島根(県)(読み)しまね

  • 島根

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

本州の西端部、中国地方の北西部に位置し、日本海を隔てて朝鮮半島と対する。東に鳥取県、南に広島県、西は山口県に接する。最北端は日本海の孤島竹島(たけしま)(隠岐(おき)郡隠岐の島町)で、北緯37度10分にある。県域は北東から南西にかけて細長く延び、東西の長さはおよそ160キロメートル、南北は竹島から吉賀(よしか)町までおよそ350キロメートルである。
 出雲(いずも)、石見(いわみ)、隠岐の3国からなる。県東部を占める出雲は、記紀などにこの地を舞台とした多くの神話が記されているように、大和(やまと)朝廷と拮抗(きっこう)する勢力があったことがうかがえる。斐伊川(ひいがわ)などの河川の下流には沖積平野が開け、古くから農業が盛んであった。県西部の石見は山地がちの狭長な地で、河川流域に沖積平野の発達はみられない。8世紀に柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が石見掾(いわみのじょう)として着任したことはよく知られる。大田(おおだ)、浜田、益田(ますだ)の各市は古くから石見の三田とよばれ、それぞれ小地方の中心であった。隠岐は島前(どうぜん)・島後(どうご)とよばれる比較的大きい四つの島と、約180の小島からなる。古来遠流(おんる)の地で、後鳥羽(ごとば)上皇、後醍醐(ごだいご)天皇をはじめ、多くの都人(みやこびと)が流された地である。
 総面積は6708.24平方キロメートルで、日本の総面積の約1.8%を占める。総面積のおよそ79%が林野で、耕地面積は7.3%程度である。重化学工業をはじめとする第二次産業に乏しく、産業経済の高度成長期には大都市や工業地帯への労働力供給源となり、人口は急激に減少した。1955年(昭和30)の92万9000人の最多人口を最後に、各地で過疎問題が生じ、離島問題、老人のひとり暮らし、医師不足問題などを抱えている。なお、第1回国勢調査が行われた1920年(大正9)の人口は約71万4000。2015年(平成27)の人口は69万4352である。
 2002年4月には、8市12郡41町10村で構成されていたが、平成大合併を経て、2018年4月現在、8市5郡10町1村に再編された。県庁所在地は松江市。[野本晃史]

自然


地形
中国地方は中国山地が東西に走り、分水界により山陰と山陽に分かれ、島根県は日本海沿岸北斜面の山陰地方西部を占める。分水界が日本海側に著しく偏在するため県土は狭長である。脊梁(せきりょう)部は標高1000メートル内外であるが、階段状に日本海に向かうにつれて低くなり、海岸近くには丘陵が発達する。その間は北東から南西に走る幾列もの断層線が発達し、各所に盆地状の低地や谷底平野を形成し中心集落を立地させる。中心集落間を結ぶ交通路は険しい峠を越える。断層線に沿いトロイデ型火山の三瓶山(さんべさん)や青野山(あおのやま)、玄武岩質の中海(なかうみ)の大根島(だいこんじま)や宍道湖(しんじこ)の嫁(よめ)ヶ島をみる。中国地方第一の大河江の川(ごうのかわ)は先行性で、上流は広島県域を巡り中国山地を越え江津(ごうつ)市で日本海に注ぐ。出雲には神話伝説で有名な神戸川(かんどがわ)や斐伊川があり、斐伊川は船通山(せんつうざん)を源とし天井川を形成し、下流に沖積平野の出雲平野や松江平野をつくる。宍道湖や中海の水郷景観は美しく、湖脚には県庁所在地、国際文化観光都市松江を発達させる。本土の60キロメートル北方の日本海上にある隠岐諸島は火山島群で、海岸は海食地形やリアス式景観に優れる。[野本晃史]
気候
