デジタル大辞泉 「鉄」の意味・読み・例文・類語
てつ【鉄】
2 かたくて強いもののたとえ。「
3 「鉄道」の略。「地下
4 鉄道ファンをいう俗称。「乗り
[類語]
翻訳|iron
周期表第Ⅷ族第4周期に属する鉄属元素の一つ。鉄は前5000年ころから使用されており,記号Feは鉄を意味するラテン語ferrumにもとづく,しかし,この語の由来は明らかでない。また鉄は地殻中では,酸素,ケイ素,アルミニウムの次に多量に存在する元素で,化合物として岩石,鉱物,土壌などの中に広く分布している。遊離して産することはまれであるが,隕石はしばしば多量の鉄を含み,また地球の内部はおもに鉄から成るといわれている。おもな鉄鉱物は赤鉄鉱α-Fe2O3,磁鉄鉱Fe3O4,褐鉄鉱Fe2O3・nH2O,リョウ鉄鉱FeCO3,黄鉄鉱FeS2などであり,砂鉄は主として磁鉄鉱の微粒子から成る。
純鉄は白色の光沢ある金属で,延性,展性に富む。酸素と化合しやすく,微粉鉄は発火性である。塊状鉄は乾燥空気中では常温で安定であるが,高温では燃焼して酸化物となる。湿った空気中では容易に反応してさび(主成分はFeO(OH)およびFe3O4)を生ずる。塩素,硫黄,リンと激しく反応する。他のハロゲンとは直接結合し,ホウ素,炭素,ケイ素などとは高温で化合する。窒素とは直接化合しない。非酸化性の希酸に溶け,空気がなければ鉄(Ⅱ)塩を生ずる。空気のある場合には鉄(Ⅲ)塩も生成する。濃硝酸のような強酸化性の酸では不働態をつくり不溶となる。水蒸気と加熱するとFe3O4を生ずるが,空気を含まない水や希アルカリには常温ではほとんど侵されない。濃アルカリには空気があると加熱により溶ける。鉄(Ⅱ)塩の単塩は水に溶けて[Fe(H2O)6]2⁺を生じ,うすい緑色を呈するが,一般に空気で酸化されやすい。鉄(Ⅲ)の単塩は水に溶けるとほとんど無色の[Fe(H2O)6]3⁺を生ずるが,加水分解して褐色となりやすい。放射性同位体のうち55Feと59Feはトレーサーとして有用である。また57Feは14.4keVに励起状態をもち,メスバウアー効果の測定に最も適している。α(910℃以下),γ(910~1390℃),δ(1390℃以上)の三つの同素体がある。α形とδ形はともに体心立方格子,γ形は面心立方格子。α形は強磁性で768℃(キュリー温度)で常磁性となり,768~910℃の領域はβ形と呼ばれたこともある。γ形,δ形も常磁性。原子半径1.24Å,イオン半径Fe2⁺0.74Å(六配位),Fe3⁺0.64Å(六配位),比熱0.11cal/deg・g(0~100℃),線膨張率1.4×10⁻5/deg(0~900℃),融解熱64cal/g,モース硬度4.5,比抵抗9.8×10⁻6Ω・cm。標準電極電位(Fe2⁺/Fe)-0.44V。可視部および紫外部に多数の発光スペクトル線を与えるので波長標準として用いられる。
酸化鉄を含む鉱石はそのまま,褐鉄鉱,リョウ鉄鉱,黄鉄鉱は空気中で加熱して酸化物にしてから,高炉中でコークスを用いて還元して銑鉄をつくる。銑鉄はかなり不純物を含むので平炉,転炉,電気炉などで製錬して鋼とする。純鉄を得ためるには,酸化鉄(Ⅲ)あるいは水酸化鉄(Ⅲ)の還元,鉄(Ⅱ)塩溶液の電解,鉄カルボニルの熱分解等の方法がある。
鉄は建築,土木,運輸等における建造物の資材をはじめとして,人間生活の多くの分野における有用な機械,器具,装置,道具等の機材,材料としてきわめて広く用いられている。化学に直接関連した用途としては鉄化合物製造の原料,有機化合物の還元,アンモニアや石油合成における触媒等がある。
→製鉄・製鋼 →鋼(はがね)
執筆者:近藤 幸夫
鉄は生体に必須な微量元素の一つで,必須微量元素中では生体内で最も需要量が高い。原子価を2価と3価の間で変換することにより電子の授受を行い,酸化還元反応に関与する。一般にはイオンとしてよりも,化合物としてタンパク質等に結合している場合が多い。鉄を含むタンパク質は総称して鉄タンパク質と呼ばれるが,ヘム基(ポルフィリン環に鉄が配位したもの)をもつものと,ヘム基をもたず,SH基を介して鉄と結合しているものの2種がある。前者はヘムタンパク質と呼ばれ,動物赤血球中のヘモグロビン,筋肉中のミオグロビンなどがその例で,おのおの4分子,1分子のヘム基をもち,酸素分子の運搬,貯蔵の役割をしている。後者には,光合成の際,電子伝達の役割を果たすフェレドキシンなどがあるが,総称して鉄硫黄タンパク質と呼ばれる。また,イオンとしての鉄は,ある種の酵素(アコニターゼなど)の活性化に必要な因子としても働く。
執筆者:柳田 充弘
鉄の利用の始まりについてこれまで一般に考えられてきたことは,最初の鉄器が隕鉄を加工したものであったということ,製鉄の開始が青銅器に比べて遅かったということである。その理由の一つとして,鉄鉱石から鉄を取り出すために必要な高熱(融点約1540℃)の獲得が古代人にとり長い間技術的に困難であったことが挙げられてきた。しかし,《鉄の歴史》全5巻(1884-1903)の大著で知られ,みずから製鉄家でもあったベックLudwig Beck(1841-1918)は,鉄の還元が銅の溶融(1084.5℃)よりも低い温度で始まることを指摘し,製鉄の起源をはるか古い時期に想定し,青銅器時代に先行すると主張した。ベックが説いたように,確かに鉄は低い温度で還元するけれども,それは直ちに製鉄の容易なことを証しない。低温還元した鉄は海綿状をなしていて,そのままでは使いものにならない。鉄鉱石から分離した鉄を器具製作の素材にまで仕上げる鍛錬加工の過程に,実は複合的で高度な技術が要求されていたのである。しかし,人造鉄の存在が従来考えられていたより古い時代にさかのぼることは,その後ますます確かめられるようになった。
現在,初期の鉄器使用に関する問題はどのように取り扱われているであろうか。まず,考古学的資料に基づいて最古の諸例を調べると,メソポタミアでは前5000年ころに年代づけられるサーマッラー出土の鉄器(長さ約4.3cm,用途不明)があり,人造鉄とみなされている。これに対してイランのテペ・シアルク遺跡第Ⅱ期(前4600ころ-前4100ころ)の小さな鉄球研磨器,前3400ころ-前3100年ころのエジプトのゲルゼ出土のビーズとアルマント出土の輪は隕鉄である。ただし,現存の資料だけでは人造鉄と隕鉄のどちらの利用が先行したか,またその年代について判断を下すことは難しい。前3千年紀に入ると,メソポタミア,アナトリア,エジプトに出土地の分布が広がるが,遺跡は散在しており,出土点数も少ない。なお,ウルのジッグラト付近には溶鉱遺跡が発見されている。出土した遺物,鉄さびについて分析結果の示されているものによると,人造鉄と隕鉄が相半ばしている。初期の鉄生産については,金あるいは銅の精錬の副産物として始まったという説明がなされているが,なお仮説にとどまる。当時,鉄はまれで貴重品の扱いを受け,短剣,職杖頭部macehead,飾板,護符,ピンなど,儀礼用具か権力の象徴,装飾品にしか用いられていなかった。前2千年紀になると,鉄器は西アジア・東地中海地域に出土地が広がり,量的に増加するとともに形態や機能も多様になり,一部に釘,針,錐尖,鏃などの実用品が現れてきた。また,後述のように,交易や贈与の対象にもされるようになった。
しかし,鉄の生産はまだきわめて限られ,隕鉄の利用も少なくなく,鉄は相変わらず貴重品であった。前20~前19世紀のアッシリアとアナトリア東部の交易を伝える〈キュルテペ文書〉に数種の鉄の名称がみられるが,そのうちの一つであるアムートゥムamūtumは金の8倍以上の価値を有していた。アナトリア東部は,アルメニアとともにしばしば製鉄の起源地に仮定されてきた地域である。前3千年紀,アラジャ・ヒュユクのハッティ人の王墓(前2500ころ-前2400ころ)から出土した鉄剣は,人造鉄による大型の器具として最古のものである。前2千年紀にアナトリアに入ってきたヒッタイト人は,〈鉄〉を意味するハッティ語ハパルキhapalkiとともに土着の優れた製鉄技術を受け継いだ。新王国時代のハットゥシリ3世(在位,前1275ころ-前1250ころ)は,アッシリア王と思われる外国の君主に,依頼された良質の鉄の提供を在庫品がないことを理由に断り,その代りに一振りの鉄剣を送付するという手紙を書いている。この手紙は,当時のヒッタイトに他国がうらやむ高度の製鉄技術,おそらく浸炭法による製鋼技術の開発と厳重な鉄の国家統制,技術の国外流出に対する強い警戒心の存在を証しているとされてきた。この解釈はまた,前12世紀の鉄器時代の到来を,独占されていた技術がヒッタイト帝国の滅亡によって拡散した結果としてうまく説明しているので,広く受け入れられてきた。残念ながら,ヒッタイトの鉄生産と技術の実態についてはまだ十分に明らかにされておらず,今後の研究にまたなければならない。
