(読み)シ

デジタル大辞泉 「市」の意味・読み・例文・類語

し【市】[漢字項目]

[音](漢) [訓]いち
学習漢字]2年
〈シ〉
物を売り買いする所。いち。「市況市場市販
人の集まるにぎやかな所。まち。「市街市井市中城市都市坊市
行政区画の一。「市営市長市民市立
〈いち〉「市場朝市魚市闇市やみいち
[名のり]ち・なが・まち

いち【市】

毎日、または一定の日に物を持ち寄り売買・交換すること。また、その場所。市場。「が立つ」「朝顔
多くの人が集まる所。原始社会や古代社会では、歌垣うたがき・祭祀・会合・物品交換などに用いられた場所。
市街。町。
「野を越え山越え、…シラクスの―にやって来た」〈太宰・走れメロス〉
[類語]市場河岸バザールマーケット取引所朝市競り市年の市草市蚤の市バザーフリーマーケットガレージセール

し【市】

地方公共団体の一。人口5万以上で、中心市街地の戸数が全戸数の6割以上であること、各都道府県の条例で定める都市としての施設その他の要件をそなえているもの、などの条件を満たしていなくてはならない。

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精選版 日本国語大辞典 「市」の意味・読み・例文・類語

いち【市】

  1. 〘 名詞 〙
  2. [ 一 ]
    1. 人が多く集まる所。原始社会や古代社会で、高所や大木の生えている神聖な場所を選び、物品交換、会合、歌垣(うたがき)などを行なった。
      1. [初出の実例]「大和の この高市(たけち)に 小高(こだか)る 伊知(イチ)の高処(つかさ)」(出典:古事記(712)下・歌謡)
    2. 特に物品の交換や売買を行なう所。市場。日を定めて定期的に開かれるものと、毎日定時的に開かれるものとがある。
      1. 市<b>[ 一 ]</b><b>②</b>〈一遍聖絵〉
        [ 一 ]〈一遍聖絵〉
      2. [初出の実例]「西の市(いち)にただ独り出でて眼並べず買ひてし絹の商(あき)じこりかも」(出典:万葉集(8C後)七・一二六四)
      3. 「よき人々いちにいきてなむ色好むわざはしける」(出典:大和物語(947‐957頃)一〇三)
    3. ( 「とし(年)の市(いち)」の略 ) 特に一二月一七、一八日の浅草観音の市をいうことが多い。
      1. [初出の実例]「市帰り大戸上げろとしょって居る」(出典:雑俳・柳多留‐五(1770))
    4. 市街。まち。
      1. [初出の実例]「数ならぬ我が身はいちの溝なれや行きかふ人の越えぬなければ」(出典:散木奇歌集(1128頃)雑)
  3. [ 二 ]いちこ(市子)」の略。
    1. [初出の実例]「いただいて・鈴より市の笑ひ㒵(がお)」(出典:雑俳・西国船(1702))

し【市】

  1. 〘 名詞 〙
  2. まち。市街。人の多く集まる所。
    1. [初出の実例]「市令とは市の公事をはからう者ぞ」(出典:史記抄(1477)一五)
    2. [その他の文献]〔書経‐説命〕
  3. 普通地方公共団体の一つ。人口五万以上で、中心市街地の戸数が全戸数の六割以上であること、商工業その他都市的企業に従事する者の数が全人口の六割以上であること、また、都道府県の条例で定める都市的施設その他の都市的要件を備えていることなどの条件を満たしていなければならない。議決機関として市議会、執行機関として市長を置く。
  4. いち。いちば。〔易経‐繋辞下〕

ち【市】

  1. 〘 造語要素 〙(いち)の意を表わす。あるいは「いち」の略か。「たけち(高市)」「あゆち(年魚市)」「つばいち(海柘榴市)」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「市」の意味・わかりやすい解説

市 (いち)

交易・売買取引のための会同場所。市場(いちば)ともいう。いろいろな形態の市が,古代から世界のほとんどの社会に認められる。K.ポランニーによれば,人間社会の歴史全体からみると,生産と分配の過程には,三つの類型の社会制度が存在しており,古代あるいは未開の社会から現代諸社会まで,それらが単一にあるいは複合しながら経済過程の機構をつくってきた。それらは,(1)互酬reciprocity 諸社会集団が特定のパターンに従って相互に贈与しあう,(2)再分配redistribution 族長・王など,その社会の権力の中心にものが集まり,それから再び成員にもたらされる,(3)交換exchange ものとものとの等価性が当事者間で了解されるに十分なだけの安定した価値体系が成立しているもとで,個人間・集団間に交わされる財・サービス等の往復運動,の3類型であり,それぞれの類型は社会構造と密接に連関をもって存在している。市は,この(3)の〈交換〉が成立する社会がつくり出した方式である。部族間,領国間,あるいはそれぞれの内部で敵対関係がやみ,平和的な交渉がもたれるようになると,平地農耕民や山地民,漁労民,牧畜民あるいは都市民など生産形態を異にする人々が取引・交易の動機をもって会同するようになり,交通の便のよいところ,目印になるものがあるところなど特定の地点に,定期的に交易場が開かれるようになる。古代社会でも,また未開的あるいは部族的社会でも高度に組織化された市が存在した例は少なくない。しかし,それらはその社会の生産と分配の過程の補助的手段にすぎず,互酬や再分配の原理によって統合されている基本的な経済機構の外に存在していた。その点において,今日の社会を主導している近代西欧的な市場(しじよう)社会とは大きく異なるのである。市は,交換の比率が需要と供給によって決定される場であるが,交換原理が卓越して,ものに限らず土地・労働力も商品化され取引されるようになり,価格決定の場としての市場体系が,社会をあるいは経済を決定するようになったのが近代西欧的な社会である。

 アフリカ社会の市の人類学的研究を行ったボハナンPaul BohannanとダルトンGeorge Daltonは,売買取引の特定の場である〈市場marketplace〉と,需給関係によって価格が決定される〈市場交換原理principle of market exchange〉とを区別し,近代社会以外にも市場交換原理の作用する場合が見いだされることを指摘し,場としての市と市場交換原理が果たす役割に基づいて,社会を次の三つに分類した。(1)市場欠如型社会 場としての市がなく,市場交換原理も作用するとすれば個人間にあらわれるにすぎない。(2)外縁市場peripheral market型社会 市も市場交換原理も存在するが,作用するのは市場にあらわれる限られた商品に対してであり,土地や労働力は市場交換原理の作用をうけない。生産者も買手も生計を維持するのに,基本的には市場と市場交換原理に依存していない。(3)市場交換原理支配型社会 市は,買手・売手または生産者にとっては,生活維持のための物資購入・現金収入の場であり,双方の需給関係で形成される交換原理と価格決定で動かされている社会である。(1)や(2)の社会では,互酬や再分配の原理が働いており,その周辺で市や市場交換原理が存在するにすぎない。

