スミス(英語表記)Adam Smith

精選版 日本国語大辞典 「スミス」の意味・読み・例文・類語

スミス

[一] (Adam Smith アダム━) イギリスの経済学者、倫理学者。古典派経済学の祖。グラスゴー大学教授・総長。重商主義的保護政策を批判し、自由放任主義の立場にたつ自由主義的経済学を主張し、国富の源泉を労働一般に求め、産業革命の理論的基礎づけを行なった。「国富論」は経済学を初めて科学的に体系づけた古典。ほかに「道徳感情論」などがある。(一七二三‐九〇
[二] (William Smith ウィリアム━) イギリスの地質学者、古生物学者。イギリス地質学、層序学の開拓者。一八一五年に「英国地層図」、一六年に「化石と地層」を発表した。(一七六九‐一八三九
[三] (William Robertson Smith ウィリアム=ロバートソン━) イギリスの神学者、宗教学者。「旧約聖書」を比較宗教学的に研究。主著に「セム人の宗教」「ユダヤ教会における旧約聖書」など。(一八四六‐九四
[四] (Theobald Smith シアボールド━) アメリカの病理学者。ハーバード大学教授。伝染病、寄生虫病における比較病理学、血清学の先駆者。多くの動物の伝染病の病原体およびその媒体を発見した。主著「寄生と疾患」。(一八五九‐一九三四
[五] (Henry John Stephen Smith ヘンリー=ジョン=スティーブン━) イギリスの数学者。オックスフォード大学教授。初め幾何学にとりくんでいたが、後、数論を専門に研究。一八五九~六五年「数論に関する研究報告書」にその研究成果が発表された。(一八二六‐八三

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デジタル大辞泉 「スミス」の意味・読み・例文・類語

スミス(Adam Smith)

[1723~1790]英国の経済学者。古典派経済学の創始者。スコットランドの生まれ。主著「国富論」は経済学を初めて科学的に体系づけた大著で、重商主義を批判して自由放任主義の経済を説き、経済学の原典となった。

スミス(Henry John Smith)

[1826~1883]英国の数学者。整数論・近世幾何学の研究に貢献。

スミス(William Robertson Smith)

[1846~1894]英国の聖書学者。聖・俗の観念を社会的立場から考察し、宗教の比較研究法を開拓。著「セム族の宗教」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「スミス」の意味・わかりやすい解説

スミス
Adam Smith
生没年:1723-90

イギリスの道徳哲学者,経済学者。主著《国富論》はあまりに有名。スミスという姓がイギリスではひじょうに多いので,アダム・スミスと姓・名をあわせて呼ぶのがふつうである。D.リカードとともに古典派経済学を代表し,他方では,その経済学と道徳哲学moral philosophyとの結合によって,不可侵の自己保存権(自然権)をもつ近代的個人の,自愛心=利己心に基づく活動が,平和的に共存して社会を構成し維持できることを明らかにした点で,スコットランド啓蒙思想のなかで特異な位置を占める。

 スコットランド東海岸の港町カーコーディに,税関吏の次男として生まれたが,父は彼が生まれる前に(異母兄は1749年に)死亡した。町立学校を出てグラスゴー大学に学び,ここで道徳哲学の教授F.ハチソンの影響を受けるとともに,アメリカ植民地貿易で繁栄へ向かう都市の自由な空気を呼吸した。グラスゴーという都市はスコットランドではまったく例外的に,ジャコバイト(名誉革命体制に反対するスチュアート王朝復興運動)の反乱に荷担しなかったし,ハチソンの自由主義的神学(神は人間のこの世での幸福を願っていると主張する)に対して教会が干渉しようとしたときも,大学当局,学生とともに,彼を支持した(市は大学行政に参加していた)。このような教育を受けたスミスが,グラスゴー大学を卒業して,スネル奨学金によってオックスフォードのベリオール・カレッジに留学したとき,その保守性に失望したのは当然であり,彼はのちに《国富論》第5編で,特権(生活と地位の保証)に安住する大学の沈滞ぶりを鋭く批判した。スネル奨学金の支給条件は国教会牧師になることであったが,彼はこれを放棄し,約6年の在学ののち,1745年8月に帰郷,中途退学した。

 帰郷したスミスは,牧師にかわるものとして貴族の家庭教師の職を探したが,成功しなかった。しかし1748-49年,49-50年,50-51年の冬にエジンバラで行った3回の公開講義がひじょうに好評で,それによって51年1月にグラスゴー大学の論理学の教授に任命され,翌年には道徳哲学の講座に移って,恩師ハチソン(1746死亡)のあとを継ぐことになった。ただし,この公開講義については,当時のエジンバラの新聞に報道がなく,何人かの同時代人の回想だけが証拠であって,内容も文学・文芸批評が2回,法学が1回ということしかわかっていない。スミスがグラスゴー大学で60年代に行った講義の,学生による筆記が3種類残っていて,一つは修辞学,あとの二つは法学であり,それらはエジンバラ公開講義の内容にかなり近いものであろうと推測されている。

 このころ(1750前後)の彼の著作として残っているものは,遺稿集《哲学的主題に関する論文集》(1795)のなかの〈天文学史によって例証された,哲学的研究の指導原理〉と《エジンバラ評論》への2編の寄稿である。前者はオックスフォード時代に大部分が書かれ,帰郷後に仕上げられたもので,スミスは引き続き,古代物理学史について,古代論理学・形而上学史について,同じテーマで論じた断片を書いた。《エジンバラ評論》は1755年と56年にスコットランド文化の振興を目ざして刊行された書評中心の同人雑誌で,教会の干渉によって2号でつぶれたといわれるが,スミスはその1号にS.ジョンソンの《英語辞典》の書評を,2号に大陸とくにフランスの出版物の展望を寄稿した。いずれも短編ながら高く評価されたが,後者はスミスが早くからルソー,ボルテールおよび《百科全書》に注目していたことを示している。〈天文学史〉は,科学の体系が新しい事実にぶつかって動揺し,それを包摂するような(新しい事実を平明に説明しうるような)新しい体系にとって代わられる過程を述べたもので,やがてスミス自身が道徳哲学において,またとくに経済学において,そのような意味での体系の革新をなしとげることを,予感させる(衝撃を与える新しい事実は,前者については〈利己心〉,後者については〈労働〉である)。

 グラスゴー大学教授としてのスミスは,有力な商人たちとの交友や,親友D.ヒュームの経済論文の影響などを通じて,すでに後年の経済的自由主義の基礎をつくっていたといわれるが,《道徳感情論(道徳情操論)The Theory of Moral Sentiments(1759)によって,全ヨーロッパに学問的名声を確立した。それはスミスに,バックルー公の旅行付添教師として大陸に渡る機会を与え,彼は大学を辞任して,1764年1月から2年9ヵ月にわたりフランスとスイスを旅行する。このとき,パリでフランスの重農主義経済学者たち,百科全書派哲学者たちに会い,ジュネーブでボルテールに会ったこと,とくにF.ケネーとの出会いが,スミスの思想的発展を促進した。主著《国富論》(1776)は,この旅行中に書きはじめられたともいわれるが,大部分は帰国後故郷の家にこもって書かれた。それはアメリカ独立宣言と同じ年に出版されたが,スミスが本国による植民地貿易の独占を非難したことは明白であるとしても,アメリカの独立を支持したかどうかは,あとで発見された〈アメリカ問題についての覚書〉をも含めて,論争の的になっている。

 スミスは77年11月に,スコットランド税関委員に任命されて,エジンバラに居を移し,死ぬまでそこでスコットランド文化の中心的人物として過ごした。彼の最後の学問的業績は,《道徳感情論》の大幅な改訂増補(第6版,1790)であって,それには《国富論》を経過した思想的発展と,フランス革命の思想的衝撃とがはっきり表現されている。

経済学者としてのスミスは明治初期には日本で知られていたし,《国富論》の翻訳も石川暎作と嵯峨正作によって1882-88年に刊行された。石川が福沢門下であり,この邦訳の第4編序文を田口卯吉が書いたことからもわかるように,《国富論》は彼らの自由主義経済論の支柱となったのである。しかし,1878年に来日して翌年から外務省法律顧問として活動したヘルマン・レースラーには,ドイツ歴史学派の立場からスミスを批判した著書があり,《独逸学協会雑誌》に訳載された論文においても,スミスは資本家を寄生者とし,労働者のみを生産的だとすることによって,社会主義の先駆となったと主張した。もちろん,この見解がそのまま日本でうけいれられたわけではないが,自由主義に対して保護主義,利己心に対して利他心および国家意識が優位を占めたことは,両国の資本主義の後進性からして,不可避であった。