最近,鉄器時代の開始について新しい仮説が提出されている。それは,この時期に鉄に対する需要が急激に増大した結果とするものである。すなわち,前1200年ころに始まったオリエント諸列強の没落,古い交易路の崩壊によってスズの著しい供給不足が生じ,青銅器の代用品として鉄器の製作が盛んになり,このことが技術改良を促して浸炭法の発明に至らしめたというのである。いずれにせよ,浸炭製鋼法によって,鉄は初めて金属器として青銅に対する優位性を獲得することができた。鉄が青銅にまさるもう一つの利点は,原料が入手しやすいということである。鉄はもはや珍しい金属ではなくなり,かつてのように金や銀,貴石とともに神々や権力者を飾るよりも,むしろ生産の道具として多くの人々の生活に深くかかわり,〈民主的な金属〉としての性格をもつに至った。鉄器時代への移行は,それまで辺境とされてきた地域にも経済と社会の発展をもたらし,各地に国家形成を促した。こうして前1千年紀は歴史的世界の著しい拡大によって特徴づけられるが,それとともに新しい統一への動きも起こってくる。
この統一はまずアッシリアの軍事的征服によって推進されたが,その際にも鉄器は重要な役割を果たした。アッシリアが早くから鉄に関心を示していたことは,文献や考古学的事実から明らかにされる。たとえば,アダドニラリ3世(在位,前810-前783)の年代記によればダマスクスに約150tの鉄の貢納を課しており,コルサバードのサルゴン2世(在位,前721-前705)の王宮から約160tの鉄材を納めた貯蔵庫が発見されている。ダマスクスはローマ以来ヨーロッパ人にも〈ダマスクス鋼〉の産地として有名であるが,すでにこの時代から鉄の主要な集散地であったことがわかる。アッシリアはこれらの鉄を国内の灌漑水路や王宮の建設事業に使用するとともに,軍隊の鉄器武装化に努めて最初の世界帝国を実現させた。アッシリアと対照的であったのがエジプトである。エジプトの鉄器使用は先史時代までさかのぼるにもかかわらず,その後十分な発達をみることがなかった。前1200-前1000年に西アジア・東地中海地域が鉄器時代への転換を完了したのに,エジプトだけは取り残され,ようやく前7世紀に移行を開始している。豊かな農業生産力を擁しながら,前1千年紀前半のエジプトがしばしば異国の支配を受けなければならなかった理由の一つに,鉄器文化の受容を長く拒んだエジプト人の保守性を挙げることができるであろう。
執筆者:佐藤 進
古代では東洋,ことに中国で早くから製鉄技術が高い水準に達し,西洋をはるかに凌駕していたという説が最近J.ニーダムによって主張されている。その主要根拠は,中国ですでに紀元前から鋳鉄が製造されたことである。純鉄の融点は約1540℃,鉄の炭素含有量が増加すると融点が下がり炭素4%前後で約1200℃となる。しかし古代の製錬温度では還元された鉄が十分に炭素を吸収できず,融点も十分に下がらず,炭素の少ない鉄を半溶融状で製造するほかなかった。かろうじて鉄鉱石に含まれる脈石を1200℃前後の溶融スラグにして鉄から不十分ながら分離することができた。こうして製造されたものが錬鉄(ルッペ,ブルーム)であった。こうした錬鉄の製造が西アジア,ヨーロッパ,アフリカの製鉄で,そこでは15,16世紀ころまで続いたのであった。ところが中国ではすでに紀元前から溶けた鉄が鋳鉄として製造されていたのである。中国でそれが可能となった理由として,青銅のるつぼ法および火炎技術の製鉄への適用,融点の低い含リン鉱石の存在,石炭の早くからの使用,水車および複動ピストンふいごの使用などが挙げられている。要は中国人の高い技術能力の所産ということであろう。ところで炭素の多い鋳鉄は鋳造できるがもろくて,炭素が少なく粘い錬鉄のように鍛造できない。他の地方では上述のように錬鉄を鉄鉱石から直接製造していた。中国では鋳鉄を精錬して脱炭し錬鉄に変えた。こうして鉄鉱石→錬鉄という直接法に対し鉄鉱石→鋳鉄→錬鉄という二段階法(間接法)が中国で発展した。また炭素の多い鋳鉄に炭素の少ない錬鉄を溶け合わさせて両者の中間の炭素の鉄,すなわち鋼にする技術も生まれた。
しかしこうした先進的な製鉄技術は中国だけでなく,インドにもあった。そこではるつぼ法で鉄鉱石を溶解製錬して鋳鋼にする技術が早くから行われたとされている。前世紀後半インドに遠征したアレクサンドロス大王に重さ15kgのインド鋼塊が献上されたと伝えられるのも事の真偽はともかくインド鋳鋼の古さを物語るものであろう。インド産の鋼鉄は古くからペルシアを経てダマスクスへ輸出され,そこで〈ダマスクス鋼〉として加工され,名声をはせた。
こうした中国,インドの製鉄技術は次の事実を考えるならば,確かに驚くべき先進性をもっている。ヨーロッパで鉄鉱石-鋳鉄(銑鉄)-錬鉄の二段階法(間接法)が始まったのは15世紀および16世紀で,高炉法の出現により実現する。錬鉄,鋳鉄の〈共融解〉法と同じ方法が16世紀のイタリアのビリングッチョV.Biringuccio(1480-1538)によって実施されている。インドのるつぼ鋼法は18世紀のB.ハンツマンのるつぼ鋳鋼法の先行者で,19世紀に評判になったF.vonウハティウスの〈鉱石鋼〉法そのものである。こうして紙,印刷,磁石,火薬についてのいわゆる古代技術の東高西低は製鉄技術についても完全にあてはまるといえそうである。しかも,これらの技術は中国で絶えず進歩していき,宋代11,12世紀に非常に高い水準に達したとされる。そして12世紀から14世紀にかけて行われた東洋から西洋への技術の〈束ね伝播〉の流れのなかで,製鉄技術もまた西に伝えられたのではないかとされている(ニーダム)。つまり15,16世紀にヨーロッパで起きた製鉄の大革命,高炉の誕生は中国の技術の伝播の影響下に生じたのではないかというのである。
ヨーロッパで高炉が誕生したのは15世紀および16世紀,誕生の地はライン川の支流,東のジーグ川流域,西のアイフェル丘陵およびムーズ川流域だとされる。この地に高炉がなぜ最初に実現したのか理由はわからない。おそらく北欧農業が二圃式から三圃式に変革したのに伴う農具の需要増大,火薬と大砲の出現による戦争技術の変革がハンザの鉄貿易の供給地であったこの地の製鉄業を躍進させ,高炉法を生み出すことになったものと思われる。高炉はドイツ語ではHochofen(高い炉),英語ではblast furnace(衝風炉)である。水車による強力送風,炉内ガスを完全利用するための高いシャフトをもつということが高炉の特徴である。水車送風により炉内温度が高くなり,吸炭が十分に行われると融点が下がり,溶融銑鉄になる。銅や銅合金と同様に鉄も鋳造されるようになる。鋳鉄の大砲,鉄柵,鉄門,鉄柱,暖炉板,台所設備,煮鍋,塩釜など,用途は限りなく伸びていく。銑鉄を精錬炉で脱炭して錬鉄にする精錬法も生まれ,二段階法(間接法)に移行する。釘,針金,針,ナイフ,はさみ,鎌,スズめっき板(ブリキ),機械,金庫箱,ウィンチ,銃,刀剣,蹄鉄など,錬鉄の需要も多様化した。16世紀には,ドイツから広がり,イギリスはじめヨーロッパの各国も高炉による鋳造と間接法に移行した。このとき以後はヨーロッパが世界の製鉄をリードすることになるのである。
