イギリスの道徳哲学者,経済学者。主著《国富論》はあまりに有名。スミスという姓がイギリスではひじょうに多いので,アダム・スミスと姓・名をあわせて呼ぶのがふつうである。D.リカードとともに古典派経済学を代表し,他方では,その経済学と道徳哲学moral philosophyとの結合によって,不可侵の自己保存権(自然権)をもつ近代的個人の,自愛心=利己心に基づく活動が,平和的に共存して社会を構成し維持できることを明らかにした点で,スコットランド啓蒙思想のなかで特異な位置を占める。
スコットランド東海岸の港町カーコーディに,税関吏の次男として生まれたが,父は彼が生まれる前に(異母兄は1749年に)死亡した。町立学校を出てグラスゴー大学に学び,ここで道徳哲学の教授F.ハチソンの影響を受けるとともに,アメリカ植民地貿易で繁栄へ向かう都市の自由な空気を呼吸した。グラスゴーという都市はスコットランドではまったく例外的に,ジャコバイト(名誉革命体制に反対するスチュアート王朝復興運動)の反乱に荷担しなかったし,ハチソンの自由主義的神学(神は人間のこの世での幸福を願っていると主張する)に対して教会が干渉しようとしたときも,大学当局,学生とともに,彼を支持した(市は大学行政に参加していた)。このような教育を受けたスミスが,グラスゴー大学を卒業して,スネル奨学金によってオックスフォードのベリオール・カレッジに留学したとき,その保守性に失望したのは当然であり,彼はのちに《国富論》第5編で,特権(生活と地位の保証)に安住する大学の沈滞ぶりを鋭く批判した。スネル奨学金の支給条件は国教会牧師になることであったが,彼はこれを放棄し,約6年の在学ののち,1745年8月に帰郷,中途退学した。
帰郷したスミスは,牧師にかわるものとして貴族の家庭教師の職を探したが,成功しなかった。しかし1748-49年,49-50年,50-51年の冬にエジンバラで行った3回の公開講義がひじょうに好評で,それによって51年1月にグラスゴー大学の論理学の教授に任命され,翌年には道徳哲学の講座に移って,恩師ハチソン(1746死亡)のあとを継ぐことになった。ただし,この公開講義については,当時のエジンバラの新聞に報道がなく,何人かの同時代人の回想だけが証拠であって,内容も文学・文芸批評が2回,法学が1回ということしかわかっていない。スミスがグラスゴー大学で60年代に行った講義の,学生による筆記が3種類残っていて,一つは修辞学,あとの二つは法学であり,それらはエジンバラ公開講義の内容にかなり近いものであろうと推測されている。
このころ(1750前後)の彼の著作として残っているものは,遺稿集《哲学的主題に関する論文集》(1795)のなかの〈天文学史によって例証された,哲学的研究の指導原理〉と《エジンバラ評論》への2編の寄稿である。前者はオックスフォード時代に大部分が書かれ,帰郷後に仕上げられたもので,スミスは引き続き,古代物理学史について,古代論理学・形而上学史について,同じテーマで論じた断片を書いた。《エジンバラ評論》は1755年と56年にスコットランド文化の振興を目ざして刊行された書評中心の同人雑誌で,教会の干渉によって2号でつぶれたといわれるが,スミスはその1号にS.ジョンソンの《英語辞典》の書評を,2号に大陸とくにフランスの出版物の展望を寄稿した。いずれも短編ながら高く評価されたが,後者はスミスが早くからルソー,ボルテールおよび《百科全書》に注目していたことを示している。〈天文学史〉は,科学の体系が新しい事実にぶつかって動揺し,それを包摂するような(新しい事実を平明に説明しうるような)新しい体系にとって代わられる過程を述べたもので,やがてスミス自身が道徳哲学において,またとくに経済学において,そのような意味での体系の革新をなしとげることを,予感させる(衝撃を与える新しい事実は,前者については〈利己心〉,後者については〈労働〉である)。
グラスゴー大学教授としてのスミスは,有力な商人たちとの交友や,親友D.ヒュームの経済論文の影響などを通じて,すでに後年の経済的自由主義の基礎をつくっていたといわれるが,《道徳感情論(道徳情操論)The Theory of Moral Sentiments(1759)によって,全ヨーロッパに学問的名声を確立した。それはスミスに,バックルー公の旅行付添教師として大陸に渡る機会を与え,彼は大学を辞任して,1764年1月から2年9ヵ月にわたりフランスとスイスを旅行する。このとき,パリでフランスの重農主義経済学者たち,百科全書派哲学者たちに会い,ジュネーブでボルテールに会ったこと,とくにF.ケネーとの出会いが,スミスの思想的発展を促進した。主著《国富論》(1776)は,この旅行中に書きはじめられたともいわれるが,大部分は帰国後故郷の家にこもって書かれた。それはアメリカ独立宣言と同じ年に出版されたが,スミスが本国による植民地貿易の独占を非難したことは明白であるとしても,アメリカの独立を支持したかどうかは,あとで発見された〈アメリカ問題についての覚書〉をも含めて,論争の的になっている。
スミスは77年11月に,スコットランド税関委員に任命されて,エジンバラに居を移し,死ぬまでそこでスコットランド文化の中心的人物として過ごした。彼の最後の学問的業績は,《道徳感情論》の大幅な改訂増補(第6版,1790)であって,それには《国富論》を経過した思想的発展と,フランス革命の思想的衝撃とがはっきり表現されている。
経済学者としてのスミスは明治初期には日本で知られていたし,《国富論》の翻訳も石川暎作と嵯峨正作によって1882-88年に刊行された。石川が福沢門下であり,この邦訳の第4編序文を田口卯吉が書いたことからもわかるように,《国富論》は彼らの自由主義経済論の支柱となったのである。しかし,1878年に来日して翌年から外務省法律顧問として活動したヘルマン・レースラーには,ドイツ歴史学派の立場からスミスを批判した著書があり,《独逸学協会雑誌》に訳載された論文においても,スミスは資本家を寄生者とし,労働者のみを生産的だとすることによって,社会主義の先駆となったと主張した。もちろん,この見解がそのまま日本でうけいれられたわけではないが,自由主義に対して保護主義,利己心に対して利他心および国家意識が優位を占めたことは,両国の資本主義の後進性からして,不可避であった。
やがてマルクス主義がはいってくると,スミス経済学のなかにおける労働価値論の萌芽だけが,彼の科学的側面として評価され,あとは価値論および再生産論の混乱が指摘され,K.マルクスの引立て役の地位を与えられたにすぎなかった。ところが,1930年代後半になってマルクス主義への弾圧が強化されると,スミス経済学はマルクス経済学の研究者の隠れみのとなった。そして,そこから進んで,スミスにおける道徳哲学と経済学の統一を再発見することによって,日本のスミス研究は,さしあたっては戦時の空虚な道徳論を批判するとともに,第2次大戦後においては独特の〈市民社会論〉によってマルクス主義にも大きな影響を与えた。この方向での代表的な著作は,太田可夫〈アダム・スミスの道徳哲学について〉(《一橋論叢》2巻6号,1938),高島善哉《経済社会学の根本問題》(1941),大河内一男《スミスとリスト》(1943),内田義彦《経済学の生誕》(1953)である。
執筆者:水田 洋
イギリスの軍人,探検家,著作家。軍人としてヨーロッパ大陸でトルコ軍と戦って捕らえられるが,脱走して1604年ころ帰国。07年ロンドン・バージニア会社の植民者をつれて北アメリカのジェームズタウンに上陸し,バージニア植民地を建設した。インディアンに捕らえられ,酋長の娘ポカホンタスの助命で助かったり,現地経営の内紛で死刑となる寸前に新移住者をつれてきたC.ニューポート船長に助けられるなどの苦労ののち,08年総督に選ばれ,09年帰国。14年にはロンドン商人たちによりニューイングランドに派遣されて探検し,魚や毛皮の積荷を持ち帰った。これがロンドン有力商人間にこの地方に植民地を建設する刺激を与え,20年のピューリタンによるプリマス植民地の建設となった。その経験を多くの著述や地図として出版したが,重要なものは《ジョン・スミス船長の旅行・冒険・観察記》(1630),《バージニア地図》(1612),《ニューイングランドについて》(1616)。
執筆者:武則 忠見
イギリスの地質学者。オックスフォードシャーの鍛冶屋に生まれ,若いころ,当時盛んであった運河工事を手伝ううち,測量技師となり,終生,土木技師civil engineerを名のった。工事のかたわら,地層の特徴に注目,地層の重なり,連続の規則性に気づき,地質図にまとめ,1815年に大きな《イングランド,ウェールズ,およびスコットランドの一部の地質図》を出版した。また特定の地層には特定の化石を産することに着目,1816年から地層ごとの化石図鑑《化石によって同定される地層》を出版しはじめたが,財政難で中断。イギリス各州の地質図も出版した。化石による地層の同定を確立したことから,〈層位学の父〉とも,〈イギリス地質学の父〉ともよばれる。1831年にロンドン地質学会から第1回のウォラストン賞をうけた。イギリス国会議事堂の建築用材の調査旅行中に病気で死亡した。