 市が成立するような社会の一般的特質として,次のようなことを指摘することができる。市は,農耕民を中心に発達する例が多いが,非農業的人口がその周辺にある程度集住して都市民の出現がみられること。また,農民の大部分は小農peasantであるにしても,都市民などに収穫の一部を提供できる生産基盤の安定・成熟がみられること,である。個々の動機に基づく市での売買を通して,農民は新しい財や経済活動に対する新しい行動様式を身につけ,貨幣経済の浸透を促進した。都市の発達は市の発達を促し,局地的な市場網が形成され,さらに広域にわたる経済的結合の網の目がつくられていった。市での売買をなりわいとする人々の中には,各地の市を巡回し特産物の取引を行う商人も出現した。

 市は,都市と村落の人々の相互交流の場でもあり,ものと人の集散の場,情報の集散の場でもある。市が開設された場所として,社寺の庭,門前,宗教的権威の下に保護された場所,広場等があげられるように,単に商業的活動のセンターであるばかりではなく,そこに集まる群衆を対象とし,また彼らを主人公として,その地域の多彩な催し事が繰り広げられる場であった。人々はそこで,ものの売買ばかりではなく,一種の興奮をよびおこす雰囲気を味わい,自らもそれに参加することになる。特に村落の人々にとっては,都市と市は,村落社会の伝統や秩序からはなれ,未知の人と出会い,売買の駆引きなどを通して,村落の日常生活では経験しえない体験をする場である。その点では非日常的であるが,市がある時はいつでも誰でも参加できるという日常性もあり,そこでは帰属すべき秩序が一時的になくなったり緩んだりするのである。市は一面において,人混みの雑踏や騒音にかこまれた偶然性の中で売買を成立させて経済活動を達成させる。こうした側面を構成する要素は,まさに祝祭を構成するそれと同様である。ここに,市のもつ祝祭的性格という点が着目されるのである。社会的休日あるいは宗教的祝祭日が重なり,さらに人出がふえ非日常性が増すことによって,市のこうした局面は,縁日やカーニバルへと連続していく様相をみせる。当然そうした場には,見世物,芸人も登場し,見せる者と見る者が一体となった大道芸が展開される。このように市やその周辺には,祝祭的・芸能的な構成要素が認められる。また市は,その社会の基層文化を陳列する場のひとつであるともいえる。アフリカの市などで,マーケット・マザーmarket motherと呼ばれる女性が,タバコなどを商いながら占師やある種の宗教的職能者をつとめ,依頼者に応じることがみられる。解放感,期待感,猥雑感も,市や都市の重要な雰囲気である。こうしたさまざまな要素が十分に発揮されることが,市に活況を呈させ,統治者や土地の有力者は市を保護し,市の平和や自由を維持するための規制をしいたりした。

 市はその交換原理によって成立するが,市が存在した大部分の社会では,血縁・地縁などの社会関係の中に組み込まれている互酬や再分配の原理と共にあり,交換原理が伝統的な社会関係をつきくずすことはなかった。しかし,近代西欧の資本主義社会に特有の,交換原理の優越した経済体系が,世界的に拡張していったとき,非西欧的伝統社会の経済的側面・社会的側面に重大な影響を及ぼした。これらの伝統的社会は,前述のように近代西欧社会の構成原理と大きく異なっており,西欧社会との接触を通して,その異質性は文化人類学などの研究対象となった。そこでの問題は,伝統的社会の構成やその社会内の経済過程についてであり,近代西欧社会が押しつけた市場交換経済・貨幣経済による伝統的社会の変容についてであった。市についての研究は,征服や植民地下で急激な変化や衝撃が大きかったアフリカやアメリカ大陸の研究において進展と蓄積がみられる。
経済人類学 →交換 →市場(しじょう) →都市
執筆者:

ヨーロッパにおける市の発展はヨーロッパ社会の根幹と深くかかわり,他の諸文明とは異なったヨーロッパの特質を浮かび上がらせている。しかし食糧や生活必需品を少量でも購入できる交換の場としての市は決して西洋に固有のものではなく,世界各地にみられ,古い歴史をもっている。互酬と再分配を経済活動の基本構造としている社会においても祭礼や儀式と結びついた市があり,それは政治活動の場でもあった。そのような市として古代ギリシア・ローマのポリスのアゴラやフォルムforumがあり,奴隷,家畜,衣服,金銀細工品その他の取引が行われた。エンポリウムemporiumも同様の機能をもっていた。前4世紀アレクサンドリアの建設によって供給が価格に応じて変動する市場価格形成の場が生まれ,政治や軍事力によってではなく,現実の必要に応じて供給が合理的に動くようになった。この新しい市場組織はローマ帝国の台頭によってついえてしまうが,このような市場組織を生みえた地中海文明の存在はのちのヨーロッパの発展にとって無視しえない影響力をもつものであった。

 アルプス以北の地域においてもローマのコハク商人の進出に際して宿営所となった特定の集落があり,コハクの道沿いに旅籠(はたご)が数軒並んでいた。この集落はラテン語でタベルナtabernaまたはフォルムと呼ばれ,そこで市が開かれ近隣農民との取引が行われていた。のちにこれらの旅籠を主体とする集落はリシュケlischkeと呼ばれ,都市的形態をとるようになる。ウィクwik/vikと呼ばれる集落も交通の要衝にあり,同様な性格をもっていたと考えられる。

 コハクの道からはずれたところにも小さな市がしばしば設定されていたが,そこには近隣の農民がわずかな鶏卵,羊毛などを取引するためにやってくるにすぎず,ピレンヌのいうように〈周囲の人々の家計の必要を満足させ……人間のもって生まれた社交的本能の満足に限られた〉ものであった。〈御料地での市場をうろつきまわること〉がカール大帝の御料地令(54条)で荘民に禁じられているが,これも市が遊びの場でもあったことを示している。饗宴と見世物が市のおもな呼び物となっていたからである。コハク商人やユダヤ人と接触のあったところ以外はほとんどこのような状態であり,パリに近いサン・ドニの市のように,すでに8世紀に1年に1度,遠方から巡礼とともに多くの売手や買手を集めたところはわずかであった。