気候は日本海式気候で冬は日照時間が短いが、県西部は太平洋岸式気候に属し比較的明るい。全般的に四季性に優れ、「山陰」の呼称からする暗さは少ない。気温は年平均13~15℃で、等温線はほぼ海岸線に並行する。年平均降水量(1981~2010年)は県東部の松江市で1787.2ミリメートル、西部の浜田市で1663.8ミリメートル。最多の地区は出雲地方南部(赤名)で2023.8ミリメートル、最少の地区は県最西端の益田市で1581.6ミリメートルである。出雲地方南部と浜田市背後の中国山地にはわが国南限の本格的スキー場がある。冬は季節風が強く、出雲平野には風を防ぐための築地(ついじ)松に囲まれた集落が分布する。稲はで(稲架(はさ))も、風の影響により架け方に地域性がみられ、とくに風の強い県中部には「よずくはで」など特色のあるものが残る。山地は赤松、黒松、広葉樹が混交し、日本海沿いは瀬戸内海のような夕凪(ゆうなぎ)現象は少ない。台風などの災害は比較的少ない地域となっているが、1983年(昭和58)7月、県西部を襲った集中豪雨は、土砂崩れなどで100人を超える死者を出すなど未曽有(みぞう)の被害をもたらした。
 自然公園は、海岸景観に優れた隠岐諸島、島根半島、大山(だいせん)火山群の大山・蒜山(ひるぜん)、トロイデ火山の三瓶山からなる大山隠岐国立公園、県東部の鳥取・広島県境の中国山地の一部を占める比婆道後帝釈(ひばどうごたいしゃく)国定公園、県西部の広島・山口県境の中国山地に広がる西中国山地国定公園のほか、県立自然公園に、浜田海岸、青野山、江川水系、鬼(おに)の舌震(したぶるい)、清水月山(きよみずがっさん)、宍道湖北山、立久恵峡(たちくえきょう)、蟠竜湖(ばんりゅうこ)、竜頭八重滝(りゅうずやえだき)、千丈渓(せんじょうけい)、断魚渓(だんぎょけい)観音滝の11公園がある。[野本晃史]

歴史


先史・古代
島根県は出雲国を中心に古くから開けた地である。素戔嗚尊(すさのおのみこと)や大国主命(おおくにぬしのみこと)らを中心に多くの神話や伝説を生んだ。大陸との交流の盛んな地域で、中国山地の砂鉄を利用したたたら製鉄も古くからあり、日本海沿岸一帯や近畿・中部地方内陸にまで勢力範囲を広げていたが、しだいに大和朝廷の支配下に入り、国譲りをしたとされている。
 旧石器時代に属すると思われる発掘品は安来(やすぎ)市や隠岐で発見されている。縄文前期の遺跡は、松江市鹿島(かしま)町の佐太講武貝塚(さだこうぶかいづか)(国の史跡)、出雲(いずも)市大社(たいしゃ)町菱根(ひしね)など日本海沿岸部に多く、佐太講武貝塚からは漁網に用いたと思われる石錘(せきすい)が出土している。縄文中期以降は仁多(にた)郡奥出雲町竜ノ駒(りゅうのこま)など山間部にも遺跡が発見されている。島根半島には洞穴群が密集し、サルガ鼻洞窟(どうくつ)住居跡、権現山(ごんげんやま)洞窟住居跡は国の史跡に指定されている。山陰地方では隠岐の島後でしか産出しない黒曜石(こくようせき)が各地で出土しているが、これは隠岐から本土に運ばれて活用されたものであろう。弥生(やよい)遺跡は100か所以上が発掘されており、水稲耕作が進展している。1984年(昭和59)から1985年にかけて、斐川(ひかわ)町荒神谷(こうじんだに)(現、出雲市)から多数の銅剣、銅鐸(どうたく)が、1996年(平成8)には加茂町岩倉(現、雲南(うんなん)市)から多くの銅鐸が発掘された。古墳時代には地方豪族の存在がこの地域でも明らかになる。古墳前期では安来市の荒島古墳群(国の史跡)など出雲地方にしか分布していない。中期以降になると、松江市の山代二子塚(やましろふたごづか)、大庭鶏塚(おおばにわとりづか)、出雲市の上塩冶築山古墳(かみえんやつきやまこふん)、今市大念寺古墳(だいねんじこふん)などのほか、石見や隠岐でも周布古墳(すふこふん)(浜田市)、スクモ塚古墳(益田市)、郡山古墳(こおりやまこふん)(海士(あま)町)などがみられる。全国でも数少ない方墳と前方後方墳などの方形墳が出雲の中部と東部に集中分布し、また、石棺式石室や後期古墳の多くが横穴式であることは九州地方の影響の強さを示すとされる。律令(りつりょう)制国家の成立する時期になると、出雲地方でも『出雲国風土記(ふどき)』(733)が編纂(へんさん)された。地勢や交通路や戸口(ここう)など8世紀の古代出雲の実態を物語る。741年(天平13)には全国に国分寺と国分尼寺創建の詔(みことのり)が発せられ、出雲、石見、隠岐でも建立された。出雲国分寺跡(松江市)、石見国分寺跡(浜田市)、隠岐国分寺境内(隠岐の島町)としてそれぞれ国の史跡に指定されている。[野本晃史]