執筆者:清水 大吉郎
アメリカの写真家。カンザス州のウィチタ生れ。18歳で《ニューズ・ウィーク》,19歳で《ライフ》のスタッフとなったスミスは,以後一貫してフォト・ジャーナリズム(グラフ・ジャーナリズム)の世界を歩んだ。彼の求道的・理想主義的なヒューマニズムはグラフ雑誌編集者との衝突も生んだが,数々の人間愛に満ちた傑作を生みだした。〈カントリー・ドクター〉(1948),〈スペインの村〉(1950),〈慈悲の人シュワイツァー〉(1954)など《ライフ》誌に発表された写真は,単にルポルタージュとして優れているだけでなく,写真芸術としての完璧さを備えている。晩年になっても,スミスの求道的な姿勢は衰えず,71年に来日して水俣病に取り組み,彼の最後の傑作を残した。
執筆者:金子 隆一
アメリカの政治家。アイルランド系カトリック教徒移民の子として,ニューヨーク市のスラム街に生まれた。1903年ニューヨーク州下院議員に当選,アイルランド系票を背景に政界に着実な地歩を占め,18年には州知事に当選,行政改革,社会福祉で実績をあげ,名知事として4期務める。その間24年民主党全国大会では指名を逸したが,28年には指名され,アメリカ史上最初のカトリック教徒の大統領候補となった。好況のゆえもあって現職のH.C.フーバーに敗れたが,北部の大都市票を獲得した。アメリカの人口構成の変化,都市化に対応して,民主党は北部大都市の大衆を地盤とする政党へと変容しつつあったが,スミスはその変容を象徴する政治家といえる。ただし,32年の民主党の大統領候補指名争いでF.D.ローズベルトに敗れ,ニューディール政策には反対した。
執筆者:斎藤 真
イギリスの発明家。1836年,二つのねじ山をもった木ねじ型のスクリュープロペラで特許を得,同年,10トンの汽船フランシス・スミス号を造り,この木製のねじ型スクリューを装着し,ロンドンの運河で実験した。実験中,ねじ山の一つが折れたが,これによりかえって船速を増したことにヒントを得て,二枚翼のスクリューを考案した。39年には直径1.75mの二枚翼スクリューを装備した長さ32.3m,総トン数約240トンのアルキメデス号Archimedesを建造,同船は,イギリス一周の試験航海でスクリューの優秀性を実証し,当時,ブリストルの造船所で鉄製汽船グレート・ブリテン号を建造中であったI.K.ブルネルは,予定していた外輪をやめスクリューを採用したほどであった。
執筆者:在田 正義
イギリス,ピューリタン運動の一支流をなしたバプティスト派の創始者。ケンブリッジ大学に在学中,同大学に盛んであったピューリタニズムにふれて回心した。卒業後しばらく英国国教会の牧師をつとめたが,のち分離派(セパラティスト)の群れに加わってその指導者となった。1607年の末,迫害を避けてアムステルダムへ脱出,そこでメノー派の影響を受けた。11年,亡命以来の同志T.ヘルウィズとJ.マートンはイギリスに帰って,最初のイギリス・バプティスト教会をつくった。スミスはオランダにとどまり,翌年死去した。バプティストの名の由来は,幼児洗礼を否定し,信仰告白に基づく洗礼(バプテスマ)だけを有効と主張したことにある。
執筆者:小倉 義明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの社会科学者で、古典経済学の創始者。
スコットランドの港町カーコルディで、弁護士・関税監督官を父とし、郷士の娘を母として生まれた。誕生前に父を失い、母の手で育てられた。後半生は故郷で長命の母と暮らし、生涯独身であった。故郷の学校を出て、1737年スコットランドのグラスゴー大学に学び、道徳哲学者F・ハチソンの教えを受けた。さらに、1740年から6年間オックスフォード大学のベリオル・カレッジに学んだのち、1751年にはグラスゴー大学教授に就任して、ハチソンの後を継いだ。1759年に『道徳感情論』The Theory of Moral Sentimentsを出版し、全ヨーロッパに名声をはせた。そのころ、のちに蒸気機関を発明したJ・ワットも同大学内で実験助手をしており、スミスは彼を保護、激励していた。副総長を歴任したのち、1764年に大学を辞し、バックルー公Henry Scott, the third Duke of Buccleuch(1746―1812)の私教師として約3年間フランスに滞在した。その間、ボルテールや重農学派のケネーなどと交わり、学識を深めた。帰国後は、故郷で『国富論』の執筆に専念し、1776年アメリカ独立戦争のさなかにこれを刊行した。1777年スコットランド税関委員に任命されたため、翌1778年にはエジンバラに居を移し、1787年にはグラスゴー大学総長に選ばれた。1790年に死の近いのを知ったスミスは、草稿類を焼却させ、同年7月17日死去した。エジンバラ市キャノンゲイト墓地に葬られている。
[星野彰男 2015年7月21日]
スミスの生前に刊行された著作は先の2著だけであるが、彼が遺著として公刊することを認めた『哲学論文集』Essays on Philosophical Subjectsが1795年に刊行された。そのなかでは天文学史を論じた部分が卓越しており、科学革命の見方が展開されている。そのほかに、1763年前後に行った講義の受講ノートと、『国富論草稿』An Early Draft of Part of the Wealth of Nationsが、19世紀末から20世紀なかばにかけて発見された。受講ノートの一つは『法学講義』Lectures on Jurisprudence(1978)で、これの旧版(1896)が『グラスゴウ大学講義』である。もう一つは『修辞学・文学講義』Lectures on Rhetoric and Belles Lettresで、論理学の受講ノートである。これらの著作等はすべて『グラスゴー大学版アダム・スミス著作書簡集』The Glasgow Edition of the Works and Correspondence of Adam Smith全6巻7冊(1976~1983)に収められている。
スミスの蔵書は、ギリシア・ローマ時代の古典が大半を占めており、また近代の人文・社会・自然諸科学も含めて多彩を極めており、3000冊に上る蔵書のなかで経済学に関する書物はきわめて少ない。蔵書の大半は、エジンバラ大学に収められているが、一部は東京大学にも所蔵されている。詳細な蔵書目録として、スミス研究者の水田洋(みずたひろし)(1919―2023)によるAdam Smith's library: a catalogue(2000, Oxford University Press)がある。
[星野彰男 2015年7月21日]
スミスの思想は、近代の代表的な思想家たちと同様に、古典古代の人文学の素養に基礎づけられている。また、グロティウス、ホッブズ、ロック、ヒューム、ルソーなどからも学びながら、『道徳感情論』において独自の同感理論を展開した。すなわち、ある行為や感情は、それを見ている観察者の同感を受けることによって是認される。行為者は、観察者の同感を受けようとする本性を備えているために、観察者から同感されないばかりか、反感すら受けるような行為については、これを未然に自己規制しようとする。他者を侵害するほどの不正や傲慢(ごうまん)が社会的に非難されるのは、このような同感感情に基づいているからである。この考えによると、人々の関係が公平に開かれたものでありさえすれば、おのずと不正が自己規制され、また正義=自然法が守られるようになり、国家的強制力をほとんど必要としなくなる。このような観点から、スミスは自然法学を展開しようとした。
しかし現実には、法や統治の特定のあり方が歴史的に確立されてきた。スミスは、これについて先の講義で詳細に講述し、法がいかにして改善されてきたかを論じた。そして、道徳や法や統治のあり方が、便宜の世界としての経済のあり方によって大いに左右されうるとみなして、分業論をもとにした経済分析に入っていった。『国富論』は、この法学講義の後段部分が独立してより詳細に肉づけされたものである。同書でスミスは、ケネーらから学んだ再生産・資本蓄積の視点を補強し、また、アメリカ独立戦争の原因を究明して、打開策を提言した。このように、『国富論』は、自然法学の一環として、より洗練された法や統治や国際関係のあり方を論証するものとして著された。人々の自由な経済活動に任せておけば、「見えざる手」の導きによっておのずと均衡が保たれていくという市場機構への信頼感も、開かれた人間関係のなかで円滑に作用すべき先の同感理論によって支えられた見方だったのである。