 やがてマルクス主義がはいってくると,スミス経済学のなかにおける労働価値論の萌芽だけが,彼の科学的側面として評価され,あとは価値論および再生産論の混乱が指摘され,K.マルクスの引立て役の地位を与えられたにすぎなかった。ところが,1930年代後半になってマルクス主義への弾圧が強化されると,スミス経済学はマルクス経済学の研究者の隠れみのとなった。そして,そこから進んで,スミスにおける道徳哲学と経済学の統一を再発見することによって,日本のスミス研究は,さしあたっては戦時の空虚な道徳論を批判するとともに,第2次大戦後においては独特の〈市民社会論〉によってマルクス主義にも大きな影響を与えた。この方向での代表的な著作は,太田可夫〈アダム・スミスの道徳哲学について〉(《一橋論叢》2巻6号,1938),高島善哉《経済社会学の根本問題》(1941),大河内一男《スミスとリスト》(1943),内田義彦《経済学の生誕》(1953)である。
執筆者:

スミス
John Smith
生没年:1579か80-1631

イギリスの軍人,探検家,著作家。軍人としてヨーロッパ大陸でトルコ軍と戦って捕らえられるが,脱走して1604年ころ帰国。07年ロンドン・バージニア会社の植民者をつれて北アメリカのジェームズタウンに上陸し,バージニア植民地を建設した。インディアンに捕らえられ,酋長の娘ポカホンタスの助命で助かったり,現地経営の内紛で死刑となる寸前に新移住者をつれてきたC.ニューポート船長に助けられるなどの苦労ののち,08年総督に選ばれ,09年帰国。14年にはロンドン商人たちによりニューイングランドに派遣されて探検し,魚や毛皮の積荷を持ち帰った。これがロンドン有力商人間にこの地方に植民地を建設する刺激を与え,20年のピューリタンによるプリマス植民地の建設となった。その経験を多くの著述や地図として出版したが,重要なものは《ジョン・スミス船長の旅行・冒険・観察記》(1630),《バージニア地図》(1612),《ニューイングランドについて》(1616)。
執筆者:

スミス
William Smith
生没年:1769-1839

イギリスの地質学者。オックスフォードシャーの鍛冶屋に生まれ,若いころ,当時盛んであった運河工事を手伝ううち,測量技師となり,終生,土木技師civil engineerを名のった。工事のかたわら,地層の特徴に注目,地層の重なり,連続の規則性に気づき,地質図にまとめ,1815年に大きな《イングランド,ウェールズ,およびスコットランドの一部の地質図》を出版した。また特定の地層には特定の化石を産することに着目,1816年から地層ごとの化石図鑑《化石によって同定される地層》を出版しはじめたが,財政難で中断。イギリス各州の地質図も出版した。化石による地層の同定を確立したことから,〈層位学の父〉とも,〈イギリス地質学の父〉ともよばれる。1831年にロンドン地質学会から第1回のウォラストン賞をうけた。イギリス国会議事堂の建築用材の調査旅行中に病気で死亡した。
執筆者:

スミス
Eugene Smith
生没年:1918-78

アメリカの写真家。カンザス州のウィチタ生れ。18歳で《ニューズ・ウィーク》,19歳で《ライフ》のスタッフとなったスミスは,以後一貫してフォト・ジャーナリズムグラフ・ジャーナリズム)の世界を歩んだ。彼の求道的・理想主義的なヒューマニズムはグラフ雑誌編集者との衝突も生んだが,数々の人間愛に満ちた傑作を生みだした。〈カントリー・ドクター〉(1948),〈スペインの村〉(1950),〈慈悲の人シュワイツァー〉(1954)など《ライフ》誌に発表された写真は,単にルポルタージュとして優れているだけでなく,写真芸術としての完璧さを備えている。晩年になっても,スミスの求道的な姿勢は衰えず,71年に来日して水俣病に取り組み,彼の最後の傑作を残した。
執筆者:

スミス
Alfred Emanuel Smith
生没年:1873-1944

アメリカの政治家。アイルランド系カトリック教徒移民の子として,ニューヨーク市のスラム街に生まれた。1903年ニューヨーク州下院議員に当選,アイルランド系票を背景に政界に着実な地歩を占め,18年には州知事に当選,行政改革,社会福祉で実績をあげ,名知事として4期務める。その間24年民主党全国大会では指名を逸したが,28年には指名され,アメリカ史上最初のカトリック教徒の大統領候補となった。好況のゆえもあって現職のH.C.フーバーに敗れたが,北部の大都市票を獲得した。アメリカの人口構成の変化,都市化に対応して,民主党は北部大都市の大衆を地盤とする政党へと変容しつつあったが,スミスはその変容を象徴する政治家といえる。ただし,32年の民主党の大統領候補指名争いでF.D.ローズベルトに敗れ,ニューディール政策には反対した。
執筆者:

スミス
Francis Pettit Smith
生没年:1808-74

イギリスの発明家。1836年,二つのねじ山をもった木ねじ型のスクリュープロペラで特許を得,同年,10トンの汽船フランシス・スミス号を造り,この木製のねじ型スクリューを装着し,ロンドンの運河で実験した。実験中,ねじ山の一つが折れたが,これによりかえって船速を増したことにヒントを得て,二枚翼のスクリューを考案した。39年には直径1.75mの二枚翼スクリューを装備した長さ32.3m,総トン数約240トンのアルキメデス号Archimedesを建造,同船は,イギリス一周の試験航海でスクリューの優秀性を実証し,当時,ブリストルの造船所で鉄製汽船グレート・ブリテン号を建造中であったI.K.ブルネルは,予定していた外輪をやめスクリューを採用したほどであった。
執筆者:

スミス
John Smyth(Smith)
生没年:1570ころ-1612

イギリス,ピューリタン運動の一支流をなしたバプティスト派の創始者。ケンブリッジ大学に在学中,同大学に盛んであったピューリタニズムにふれて回心した。卒業後しばらく英国国教会の牧師をつとめたが,のち分離派(セパラティスト)の群れに加わってその指導者となった。1607年の末,迫害を避けてアムステルダムへ脱出,そこでメノー派の影響を受けた。11年,亡命以来の同志T.ヘルウィズとJ.マートンはイギリスに帰って,最初のイギリス・バプティスト教会をつくった。スミスはオランダにとどまり,翌年死去した。バプティストの名の由来は,幼児洗礼を否定し,信仰告白に基づく洗礼(バプテスマ)だけを有効と主張したことにある。
執筆者:

スミス
Joseph Smith
生没年:1805-44

モルモン教(正称は末日聖徒イエス・キリスト教会)の開祖。1820年以後啓示を受け,これを《モルモン経Book of Mormon》として出版,同時に教会を組織した(1830)。モルモン教では《モルモン経》を聖書と並ぶ教典とみなす点で,正統的なキリスト教と区別され,そのほか異言や神癒を信ずる。教会は急速に発展したが,その特異な教義と慣習のゆえに反感を買い,スミスは暴徒に襲われて死んだ。しかし,教会は後継者B.ヤングの指導により大いに成長,ソルト・レーク・シティを建設しユタ州設立に及んだ。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「スミス」の意味・わかりやすい解説

スミス

英国の社会科学者。古典派経済学の創始者。1751年―1763年グラスゴー大学教授,1787年同大学総長。主著《国富論》(1776年)は経済学最大の古典である。経済行為は利己心を動機とするが,利己心は同感(利他心)という社会的原理を通しておのずから自然の秩序,公共の福祉をもたらすとして,資本主義経済の法則性を追究し,富の源泉を労働に求める労働価値説,労賃・利潤・地代の決定理論などを展開して経済学の基礎を築いた。利己心の自由な発動を唱える自由主義思想は,国家の経済干渉を排し,国防・司法・公共事業だけを国家の任務とする夜警国家論に導く。別著《道徳情操論》(1759年)は,同感の得られぬ行為は道徳的でないとする道徳の基準を論じ,経済学で論じた利己心の根底を貫く思想を示す。法律,芸術,天文学などの領域も研究した。
→関連項目啓蒙思想社会科学自由貿易主義セー生産価格生産費説小さな政府ヒュームレースラー