 9世紀ころまでこのような状況であった西欧社会のなかに成立した都市は,のちに価格形成市場としての機能をもつことになる市場の萌芽を内包するものであった。はじめ王侯の居城や商品集散地,そして教会,修道院の近くで祝祭日に開かれていた市は,やがて広範囲にわたる訪問者をもつ歳市Jahrmarktと近隣農民の家計の必要のための週市Wochenmarktに分けられるようになった。歳市はキリスト教の献堂式などの祭日に開かれることが多く,1日から2週間位つづくものもあった。週市は本来は1日限りであり,のちになって2日開かれる場合もあった。日曜日の市や特定の品物の市などは週市の変形であった。市を意味するドイツ語のメッセMesseは教会のミサに由来する言葉で,転じてミサのあとに開かれる市をも示すようになった。マルクトMarktはラテン語のmercatusに由来し,〈買う〉〈商う〉に主たる意味がある。11,12世紀にはこうした先駆的形態の集落から都市が成立していった。
都市
 市場Marktこそ都市生活の中心であり,市場をもたない都市はなかった。市場は町の中央にあり,石で舗装されている場合も多かった。北ドイツの都市の市場にはローラン(ローラント)の像が立っているが,これは都市の特権と自由のしるしであり,市場平和のしるしとしての十字架も同様の意味をもっており,ときには王が市場の自由を承認したしるしとして,この十字架に手袋がかけてあった。カール大帝以来開市権は王の大権(レガーリエン)に数えられ,王の特許状をえてはじめて市の開設が認められたからである。かつて武装した集団の食糧補給・休息の場であり,祭礼の場でもあった市は平和の場として位置づけられていたが,市場平和はこの平和領域(アジール)としての性格に負うものであり,市を訪れる者に平和が保障されていた。市を訪れる者が市の外で犯した犯罪への報復や彼らが負っている債務の徴収は市では禁止されていた。

 都市内に成立した市場は常設の市として都市生活のなかできわめて重要な役割を果たしていた。まず第1に市場に面して市参事会堂や教会が建てられていた。市場は市民集会の場であり,都市法に基づく裁判の場でもあった。机といすがおかれた青空の下で囲いがつくられ,裁判が開かれるのが古来の慣習であった。のちになって裁判は特定の建物のなかで開かれるようになる。ついで市場は処刑の場でもあった。すべての都市市場にさらし台や絞首台がおかれ,公開処刑が行われた。しかし市場の最も重要な機能は,市の手工業生産物や近隣の農業生産物の取引であった。都市市場における取引には場所と時間が限定されており,初期には小路に,12世紀後半には市場広場に屋台が並べられ,肉や魚,パン,皮製品,衣類,靴その他の品物が取引された。屋台のほかに小屋がけの店もあり,いずれも所有権は都市共同体にあったから商人は店賃(たなちん)を支払わねばならなかった。これらの屋台などはギルド,ツンフトを通して市から借り出すものであったから,各職種によって屋台の数もはっきり定められており,かってに屋台をつくることはできなかった。のちになると,これらの店は建物のなかに吸収されていく。夜間には雨戸となる大きな板をおろし,支柱で支えてその上に品物をおいて商いがなされていた。

 週市も歳市もの音によって開催が告示された。市場開催の鐘が鳴るまでは取引をしてはならなかった。市の終了も鐘の音によって告げられ,ときにこの鐘は市から帰る人が1マイル歩けるあいだ鳴らしつづける場合もあった。禁制圏内に住む者が無事に家に戻るあいだ安全を保障するためであった。都市成立後は朝の鐘が市門を開く合図となり,それが同時に商工業の営業開始の合図でもあった。朝の鐘とともに公的生活が始まったのである。夕べの鐘は2回鳴らされた。第1の鐘は夕方6時ころに鳴らされる晩禱の鐘であり,第2の鐘は夏なら9時ころ,冬なら8時ころに鳴らされた。第1の鐘は昼の仕事の終了を意味し,法行為の有効期間が終わったことを示していた。裁判も陽光の下で開かれねばならず,すべての法は陽光の下で告示されたからである。夕べの第2の鐘は夜の時間の始まりを示し,この鐘の音とともに市門が閉じられ,市民の夜警の義務が始まった。以後の就労は禁止され,各種の支払も第2の鐘が鳴り終わるまえに行わねばならなかった。また第2の鐘が鳴り終わるとすぐ灯火を消し,居酒屋も閉じられた。

 中世における市の機能は,シャンパーニュの市に代表されるような遠隔地商人のための仲立市場と,市民自身の商業取引の場とに分けることができる。前者はイタリア,プロバンスからフランドルにいたる大商業路にそって成立しており,シャンパーニュとブリーの歳市がその代表的なものであった。それらは交互に続けて一年中開かれており,織物,コショウや香料などの東方産品,皮革製品などの奢侈品が取引の中心をなしていた。シャンパーニュの歳市は,イタリアの地中海商業とフランドルの工業との接点としての意味をもっていたが,その影響は全ヨーロッパに及び,ドイツ人などもそこに商館をもっていた。シャンパーニュの歳市は13世紀後半には最盛期に達し,14世紀には衰退し始める。これは各地に都市が成立し,定住商人による商業が優勢になってきたためで,通商路の移動によるものであるが,のちのフランクフルトのメッセのように国際的な市としての性格をのこすものもあった。

