ベトナム(英語表記)Vietnam

翻訳|Vietnam

改訂新版 世界大百科事典 「ベトナム」の意味・わかりやすい解説

ベトナム
Vietnam

基本情報
正式名称ベトナム社会主義共和国Socialist Republic of Vietnam 
面積=34万9340km2 
人口(2010)=8693万人 
首都=ハノイHanoi(日本との時差=-2時間) 
主要言語=ベトナム語 
通貨=ドンDong

東南アジア東端の南シナ海に沿った国。東南アジア唯一の中国文化圏であり,その意味では東アジアの東南端ともいえる。第2次大戦前はフランスの植民地,戦時中は日本軍の進駐を経て,戦後対仏独立戦争(第1次インドシナ戦争)ののちも,国土はベトナム民主共和国ベトナム共和国に分断され,アメリカ軍の干渉によって15年にわたる第2次インドシナ戦争を戦わされたが,1976年統一され,単一の社会主義共和国を形成した。かつては越南と呼ばれた。
執筆者:

ベトナムは東南アジアのインドシナ半島の東部を占める。国土は,北は北回帰線のすぐ南の北緯23°22′から,南はカマウ岬(バイブン岬。北緯8°33′)まで南北およそ1700kmにわたり,ゆるやかなS字状を描いてのびている。ベトナムの背骨をつくる北部山地はヒマラヤ山系の東方への延長の一つで,中国雲南省の哀牢山脈から連続し,北西部でとくに険しく,ファンシパン山で最高3143mを示す。これに対し,北東部山地は石灰岩の丘陵性で,平均標高は1000m内外,最高点のピアヤー山で1960mほどである。一般に北部では山地の向斜軸に浴い,ソンコイ川(紅河),ソンダー川(黒河),ソンチャイ川などの川が山間に深い峡谷をうがち,南東に流れて下流にトンキン・デルタを形成する。紅河という名は,その流れによって運ばれる鉄分の多い泥土の色から名付けられた。流路の短い割に傾斜が急で,たえず氾濫しつつ下流にデルタをつくり,ベトナム民族発展の舞台を与えた。トンキン湾北部は沈降性で,アロン湾におけるような石灰岩の島々が特異な景観を形成する。

 山地の主脈は,ラオスとの国境をつくりつつアンナン山脈となり南東にのびる。アンナン山脈は海岸に向かって急傾斜し,ことにダナン付近からは南に転じて山が海に迫り,海岸平野は狭小となる。山脈の南部では2000mを超える山が並び,南端にはコントゥム,ダルラクなどの高原をつくり,やがてメコン川下流のデルタに移る。メコン・デルタはトンキン・デルタの2倍の広さをもち,その伸張度も著しい。メコン川はソンコイ川と異なり,雨季はゆるやかに増水して低地一面を覆い,また乾季には徐々に減水する。ベトナム人によるメコン・デルタ開拓の歴史は新しいが,その人間に与える影響は重要である。

 気候は南北により差異があり,北部は温帯モンスーン型,南部は熱帯モンスーン型に属する。たとえばトンキン・デルタのハノイでは,年平均気温24℃であるが,年較差は8℃に及ぶ。年平均降水量は1800mmで,大部分は5~9月に降るが,とくに1~3月にはベトナム特有の霖雨(りんう)(クラシャンと呼ぶ)があって米の2期作に有利である。南のメコン・デルタのホー・チ・ミン市では年平均気温27.6℃,年較差も3℃ほどであり,年平均降水量は2000mm,その90%は5~10月に集中し,11~4月は乾季である。中部のアンナン海岸は高温多湿で,フエの年平均降水量は3000mmに及んでいる。

 こうした地形と気候のもとでベトナムでは森林がよく茂る。デルタや海岸平野は耕地化されているが,ほかは熱帯性常緑樹に覆われ,チーク,松,竹も多い。一般に南部へ向かうほど密林的形相が強くなる。そして山地には象,虎,野生牛,サルなどが多くみられ,爬虫類ではワニ,コブラなどがいる。
執筆者:

ベトナムの民族分布図をみると,主要民族としてのベトナム人(周辺の少数民族からはキン(京)人と呼ばれる)のほかに,言語系統,居住環境,文化を異にする多種多様な少数民族がおもに北部の山岳地帯や中部高原などに割拠している。約60にのぼるこうした少数民族(450万人)は,焼畑農耕民と水田耕作民とに分かれ,山ろく,丘陵,高原地帯など,地形や高度にしたがった住分けを行っている。稲作のほかにトウモロコシなどの雑穀栽培に従事し,採集活動(野生果実,根菜,食用葉類),わな漁による漁労,野豚,野牛などの狩猟をも併せ行う。工芸,彫金,機織,染色,陶芸に専門的な技量を有する民族も少なくない。主として杭上家屋に住むが,一部には土間式の直床家屋もみられる。また精霊信仰と祖先崇拝を中心に,今もなお伝統的な儀礼,慣習を保持している。

 少数民族の分布状況をみると,北部山地のミヤオ(苗)族(約25万人)は,かつて山頂近くに住み,山腹を利用して焼畑農耕を営んでいたが,現在ではその多くが高地を去り,定住化へと向かっている。主要作物はおかぼで,またケシを栽培してアヘンをつくり現金収入を得る。氏族組織は男系で,家父長の権力が大きい。信仰・儀礼面では,中国文化の影響を受けて固有の精霊崇拝に中国伝来の道教が混交している。言語はシナ・チベット語族に属すともいわれ,ヤオ語とともにミヤオ・ヤオ諸語を形成する。ヤオ(瑶)族(約20万人)は北部の山腹・丘陵地帯に住み,おかぼおよび雑穀栽培に従う。ケシは重要な換金作物である。従来の焼畑輪耕から定住耕作へと進んでいる。その社会は強い父系氏族制を特徴とし,畜犬を民族の神話的始祖とする〈犬祖神話〉を伝承,民衆道教が日常生活に浸透している。また北部の山ろくやソンコイ川上流域の渓谷一帯にかけては,タイ系諸族の集団が居住し,河谷平野などの低地を利用して水稲耕作に従事する。タイ諸語の系統は未確定だが,最近ではシナ・チベット帰属説が有力である。黒タイ,白タイ,紅タイなどの部族名は婦女子の着る民俗服の色に由来する。北部山間部のムオンMuong族(約40万人)はベトナム文化の吸収に熱心で,早くから同化が進んでいる。なおムオン語はベトナム語と同系関係にあり,その祖型を伝える。また中部高原には,総勢100万を超えるさまざまな山地民(モンタニャール)が展開する。通称モイMoi族(〈野蛮人〉の意)と呼ばれるベトナム原住民で,アウストロアジア語系諸族およびアウストロネシア(マライ・ポリネシア)語系諸族に分類される。焼畑移動農耕(おかぼ,トウモロコシ)のほかに採集,狩猟にも従う。その多くは杭上家屋に住み,精霊崇拝と祖先祭祀を行う。また祭祀所兼集会所としての共同家屋を所有する。このほか,ベトナム中部とメコン川上流域にインドネシア系のチャムCham族およそ8万人が居住し,またメコン川下流平野部にはクメール族約65万人が水稲栽培と漁労を中心とする生活を営んでいる。