最晩年にスミスは、『道徳感情論』の大幅な増補改訂を行い、同感理論に基づく自己規制論の完成を期したが、自然法学の体系的著述は、『国富論』を除き、ついに未完に終わった。
[星野彰男 2015年7月21日]
『内田義彦著『経済学の生誕』増補版(1962・未来社)』▽『水田洋著『アダム・スミス研究』(1968/新装版・2000・未来社)』▽『ジョン・レー著、大内兵衛・大内節子訳『アダム・スミス伝』(1972・岩波書店)』▽『高島善哉著『アダム・スミス』(岩波新書)』
ドイツ生まれのアメリカの彫刻家。ニュルンベルクで生まれ、アメリカ、ニュー・ジャージー州で育つ。父はミニマリズムの彫刻家トニー・スミス。布、毛糸、ガラス、紙、蝋(ろう)、松脂(まつやに)、陶器、銀、ブロンズなどさまざまな素材を使い、人間の身体構造や生体の活動に触発された彫刻をつくる。
1976年からニューヨークに住み、1979年ごろからイギリスの解剖学者ヘンリー・グレーHenry Gray(1825―1861)の『解剖学』Gray's Anatomy(1858)をもとに末梢(まっしょう)神経や身体の細部のドローイングを制作。1980年に、自らも一員であったアーティスト集団コラボラティブ・プロジェクト(COLAB)とオルタナティブ・スペース(作品を収蔵する美術館でも作品を売る画廊でもない作品発表の空間)、ファッション・モーダの企画によるグループ・ショー「タイムズ・スクエア・ショー」に参加する。これは、具象を異端視するコンセプチュアル・アートの偏狭さに抗議した若いアーティストたちが、古い風俗業の建物を改装して彫刻、絵画、グラフィティを展示し、展覧会自体がギャラリー、クラブ、ストリートの要素を混在させた、ニューヨーク・ニュー・ウェーブ・アートの始まりを告げた有名な展覧会であった。1981年から1983年の間にニューヨークのP.S.1コンテンポラリー・アート・センター(現、MoMA P.S.1)、ホワイト・コラム、アーティスト・スペース、キッチンなど、イースト・ビレッジ・アート・シーンの拠点であったオルタナティブ・スペースにおけるグループ展や、COLABのヨーロッパにおける展覧会活動に参加する。1982年キッチンで初個展「生命は生きたがっている」を開催。1984年にホイットニー美術館の「近代の仮面」展に参加。1985年、ニューヨーク実験ガラス工房でガラスを素材に制作を始める。1988年にはMoMA(ニューヨーク近代美術館)のグループ展に参加し、作品がコレクションに加えられる。これらの活動によりスミスの作品は1990年までにすでに国際的に認められていたが、エイズや湾岸戦争を背景とした生や死や人間の傷つきやすさについての意識の高まりを反映し、1990年代初めに大きな成功を収め、以後身体をテーマにした数多くの個展やグループ展で作品を発表する。
スミスの彫刻は、紙や糸や布を編んだり縫い合わせたりした繊細なものから、ブロンズやガラスを型どりした重厚なものまで、さまざまな素材と技術を駆使してつくられる。それは、人体の一部のオブジェや全体像であるが、個別的に展示されても、インスタレーションでも、そこには身体の傷つきやすさと、傷を負ったり断片化したりすることでいっそう強くなる生命の存在感が暗示されている。中心に蝶番(ちょうつがい)があり、開くことのできるブロンズ製の子宮型の彫刻『子宮』(1986)や、白く着色されたテラコッタの断片を刺しゅう糸でつなぎ合わせ、モビールのようにつるした『胸骨』(1987)などには、生命の神秘とはかなさに対する作者の関心や、聖者の心臓などを聖骸(せいがい)として祀(まつ)るカトリック的な感性の反映がみられた。一方、1990年代に入ってつくられた、正面から見ると静かに座っているだけの裸婦像の背中に深い爪痕(つめあと)が刻まれている『無題』や、直径20~30センチメートルの赤褐色のガラスの円盤を100個直線上に並べた1994年の『血の線』には、女性であることから生まれる痛みや独特の身体観が投影されている。
スミスの彫刻は、ロバート・ゴーバーRobert Gober(1954― )の彫刻やマイク・ケリーやポール・マッカーシーのパフォーマンスと並んで、1990年代初めのニューヨークに台頭した「おぞましいもの」(abjection。フランスの思想家ジュリア・クリステバによれば、人間がその社会的正当性と理性的主体性を確立するために切り離さなくてはならない母の身体への執着と、母の身体を連想させるさまざまなもの――血や体液――、不完全な状態を示す分断された身体の断片、身体の内部との接触を暗示する食べかけの食物などをさす)の美術的表現の一環と考えられた。実際に、1990年代なかばにスミスの作品がアメリカ各地やカナダの大学の付属美術館を頻繁に巡回したことは、その作品がフェミニズム研究者の関心を強く引き付けたことと無関係ではない。1990年代後半には、その題材を自然界や童話の世界に広げている。
1990年MoMAで個展「プロジェクト24――キキ・スミス」、1998年ハーシュホーン美術館(ワシントンDC)で個展開催。1991年、1993年ホイットニー・バイエニアル(ニューヨーク)に参加。1992年、当時流行していたジェンダーや階級の差を、テクノロジーの発達を媒介にして超越する、進化した(極端に退化した)身体への夢想をテーマとした「ポスト・ヒューマン」展(イスラエル美術館などヨーロッパ5か所の美術館を巡回した)に参加した。
[松井みどり]
『Paradise Cage; Kiki Smith and Coop Himmelblau (1996, Museum of Contemporary Art, Los Angeles)』▽『Linda ShearerKiki Smith (1992, The Ohio State University Wexner Center for the Arts, Columbus)』▽『Benjamin WeilCharles Ray, Kiki Smith, Sue Williams (in Flash Art, November/December 1992, Giancarlo Politi Editore, Milano)』▽『Rebecca Howland, Christy Rupp, Kiki Smith, Cara PerlmanSigns of Life (1993, Illinois State University Galleries, Normal)』▽『Hal FosterThe Return of the Real; The Avant-Garde at the End of the Century (1996, MIT Press, Cambridge)』▽『Bridgitte Reinhardt, Ilka BeckerKiki Smith; Small Sculptures and Large Drawings (2002, Hatje Cantz Publishers, New York)』
アメリカのジャズ・オルガン奏者。本名ジェームズ・オスカー・スミスJames Oscar Smith。ペンシルベニア州にピアニストの両親の間に生まれる。幼児期からピアノに親しみ9歳で天才児といわれるほど上達し、アマチュアのコンテストで優勝している。海軍を除隊した1948年フィラデルフィアのハミルトン音楽学校に入学、このときはベースを学んでいる。翌49年から50年にかけ同市のオースティン音楽学校で正規にピアノを習得。52年ドラム奏者ドン・ガードナーDon Gardnerのバンドに参加。
1953年ジャズにおけるオルガン演奏の雛型(ひながた)をつくりあげたといわれるワイルド・ビル・デービスWild Bill Davis(1918―95)の演奏に影響されオルガン奏者に転向し、ニューヨークのクラブ「スモールズ・パラダイス」や「カフェ・ボヘミア」に出演する。55年、短期間ながらテナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンと共演。56年、ブルーノート・レーベルの名プロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―87)に見込まれ、初リーダー作『ア・ニュー・サウンド・ア・ニュー・スター』を録音。57年から同レーベル専属ミュージシャンとなり以後62年までに30枚を超すアルバムを吹き込み、ブルーノート・レーベルの看板スターの地位を得た。この時期のスミスの演奏はモダン・ジャズ・ピアノの開祖バド・パウエルの影響を強く受けたスタイルで、オルガンにおけるモダン奏法を確立させた。ブルーノート時代の共演ミュージシャンには、アルト・サックス奏者のルー・ドナルドソンLou Donaldson(1926― )、同じくアルト・サックスのジャッキー・マクリーン、トランペット奏者のリー・モーガンなどがいる。