さて高炉法時代に入って鉄の生産が今まで以上のテンポで増加し,その結果,たちまち森林経済との矛盾に直面した。製鉄は度外れの木炭消費をする。ことに大量生産をする高炉の発展はたちまち森林を丸裸にしてしまうのである。イギリスではすでに16世紀のエリザベス女王時代に特定地区の森林の伐採禁止を命じなければならなかった。森林の豊富なスウェーデンとロシアは木炭製鉄業を発展させることができ,17世紀から18世紀にかけて鉄の大輸出国となることができた。一方,木炭騰貴に苦しむイギリス製鉄業は伸び悩み,18世紀になると鉄の半分を輸入で賄わなければならなかった。こうして生きた燃料から化石燃料へ,木炭から石炭への移行が焦眉の急となった。これを解決したのが18世紀初頭,セバーン川上流でコールブルックデール製鉄所を経営したA.ダービー1世であった。彼は1709年に石炭を高炉の燃料とすることに成功し,この事業は息子のA.ダービー2世に受け継がれて軌道に乗った。しかし錬鉄の製造の原料とするにはコークスに不可避的に含まれる硫黄を高炉で脱硫する問題を解決しなければならなかった。そのためには高炉で石灰石の装入量をふやして石灰の多いスラグ(高塩基)をつくり,石灰と硫黄を結合させて硫黄をスラグに取り込まねばならない。このような高塩基スラグは融点が高いので炉の下部を高温にしないと溶融しない。つまり高温・高塩基操業が必要であった。これはJ.ワットの蒸気機関とシリンダー送風機によって可能となり,19世紀に入ってニールソンJ.B.Neilson(1792-1865)の高炉における熱風使用によっていっそう容易となり,さらに19世紀後半期にリュールマンF.W.Lührmann(1834-1918)の鉱滓羽口によって完成される。ともあれコークス高炉で製造された銑鉄の錬鉄製造への適用の道は,長い時間をかけて一歩一歩改善されていくのである。
錬鉄製造にも革命のときがきた。H.コートが従来の木炭精錬炉に代わって,すでに鉄の鋳造に利用されていた石炭たきの反射炉を銑鉄を錬鉄に変える炉にすることに成功したのである。ロストル(火格子)で自然送風によって石炭を燃やし,できる長い炎は火橋を越えて溶解室の銑鉄を溶かし,煙突に抜ける。溶けた銑鉄は火炎中その他の酸素で脱炭され,融点が高くなり,溶融状態を維持できなくなるが,鉄棒でパドル(かくはん)して脱炭を促進させ,銑鉄は錬鉄に変わる。それでこの方法はパドル法と呼ばれた。パドル法は蒸気機関によって駆動される圧延法と結合し,牧歌的な水車ハンマーを過去のものとした。
B.ハンツマンの1740年のるつぼ鋳鋼法の発明もまた製鉄技術における一つの画期であった。浸炭鋼をるつぼに密閉し,その周囲にコークスを詰め,高い煙突で強い引きを生じさせて強熱し,溶けた鋼を製造する方法である。スラグを完全に分離した鋼は優秀で,人々は初めて真に信頼できる道具鋼を得たのである。
こうしてイギリスは18世紀から19世紀にかけてコークス高炉,パドル・圧延法,るつぼ鋳鋼法という石炭製鉄の新しい技術体系を確立することができた。これに対応して鉄鋼の市場も無限の広がりをみせた。1779年竣工のコールブルックデールのA.ダービー3世指揮の鋳鉄橋,1826年竣工のT.テルフォードのメナイ海峡に架かる錬鉄つり橋,29年成功のG.スティーブンソンの錬鉄レールと蒸気機関車のリバプール~マンチェスター間鉄道などを代表とする鉄道,鉄橋,鉄船,鉄構造の機械などが建造された。19世紀初頭の化学者フルクロアA.F.Fourcroy(1755-1809)が〈鉄は文明の尺度〉といったが,まさに鉄が文明の様相を変えはじめ,豊かな物質文明が人間の幸福を約束するかのごとくであった。1851年のロンドンの第1回万国博覧会の会場にある鉄とガラスのクリスタル・パレス(水晶宮)はそのシンボルであった。ビクトリア女王の夫アルバート公の開会演説はそれを高らかにうたいあげたものであった。
さて鉄の技術と用途の発展に呼応したのが鉄の科学の進歩である。16世紀のイタリアのビリングッチョの《デ・ラ・ピロテクニア(火の技術または火工術)》,G.アグリコラの《デ・レ・メタリカ》に始まる冶金学は,17世紀に一休みしたのち,18世紀に大発展を遂げる。まずスウェーデンではE.スウェーデンボリの《デ・フェロ》,ポーレムC.Pohlem(1661-1751)の《愛国遺言》,リンマンS.Rinman(1720-92)の《鉄の歴史(鉄誌または鉄学)》などの優れた冶金学書が生まれた。また,ベリマンT.O.Bergman(1735-84)が化学分析によって鉄中の炭素を測定し,鋳鉄と鋼と鍛鉄の相違は炭素含有量の多少によることを明らかにした。
フランスではR.A.F.deレオミュールが浸炭鋼と可鍛鋳鉄の製造法を研究し,錬鉄に〈塩・硫黄物質(炭素)〉が入って浸炭鋼になり,鋳鉄から〈塩・硫黄物質〉が除去されて可鍛鋳鉄になることを証明し,前述のベリマンの研究に先行している。彼はまた職人に任せられていた技術・産業に学者の研究が重要であることを強調し,産業と技術を科学的に体系化することを意図した。この仕事は彼の死後遺稿をもとにして後継者たちによって《技術と産業の記述》という体系的著述となって実現した。製鉄の各分野がここで模範的にまとめられた。そしてついにA.L.ラボアジエの新元素観と酸化と還元の理論,G.モンジュがC.L.ベルトレらと共同してこの新理論を冶金に適用し,高炉における還元と吸炭の過程,精錬炉における合金元素,同伴元素,有害元素の酸化除去のプロセスをみごとに解明した。今や炭素,ケイ素,マンガン,リン,硫黄など,鉄中の諸元素の挙動が追究され,技術の向上に決定的に寄与するに至った。カルステンK.J.B.Karsten(1782-1853)の《鉄冶金学綱要》(1816)は石炭製鉄の新現象をあますところなく解明した指導書である。
材料力学の進歩も冶金学のそれに劣らなかった。レオナルド・ダ・ビンチ,G.ガリレイ,R.フックの研究で緒についた材料力学は,フランスの学者(Jac.およびJoh.ベルヌーイ兄弟,L.オイラー,J.L.ラグランジュ,L.M.H.ナビエら)を中心とした数学者,物理学者,実際家たちの手で理論的に構築され,19世紀にイギリスに入ってT.ヤングのヤング率の研究となり,そして橋やトンネルや船や機械のシビルエンジニアの英雄たちが徹底的に材料強度の試験を展開した。
今やはっきり鉄の時代であった。そうしたなかで1850年代,溶鋼法の時代が始まるのである。
さて19世紀になって鉄は一般に高炉→パドル炉→圧延機によって製造されるようになった。高炉は蒸気機関の送風,熱風の使用によって大型化をたどり,圧延機も蒸気機関駆動によって大型化した。しかしその中間のパドル炉は人間の手作業(かくはんと取出し)に制約されて炉を大型化することはできず,1回の作業量は200kg前後にすぎなかった。新しい精錬法が要望されたのは当然であった。それが〈溶鋼〉であることもまた自明であった。1851年のロンドン博覧会のA.クルップの出品がそれを告知していた。2150kgの鋳鋼塊,鋳鋼の巨砲,太い長い軸,溶鋼でこんな大型製品ができるのである。H.ベッセマーはこの問題を解決し,56年8月13日大英科学振興協会の総会で溶鋼の大量生産法を報告した。容器中の溶銑に炉底の羽口から空気を吹き込んで炭素やケイ素を酸化させ(下吹法),溶銑を溶鋼にコンバートする(変える)方法であった。炉はコンバーターと呼ばれた。この炉は最初固定式であったが,のちにつるされて傾注できたので日本では転炉と呼ばれ,ドイツ語では炉の形がビルネ(西洋ナシ)に似ているのでビルネと呼ばれた。今まで溶けないとされてきた錬鉄も鋼と同様にやすやすと溶融状となり,区別はなくなり,軟鋼と硬鋼に区別されるだけになった。
しかし転炉法には難点があった。脱リン,脱硫ができず,したがってリンと硫黄の少ない銑鉄しか使用できなかったのである。スウェーデンのゲランソンG.F.Göransson(1819-1900)がリンと硫黄の少ない,マンガンの多いダネモラ鉱石を原料とした木炭銑から優秀な転炉鋼を製造することに1858年7月18日に成功したとき,初めてベッセマー法が工業化されたということができる。ベッセマーもはじめスウェーデン銑を使用したが,のちにイギリス,カンバーランドのヘマタイト(赤鉄鉱),スペインのビルバオ鉱石などから優秀なベッセマー銑を製造し,ベッセマー法の大規模な発展が始まる。