1000年におよぶ〈北属〉(中国への従属)とそれに伴う中国文化の受容が,ベトナム社会の形成に一定の性格と方向づけを与えた。中国文化の影響は,社会組織,信仰と儀礼,風俗習慣,さらには,文学,美術,音楽,演劇など芸術の諸分野に及んだが,なかでも,中国を範とした法制と効率的な官人支配体系の両者は,ベトナム社会形成のための諸制度の整備を促した。また,儒教を思想の中核とする漢字文化への傾倒は,〈士〉(官吏)を中心とするバンタン(文紳。読書人階層)の台頭を招いた。バンタンは社会の上層部を占めて,政治の実際権力を握るとともに,ベトナム伝統社会における知性の象徴ともなった。以後,この国の政治,経済,社会,文化は,彼らバンタン階層を主体として展開して行くことになる。

 こうした伝統社会にあって,村落と中央政府は,上下(もしくは主従)の関係ではなく,対置する関係にあり,国家社会対村落社会という枠組みの中でとらえられる。村(ベトナム語ではランlang(廊)という)は,国家の中の国として高度の自治権を所有し,村落自立の土着主義を軸に,自律的でかつ排他的な共同体を形づくってきた。村落の維持,運営は,実質上,長老,退職官吏,富裕農民層など村内の〈郷職〉階級により構成される〈郷職会議〉の手にゆだねられた。このため,中央権力の介入は著しく制限され,わずかに村の対外代表者である〈社長〉を通じて,間接的に村政に関与するにとどまった。村民の信仰および日常生活のうちにも,村落の共同体的性格と集団主義への志向が看取される。信仰面では,村の守護神(城隍神)祭祀の慣行が村民を結ぶ精神的な紐帯となった。また公田(村落共有地)の所有と割換耕作,〈民公〉(労働交換)と共同労働,〈甲〉(合力・扶助組織)など,さまざまの労働慣習に裏打ちされた村落の集団主義は,村民相互間の連帯と共属意識を生むもとになっている。ベトナム伝統村落のこうした根強い共同体組織は,古くは中国への服属,近くはフランスによる植民地支配とインドシナ戦争,および民族解放闘争などの変遷を通じても,解体されることなく維持されてきた。

 南北統一と社会主義共和国の成立に伴い,旧南ベトナム社会の各分野では,急激な社会主義的改造が推し進められた。農村部では,自給自足,自治独立の閉鎖社会の価値観と意識が,大幅な転換を迫られた。都市部においては,旧サイゴン(現,ホー・チ・ミン市)を中心とする従来の西欧型・都市型文化が退廃・卑俗文化として退けられ,旧政権の土台を担った兵士,役人を対象に,思想改造教育が実施された。信教の自由は原則として保証された。しかし,仏教各派をはじめ,ホアハオ教カオダイ教の二大創基宗教など,反革命的性格を帯びた新宗教は,その組織,活動に多くの改造が加えられ,このため,その宗教活動は閉塞状態に追い込まれている。旧北ベトナムはフランスの植民地支配を脱却してのち,ベトナム戦争の破壊と混乱を経ながらも,短期間のうちにアジアでも有数の識字国に成長した。統一のなった今,ベトナムの教育は,旧北ベトナムの諸制度にならって改編,統一され,2段階12年制義務教育(初等学校9年,中学校3年)の普及・徹底,成人教育(思想教育)の重視など,社会主義国のための人づくりの努力が進められている。
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住民の84%を占めるベトナム人がいつの時代からソンコイ・デルタを占拠したかは不明である。ベトナム語はアウストロアジア語族の中では最も北方に位置するから,かつての定説であった南方中国からの移動説は苦しい。むしろ前農耕文化の時代以来,デルタ北西方の山地に居住していたとみられよう。この地域からはホアビン文化と呼ばれる新石器時代の遺物が大量に発見され,その一部は前8000年に比定される。ホアビン文化の末期に接続してフングエンPhung Nguyen文化が段丘上に広がり,青銅器が随伴出土する。ベトナム考古学会では,この文化を伝説のフンブオン(雄王)時代に比定している。青銅器文化は紀元前後の数世紀にわたるドンソン文化において開花し,特徴的な銅鼓が段丘,残丘部から発見され,これがほぼベトナムの歴史時代に重複する。

前111年,漢の武帝は当時広東に都していた南越王国を滅ぼし9郡を設置したが,このうち交趾,九真,日南の3郡はほぼ現在のソンコイ・デルタ,タインホア・デルタ,中部ベトナム(ビンチティエン省)にあたる。この地はもと雒越(らくえつ)と呼ばれ,ラクディエン(雒田)を耕作し,雒民,雒将,雒侯,雒王という身分制秩序をもっていたといわれる。紀元2年の人口統計では,交趾郡に74万6237口(口は人を数える単位)が登録され,中国南半では際だって人口の密な地域であった。すぐれて発達した自然堤防を利用したデルタ開拓がかなり進んでいたことを示すとともに,当時の中国の上流階層の欲した真珠,タイマイ(玳瑁),犀角などの生産地であり,かつ南海諸国への玄関であった地理的特性がこの人口集中をもたらしたのであろう。

 42年に土着的な支配者のチュン(徴)姉妹の対漢反乱が馬援によって弾圧されると,この富んだ地をめざして大量の中国人が移住し,支配階層を形成,北部ベトナムに大量の漢墓を残した。後漢末,中国本土に群雄が割拠するや,この地の中国人はシーニェプ(士燮)を立てて自立した。この勢力はシーニェプの死後,呉に滅ぼされるが,最南方の日南郡に自立した現地人首長の区逵(おうき)は林邑王国の建設に成功し,おりからモンスーンの利用が始まり,これによって活発化した東西交渉の中継国として繁栄していく。3世紀ころから中国の支配はしだいに山地まで覆うようになり,7世紀に現在のハノイ付近に安南都護府が置かれたときには,39県のほかに60ほどの覊縻(きび)州があった。この拡大は,当時雲南にあって,南方交易の陸路の要であった南詔の勢力との衝突を招き,9世紀には安南都護府が陥落している。