スミス

米国の写真家。カンザス州ウィチタ生れ。1933年より,若くして地元の新聞社のカメラマンとして臨時雇用され,1935年からは《ニューズウィーク》誌のスタッフ・カメラマンとなる。1936年―1937年インディアナ州ノートルダム大学で写真を学ぶ。《ライフ》《コリアーズ》《アメリカン・マガジン》などの雑誌に写真を提供し,1939年から1941年まで《ライフ》誌の専属写真家となる。第2次大戦に従軍して負傷するが,戦後《ライフ》誌に復帰,《田舎医者》(1948年),《スペインの村》(1951年),《慈悲のひと――シュワイツァー博士》(1954年)などのフォト・エッセーを寄稿した。1955年マグナム・フォトスのメンバーとなるが,1958年に脱退。1971年から3年間にわたって日本の水俣病の実態を記録し,大きな反響を呼んだ。ヒューマニスティックな精神を貫いたフォト・ジャーナリストとして広く知られる。

スミス

米国のブルース歌手。1920年代を代表する本格派女性ブルース歌手で,〈ブルースの皇后〉の異名をとる。ボードビル一座との巡業を通して頭角を現し,レコード会社のディレクターの目にとまり,1923年レコード・デビューの好機をつかんだ。《ダウン・ハーテッド・ブルースDown Hearted Blues》は大反響のうちに成功を収め,ブルース歌手として不動の地位を築いた。彼女の残した貴重な録音は1923年―1933年の11年間で百数十曲にものぼり,後のブルースやジャズの歌手たちに重要な影響を与えた。

スミス

英国の探検家,植民者。軍人としてトルコ軍と戦い捕虜となったが,1604年帰国。1607年バージニア会社の植民事業に参加して現地に赴き,現地人に捕らえられ,首長の娘ポカホンタスの助命によって救われて,翌年総督となり帰国。1614年ロンドン商人の要請によってニューイングランドに派遣されて探検。その成果がのちのピューリタンによる植民地開拓を生んだ。多くの旅行記の記述を残した。

スミス

英国の技術者。初め農業に従事していたが,1836年に木ねじ型のスクリュー・プロペラの特許を取得し,スクリュー・プロペラの改良と普及に専念した。1839年には2枚翼スクリュー・プロペラを装備したアルキメデス号を建造,英国1周の航海を行って,スクリュー・プロペラの優秀性を立証した。
→関連項目エリクソン

スミス

英国の地質学者。オックスフォードシャー州チャーチルの農家の生れ。独学で測量技師となり,土木工事に従事する過程で地層の重なり具合と化石に関心をもち,イングランドのジュラ系についてその層序を明らかにするとともに,化石による地層同定の原理を発見。のち英国各地の石炭系から白亜系に至る層序と含有化石の関係を明らかにし,層位学の基礎を確立した。
→関連項目フュックセル

スミス

米国の分子生物学者。カリフォルニア大学卒。1973年,ジョンズ・ホプキンズ大学教授。特定の塩基配列を認識してDNAを切断する酵素(制限酵素)を発見,この業績により,1978年,アーバー,ネイサンズとともにノーベル医学生理学賞を受賞。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スミス」の意味・わかりやすい解説

スミス
Smith, George P.

[生]1941.3.10. コネティカット,ノーウォーク
ジョージ・P.スミス。アメリカ合衆国の生化学者。1970年にハーバード大学で博士号を取得。ウィスコンシン大学に勤めたのち,1975年からミズーリ大学に勤務し,1990年に同教授,2015年名誉教授。1985年,細菌に感染するウイルスバクテリオファージ(ファージ)」を使って,多くの突然変異遺伝子のなかから目的に応じた機能をもつ蛋白質をつくるものを効率的に選ぶ「ファージディスプレイ法」を開発した。ファージは細菌内に自分の遺伝子を注入し,その細菌のシステムを乗っ取って新しいファージの外殻をつくる。ファージの遺伝子の中に調べたい蛋白質の遺伝子を混ぜておくと,それがつくった蛋白質はファージの殻に出現する。スミスは出現させた目的の蛋白質を特異的な抗体でとらえるという方法を開発し,目的に合った遺伝子を従来の方法よりも高効率に選びとることができるようになった。2018年,生物進化の過程を模倣して蛋白質の機能を改良する「分子進化工学」を切り開いた功績により,アメリカの化学工学者フランシス・アーノルド,イギリスの生化学者グレゴリー・P.ウィンターとともにノーベル化学賞(→ノーベル賞)を受賞した。

スミス
Smith, Joseph

[生]1805.12.23. バーモント,シェアロン
[没]1844.6.27. イリノイ,カーセッジ
ジョゼフ・スミス。アメリカ合衆国のモルモン教教祖。自伝的著作 The Book of Mormon(1830)の出版直後,1830年4月6日古代キリスト教の復活の名のもとに末日聖徒イエス・キリスト教会 Church of Jesus Christ of Latter Day Saintsを結成。宗徒は漸次増加し,のちの遍歴にも彼の個人的魅力と啓示により,よく団結した。教義は,天に複数の神がいること,人の神となれる可能性の認容,ユダヤ教とキリスト教神秘主義の混ざった「完全な生き方」による永遠の繁栄の獲得などを説く。悪名高き多妻についての啓示は自伝に示されておらず,彼の死後 8年目に公表されたが,公式に知られているエンマ・ヘイルほか 50人の妻と結婚していたという証拠がある。反対派に獄中で射殺されたが,彼の死後,モルモン教は多妻に反対する彼の 4人の息子の一派と,ブリガム・ヤングに率いられ,グレートソルトレークに落ち着く一派とに分裂する。著書『キリスト教会の統制のための掟』A Book of Commandments for the Government of the Church of Christ(1833),『末日聖徒教会の教義と聖約』Doctrine and Covenants of the Church Latter Day Saints(1835)がある。

スミス
Smith, Ian

[生]1919.4.8. ローデシア,セルクウェ
[没]2007.11.20. 南アフリカ共和国,ケープタウン
イアン・スミス。ローデシア(現ジンバブエ)の政治家。フルネーム Ian Douglas Smith。スコットランドから移住した農民の子。南アフリカ連邦のローズ大学卒業。1948年野党の自由党からイギリス自治植民地の南ローデシア立法院議員となり,1961年白人優越を提唱するローデシア戦線を結成した。1964年4月ローデシア戦線政府の首相に就任以来,イギリスに対し白人支配下での独立を要求,1965年11月に南ローデシアの一方的独立宣言を行ない,1970年3月には共和国移行を宣言した。しかし 1977年9月,穏健派黒人勢力と「国内解決」をはかる方向に政策を転じ,1978年3月ソールズベリー協定に調印。1979年6月1日白人と黒人の連合政府ジンバブエ・ローデシアの誕生とともに,アベル・T.ムゾレワ内閣の一閣僚となった。1980年2月完全独立を目指した総選挙でジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線 ZANU-PFが第一党となり,黒人多数支配のジンバブエ共和国として独立すると,事実上政界での影響力を失った。1987年まで国会議員を務めた。(→ローデシア問題

スミス
Smith, Maggie

[生]1934.12.28. イルフォード
マギー・スミス。イギリスの舞台・映画女優。フルネーム Dame Margaret Natalie Smith。オックスフォード・プレーハウスの演劇学校で演技を学び,1952年からオックスフォード,1955年からロンドンでレビューに出演。1956年ブロードウェーのレビューに出演して注目され,ロンドンのレビュー "Share My Lettuce"(1957~58)の主役に抜擢された。1958年 "Nowhere to Go"で映画デビュー。その後ロンドンのオールド・ビック劇場の常連キャストを経て,1963年ナショナル・シアターに加入した。1964年の舞台『オセロ』Othelloでローレンス・オリビエ演じるオセロの妻デズデモーナに扮し,1965年に映画化されたときにも同じ役を演じた。『ミス・ブロディの青春』The Prime of Miss Jean Brodie(1969)でアカデミー賞主演女優賞に輝き,国際的名声を獲得。1970年代に入るとナショナル・シアターを退団。その後はおもに映画界で活躍を続け,『カリフォルニア・スイート』California Suite(1978)でアカデミー賞助演女優賞を受賞した。1990年デイムの称号を授与された。