転炉法に続いて64年,フランスのP.マルタンが平炉法を工業化した。ジーメンス兄弟,次男のウィルヘルム(1823-83)と三男のフリードリヒ(1826-1904)の発明した蓄熱方式の反射炉による製鋼で,転炉法と並ぶもう一つの溶鋼法である。オープン・ハース法(密閉しない炉床での製鋼法),またはシーメンズ=マルタン法とも呼ばれる。反射炉の廃ガスで二つの蓄熱室の格子積みの耐火煉瓦を加熱し,次に燃料ガスと燃焼用空気を別々の蓄熱室を通して予熱し,それによって得られる高温で溶銑を溶鋼に精錬するのである。
しかし平炉法でもリンは除去できなかった。要するに溶鋼法はリンに無力であった。多くの冶金の専門家たちが脱リンできる転炉法に取り組んだが,解決したのは,いとこのギルクリストの協力を得た29歳の無名の独学の化学愛好者S.G.トマスであった。脱リンできないのは,それまでの転炉がケイ石煉瓦,すなわち酸性耐火物で内張りされていたからであった。石灰石,ドロマイトその他の塩基性物質から塩基性耐火物をつくり,転炉をこれで内張りし,石灰を多量に装入して塩基性スラグをつくり,空気を吹き込んで操業したとき,脱リンに成功した。溶銑中のリンは酸化されてスラグに入り,石灰と結合して安定しスラグ中にとどまる。石灰がないと,リンは還元されて溶鋼に戻ってしまう。塩基性スラグのとき,それまでのように,壁がケイ石質の酸性煉瓦だと,スラグの石灰と壁のケイ酸が激しく反応して壁を侵食してしまう。塩基性耐火物の内張りが必要だったのである。こうしてトマスは酸性転炉法(ベッセマー法)に対し塩基性転炉法(トーマス法)を工業化した。リンを溶鋼温度を上昇させる有力な熱源として働かせ,それから除去する。〈敵を腹中にのむ〉大胆不敵な方法であった。トマスはリンをベッセマー法の敵,トーマス法の味方と呼んでいる。しかもスラグはリン肥として貴重な農業肥料であった。塩基性法は平炉法にも適用され,そこでの脱リン,脱硫が可能となった。塩基性法の登場とともにパドル法は一気に凋落して19世紀末には姿を消した。
20世紀に入ると転炉,平炉と並んで電気炉製鋼法が工業化された。P.L.T.エルーの1900年のアーク炉による製鋼の工業化がその発端である。平炉と転炉は主として普通鋼の製造に使用され,電気炉は主として合金鋼の製造の分野でるつぼ鋳鋼法に代わって大発展を遂げた。
さて,20世紀,各国の展開した製鋼技術にはそれぞれ特色があった。アメリカは最初は豊富に埋蔵された低リン鉱石によってベッセマー法を,その枯渇後は国内に蓄積された豊富な屑鉄によって平炉法を発展させた。また新しいエネルギーの電気を活用して機械化を最大限に推進し,線材や薄板の連続圧延も工業化された。大資源と大市場を土台に五大湖地方を中心に世界の鉄鋼の半分を生産する大製鉄国となった。それは,第2次大戦で英ソへの膨大な武器援助,ヨーロッパ戦線と太平洋戦線を同時に支えて戦争を勝利へ導くことができたほどのものであった。ドイツ,フランス,ベルギーはロートリンゲンを中心とする高リン鉱石(ミネット)の大資源のためにトーマス法が発展し,塩基性平炉法と生産量を半々に分けあった。スウェーデン北部のラップランドの高リン鉱石もドイツのトーマス法の重要な輸入資源で,第2次大戦中のドイツの北欧占領の動機の一つとなった。イギリスとソ連と日本では資源の関係で転炉法は十分に発展できず,主として平炉法によってその製鉄業を築いてきた。概して世界の大勢は原料と精錬法に柔軟性のある平炉法に傾いた。
溶鋼時代になって驚くほどの鉄鋼の量的増大が行われたのであるが,もう一つの重要な特徴は多様な合金鋼の発明である。装甲板のニッケル鋼,レールの転轍部分のマンガン鋼,電磁特性をもつケイ素鋼板,ステンレス鋼,高速切削のタングステン鋼,その他限りない合金鋼は鉄鋼の秘めた潜在力を限りなく引き出し,今後もますます過酷な条件に耐える合金鋼が登場してくるであろう。
こうした合金鋼の発明は鉄の科学の進歩と不可分に結合していた。18世紀から19世紀にかけて鉄鋼の化学が技術に衝撃を与えたとすれば,19世紀から20世紀にかけては鉄鋼の物理化学と結晶構造学が技術に衝撃を与えた。1863年のH.C.ソルビーの炭素鋼から晶出および析出する結晶(フェライト,セメンタイト,パーライト,グラファイトなど)の顕微鏡による発見,マルテンスA.Martens(1850-1914)の1878年論文の同じ発見,ロシアのD.K.チェルノフの1868年論文の樹枝状晶および結晶粒の成長に関する理論および焼入れ焼戻しの理論,F.オスモン(1849-1912)の80年代の鉄の変態(α鉄,β鉄,γ鉄)の発見,オーステンW.Roberts-Austen(1843-1902)の97年論文の,そしてH.W.B.ローゼボームの1900年論文の鉄と炭素の状態図は,炭素鋼の凝固過程の晶出析出の全貌を明らかにした。その後はあらゆる合金鋼の状態図が調べられていくのである。さらにスウェーデンのウェストグレンA.WestgrenのX線回折が金属の構造研究の画期となる。その後,鉄鋼の本性の研究,冶金反応の物理化学的研究,材料強度の研究はいよいよ深められ,技術改良と深く結合しながら進行していった。
鋼の時代に確立した高炉法-製鋼法(平炉,転炉,電気炉)-圧延法という製鉄技術体系は今後も不変なのであろうか。第2次大戦後の技術的変化は,そのことを考える一つの手がかりを与えているように思われる。戦後,〈高炉によらない製鉄法〉への期待が高まった時期があった。高炉もコークスも使用せず,還元ガスで直接還元鉄を製造するのである。予想どおりにはいかなかったが,直接還元鉄の生産量は20世紀中着実に増加していき,還元鉄製造-電気炉溶解が高炉-転炉に比べて比率を増大することが予想されている。また純酸素の製鉄への適用の重要性が増した。C.P.G.vonリンデ,フレンケル,G.クロード,P.カピッツァたちの研究によって純酸素の量産技術が確立し,純酸素の産業への適用が要望され,これにこたえて,製鉄業でも1930年代からデュラーR.Durrerをはじめ純酸素の製鉄への使用の重要性を指摘する人々が出てきた。高炉への適用が提唱されたが,これはまだ実現していない。しかし製鋼法で成功し,1952年オーストリアで純酸素上吹転炉法が工業化された。リンツとドナビツの両製鉄所で発明が実施されたので頭文字をとってLD法と呼ばれている。従来の空気転炉法の熱的不足と窒素含有の質的欠点とが克服され,平炉鋼に匹敵する質の鋼を製造できることが証明され,以来急速に平炉に代わって世界に普及した。ことに1956年いちはやくこの技術をオーストリアから導入した日本はLD法の最大の完成者となり,やがて平炉法は完全に消滅してしまった。
圧延法も変貌しつつある。20世紀前半期にアメリカで薄板と線材の連続圧延が完成し,戦後は薄板連続圧延(ストリップミル)が日本およびヨーロッパに大規模に導入されるに至った。さらに造塊(鋼塊)-分塊(鋼片)-製品圧延(鋼材)という旧来方式は,溶鋼の連続鋳造の工業化によって大きく変わりつつある。製鋼法においても,脱ケイ-脱リン・脱硫-脱炭の3段階に作業を分割することによって,連続化へ近づこうという試みが行われている。要するに製鉄の全行程の連続化が目指されている。これは全作業部門で急速に進行している自動化,コンピューター制御の発展によって大きく促進されるであろう。
1993年アメリカの粗鋼生産高は8879万tであった。日本は9906万t,中国8955万t,ロシア5445万t,ドイツ3732万t,韓国3302万t,ウクライナ3261万t,イタリアとブラジルが2500万t台,以下インド,フランス,イギリス,スペイン,カナダ,ベルギーなどが各1000万t台である。それはアメリカが全世界の鉄の生産高の半分を占め,欧米に鉄鋼生産の大部分が集中していた20世紀前半期に比べると驚くべき様変りである。しかもなおそれは大きな変化の先触れにすぎない。製鉄技術もまた同じような変化をたどるであろう。
執筆者:中沢 護人
従来,日本の鉄生産は,大陸からの鉄製品舶載段階と鉄素材(鉄鋌)舶載-国内加工段階を経て,九州や中国地方での鉄生産が始まり,次の段階で広く各地に広まり,近世の鉱石輸入-臨海工業地帯での鉄生産に至ると説かれている。こうした一元的な鉄生産発展の通説に対して,最近では地方的特色を重視する見解が強まり,また起源としては半島経由の技術のほかに,南方系や北方系のルートも主張されており,なお不明のところが多い。