唐周辺諸民族の活性化の渦の中,唐末の内乱によって広東に南漢政権が生まれるや,ベトナムでも土豪クック(曲)氏が節度使を称して自立した。クック政権はまもなく南漢に滅ぼされるが,938年ゴ・クエン(呉権)は南漢干渉軍を破って独立確保に成功した。ゴ・クエンの死後,各地の土豪(スークアン(使君)と呼ばれた)の割拠時代を経て,966年下部デルタ水上勢力の雄ディン・ボ・リン(丁部領)が諸勢力を平定して,ホアル(華閭)に都し,国号をダイコベト(大瞿越)と称した。リンの死後,レ・ホアン(黎桓)が帝位を奪い,宋の干渉軍をバクダン川(白藤江)で破り,他方,中部ベトナムに栄えていた林邑の後継であるチャンパに遠征して南辺を固めた。993年宋はホアンを交趾郡王に封じ,その独立を承認した。この前レ(黎)朝もまた1009年リ・コン・ウアン(李公蘊)に奪された。ウアンは都をタンロン(昇竜。現在のハノイ)に移し,国号をダイベト(大越)とし,初めての長期安定政権リ(李)朝を築いた。しかしその実態は集権政治にはほど遠かった。直接支配地はソンコイ・デルタの一部にすぎず,ほかは各地の土豪が半独立的に支配していた。リ朝はこれに対抗して,仏教,儒教の導入,律令の制定を試み,外には宋の侵略を破り,チャンパを討ってクアンチビン地方を奪った。この急速な王権伸張と土豪割拠の矛盾は,13世紀初めの内乱を生み,1225年リ朝は下部デルタの水上勢力を握るチャン(陳)氏に奪された。

 この内乱の過程で,各地の土豪勢力はチャン一族に代わられた。しかしそれもおのおの私領と私兵を有する封建領主的なものであった。したがってチャン朝の実権者は一族の長である上皇であった。13世紀末,元は3次にわたってベトナムに侵入したが,これを迎撃して大敗させたのはチャン・フンダオ(陳興道)ら一族の領主たちとその私兵であった。対元戦に勝利したのちは,門客と科挙出身官僚の力が伸張し,これを糾合したホー・クイ・リ(胡季犛)が1400年帝位を奪した。ホー(胡)朝は次代の集権制を準備したが,07年明の干渉を受けて滅亡した。

 ベトナムの再独立は1428年にハノイの明軍を破ったレ・ロイ(黎利)によって達成された。レ(黎)朝第4代レ・タイントン(黎聖宗。在位1460-97)の下に,ベトナムは律令的集権国家の体制を整備した。田土の大部分は公田とされて農民に割替分給され,代りに耕作納税が強制された。律令官僚制が導入され,刑律が制定された。大規模な堤防が整えられ,村落はサー(社)に組織化された。しかし,急速な集権化はタイントンの没後,反動を呼んで宮廷内紛が頻発し,1527年軍権を握ったマク(莫)氏が帝位を奪した。これに対し,ラオス,タインホアに拠るグエン・キム(阮淦)はチン(鄭)氏とともにレ朝後裔を擁立して抵抗し,ベトナムは長い内乱期に突入した。92年レ=チン勢力はハノイを落としたが,マク氏は北方山地にこもって割拠し,グエン・キムの子ホアン(潢)はフエに拠って自立し(クアンナム(広南)朝),3者の争いは19世紀初頭まで続く。これらのチュア(主。実権を握った武人をチュアと呼んだ)政権下の争いの中に,村落は自律性を強め,かつての公田は村落共有田に転化した。また17世紀の東西交渉の発展は,フォヒエン(フンイェン),フェイフォトゥーラン(ダナン)などの国際貿易港を生んだ。しかしその一方で,村落の内部からは無産農民が発生した。戦乱と天災は彼らを流民化させ,18世紀中葉以降のレ・ズイ・マト(黎維樒)らの反乱を生んだ。

 1771年クイニョンに起こったグエン(阮)3兄弟によるタイソン党革命は,75年クアンナム朝を滅ぼし,次いで86年グエン・バン・フエ(阮文恵)はチン氏を倒し,レ帝を中国に逐い,さらに89年には清の干渉軍をハノイに大破した。タイソン・グエン朝下,ベトナムでは土地改革が行われ,チュノム(字喃)文学が栄えたといわれる。

18世紀以降,クアンナム朝のナムティエン(南進)政策によって,ハティエンなどの中国人王国が服属し,メコン・デルタはベトナム領となっていた。1787年より,クアンナム朝の皇子グエン・フォック・アイン(阮福暎。のちのザロン(嘉隆)帝)はベーヌなどフランス義勇軍とタイの援助を得てこの地に拠り,グエン・バン・フエの死後,急速に北上して1802年,全土を平定した。このグエン(阮)朝の成立で現ベトナムの骨格が生まれたといえる。

 グエン朝では,皇越律例など清の制度の導入が積極的に行われ,とくに2代ミンマン(明命)帝の時代,行政制度の中央集権化が進捗した。その反面で,行政最下部のサー(社)では,納税と引換えにその自律化が進み,指導者バンタン(文紳)層の権威が高まった。しかし流民問題は解決できず,多くの反乱を生んだが,とくに4代トゥドゥック(嗣徳)年間の水匪の乱や黒旗軍など太平天国残党の南下は,北部一帯を大混乱に落とし込んだ。おりから極東進出の足場としてベトナムをねらったフランスは,1862年の第1次サイゴン条約によってメコン・デルタを奪い,フランス領コーチシナを成立させた。さらに73年のガルニエ事件に続く第2次サイゴン条約,83年のリビエール事件に続く2次にわたるフエ条約によって,北部をトンキン保護領,中部をアンナン保護国として,植民地化することに成功した。そして1887年にはカンボジア保護国を加えてフランス領インドシナ連邦が成立した。

フランスの侵略に抗して,1885年ハムギ(咸宜)帝はトン・タット・トゥエット(尊室説)らと山地にこもってバンタンの蜂起を呼びかけ,北部・中部一帯に農民蜂起が広がった。これに対し,植民地総督のベールラヌッサンらは村落の自律性とバンタンの権力を認める協同政策を推進し,このためデ・タムらを除いて,ソンコイ・デルタの反乱は終息するが,村落の封建的構造は固定化された。一方,南部のコーチシナでは,米田プランテーションが急速に発達し,ターディエン(借佃。小作人)制が生じた。こうしてベトナムは北部と南部という典型的な植民地下二重経済構造をつくりあげた。20世紀初頭,ファン・ボイ・チャウドンズー(東遊)運動ファン・チュ・チンの維新運動など,民族運動の近代化を志向する運動が起こったが,前者の革命路線も後者の啓蒙的改良運動もともにフランスの弾圧によって潰えた。

 第1次大戦後,インドシナへの投資が拡大し,北部の鉱業,中南部のゴムのプランテーション,南部の米作の急激な発展は,労働者階級やサイゴンの地主,精米・輸出業者などのブルジョアジー,さらに知識人層を生み出した。この社会変容を背景に,1925年ホー・チ・ミンによってベトナム青年革命同志会が生まれ,これを母体に30年ベトナム共産党が成立し,またグエン・タイ・ホクのベトナム国民党が生まれた。共産党は30-31年のゲティン・ソビエトの壊滅によって一時打撃を受けたが,チャン・バン・ザオが南部の組織を再建し,タ・トゥ・タウらトロツキスト派と統一戦線を組んでサイゴン市会選挙などに進出した。しかし38年に大弾圧を受け,地下に潜った。

