の一党優位政党制の中核にあったが、麻生太郎(あそうたろう)内閣期の2009年(平成21)8月総選挙で民主党に大敗し野党となった。しかし2012年12月総選挙では大勝して政権に復帰した。自民党は党内にさまざまな派閥や政策グループを抱えていることで知られ、欧米の政治学者やジャーナリストのなかには一種の連合政党とする見方もある。[加藤哲郎]

歴史と政策

自由民主党は、1955年11月15日、第二次世界大戦後離合集散を繰り返してきた保守勢力が合同することで成立した。その遠い起源は、戦前の政友会、民政党や戦中の大政翼賛会にまでさかのぼるが、敗戦直後から活動を始めた日本自由党、日本進歩党、日本協同党を経て、親米・経済再建を掲げる吉田茂(よしだしげる)らの自由党と、改憲・再軍備を目ざす鳩山一郎(はとやまいちろう)らの日本民主党が直接の母体となった。左右社会党の合同(1955年10月)に危機感を抱いたアメリカ、経済復興のための安定した保守政治と政治資金一元化を望む財界の強い圧力が、保守合同を実現させた。もともと農村部に強い政党で、高度経済成長時代に都市化が進み、選挙での得票率は長期低落傾向にあったが、議席のうえではほぼ過半数を確保し続け、1983年の第二次中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣で新自由クラブとのミニ連合を組むまで単独政権を維持した。
 冷戦終結後の1992年宮沢喜一(きいち)内閣期に政治改革問題で大量の離党者を出し、細川内閣、羽田内閣では野党になって「五五年体制の崩壊」といわれた。1994年6月に五五年体制の宿敵日本社会党(現、社会民主党)および新党さきがけと組んで社会党首班の村山富市(むらやまとみいち)内閣を成立させ、政権与党に復帰した。さらにこの連立を維持したまま、1996年1月、村山首相辞任の後を受け、橋本龍太郎が首相に就任し、2年半ぶりに自民党総裁は政権の座についた。その後1998年8月の参議院選挙で大きく議席を減らしたため橋本内閣は辞職、小渕恵三(おぶちけいぞう)内閣が成立した。小渕首相は政権安定を目ざして1999年1月に小沢一郎が率いる自由党と連立内閣を組み、さらに同年10月公明党を加えた三党連立内閣を成立させたが、2000年4月に自由党が連立を離脱、その直後に小渕が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、内閣は総辞職した。その後を継いだ森喜朗(もりよしろう)内閣は、公明党と保守党(自由党内で連立離脱に反対するグループが分裂して結成)との三党連立内閣となった。森内閣は2001年4月、失言問題などでの支持率の急激な低下により総辞職、後を受けて発足した小泉純一郎内閣も、公明党、保守党との三党連立内閣になった。しかし保守党は2002年解党、同党の一部議員による保守新党が発足し、連立内閣に加わった。2003年11月の第二次小泉内閣は保守新党が自民党との合併で解党し、公明党との二党連立内閣となった。
 対米協調と新自由主義の構造改革を唱えた小泉内閣は、党内森派の支持のみならず巧みなメディア利用で世論調査では高支持率を保ち長期化、2005年9月の総選挙では郵政民営化法案への賛否で党内反対派を排除しながら大勝、公明党との連立を保って組閣された第三次小泉内閣は、2006年9月の退任まで続く安定政権となった。しかし小泉退任後の自民党は、小泉型新自由主義と伝統的保守主義のはざまでグローバル世界の環境変化に適応できず、安倍晋三(あべしんぞう)、福田康夫、麻生太郎と短命内閣が続き、2009年8月衆議院選挙で「政権交代」を掲げる民主党に大敗し、議席を公示前の300から119へと大きく減らして政権を失った。野党となった自民党は、谷垣禎一(たにがきさだかず)新総裁のもとで自公協力は解消され、世論の支持は戻らず、与謝野馨(よさのかおる)、舛添要一(ますぞえよういち)ら有力幹部も離党して、党再建を迫られた。2012年末の総選挙を前に、民主党政権の失政で政権奪取のチャンスとみた自民党は、2012年9月党大会で谷垣にかえて安倍晋三を総裁に復帰させ、景気回復を掲げて小選挙区で圧勝し294議席を得て与党に復帰、公明党との連立で安倍政権をつくった。