弥生時代の鉄器がどこでつくられたか,古墳出土の大刀や鉄器類がどこの原料鉄を用いたかという問題も,まだほとんど解明されていない。しかし九州ではかなり早い時期に鍛冶だけでなく製鉄も行われたと考えられる一方,5,6世紀には大陸から大量の鉄鋌が移入されていたことも確かである。文献上で知られる畿内近国での鉄生産は7世紀中葉で,大陸との軍事的対決という政治課題もあって,畿内周辺と中国地方では急速な生産の拡大が行われたとみられる。8世紀には,おもに中国地方の特定の国から鉄鋌および鍬などの鉄製品が調庸として納められ,政府の需要と官人の禄にあてられたが,別に近江・播磨および中国地方の一部諸国から交易用の鉄が供給される仕組みになっていた。東国の製鉄も8世紀には,ほとんど国司などによる特別のものに限られていたが,9世紀になるとにわかに活発になり,関東でも各地で鉄生産が行われるようになった。平安時代の製鉄遺跡の発掘例は近年急増している。古代と中世の史料では特殊な製鉄の業者や技術者は知られていないが,鍛冶や鋳物師(いもじ)が鉄をつくっていた事例は少なくない。また原料として初期には鉄鉱石の使用例もあるが,砂鉄を主と木炭を用いる直接製鋼法が主流であった。火山国である日本では,砂鉄はほとんどどこでもとれるため,砂鉄を原料とする小規模な製鉄が全国各地で行われたのである。
しかし砂鉄製鉄はチタン含量によって経済的,技術的に大きな違いがあるため,流通経済が発達すると,チタン含量の少ない地方の優位性がしだいに明らかになり,近世になると,送風装置としてのたたら(踏鞴)の改良と相まって,中国地方を中心とする鉄の生産と流通の体制が整えられ,東北地方を除く他の地方の鉄生産は衰退する。天秤鞴(てんびんふいご)の発明は17世紀末期,高殿(たかどの)たたらの完成は18世紀後期といわれるが,これによって送風に要する人員は半減し,年間を通じての操業が可能になり,作業能率は飛躍的に上昇,大量生産が行われるようになった。近世の山陰地方では,田部,桜井,糸原,近藤などの大山持が製鉄所を経営し,10万人といわれる労働力をかかえて,ほとんど全国的な需要を賄うようになる。そしてこの高殿たたらによる鉄生産は,洋式製銑技術の導入後も盛んに行われ,釜石,八幡の操業後も大正年間まで続けられた。
→鉄器 →鉄鋼業
執筆者:福田 豊彦
鉄は邪悪な力の象徴とされ,古代エジプトではオシリスの殺害者セトの持物であった。ギリシア神話でゼウスを襲う怪物テュフォンは,その骨が鉄でできていたといわれる。そのためにギリシアやイスラエルの神殿では鉄を持ち込むことが禁忌とされた。ヘロドトスは《歴史》の中で鉄の発見を〈人類に災いをもたらした元凶〉と説き,それを裏書きするようにギリシア以来〈神罰〉はしばしば鉄の矢や杖で打たれる形で表現される。さらに鉄がもつマイナス・イメージは時代区分にも用いられ,ヘシオドスは〈黄金の時代〉〈白銀の時代〉〈青銅の時代〉に続く〈鉄の時代〉を戦乱の終末的時代とうたっている。またヒンドゥー教の神話にある時代区分〈大ユガ〉でも,4番目で最後の区分に当たる〈カリ・ユガ〉は鉄と暗黒の時代とされる。いずれも宗教的支配を覆す武力,あるいは神の叡智に対立する人間文化と鉄とのかかわりが暗示される。したがって鉄は〈冷酷〉〈非情〉の意味をも与えられ,また鉄血宰相ビスマルク,黒鉄(くろがね)公爵A.W.ウェリントンなど意志強固な人物の形容にも使われる。一方,武具としての鉄はローマの戦の神マルスにささげられた鉄の楯をはじめ,鉄剣,鎧などで表現される。マルスとの関連から,占星術では鉄は火星と結びつけられる。なお,〈アイアンサイドIronsides〉とはO.クロムウェルの率いた〈鉄騎兵〉の俗称で,今日では敵の攻撃をはね返す豪勇の兵士や戦艦の代名詞になっている。また,若い女性をかたどり,中に釘が植えられている有名な中世の拷問具は〈鉄の処女Iron Maiden〉の名で知られる。
執筆者:荒俣 宏
中国の《山海経(せんがいきよう)》には,山の北面に鉄,南面に金を埋蔵することが多いと記している。中国最古の薬学書《神農本草》には鉄(和名あらがね),鉄精(かなくそ,かねのさび),鉄落(くろがねのはだ)のほか,磁石(一名吸針石),禹余糧,太一余糧などの薬名が見え,のちに剛鉄(ふけるかね),生鉄(鋳る前の鉄),柔鉄,鉄華粉(鉄上衣)など,さまざまな名称が加わる。このなかの禹余糧と太一余糧は正倉院御物の中にあり,日本では子持石,〈いしだんご〉〈すずいし〉などと呼ばれる泥鉄鉱である。鉄精は鉄を鍛えるかまどの中にこぼれた塵のようなもので,紫色の軽いものが上質とされていた。これは丸薬にはしないで熱し,酒中に入れて服用したり,腋をこすって〈わきが〉を治療したりした。鉄華粉は薄くのばした鋼鉄を美しくみがき,塩水を注いでから酢の甕に入れ,陰に100日埋め,鉄に生じたさびを刮(こそ)げとり,細かに搗(つ)いてさらにふるいにかけ,乳鉢で麵のようにしたもので,鉄の精華の意。増血剤や精神安定剤などに諸薬と調合して用いられた。これらは日本医術の源流となったが,9世紀初頭に日本の豪族や神社の処方を集めた《大同類聚方》では〈くろがねのすりこ〉を〈山の谷川に砂に混って流れ出すものを火で焼き,磨りつぶして細かな粉末にしたもの〉と説いている。
執筆者:槙 佐知子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
周期表第Ⅷ族に属し、鉄族元素の一つ。元素記号のFeはラテン語のferrumからとられたものであるが、その由来は明らかでない。英名はラテン語のaes(鉱石)を語源とするといわれる。日本では古く黒金(くろがね)とよんで五色の金(かね)(黄金(こがね)=金、白金(しろがね)=銀、赤金(あかがね)=銅、黒金=鉄、青金(あおがね)=鉛)の一つであった。以前は「鐵」の字があてられていたが、これは「金(かね)の王なる哉(かな)」の意で、生活にもっとも役だっていたことを示している。
[鳥居泰男]
鉄は地殻中にもっとも多量に存在している元素の一つで、金属元素ではアルミニウムに次いで第二位である。しかし地球の内部は主として鉄からなると推定されるので、地球全体としてはその存在率はきわめて高い。化学的に活性であって、天然に単体として存在することはほとんどなく、酸化物や炭酸塩の形で鉱床をなして産出する。おもな鉱石は磁鉄鉱Fe3O4、赤鉄鉱Fe2O3、褐鉄鉱Fe2O3・xH2O、菱(りょう)鉄鉱FeCO3などである。砂鉄は岩石の風化によって生じた微粒子状の磁鉄鉱で、以前は重要な鉄資源であった。
近年、世界において多量に鉄鉱石を産出するのは中国で、ついでブラジル、オーストラリア、インド、ロシア、ウクライナなどである。日本の産出量はきわめて少なく、大部分を輸入し、精錬したものを国内の需要にあてるとともに海外に輸出している。
[鳥居泰男]
純粋な鉄は特殊な用途にしか用いられないので、実用に供せられる鉄は鉄と炭素の合金ともいうべき鋼として製造される。その工業的な製造は、通常二つの工程に分けて行われる。まず、焙焼(ばいしょう)した鉄鉱石をコークスおよび融剤(石灰石、粘土など)とともに溶鉱炉(高炉)に入れ、熱風を吹き込む。炉内の反応は複雑である。遊離した鉄は融解状態となって炉底に集まり、鉱石中のケイ酸成分や不純物などは融剤と反応し、スラグとなって鉄の上にたまる。この段階の鉄が銑鉄であって、数%の炭素のほか、少量のケイ素、リン、硫黄(いおう)などを含んでいる(溶鉱工程あるいは製銑工程)。この銑鉄は、不純物が含まれているためもろくて圧延、鍛造ができないので、次に石灰などを加え、平炉(へいろ)、転炉、電気炉などの中で1500℃以上に加熱、融解し、空気を吹き込むと、炭素や不純成分は酸化物となって除去される。この製鋼工程で炭素含有量が1.7%から0.03%の鋼が得られる。
さらに炭素含有量の少ない、いわゆる純鉄を製造する方法としては、鉄(Ⅱ)塩水溶液の電気分解(炭素含有量0.01~0.02%)、ペンタカルボニル鉄の熱分解(0.005~0.0007%)、硝酸鉄やシュウ酸鉄を熱分解して得た高純度酸化鉄の水素還元(0.0045%)などがある。
[鳥居泰男]