 40年日本軍がインドシナに進駐するや,共産党はバクソン蜂起によって軍事組織をつくる一方,翌年ベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成して,日・仏二重支配に抵抗した。45年三・九クーデタにより日本軍はフランス領インドシナを解体し,バオダイ帝の独立を認めたが,もはや封建王朝ではベトナム人の支持を得られなかった。おりから日本軍の調達や天災,南北途絶により北部に200万人が餓死するという大飢饉が起こった。ベトミンは日本軍からの籾奪還を叫んで,急速に勢力を伸張した。8月15日の日本軍の降伏とともにバオダイ政府はベトミンによって解体され,9月2日ベトナム民主共和国の独立宣言がホー・チ・ミンによって朗読された。

しかしフランスはこの独立を認めず,1945年南部に,46年末北部に進攻した。第1次インドシナ戦争の始まりである。フランス軍は当初平野部の制圧に成功したが,チュオン・チン人民戦線戦術によって,戦線は膠着化し,バオダイ・ベトナム国の擁立やアメリカの大量の軍事援助にもかかわらず,54年ディエンビエンフーに大敗して,撤退に追い込まれた。同年のジュネーブ会議により,ベトナムは北緯17度線を境に北を民主共和国,南をバオダイ・ベトナム国の統治にゆだね,3年後に統一選挙が施行されることになった。しかし翌55年バオダイを廃してベトナム共和国初代大統領に就任したゴ・ディン・ジェムは,アメリカの軍事・経済援助を背景に,南北分割の恒久化を図って民主共和国と対立し,一方,国内では土地改革に失敗して,旧ターディエン(借佃。小作人)層の反乱を引き起こした。

 60年南ベトナム解放民族戦線が結成され,第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が勃発した。63年ジェムが軍部クーデタによって倒されるや,アメリカ軍は反共橋頭堡としての南ベトナムに直接大量介入を図り,さらに64年のトンキン湾事件を口実に北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始した。しかし50万人のアメリカ兵投入にもかかわらず,アメリカ軍・南ベトナム政府軍は敗戦を重ね,68年のテト(旧正月)攻勢以降,アメリカ財政の悪化と国際的な平和世論の前にアメリカ軍は撤兵に追い込まれ,73年パリ平和協定が結ばれた。アメリカ軍撤退後,民主共和国の人民軍と解放戦線軍の優位は決定的となり,75年サイゴンが陥落して,南ベトナム臨時革命政府が南ベトナムの主権を握った。翌76年の統一選挙によって南北両国家は再統一され,ベトナム社会主義共和国が生まれた。
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ベトナム社会主義共和国の建国記念日は9月2日であるが,これは1945年にホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の日・仏両国からの独立を宣言した日である。現在のベトナム社会主義共和国という国名は,76年7月にこのベトナム民主共和国から改称されたものである。

 ベトナム民主共和国の領土は,1946年憲法,1959年憲法においても旧サイゴン政権(1975年崩壊)の支配下にあった南部(北緯17°以南)を含むものとされていた。しかし,1954年のジュネーブ協定調印後,55年にベトナム共和国(南ベトナム)がアメリカの支援を受けて樹立され,以来約20年間,ベトナムには北部に共産主義陣営,南部に自由主義陣営に属する二つの国家が存在することになった。そのため,75年の南部解放後はベトナム共産党の指導の下で国家機構のみならず経済・社会全般にわたって南北統一事業が推進されることになった。

 92年4月に公布された現行憲法によれば,ベトナム社会主義共和国は,現在,〈社会主義への過渡期〉(前文)にある〈人民の人民による人民のための国家〉(第2条)であるが,その実態は〈プロレタリア独裁国家〉である。そして,この国家を国内外において代表するのは,国家主席である(第101条)。国会は一院制で,任期5年である。政党としてかつて社会党,民主党などが存在したが,88年に両党が解散してからは,多党制導入は公式に否定されており,現在ではベトナム共産党が唯一の合法政党となっている。憲法も同党が〈国家を指導し,社会を指導する勢力〉(第4条)と明記している。したがって,国会代表,閣僚の大半がベトナム共産党の政治局員,中央委員レベルの人々及び一般党員によって占められ,国政への党の指導力が発揮されている。なお国家機関は〈民主集中の原則〉により組織され,立法機関としての国会,行政機関としての政府,司法機関としての裁判所は存在するものの,〈三権分立〉という概念は否定され,〈三権の役割分担〉の明確化が主張されるにとどまる。

従来,ベトナム戦争の影響もあって中国,ソ連をはじめとする東側諸国と緊密な関係にあったが,1976年7月にベトナム社会主義共和国が成立して南北両ベトナムが名実ともに国家として統一されてからは,77年9月に国際連合に加盟したのをはじめ,国際通貨基金,アジア開発銀行などの国際機関にも加盟し,また非同盟諸国会議の正式加盟国にもなり,柔軟かつ広範な外交政策をとり始めた。しかし78年ころから,従来,抗仏・抗米闘争では協力してきたカンボジアの革命勢力および中国との関係が悪化し,とくに79年1月,ベトナム軍の民主カンボジアへの侵攻,79年2月の中国との戦争勃発後は,両国とはもとより,西側諸国との関係も冷却化し,国際的に孤立状態に陥った。こうした中で,1978年6月にコメコンに加入,同年11月にはソ越友好協力条約に調印し,この条約の中でみずからソ連圏の社会主義諸国を指す〈社会主義共同体〉の一員であることを初めて認め,事実上,それまでの中ソ対立下における中ソ等距離外交を変更してソ連寄りの外交を行うようになった。また,インドシナ地域では,1975年以降,とりわけ79年初頭にカンボジアにおいて民主カンボジアのポルポト政権が事実上崩壊し,カンボジア人民共和国ヘンサムリン政権)が成立してからは,ラオス,カンボジア両国に対して,政治,経済,軍事など多くの分野で協力関係を強化し,この地域における指導的立場を固めた。しかし,88年になるとソ連寄りの外交から全方位外交へと路線転換を行い,91年末には中国とも関係を正常化し,95年にはASEAN(東南アジア諸国連合)に第7番目のメンバーとして加盟した。

 日本との外交関係は,1973年1月のベトナム和平に関するパリ協定締結後の同年9月,当時のベトナム民主共和国が日本との国交樹立協定に調印し正常化した。そして75年10月にはハノイに日本大使館が開設され,翌年1月にはベトナム民主共和国大使館が東京に開設された。アメリカとの国交正常化は,1975年以降,ベトナム側が強く望んできたことであるが,95年にようやくこれが実現した。

