自由民主党(日本)(読み)じゆうみんしゅとう

日本大百科全書(ニッポニカ)「自由民主党(日本)」の解説

自由民主党(日本)
じゆうみんしゅとう

第二次世界大戦後の日本で長期にわたり政権を担当してきた保守政党略称自民党。1955年(昭和30)の保守合同による結党以来、1993年(平成5)に至るまで、野党第一党の日本社会党と対立しつつ、ほぼ一貫して単独政権を続け、世界でもまれにみる一党優位政党制を築き上げ、「五五年体制」とよばれた。1993年に非自民・非共産の八党派連立政権が成立して下野するが、翌年、日本社会党党首を首相に担いで政権与党の座に復帰し、1996年には首相ポストを回復する。それ以降、2009年(平成21)から2012年にかけての民主党政権を除き、最大政党として連立政権を率いる。1999年からは公明党と連立を組み、選挙協力を通じて安定した政党ブロックを形成している。

[中北浩爾 2021年4月16日]

歴史

自民党は1955年11月15日、日本民主党と自由党が合同して成立した。明治時代の自由民権運動のなかから自由党と立憲改進党が結成されて以来、前者が立憲政友会に、後者が憲政会・立憲民政党に発展するなど、保守政党は大きく二つに分かれてきた。第二次世界大戦後、戦前の合法無産政党の後身の日本社会党が成長した結果、それに対抗するために保守合同が行われた。

 自民党が結成される1か月前、左右両派に分裂していた日本社会党が統一し、野党第一党になっていた。左派が主導する日本社会党は非武装中立を唱え、階級政党の色彩が強かった。そのため、日本社会党の政権獲得を懸念したアメリカや財界も、保守合同を後押しした。結党時の自民党は衆議院で467議席中299を占めた。

 さまざまな保守の潮流が合流した自民党は当初、総裁を決められず、鳩山一郎(はとやまいちろう)、緒方竹虎(おがたたけとら)、三木武吉(ぶきち)、大野伴睦(ばんぼく)の4名の代行委員制で発足せざるを得なかった。旧自由党総裁の緒方の急死を受けて、1956年4月に旧民主党総裁の鳩山が総裁に就任した。ところが、衆議院への小選挙区制の導入に失敗して中選挙区制が続いたことに加え、総裁公選を採用した結果、かえって派閥対立が強まった。石橋湛山(たんざん)が勝利を収めた1956年12月の総裁選で、八個師団とよばれる派閥が固まった。

 八個師団とは、旧民主党系の信介(きしのぶすけ)派、河野一郎派、石橋湛山派、三木武夫・松村謙三派、旧自由党系の池田勇人(はやと)派、佐藤栄作(えいさく)派、大野伴睦派、石井光次郎(1889―1981)派である。石橋に続いて1957年に岸が総裁に就任するなど、当初は旧民主党系が主流の地位を占めたが、それ以降、吉田茂の系譜を引く自由党系の池田と佐藤が相次いで総裁になり、この両派が保守本流とよばれるようになった。

 自民党政権の外交面の主たる課題は当初、サンフランシスコ講和条約の締結後も残されていた外交関係の樹立などであり、鳩山内閣が日ソ国交回復と国連加盟、岸内閣が日米安全保障条約の改定、佐藤内閣が日韓国交正常化と沖縄返還、田中角栄(かくえい)内閣が日中国交正常化を実現した。内政面の課題は、池田内閣の所得倍増政策やOECD(経済協力開発機構)加盟にみられるように、経済成長の実現と国際経済への本格的な復帰であった。

 ところが、農村部をおもな支持基盤にしていた自民党は、高度経済成長に伴う都市化や工業化によって得票率を減退させ、1970年代に入ると、衆参両院で与野党伯仲状況に陥った。地方自治体でも、1967年の東京都を皮切りに日本社会党や日本共産党の支援を受けた革新系の首長が多数生まれた。そこで、田中内閣は社会保障政策の拡充につとめた(「福祉元年」)が、田中首相の政治資金に関する疑惑で1974年に総辞職に追い込まれた。自民党は椎名(しいな)裁定によって三木武夫(たけお)を総裁に選出し、政治資金規正法を改正するが、1976年にロッキード事件が発覚した。河野洋平(こうのようへい)(1937― )ら若手議員が離党して新自由クラブを結成し、自民党内でも派閥対立が激化した。