純鉄は銀白色の金属で、比較的軟らかく、常温で強磁性を示す。α(アルファ)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)の三つの結晶変態があり、α鉄からγ鉄への転移温度は906℃(γ→αは898℃、A3変態点という)、γ鉄からδ鉄への転移温度は1401℃(A4変態点)である。α鉄は体心立方構造をとり、強磁性を示す。769℃(A2変態点)にキュリー点をもち、これ以上の温度では常磁性に変わるのでβ(ベータ)鉄とよぶことがあるが、これは結晶変態ではない。γ鉄は面心立方構造、δ鉄は体心立方構造で、いずれも常磁性である。
鉄の化学的特徴の一つは酸素に対する化合力が大きい点であって、微粉状の鉄は自然発火性を示す。塊状や板状の鉄は常温で乾燥した空気中では変化しないが、湿気があればしだいにさび、水和酸化鉄Fe2O3・xH2Oに変わる。乾いた空気中でも150℃以上に熱すれば酸化がおこるが、この場合に生ずるのは酸化鉄(Ⅲ)鉄(Ⅱ)(四酸化三鉄Fe3O4)であって、これは鉄の表面を不動態にする。空気を含まない水には常温ではほとんど侵されないが、赤熱状態で水蒸気と反応し四酸化三鉄を生ずる。希酸には水素を発して溶け、鉄(Ⅱ)塩を与える。濃硝酸により不動態となる。希アルカリには溶けないが、濃水酸化ナトリウムには高温でかなり侵される。鉄は化合物中で通常ⅡもしくはⅢの酸化数をとるが、有機金属化合物などでは-Ⅱ、-Ⅰ、0、+Ⅰなどもみられる。また鉄酸塩などではⅥの状態も現れる。
[鳥居泰男]
銑鉄は融点が1100~1200℃と比較的低く、加熱すると軟化せずに溶けてしまうので鋳物の製作に適している。また安価なので、大きな力の作用を受けない物品、たとえば車両、農機具などに用いられる。炭素含有量が0.6~1.7%の鋼は弾性、強度ともに大きく、鍛錬も可能で焼き入れによって硬化し、工具などの製作に用いられる。炭素含有量が0.6%以下の鋼は錬鉄とよばれ、軟らかく強靭(きょうじん)で容易に鍛錬できる。焼き入れによって硬化しない。機械器具の製作、建築、土木用の鋼材その他広い用途がある。ニッケル、クロム、マンガン、コバルト、タングステンなどの金属を加えると、いろいろと特徴ある性質をもった特殊鋼が生まれる。ステンレス鋼、耐熱鋼、工具鋼、ばね鋼、磁石鋼などはその例である。炭素含有量の非常に少ない純鉄はトランスの鉄心などに用いられる。
[鳥居泰男]
人体には2~4グラムの鉄が含まれ、重要な生理作用をもっている。人体の鉄の約70%は血中のヘモグロビンに含まれる。0.3~1.0グラムは貯蔵鉄として肝臓、脾臓(ひぞう)、骨髄に存在し、残りの鉄には血漿(けっしょう)鉄として回転するものと、チトクロムなど各種の酵素成分として全身に存在するものとがある。
[河野友美・山口米子]
鉄の吸収は十二指腸と小腸上部で行われる。食物からとる鉄には二価鉄(Fe2+)と三価鉄(Fe3+)があり、Fe2+のほうがFe3+より吸収されやすい。Fe3+として摂取した鉄は胃内の塩酸によって還元されFe2+に一部変えられる。また、アスコルビン酸(ビタミンC)などの還元作用のある物質によってもFe2+に変化する。鉄の吸収を阻害する物質としてフィチンやタンニン、過剰のリンなどがある。これらの物質は鉄と結合して吸収を低下させる。鉄の吸収の特徴として体の要求度によって変わる点がある。つまり、鉄が不足状態のときには鉄の吸収率がよくなる。一方、人体に鉄が十分あったり、食事中に多量の鉄分が含まれているときには吸収率が下がる。多くの栄養素は排泄(はいせつ)機構によって体内の量が調節されているが、鉄の場合には吸収と排泄の両者が調節役をしている。
[河野友美・山口米子]
鉄のおもな生理作用は酸化還元作用である。鉄は体内でFe3+からFe2+へ、また逆へと変化する。このときの酸化や還元が生理作用となっている。たとえば血中のヘモグロビンは酸素を体の隅々まで運ぶが、このとき、ヘモグロビンの鉄と酸素が結合した形(鉄が酸化された状態)となっている。
[河野友美・山口米子]
鉄の摂取基準は成人で1日5.5~6.5ミリグラムである。生理のある女性では、男性や、生理のない女性より1日3.0~3.5ミリグラムほど多く必要とする。鉄の排泄量は1~2ミリグラムと少ないが、吸収率の低さや、日本人の食事での鉄含量から安全率が考慮されている。妊娠、授乳婦はさらに11ミリグラム多くとる必要がある。鉄の欠乏症には貧血、体温調節機能障害、免疫力の低下などがある。過剰症は細胞内への鉄の沈着がみられる。日常の食事で過剰症はおこらないが、健康障害のリスクを下げるために厚生労働省は「日本人の食事摂取基準」を設定し、食事からとるべき必要量や推奨量とともに上限量を示している。
[河野友美・山口米子]
食品中に含まれる鉄はヘム鉄(ヘモグロビンやミオグロビンなどのヘムタンパク質の形のもの)と非ヘム鉄がある。ヘム鉄は肝臓や肉類、魚類に含まれ、吸収率がよい。ホウレンソウ、ブロッコリーなどの緑黄色野菜、卵黄、乳製品にも多く鉄が含まれるが、非ヘム鉄で吸収率は劣る。ビタミンCや肉類を組み合わせ、吸収面で効率のよい食べ方がたいせつである。
[河野友美・山口米子]
鉄は人類の技術史上、銅よりもはるかに遅れて出現したとされており、有力な一説は次のように説いている。「銅の製錬はアナトリア(現在のトルコ)あるいはイランで紀元前六千年紀に発展し、そこから東西に広がり、イギリスおよび中国に紀元前二千年紀に到達した。一方、鉄の時代は紀元前1500~1000年の間に同じアナトリアで開始され、紀元前800年にヨーロッパに伝わり、ハルシュタット文化(鉄の文化)をつくった。中国には紀元前400年ごろ達した」(タイルコート『冶金(やきん)の歴史』)。これによると、青銅時代に遅れること約4000年で鉄の時代が始まるということになる。なぜこのような遅延が生じたか。種々の理由があげられているが、説得的な根拠はまだ提起されていない。
鉄は小アジア以西、ことにヨーロッパでは中世まで長く錬鉄、すなわち半溶融の粘い鉄として製造され、溶融銑鉄(鋳鉄)は知られなかった。しかるに中国ではすでに紀元前から溶融銑鉄が製造され、農具その他に鋳造された。ヨーロッパでは14、15世紀に水車送風による高炉法の出現で初めて溶融銑鉄が製造されるようになったのである。中国でなぜ早く鋳鉄が製造できたのか、ヨーロッパでなぜそのように遅れたのか。高度の製陶技術、効率の高い送風装置、石炭の使用などが理由にあげられているが、まだ十分に解明されていない。
ところで、製鉄において錬鉄と銑鉄の相違はどのようにして生ずるのか。製鉄炉の炉内温度が高くないと、鉄鉱石が還元されてできた鉄が炭素をすこししか吸収できず、こうした炭素の少ない鉄は融点が高く、そのため、軟化して粘い鉄になることはできても、溶融状態にはならない。この鉄から鉄鉱石の脈石部分が溶けて分離したものが錬鉄である。炉内温度が高いと、還元鉄の炭素の吸収が促進される。炭素の高い鉄は融点が低く、溶融状態になることができ、炉から流れ出る。これが銑鉄である。水車送風による高炉はこのような高い炉内温度を可能にしたのである。高炉法が出現するまでは中国をはじめ東アジアを除いて錬鉄だけが使用されてきた。
錬鉄のなかの比較的炭素の高いものは鋼とよばれ、他は単に鉄とよばれ、鉄と鋼の二つの種類の呼び方が長く行われてきた。鉄は軟らかく、鍛造性がよく、広い用途に加工された。鋼は硬くて強く、刀剣や道具に威力を発揮した。古代の冶金師は、鉄に炭素を吸収させて鋼に変えるセメンテーション(浸炭)の技術をも発明して活用した。
ヨーロッパのライン川中流地域に高炉法が出現し、16世紀にイギリス・フランス・スイスその他各国に伝えられるとともに、様相が一変し、以後は製鉄技術はもっぱら欧米で発展し、その世界支配と軌を一にした。鉄の鋳造業が新たに大規模に発展し、鋳鉄砲が海戦に、植民地侵略に一役を演じ、芸術的に聖書物語を浮き出した暖炉板が部屋を飾り、大邸宅や墓所を囲む鉄柵が街の風景に新しい景観を添え、鉄の塩釜(しおがま)その他が製造場を活気づけた。一方、それまで鉄鉱石から直接つくっていた錬鉄と同じ可錬性の鉄が、高炉の銑鉄を精錬炉で溶解し脱炭してつくられるようになり、こうして直接法から間接法へ、1段階法から2段階法へ製鉄は移行した。この高炉―精錬―炉―ハンマーという新製鉄は鉄の安価大量生産に道を開いた。ついで18世紀に入ると、木炭を燃料とする製鉄から、石炭を燃料とする製鉄に大きく転換することになった。この転換は産業革命のイギリスで行われた。前半期にはダービー家の努力により、石炭を蒸し焼きしたコークスを高炉で燃料とし、いわゆるコークス銑が製造されるようになり、中ごろにはB・ハンツマンの発明により石炭を燃料とするるつぼ溶解法でいわゆるるつぼ鋳鋼が製造されるようになり、さらに後半期にはH・コートの発明したパドル法により石炭焚(だ)きの反射炉でいわゆるパドル鉄(元どおり半溶融状の粘い錬鉄で、溶融状態にはならなかった)が製造されるようになった。さらに石炭を燃料とする蒸気機関が送風と加工に変革をもたらした。石と木材にかわる「鉄の時代」が始まったのである。