ベトナム戦争中,ベトナムはソ連,中国をはじめとする社会主義諸国から多大な軍事援助を受けてきた。とくにベトナム戦争が激化した1960年代半ば以降,ソ連から対空ミサイル,戦闘機など近代兵器の援助が増大し,ベトナム人民軍の近代化が促進された。75年の南部解放後は,東南アジア随一の軍事力を有する国となった。1944年12月,わずか34人によって建軍されたベトナム人民軍の兵力は,80年代前半に約170万にまで増大したが,87年以降積極的に進められた兵力削減により97年現在,約70万にまで減少したと推定されている。なお,軍隊はベトナム共産党の強い指導下に置かれているが,現行憲法では国家主席が全国の人民武装勢力を統率し,国防会議議長の職務につく(第103条)ことになっている。
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総人口の80%強が農村に居住し,労働力人口の70%が農業に従事する農業国である。農業は米作を中心にした食糧生産が主で,そのほかゴム,コーヒーなど商品作物の栽培が若干みられる。米はソンコイ・デルタとメコン・デルタが二大生産地帯をなす。人口の圧倒的部分もこの二つのデルタに集中している。しかしメコン・デルタの方が自然条件に恵まれ,面積も広く,開発の潜在的可能性は大きい。これに対し古くから開けたソンコイ・デルタは土地利用がすでに限界に達し,莫大な過剰人口を抱え,その緩和が課題となっている。北部のデルタを取り巻く山地,丘陵地は石炭,鉄鉱石,クロム,スズ,マンガン,亜鉛,リン灰石など鉱物資源に富む。とくに良質の無煙炭として有名なホンゲイ炭(推定埋蔵量30億t)は外貨獲得の目玉商品で,日本にも第2次大戦前から輸出されている。工業も社会主義政権の下で工業化を進めた北部に中心があり,ハノイ,ハイフォン,ビエッチ,タイグエンなどにセンターが形成されている。

 ベトナムは19世紀末から1945年までフランスの植民地であった。この間,植民地政府は本国資本による鉱山開発,プランテーション経営を援助したにすぎず,生活必需品はもっぱら本国からの完成品輸入に依存した。ベトナム人は技術の遅れた,生産性の低い農業に従事し,地主の要求する高率小作料や高利子,植民地政府の課す重税や過酷な労役に苦しんだ。45年9月の独立宣言後,労働党(現在の共産党)と民主共和国政府は再侵略を図るフランスとの戦いを遂行する過程で植民地権益を漸次接収し,戦争の末期の53年末からは地主制の撤廃を目ざす土地改革に着手した。54年7月のジュネーブ協定による停戦後,北緯17度線を境に二つに分かれた南北両地域は経済開発の面で全く異なる道を歩んだ。北部は労働党の強力な指導の下に,また社会主義国の援助に依拠して経済の復興(1954-56),社会主義改造(1957-60)を行い,60年末までに土地改革,農業合作化,商工業の合作化(合作社)・公私合営(合同経営)化を完了した。そして61年からはソ連にならった重工業優先の工業化政策を進め,それを具体化した第1次五ヵ年計画(1961-65)では総投資の50%を占める工業投資の75%を重工業に投じ,社会主義の物質的・技術的基礎づくりを意図した。この計画は過大な目標設定,農工間バランスの軽視などの問題を含んでいたが,タイグエン鉄鋼コンビナートの稼動,ウオンビ火力発電所,タクバ水力発電所の建設などの成果は記憶されてよい。65-68年,70-73年のアメリカ軍の北爆はこうした新設工場・設備やインフラストラクチャーの破壊を目標としたもので,政府は工場の地方分散などで対抗したが,甚大な被害を被った。

 一方,南ベトナムではジュネーブ協定後も農村地域に革命勢力が温存され,激しい階級対立が続いた。アメリカをバックにするゴ・ディン・ジェムは農村安定のため土地改革を試みたが,地主に有利な改革のためかえって農民を革命側に走らせ,政府と彼らの対立は強まった。1960年の解放戦線成立後,対立は一段と拡大し,ついにアメリカ・政府軍と解放戦線・北ベトナム軍との全面戦争へと発展した。そして戦闘の激化は農村を戦場に変えてしまい,耕地面積の減少や集荷困難が発生した。かつて南部はメコン・デルタだけでも100万t以上の米輸出余力があったが,65年を境に完全な米輸入国に転じ,その量はピーク年には70万tに達した。米以外の食料品,工業製品・原料も輸入増大を続け,71年には輸出の輸入に対する比率はわずか1.4%にとどまった。国家財政も戦費の増大で支出が膨張し,大幅な赤字を記録した。その不足を補ったのがアメリカの援助で,その額は1966-75年の10年間に経済援助だけでも合計52億ドルに達した。

 76年の南北統一はベトナムの自立的な発展への道を開いた。しかし長年の戦乱による生産基盤の破壊,物資の不足ははなはだしく,統一国家は成立早々重大な困難に直面した。最大の問題は食糧生産の回復と南部の都市住民を中心に労働力人口の2割に及ぶ失業の解消であった。そこで政府は統一後最初の計画である第2次五ヵ年計画(1976-80)では,食糧生産を最重要課題として位置づけ,耕地の回復・拡大,水利施設建設により最終年に2100万t(籾換算)の目標を設定した。その際の要となったのが新経済地区の建設である。これは中部高原やメコン西部の未開地,荒蕪地に南部の都市失業者や北部デルタの過剰人口を集団で入植させ,大規模な国営農場,合作社群をつくるというもので,期間中に400万人の移住,180万haの開墾を予定した。しかし食糧生産は77-79年の3年連続の自然災害や肥料,農薬,石油などの投入財の極度の不足で計画を大幅に下回り,新経済地区の創設も移住者の不満を買うだけで,食糧増産にはまったく寄与せず,失敗した。

 一方,南部の社会主義化については,当初指導部は慎重であったが,経済危機が表面化し始めた1978年ころからその強行に踏み切り,私営商業経営の全面禁止,工業の公私合営化・合作化,農地の調整,農業の合作化を断行した。しかし商業の性急な国有化は市場の急激な縮小をもたらし,さらに流通部門を握っていた華僑の大量国外脱出の原因となり,国際問題化した。また農業の合作化は,中部沿岸地方ではほぼ予定どおり進んだが,肝心のメコン・デルタでは農民の抵抗に会い,ほとんど実績をあげなかった。こうした状況に追打ちをかけたのが,カンボジアへの侵攻,中国との国境紛争で,これらを契機に日本を含む西側諸国や国際機関の援助は中断し,物資不足と戦費の負担で国民生活は生存ラインまで低下した。80年代に入ると,政府はようやく経済危機からの脱却のため従来の硬直的な態度を改め,企業自主権の拡大,農産物生産請負制の導入,出来高払い賃金の採用など,一連の自由化,生産刺激政策を実行し始めた。ベトナムの経済の今後は,こうした諸政策の実施,外国援助受入れ増加,高い人口増加率の抑制,メコン沖やトンキン湾の海底油田の開発などの成否にかかっている。
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ベトナム人は,漢代より五代までの中国に支配された北属期に漢字文化の基礎を培った。中国からの独立後は独自の漢字音が成立するとともに,歴代王朝が漢字を行政,学術上の文字として用いたため,文化の全般に中国文化の影響が色濃い。文学も中国文学の影響を受けながら,民族性を反映した特異な内容と形式をもって発展した。民族語によって古くから行われた韻を踏んだ短詩は,固有の文字をもたなかったために伝わらず,今日に伝承されている〈俗語〉や〈歌謡〉などの口承詩を,古代の韻文にさかのぼるとする意見はあるが,その起源はつまびらかではない。古代の伝承説話もチャン(陳)朝に漢文で書かれた《嶺南摭怪(れいなんせきかい)》によって概要が知れるものの,それらを民族語で伝える資料は存在しない。民族文字チュノム(字喃)の発祥は北属期とみられているが,13世紀にこの文字による民族語の表記が盛んになり,やがてチュノムによって書かれた文学が,18世紀半ばまで主流であった漢詩文と並行して発展した。