中世
鎌倉時代、出雲、隠岐の守護を兼任したのは近江(おうみ)(滋賀県)出身の佐々木氏で、のち塩冶(えんや)姓を称した。その後、京極(きょうごく)氏、山名(やまな)氏、京極氏が守護となった。石見守護は確認できないが、石見国西部では益田氏が勢力を振るった。その後、豪族間の抗争があったが、1364年(正平19・貞治3)大内氏が石見守護となり、一時山名氏支配となるが、1481年(文明13)ふたたび大内氏が守護となった。出雲守護京極氏の守護代尼子氏(あまごうじ)は応仁(おうにん)の乱(1467~1477)に富田月山城(とだがっさんじょう)(安来(やすぎ)市広瀬町)を拠点とし、出雲のみならず石見、播磨(はりま)までを勢力下に置いた。1566年(永禄9)尼子氏は西方の毛利(もうり)氏に降(くだ)り、以後、出雲、石見、隠岐3国は毛利氏の支配下となった。なお、中世の石見国で重要な地点は石見銀山で、70年間に9回も支配者が変転するほどに銀山争奪は激しかった。1533年(天文2)に博多(はかた)の神谷寿禎(かみやじゅてい)により発見され、その後、大内氏全盛期に灰吹法(はいふきほう)による新しい精錬技術を導入。1600年(慶長5)以降徳川氏支配となり、大森代官所が置かれた。最盛時には年間数百貫を産出した。[野本晃史]
近世
関ヶ原の戦いで毛利氏は敗れ、これにかわって堀尾吉晴(ほりおよしはる)が出雲・隠岐の太守として入国。1611年(慶長16)に松江城を築いて富田月山城から松江城に移った。堀尾氏絶家後1634年(寛永11)京極忠高(きょうごくただたか)が出雲・隠岐24万石を領有したが病没。1638年(寛永15)信州松本から松平直政(まつだいらなおまさ)が入国、以後230年間、明治維新まで松平氏が松江藩政をつかさどった。松平氏の出雲入国時の石高(こくだか)は出雲国18万6000石、隠岐国1万4000石であるが、1666年(寛文6)2代藩主綱隆(つなたか)は弟たちに広瀬藩3万石と母里藩(もりはん)1万石を分封した。隠岐国は松江藩の預かり地で明治維新まで続く。石見は大森代官所支配のほか、1601年(慶長6)に坂崎氏津和野藩3万石、1619年(元和5)に古田氏浜田藩5万5000石が成立した。のち津和野藩は亀井氏、浜田藩は松平氏、本多氏、松平氏と交替して明治維新に至る。各藩は地域開発や産業振興に力を入れ、松江藩は灌漑(かんがい)や治水工事を進め、砂鉄、木蝋(もくろう)用のハゼ栽培、薬用ニンジンの栽培、木棉(もめん)などの生産を図った。出雲の山間部では、たたら製鉄の鉄師が藩の保護を受けて大地主となった。浜田藩は石見和紙の生産や造林、津和野藩はイグサ栽培による石見畳表の生産とコウゾ、ミツマタ栽培による和紙製造を盛んにした。享保の飢饉(きょうほうのききん)(1731)にサツマイモの栽培を奨励した大森代官、井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は芋(いも)代官として有名。松江藩7代藩主松平治郷(まつだいらはるさと)(不昧(ふまい)公)は茶道などの文化興隆に意を注いだ。[野本晃史]
近・現代
1868年(慶応4)3月武装蜂起(ぶそうほうき)による隠岐騒動を経て、1871年(明治4)廃藩置県により出雲、隠岐は島根県に、石見は浜田県となり、隠岐はその後鳥取県に編入。1876年島根県は浜田・鳥取県を包含。1881年鳥取県を分離、隠岐は島根県の管轄に入った。