1962年、ブルーノート・レーベルにおける最後の年に、アルバム『ミッドナイト・スペシャル』が大ヒット、『ビルボード』Billboard誌の28位(シングル69位)というジャズとしては異例の「ホット100」入りを果たした。これはジャズ専門のレコード会社、ブルーノート・レーベルにとっては初めてのことであると同時に、オルガン・ジャズの一般的認知度が飛躍的に向上した記念すべきできごとでもあった。63年からバーブ・レコードに移籍し、オーケストラとの共演作品で大衆的人気を得る。とりわけ64年に録音された『ザ・キャット』は、同年公開されたアラン・ドロン、ジェーン・フォンダ主演、監督ルネ・クレマンによるMGM映画『危険がいっぱい』(1964)の主題曲をタイトルとしていたこともあって、ジャズ・ファンを越えた幅広い人気を博し、スミスの名声を決定的なものとした。
エレクトリック・ジャズの流れが顕著になる1970年代は、相対的にオルガン・ジャズの地位が低下したためロサンゼルスでクラブを経営し、そこで演奏すると同時に個人レーベル「MOJO」を設立。82年に至ってギター奏者、ボーカリストのジョージ・ベンソンと共演したアルバム『オフ・ザ・トップ』Off The Topでふたたびジャズ・シーンの注目を浴びた。
[後藤雅洋]
アメリカのロック歌手、詩人。シカゴの工場労働者の家庭に生まれ、後にニュー・ジャージー州に移住する。高校時代にランボーの詩に傾倒し詩作を始めるとともに、ローリング・ストーンズに熱中し、アートや演劇に親しむ。ニュー・ジャージー州グラスボロ教育大学在学中の1967年春、大学教授との間の子どもを出産するが、生活のために里子に出し、ニューヨークへと移り住む。
ニューヨークでは写真家のロバート・メープルソープ、劇作家・俳優のサム・シェパードらと親しくなり、またニューヨークのアート・シーンや演劇シーンと交流し、詩作に努める。『7番目の天国』Seventh Heaven(1972)、『ウィット』Witt(1973)など数冊の詩集を発表。やがて彼女は公園やコーヒーハウスなどでポエトリー・リーディングを行うようになり、そのバックにギターやピアノの伴奏がつくこともしばしばあった。後にニューヨーク・パンクを代表するグループとなるテレビジョンのギタリスト、トム・バーレインTom Verlaine(1949―2023。本名トーマス・ミラーThomas Miller)らをバックに最初のシングル「ヘイ・ジョー/ピス・ファクトリー」(1974)を発表。ライブ活動も積極的に行うようになり、ファースト・アルバム『ホーセス』(1975)をリリースする。フランス象徴派の影響を受けた文学的な詩とロックン・ロールの結び付きはニューヨークから誕生した新たなロック・ミュージックとして歓迎され、後のニューヨーク・パンクの先駆けとなる。
1976年にはセカンド・アルバム『ラジオ・エチオピア』を、続いてサード・アルバム『イースター』(1978)をリリース。後者に収録された、ブルース・スプリングスティーンBruce Springsteen(1949― )との共作曲「ビコーズ・ザ・ナイト」は全米で13位まで上る大ヒットとなった。4枚目のアルバム『ウェイブ』(1979)をリリースした後、元MC5のギタリスト、フレッド・スミスFred Smith(1948―1994)と1980年に結婚・引退し、デトロイトで静かな結婚生活を送る。
1986年ころからフレッドの協力によって復帰作のレコーディングが開始され、やがて9年ぶりのアルバム『ドリーム・オブ・ライフ』(1988)がリリースされる。1993年には久しぶりに観衆の前でポエトリー・リーディングを行い、活動再開の準備をしていた矢先、夫のフレッドが心不全で急死する。悲しみを乗り越え、かつての友人たちとの協力で録音されたアルバム『ゴーン・アゲイン』(1996)を発表、ベテラン・ロック・アーティストとしての風格をみせた。その後も『ピース・アンド・ノイズ』(1997)、『ガン・ホー』(2000)などのアルバムを発表。1997年(平成9)には初来日するなど活発な活動を続けている。
[増田 聡]
『東玲子訳『パティ・スミス完全版――詩と回想、そして未来へのメモ』(2000・アップリンク)』▽『ニック・ジョンストン著、鳥井賀句訳『パティ・スミス――愛と創造の旅路』(2000・筑摩書房)』
1980年代イギリスのインディー・ロック・シーンを代表するグループ。マンチェスターに生まれ、オスカー・ワイルドとジェームズ・ディーンを敬愛する内気な青年であったモリッシーMorrissey(1959― 、ボーカル。本名スティーブン・パトリック・モリッシーSteven Patrick Morrissey)は、1960年代ポップスに影響を受けながら自身の曲を書きためる毎日を送っていた。年下のギタリスト、ジョニー・マーJohnny Marr(1963― )と出会ったモリッシーはバンドを始めることを決意し、アンディ・ロークAndy Rourke(1964―2023、ベース)、マイク・ジョイスMike Joyce(1963― 、ドラムス)とともに1982年スミスを結成する。
グラジオラスを腰に差して踊るモリッシーの風変わりなライブ・パフォーマンスと、1960年代のギター・ロックを現代的によみがえらせたサウンドが話題をよび、スミスはインディー・レーベルのなかでは大手のラフ・トレードと契約する。1983年5月にデビュー・シングル「ハンド・イン・グローブ」がリリースされ、彼らの評判はイギリス国内に広まっていく。1984年の初めには、デビューから3枚目までのシングルが全英インディー・チャートのトップ3を独占するまでに人気が高まるなか、デビュー・アルバム『ザ・スミス』(1984)がリリースされ、彼らはパンク以降の新しいロックの旗手との評価を受けることになった。
同年セカンド・アルバム『ハットフル・オブ・ホロウ』をリリース、続いてリリースされたサード・アルバム『ミート・イズ・マーダー』(1985)では、表題曲で菜食主義を支持し政治的な姿勢もみせ始める。その後全英ライブ・ツアーも成功するが、このころからスミスは所属レーベルであるラフ・トレードとの金銭的な問題や、ロークのドラッグ問題などのトラブルにみまわれる。そんななかリリースされた4枚目のアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』(1986)は彼らの最高傑作とされる優れた作品であった。表題のとおりの英国王室批判も含めた政治的な姿勢と、練度を増したバンド・サウンドは、サッチャー保守政権下のイギリスの若者から絶大な支持を集めることになる。
1986年9月、絶頂期にあったスミスはメジャー・レーベルであるEMIと契約を結ぶが、ラフ・トレードとの契約が残っていたため、翌1987年2月にシングル曲集『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』をリリース、5月にはラフ・トレード最後のアルバムになる『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』を完成させた。しかし、モリッシーとマーの関係がもつれ、8月にマーは脱退を表明。メジャー移籍前に突然、バンドは空中分解してしまう。モリッシーも結局、9月に解散を正式に表明。同時に『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』は、スミスのラスト・アルバムとしてリリースされた。
解散後、マーは、トーキング・ヘッズやブライアン・フェリーBryan Ferry(1945― )、ザ・ザなど、多数のアーティストのレコーディングに参加した後、いくつかのグループを経て活動を続け、モリッシーもソロ歌手として活動している。
[増田 聡]
『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『モリッシー&マー――茨の同盟』(1993・シンコー・ミュージック)』▽『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『グレイト・ロック・シリーズ――ザ・スミス/モリッシー&マー全曲解説』(1997・バーン・コーポレーション)』