 常設された都市市場は,貨幣経済の展開とともに市民の日常生活における人間関係を規定する重要な空間となっていった。しかし互酬と再分配の原則が残存している社会においては都市市場の成立が直ちに価格形成市場の成立を意味してはいなかった。中世ヨーロッパの都市市場においてはギルドとツンフトが結成され,仕入価格と小売価格,製品の質や量の管理を行っていた。ギルドやツンフトは古来の宗教的性格を加入儀礼や宴会,祭礼のなかに保持し,キリスト教化されたのちも,構成員の彼岸における死後の救いを媒介として結ばれた兄弟団を中核とするのであり,宴会を開き,あるいは参加する単位でもあった。対外的独占と対内的平等を原則とするギルド,ツンフトの存在は都市経済における価格形成市場の成立を阻害していたが,それにはキリスト教が互酬・再分配の関係に彼岸における救いを媒介として,新しい回路(無償の贈与)を設定したことが大きな契機となっていた。カトリック教会の教義の根底には贖宥(しよくゆう)の観念,つまり善行や喜捨,寄進に対して罪のゆるしが与えられるという形で互酬関係の原則が古代社会から流れこんでいたが,それは彼岸における救いを媒介として教会や公的機関に対する一方的な贈与の機会を増大させ,この原理が中世都市における人間関係の根底に流れていた。中世都市の商人たちは,あくことのない営利欲にかられて利潤追求を行う反面で,蓄えた財貨をときに宴会や祭り,喜捨,寄進という形で蕩尽し,彼岸における救いを祈願した。このような関係は16世紀にルターとカルバンの出現によって破られることとなる。現世における善行と彼岸における救いとの関連を拒否したルターによって古代的な互酬関係は払拭され,中世的都市経済を支えていた兄弟団的結合の原理にも大きな衝撃が加えられた。以後は経済と宗教は分離し,近代になって価格形成市場が出現することになるのだが,ヨーロッパの中世都市市場は古代的な互酬・再分配の関係から価格形成市場成立までの経過のなかで,世界史的にみても特異な存在であり,注目に値するものである。人と人とが出会い,飲食し,見世物を楽しみ,売手の呼声のこだまする市は,価格形成市場成立ののちも各都市に小規模な形で残存し,人間の原初の姿を今日に伝えているのである。
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各地にさまざまの,構造,機能,成立時期を異にした市がみられる。概略的には,東・中央アフリカでは植民地政府によって市が導入されたのに対し,西アフリカではそれ以前から市があり,植民地下でも固有の権力者の手にゆだねられてきたことが多い。17世紀末からヨーロッパと交易をもち,記録が残されている西アフリカのギニア海岸のダホメー族では,かなり発達した市をもち,子安貝と硬貨を併用した貨幣がみられた。18世紀には主要港ウィダに大市があり,肉,魚,穀類,野菜,果物,陶器,金物,護符,油などの生活物資や日用品がそれぞれ別の市で売られた。特にダホメー王国では,奴隷貿易の輸出にかかわって港が栄え,交換レートや関税を伴った流通機構が注目された。ナイジェリアのヨルバ族の市は,場所と周期によって5類型に分けられる。(1)まちの常設市,(2)まちの夕市,(3)いなかの夜市(定期的),(4)いなかの昼市(おもに肉),(5)いなかの市(数日ごとに定期的)というものであり,市の周期は8日ないしは4日である。19世紀後半,西欧の統治下で7曜週がとり入れられたが,元来は4日あるいは8日が1週であったようで,この周期にしたがって,市が立った。いなかの市の重要な立地条件は,半径数マイル内のすべての村から容易に行ける便のよいところということである。市場の売手にはほとんど女性がなり,かなり遠方まで頭上に品物をのせて歩いて行く。アフリカ社会の多くは夫方居住婚であるので,既婚女性は,生まれた村や血縁の人々との邂逅や接触を市でもつのである。また,北部ナイジェリアのハウサ族のように,さまざまな職業と産品があって自給性が高く,市が村落内での自給と交換のためにだけ機能している社会では,村落内の特定の場所で,決められた日に,決められた様式で市が立ち,村落間の交流はあまりみられない。

 市が発達し市場原理が作用している社会では,まちの市場が広い地域的市場圏と遠隔地交易の中心となり,経済的機能を果たすとともに,首長や祭祀者,役人が〈ふれ〉を出したり,またうわさや世間話など種々の情報伝達の場であり,社会生活の中心でもある。ブルキナファソのモシ族では,割礼などの加入儀礼や首長・長老の葬送に関連のある儀礼,一周忌,幼児死や死産の儀礼なども,市で行われる。また市には,祭祀の中心である神聖な場があり,ときに市の平和に関連する供儀などの宗教的活動を伴う。

 アフリカの市の状況は,19世紀後半の西欧社会による植民地化,政治的支配と,それに続く新興国家独立の激動のなかで,大きな衝撃と変容をうけた。さらに近代社会の市場原理に基づく経済と貨幣経済の侵入は,部族的社会を統合してきた互酬・再分配の原理とそれらの伝統的市で用いられた〈特定目的のための貨幣〉が担っていた社会的意味をつきくずし,とり結ばれていた社会関係に動揺を与えるようになった。
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イスラム世界において市はバーザールbāzārという名称で一般に呼ばれている。この語はペルシア語で,日本では慣用でバザールといい,アラビア語のスークsūqに相当する。

 バーザールやスークは,定期市,常設店舗の連なる市場の双方を指すが,歴史的には定期市のほうが早く知られている。イスラム勃興以前のアラビア半島では,多神教崇拝の偶像が祀られている聖域の近くで定期市が開催された。10ばかりの定期市のうち,ウカーズのそれが最も有名で,11月に市が立ち,クライシュ族など遊牧民が集まり,タミーム部族出身の管理人が十分の一税を徴収していた。

 7世紀以後,イスラム都市が各地にできてくると,常設店舗の集合としてのスークが形成されてきた。これは自然発生的にできた場合もあれば,人為的・計画的につくられた場合もある。前者は定期市が発展して常設店舗の市場になった場合である。イスラム都市は生活空間,行政単位として,いくつかの街区(ハーラ,マハッラ)に分けられていたが,その地区を東西南北に走る小路の辻で定期市が開かれ,これが常設店舗に発展したものが多い。これは流通範囲の限られた小市場であった。これに対して都市全体の流通の核となり,近郊の農村,遠隔地にもつながるような大市場が都市計画に従って建設された。アッバース朝の首都バグダードにあったカルフの商工業地区はこれの典型である。

 大市場のもつ流通機能をイランのイスファハーンのそれを例にとって説明しよう。この町のバーザールはアラブ征服時代からその原形があったが,16世紀サファビー朝時代に整備されて今のような形になった。〈王の広場〉が町の中心に配置され,その北側から北東のコフネ広場までドームの屋根で覆われたバーザールが連なっている。アーケードの通路からわきに入ると,キャラバン・サライの中庭に行くことができる。このような建築配置の中で,広場,常設店舗,キャラバンサライがそれぞれ流通機能を分担しあっていた。

 広場は一般にイスラム都市において処刑や外国使節を謁見する場所,練兵場として利用され,重要な機能をもっていた。〈王の広場〉も上記の機能のほかに,西に宮殿,南と東にシャー・モスクとロトフォッラー・モスクがあり,四方を常設店舗が取り囲んでいたので,政治・宗教・商業の機能をここに集中させていた。サファビー朝期には,フランス人の旅行家J.シャルダンの報告によると,毎日この広場が露天商の黒いテントで埋まったというから,常設店舗を補完する露店の市場であった。同じような状況は19世紀のブハラでも見られた。タジクの革命的文学者アイニーの自伝によると,ブハラ・ハーンの宮殿の前にあるアルグ広場は,処刑が執行された後,食料品屋,果物屋,菓子屋などの露天商に開放された。広場は常設店舗ができた後でも,依然として定期市が開かれる空間であった。コフネ広場では,19世紀に週3日,穀物,乾草,わら,薪,木炭を売買する市が立った。水曜日と金曜日の2日は,別に古物市が開催された。市民は不要になった衣類や道具を持って広場に集まり,相互に売買を行った。広場はまた特殊商品の卸売市が立つ所でもあった。19世紀のイスファハーンでは,四つの広場において果物,野菜,アヘンの取引が毎日行われた。果物の場合,その流通過程は次のとおりであった。まずボナクダールという卸売商人が近郊の村に果樹園を賃借し,ここでとれた果物をラクダ,ロバをひく運輸業者を雇って広場に運び込んだ。次いで仲買人立会いのもとに果物の小売商に卸し,大きな盆を頭に載せて運ぶ〈強力(ごうりき)〉に店先まで持って行かせた。