 明治以後、鉄道は太平洋沿岸を中心に敷設され、また近代産業も東京、大阪を中核として振興し、地理的に辺地となった島根県は近代化の波に取り残され、農業県や水産県として後進地となっていく。近世海運で栄えた隠岐は離島に転落する。島根県の鉄道建設は明治30年代に入ってようやく活発化し、1908年(明治41)安来―松江間が開通、1912年には大社―京都間が全通し、県東部の経済や文化に影響を与えた。県西部では、1923年(大正12)石見益田駅が開業。山陰と山陽地方を連絡する木次線(きすきせん)全通は昭和に入ってからである。とはいえ、地域経済の近代化は1895年の殖産一〇年計画から進展した。近代的工業は製糸業が豊富な資源や労働力を背景に発展した。農林水産県として米作、麦作、畜産、綿・紙の生産、水産養殖の増産が計られるほか、伝統的な地場産業も保護した。第二次世界大戦後は人口増加傾向をみたが、産業経済の高度成長以後、県外の大都市や工業地帯に労働力が流れ過疎県となった。道路整備や過疎対策を進め、住みよい島根を目ざして現在施策が進められている。[野本晃史]

産業

島根県は辺地にあり、太平洋ベルト地帯からも大きく隔たり、また近代産業に利用される資源にも乏しいことなどから経済発展は立ち後れ、財政規模も小さい。古くはたたら製鉄や銀採掘、木炭生産が活発であったが、現在、地場産業が細々と残存するにすぎない。近代工業としては、たたら製鉄の伝統をもつ安来市の日立金属(株)が特殊鋼を生産するほかは、パルプ、繊維、木工の工場が操業する程度である。過疎対策として辺地町村に煙の出ない小工場が誘致された。就業者の平均年齢が高く、老齢者と女性の就業率が高い。石見と隠岐は出稼ぎ者が多い。県では、研究開発や市場開発などを行う産業技術センターや、しまね産業振興財団を設置して産業活性化に努めている。また、観光立県としての政策を進めるため観光産業発展に力を入れている。[野本晃史]
農業
古くからの農業県であるが、近年停滞ぎみで、専業農家率はしだいに低くなり、第2種兼業農家が増加している。また過疎化、高齢化が進行し、農業生産力の低下がみられる。耕地のおよそ80%は水田で、湿田が多く収穫も全国的にみて低い。近代に入ってからは米作と和牛飼育が進められ、和牛は仁多牛(にたぎゅう)として有名。米は仁多米(にたまい)がその品質を誇り京阪神に移出された。水田は出雲地方に多く、飯梨(いいなし)平野、松江平野、出雲平野で土地改良が進んでいる。出雲平野は米の生産が県内でもっとも多く、野菜、イチゴ、チューリップ球根の栽培なども行われる。かつて出雲地方の湿田でみられた高畦(たかうね)式耕作は、昭和30年代には乾田化され、隠岐の牧畑(まきはた)も消滅した。中国山地の高冷地ではキャベツなどの高冷地野菜が栽培され、広島県境の三井野原(みいのはら)や邑智(おおち)郡はその主産地。とくに邑智郡は広島市との交通の便がよく発展している。海岸砂丘地域の出雲市大社町、浜田市では島根ブドウやタバコ栽培が盛ん。とくにブドウは種なしとして山梨ブドウの端境期に京阪神や北九州に出荷される。丘陵地では安来市のナシ、タケノコ、大田市のアマナツミカンが知られる。近年の米の減反政策で水田をメロン栽培や魚貝養殖に利用する所もある。松江市近郊の農業地では津田カブや黒田セリの生産がみられ特産化している。中海、宍道湖沿岸を干拓して農牧地造成と淡水化を図ろうとする中海・宍道湖淡水化事業が1963年(昭和38)に開始され、水質汚濁など環境に与える影響が問題となって1988年淡水化延期が決まった。その後も中海の本庄水域の干拓が予定されたが、反対の声があがっていたため、2000年(平成12)8月中止の方針が決定され、2002年12月には中海・宍道湖の淡水化は中止された。[野本晃史]
林業
林野面積は県総面積の約79%で、私有林が約94%を占め、広葉樹を主とする林相が多い。古くはたたら製鉄用の燃料として伐採された薪炭(しんたん)は、明治以降、島根木炭として京阪神で評価を得てきた。赤松は炭坑の坑木として北九州に鉄道で出荷された。家庭用燃料の変化で木炭は年々減産している。第二次世界大戦後、赤松が活用化され、全国の製紙パルプ工場に争奪的に搬出された。広葉樹がチップの形でパルプ用材化され、山間部にチップ工場の増加をみた。第二次世界大戦中と戦後の乱伐により水害が多発し、豪雨と豪雪をきっかけに林業者の離村がみられた。林産物には、雲南(うんなん)(出雲南部)のシイタケ、石見地方のクリ園などがあり、県西部の山間地区の益田市匹見(ひきみ)町・美都(みと)町、鹿足(かのあし)郡津和野町・吉賀(よしか)町はワサビの産地として知られ、全国でも有数の生産がある。また広島市に近い地域では観光林業の試みがある。[野本晃史]