アメリカの生化学者。コネティカット州ノーウォーク生まれ。1963年ペンシルベニア州のハバフォード大学卒業。高校教師などを経て、1970年ハーバード大学で細菌学と免疫学の博士号を取得。その後、博士研究員としてウィスコンシン大学で、オリバー・スミシーズ(2007年ノーベル医学生理学賞受賞)の指導を受け、1975年ミズーリー大学助教授、1990年教授、2000年に特別栄誉教授に任命された。
1980年代、細菌に感染するウイルス、バクテリオファージを使いDNAのクローニングの研究を始めた。バクテリオファージは、カプセル状の表面タンパク質の中に少数の遺伝子を含む単純な構造のウイルスで、細菌に感染すると、自らの遺伝子を細菌のDNAに潜り込ませ、ウイルスの表面に増殖に必要なタンパク質の断片(材料)をつくりだすことによって大量に増殖する。スミスは、1983~1984年、サバティカル休暇で、デューク大学に滞在した時、バクテリオファージの表面タンパク質をつくる遺伝子「Phage gene Ⅲ」にさまざまなDNAの破片を注入し、既知のタンパク質をつくろうとしていた。ねらったタンパク質が、ファージの表面につくられていることを確認。それを生体がつくりだす抗体と結合させて、釣りあげられることを実証し、1985年に発表した。この手法は「ファージディスプレー法」とよばれ、精度よく、大量の遺伝子、タンパク質を取り出すことを可能にし、広く普及した。この手法を活用し、画期的な自己免疫疾患治療用ヒト抗体医薬品「アダリムマブ」(商品名ヒュミラ)を開発したのが、イギリス医学研究会議(MRC)分子生物学研究所のグレゴリー・ウィンターである。この薬はリウマチ性関節炎ほか炎症系疾患の治療に適用拡大されている。
2007年プロメガ・バイオテクノロジー研究賞を受賞。2018年には「ファージディスプレーによるタンパク質や抗体の開発」の業績で、グレゴリ・ウィンターとノーベル化学賞を共同受賞した。「指向性進化による酵素の合成」に貢献したアメリカのカリフォルニア工科大学教授フランシス・アーノルドとの同時受賞であった。
[玉村 治 2019年3月20日]
ローデシア(現ジンバブエ)の政治家。白人入植者の子としてミドランド州のセルクウェに生まれる。南アフリカ連邦のローズ大学を卒業、第二次世界大戦中イギリス空軍飛行士として活躍。1948年政界に入り南ローデシア立法審議会議員。1961年白人入植者を代表するローデシア戦線党(RF)を結成。1964年首相に就任。1965年11月宗主国イギリスとアフリカ人の反対を押し切って入植者による支配を続けたままでの一方的独立を宣言した。アフリカ人の合意が独立の条件とするイギリスと何度も交渉を重ねたが決裂。1970年代以降のアフリカ人武力闘争に武力で対峙(たいじ)。以後、ソ連が積極的に支援するアフリカ人解放勢力との戦争が続いた。ソ連の南部アフリカ進出を恐れたアメリカは1975年のビクトリア・フォールズ会談で初めて解放諸勢力と交渉したが決裂。しかし、スミスは1976年のアメリカ国務長官キッシンジャーによる和平交渉、さらに1977年の一人一票制の選挙を主唱する英米提案をけり、国内穏健派のアフリカ人指導者ムゾレワらと国内解決を図った。1979年8月に開かれたイギリス連邦首脳会議で、アジア・アフリカ諸国は国内解決を認めたサッチャー政権を非難し、改めて全当事者によるロンドン制憲会議を提唱した。同年9月のロンドン制憲会議に合意し、新憲法、独立までの移行期、軍・ゲリラの武装解除、一定期間の白人権益保護について協議した。その結果ランカスター協定が締結され、翌1980年4月ジンバブエは独立。その後もRF党首、下院議員として白人の権利の擁護にあたった。RFは1985年ジンバブエ保守連合(CAZ)と改名したが、1987年、独立時のランカスター協定の期限終了後に全100議席のうち20議席あった白人議席はなくなり、党首を辞任、翌1988年政界から引退した。
[林 晃史]
『Bitter harvest(2001, Blake Publishing, London)』▽『Dickson A. MungaziThe last defenders of the laager(1998, Praeger Publishers, Westport,Conn.)』
カナダの生化学者。イギリスのブラックプール生まれ。1956年マンチェスター大学で博士号を取得後、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学のH・コラーナ(DNAの遺伝情報解読で1968年ノーベル医学生理学賞受賞)のもとで、オリゴヌクレオチドの合成について研究する。1961年にはカナダ水産研究委員会で海洋生物学の研究に携わる。1966年ブリティッシュ・コロンビア大学準教授、1970年に同大学教授となる。1975年にはF・サンガー(1958年にタンパク質のアミノ酸配列決定で、1980年にDNA塩基配列解読で二度ノーベル化学賞受賞)の研究室に留学し、ファージの塩基配列を決定するプロジェクトに参加した。1978年にファージを実験材料として、オリゴヌクレオチドの設計を工夫することでDNAの特定の位置に一塩基置換変異や欠損変異を導入する方法を開発した。この方法によりタンパク質のアミノ酸を自由にかえられるようになり、タンパク質の構造及び機能解析が飛躍的に進歩した。この功績により1993年、ポリメラーゼ連鎖反応法を開発したK・マリスとともにノーベル化学賞を受賞した。その後もゲノム解析などの生化学の研究を精力的に続けた。
[馬場錬成]
アメリカのプロ野球選手(右投左右打)。通称、オジー・スミス。大リーグ(メジャー・リーグ)のサンディエゴ・パドレス、セントルイス・カージナルスで遊撃手としてプレー。華奢(きゃしゃ)なスイッチ・ヒッターであるが、「オズの魔法使い」と異名をとったほどの好守備を誇った名遊撃手である。
12月26日、アラバマ州モービルで生まれる。カリフォルニア・ポリテクニック州立大学サン・ルイス・オビスポ校から1977年、ドラフト4巡目指名でパドレスに入団。抜群の守備力ですぐに頭角を現し、プロ入り2年目の1978年には開幕から大リーグでレギュラーの座を確保した。打率2割5分8厘、ホームラン1本、打点46と打撃成績は振るわなかったが、守備力に加えて盗塁40という機動力でチームに貢献した。1980年には初のゴールドグラブ賞を受賞。以降、13年連続して同賞を独占し続けた。また、1981年からはオールスター・ゲームの常連となり、1992年まで12年連続して出場した。1982年にトレードでカージナルスへ移籍。守りと機動力を軸としていた名将ホワイティー・ハーゾグDorrel Norman Elvert "Whitey" Herzog(1931―2024)監督の野球に欠かせない存在となり、同年チームのワールド・シリーズ優勝に貢献した。1985年と1987年にもリーグ優勝に貢献。1985年にはチャンピオンシップ・シリーズの第5戦でリーグ優勝に王手をかけるサヨナラホームランを打ち、1987年は最初で最後の打率3割をマークした。ホームゲームやオールスター・ゲームでは、試合最初の守備につく際に後方宙返りを決めてファンを喜ばせた。1994年以降は出場試合が100以下に減り、1996年の地区優勝を花道に引退した。
19年間の通算成績は、出場試合2573、安打2460、打率2割6分2厘、本塁打28、打点793、盗塁580。獲得したおもなタイトルは、ゴールドグラブ賞13回。2002年に野球殿堂入り。
[山下 健]
アメリカの微生物学者。ニューヨークに生まれる。イリノイ大学、カリフォルニア大学バークリー校、ついでジョンズ・ホプキンズ大学医学部で学び、1956年同校の博士号を取得した。その後セントルイスのバーンズ病院、サン・ディエゴの海軍基地、デトロイトのヘンリー・フォード病院で医療に従事し、1962年ミシガン大学の研究員。1967年ジョンズ・ホプキンズ大学の微生物学助教授、1973年同教授となり、1981年には分子生物学遺伝学教授となった。
1970年にヘモフィルス・インフルエンザ菌からデオキシリボ核酸(DNA)を切断する制限酵素を発見、HindⅡと命名した。1968年にアルバーが発見した制限酵素(Ⅰ型制限酵素)とは別種のもの(Ⅱ型制限酵素)であった。Ⅱ型制限酵素は部位特異性制限酵素で、スミスはこの酵素がDNAの特定の部位を切断するものであることを確認した。大学の同僚のネイサンズは、この酵素を利用して遺伝子の構造を明らかにする方法を開発した。その後、部位特異性制限酵素は盛んに研究され、多くの酵素が検出されるようになり、分子遺伝学は大きく前進、遺伝子工学が開発されるに至った。この業績により、アルバー、ネイサンズとともに、1978年ノーベル医学生理学賞を受賞した。
[編集部 2018年8月21日]