 自民党が政権にあるときは党総裁が内閣総理大臣を兼ねるため、自民党の歴史は、総理の座をめぐる権力闘争の歴史でもある。党創立以後の総裁は、鳩山一郎(1956年4月就任)、石橋湛山(いしばしたんざん)(1956年12月)、岸信介(きしのぶすけ)(1957年3月)、池田勇人(いけだはやと)(1960年7月)、佐藤栄作(さとうえいさく)(1964年12月)、田中角栄(たなかかくえい)(1972年7月)、三木武夫(みきたけお)(1974年12月)、福田赳夫(ふくだたけお)(1976年12月)、大平正芳(おおひらまさよし)(1978年12月)、鈴木善幸(すずきぜんこう)(1980年7月)、中曽根康弘(1982年11月)、竹下登(たけしたのぼる)(1988年10月)、宇野宗佑(うのそうすけ)(1989年6月)、海部俊樹(かいふとしき)(1989年8月)、宮沢喜一(1991年10月)、河野洋平(こうのようへい)(1993年7月)、橋本龍太郎(1995年9月)、小渕恵三(1998年7月)、森喜朗(2000年4月)、小泉純一郎(2001年4月)、安倍晋三(2006年9月)、福田康夫(2007年9月)、麻生太郎(2008年9月)、谷垣禎一(2009年9月)、安倍晋三(2012年9月、再)で、河野・谷垣以外はすべて首相となっている。なお、福田赳夫と康夫は親子、安倍晋三は岸信介の、麻生太郎は吉田茂の孫で、政治家の世襲は総理にまで及んだ。また、初代総裁鳩山一郎の孫鳩山由紀夫(はとやまゆきお)は、2009年政権交代時の民主党政権首班となった。
 1955年創立時の綱領は、「わが党は、民主主義の理念を基調として諸般の制度、機構を刷新改善し、文化的民主国家の完成を期する」「わが党は、平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して、国際関係を是正し、調整し、自主独立の完成を期する」「わが党は、公共の福祉を規範とし、個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し、民生の安定と福祉国家の完成を期する」の3項目であった。当初は鳩山らの主張で「現行憲法の自主改正」や「自衛軍備を整え駐留外国軍隊の撤退に備える」ことを政綱に含んでいたが、憲法改正に必要な国会の3分の2の議席独占が困難であるため、憲法第9条のもとでの自衛隊増強の路線に進んだ。解釈改憲といわれる。また自主防衛構想は捨てて、日米安全保障条約による米軍駐留を認めたまま経済建設に力を注ぐ対米依存の方式に切り替えた。こうした吉田茂の流れをくむ対米依存・軽武装・経済成長主義の路線が、池田内閣の「所得倍増計画」から佐藤長期政権へと「保守本流」を形成した。
 ポスト高度成長期に入ると、田中内閣の「自由社会を守れ」キャンペーン、福田内閣の「有事立法」、中曽根内閣の「戦後政治の総決算」、冷戦終結後も森内閣の「天皇を中心とした神の国」、安倍内閣の「美しい国」などイデオロギー的色彩の濃い政策、発言も現れるが、それは、結党時の戦前復帰・自主防衛型ではなく、経済大国化・高度消費社会化を経たうえでの日米同盟強化や国民統合・危機管理を目ざしたものであった。