水産業
島根県沖、とくに隠岐諸島近海は暖流と寒流が合流し、大陸棚の発達もあって好漁場となってきた。リアス式海岸線が長く、漁業集落の立地が多い。近世は煎海鼠(いりこ)、干しあわびなど俵物(たわらもの)の乾製品を生産し中国にも輸出した。片江港(松江市美保関(みほのせき)町)は機船底引網業発生の地といわれ、明治末期から大正期にかけて発展し、東シナ海などにも出漁し、片江船団の名で知られた。1952年(昭和27)李承晩(りしょうばん)ラインの設定、その後は周辺国の出漁も加わっての乱獲、中国などとの国際協定による水域規制も影響して、とる漁業からつくる漁業への転換を強いられている。水産加工は乾製品が減少し、缶詰や練り製品が多く、東南アジアや北アメリカに輸出される。とくに浜田市や松江市東出雲町揖屋(いや)のかまぼこ製造は有名。かつては鮮魚を入れたブリキ缶を担いで山間地にまで売り歩いたカンカン行商があったが、トラック行商に変わりつつある。栽培漁業は隠岐での真珠養殖、島根半島でのワカメ養殖などがある。[野本晃史]
鉱業
出雲地方南部と石見地方の中国山地寄りの高原と盆地は花崗岩(かこうがん)の風化地域で、古くから砂鉄の産地、たたら製鉄用に多量に採取され、採掘による地形の変化が著しい。かつては日本有数の石見銀山があったが、近年の鉱産物の産出量は乏しく、全国一の石膏(せっこう)産額をみせた出雲市の鰐淵鉱山(わにぶちこうざん)も1978年経営不振で閉山。雲南市大東町のモリブデン鉱山も一時は全国の70%を産出したが貿易自由化により閉山。津和野町の笹ヶ谷(ささがだに)は古くからの銅山で、閉山後も鉱害対策がとられている。江津(ごうつ)市都野津(つのづ)は石州瓦(せきしゅうがわら)の原土を産する。[野本晃史]
工業
工業のほとんどは中小工場で、農閑期の余剰労働力に依存するものが多い。安来市の特殊鋼、出雲市の繊維、江津市のパルプ、益田市の紡績や木工、松江市の旧東出雲町地区の農機具工業が規模としては大きい程度。出雲市には複数の工業団地が造成され、コンピュータ、機械などの工場が進出している。外材の荷揚げも行われる浜田商港の近くには木工団地が造成され、中海臨海地域は新産業都市の指定を受け、松江市馬潟(まかた)に鉄工団地が建設されたが、全般的には進展がみられない。
 在来工業には江津・浜田両市の石州瓦、出雲市と江の川流域の和紙、奥出雲町の雲州(うんしゅう)そろばん、益田市の家具と仏具、松江市玉湯(たまゆ)町の布志名焼(ふじなやき)やめのう細工、出雲市の出西焼(しゅっさいやき)、松江市宍道町の石灯籠(いしどうろう)、松江市の和菓子や八雲(やくも)塗、安来市広瀬町の絣(かすり)織物や線香、浜田市長浜の神楽(かぐら)面づくり、浜田や揖屋のかまぼこなどがあるが、技術後継者不足が問題とされる。このうち、雲州そろばん、石州和紙、石見焼、出雲石灯籠が経済産業大臣指定伝統工芸品となっている。江津市には県石央(せきおう)地域地場産業振興センターが建設された。県の所得が全国水準に及ばない要因は工業発展の後進性にあるとされ、煙や公害のない工場誘致に努めている。[野本晃史]
商業
県内消費物資の大半は他府県からの移入に依存している。大阪商圏内に入るが、近年広島からの移入が増えつつある。2004年では、松江市は全県の商品販売額の42%を占めるが、地方中心都市も流通機構の合理化が進展している。辺地町村にもスーパーマーケットがつくられ、買い物行動と商圏に微変動がみられる。松江や浜田駅前の再開発も進んでいる。県内に落ちる観光消費額は1008億円で、農業産出額の645億円を大きく上まわっているが、1973年のオイル・ショック以後、観光客減少傾向がみられる。[野本晃史]
開発