イギリスの解剖学者、人類学者。慣用的にエリオット・スミスとよばれる。オーストラリアのグラフトン(ニュー・サウス・ウェールズ州)の教師の家に生まれた。シドニーで成長して、シドニー大学医学部を1892年に卒業した。単孔・有袋類の大・小脳、嗅脳(きゅうのう)の比較解剖学的研究が注目され、1896年にイギリスのケンブリッジ大学に招かれて、王立外科医学校の脳標本を整理するなどの業績をあげた。1900年には新設のカイロ国立医学校の初代解剖学教授に赴任した。解剖学的研究の一環として着手した古代埋葬人骨の調査から、古代エジプトの宗教・慣習、とくにミイラ作製法に強い関心をもった。1909年にマンチェスター大学の解剖学教授となってからは、リバーズ、ペリーWilliam James Perry(1868―1949)らとともに、エジプトを高度文化の単一源泉とみた退行的文化伝播(でんぱ)論を提唱した。この伝播論は人類学的・民族学的諸科学に強い衝撃を与えたものの、一時的な流行の仮説にすぎなかった。それに比べ、1919~1932年のロンドン大学解剖学教授在任中にスミスが努力した人類学的研究・教育の拡充・奨励は、ダート、ブラックDavidson Black(1884―1934)などの活躍にみられるように、この分野の発展に長期的な功績を残した。
[佐々木明 2018年11月19日]
「実験経済学の父」とよばれるアメリカの実験経済学者。カンザス州ウィチタ生まれ。1949年にカリフォルニア工科大学で電気工学の学位をとり、1952年にカンザス大学で修士号、1955年にハーバード大学で博士号を取得。パーデュー大学、ブラウン大学、マサチューセッツ大学などを経て、1975年にアリゾナ大学教授、2001年からジョージ・メイソン大学教授を務める。経済学は実験と無縁の学問であるという通念を打破し、心理学とは異なる実験経済学独自の方法論を樹立する。2002年にD・カーネマンとともに、ノーベル経済学賞を受賞した。受賞理由は「市場メカニズムの研究において、実証実験を通じて解明する実験経済学を確立した」ことである。
教科書通りに需要曲線と供給曲線の交点付近での取引が実験においても成立することを論証するために、買い手も売り手も価格を提示するダブルオークションの手法を開発する。また被験者に一定の謝金を支払い、実験者にとって適切な選好統制の手段としての誘導価値理論を定式化し、実験できないとされてきた経済学に実験研究の道を開いた。これは自然科学の風洞実験などと同様、社会制度の性能を事前に確認することを意味し、規制緩和した電力市場の機能や、地球温暖化にかかわる二酸化炭素の排出権取引の仕組みなどに応用されている。
[金子邦彦]
アメリカのSF作家。文学博士の学位をもつので通称ドク・スミスともよばれる。処女作『宇宙のスカイラーク』を1928年に発表して大好評を博し、続編を次々に発表して全四巻のシリーズとなった。この作品の主人公リチャード・シートンによって、それまで銀河系内に限定されていたSFの舞台は、初めて他の島宇宙にまで拡大された。この第一作の発表当時はちょうどアメリカのパルプ・マガジンの全盛期にあたり、大科学者の主人公が同時にアクション・ヒーローの役割を演じるという初期のスペース・オペラの典型を確立して、その後の冒険SFの発展に決定的な影響を与えた。『スカイラーク』の後を受けて時間的にも空間的にも思想的にもその規範を拡大した傑作が次のレンズマン・シリーズで、第一巻『銀河パトロール隊』(1937)から第七巻『渦動破壊者』まで10年がかりで完成したスペース・オペラの記念碑である。この両シリーズの成果によってスミスは現在スペース・オペラの父とよばれている。ほかに独立した作品として、『惑星連合の戦士』(1947)、『大宇宙の探究者』(1965)などがある。
[厚木 淳]
アメリカの物理学者。シカゴ大学で博士号を取得した後、ベル研究所の研究員となり、超大規模集積回路(VLSI:Very Large Scale Integration)装置部長などを歴任した。2009年にウィラード・ボイルとともに「電荷結合素子(CCD=Charge Coupled Device)センサーの発明」によりノーベル物理学賞を受賞した。
1969年、スミスはボイルとともに光を電気信号に変える素子を集積し、画像として記録する方法を最初に考案した。画像を電気信号に変換するときに、受光素子が光から発生した電荷を読み出す原理を利用、電荷結合素子とよばれる回路素子を用いて電荷を転送する方法である。現代ではデジタルカメラ、デジタルビデオ、内視鏡などに使われるようになり、携帯電話で撮影した写真も手軽に送信できるようになった。
[馬場錬成]
イギリスの地質学者。オックスフォードシャーに生まれる。測量技術を独学で学び、土木工事のための測量に従事するうち地質に興味をもつようになった。異なる地層にはそれぞれに特徴的な化石があることを初めて明らかにし、古生物によって地層対比が可能であるという層序学に重要な法則をみいだしたため、「層序学の父」とよばれる。またこの法則を応用して地層の識別を行い、その分布を地図上に記入し、1815年にイングランド、ウェールズ、スコットランドの一部の精密な地質図を発表した。ゲッタールの地質図作製にやや遅れるものの精密なことで優れ、「イギリスの地質学の父」ともよばれている。
[木村敏雄]
イギリスの発明家。初等教育を終えたあと、農夫となる。趣味で小さな模型の船をつくるのが得意だったが、その際、船の推進方法について、これまでのような外輪船よりも、スクリューで推進したほうが有効であることに確信をもった。1836年、造船技術者エリクソンとは別個に、スクリュープロペラを発明し特許を得た。1839年最初の実用的なスクリュープロペラ推進船アルキメデス号を建造した。1850年まで推進方法の専門家として海軍省で働き、その後はふたたび農業に従事した。のちにサウス・ケンジントンの特許局博物館長に就任している。
[雀部 晶]
アメリカの報道写真家。ヒューマニズムに立脚した人間味あふれる数多くのドキュメント、ルポルタージュを残した。カンザス州に生まれ、大学卒業と同時にフリー写真家として通信社と契約し『ライフ』をはじめとする雑誌の仕事に従事、1938年『ライフ』誌の専属となる。第二次世界大戦中は従軍し、戦後は写真通信社「マグナム・フォトス」のメンバーとして活躍し、フォト・エッセイという形式で立体的かつ叙事的な写真表現を確立し、フォト・ジャーナリズムに新風を吹き込んだ。代表作に『スペインの村』(1951)、『ピッツバーグ』(1955~58)などがある。晩年、日本の水俣(みなまた)病問題に強い関心を寄せ、71年来日して現地に居を移し、公害被害者のドキュメントに全身で打ち込み、現代社会における産業と人間の軋轢(あつれき)を鋭く告発、写真集『水俣』(1973)を出版。水俣病公害訴訟を取材中に被告側警備員に暴行を受け失明し、本国で没した。
[平木 収]
『『写真集 水俣』普及版(1982・三一書房)』
アメリカの細菌学者。ニューヨーク州オルバニーに生まれる。コーネル大学、オルバニー医学校に学ぶ。卒業とともに連邦畜産局の一員となり(1885)、1886年からはコロンビア大学細菌学教授を兼ねた。1895~1915年マサチューセッツ州立研究所病理部長。1896年以降ハーバード大学比較病理学教授を兼任した。1915~1929年ロックフェラー研究所の植・動物病理部長。スミスは、パスツール、コッホが切り開いた細菌学時代に活動を始め、ヨーロッパの先駆者に匹敵する業績をアメリカであげた。発表した論文は170編に上る。ウシのテキサス熱の昆虫(ダニ)による媒介を発見し、サーモンDaniel Elmer Salmon(1850―1914)とともに豚(とん)コレラ(豚熱の旧称)の死菌でハトに免疫が成立することを確証、また結核菌の人型、牛型を区別した。その著作『寄生と疾患』(1934)は、宿主・寄生体の複雑な関係を解析した名著として知られている。
[梶田 昭]
アメリカの末日聖徒キリスト教会(モルモン教)の創唱者。スミス一家は、ニュー・イングランドからニューヨークへの移民で、生活は貧しかった。1820年代、宗教上の興奮がニューヨークを襲い、その雰囲気のなかで、スミスは天使モロニイから金の板金を授かったとして、それを翻訳、30年モルモン経として世に示し、同年、末日聖徒キリスト教会を創設した。その後、教会はニューヨーク、オハイオ、ミズーリ、イリノイと移動。彼は、44年には合衆国の大統領候補になると宣言するほど政治的に権力をもった。彼の影響力の強大さに加えて、一夫多妻制の実践は人々の脅威となり、それが非難へと変わった。彼と弟は暴徒に捕らえられ、44年6月27日殺された。
[野村文子]
『ジョゼフ・F・スミス著『モルモン経』(1976・末日聖徒イエス・キリスト教会出版局)』