 田中内閣時に「福祉元年」を唱えて都市中間層向けの経済・財政政策を意識的に採用し、1993年に一時野党になって以後、日本社会党(後の社会民主党)や新党さきがけと、その後は自由党(自由党分裂後は保守党)や公明党と連立を組みながら政策を柔軟化した。しかし、冷戦終結で国際環境は大きく変わった。世界経済のグローバル化のなかで隣国中国が市場経済を取り入れ飛躍的に成長、日本経済の相対的地位は「失われた20年」で低下した。景気回復は輸出向け大企業にとどまり、グローバル市場にあわせた民営化、規制緩和を進めた小泉内閣の新自由主義改革は、地方産業・中小企業の衰退、格差拡大と非正規労働・貧困層増大、若者の失業をもたらした。2008年の世界的金融危機「リーマン・ショック」は日本経済を直撃し、自民党の経済政策への信頼は失われた。
 湾岸戦争以後、自衛隊は国連平和維持活動(PKO)に加わり、2001年アメリカで同時多発テロ事件が勃発(ぼっぱつ)してアフガニスタン、イラクに対する戦争・占領が続くと、小泉内閣は自衛隊を後方支援・復興援助の形で海外に派遣するようになった。かつての国連中心主義と日米同盟を二本柱とした外交政策は日米同盟のほうに大きく傾き、アメリカを後ろ盾にした国連安全保障理事会常任理事国入りを目ざし、自衛隊とその海外活動を憲法に明記する方向へ進んだ。
 2005年の結党50周年にあたって、自民党は新綱領を採択し、憲法改正案を公式に取りまとめた。新綱領は、「私たちは近い将来、自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定されるよう、国民合意の形成に努めます。そのため、党内外の実質的論議が進展するよう努めます」と「新しい憲法の制定を」を第一に掲げ、以下「高い志をもった日本人を」「小さな政府を」「持続可能な社会保障制度の確立を」「世界一、安心・安全な社会を」「食糧・エネルギーの安定的確保を」「知と技で国際競争力の強化を」「循環型社会の構築を」「男女がともに支え合う社会を」「生きがいとうるおいのある生活を」を掲げ、改憲・愛国心の強調と環境保護・男女平等参画・NPO活動支援など新しい問題を併存させる、折衷的なものとなった。同時に採択された自民党新憲法草案も、焦点の第9条では第1項の平和主義規定を残し、第2項で自衛隊を自衛軍に昇格させ、第3項で「国際社会の平和と安全」に自衛軍を使えるようにする改訂を加え、同時に個人情報保護や環境保全などの新条項を設ける案となった。これは、連立与党の公明党や改憲そのものには反対しない最大野党民主党をも組み込んで衆参両院で3分の2の憲法改正発議をねらったもので、自民党としては、自衛隊の憲法上の地位を明確にし、憲法改正発議を現行第96条の国会議員の3分の2から過半数に変えることで将来のさらなる改憲への道を開くことを、最大の獲得目標にした。しかし2009年8月総選挙で自民党は野党になったため、改憲論議も一時棚上げされた。
 2010年にも綱領を改定し、「日本らしい日本の確立」「進歩を目指す保守政党」を掲げた。改憲容認の世論は21世紀に入って増え続けたことから、自民党は2012年4月、新たな憲法改正案をつくった。2005年草案より国家主義的色彩を強め、自衛軍から国防軍へと名称も変更、集団的自衛権・軍事裁判所の明記、「公益及び公の秩序」を強調して基本的人権規定が後退し、現行第97条の基本的人権の総括条項を削除して、かわりに第98条以下に緊急事態条項を加えた。全体として国家権力の濫用を規制する立憲主義の考え方が後退し、国民の自由と人権を制限する方向が打ち出されたが、焦点は第96条改正を先行させ発議権を国会議員の過半数にする点にあった。これが2012年12月総選挙での自民党圧勝、公明党との連立政権、それに日本維新の会など改憲志向の新党台頭で現実的可能性が生まれ、2013年7月参院選挙の結果次第では、2007年第一期安倍内閣時に制定された国民投票法に基づく憲法改正が、具体的日程に上ることになった。[加藤哲郎]