19世紀に入って、石炭製鉄が他の国々へ波及しつつあったとき、その後半期、イギリスを起点としてヨーロッパで製鉄の大革命が行われる。1855年のベッセマーの転炉法、1864年シーメンズとマルタンの平炉法、1878年トーマスの塩基性製鋼法などによって、るつぼ法の単なる再溶解のような小規模なものでなく、溶融鋼を銑鉄から大量生産できるようになった。溶けない錬鉄、溶ける鋼の区別がなくなり、いわゆる溶鋼時代、略して「鋼の時代」が始まった。それ以来製銑(高炉)・製鋼(鋳炉および平炉)・圧延の近代製鉄所方式が確立し、20世紀に入り鉄の生産は飛躍的に増大していった。電気炉による合金鋼の製造も登場し、重要性を増していった。
第二次世界大戦後、それまで100年安定していた製鉄法はまた大きく動きだした。1951年オーストリアで発表されたLD法とよばれる純酸素転炉法が世界に急速に普及し、空気による転炉法と平炉法は衰退した。高炉出現以来姿を消した直接法を復活させ、錬鉄を製造してこれを電気炉で溶解し、こうして高炉を必要としない製鉄法の試みも活発化している。すでに工業化された連続鋳造をはじめとする作業の連結化、コンピュータによる自動制御など製鉄技術は面目を一新し、あらゆる鉄鋼需要を満たしつつある。
[中沢護人]
鉄は世界各地の文化の重要な要素である。ただし、近代的大量製鉄開始前の鉄流通量は小さく、鉄の使用開始期にはどの地域でもきわめて少量の利器に用いただけであったから、鉄の出現そのものが文化水準を短期間で飛躍的に向上させたとみるのは文化史的に不正確である。
[佐々木明]
鍛冶屋(かじや)が存在すれば、その文化に鉄が一要素として複合していると定義すると、「鉄の文化」(鉄のある文化)が15世紀中までに全東半球に及んでいたと指摘できる。ただし、コイサン系採集狩猟民居住地域のアフリカ南西部には鉄の文化がなく、アフリカ東部、北部ユーラシア大陸、インド半島部、東南アジアには鉄の文化のない民族がいくつか分布した。鉄の文化のない東半球諸民族でも、隣接民族に少量鉄製品の供給、修理などを頼ることが多かった。地域内に鍛冶屋がいても、異民族とみなす事例も多い。紀元前後からエチオピア系諸王国を中心とし、鉄文化が拡散した東アフリカのいくつかの民族はその例である。西欧との接触以降の西半球の状況はこれらの東半球周辺地域と類似する。南西部以外のアフリカの大部分に鉄の文化が広がったのは、赤道以南に広く現住するバントゥー語族の拡散の結果である。北アフリカから伝播(でんぱ)した鉄器技術を受容したサハラ南接草原地帯の農耕民の一部が紀元前後から、一方ではギニア湾北側のサバナ森林を小開拓して拡散し、他方では赤道付近の熱帯雨林を避けてビクトリア湖周辺を二次的中心として赤道以南の東・南アフリカに拡散した。東・南アフリカ諸地域では、鉄の文化を有するバントゥーが金属器のないそれまでの採集狩猟類コイサン系住民と交流・置換して、現在の民族分布を形成するのに伴い、鉄の文化の前線がアフリカ大陸を南下した。バントゥー諸語で漁労・牧畜用語と並び冶金用語の共通性が高いことはアフリカ文化史上での鉄の重要性を物語っている。
前記のユーラシア大陸北部、インド半島部、東南アジアには鉄の文化のない民族が存在し続けた。北部ユーラシア大陸の東部(東シベリア、中国東北部、沿海州)では紀元前後に鉄生産が開始し、青銅器文化の発達をみた中部(南シベリア)でもやや遅れて5世紀ごろから鉄製品が普及し、北欧では前5世紀前後にすでに鉄の文化の前線が北上していたが、ユーラシア大陸の北極圏地域には鉄の文化が浸透しなかった。インド半島部では紀元前後から鉄使用が始まり、中世には原料鉄の輸出地帯でもあったが、部分的に鉄の文化のない民族が残存した。東南アジアでも、前5世紀ごろから、まず東アジア、ついで南アジアの鉄器が知られたが、鉄の本格的な流通が遅れ、少なからぬ民族が鉄の文化をもたないままに終わった。
南北アメリカでは、メキシコのアステカ人が隕鉄(いんてつ)から極少量の鉄製品をつくったが、それ以外の鉄利用はインカなどの高文化でもみいだされない。
[佐々木明]
鉄の文化の浸透過程がどこかで阻害されると鉄の普及が遅れ、鉄の文化のない民族を部分的に残存させがちであった。開拓前線での鉄斧(てっぷ)などの使用で形成過程が始まったが、隣接文化中心が青銅利器を供給し続けた地域では鉄斧が遅れやすかった。鉄斧などを用いて森林を大量伐採すれば、耕地を拡大するとともに、製鉄に要する大量の燃料を確保できた。適当な森林がなければ燃料を確保できなかった。耕地の急拡大はやや劣悪な環境での粗放農耕でも一定規模の人口維持を可能にした。この条件が満たされれば地表に一定濃度の鉄資源が存在するので、氷雪などが採取を妨げない限り、他の文化要素は貧弱だが極小規模の移動的人口が開拓前線で原料鉄を生産し、鉄器生産中心地に原料を供給する構造が形成された。森林開拓前線が遠ざかるのに並行して、かつての原料鉄供給地の耕地・農業生産と人口が増大すれば鉄器生産中心でもある都市が成立し、鉄の高文化が長期間を経て成立した。
鉄の高文化の諸側面に、特徴的傾向を帯びさせたのは、鉄器生産の中心と原料鉄産地が離れがちだったことである。原料鉄生産には大量の薪炭つまり森林伐採を要したから、一面に耕地の広がる安定した農村地帯内の鉄製農具の原料自給は不可能であり、原料鉄供給地は中心的農村地帯から離れた開拓前線に立地した。農村地帯の中心に位置してそこから大量の食糧供給を受けた都市まで半製品原料鉄を長距離輸送し、高度な技術・施設を集中させた都市手工業が最小量の薪炭を用いて原料鉄を二次加工して、農具や武器などの鉄製品を製造する構造が出現しやすかった。鉄製品は定期市などの小市場を経て周辺農村に売却され、鉄流通量の多少により定住的もしくは移動的な鍛冶屋が農村内鉄製品を供給修理して、入手困難な有用材料を最大限に活用するシステムが、鉄の高文化の経済的構造の基調となる傾向が強かった。
[佐々木明]
鉄の高文化の政治的傾向はこの経済的傾向と関連する。この経済構造では、都市加工業者の社会的上昇を制限しなければ、農具生産による巨大な富の蓄積と武器供給の独占により加工業者の政治力が増大し、支配確立過程でやはり鉄流通に関与した既存政体を脅かす可能性が高い。この事態を避け、かつ財政的基盤をも確保する目的で、鉄の高文化の政治権力が鉄流通の独占を図ることが多かった。西アジアでは鉄器時代冒頭のヒッタイトが鉄流通を独占し、首都の遺跡から約150トンの原料鉄が出土したアッシリアのサルゴン2世時代には各都市の国営倉庫を経由して指定製品を製造した指定手工業者に国家購入した原料鉄を供給する体制をとった。東アジアでは中国で何回か鉄専売制が採用され、とりわけ前漢武帝の政策(前119)が有名である。日本でも、5世紀の畿内(きない)古墳から朝鮮半島南部で入手したとみられる原料鉄の副葬例が知られ、律令(りつりょう)制下での禄、賞、賻(ふ)として鍬(くわ)、鉄、かなえが下賜された例があり、両時代の政治権力と鉄独占との関係が想定される。東半球の周辺的地域にみられる鍛冶屋の高い社会的地位は鉄の高文化の形成過程での製鉄手工業者の地位の高さと関連する。これとは逆に鍛冶屋を社会的に差別する、より一般的な傾向は、鉄流通量が十分大きい鉄の高文化では製鉄業者の権利制限傾向と関連するとみることができるが、鉄流通量が十分大きくない鉄の文化では、少ない仕事を求めて移動し、社会的に不安定で経済的にも恵まれぬ状況への軽蔑(けいべつ)の結果とみるべきだろう。