スミス
Smith, John

[生]1580頃.リンカーンシャー,ウィロビー
[没]1631.6. ロンドン
ジョン・スミス。イギリスの軍人,探検家,作家。バージニアのジェームズタウン植民地の建設者の一人。1604年頃ハンガリーで兵士としてトルコ軍と戦う。1607年チェサピーク湾に 3隻の船を進めて,ジェームズタウン植民地の建設期に優れた指導力を発揮。自伝によれば,一度アメリカインディアンに捕われたが,ジョン・ロルフと結婚した族長の娘ポカホンタスの願いで助命になったという。チェサピーク湾一帯を探検したのち,1609年イギリスに帰国。1614年にはニューイングランドを探検し,毛皮などの貴重品を本国に持ち帰り,ニューイングランドへの植民を促進した。その後新世界に関する著作に専念。著書"A Description of New England"(1616),"The True Travels,Adventures,and Observations of Captaine John Smith in Europe,Asia,Africa and America"(1630)。

スミス
Smith, Adam

[生]1723.6.5. 〈洗礼〉スコットランド,カーコーディ
[没]1790.7.17. エディンバラ
アダム・スミス。イギリスの経済学者,哲学者。ことに古典派経済学の祖として著名。グラスゴー大学,オックスフォード大学に学んだのち,母校グラスゴー大学で道徳哲学講座を 13年間担当。その後バックルー公の家庭教師としておもにフランスに滞在(約 3年)し,重農主義者と交わる。帰国後は公の年金によって生活し,この間に有名な『諸国民の富の性質と原因に関する研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations(1776。→国富論)を 10年の歳月をかけ完成。この著作によって彼は後年「経済学の父」と呼ばれるにいたり,今日の近代経済学,マルクス経済学は等しくこのスミスの『国富論』から出発している。『国富論』は経済学を初めて理論,歴史,政策にまたがる体系的科学とし,その重商主義批判は 19世紀以降イギリスの自由通商政策の支柱となった。晩年グラスゴー大学総長となり,終生独身であった。他に『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments(1759)がある。

スミス
Smith, Jimmy

[生]1928.12.8. ペンシルバニア,ノリスタウン
[没]2005.2.8. アリゾナ,スコッツデール
ジミー・スミス。アメリカ合衆国のミュージシャン。本名 James Oscar Smith。ソウル・ジャズ・スタイルを確立し,電子オルガンをジャズの主要楽器の一つにした。独自の演奏スタイルで軽やかに旋律を弾いた。両親にピアノを教わり,1948~50年フィラデルフィアの音楽学校で学び,その後ドン・ガードナーのリズム・アンド・ブルースのグループに加わった。オルガニストのワイルド・B.デービスに触発されてハモンド・オルガンを習い,1955年にトリオを結成して人気を博した。一連のヒット・アルバムによってレコード会社のブルー・ノートを大手ジャズ・レーベルへと押し上げた。代表曲は,オリバー・ネルソンのビッグ・バンドと共演したアルバム『バッシン』Bashin'(1962)の収録曲『ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイド』。ギタリストのウェス・モンゴメリーともアルバムで共演した。

スミス
Smith, Michael

[生]1932.4.26. イギリス,ブラックプール
[没]2000.10.4. カナダ,バンクーバー
マイケル・スミス。イギリス生まれのカナダの生化学者。1956年マンチェスター大学で博士号を取得。1964年カナダの市民権を取得。アメリカ合衆国とカナダで多くの職についたのち,1966年ブリティシュコロンビア大学準教授,1987年バイオテクノロジー研究所部長に就任。1970年代初めに,遺伝暗号を変えたデオキシリボ核酸 DNAの小断片を用いて新たな性質をもつ蛋白質を合成する「サイトディレクティッド・ミュータジェネシス」という手法に着目し,その後数年かけて細かいプロセスを開発した。この技術により蛋白質の構造や機能とアミノ酸が果たす役割についての情報が得られることになり,多くの病気に治療法をもたらすほか,農業や工業の分野にも幅広く応用されるようになった。1993年キャリー・マリスとともにノーベル化学賞を受賞。

スミス
Smith, Hamilton O.

[生]1931.8.23. ニューヨーク
ハミルトン・O.スミス。アメリカ合衆国の微生物学者。フルネーム Hamilton Othanel Smith。1952年にカリフォルニア大学バークリー校卒業後,ジョンズ・ホプキンズ大学で学び,1956年医学部の学位を取得。1962年ミシガン大学微生物遺伝学研究員,1964年研究助教授となる。1967年ジョンズ・ホプキンズ大学医学部助教授,1973年教授に就任。1967年以降 P22ファージウイルスから DNAを取り出すためヘモフィルス・インフルエンザ菌の研究を始め,1970年 Hind2と呼ばれる 2型制限酵素を発見した。これは DNAを特定の場所で切断する能力をもった制限酵素で,分子遺伝学の研究手段として非常に有用なものであった。さらには細菌から制限酵素を抽出・精製する方法も確立し,1978年ウェルナー・アルバー,ダニエル・ネイサンズとノーベル生理学・医学賞を共同受賞。

スミス
Smith, Theobald

[生]1859.7.31. ニューヨーク,オールバニ
[没]1934.12.10. ニューヨーク,ニューヨーク
シオボールド・スミス。アメリカ合衆国の病理学者。感染症や寄生虫症の原因や免疫の研究で知られている。1896年ハーバード大学教授,1915年ロックフェラー医学研究所動物病理学部長。1884年に D.サルモンと協力して,死滅ウイルスは生存ウイルスに対する免疫を与えうることを証明した。1885年にはブタコレラ病原体のサルモネラを,1889年にはテキサス家畜熱の病原体を,1893年にはウマの伝染性流産の病原体を,1895年には七面鳥の黒頭病の病原体をそれぞれ発見した。1898年結核菌のヒト型とウシ型を識別。また,ジフテリア菌の抽出物を注射すると動物に激しい抗体反応が起ることを指摘した。パウル・エールリヒはこれを「スミス現象」と呼んだが,のちにシャルル・リシェによって,アナフィラキシーと名づけられた。

スミス
Smith, William

[生]1769.3.23. チャーチル
[没]1839.8.28. ノーサンプトン
ウィリアム・スミス。イギリスの地質学者。初等教育を受けただけであったが,測量助手,のちに技師となり,サマセットの石炭輸送運河工事などに従事。この間独学で地層地質を観察研究し,また特定の地層には特定の化石が出ることも発見した。1799年バス近傍の地層層序と化石についての一覧表を発表。1815年にはイングランド,ウェールズの地質図(15シート)を発表。ニコラウス・ステノの地層累重の法則を実証するとともに,化石による地層同定法を確立し,地質学の基礎になる層位学の父と呼ばれる。1831年にはロンドン地質学協会から初のウォラストン・メダル受賞。主著『化石による地層の同定』(1816~19)。

スミス
Smith, William Robertson

[生]1846.11.8. アバディーン近郊キー
[没]1894.3.31. ケンブリッジ
ウィリアム・ロバートソン・スミス。イギリス,スコットランドの自由教会派牧師。セム学者,旧約聖書学者,百科事典編集者。旧約聖書の高等批評,聖書問題,ヘブライ語とその文学などについて『ブリタニカ百科事典』に数次寄稿,名声を博したが,その学説のため教会から聖務停止の処分を受けた。1881年6月から『ブリタニカ百科事典』編集者,次いで編集長を務める。主著『ユダヤ教会における旧約聖書』The Old Testament in the Jewish Church(1881),『イスラエルの預言者』The Prophets of Israel(1882),『古代アラビアにおける血縁と結婚』Kinship and Marriage in Early Arabia(1885),『セム族の宗教』Lectures on the Religion of the Semites(1889)。

スミス
Smith, Sir Harry, Baronet

[生]1787.6.28. イーリー島
[没]1860.10.12. ロンドン
ハリー・スミス(準男爵)。イギリスの軍人。フルネーム Sir Harry George Wakelyn, Baronet Smith。ナポレオン1世に対する半島戦争,アメリカ=イギリス戦争,ワーテルローの会戦など,各地で従軍,転戦したのち,1828年ケープ植民地駐在官となり,1834~35年現地民カフィル人との紛争に活躍。1840年インド駐在となり,1845年からの第1次シク戦争において,アリーウォールの戦い(1846.1.28.)を指揮して勝利した。1847年陸軍中将,准男爵となり,総督として再度ケープ植民地に赴任。翌年オレンジ川流域をイギリス領に併合,これに反対したボーア人を撃破。1852年解任されて帰国。

スミス
Smith, Vernon L.