美しい自然と温かい人情に囲まれて住みよい地域とされるが、文化度や健康、医療の面からは問題が多い。交通網や国土保全からみても整備が不十分であり、長期計画を策定し「活力ある住みよい島根」を目ざして施策が進められている。1982年の「くにびき国体」開催によって全県の諸施設を整備新設し、過疎脱出のきっかけとした。その後、バブル経済の崩壊、低経済成長のなかで、新たな「産業振興プログラム」が進められている。[野本晃史]
交通
古代における五畿(ごき)七道の山陰道を幹線とし、中国山地を越えて陰陽を結ぶルートが主要な路線で、現在の道路、鉄道はほぼこれを踏襲している。国道9号は山陰道よりも海岸側を走る。山陽との連絡には、松江市から赤名(あかな)峠を越え広島市に至る54号、浜田市と広島県を結ぶ186号、益田市と山口県を結ぶ187号および191号などがある。中国自動車道は県南西端部を通り、六日市インターチェンジが設置された。県内の高速道路は、浜田自動車道(浜田―広島県千代田)、山陰自動車道(松江玉造(まつえたまつくり)―出雲、東出雲―鳥取県米子西、江津―浜田)、松江自動車道(宍道(しんじ)―三刀屋木次(みとやきすき))などが開通している。道路の舗装率は全国最低を示した時期もあるが、ほぼ整備された。鉄道はJRに山陰本線、木次線、山口線、その他の私鉄に一畑(いちばた)電車がある。かつて出雲市駅―大社駅間にはJR大社線が通じていたが、経営難により1990年(平成2)に全線廃止。また広島県(三次(みよし)市)と島根県(江津市)はJR三江(さんこう)線で結ばれていたが、沿線の過疎化等による利用者減少のため、2018年(平成30)に廃線となった。海上交通は七類(しちるい)港(松江市美保関町)と隠岐諸島を結ぶ航路があり、フェリーと高速艇が就航する。空港には出雲空港(出雲市)と隠岐空港(隠岐の島町)そして萩・石見空港(益田市)があり、出雲は東京、大阪、札幌、福岡、隠岐、名古屋、静岡と連絡し、隠岐は大阪、出雲とを結び、萩・石見は大阪、東京と結んでいる。[野本晃史]

社会・文化


教育文化
出雲地方は古代出雲文化を発展させた地域で、いまでも古代からの伝統が守られていることが少なくない。『出雲国風土記』が完本で残存することは、文化が温存されはぐくまれる風土であるといえる。石見地方は古代に柿本人麻呂、中世に雪舟(せっしゅう)の活躍する舞台となり、石見文化はこれらの人の影響するところが大きい。隠岐は流人(るにん)の島であるが、後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)である黒木御所が置かれ、都の文化が残り、ひなびた自然と純朴といわれる人情が観光客に自然のよさやふるさとへの思いをおこさせる。城下町松江は宍道湖のほとりにあり、松江城、武家屋敷、小泉八雲(こいずみやくも)(ラフカディオ・ハーン)旧宅などを残している。
 地方新聞に『山陰中央新報』がある。1882年(明治15)に発刊された『山陰新聞』の後身で、発行部数18万5000部(2017)。放送はNHKをはじめ、県域をサービス・エリアとする山陰放送(テレビとラジオ)や山陰中央テレビなどがある。県域が狭長なため、統一性、等質性には欠けるところがあるが、地域性豊かであるといえる。県域をいくつかに分けて広域行政が進められており、中心都市には県民会館や文化会館、辺地には山村センターなどのほか老人の福祉施設の充実が急がれている。松江には県立美術館、地方には足立(あだち)美術館(安来市)をはじめとする展示館もある。
 高等教育機関には、旧制松江高校と島根師範学校・青年師範学校を母体とする島根大学(1949年発足)がある。1975年(昭和50)には国立の島根医科大学が設立されたが、2003年(平成15)、島根大学と統合した。県立大学と同大学短期大学があるが(2018)、出雲地方に偏在する。[野本晃史]
生活文化