 中国から独立した10世紀に,道教的色彩を伴った精霊崇拝に仏教が融合した文化基盤が形成され,リ(李)朝にはこうした文化を背景にした今体の漢詩が興った。チャン朝以前の文籍は15世紀初頭の明の侵略軍の略奪によってほとんど失われたが,リ朝以前の詩については,チャン朝の《禅苑集英》がカイン・ヒー(慶喜),バオ・ザック(宝覚)をはじめとする禅師の詩集やその作品を伝えている。リ朝中期からチャン朝にいたって儒教文化が興隆するに伴い,朝廷を中心とする詩壇が形成されて漢詩文の隆盛をみたが,チャン朝の文学についてはグエン(阮)朝の《歴朝憲章類志文籍志》にチュー・バン・チン(朱文貞),チュオン・ハン・シエウ(張漢超),チャン・クアン・カーイ(陳光啓)などの廷臣や諸帝の詩文集の名が多く伝えられ,作品もレ(黎)朝に成った《皇越詩選》など後世のアンソロジーで知られている。13世紀にレ・バン・フー(黎文休)によって編修された正史《大越史記》は神話や古代伝説によって民族史の黎明期を叙述したとされ,次いでリ・テー・スエン(李済川)の説話集《嶺南摭怪》が成った。またチュノムによる民族語の絶句や律詩である国語詩が《披沙集》の作者グエン・トゥエン(阮詮)によって創始されるなど,チャン朝における文学には民族意識の勃興を反映する要素が濃い。

 15世紀に成立したレ朝では,科挙制の整備と儒教の国教化によって文学の評価が高まり,漢詩文が知識人層の必須の教養とされる一方,民族語詩にも新たな発展がみられた。初期の最大の詩人はグエン・チャイ(阮薦)で,彼は《ウク・チャイ(抑斎)集》6巻にすぐれた詩文と学術的著作を残しただけでなく,18世紀に勃興する双七体長編詩の最古の作品《家訓歌》の作者ともされている。

 レ朝はレ・タイントン(黎聖宗)の時代に文学尊重の気運が最も高まり,タイントン自身に《明良錦綉詩集》などの御製詩集や《瓊苑九歌》《古心百詠》その他の勅選集があるだけでなく,その《洪徳国音詩集》にはチャン朝の国語詩と詩体を異にする七言・六言混交体の国音詩を集め,より特徴のある民族語詩が盛んに試みられたことを示している。16世紀から王朝文化は退廃期に入り,儒教倫理に制約されて文学は活気を失ったが,隠棲して道教と仏教に新思想を追究し,体制に対する批判を筆に託すグエン・ビン・キエム(阮秉謙)などの文人が現れた。社会批評の文学としてはグエン・ズー(阮璵)が明の《剪灯新話》の影響の下に書いた《伝奇漫録》があった。レ朝末期は儒教の国教的権威が官僚制の後退とともに衰え,俗化した仏教に儒・道2教が混交した国民的宗教が成立した。同時に民衆的伝統文化が文人の台頭する時流の中で尊重され,口承詩の詩体を採用しチュノムで書かれた六八体長編詩が急速に発展した。グエン・フイ・トゥ(阮輝似)の《花箋伝》を初期の代表作とするこの長編詩は,グエン朝初期にかけて数百行から800以上のスタンザを含む三千数百行に及ぶ作品が数多く出現し,読書人にもてはやされた。主要作品が中国の通俗小説の韻文訳で,チュノムの読解に該博な漢字の知識を必要としたため,当初から国民文学として広く民衆に普及したわけではなかった。しかし六八体詩の民族語による豊富で繊細な表現と伝統的韻律で歌われる庶民的主題はしだいに国民的人気を獲得し,今日ではグエン・ズー(阮攸)の《キム・バン・キエウ》を頂上的作品とする,韻文の小説ともいうべきその一連の作品は,民族文学の古典としての評価を得ている。封建社会に対する風刺詩がホー・スアン・フオン(胡春香)などの閨秀詩人によって盛んに行われたのもレ朝末期,グエン朝初期の特徴で,女権の強い国民性を反映していた。しかしこうした活発な文学活動はグエン朝中期に入って沈滞し,19世紀後半ではグエン朝に対する反逆の漢詩人カオ・バー・クアット(高伯适)や抗仏の抵抗詩人グエン・ディン・チエウ(阮廷炤)の文学のほかに現代的評価を得ているものは少ない。

 フランス領期に入ってチュノムと漢字に代わりローマ字による民族語の表記法〈クオック・グー(国語)〉が普及し,その前半期は文学が停滞したが,20世紀に入るとやがて西欧文学の影響を受けたロマン主義の小説がこの文字で書かれ始めた。1920年代には〈自力文団〉による文壇の形成がみられ,詩,小説ともに近代文学の時代を迎えた。30年代末には民族運動派による,植民地主義と封建的慣習に対する批判を主題にしたリアリズムの文学が主流となり,45年の8月革命以後の社会主義文学の先駆となった。

新石器時代に属するホアビン遺跡などの洞窟に最古の彫刻が発見されているが,史的年代を推定できる古代美術は文郎・欧貉時代のドンソン遺跡などの青銅器にみられる彫刻で,その文様の特徴は北属期の7世紀までの中国式墳墓に発見される青銅製装飾器に引き継がれている。中国から独立後は報天寺の報天塔,タンロン(昇竜)の一柱寺などの独特の石造建築や,バクニン(北寧)の瓊林寺の千仏像に代表される仏教美術が開花し,陶芸にも民族美術の創造がみられた。リ(李)朝期の遺物はわずかしか伝わらないが,仏教の装飾台座や黄釉磁器の竜や蓮弁の文様に特徴がある。チャン(陳)朝からレ(黎)朝中期にかけて美術はたくましさと簡素さを均衡美の中に追究し,石造建築ではそれがタインホア(清化)のホー(胡)氏の堡塁に示されている。黄釉や緑釉に加えて白磁,青磁が発達した陶磁器は,一時中国陶磁の模倣に堕したが,チャン朝後期に鉄絵が興り,レ朝の青花(せいか)(染付),五彩磁などの絵付陶磁を導いた。レ朝が残した仏教美術の作品は,筆塔寺の千手観音や西方寺の阿羅漢像が著名であるが,村落の亭(集会所)の木板彫刻に象徴される,軽妙で質朴な新興の民間美術が,寺院の建築にも影響を与えた。19世紀以降はグエン朝の保守的な文化政策とフランスの植民地統治のもとで,伝統美術の発展は大きく阻害された。しかし植民地期後半には西洋美術の移入によって絹地の淡彩や漆絵が新境地を開き,旧正月の縁起物として伝えられた泥絵を一例として,その間農村地域で継承された民間の伝統芸術は,独立後にとりわけ尊重されて今日に及んでいる。
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ベトナムはカンボジア,ラオスとともにインドシナとしてくくられるが,音楽的には,ほかの2国と異なり,インド文化の影響が弱く,中国文化のそれが強い。そのため,中国だけでなく,モンゴル,朝鮮半島,日本と音楽的に共通するものが多い。次のような音楽用語も発音だけでは推察しにくいが,漢字に戻してみると意味が明らかになろう。たとえばカムcam(琴),ダイ・コdai co(大鼓),グ・アンngu am(五音),パクphach(拍),ニャ・ニャクnha nhac(雅楽)など。