[生]1927.1.1. カンザス,ウィチタ
バーノン・L.スミス。アメリカ合衆国の経済学者。1949年カリフォルニア工科大学を卒業後,経済学に転向し,1951年カンザス大学で修士,1955年ハーバード大学で博士号を取得。1955年からインディアナ州のパーデュー大学ロードアイランド州のブラウン大学,マサチューセッツ大学,カリフォルニア工科大学などで教鞭をとりながら研究を続けた。1988年アリゾナ大学の経済学名誉教授,2001年ジョージメイソン大学の経済学および法学教授に就任。アメリカ,オーストラリア,ニュージーランドにおけるエネルギーの規制緩和に関する研究が主で,資本理論やファイナンスから天然資源経済学や実験経済学にいたる幅広いテーマの著書がある。2002年,市場メカニズム研究において経験的経済を分析するための実験的な手法を確立し,実験経済学という新しい分野を開拓した功績によりノーベル経済学賞を受賞した。

スミス
Smith, George E.

[生]1930.5.10. ニューヨーク,ホワイトプレーンズ
ジョージ・E.スミス。アメリカ合衆国の物理学者。フルネーム George Elwood Smith。ペンシルバニア大学を卒業後,1959年にシカゴ大学で物理学の博士号を取得した。同 1959年,ベル研究所に入り 1986年まで勤めた。2009年,光デジタル技術にかかわる重要な技術を開発した功績により,チャールズ・カオならびにウィラード・ボイルとともにノーベル物理学賞を受賞した。スミスとボイルは,ベル研究所でデジタルカメラの心臓部である電荷結合素子 CCDイメージセンサを開発したことが高く評価された。

スミス
Smith, David

[生]1906.3.9. インディアナ,ディケーター
[没]1965.5.23. バーモント,ベニントン
デービッド・スミス。アメリカ合衆国の彫刻家。フルネーム David Roland Smith。オハイオ州立大学,ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学ぶ。初め抽象的,超現実的絵画を描いたが,1933年『カイエ・ダール』誌でパブロ・ピカソの金属彫刻を見て感動し,以後 6年間ブルックリンの鉄工所にアトリエをもって制作を続けた。1938年ニューヨークで最初の個展を開き,アメリカ抽象美術家展に出品。ステンレススチールの表面に傷をつけ,それを箱状に組み立てたものを組み合わせた作品を制作し,彫刻の新しい方向を追究した。1960年代,金属の箱を組み合わせた作品『キュービ』により,最も重要なアメリカ現代彫刻家と目される。1965年交通事故で死亡。

スミス
Smith, Oliver

[生]1918.2.13. ウィスコンシン,ウォーパン
[没]1994.1.23. ニューヨーク,ブルックリンハイツ
オリバー・スミス。アメリカ合衆国の舞台装置家。1939年ペンシルバニア州立大学を卒業。1941年よりバレエや演劇,オペラなどの舞台装置を手がけ,『マイ・フェア・レディ』(1956),『ウエスト・サイド物語』(1957),『サウンド・オブ・ミュージック』(1959)などのミュージカルの装置でトニー賞を 7回受賞した。また 1945~80年,1990~92年に現在のアメリカン・バレエ・シアターの監督を務めたことでも有名である。

スミス
Smith, W. Eugene

[生]1918.12.20. カンザス,ウィチタ
[没]1978.10.15. アリゾナ,トゥーソン
W.ユージン・スミス。アメリカ合衆国の写真家。フルネーム William Eugene Smith。14歳から写真を始め,『ニューズウィーク』誌のカメラマンを振り出しに,19歳で『ライフ』誌のスタッフとなった。1942年から『ライフ』の従軍写真家として太平洋戦争を取材,1945年5月沖縄戦線を取材中,重傷を負った。1948年フォト・エッセー『田舎の医者』,1951年同『スペインの村』を『ライフ』に発表,報道写真家として国際的に著名となる。1955年『ライフ』を退きフリーランスとなった。1961年以来数度訪日,水俣病を取材した作品を発表した。

スミス
Smith, Al

[生]1873.12.30. ニューヨーク
[没]1944.10.4. ニューヨーク
アル・スミス。アメリカ合衆国の政治家。フルネーム Alfred Emanuel Smith。1903~15年ニューヨーク州議会議員,1913年には同議長。1919~20,1923~28年ニューヨーク州知事を 4期務め,1928年の大統領選挙では民主党大統領候補の指名を受けたが,共和党のハーバート・フーバーに敗れた。しかし大統領選に最初に立候補したカトリック教徒の民主党候補としては,労働者の多い北東部の大都市でめざましく進出して注目された。1932年の「ルーズベルト革命」の以前に 1928年の「アル・スミス革命」があったとさえいわれている。

スミス
Smith, A. J. M.

[生]1902.11.8. カナダ,モントリオール
[没]1980.11.21. アメリカ合衆国,ミシガン,イーストランシング
A.J.M.スミス。カナダの詩人,批評家。フルネーム Arthur James Marshall Smith。マギル大学在学中の 1925年に文芸誌『マギル・フォートナイトリー・レビュー』McGill Fortnightly Reviewを創刊,1920年代カナダ詩復興のリーダーとなった。また "The Book of Canadian Poetry" (1943) に始まる一連のカナダ詩のアンソロジーを編纂した。(→カナダ文学

スミス
Smith, George

[生]1840.3.26. ロンドン
[没]1876.8.19. ハラブ
ジョージ・スミス。イギリスのアッシリア研究家。ヘンリー・クレズウィック・ローリンソンらの影響を受けて,1867年以後大英博物館に勤め,楔形文字板を解読。1872年ノア洪水神話に類似したカルデアの記録を見つけて発表。その後『デーリー・テレグラフ』紙の資金によるニネベ遺跡発掘にも参加した。

スミス
Smith, Grafton Elliot

[生]1871.8.5. グラフトン
[没]1937.1.1. プリムローズ
グラフトン・エリオット・スミス。イギリスの解剖学者,人類学者。マンチェスター大学教授。文明のエジプト起源説で知られた。彼は古代エジプトの墳墓の人骨の研究に端を発して,ミイラの製作,巨石建造物,太陽信仰などを特徴とする古代エジプトの文化が,一元的に発生して世界各地に広まり,諸文明のもとになったと考えた。著書『文明の起源』In the Beginning; The Origin of Civilization(1932)は,考古学者 W.ペリーの『日の御子』(1923)とともに極端な伝播主義で知られる(→伝播論)。

スミス
Smith, Logan Pearsall

[生]1865.10.18. アメリカ合衆国,ニュージャージー,ミルビル
[没]1946.3.2. イギリス,ロンドン
ローガン・ピアソール・スミス。アメリカ合衆国生まれのイギリスの評論家,随筆家,英語学者。1913年イギリスに帰化。簡潔な文章に警句,ユーモア,深い英知をこめた彼の随筆は高く評価され,『随想集』Trivia(1902),『続随想集』More Trivia(1921)などにまとめられた。また英語学者として「純粋英語協会」Society for Pure Englishを創設したほか,ミルトン,シェークスピアについての論文もある。ほかに自叙伝『忘れえぬ歳月』The Unforgotten Years(1938)がある。

スミス
Smyth, John

[生]1554頃
[没]1612. アムステルダム
ジョン・スミス。イギリスのバプテスト派の創始者。スミスは Smithとも表記する。ケンブリッジ大学に学び,イギリス国教会の牧師となったが,1606年離脱。1608年ヘルウィスらと分離派の一団を率いてアムステルダムへ亡命,バプテスト教会を設立。1611年スミスと分かれた同志はイギリスに帰り,「一般バプテスト派」の祖となる。アルミニウス主義(→アルミニウス派)に立ち,のちメノー派に接近。そのため晩年は孤立した。主著『真の祈りの型』A pattern of True Prayer(1605)。

スミス
Smith, Sir George Adam

[生]1856.10.19. インド,カルカッタ
[没]1942.3.3. イギリス,バラーノ
ジョージ・アダム・スミス。スコットランドの牧師,セム学者。旧約聖書の研究家,説教者として知られた。エディンバラに学ぶ。アバディーンで牧会(1882)。グラスゴーのユナイテッド・フリー・チャーチ大学で旧約聖書学教授(1892)。1899年アバディーン大学学長に就任。1916年ナイト爵を受ける。主著『聖地の歴史地理』Historical Geography of the Holy Land(1894),『12人の預言者たち』The Twelve Prophets(2巻,1896~97)。

スミス
Smith, Gerard C.