 広場には市場監督官(ムフタシブ)が,昼間常駐していたので,大市場全体を統轄する役割をもたされていた。ここにはまた,語り物師,吟遊詩人,軽業師,曲芸人,道化者,レスラー,ルーティーがやってきて,それぞれの芸を演じてみせた。これによって人がおのずから集まってきて,そこで相互に情報の交換がなされた。チャイハーネ(喫茶店)とともに,さまざまな種類の情報を含むバーザール風評なるものが出てくる所であった。

 常設店舗は大市場の中心をなし,小売商の店か手工業者が仕事をする生産の場であった。アッバース朝期のバグダードと同様,19世紀イスファハーンでも,染物師,更紗づくり,機織職人,菓子屋,鞍づくりなどが業種別に一区画を構成していた。これはギルドの成員が自主的にまとまったというより,むしろ政府の徴税,市場の監督の利便を考えてのことであった。何よりも店舗施設は政府の建設した固有の不動産施設であり,商人,職人は最初から賃貸者として統制されていた。常設店舗に隣接するキャラバンサライは,国際貿易に従事する大商人が隊商宿兼卸売事務所として使うもので,これによってバーザールが遠隔地貿易とつながっていた。

 大市場は以上のように,広場,常設店舗,キャラバンサライの三位一体の構造からなり,前近代における流通の根幹をなしていた。しかし,20世紀になると,新しい店舗が主要街路に沿ってつくられ,その比重が低下した。
ギルド →商人 →職人 →都市 →広場
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《日本書紀》《万葉集》などには,8世紀以前の市として〈餌香市(えがのいち)〉〈阿斗桑市(あとくわのいち)〉〈海柘榴市(つばいち)〉〈軽市(かるのいち)〉などがみえる。このうち〈海柘榴市〉は上ッ道,山辺道と横大路の交点付近に,〈軽市〉は下ッ道と山田~雷~丈六の道との交点付近など主要交通路の結節点に位置し,飛鳥の倭京の北東と南西にあって,これと密接な関係にあったらしい。同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。

 8世紀以降の奈良時代~平安初期においても,上述の市は存在し続けるが,それ以外にも《万葉集》に駿河国の〈安倍市〉,《日本霊異記》に美濃国の〈小川市〉,備後国の〈深津市〉,大和国の〈内(宇智)の市〉,紀伊国の〈市〉などが見える。このほか《風土記》にも商人の集まる場所が見えるから,各地に小規模な市が数多く存在したのであろう。これらのうち〈安倍市〉と〈深津市〉が国府に近いことが注目される。この2市以外にも,周防国府や和泉国府域内に〈市田〉〈市の辺〉の小字名が存し,また国府推定地周辺に市にちなむ地名が残っている場合は多い。後述の《枕草子》にみえる播磨国の〈餝磨(しかま)市〉もその一例であろう。これらの国府に近接する市〈国府市〉は,国の交易活動を支えるものであった。国は中央政府へ貢上する土毛,諸国(朝集使)貢献物,交易雑物さらに場合によっては調庸物の規定された品目数量をそろえるために,これらの市において交易を行った公算が大きい。したがってこれらの〈国府市〉で売買される物品には,その他の一般民衆の生活により密着した市で売買される生活必需品とは異なるものも含まれていた。それを示すのが〈深津市〉の場合で,この市には瀬戸内海対岸の讃岐を含むかなり遠方からも〈正月元日の物〉を求めて人々が集まっていた状況がうかがえる。この〈正月元日の物〉の具体的内容は明らかでないが,日常的消費物資とは異なる奢侈(しやし)品であろう。

 平安中・後期では,《枕草子》に当時著名な市として,〈辰市(たつのいち)〉〈椿市〉〈おふさの市〉〈餝磨市〉〈飛鳥の市〉が挙げられている。これらは,作者清少納言の注意を引いた市を列挙したまでであって,これ以外に多くの市があったことは言うまでもない。このうち〈辰市〉は平城古京の〈東市〉の後身と考えられる。また〈おふさの市〉〈餝磨市〉〈飛鳥の市〉などははじめて見えるもので,各地に新たな市が増えていることがうかがえる。
市司 →国市 →東市・西市
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平安京の東西市は,鎌倉期に入ると西市が消滅し,東市のみが残存,皇子女の五十日祝(いかのいわい)の祝餅などが買われている。京都の商業は,三条町,四条町,七条町などの町通り(現在の新町)の店舗商業を中心とするようになった。京都で市が開かれるのは虹市などの瑞祥によるものとか,寺社の祭礼日,歳市など,または特定職種の場合のみであった。

 これに対して,地方諸国における物資の交換取引の主要な場は中世を通じて市によった。すでに平安期から国衙(こくが)の周辺には国市(くにいち)が立てられ,調庸物や年貢公事物の交換の中心をなしていた。国津や社寺の門前にも市が立ちはじめ,干支による辰市や酉市なども開かれた。鎌倉期になると,月3度の定期市,いわゆる三斎市が多くなる。幕府の膝下,鎌倉では,1251年(建長3),大町など7ヵ所に市立ての場所が定められ,65年(文永2)は9ヵ所に増加している。諸国にも,交通の要衝に市が発達した。すでに《源平盛衰記》に出る,近江小脇の八日市や,《今昔物語集》の近江の矢橋(やばせ)の市など,文学作品にも多くあらわれる。これらの市で交換する物資は,年貢公事物か,その納入のためのものが多く,地頭,下司,公文などの在地領主による,中央の荘園領主への貢納品調達や自己の収納物の換貨のための利用が,大きな部分を占めた。したがって来往する商人も,〈京下りの商人〉と言われるように,中央から都や各地の特産物を持参し,地方の特産物を買い取っていく隔地間取引商人が多い。

 周辺農村の一般民衆が市に参加して,交換を行うのがきわだってくるのは,鎌倉末期から南北朝期にかけてである。《東関紀行》に,尾張の〈かやづ(萱津)の東宿の前を過れば,そこらの人あつまりて,里もひゞくばかりにののしりあへり,けふは市の日になむあたりたるとぞいふなる〉と生き生きと市日のさまが描かれている。街道筋の宿駅が,はや宿場町の様相を示しはじめ,周辺農村からの人々を加えて,市日の繁盛ぶりがうかがえるのである。この時期には周辺農村をまきこんで,旧来からの市はますます規模を拡大し,一方で新市が増加した。

 市には市姫神として市杵島(いちきしま)姫がまつられたが,のちには戎神(夷)がまつられるようになり,市場祭文が唱えられた。新市が開催されるときには,どこかの市から市神(いちがみ)を勧請してくるのが常であった。また例えば,近江国長野市は〈当国の親市〉と称したが,市相互の間にかかる本末関係があったものと思われる。人々が集まる市は芸能の場でもあり,説教の場でもあった。