 自民党は、福田赳夫(たけお)内閣のもと、党員参加の総裁予備選挙を導入するなどの党改革に踏み切った。ところが、1978年の総裁予備選挙で大平正芳(おおひらまさよし)が福田を破って総裁に就任し、党内対立に拍車がかかった。しかし、ベトナム戦争の終結を背景に世論調査でも日米安全保障条約に肯定的な意見が増えたこと、オイル・ショックを契機に国民の間で生活保守主義が浸透したことなどが、自民党にとって追い風になった。1979年に東京で革新都政が終わったのに続いて、1980年の衆参同日選挙で自民党は大平首相の急死への同情もあって大勝し、これ以降、保守復調の時代に入った。鈴木善幸(ぜんこう)首相は「和の政治」を唱え、党内融和につとめた。

 鈴木内閣から中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣にかけて行われたのが、「増税なき財政再建」を目ざす行政改革である。中曽根内閣は1983年の衆院選で敗北し、新自由クラブと連立を組むことを余儀なくされたが、1986年の衆参同日選挙で圧勝し、新自由クラブを実質的に吸収した。そして、1985年の日本電信電話公社と日本専売公社の民営化に続き、1987年には日本国有鉄道の分割・民営化を実現した。その結果、日本社会党の最大の支持団体であった日本労働組合総評議会(総評)の主力産業別単一組合(単産)の国鉄労働組合が解体に追い込まれた。アメリカとの関係も良好であり、自民党は再び黄金時代を迎えたかにみえた。竹下登内閣は、大平内閣が失敗した消費税の導入を実現した。

 ところが、1988年にリクルート事件が発覚した。自民党は宇野宗佑(うのそうすけ)内閣のもとで臨んだ1989年(平成1)の参院選で日本社会党に大敗し、参議院で過半数の議席をもたない「ねじれ国会」に陥った。この時期から、相次ぐ汚職事件の原因を衆議院の中選挙区制に求め、小選挙区制の導入を目ざす政治改革の動きが高まりをみせた。同じ1989年には冷戦が終結するとともに、労働組合のナショナル・センターの日本労働組合総連合会(連合)が結成され、階級対立が弱まり、政界再編の条件が整った。

 しかし、政治改革関連法案は、海部俊樹(かいふとしき)内閣、宮澤喜一(みやざわきいち)内閣と相次いで失敗に終わった。PKO協力法を実現しながらも政治改革を断念した宮沢内閣に対して1992年に不信任決議案が出されると、自民党から離党者が相次ぎ、新党さきがけと新生党が結成された。1993年の衆院選で、自民党は過半数を割り込み、日本新党の細川護熙(もりひろ)を首相とする非自民・非共産の八党派連立政権が樹立された。結党から38年間続いた自民党政権がひとまず終止符を打たれたのである。細川首相は、自民党総裁の河野洋平とトップ会談を行い、衆議院への小選挙区比例代表並立制の導入などの政治改革関連法を成立させた。

 ところが、細川に次いで羽田孜(はたつとむ)を首相とした非自民・非共産連立政権は、与党間の対立によって短命に終わった。自民党は1994年、長年対立してきた日本社会党の村山富市(とみいち)委員長を首相に担ぎ、自民・社会・さきがけ(新党さきがけ)の三党で連立を組み、1年足らずで政権に復帰した。同年、細川・羽田内閣の与党の多くが合流して新進党が結成され、野党第一党として対峙(たいじ)した。1996年には自社さ政権のもと、自民党が首相ポストを取り戻し、橋本龍太郎内閣が成立した。橋本内閣は省庁再編や内閣機能の強化などを内容とする行政改革を進め、1996年の衆院選では新進党を破り、単独政権への復帰を目ざした。しかし、金融危機が発生するなかで財政再建に固執したために批判を浴び、1998年の参院選で敗北を喫した。

 次の小渕恵三(おぶちけいぞう)内閣は、自由党(1998年結成)に続いて公明党と連立を組み、財政出動に踏み切るとともに、日米新ガイドライン関連法や国旗・国家法を成立させた。小渕首相が病気で倒れ、森喜朗(もりよしろう)首相に交代する過程で自由党が連立から離脱し、自民・公明・保守の三党連立に切り替わった。森内閣は低支持率に苦しみ、2000年には元幹事長の加藤紘一(こういち)(1939―2016)が野党の内閣不信任決議案に賛成しようとする「加藤の乱」が起きた。乱は事前に鎮圧されたが、結局、翌年森内閣は総辞職に追い込まれた。その背景には、1998年に結成された民主党が二大政党の一角として台頭するという事情があった。