[生]1914.5.4. ニューヨーク
[没]1994.7.4. メリーランド,イーストン
ジェラルド・C.スミス。アメリカ合衆国の外交官。フルネーム Gerard Coad Smith。エール大学卒業。1939~50年弁護士。1950~54年アメリカ原子力委員会特別補佐官。1954~57年国務長官特別補佐官(原子力問題担当)。1957~61年国務次官補(政策企画担当)。1969年軍縮局長。1969~72年米ソ戦略兵器制限交渉 SALTのアメリカ首席代表,1977年国際原子エネルギー機構アメリカ代表ならびに無任所大使に就任した。

スミス
Smith, Sir Francis Pettit

[生]1808.2.9. ケント,ヒース近郊
[没]1874.2.12. サウスケンジントン
フランシス・ペティット・スミス。イギリスの発明家。船のスクリュープロペラの改良,普及に大きな役割を果たした。少年時代から船の推進機に興味をもち,1835年スクリュープロペラの実験に成功してからは,生涯スクリューの改良に努めた。1839年スクリュープロペラをつけた航洋船『アルキメデス』号(240t)を製作,推進機としてのスクリューの優秀性を立証した。その後,特に軍艦のスクリュー装備に力を注ぎ,1871年ナイトの称号を贈られた。

スミス
Smith, Jedediah

[生]1798.6.24. ニューヨーク,ベインブリッジ
[没]1831.5.27. シマロン川上流
ジェデダイア・スミス。アメリカ合衆国の探検家,毛皮交易業者。フルネーム Jedediah Strong Smith。1826年ソルトレークを出発し,ユート族,パイユート族,モヘイブ族インディアンの領有地を通り,シェラネバダを縦断してカリフォルニアにいたる道を初めて踏破。さらに 1828年オレゴン沿岸を探検。1829年からサンタフェ道交易に従事したが,コマンチ族に殺害された。

スミス
Smith, Seba

[生]1792.9.14. メーン,バックフィールド
[没]1868.7.28. ニューヨーク,パチョーグ
シーバ・スミス。アメリカ合衆国のジャーナリスト,風刺作家,編集者。典型的ヤンキー,ダウニング少佐の筆になると称する一連のユーモラスな時事風刺的手紙で人気を博した。代表作は『ダウニングビルのジャック・ダウニング少佐の生活と著作』The Life and Writings of Major Jack Downing of Downingville(1833)。

スミス
Smith, John Raphael

[生]1752. ダービー
[没]1812.3.2. ウォーチェスター
ジョン・ラファエル・スミス。イギリスの画家,版画家。画家トマス・スミスの息子。ロンドンでメゾチント銅版法を学び,その分野の第一人者となる。約 300点の彼の肖像版画が現存し,ロンドンの国立肖像画美術館には,パステルの自画像をはじめ,多くの彼の作品が収蔵されている。

スミス
Smith, Francis Hopkinson

[生]1838.10.23. メリーランド,ボルティモア
[没]1915.4.7. ニューヨーク
フランシス・ホプキンソン・スミス。アメリカ合衆国の小説家。初め技師だったが,50歳を過ぎてからたまたま書いたユーモラスな小説『カーターズビルのカーター大佐』Colonel Carter of Cartersville(1891)で有名になり,以後次々と作品を発表した。ほかに画集もある。

スミス
Smith, Sydney

[生]1771.6.3. エセックス,ウッドフォード
[没]1845.2.22. ロンドン
シドニー・スミス。イギリスの著述家,聖職者。1802年に雑誌『エディンバラ・レビュー』創刊に参画,同誌上に健筆をふるう。主著はカトリック解放を弁護した『ピーター・プリムリー書簡』Letters of Peter Plymley(1807)。

スミス
Smith, James

[生]1719?
[没]1806.7.11. ペンシルバニア
ジェームズ・スミス。アメリカ合衆国の法律家。独立宣言署名者の一人。アイルランドからペンシルバニアに移民し弁護士を開業。アメリカ独立革命では西部の代表として活躍。ペンシルバニアからの大陸会議代表(1776~78)。独立後は法律家として活躍,熱烈な州権論者として知られる。

スミス
Smith, Bessie

[生]1895.4.15. テネシー,チャタヌーガ
[没]1937.9.26. ミシシッピ,クラークスデール
ベッシー・スミス。アメリカ合衆国の黒人ブルース歌手。フルネーム Elizabeth Smith。1920年代中期には「ブルースの女王」として人気の頂点にあったが,1937年地方巡業中に事故死。1970年代に入ってレコードが再び脚光を浴びた。

スミス
Smith, Vincent Arthur

[生]1848
[没]1920
ビンセント・アーサー・スミス。イギリスのインド学者。インド史の専門家。『インド古代史』The Early History of India(1904)などの著書がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

化学辞典 第2版 「スミス」の解説

スミス
スミス
Smith, Michael

イギリス生まれのカナダの生化学者.1956年マンチェスター大学で博士号を取得した後,バンクーバーのH.G. Khorana(コラーナ)研究室に入り核酸化学を学んだ.1961年カナダ漁業局に移り海洋生物学を研究し,1966年以降はブリティッシュ・コロンビア大学生化学部に所属(~1997年).1998年ブリティッシュ・コロンビアがん局ゲノム配列センター所長となる.1980年代初頭,合成オリゴヌクレオチドを用いて部位特異的な突然変異を導入する方法を開発し,タンパク質の機能の正確かつ簡便な研究が可能になった.この業績で,1993年PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法を開発したK. Mullis(マリス)とともにノーベル化学賞を受賞した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

朝日日本歴史人物事典 「スミス」の解説

スミス

没年:1916.2.18(1916.2.18)
生年:1852
明治期に来日したお雇い外国人。イギリス人教師。エジンバラ大学を卒業し,会社勤務をしたのち,明治7(1874)年9月に開成学校機械学教師として来日し,同校が東大に昇格後も引き続き機械学,数学などを教え,11年に帰国した。日本を去るとき,《Valedictory Address to the Engineering Students of Tokio^ Dai Gaku》と題する演説をした。ダイアーの経営する工部大学校(東大)の教育方法に対して批判的であって,のちにこの問題についてダイヴァーズと論争した。帰国後,バーミンガム大学の前身校メーソン・カレッジで機械学を教え,同大学の名誉教授となった。

(三好信浩)

スミス

没年:1882.10.21(1882.10.21)
生年:1814.3.2
米国の法律家,最初の外務省法律顧問。ニューヨーク市生まれ。米国国務省の法律顧問。日本政府の依頼で国務省が推薦し,年俸1万ドルの条件で明治4(1871)年秋に来日。来日早々,日清修好条規第2条が日清間攻守同盟の疑いありとの米,独からの照会に対し,同条は1858年の米清間の天津条約に準拠していると,米,独に詳説,納得させた。明治5年のマリア・ルス号事件で日本は初めて国際裁判を経験するが,スミスは外務省を指導し,事件を処理した。契約は7年10月に満了となったが,同事件残務処理のためなお2年在日した。ニューヨーク州ロチェスターで死去。<参考文献>今井庄次『お雇い外国人12 外交』