 南北朝初期,宝市とうたわれた天王寺浜市(大阪)には,布座,米売,柑(こうじ)座など種々の商売物の座があり,また借屋があり,常住のものも見られた。備中国新見荘の市は,3の日に市が立ち,1334年(建武1)には,地頭方のみで,市場在家14軒の屋敷が存在している。領家方を加えると,その倍の規模をもつ市であり,定住化が進んでいたと考えられる。室町初期には,奈良では,南市,北市,高天市が毎日交替に開かれ,南市には30余の市座があった。1433年(永享5),安芸国沼田(ぬた)荘の安直(あじか)郷の市は,在家300宇,小坂郷新市(塩入市庭)は在家150宇を数えるほどの繁栄ぶりであった。これらに立売商人を入れると相当の規模をもつ。したがって,領地内に,大きな市が立つほどの交通の要衝をもった領主は,相当の収入源になった。薩摩入来院の領主渋谷氏は,借屋崎市について,〈領内に市あり,得分あるの地なり〉と,譲状に書いている。それゆえに領主は,市場に保護を加えるとともに,それを直接掌握下におこうとつとめた。小早川氏は,すでに南北朝期,市場における裁判権を掌握し,直接に裁決している。

 しかも鎌倉期の市場は,《一遍聖絵》において,市日のにぎやかな備前国福岡市と,その他の日の荒涼とした信濃国伴野市が描きわけられているように明暗がはっきりわかれていたが,この時期には,〈常住〉といわれるような定住店舗化したものも多く,それが市と併存している。市の開催日も六斎市と言われるような5日ごとの市が多くなる。美濃大矢田市や宇治の六斎市が著名である。これらの市の販売座席は,領主に公事物を納めることで,その権利を得た。狂言《柿売》に,〈罷出でたるは所の目代,富貴につき新市を立てうと存ずる。何によるまい一の棚を飾った者は,万雑公事を免さうと存ずる〉とあるのが,その事情を示している。市には市目代や市預(いちあずかり)がおかれていて,市を管理した。その販売座席の占有権が既得権化して,営業権となり,さらに独占権となるものが多く,座商と言われるもととなった。近江湖東の保内(ほない)商人や小幡商人たちは,この市の独占をめぐって,激烈な争論をくりひろげたことで有名である。

 さて,年貢物の代銭納を契機として,農村への商品経済の浸透はますます盛んとなり,農村市場の簇生をもたらした。例えば,尾張国では室町期の農村市場の簇生は,2~3kmごとに検出できるといわれている。少しおくれて,武蔵・相模国でも,戦国期には,8~10kmごとに市が立てられていた。これらの市は,商品経済の発展にしたがってしだいに淘汰され,大きな市に統合されていった。そして市町といわれる町場と市との併存形態の中心集落が形成された。この中心集落は在地武士の城館と結合する場合が多く,尾張国では,16世紀,19の中心集落が,城下市町として,ほぼ4~6kmの間隔で分布して形成されていた。近江国では同じころ,大名六角氏の家臣たちの支配する市が,いくつか見える。九里(くのり)員秀の支配する馬淵市,建部直秀の八日市,嶋郷秀堪の嶋郷(しまのごう)市などが見られるが,これらはかかる市町併存の中心集落であったと見ることができる。

 かかる中心集落=市町とは別に,大規模な市が領主によって立てられる場合もあった。1486年(文明18),大和国矢木に,土豪の越智氏と岸田氏が申し合わせ,11月13日より1ヵ月,毎日,市を立て,数百間の屋形を打って,市場税を取った。1572年(元亀3),武田氏は,駿河国臨済寺門前に一百軒の市屋形を立てて,月6回の定期市を開いている。

 市場税は領主の大きな収入源であったため,領主は市に対して積極的な保護を加えるとともに,市を支配下に掌握しようとした。戦国も後期となると,戦国大名は領国経済の活発化と,土豪支配下にある市を直接掌握するために,積極的な市立て政策を行った。新市新宿を立てて,警察的取締りを行い,押買(おしがい)狼藉や喧嘩口論,国質・所質などの借銭取立てを禁止するなど保護を加えた。ときには〈町人さばき〉と言われて,町人の自治が認められている場合もある。例えば,1585年(天正13),後北条氏治下の武州松山本郷の市では,〈市の日商人中にていか様の問答これある共,奉公人一言も綺(いろ)ふべからず,町人さはきたるへき事〉として,商人たちの争論の裁決は,町人の自治によることを規定している。

 さらに,楽市として,市場税を免除し,市座の独占など専売座席を廃止して,商人が自由に商取引ができるようにした(楽市・楽座)。これは当時の商業流通が進んで,問屋と小売が分離し,問屋が独占権も掌握して,市座などの小売商人の独占権が,大問屋の担う商品流通の妨げとなったことによる。また,大問屋を御用商人として大名が掌握したことにもよる。

 以上のような楽市政策は,近江の六角氏が観音寺城の城下町として,石寺を楽市とした1549年(天文18)を初見とし,戦国大名の城下町経営のために用いられている。今川氏の66年(永禄9),駿河大宮,織田信長の67年,加納楽市場などをはじめとして枚挙にいとまがない。後北条氏,吉良氏など,あるいは徳川家康,豊臣秀吉および織豊2氏の家臣の新城下町経営に多い。信長の安土山下町や,秀吉の姫路などがその代表であろう。

 もちろん大名の政策以前に楽市は存在したのであり,1558年,自治都市の桑名は,昔より〈十楽の津〉であったといわれている。すなわち,自治の市政機関が楽市という原則をうちだしたわけである。したがって,領主・大名権力によらず,商工業者が楽市を主唱するためには自治の主体が形成されていなければならず,定住店舗化し,都市共同体が形成され,市政を掌握してはじめて,かかる政策がうちだせるのであって,定期市段階では,その主体の形成の条件を欠くものであろう。また,自治都市にも,山城国の大山崎のように,楽市とは反対の封鎖的な座特権の町も多い。ともあれ,楽市も,都市膨張期,城下町建設時代の産物であって,のちには,都市全般に封鎖的傾向が強くなると言えよう。