 ベトナムの音楽の歴史は,四つの時期に分けて考えられることが多い。第1期(10~14世紀)は,インドと中国の双方から影響を受けた時期。第2期(15~18世紀)は,中国音楽が積極的に取り入れられた時期。第3期(19世紀~1945)は,この時期の後半には西洋音楽の移入も始まるが,一般的には,音楽のベトナム化が進んだ時期。第4期(1945~ )は,伝統音楽とともに西洋音楽が盛んになり,そのため,五線譜の使用が広がり,折衷的な音楽様式が生み出された。

 ベトナムの伝統音楽として現在よく考えられているのは,第2期に成立したのち,第3期に国風化したものである。宮廷で用いられた雅楽の系統は伝承が失われつつあるが,〈娯楽のための音楽〉と総称される古典的な歌曲や器楽は,今日でも国の内外で伝承され楽しまれている。こうした音楽で使われる楽器は,ダン・チャン(16弦箏),ダン・ニー(2弦の胡弓),ダン・グイェットdan nguyet(月琴),ティ・バty ba(琵琶)など,中国起源のものが多い。しかし,ベトナムに固有のものもあり,音楽生活の中で果たしてきた役割からみて,次の3種はとくに重要である。(1)ダン・ダイdan day(弾底) 台形の木製の胴をもつ三味線型の楽器で,歌の伴奏に使われる。(2)ダン・バウdan bau(弾匏)またはダン・ドク・フイェンdan doc huyen(弾独絃) 一弦琴で,倍音と弦の張力の変化によって音高を変えるもの。(3)クアン・ティエン・パクquan tien phach(串銭拍) 棒に古銭を重ねてつけた木製の楽器で,横にぎざぎざもつけてあるため,金属を鳴らすだけでなく,拍子木やささらの役など三つの機能を果たす。今日ではスプーン2本で代用されることもある。

 ベトナム音楽は,近隣の諸国に比べて,基本的な性格としては旋律中心的である。その旋律性の基礎になっているのが,音階ごとに相対的な音高を微妙に上げたり下げたりすることができる音組織である。これは,カンボジア,ラオス,タイほかで使用されている等分平均律とは本質的に異なる発想である。こうした音組織を用いて構成される音階で最も広く使用されているのが,北のバクbacと南のナムnamである。南北に長いベトナムでは,北(ハノイ),中央(フエ),南(ホー・チ・ミン市)の三つの伝統で,細部が異なる。この2種の音階はそれぞれ5音音階が原則で,バクはド,レ,ファ,ソ,ラの音階で,ナムはド,レ,ファ,ソ,シ♭であるが,演奏に際しては,同じファがナムの場合に少し高められ,また,それぞれに微妙な音高変化による装飾がついて,異なった印象を与える。また,バクは速めのテンポで明るさを表現し,ナムは遅めのテンポで暗さを表現する。独奏だけでなく数種の楽器による演奏でも,細かいニュアンスづけが生かされて,きわめて繊細な音楽づくりになっている。

 なお,ベトナムの古典演劇(ハット・ボイhat boi)でも改良劇(ハット・カイ・ルオンhat cai luong)でも,音楽は不可欠な要因である。

 さらに60に及ぶ少数民族も固有な音楽と楽器をもっている。たとえば,中部高原のジャライ族は,ド,ミ,ファ,ソ,シの音階を使うといわれるが,これはベトナムの古典音楽にはみられず,むしろ,沖縄,インドネシア,ブータンで使われるものに近い。
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百科事典マイペディア 「ベトナム」の意味・わかりやすい解説