(河村一夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「スミス」の解説

スミス
Adam Smith

1723~90

イギリスの経済学者,道徳哲学者。スコットランド生まれ。グラスゴー大学,オクスフォード大学に学び,1751年前者の道徳哲学教授となり,『道徳情操論』(59年)を出版。大学を辞めて貴族の家庭教師としてヨーロッパ大陸に旅行,帰国後経済学をはじめて体系化した『諸国民の富』(76年)を執筆,自由主義経済思想の基礎を築いた。晩年はグラスゴー大学総長となり,エディンバラで没。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「スミス」の解説

スミス Smith, Sarah Clara

1851-1947 アメリカの宣教師,教育者。
1851年3月24日生まれ。明治13年(1880)来日。東京,函館でおしえ,19年北海道師範の英語教師となる。かたわら官舎内に女子寄宿学校をひらく。27年校名を北星女学校(現北星学園)とし,女子教育につとめた。昭和6年帰国。1947年2月18日死去。95歳。ニューヨーク州出身。
【格言など】過去を忘れ,将来を望みつつ,現在を努力せよ(信条)

スミス Smith, William Eugene

1918-1978 アメリカの写真家。
1918年12月30日生まれ。第二次大戦では従軍カメラマンとして沖縄戦などを取材。戦後「ライフ」誌を中心にドキュメントを発表。昭和46年より3年間日本に滞在し,公害でくるしむ水俣(みなまた)病の患者を撮影した。1978年10月15日死去。59歳。カンザス州出身。作品に「スペインの村」「MINAMATA」など。

スミス Smith, Erasmus Peshine

1814-1882 アメリカの法律家。
1814年3月2日生まれ。日本外務省の最初の国際法顧問として明治4年(1871)来日。5年のマリア-ルス号事件にかかわる日本はじめての国際裁判では,外務省を指導し,事件を解決にみちびいた。9年帰国。1882年10月21日死去。68歳。ニューヨーク市出身。ハーバード法律学校卒。

スミス Smith, Roy

1878-1969 アメリカの教育家。
明治36年(1903)来日。大倉高商などで英語をおしえ,いったん帰国。42年再来日し,神戸高商で商業学,外国貿易実務を講義した。第二次大戦中は一時帰国したが,半世紀にわたり日本の教育につくした。昭和43年帰国。1969年6月死去。91歳。イリノイ州出身。イリノイ州立大卒。

スミス Smith, Robert Henry

1852-1916 イギリスの工学者。
明治7年(1874)来日。開成学校,後身の東京大学で機械工学,土木工学をおしえた。満期前の11年帰国。バーミンガム大名誉教授。1916年2月18日死去。64歳。エジンバラ大卒。

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367日誕生日大事典 「スミス」の解説

スミス

生年月日:1840年3月26日
イギリスのアッシリア研究家
1876年没

スミス

生年月日:1897年12月14日
アメリカの政治家
1995年没

スミス

生年月日:1808年2月9日
イギリスの発明家
1874年没

スミス

生年月日:1914年5月4日
アメリカの外交官
1994年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「スミス」の解説

スミス

アダム=スミス

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のスミスの言及

【イギリス経験論】より

…端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろF.ベーコンによって始められ,A.スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。…

【価値】より

…価値は価格にとって内面的inherentもしくは内在的intrinsicであるとされたのである。このいわゆる真実価値real valueの根拠を定めるのが,A.スミスからA.マーシャルにいたる古典派および新古典派の価値論における一つの重要な仕事であった。注意しなければならないのは,このような価値と価格との密接な連関のために,両者がしばしば混同されるということである。…

【株式会社】より

…18世紀半ば以降は,このような法人格をもたない非公認会社の時代であった。当時の会社企業についてアダム・スミスは《国富論》(1776)で次のような見解を示している。まず第1に,他人の貨幣を管理する会社の重役は,自己の貨幣に対するほどの慎重さを欠くから,会社企業は個人企業やパートナーシップのような資本の所有と経営が結合した企業形態に比べて経営能率が低い。…

【居住制限法】より

…この法は18世紀後半の経済自由主義の発展期まで機能しつづけた。自由主義経済の使徒アダム・スミスは,居住制限法は自然的自由と正義に対する明らかな侵害であり,この法によって自由な労働市場の形成が妨げられたと批判した。このような批判にもかかわらず,この法が維持されつづけたのは,救貧税の増大と貧民の増加に反対する中産階級と各教区とが示した自己中心的な態度と,本法が地主や借地農家に対しては農業労働力を自己の教区に引き止めるという利益をもたらしていたことによる。…

【軍事費】より

…ただし実際には当時フランスの租税は2割程度であったとみられる。A.スミスも《国富論》で分業の原理から職業的軍隊の必要性を説き,軍事技術の進歩は軍事費を増大させるが,それは他国からの不正な侵略を排除し,文明を繁栄させる,といっている。 近代国家が確立し国民軍が成立するにしたがって,軍事費の大きさが兵器の発達や戦争の規模の拡大とあいまって大きくなり,また近代兵器の出現は戦争のもたらす破壊・悲惨さをいっそう重大な問題にした。…

【経済学】より

…もちろん,J.ロビンソンをはじめとして批判は多いが,ロビンズの考え方は現在にいたるまで近代経済学の指導原理の一つとなっている。
【スミス《国富論》】
 経済学が今日のような形での一つの学問分野としてその存在を確立されたのはA.スミスの《国富論》に始まると一般に考えられている。《国富論》の初版は1776年に刊行されたが,書名は直訳すれば《諸国民の富の性質と原因に関する研究》であり,これは〈政治経済学political economy〉と同じ意味に用いられている(political economyの語が使われなかったのは,1767年刊のJ.スチュアートの著書にすでに使われていたからと考えられている)。…

【経済学および課税の原理】より

…部や編に大別されぬ章のみの構成で,初版(750部)は30章からなり,一見雑然とした感じを与えるが,第1~7章の〈経済学の原理〉編,第8~18章および第22・23・29章の〈課税〉編,そして残りの〈補遺ないし論争〉編,の3部からなるとみなすことができる。リカード理論の骨格をなす第1部では,A.スミスが投下労働論・支配労働論の二元論に放置した価値論を投下労働論で一貫して説明しようとし,またその差額地代論,利潤率低下傾向の問題を中心とする地主・資本家・労働者3階級間の長期的・巨視的分配関係を論じた巨視的動態論,国際貿易における比較生産費説などでも,以後の経済学に大きな影響を与えた。投下労働価値論と関係する不変の価値尺度の問題はリカードの終生の問題であったが,21年の第3版では,その点が修正されるとともに,有名な〈機械について〉という第31章が付加された。…

【経済学説史】より

…しかし重農主義においては,土地だけが純生産物を生むと考えられ,前貸しとしての資本の概念は確立されていたが,恒常的所得としての利潤の概念は存在しなかった。 古典派経済学の創設者は《国富論》(1776)の著者A.スミスであり,重農主義者と同じく自然法思想により自由放任を提唱,重商主義を論難した。私利の追求は価格機構のみえざる手に導かれて公益を促進するというのである。…

【経済人】より

…経済学の始祖ともいうべきA.スミスは,経済活動において人間はセルフ・インタレストにもとづいて行為するものだ,と考えた。セルフ・インタレストの意味は,元来,自己に関連した事柄への関心ということであるが,それをせまく解釈すると私利私欲ということになる。…

【啓蒙思想】より

…とはいえ,なおブルジョア的個人主義にもとづく啓蒙の社会哲学の一面性,形式性は,ルソーを先駆とするロマン派の一連の共同体論による批判を呼びおこすことになる。
[経済思想]
 新興市民階級の立場からする生産と流通,分配といった経済現象の分析が,ロック,ケネー,スミスらによって発展せしめられた。スミスにみられる国家による統制の排除と自由主義経済の考えは,こうした動きの一つの到達点を示すものといってよいだろう。…

【厳復】より

…生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。…

【交換】より

…この立場を代表するのはM.ウェーバーであり,表現は異なるがK.マルクスが商品の交換過程を論じるさいに示している理解も同趣旨のものである(《資本論》1編2章)。いまひとつの立場はA.スミスによって代表される。彼は分業の発生に関して,それは人間の本性のなかにあり,そして人間だけに見いだされる交換性向,すなわちある物を他の物と取引し,交易し,交換するという性向が,利己心に刺激されてひきおこすところの必然的帰結であると説く(《国富論》1編2章)。…