 市は,定住店舗による町の発展ののちも,併設されていたが,だんだん少なくなっていった。それとは別に,中世後期から一定の職種を専門とする卸売市場が各地におこった。その早い例として,南北朝期,淀川を上ってくる塩,塩合物(塩魚)に限って独占的に商う淀魚市があった(魚市)。これは石清水八幡宮に所属する神人である淀魚市問丸が,着岸強制権と専買権を有したもので,その卸売市場であった。室町中期,京都の三条と七条にできた米場は,四府駕輿丁座(しふのかよちようざ)に所属する米座が独占するところで,京中へ運び込まれるすべての米は,米場に着けることが強制され,米場はその米の専売権を有したのである。この米場は,江戸期大坂の堂島米市場の先駆をなすものである。京都にも馬市があったが,戦国時代には,各地に,馬市,牛市が立てられた。美濃国大矢田市も,美濃紙特産地の市として,紙が取引の主要商品であり,その紙を買い付けて京都へ運ぶ専門の商人,近江湖東の枝村商人が存在したのである。各地の特産物生産がいちじるしく発展した中世後期,このような特産物が主として放出される地元の市場の存在は注目される。
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近世になると六斎市のありかたに異なった二つの現象が見られる。一つは中世以来の六斎市のおびただしい消滅であり,もう一つは,これとまったく逆に,新しい六斎市が各地に出現することである。このような近世初期に見られる六斎市の推移について,これを中世の六斎市が崩壊,消滅していくものと考える見方と,領主による市の編成替えと考える見方がある。前者については,中世における貨幣納の年貢が,近世に生産物納となったことによって,農民の貨幣取得の機会となっていた六斎市を不要にさせた結果,六斎市の消滅を招いたものであると説明されている。後者については城下町が整備されていく過程で店舗商業の活動が不十分である段階では,これを補うものとして市が立てられていくとされている。この近世初期の六斎市の再編成について大石慎三郎は信州上田藩を例にとり,藩が領国経済の確立を進めていく中で,城下町市場が領国内の市を吸収して六斎市が消滅し,吸収しうる限界外の地域では,城下町市場の分身としてその機能を代行する市町が設立されるとしている。丸山雍成はまた,近世初期の宿駅制の整備にともなって市の再編成が行われるとする。宿駅を保護する領主の政策が,宿駅助成のために,市の設立を許したというのである。以上,いずれにしても,近世初期に見られる市の変動は,幕藩体制の成立の過程で起こったものであった。

 近世初期の市に出される商品を見ると,1680年(延宝8),奥州の城下町福島の市では〈木綿,ふるて,小間物,綿布,いさば,塩,鍬,瀬戸物,ぬりもの,ろうそく,紙,くり,柿,なし,たばこ,うど,わらび,ごぼう,大根,いも,ねぎ,ささぎ〉など,城下町と,その周辺の農民が必要とするものが売買されている。1665年(寛文5)の会津高田村の市では,〈布,木綿,真綿,紙,米,大豆,万穀物,編菜,葛ノ葉,炭,薪,鍬ならびに鍬柄,斧の柄,臼,杵,柏,箕,蓑,菅笠,摺臼,のぼう,はた,たばこ〉その他であった。こうした商品を市に持ち出すものとして生産者のほかに専門の商人がいた。1675年の武蔵国多摩郡新町村(青梅市新町)の市へは,たかみせ衆,いもうじ衆,大物衆,かぞ売衆,石売衆,塩売衆,酒売衆,あい物衆が出ることが見込まれていた。やや後になるが1742年(寛保2)に設立されることになった甲斐国都留郡上野原宿の市では,細座(糸,繭,蚕種),高見世座,鍛冶座,紙座,麻座,大物座,穀座,肴座,茶座,塩座,薪竹長木木皮座に座割りしている。

 近世初期には市に出る商人の多くは,商人頭のもとに組織されていた。これらの商人団は領国経済の形成に当たって城下町の商人頭に統括されていった。このような商人に加えて近隣の農民が生産物を市に出した。会津の古町村(福島県南会津町,旧伊南(いな)村)の市では秋になると市日ごとに南の山郷伊北から馬に米を積んで売りに来るものが集まった。古町村ではこれらの米売りに対し,宿の払いを馬1頭ならば米2升,3頭も引くものは4升を払わせた。しかし貞享(1684-88)のころに,伊北の米を皆古町へ運んだといわれた売米も,少しばかり出るという状態になり,農民が生産物を売るために市へ出るのは遠のいていった。市を立てる村や町は,市に店を出すものから〈みせ賃〉を取った。武蔵国新町村では1675年に,市に出る商人から業種に応じて32文ないし64文の雑用(ぞうよう)を徴収することをきめているが,会津の田島の市では貞享ころに盆前節季の〈見せ賃〉として内見世にいるものからは50文,外にいるものからは10文あるいは20文を取っていた。近世後期にも店賃の徴収は行われ,寛政(1789-1801)の例では中山道深谷宿が7月,12月の2回,市日2日ずつ,市用に出るもの1人につき〈津料〉6文を徴収していた。幕末の例であるが武蔵国川越城下町では問屋場の久右衛門が問屋給分のほかに,毎年7月と12月の市日に,川越の市へ集まって店を出すものから〈つり銭〉と称する店賃を取り立てて問屋給分に加えていた。市を立てる町や村に対し,夫役や年貢が課されていた。1597年(慶長2)に設立された武蔵国高麗(こま)郡高麗町(埼玉県日高市)では,市役として,この町にある代官陣屋の諸用をつとめた。また武蔵国多摩郡新町村は,青梅にある代官陣屋で,年貢として徴収した漆の番をすることを市役として負担していた。こうした夫役は,後にほとんど小物成として貨幣納に変えられている。《地方凡例録》は市に対する課税として市売分一(ぶいち)金と市場運上をあげている。市売分一金は市で取引される商品の売上高に応じて,その20分の1あるいは30分の1を徴収するものであり,市場運上は年々定額を上納するものが多かった。甲斐国上野原宿では幕末ころに毎月1,6の日に立つ市について,冥加金として1ヵ月金2分ずつを上納していた。

 近世中期以降になると六斎市で消滅するものが増加する。この市の消滅は商業の衰退を示すものではなく,むしろ商業の発展の結果であった。会津古町村では貞享ころになると,これまでこの市に出されていた布,真綿,麻等が,村々を回る商人に買い付けられて市には出ず,1月から7月ころまでは市も立たない状態になったという。ここではこれらの特産物に対する需要が高まり,これを積極的に買い集める商人が出現して,市をなりたたなくさせたのであろう。さらに町の常設店舗が増加し,農村にも農間商人が出現して,常時,商品の売買が行われるようになり,市の衰退を促した。商業の発展が市を衰退に導いたのである。しかしその一面では特産物の生産地帯に絹市や木綿市など,その地域の特産物を集荷する市が出現する。武蔵国青梅の六斎市は,近世後期になると月6度の市のうちの4度の市がこの地方の特産物である青梅縞の取引をする〈島市〉になり,日常生活用品を取引する市は残りの2度だけになって〈間(あい)の市〉と呼ばれるようになった。近世中期以降に成立した特産物の市は,三都の問屋の,産地集荷機関として利用された。三都の問屋はこれらの市に買方を派遣し,あるいは産地の問屋を買宿に指定して集荷に当たらせたのである。六斎市はしだいに退化し,日常生活用品を売買する市は盆市,暮市など年2回の市となったり,または寺社の縁日・祭礼の市となって娯楽の性質を帯びるようになった。こうした市に店を出す商人として香具師(やし)が組織化されていき,香具師商人は1735年(享保20)十三香具仲間として公認された。十三香具は,居合抜,曲鞠,唄廻し,覗,軽業,見世物,懐中掛香具売,諸国妙薬取次売,江戸京都大坂田舎在々迄売通売,辻療治膏薬売,蜜柑梨砂糖漬売,小間物売,火打火口売の13業種の商人で,演芸的色彩が濃く,各地の市を回って営業した。香具師の仲間による統制が強まると,店賃の徴収や,店の場所割りも,その仲間が行うことが多くなった。