[佐々木明]
鉄の高文化の宗教的傾向はこの政治的傾向と関連する。高文化の文芸的伝統では鉄を堅固さの象徴とするが、宗教的には鉄の象徴的地位を低く設定する傾向が強い。ユダヤ教でのエルサレム神殿への鉄持ち込みの禁止、ローマ時代聖職者の鉄製かみそりの使用禁止はこの例である。東アジアの仏教でも鉄機地獄などに死との象徴的関連を指摘できる。これに対して、都市支配の確立していない鉄の文化、または鉄の高文化の被支配層では、鉄の有用性と高価格性の認識と並行した特殊な霊力を鉄に認める傾向が強い。除魔に鉄の利器を用いる東南アジアなどの事例、蹄鉄(ていてつ)を除魔招福に用いる各地の風習などがこの例である。日本では鉄針で蛇神から身を守る蛇婿入り説話があり、関連する民間信仰が中部地方から報告されている。ただし、東地中海での製鉄開始期を除けば、鉄の呪術(じゅじゅつ)的・宗教的用途は世界的に青銅に比して顕著でなく、鉄の象徴主義もやや貧弱である。
[佐々木明]
『ルードヴィッヒ・ベック著、中沢護人訳『鉄の歴史』全5巻17冊(1968~1981・たたら書房・米子市)』▽『東京工業大学製鉄史研究会編『古代日本の鉄と社会』(1982・平凡社選書)』▽『森浩一編『日本民俗文化大系3 稲と鉄』(1984・小学館)』▽『朝日新聞社編『シリーズ金属の文化2 鉄の博物誌 もっとも身近な金属』(1985・朝日新聞社)』▽『田口勇著『ポピュラーサイエンス 鉄の歴史と化学』(1988・裳華房)』▽『女子栄養大学出版部編・刊『食事で鉄分をとる――貧血を防ぐために』(1991)』▽『奥野正男著『鉄の古代史』1~3(1991~2000・白水社)』▽『真弓常忠著『古代の鉄と神々』改訂新版(1997・学生社)』▽『井上勝也著『鉄は活きた元素』(2001・研成社)』▽『佐々木稔編著、赤沼英男・神崎勝・五十川伸矢・古瀬清秀著『鉄と銅の生産の歴史――古代から近世初頭にいたる』(2002・雄山閣)』▽『新日本製鉄編著『カラー図解 鉄と鉄鋼がわかる本』(2004・日本実業出版社)』▽『菱田明・佐々木敏監修『日本人の食事摂取基準2015年版――厚生労働省「日本人の食事摂取基準」策定検討会報告書』(2014・第一出版)』▽『窪田蔵郎著『鉄から読む日本の歴史』(講談社学術文庫)』
鉄
元素記号 Fe
原子番号 26
原子量 55.847±3
融点 1540℃
沸点 2750℃
比重 固体 7.874(測定温度20℃)
液体 6.9(測定温度1535℃)
結晶系 γ;立方
元素存在度 宇宙(Si106個当たりの原子数)
8.90×105(第9位)
地殻 5.63%(第4位)
海水 2μg/dm3
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
Fe.原子番号26の元素.電子配置[Ar]3d64s2の周期表8族遷移金属元素.原子量55.845(2).天然に存在する同位体存在比は質量数54(5.845(35)%),56(91.754(36)%),57(2.1191(10)%),58(0.282(4)%).質量数45~72の放射性同位体核種が知られている.59Fe(半減期44.5 d,β- 崩壊)は医学,生化学,合金学でトレーサーとして利用される.元素記号は鉄のラテン語名ferrumから.宇田川榕菴は天保8年(1837年)に出版した「舎密開宗」で勿爾律母(フェルリュム)鐵としている.
地球上に広くかつ多量に存在し,金属としてはアルミニウムについで多い.有史以前から利用されている.地殻中の存在度7.07%.宇宙でも存在度順位10位.ロシア,オーストラリア,ウクライナ,中国,ブラジルが主要鉄資源国である.世界の粗鋼生産量年間13億 t(2007年).1位中国4.8億 t,2位日本1.2億 t,3位アメリカ1億 t(2007年).おもな鉱石は赤鉄鉱,磁鉄鉱,黄鉄鉱,りょう鉄鉱,褐鉄鉱で,これらを焼いて得られた酸化鉄を高炉(約1800 ℃)で,コークスの燃焼で発生する一酸化炭素で還元してまず銑鉄(炭素含有量2~5%)とし,これを転炉で酸素を吹き込んで炭素やリンなどを除いて粗鋼をつくる(転炉法).わが国では,スクラップを原料とし,電気炉で精錬する電気炉法によって,鋼材の約1/4を生産している.炭素含有量が少ないほど柔らかくなり,0.15% 以下は極軟鋼とよばれる.99.999% 以上の高純度になると酸に侵されにくく,さびにくくなる,可塑性が増す,など化学的性質,機械的性質の向上がみられる.鉄の純度に応じて純鉄,電解鉄,炭素鋼,合金鋼などという.用途に応じて微量成分を調整して出荷する.生物圏ではヘモグロビン中に0.43% 含まれ,生物体にとってもっとも重要な元素である.純鉄は光沢のある白色で,展延性に富む.密度7.874 g cm-3(20 ℃),7.035 g cm-3(液体,1535 ℃).融点1535 ℃,沸点2750 ℃.原子半径0.126 nm.同素体は3種類あり,普通に用いられるα鉄は体心立方格子,910 ℃ 以上でγ鉄は面心立方格子,1390 ℃ 以上でδ鉄は体心立方格子である.α鉄は強磁性であるが,キュリー点770 ℃ 以上で常磁性となる.γ,δ鉄は常磁性.酸化数-2~6であるが,2と3が主である.酸素気流中で燃え,また熱すると水蒸気と反応して,ともにFe3O4を生じる.非酸化性の希酸には水素を発生して溶け,鉄(Ⅱ)塩となる.濃硝酸では不動態を生じる.希アルカリに不溶,濃アルカリには酸素の存在で加熱すると溶ける.高温・高圧の一酸化炭素と化合してカルボニルをつくる.産業の根幹を担うもっとも重要な金属である.微粉状純鉄は磁気記録用媒体として利用される.[CAS 7439-89-6][別用語参照]鋳鉄,はがね(鋼)
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
鉱石としての鉄ではなく,金属鉄として使用可能であったのは隕鉄(いんてつ)である。ニッケルを含む良質の金属であるが堅い。前4千年紀のエジプトのゲルゼー前王朝期の墓から,隕鉄製小玉,また,第4王朝のクフ王のピラミッドからは彫刻用の鑿(のみ)が知られている。しかし,最古の錬鉄の例は,北シリアのチャガール・バザール(前3000~前2700年)とバグダード近くのアスマール(前2800~前2700年)出土の短剣である。これは西南アジアに,前3千年紀の前半に鉄の製錬技術の存在したことを示す例である。鉄に関する記録の現れるのは前1400年頃で,アナトリアの支配権を掌握していたヒッタイトにおいてである。この精錬技術は,オリエントからキプロス島,クレタ島,ヨーロッパへと伝わった。インドではアーリヤ人侵入(前2千年紀)以後,初めて鉄を知るに至ったが,マヤ文明,インカ文明はついに知るところがなかった。前1千年紀ともなると,西南アジアにおける鉄利器の生産には著しいものがあり,バビロニアの鉄文化はやがてカフカース,ペルシア方面経由で,北方の遊牧民スキタイにまで伝播するところとなった。ヨーロッパでは,カフカース鉄器文化の流れをくむ初期鉄器時代文化であるハルシュタット文化とラ・テーヌ文化もその頃興っている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…古くは春秋,戦国時代,山東の斉は管仲の手により,塩を国家統制下にいれ,富強をもたらしたといわれる。鉄とともに中国全土に塩の専売が実施されたのは漢の武帝の前119年(元狩4)である。農具を中心とした鉄器の普及と商品化は生産力を飛躍的に増加させ,同時に食生活を豊かに分化させる。…
…材質と鋳物の種類によって,適切な鋳込み温度が定まっており,溶湯を測温して確かめる。ねずみ鋳鉄の場合には,湯面模様によって溶湯の温度を判断することも広く行われている。注湯する場合には,取鍋をクレーンで吊って運ぶか,小物では,湯汲みを使って行われる。…
…鉄鋼業はしばしば〈産業の米〉といわれる基礎素材としての鉄鋼材を諸産業に供給する基幹産業である。鉄鋼材には純鉄,銑鉄,鋼,フェロアロイ(合金鉄)などがあるが,最も広範に使用されるのは銑鉄と鋼である。…
※「鉄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新