【国富論】より

…アダム・スミスの主著で,経済学の最初の体系的著作。全2巻。…

【国家】より

…たとえば,J.ロックは国家と市民社会を区別し,市民社会は国家に一定限度内で統治を信託しているにすぎないと主張した。またA.スミスは,人間は〈神の見えざる手〉によって導かれているとして,市民社会の自律性を説き,最小の政府こそ最良の政府であるとした。このように,市民社会の自律性を主張することは,国家批判の系譜においても重要な位置を占める。…

【古典派経済学】より

…古典派経済学(略して古典派あるいは古典学派ともいう)とは一般に,18世紀の最後の四半世紀から19世紀の前半にかけイギリスで隆盛をみる,アダム・スミスリカードマルサスJ.S.ミルを主たる担い手とする経済学の流れをさしている。D.ヒュームらアダム・スミスの先行者や19世紀のJ.ミル,J.R.マカロック,R.トレンズ,ド・クインシー,S.ベーリー,N.W.シーニアー,S.M.ロングフィールドらをどう扱うか,またJ.S.ミルに後続するフォーセットHenry Fawcett(1833‐84)やケアンズJohn Elliot Cairnes(1823‐75),フランスのセーやシスモンディをどう扱うかについて,多少考え方の相違があるが,おおむねこれらの人たちも含まれる。…

【重商主義】より

…この論争は,重金主義者G.deマリーンズと貿易差額論者E.ミッセルデンおよびT.マンとの間で行われ,前者が直接的,個別的な貿易統制政策による貨幣的富の国外流出防止と流入促進とを主張したのに対し,後者は総括的貿易バランス論を主張し,最終的にはマンの主著《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664,死後出版)によって体系化された。A.スミスはこのマンの主著を〈すべての他の商業国の経済学の基本的命題になった〉ものと評価し,それ以来この著書は長いあいだ重商主義の古典とみなされてきた。総括的貿易バランス論は,貨幣的富を重金主義のように直接重視するのではなく,むしろより多くの貨幣的富を獲得するための元本(資本)とみなし,一歩発展した見地を示した。…

【重農主義】より

…重農主義者(フィジオクラットphysiocrates)たちは,自分たちをエコノミストéconomistesと呼んでいた。それが重農主義agricultural systemと呼ばれるようになったのは,A.スミスが《国富論》でそう呼んだことによるものと思われる。
[重農学派の政策的主張]
 フィジオクラシーとは,もともと〈自然の統治〉を意味する語で,重農学派は王権を合法的に制限する合法的専制主義を最良の政体と考え,当時のルイ王朝を是認しながら自然的秩序による開明的社会を実現しようとした。…

【自由放任主義】より

…自由放任ということばはA.スミスの《国富論》(1875)の主張を要約したものとして知られている。そして,しばしば,自由放任,レッセ・フェールとは現実の経済をあるがままに放置せよ,あるいは,すべての経済主体とくに生産者(企業)に好き勝手にやらせるのがよい,という意味であるかのように誤解されてきた。…

【道徳感情論】より

A.スミスがグラスゴー大学の道徳哲学教授のとき,36歳で出版した処女作。1759年刊。…

【見えざる手】より

…個々人の私益追求のエネルギーが結果的に社会全体の利益増進に役立つことを示すのに,アダム・スミスは著書《国富論》第4編第2章,および《道徳感情論》第1編第4部において,〈見えざる手に導かれてled by an invisible hand〉という表現を用いた。19世紀になると〈見えざる神のみ手〉と誇張して,独占利潤を含めた無法な私益追求までも正当化しようとする傾向を生じたが,スミスの本意では,私益追求に伴う弊害が市場での主体間競争によって除去され浄化されることを大前提としているのである。…

【労働】より

…産業とは人間が労働によって富を目的意識的に形成する活動なのである。 こうした思想は,A.スミスを頂点とする古典派の経済学者によって,労働を起点として国民の富の形成を説明する,最初の経済学説(〈古典派経済学〉の項参照)として完成されるのだが,そこでは労働は富の源泉となる人間の能動的な,対象に働きかける活動として把握されている。これは労働が自然(神々)に従う生活や(神に定められた)職で生きる生活の一部であったそれまでとは,たいへん大きな逆転であった。…

【労働価値説】より

…17世紀のW.ペティはその《租税貢納論》(1662)において,穀物と銀の生産における剰余生産物の価値の比較から,部分的ではあるが素朴な形で労働が価値の積極的な要因であることを主張した。しかし体系的な形では18世紀後半のA.スミスがはじめてそれを論じたといってよいだろう。スミスはその《国富論》(1776)において,労働こそが人間が自然に対して支払う〈本源的購買貨幣〉であることを明らかにするとともに,労働の量が価値の真実の標準尺度であることを指摘し,それを彼の経済学の体系の基礎に据えた。…

【マグナム】より

…その後スイス人のビショッフWerner Bishof(1916‐54),オーストリア人のハースErnst Haas(1921‐86)など個性的な写真家がつぎつぎと参加し,《ライフ》《パリ・マッチ》など世界的な雑誌を舞台に大活躍した。またE.スミスも一時参加し,そのころに一大写真叙事詩ともいえる《ピッツバーグ》(1955‐58)の写真を撮っている。その後ダビッドソンBruce Davidson(1933‐ ),ハーバットCharles Hurbuttなどが参加し,マグナムの写真もしだいに楽天的なヒューマニズムを表現するものから,よりパーソナルな視点をもつものに変化する。…

【ライフ】より

…それは複数の写真の組合せとキャプションとにより,視覚的な解説以上にテーマの内面的な真実へと迫ろうとする試みであった。〈フォト・エッセー〉という新しい方法への意識の確立は,すでに1937年のアイゼンシュテットによる《ワッサー女子大学》という組写真に対する,編集者の〈エッセイストとしてのカメラ〉という解説にも示されており,のちレナード・マッコムの,地方からニューヨークへ来て働きながらファッション・モデルになることを夢みる一人の女性の日常を追った《グウィンド・フィリングの私生活》(1948),フランコ政権下で昔ながらの伝統的な生活をする寒村の人々を描いたユージン・スミスの《スペインの村》(1951),アメリカのアイルランド系移民たちの姿を撮ったドロシア・ラングの《アイリッシュ・カントリー・ピープル》(1955)など,50年代を中心にして数多くの傑作が生まれた。《ライフ》はこれらの写真によって,いわゆるニュース写真では知ることのできない〈日常的な世界の中の隠された真実〉を読者に伝え,フォト・ジャーナリズムの新しいあり方を打ち立てたということができよう。…

【モルモン教】より

…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…

【モルモン教】より

…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…

【古生物学】より

…18世紀になると,博物学者らによってこのような宇宙開闢(かいびやく)説cosmogonyに磨きがかけられる一方,化石の優れた写生図を伴った体系的分類が進められ,古生物学への下地を作った。18世紀の博物学者らは化石とそれを含む地層の岩質との対応関係をおおまかに知っていたが,W.スミス(1769‐1839)によって生層位学(化石層位学)の方法が確立され,広域の地層対比のための化石の価値が明らかにされた。さらに重要な理論的貢献をしたのはG.キュビエ(1769‐1832)で,彼は比較解剖学を創始して脊椎動物化石を研究した。…

【地層】より

…このステノが観察したものが,地史学における基本的概念の一つといわれる〈地層累重の法則〉に発展する。18世紀になって,現代地質学が確立していくが,その間に貢献のあった2人を挙げるとJ.ハットンとW.スミスである。ハットンは現在みられる運搬・浸食・堆積などの作用は過去の地層を理解するうえに重要な意味があり,それを〈現在は過去の鍵である〉という,後に斉一説と呼ばれる考えで示した。…

【バプティスト】より

…教会政治は各個教会の独立自治にもとづき,政教分離を主張するのが特色。17世紀の初め英国国教会に迫害されてアムステルダムに逃れたJ.スミスによって創立され,アメリカにはピューリタンの一人R.ウィリアムズによって最初の教会がロード・アイランドに設立された(1639)。17世紀にはフロンティアの西漸につれて中西部と南部への伝道に力を注ぎ,現在はアメリカ最大の教派となっている。…

※「スミス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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