 2001年、自民党は国民に人気がある小泉純一郎を総裁に選出した。小泉首相はアメリカ同時多発テロやイラク戦争などでアメリカとの協調につとめ、二度にわたり北朝鮮を訪問して拉致(らち)被害者の帰国を実現する一方、日本道路公団や郵政事業の民営化など新自由主義的改革を推し進め、それへの「抵抗勢力」と戦う姿勢を示し、高い内閣支持率を誇った。2003年には保守新党が自民党に合流し、自民・公明の二党連立になった。小泉首相は2005年、郵政民営化法案の参議院での否決を受けて解散・総選挙を断行し、造反議員を公認せず「刺客」とよばれる対抗馬を立てて圧勝した。しかし、小泉政権の末期には、新自由主義的改革によって格差が拡大したという批判が高まった。

 2006年、憲法改正を持論とするなど、保守色が強い安倍晋三(あべしんぞう)が総裁に就任した。第一次安倍政権は、教育基本法の改正や憲法改正のための国民投票法の成立などを実現した。しかし、造反議員の復党が改革の後退と受け止められる一方、新自由主義的改革による支持基盤の弱体化が進み、相次ぐ不祥事も重なり、2007年の参院選で民主党に敗れ、「ねじれ国会」に陥った。続く福田康夫内閣、麻生太郎(あそうたろう)内閣は新自由主義からの転換を進めたが、支持率の回復にはつながらず、2009年の衆院選で惨敗を喫し、民主党に政権を奪われた。自民党は谷垣禎一(たにがきさだかず)(1945― )を新総裁に選んで再起を図った。

 民主党が政権運営に失敗すると、自民党は2012年、安倍元首相を総裁に選出したうえで衆院選に臨み、勝利を収め、自公政権が復活した。安倍内閣は、金融緩和、財政出動、成長戦略を三本の矢とするアベノミクスを打ち出すとともに、2014年に集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を行い、翌年には安全保障関連法を成立させた。「一強多弱」とよばれたように、野党の分裂と低迷が続いたことから、安倍政権は第一次との通算で3188日と、憲政史上最長の政権になった。しかし、憲法改正は実現できなかった。2020年(令和2)、安倍首相は病気で退陣し、菅義偉(すがよしひで)が総裁に就任した。

[中北浩爾 2021年4月16日]

 翌2021年、の任期満了に伴う総裁選が行われ、岸田文雄後任に選出された。

[編集部]

理念と政策

自民党は、議会制民主主義と自由主義(資本主義)経済を擁護するとともに、天皇制などの伝統的な制度や価値を重視する保守政党である。結党当初は戦前回帰の傾向が濃厚にみられ、「党の政綱」で「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う」とうたった。自主憲法の制定という主張は、自民党の党是として位置づけられるようになる。

 米ソ冷戦のもと、天皇制の維持などは、アメリカを盟主とする自由主義陣営の一員としてソ連などの国際共産主義勢力と戦うことで可能になるため、自民党は日米安保条約を中核とするアメリカとの協調につとめた。ただし、旧民主党系を中心に戦前以来の政治指導者の多くは、反共でありながら強固なナショナリストであり、対米自主を主張した。そこで、結党時の「党の政綱」には「国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える」と書かれた。

 ところが、日本社会党などの革新勢力が護憲運動を展開するなか、再軍備のための憲法改正は困難であり、アメリカも在日米軍基地の放棄を望まなかった。結局、岸内閣によって締結された新日米安全保障条約は、アメリカの日本防衛義務を明記するかわりに、日本がアメリカに基地を提供するという相互性を内容とするものとなった。岸は次の段階として憲法改正による再軍備を考えていたが、安保闘争を経て成立した池田内閣以降、憲法改正は先送りされた。1960年の日米安全保障条約は長期にわたって固定化し、1978年の「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の策定など、その枠内で日米間の防衛協力が深められていった。