ベトナム

◎正式名称−ベトナム社会主義共和国nuoc Cong Hoa Xa Hoi Chu Nghia Viet Nam/Socialist Republic of Vietnam。◎面積−33万951km2。◎人口−8877万人(2012)。◎首都−ハノイHanoi(232万人,2009)。◎住民−ベトナム人84%,ミヤオ人,モイ人,ムオン人などの少数民族8%,クメール人など。◎宗教−仏教80%,キリスト教(カトリック),ホアハオ教など。◎言語−ベトナム語(公用語)が大部分,ほかに少数民族の言語など。◎通貨−ドンDong。◎元首−国家主席チュオン・タン・サンTruong Tan Sang(1949年生れ,2011年7月就任,任期5年)。◎首相−グエン・タン・ズン Nguyen Tan Dung(1949年生れ,2006年6月就任)。◎ベトナム共産党書記長−グエン・フー・チョンNguyen Phu Trong(2011年1月就任)。◎憲法−1992年4月制定,2001年12月改正。◎国会−一院制(定員500,任期5年)(2011)。◎GDP−907億ドル(2008)。◎1人当りGDP−809ドル(2007)。◎農林・漁業就業者比率−66.1%(2003)。◎平均寿命−男71.3歳,女80.5歳(2013)。◎乳児死亡率−19‰(2010)。◎識字率−92.8%(2009)。    *    *漢名は越南。インドシナ半島の東半部,トンキン湾,南シナ海に沿うS字形の南北に細長い国。〔自然・住民〕 中国,ラオス,カンボジアの三国に接し,北部はソンコイ川の形成するトンキン・デルタとそれを囲む山岳地帯。中部はアンナン山脈が急崖をなして南シナ海岸に迫る狭い地域で,最狭部では東西の幅約50km。南部は主としてメコン川の大デルタからなる。一般に熱帯モンスーン気候で,雨季は5〜9月。住民は大部分はベトナム人で,ベトナム語を話すが(中国南部にもキン族と呼ばれるベトナム系民族が居住),トンキン,コーチシナ地方には中国人も多い。ミヤオ(苗)族チャム人,モイ人はじめ多種の少数民族がいる。仏教徒が多いが,カオダイ教,ホアハオ教や,フランス植民地時代以来のカトリックの勢力も強い。〔歴史〕 中国南東岸に古くから住む諸族百越のうち駱越が南下してベトナムに入った。漢・唐のころ中国の支配を受けたが,10世紀に独立,ディン(丁)朝,リ(李)朝,チャン(陳)朝,レ(黎)朝などの王朝がたち,18世紀末のタイソン党革命を経てグエン(阮)朝に至った。清仏戦争後1887年全土がフランス領インドシナに編入された。第2次大戦後はインドシナ戦争ジュネーブ協定(1954年)で南北に分断され,北のベトナム民主共和国と南のベトナム共和国が対立するようになった。南は統一の総選挙を拒否,南を支持する米国の武力介入はベトナム戦争に発展した。1975年のベトナム戦争終結を経て,1976年南北統一を達成,国名をベトナム社会主義共和国に改めた。その後,カンボジアのヘン・サムリン政権への支援や,それにからむ対中国関係の悪化(中越戦争),干ばつや洪水などの自然災害による食糧不足などが重なり,大量の難民を出した。1991年中国と14年ぶりに国交を正常化し,1995年には米国とも国交を樹立,東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟した。〔経済・産業〕 農業が主で,トンキン,メコン両デルタの米作が最も重要。小麦,トウモロコシ,サトウキビ,綿花の産も多い。ほかにホンゲイの無煙炭をはじめ,スズ,クロム,亜鉛,鉄などの鉱産がある。1976年の南北統一後は外国資本も進出するようになり,工業の発展もはかられている。とくに1980年代後半からは〈ドイモイ(刷新)〉政策により市場経済化が推進され,ODAと外国からの投資の後押しもあって,1990年代後半から2000年代にも安定した経済成長(年率7%前後)を続けた。1996年ASEAN自由貿易地域(AFTA),1998年アジア太平洋経済協力会議(APEC)に加盟,2007年世界貿易機関(WTO)にも正式に加盟を認められた。慢性的な貿易赤字や投資環境の未整備など懸案もあるが,石油・天然ガスなど資源に恵まれており,勤勉な国民性と良質の労働力から域内からも経済発展の牽引役を期待されている。成長率は2011年は5.9%,2012年は5.2%とかつての高度成長と比較すると鈍化しているが安定的な成長を続けている。〔政治〕 政治体制はベトナム共産党(党員約250万人)による一党支配。2011年の第11回共産党大会では,2020年までに近代工業国家に成長することを目標とし引き続き高い経済成長をめざす方針が掲げられた。同年5月の国会議員選挙を受けて国会が招集され,グエン・シン・フンが国会議長,チュオ・タン・サンが国家主席に選出され,グエン・タン・ズンが首相に再選された。経済運営に関しては,経済の安定化とインフレ対策を最重要課題とした。ベトナム国内経済が停滞し,ドイモイ進展の裏で,貧富の差の拡大,汚職の蔓延,官僚主義の弊害等のマイナス面が顕在化したことから,党・政府は,汚職防止の強化,行政・公務員改革等を実施し,不良債権処理や国有企業再編により,経済の不効率性の改善を進めることを優先課題としている。2013年には,国会が人事を承認した閣僚級以上の指導者に対する国会議員による信任投票の実施や憲法改正等,一党体制にありながら,民主的要素を取り入れるといった動きも示している。日本との関係では,第2次安倍政権は緊張関係が続く中国を念頭に,民主党政権でのベトナムとの友好協力関係をさらに発展させる方針で,2013年1月には安倍総理が就任後最初の外遊先としてベトナム訪問を選択。また,2013年12月には,日・ASEAN特別首脳会議への出席のためズン首相が訪日した。安倍総理とズン首相との間で,地域的課題を共有し経済的に相互補完関係にある重要なパートナーとして,日越間の〈戦略的パートナーシップ〉を更に発展させていくことが確認された。
→関連項目インドシナ経済連携協定東南アジアベトナム共和国ベトナム民主共和国

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベトナム」の解説

ベトナム
Viet Nam

東南アジア大陸部(インドシナ半島)東岸の国家。首都ハノイ紅河(こうが)デルタを中心とする北部,チュオンソン山脈,中部高原と南シナ海に挟まれた狭長な中部,メコンデルタを中心とする南部に分かれる。ベトナム人(キン族)の祖先が居住した北部は漢代から中国に支配され,10世紀にようやく自立,1054年から大越(だいえつ)の国号を用いた(中国は安南国として冊封)。東南アジアらしい流動的な国家・社会に,14~15世紀には小中華型の国家体制と国家=民族意識が固まり,中部のチャンパーを圧倒して大規模な南進を実現,17~19世紀には南部をカンボジアから奪った。16~18世紀は南北分裂の時代だったが,1802年に南北を統一した阮(グエン)朝越南(ベトナム),のち大南の国号を採用した。1859~84年に全土がフランスの植民地とされ,南部(コーチシナ),中部(アンナン),北部(トンキン)の3邦に分けて統治された。1945年ベトナム民主共和国が独立宣言したがフランスとインドシナ戦争となり,フランスの敗北後もジュネーヴ協定により南北に分割された。しかし,北の民主共和国はアメリカが直接派兵(ベトナム戦争)までして支援した南のベトナム共和国を75年に倒し,翌年南北を正式統一して,ベトナム社会主義共和国となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ベトナム」の解説

ベトナム

インドシナ半島東岸の国。漢字表記は越南。紀元前2世紀頃,北部で初期国家を形成するが中国(漢~唐)に征服され,安南とよばれた。10世紀に独立。中国の制度文物を摂取し,集権国家を形成して独立維持と南進に成功,19世紀に阮(げん)朝がほぼ現在の領域を統合した。1804年から越南を国号とする。19世紀後半からフランスの植民地となり,第2次大戦期の日本の仏印進駐をへて,戦後のインドシナ戦争の結果南北に分離,アメリカの介入でベトナム戦争が勃発した。1976年の南北統一後もカンボジア問題で孤立・混乱したが,86年からドイモイ(刷新)政策が進展している。日本とは,鎖国前の朱印船貿易と日本町の建設,日露戦争後の日本留学運動(東遊(ドンズー)運動),ベトナム戦争特需とベトナム反戦運動など関係が深い。また,日本はベトナムにとって最大の援助国となっている。95年にASEAN加盟。正式国名はベトナム社会主義共和国。首都ハノイ。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のベトナムの言及

【グエン朝】より

…1802‐1945年,フエに都したベトナム最後の王朝(図)。阮朝とも書く。…

【ザロン】より

…ベトナムのグエン(阮)朝初代皇帝。姓名グエン・フォック・アインNguyen Phuoc Anh(阮福暎),グエン・フック・アインNguyen Phuc Anh(阮福映)とも表記される。…

【ダイベト】より

…1054年から1778年まで用いられたベトナムの国号。リ(李)朝のリ・タイ・トン(李太宗)によって定められ,以後,チャン(陳),レ(黎),クアンナム(広南)各朝を通じて用いられたが,国外ではアンナン(安南)と称することも多い。…

※「ベトナム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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