イギリスの探検家、植民地開拓者。ヨーロッパ大陸でオスマン・トルコ軍と戦って捕虜となり脱走した経験をもつ。1607年、ロンドン・バージニア会社の移住者とともに、最初の恒久的植民地となったバージニアに到着し、ジェームズタウンを建設。探検中にインディアンの捕虜となり、首長(しゅちょう)の娘ポカホンタスの哀訴で助けられた話は有名である。08~09年植民地知事に選出されたが、内部抗争に巻き込まれ、死刑を宣告されたこともあった。許されて帰国したのち、ニュー・イングランド海岸の探検を行った。『バージニア・ニューイングランド・サマー諸島の歴史』(1624)のほか、新植民地の紹介に関する著書が多い。
[池本幸三]
アメリカの彫刻家。インディアナ州ディケーターに生まれる。オハイオ大学、アート・スチューデンツ・リーグなどで学ぶ。最初は絵画を制作したが、1930年ころピカソとゴンザレスの影響から絵画にさまざまな物体を使用するようになり、彫刻に転じた。33年からは鉄の溶接を用いた彫刻を始め、60年代には確固とした独自の抽象的作風に到達している。構成主義の影響から簡素で頑強な空間構成による抽象彫刻を発展させたが、65年バーモント州ベニントンで没した。
[石崎浩一郎]
アメリカのブルース歌手。テネシー州生まれ。少女時代に「ブルースの母」とよばれるマ・レイニーに認められ、教えを受けて世に出た。堂々たる声の持ち主で、その歌唱は素朴だが心を打つ説得力があり、気品を感じさせる。1923年からレコードでも活躍し、10年間に160曲を録音。北部のジャズメンにブルースの精神を伝え多大の影響を及ぼし、いまも「ブルースの皇后」と称されている。
[青木 啓]
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イギリス生まれのカナダの生化学者.1956年マンチェスター大学で博士号を取得した後,バンクーバーのH.G. Khorana(コラーナ)研究室に入り核酸化学を学んだ.1961年カナダ漁業局に移り海洋生物学を研究し,1966年以降はブリティッシュ・コロンビア大学生化学部に所属(~1997年).1998年ブリティッシュ・コロンビアがん局ゲノム配列センター所長となる.1980年代初頭,合成オリゴヌクレオチドを用いて部位特異的な突然変異を導入する方法を開発し,タンパク質の機能の正確かつ簡便な研究が可能になった.この業績で,1993年PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法を開発したK. Mullis(マリス)とともにノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
(三好信浩)
(河村一夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1723~90
イギリスの経済学者,道徳哲学者。スコットランド生まれ。グラスゴー大学,オクスフォード大学に学び,1751年前者の道徳哲学教授となり,『道徳情操論』(59年)を出版。大学を辞めて貴族の家庭教師としてヨーロッパ大陸に旅行,帰国後経済学をはじめて体系化した『諸国民の富』(76年)を執筆,自由主義経済思想の基礎を築いた。晩年はグラスゴー大学総長となり,エディンバラで没。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろF.ベーコンによって始められ,A.スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。…
…価値は価格にとって内面的inherentもしくは内在的intrinsicであるとされたのである。このいわゆる真実価値real valueの根拠を定めるのが,A.スミスからA.マーシャルにいたる古典派および新古典派の価値論における一つの重要な仕事であった。注意しなければならないのは,このような価値と価格との密接な連関のために,両者がしばしば混同されるということである。…
…18世紀半ば以降は,このような法人格をもたない非公認会社の時代であった。当時の会社企業についてアダム・スミスは《国富論》(1776)で次のような見解を示している。まず第1に,他人の貨幣を管理する会社の重役は,自己の貨幣に対するほどの慎重さを欠くから,会社企業は個人企業やパートナーシップのような資本の所有と経営が結合した企業形態に比べて経営能率が低い。…
…この法は18世紀後半の経済自由主義の発展期まで機能しつづけた。自由主義経済の使徒アダム・スミスは,居住制限法は自然的自由と正義に対する明らかな侵害であり,この法によって自由な労働市場の形成が妨げられたと批判した。このような批判にもかかわらず,この法が維持されつづけたのは,救貧税の増大と貧民の増加に反対する中産階級と各教区とが示した自己中心的な態度と,本法が地主や借地農家に対しては農業労働力を自己の教区に引き止めるという利益をもたらしていたことによる。…
…ただし実際には当時フランスの租税は2割程度であったとみられる。A.スミスも《国富論》で分業の原理から職業的軍隊の必要性を説き,軍事技術の進歩は軍事費を増大させるが,それは他国からの不正な侵略を排除し,文明を繁栄させる,といっている。 近代国家が確立し国民軍が成立するにしたがって,軍事費の大きさが兵器の発達や戦争の規模の拡大とあいまって大きくなり,また近代兵器の出現は戦争のもたらす破壊・悲惨さをいっそう重大な問題にした。…
…もちろん,J.ロビンソンをはじめとして批判は多いが,ロビンズの考え方は現在にいたるまで近代経済学の指導原理の一つとなっている。
【スミス《国富論》】
経済学が今日のような形での一つの学問分野としてその存在を確立されたのはA.スミスの《国富論》に始まると一般に考えられている。《国富論》の初版は1776年に刊行されたが,書名は直訳すれば《諸国民の富の性質と原因に関する研究》であり,これは〈政治経済学political economy〉と同じ意味に用いられている(political economyの語が使われなかったのは,1767年刊のJ.スチュアートの著書にすでに使われていたからと考えられている)。…
…部や編に大別されぬ章のみの構成で,初版(750部)は30章からなり,一見雑然とした感じを与えるが,第1~7章の〈経済学の原理〉編,第8~18章および第22・23・29章の〈課税〉編,そして残りの〈補遺ないし論争〉編,の3部からなるとみなすことができる。リカード理論の骨格をなす第1部では,A.スミスが投下労働論・支配労働論の二元論に放置した価値論を投下労働論で一貫して説明しようとし,またその差額地代論,利潤率低下傾向の問題を中心とする地主・資本家・労働者3階級間の長期的・巨視的分配関係を論じた巨視的動態論,国際貿易における比較生産費説などでも,以後の経済学に大きな影響を与えた。投下労働価値論と関係する不変の価値尺度の問題はリカードの終生の問題であったが,21年の第3版では,その点が修正されるとともに,有名な〈機械について〉という第31章が付加された。…
…しかし重農主義においては,土地だけが純生産物を生むと考えられ,前貸しとしての資本の概念は確立されていたが,恒常的所得としての利潤の概念は存在しなかった。 古典派経済学の創設者は《国富論》(1776)の著者A.スミスであり,重農主義者と同じく自然法思想により自由放任を提唱,重商主義を論難した。私利の追求は価格機構のみえざる手に導かれて公益を促進するというのである。…
…経済学の始祖ともいうべきA.スミスは,経済活動において人間はセルフ・インタレストにもとづいて行為するものだ,と考えた。セルフ・インタレストの意味は,元来,自己に関連した事柄への関心ということであるが,それをせまく解釈すると私利私欲ということになる。…
…とはいえ,なおブルジョア的個人主義にもとづく啓蒙の社会哲学の一面性,形式性は,ルソーを先駆とするロマン派の一連の共同体論による批判を呼びおこすことになる。
[経済思想]
新興市民階級の立場からする生産と流通,分配といった経済現象の分析が,ロック,ケネー,スミスらによって発展せしめられた。スミスにみられる国家による統制の排除と自由主義経済の考えは,こうした動きの一つの到達点を示すものといってよいだろう。…
…生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。…
…この立場を代表するのはM.ウェーバーであり,表現は異なるがK.マルクスが商品の交換過程を論じるさいに示している理解も同趣旨のものである(《資本論》1編2章)。いまひとつの立場はA.スミスによって代表される。彼は分業の発生に関して,それは人間の本性のなかにあり,そして人間だけに見いだされる交換性向,すなわちある物を他の物と取引し,交易し,交換するという性向が,利己心に刺激されてひきおこすところの必然的帰結であると説く(《国富論》1編2章)。…