 冷戦が終結した後も、自民党は日米同盟を基軸とし、日米防衛協力を深化させてきた。1996年の日米安全保障共同宣言による安保再定義、1997年の新ガイドラインと1999年の周辺事態法の制定、2001年の海上自衛隊のインド洋派遣、2004年の陸上自衛隊のイラク派遣、2014年の集団的自衛権の行使容認の閣議決定と翌年のガイドラインの再改定および安全保障関連法の制定などである。日米安全保障条約の改定やそれによる在日米軍の撤退は目ざされず、中国などに対抗する観点から、その抑止力に依存する方針がとられ、その一環として沖縄県の普天間(ふてんま)基地の名護市辺野古(へのこ)への移設が進められている。

 憲法改正については、自社さ政権のもとで慎重な姿勢を強めたが、2000年代以降、一転して積極的になった。その原因は、台頭する民主党に対抗して、自らのアイデンティティを固めることにあった。2005年の立党五〇周年記念党大会で初めて条文化された改憲案の「新憲法草案」を発表し、野党時代の2012年には「日本国憲法改正草案」を策定する。後者は天皇の元首化、国防軍の保持、家族の尊重と相互扶助義務、戦争や内乱などの際の緊急事態条項を盛り込むなど、前者に比べても保守色が濃厚であった。安倍首相は2012年の就任後、まず改憲の発議要件の緩和、次に自衛隊の明記を内容とする憲法改正を目ざしたが、実現しなかった。

 経済政策については、結党の際に自由主義から協同主義あるいは国家統制主義までが合流して以来、明確な内容を欠いた。結党時の綱領には、「公共の福祉を規範とし、個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し、民生の安定と福祉国家の完成を期する」と書かれている。このように当初は、経済に総合性や計画性を与える国家の役割を重視したが、時代の変化や財界の要請に従って、市場への規制を弱める方向に変わってきた。1985~1987年にかけての三公社の民営化、2007年の郵政事業の民営化などが注目を集めた。

 その一方で、自民党は戦前の政友会以来の「我田引鉄」とよばれる利益誘導政治を行った。これは自民党が国会議員や地方議員の個人後援会を通じて地域社会を組織化するとともに、さまざまな業界団体の支援を受けていることに関係している。とりわけ各種の公共事業が行われ、建設業者が自民党の選挙マシーンとなり、「土建国家」とよばれた。その象徴的な政治家が、日本列島改造論を唱えて1972年に首相になった田中角栄である。

 ところが、高度経済成長が終わり、平成不況に入ると、財政的な制約が強まった。1994年に政治改革が行われた目的の一つは、政官業の癒着の打破にあったが、2001年に就任した小泉首相は、「古い自民党をぶっ壊す」と叫んで新自由主義的改革を断行し、公共事業費を大幅に削減した。しかし、それによって支持基盤が弱体化した自民党は徐々に利益誘導政治に回帰し、野党時代の2011年に東日本大震災が起きると、国土強靭(きょうじん)化をスローガンに掲げた。2012年に政権に復帰した安倍首相は、積極的な金融緩和、公共事業などの財政出動、規制緩和をはじめとする成長戦略を「三本の矢」とするアベノミクスを打ち出し、伝統的な利益誘導政治と新自由主義的改革を両立させようとした。

[中北浩爾 2021年4月16日]

党組織と支持基盤

自民党の組織の最大の特徴は、派閥とよばれる党内の議員集団の存在である。自民党の派閥は高度に制度化されている。固定したメンバーが存在し、会則をもち、会長(領袖(りょうしゅう))を頂点とする役職と機関が設置されている。恒常的な事務所を設け、常勤の職員を採用し、定期的な会合を行い、党内外選挙に際しては独自の選挙対策本部を設置する。パーティなどで資金を調達し、会員に配分する。政府や党、国会のポストを獲得し、メンバーに与える。政策集団を名のり、派閥による色彩の違いは確かにあるが、本質的には理念や政策に基づく集まりではない。

 結党以来、1994年に政治改革が実現するまでの自民党は、派閥連合政党としての性格が強かった。その最大の原因は、衆議院の選挙制度である。一つの選挙区から3~5名の議員を選出する中選挙区制では、同じ選挙区で自民党の公認候補同士が競合するため、自民党の組織や政策に依存して選挙を戦うことができない。そこで、候補者は独自に個人後援会を組織して有権者への利益誘導を行うとともに、それぞれ別々の派閥に所属して、党の公認の獲得から資金調達、応援演説などの支援を受けることになる。