出雲、石見、隠岐それぞれに歩んできた歴史が異なり、地域性が顕著である。住民気質も、控え目で消極的ともいわれる出雲人に対し、石見人は山陽地方や北九州との交流が活発で開放的で積極的行動をとる場合が多いといわれている。隠岐は沿岸海運のルート上にあったので、佐渡、北陸、鳥取、山口、北九州との接触が多かった。方言も出雲のずうずう弁に対し、石見地方は中国地方西部の型に入る。江の川(ごうのかわ)水系が方言分布に果たした役割も大きい。隠岐はことばの初めに強いアクセントのつく傾向がある。景観にもそれぞれ特色があり、冬の曇天を写したかのごとき出雲の黒瓦の集落、石見の赤瓦、隠岐は石置き屋根をみる。稲はでの本数も地域で違いがある。近年主として農機具を保存する民俗資料館が地域文化の証(あかし)として建設されている。漁業民具は隠岐の隠岐の島町などに保存されている。
 旧暦10月は神無月(かんなづき)と称するが、出雲では神在月(かみありづき)といい、全国の神々が出雲大社に参集するとして神在祭が行われる。出雲大社ではこのほか70回もの神事が執り行われる。また出雲大社周辺にも「お忌(いみ)まつり」などがある。美保神社(松江市美保関町)には国譲り神話にちなむ青柴垣(あおふしがき)神事・諸手船(もろたぶね)神事があり、安来市には月の輪神事がある。神楽(かぐら)は現在でも各地で演じられ、出雲神楽、石見神楽、隠岐神楽と名づけられているが、本来は出雲の佐太神社(さだじんじゃ)の神事を中心にしておこった神楽が周辺に広まったものである。佐陀神能(さだしんのう)、石見に伝わる大元舞(おおもとまい)は国の重要無形民俗文化財に、隠岐島後の久見神楽(くみかぐら)、出雲の槻屋神楽(つきのやかぐら)は選択無形民俗文化財にされている。隠岐では隠岐の島町の国分寺蓮華会舞(れんげえまい)(国の重要無形民俗文化財)が地方的特色の濃いものとして知られ、西ノ島町の美田八幡宮(みたはちまんぐう)の田楽(でんがく)、隠岐の島町などの牛突きの習俗は国の選択無形民俗文化財となっている。石見の津和野町弥栄神社(やさかじんじゃ)の鷺舞(さぎまい)は、京都の祇園会(ぎおんえ)で演じられていたものを大内氏が移したものといい、国の重要無形民俗文化財に指定されている。益田市の「益田のあやつり人形」は地方色を伝え、国の選択無形民俗文化財にされている。出雲市平田の一式飾(いっしきかざり)は陶器・金物など1種類だけの材料で人形をつくって店頭に飾るもので、江戸時代に始まるという。城下町松江には初冬に鼕行列(どうぎょうれつ)がみられ、町内会単位に狭い鉤(かぎ)型道路を練り歩く。12年に一度の松江ホーランエンヤは大橋川を渡御する神事。近年、花田植(はなたうえ)の行事が復活する傾向をみせる。田植歌には石見と出雲の2系統がある。民謡も多く、全国的に有名な「安来節」は、どじょうすくい踊りを伴ってコミカルに演じられ、安来市では安来節名人大会が開かれる。松江市美保関町には「関の五本松」、隠岐には「しげさ節」や「どっさり節」が残る。[野本晃史]
文化財
出雲市の加茂岩倉遺跡(国史跡)から出土した銅鐸39口、雲南市の国史跡荒神谷遺跡の出土品はともに国宝。松江市南郊の岡田山古墳、山代二子塚(やましろふたごづか)古墳など古墳が点在する地に「八雲(やくも)立つ風土記の丘」が建設され、松江市玉湯町には、古代の出雲玉作(たまつくり)跡(国史跡)が保存されている。出雲大社、神魂(かもす)神社、熊野(くまの)神社、佐太神社など古い歴史や伝説をしのばせる神社が多い。出雲大社本殿は大社造で国宝であり、神殿木造建築物では最大規模で、八重垣(やえがき)神社(松江市)とともに参拝客が多い。出雲大社には鎌倉時代初期の秋野鹿蒔絵手箱(あきのしかまきえてばこ)(国宝)や、銘光忠(みつただ)の太刀(たち)、赤糸威肩白鎧(あかいとおどしかたじろのよろい)(重文)などの宝物も多い。日御碕(ひのみさき)神社(出雲市大社町)の鎌倉末期の白糸威鎧は国宝に指定されている。国の重要文化財に指定されている建造物のおもなものに、松江市の神魂神社の大社造の本殿(国宝)、松江城の天守(国宝)、松江7代藩主松平不昧公ゆかりの菅田庵(かんでんあん)、益田市の染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)、万福寺本堂、安来市の清水寺(きよみずでら)本堂、雲樹寺(うんじゅじ)四脚門、日御碕神社の本殿などがある。