…アダム・スミスの主著で,経済学の最初の体系的著作。全2巻。…
…たとえば,J.ロックは国家と市民社会を区別し,市民社会は国家に一定限度内で統治を信託しているにすぎないと主張した。またA.スミスは,人間は〈神の見えざる手〉によって導かれているとして,市民社会の自律性を説き,最小の政府こそ最良の政府であるとした。このように,市民社会の自律性を主張することは,国家批判の系譜においても重要な位置を占める。…
…古典派経済学(略して古典派あるいは古典学派ともいう)とは一般に,18世紀の最後の四半世紀から19世紀の前半にかけイギリスで隆盛をみる,アダム・スミス,リカード,マルサス,J.S.ミルを主たる担い手とする経済学の流れをさしている。D.ヒュームらアダム・スミスの先行者や19世紀のJ.ミル,J.R.マカロック,R.トレンズ,ド・クインシー,S.ベーリー,N.W.シーニアー,S.M.ロングフィールドらをどう扱うか,またJ.S.ミルに後続するフォーセットHenry Fawcett(1833‐84)やケアンズJohn Elliot Cairnes(1823‐75),フランスのセーやシスモンディをどう扱うかについて,多少考え方の相違があるが,おおむねこれらの人たちも含まれる。…
…この論争は,重金主義者G.deマリーンズと貿易差額論者E.ミッセルデンおよびT.マンとの間で行われ,前者が直接的,個別的な貿易統制政策による貨幣的富の国外流出防止と流入促進とを主張したのに対し,後者は総括的貿易バランス論を主張し,最終的にはマンの主著《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664,死後出版)によって体系化された。A.スミスはこのマンの主著を〈すべての他の商業国の経済学の基本的命題になった〉ものと評価し,それ以来この著書は長いあいだ重商主義の古典とみなされてきた。総括的貿易バランス論は,貨幣的富を重金主義のように直接重視するのではなく,むしろより多くの貨幣的富を獲得するための元本(資本)とみなし,一歩発展した見地を示した。…
…重農主義者(フィジオクラットphysiocrates)たちは,自分たちをエコノミストéconomistesと呼んでいた。それが重農主義agricultural systemと呼ばれるようになったのは,A.スミスが《国富論》でそう呼んだことによるものと思われる。
[重農学派の政策的主張]
フィジオクラシーとは,もともと〈自然の統治〉を意味する語で,重農学派は王権を合法的に制限する合法的専制主義を最良の政体と考え,当時のルイ王朝を是認しながら自然的秩序による開明的社会を実現しようとした。…
…自由放任ということばはA.スミスの《国富論》(1875)の主張を要約したものとして知られている。そして,しばしば,自由放任,レッセ・フェールとは現実の経済をあるがままに放置せよ,あるいは,すべての経済主体とくに生産者(企業)に好き勝手にやらせるのがよい,という意味であるかのように誤解されてきた。…
…A.スミスがグラスゴー大学の道徳哲学教授のとき,36歳で出版した処女作。1759年刊。…
…個々人の私益追求のエネルギーが結果的に社会全体の利益増進に役立つことを示すのに,アダム・スミスは著書《国富論》第4編第2章,および《道徳感情論》第1編第4部において,〈見えざる手に導かれてled by an invisible hand〉という表現を用いた。19世紀になると〈見えざる神のみ手〉と誇張して,独占利潤を含めた無法な私益追求までも正当化しようとする傾向を生じたが,スミスの本意では,私益追求に伴う弊害が市場での主体間競争によって除去され浄化されることを大前提としているのである。…
…産業とは人間が労働によって富を目的意識的に形成する活動なのである。 こうした思想は,A.スミスを頂点とする古典派の経済学者によって,労働を起点として国民の富の形成を説明する,最初の経済学説(〈古典派経済学〉の項参照)として完成されるのだが,そこでは労働は富の源泉となる人間の能動的な,対象に働きかける活動として把握されている。これは労働が自然(神々)に従う生活や(神に定められた)職で生きる生活の一部であったそれまでとは,たいへん大きな逆転であった。…
…17世紀のW.ペティはその《租税貢納論》(1662)において,穀物と銀の生産における剰余生産物の価値の比較から,部分的ではあるが素朴な形で労働が価値の積極的な要因であることを主張した。しかし体系的な形では18世紀後半のA.スミスがはじめてそれを論じたといってよいだろう。スミスはその《国富論》(1776)において,労働こそが人間が自然に対して支払う〈本源的購買貨幣〉であることを明らかにするとともに,労働の量が価値の真実の標準尺度であることを指摘し,それを彼の経済学の体系の基礎に据えた。…
…その後スイス人のビショッフWerner Bishof(1916‐54),オーストリア人のハースErnst Haas(1921‐86)など個性的な写真家がつぎつぎと参加し,《ライフ》《パリ・マッチ》など世界的な雑誌を舞台に大活躍した。またE.スミスも一時参加し,そのころに一大写真叙事詩ともいえる《ピッツバーグ》(1955‐58)の写真を撮っている。その後ダビッドソンBruce Davidson(1933‐ ),ハーバットCharles Hurbuttなどが参加し,マグナムの写真もしだいに楽天的なヒューマニズムを表現するものから,よりパーソナルな視点をもつものに変化する。…
…それは複数の写真の組合せとキャプションとにより,視覚的な解説以上にテーマの内面的な真実へと迫ろうとする試みであった。〈フォト・エッセー〉という新しい方法への意識の確立は,すでに1937年のアイゼンシュテットによる《ワッサー女子大学》という組写真に対する,編集者の〈エッセイストとしてのカメラ〉という解説にも示されており,のちレナード・マッコムの,地方からニューヨークへ来て働きながらファッション・モデルになることを夢みる一人の女性の日常を追った《グウィンド・フィリングの私生活》(1948),フランコ政権下で昔ながらの伝統的な生活をする寒村の人々を描いたユージン・スミスの《スペインの村》(1951),アメリカのアイルランド系移民たちの姿を撮ったドロシア・ラングの《アイリッシュ・カントリー・ピープル》(1955)など,50年代を中心にして数多くの傑作が生まれた。《ライフ》はこれらの写真によって,いわゆるニュース写真では知ることのできない〈日常的な世界の中の隠された真実〉を読者に伝え,フォト・ジャーナリズムの新しいあり方を打ち立てたということができよう。…
…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…
…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…
…18世紀になると,博物学者らによってこのような宇宙開闢(かいびやく)説cosmogonyに磨きがかけられる一方,化石の優れた写生図を伴った体系的分類が進められ,古生物学への下地を作った。18世紀の博物学者らは化石とそれを含む地層の岩質との対応関係をおおまかに知っていたが,W.スミス(1769‐1839)によって生層位学(化石層位学)の方法が確立され,広域の地層対比のための化石の価値が明らかにされた。さらに重要な理論的貢献をしたのはG.キュビエ(1769‐1832)で,彼は比較解剖学を創始して脊椎動物化石を研究した。…
…このステノが観察したものが,地史学における基本的概念の一つといわれる〈地層累重の法則〉に発展する。18世紀になって,現代地質学が確立していくが,その間に貢献のあった2人を挙げるとJ.ハットンとW.スミスである。ハットンは現在みられる運搬・浸食・堆積などの作用は過去の地層を理解するうえに重要な意味があり,それを〈現在は過去の鍵である〉という,後に斉一説と呼ばれる考えで示した。…
…教会政治は各個教会の独立自治にもとづき,政教分離を主張するのが特色。17世紀の初め英国国教会に迫害されてアムステルダムに逃れたJ.スミスによって創立され,アメリカにはピューリタンの一人R.ウィリアムズによって最初の教会がロード・アイランドに設立された(1639)。17世紀にはフロンティアの西漸につれて中西部と南部への伝道に力を注ぎ,現在はアメリカ最大の教派となっている。…
※「スミス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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