 もう一つ重要な原因は、結党に際して導入された総裁公選である。国会議員と都道府県連の代表が投票権をもったため、総裁候補たる有力政治家は派閥を組織して戦うことになった。1977年に総裁予備選挙が導入され、一般党員が総裁選に参加できるようになると、派閥の寡占化が進み、五大派閥に集約されていった。田中角栄派(旧佐藤派)、大平正芳派(旧池田派)、福田赳夫派(旧岸派)、中曽根康弘派(旧河野派)、三木武夫派である。

 派閥連合政党であることは、一面では疑似政権交代など、党内でダイナミズムが生まれる源泉になったが、他面では政策抜きの金権腐敗の温床とも批判された。そこで、党近代化の名のもとに派閥の解消が繰り返し試みられた後、1994年に政治改革が行われた。中選挙区制にかわる小選挙区比例代表並立制によって、党執行部がもつ公認権の重要性が高まるとともに、政党助成制度が導入され、党執行部の資金配分権も強力になった。その結果、派閥の弱体化が進んだ。また、無党派層の増大を背景に、総裁選では国民的な人気が重要になった。

 しかし、かつてに比べると弱くなったとはいえ、派閥は現在も存在し、総裁選やポスト配分などで一定の役割を果たしている。2020年現在、細田博之(ひろゆき)(1944― )派(清和(せいわ)政策研究会、旧福田派)、竹下亘(わたる)(1946―2021)派(平成研究会、旧田中派)、麻生太郎派(志公会(しこうかい))、二階俊博(にかいとしひろ)(1939― )派(志帥会(しすいかい))、岸田文雄(1957― )派(宏池会(こうちかい)、旧大平派)、石原伸晃(のぶてる)(1957― )派(近未来政治研究会)、石破茂(いしばしげる)(1957― )派(水月会(すいげつかい))がある。

 派閥と同じことは、族議員についても当てはまる。族議員とは特定の政策分野に強い影響力をもつ中堅議員の集団であり、政官業の複合体の結節点として、かつてのボトムアップ型の政策決定で重要な役割を果たしていた。中選挙区制のもと、選挙区内で競合する自民党議員が政策分野をすみわけたことが族議員の一つの背景であったが、集票や資金調達の面で有利な農林族、商工族、建設族が御三家とよばれた。ところが、政治改革によって、首相官邸の権限が強められる一方、小選挙区制が導入されたため、族議員の力は低下する傾向にある。

 自民党は地方議会で多くの議席を占めている。都道府県議会議員の5割前後は自民党の所属であり、市町村議会に多くみられる保守系無所属の議員が、自民党を底辺から支えている。そして、国会議員と地方議員の個人後援会が、自民党の実質的な末端組織になっている。個人後援会は、地域の有力者を中心とする人的ネットワークを重層的に組織化するものであり、自民党が国や地方で優越政党であり続けている重要な理由の一つである。その一方で、自民党に世襲議員や男性議員が多いのも、個人後援会と関係がある。

 また、自民党は労働組合を除く多様な団体の支援を受けている。日本経済団体連合会(経団連)に代表される財界のほか、全国郵便局長会(全特)、全国農業協同組合中央会(JA全中)、土地改良事業団体連合会、全国建設業協会、日本医師会、日本歯科医師会、日本看護協会、日本遺族会、隊友会といった各種の業界団体やその政治団体が、自民党の友好団体になっている。また、自民党を支持している宗教団体も少なくない。

 自民党は個人後援会の会員や業界団体のメンバーの一部をそれぞれ地域党員および職域党員として登録している。党員数は1991年に約544万人に達した後、減少を続け、ここ20年余りは100万人前後で推移している。党員の減少は各党に共通する現象であり、その分、支持する政党をもたない無党派層が増加している。自民党は野党時代からネット戦略を本格化させ、他党に先行しているといわれる。近年、若年層の自民党支持が増えているが、それがネット戦略の成功によるものかどうかは見方が分かれる。

[中北浩爾 2021年4月16日]

『北岡伸一著『自民党―政権党の38年』(2008・中央公論新社)』『野中尚人著『自民党政治の終わり』(2008・ちくま新書)』『中北浩爾著『自民党政治の変容』(2014・NHKブックス)』『中北浩爾著『自民党―「一強」の実像』(2017・中公新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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