また、2004年には国宝の本殿以外の、楼門などの出雲大社建造物群も重要文化財に指定された。民家としては松江市宍道町の木幡(こわた)家住宅(八雲本陣)、雲南市の堀江家住宅、吉賀町の旧道面(どうめん)家住宅が国の重要文化財に指定されている。なお、雪舟が作庭したとされる益田市の医光寺庭園、万福寺庭園はともに国の史跡・名勝に指定されている。「たたら製鉄用具」、中海で用いられた「そりこ」(刳舟(くりぶね))、「東比田(ひがしひだ)の山村生産用具」「菅谷(すがや)たたら山内」「奥飯石(おくいいし)および周辺地域の積雪期用具」「隠岐島後の生産用具」などは国指定有形民俗文化財としてそれぞれ保存されている。[野本晃史]
伝説
出雲は神話から始まる。出雲にきた「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」は、斐伊(ひい)川の上流に住む八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して人々の難を救い、人身御供(ひとみごくう)の奇稲田(くしなだ)姫を妻にしたという。その姫を祀(まつ)ったのが稲田神社(奥出雲町)である。斐伊川上流は良質の砂鉄の産地で、古来、鉄穴(かんな)流しにより砂鉄と砂をより分けてきたが、流された土砂が多くて下流の耕地に被害を与え、そのためたたら職(鍛冶(かじ)職人)と農民の間に抗争が絶えなかった。それが神話に象徴されたという説もある。美保神社のある島根半島の東部と、出雲大社のある西の部分を、大山(だいせん)と三瓶(さんべ)山に綱をかけて引き寄せたという『出雲国風土記』にある「国引き」の神話、美保神社の諸手船(もろたぶね)や青柴垣(あおふしがき)の神事に残る「国譲り」の神話には、古代人の雄渾(ゆうこん)な創造力がうかがわれる。大和(やまと)の勢力に国譲りを迫られ、大国主命(おおくにぬしのみこと)が美保へ使いをやった神話、その子、事代主命(ことしろぬしのみこと)が国譲りを承諾し船を覆して青柴垣の中に隠れたという神話を神事に再現していまも行われている。隠岐は高貴な人々をはじめとする流刑の島であったが、流人と情に厚い島民との間にいくつか温かい伝説が生まれた。「小野篁(おののたかむら)と阿古那(あこな)」の悲恋などもその一つである。「弁慶伝説」が出雲に集約しているのも興味深い。母親が紀州田辺(たなべ)の生まれであることは同じであるが、出雲に良縁を得てこの地で弁慶を身ごもるとある。産湯(うぶゆ)の井戸、弁慶島、弁慶の立て石など、その跡と伝える所が多い。石見の馬路(まじ)(大田市仁摩(にま)町)の「琴ヶ浜(ことがはま)」は鳴り砂で知られる。平家滅亡の年の春、落人(おちゅうど)の姫を乗せた小舟が漂着した。姫は琴をよく弾じたが、ほどなく病で死んだ。その日から浜の砂が歩くと鳴るようになったという。安来市の月山城には悲運の武将「山中鹿介(やまなかしかのすけ)」の伝説がある。津和野町は昔、火事が多いことで知られているが、これを「仁右衛門火事(にえもんかじ)」といって石見和紙にまつわる悲しい伝説を伝えている。[武田静澄]
『『新修島根県史』10巻(1966・島根県) ▽NHK松江放送局編『島根の百年』(1968・松江報光社) ▽『島根百年』(1968・毎日新聞社) ▽内藤正中著『島根県の歴史』(1969・山川出版社) ▽『角川日本地名大辞典 島根県』(1979・角川書店) ▽藤岡大拙他著『郷土史事典 島根県』(1981・昌平社) ▽『島根県大百科事典』上下(1982・山陰中央新報社) ▽山本清監修『日本歴史地名大系33 島根県の地名』(1995・平凡社) ▽『新版島根県の歴史散歩』(1995・山川出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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