党員と党運営

1976年に党総裁選挙に一般党員による直接予備選挙制が採用され、党員数は飛躍的に増大して一時は250万人以上ともいわれた(2012年8月末で約80万人)。しかし、総裁は派閥領袖(りょうしゅう)の話し合いや国会議員のみで決められる場合があり、閣僚ポストの配分など全体としての党運営も、総裁、副総裁に幹事長、政務調査会長、総務会長の党三役が加わった党執行部の派閥間調整で決められる場合が通例である。国会議員中心の政党で政策立案・策定は長く官僚制に依拠してきたが、長期にわたる政権独占で議員の専門化も進み、政策的にも官僚依存から脱した政務調査会・族議員の活躍がみられた。1993年の党分裂、野党への転落、1994年政治改革後も、派閥均衡人事や利益配分型政治の体質は残された。しかし、2001年(平成13)4月に成立した小泉内閣は、従来の派閥均衡の政治運営を排した特色ある組閣人事を行い、党総裁と執行部、総理大臣と内閣官房への権限集中を強めた。その後も世論と選挙を意識して女性や若手の登用も進めたが、他方で世襲議員、タレント議員が増大し、「劇場政治」の問題とされている。[加藤哲郎]

派閥と支持基盤

党総裁は、かつては党大会での両院国会議員および各都道府県連代表の投票によって決めることが多かったが、今日では両院議員に一般党員の投票も加味された総裁選挙で決まる。21世紀に入って総裁選のための全国遊説も行われるようになった。その決定に至るまでに、自民党独特の派閥抗争が行われる。もともと保守合同により成立した党内には改憲・外交をめぐる政策対立がはらまれていたが、旧吉田茂派に多い官僚出身など「保守本流」政治家と、党機構役員や地方議員から育った「党人派」との対立があり、創立直後から「八個師団」とよばれる有力政治家中心の党内グループがつくられた。これらの派閥は、総裁選挙のたびに合従連衡(がっしょうれんこう)を繰り返し、1970年代には「五大派閥」に整理されてくるが、中選挙区制のもとでの衆議院議員選挙が実質的に派閥単位で行われるなど、政策集団というよりも人脈的利権集団、「党内党」の様相を呈した。
 自民党の派閥抗争は、財界から巨額の政治資金を受け、各種利益集団や業界団体の利益を官僚制とのつながりで実現し、農民や中小企業者の支持を集めるというかつての支持基盤・集票構造と密接につながっていた。派閥に属する各議員は、選挙区や業界などの後援会組織で支持者と結び付き、この後援会や支援団体を媒介にして選挙資金や票が派閥系列で集められ、政権党としての利権が支持者に配分されていった。しかし経済成長、都市化による農村人口の減少と選挙制度改革のもとで、自民党は、都市サラリーマン層にも支持を求める近代政党に脱皮せざるをえず、党内ではたびたび派閥解消がうたわれるようになった。1994年政治改革による小選挙区制導入、国家からの政党助成交付金により派閥は解消するかにみえたが、実際には候補者選定、比例代表名簿順位決定、閣僚ポスト配分などの際、派閥均衡の原理が生き残った。小選挙区制のもとでの幹事長・党執行部の候補者決定権限の強まり、総理大臣と内閣官房への政治権限集中が進み、とくに旧田中派・竹下派経世会の衰退と森派清和会の台頭、「小さな政府」と地方分権の方向での官僚制や族議員の利益誘導縮小、小泉政権時の無派閥新人議員の大量当選等により、利権集団としての派閥の役割は弱まり、政策集団としての緩やかなつながりへと移行した。2012年総裁選では、総選挙への思惑で現職谷垣総裁が立候補できず、地方組織の支持は無派閥の石破茂(いしばしげる)に集まり、清和会系の町村派からは領袖町村信孝(まちむらのぶたか)と安倍晋三の2人が立候補して安倍が勝利するという、派閥政治の衰退を象徴する事態になった。総選挙勝利後の閣僚指名でも、各派閥推薦者を配する旧来の人事手法はとられなかった。[加藤哲郎]

2009年・2012年総選挙

自民党は、冷戦時代の政敵日本社会党と連立して社会党を政策転換に追い込み、弱小党である社会民主党へと転身させた。政治改革で野党再編が繰り返されても、自民党は公明党等との連立で政権を握り続けた。しかし新時代への政策基軸をつくることはできず、小泉内閣の新自由主義改革も党内対立を拡大することになった。世論の支持を失った麻生内閣のもとでの2009年8月総選挙では、「政権交代」を掲げて「変化(チェンジ)」を求める民意をくんだ鳩山由紀夫・小沢一郎の民主党に大敗し、ついに政権を失うことになった。
 しかし2009~2012年の民主党鳩山由起夫・菅直人(かんなおと)・野田佳彦(のだよしひこ)政権は、選挙時の政権公約を実行できず、中国・韓国との領土問題や2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原発事故に十分対応できないまま離党者が続出し、国民に見放された。2012年12月総選挙では自民党が大勝して政権に復帰、公明党と連立で二度目の安倍晋三内閣が生まれた。ただし民主党の分裂や日本維新の会など新党の台頭で漁夫の利を得たもので、自民党の得票率・得票数が大きく伸びたわけではなかった。小選挙区での与党民主党惨敗による相対的勝利・大量議席獲得であったが、海外メディアは右傾化と報じた。
 こうした政党制の大きな転換は、冷戦崩壊時にイタリアで、その後もインドやメキシコで経験されたことであり、政権交代への期待が大きかっただけに、実際の変化の乏しさに国民が失望した結果である。政権に復帰した自民党も、同様な国民の審判を受ける。日本の政党制がどうなるか、英米型二大政党制に移行するかどうかは、野党となった民主党が再生できるか、新たに生まれた日本維新の会、みんなの党など「第三極」と自公政権の関係がどうなるかにかかっている。[加藤哲郎]
『蒲島郁夫著『戦後政治の軌跡――自民党システムの形成と変容』(2004・岩波書店) ▽星浩著『自民党と戦後――政権党の50年』(講談社現代新書) ▽飯尾潤著『日本の統治構造――官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書) ▽野中尚人著『自民党政治の終わり』(ちくま新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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