 青物市魚市は,その商品の性質から,大量に取引される都市に成立した。近世都市では都市民の生活が展開する中でその組織化が進み,問屋・仲買・小売商人の取引する規模の大きい市と,生産者が直接消費者に販売する規模の小さい市に分化した。牛馬を売買する市も各地に成立した。馬は領主の軍事的要求に基づいて求められ,はじめは,こうした要求から立てられた馬市が多かったが,近世の経済の発展は馬の民需を高め,農馬,駄馬の売買が大きな地位を占めるようになった。馬市には東北地方の馬産地に成立したもの,東海道の宿場町池鯉鮒(ちりゆう)のように馬産地と需要地を中継するものとして成立したもの,江戸の浅草のように需要地に成立したものなどがある。市に馬を出すものも,馬を求めるものも広い範囲から集まり,池鯉鮒と同じような役割を果たした下野国栃木の馬市には,関東各地から馬喰(ばくろう)が集まった。馬市は春か秋に開かれるものが多く,会津の伊南古町組塩川村の2歳駒市は1646年(正保3)に開かれ,毎年9月1日から10日過ぎまで立てられた。池鯉鮒の馬市は4月25日から5月5日までであり,尾張国一宮では春・秋の2季に馬市が立てられた。牛市は和牛産地の中国地方に多く立った。伯耆国大山の牛馬市は大山神社の春・秋の大祭日を中心として開かれ,石見国の阿須那市(島根県邑南町,旧羽須美村)は阿須那神社の祭礼に当たって開かれたように,この地方の牛馬市は神社・寺院の祭礼・縁日に立てられたものが多い。
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中国では,市という言葉は,古典の中にもしばしば登場し,重視されていた。《易経》の繫辞伝によれば,神農は〈日中に市をなし,天下の民を致し,天下の貨を聚(あつ)め,交易して退き,おのおの其の所を得た〉とし,《孟子》などに見える〈市に帰(おもむ)くが如し〉とは,市場に赴くように先を争っていくことなのであった。国都の造営に当たっては,〈面朝後市〉つまり朝廷を南面する天子の居処の南におき,市を北におくものとされ,〈朝市〉つまり朝廷と市場は人目につく場所の代表格なのである。春秋戦国時代から秦・漢にかけての中国の聚落形態は,ほぼ都市国家のかたちをとったと考えられ,そこでは市がギリシアのアゴラ,ローマのフォルムに似た役割を果たした。市は単に商品を売買するための特定の地区にとどまらず,娯楽場であり,社交場であり,ときには政治運動の場でもあった。

 市という語は,商店の立ち並んだ一定の商業区域を指す場合と,特定の場所に日を定めて開く定期市を指す場合があった。秦・漢から唐にかけての時代には,国都はもとより,州県城などの地方の政治的都市にも,城郭内の一区画を限って市に指定し,店舗を設けて商業を営むことを許した。たとえば漢代の長安では,城内に東市と西市があり,すべて国家の監督のもとに運営され,市令以下の官吏がおかれ,市場の流通秩序の維持にあたって,市租あるいは市籍租とよぶ一種の営業税を徴収した。市の内部では同業者が店舗を並べて肆(し)あるいは列とよぶまとまりをなしていたが,その活動はだいたいにおいて個別的であり,相互扶助の機能を有する団体の結成は見られない。このような市の制度は,魏晋南北朝から隋・唐時代を通じて行われ,市租の制度も,北魏では徴収しない時期もあったがおおむね存続した。唐の長安城にも東市と西市がそれぞれ左街と右街のやや北寄りにおかれ,東市は隋の大興城の都会市,西市は利人市をうけついだものである。これら東西市については,発掘が行われて,その構造がかなり明らかとなった。

 まず東市の規模は南北が1000m余,東西が924m,西市は南北1031m,東西927mの長方形を呈し,市の内部には南北と東西に走る幅16mの街道が2条あり,四街が交差して9個の長方形の区画をともなった井字形をなしている。中央の区画に市署,平準署といった役所がおかれたものと考えられ,その他の長方形の街に面した部分に店舗が設けられたようであり,下水道も完備していた。唐末までは,これら両市においてのみ商業が営まれたので,大いににぎわった。物資運搬のための運河が入っていた両市は,一日中は開かれていず,日中(正午)に鼓300を合図にして開かれ,日没前に鉦300を合図にして閉じられた。東市の雑踏は西市のにぎわいに一歩ゆずり,西市では付近に外国からの流寓者が多かったため,ペルシアやアラビアの商人,西域地方出身の歌姫や軽業師などが人目をひいていた。市は人の集まるところなので,古来,死刑の執行される場所とされたが,唐代でも同じであった。市の内部で同種同業の商店が店舗を並べた点は漢代と同じであるが,唐代では同業者ごとに〈行(こう)〉という団体を結成し,ギルドのような運営がなされた。東市の〈肉行〉〈鉄行〉,西市の〈絹行〉〈薬行〉などの名が伝えられており,行に属する商人は行人とよばれ,それぞれ行頭とか行首とよばれる者によって監督された。このような行は,国都の長安のみではなく,地方の政治都市でも作られたのであって,蘇州の〈金銀行〉,揚州楊子県の〈魚行〉が文献に見え,トゥルファン(吐魯番)出土文書や,河北省房山で発見された仏典石経の題記に,唐代の行関係の史料が見いだされる。

 商業区域としての市の制度は,唐の中ごろ以後しだいにゆるんで他の坊にも進出し,北宋になると坊制の廃止に乗じて商店は街頭にも現れ,南宋になると都市内のいたる所に見られるようになり,夜間営業の禁もおのずからすたれた(開封)。一方,南北朝時代から唐・宋時代にかけて,地方の小集落や州県城の郊外の交通の便利な場所に〈草市〉とよばれる商業地域が現れ,ときには〈鎮〉とよぶ行政単位に昇格することもあった。〈草市〉も元来は定期市であったらしいが,宋以後の市制度の崩壊後,〈定期市〉が地方都市や郷村のみならず国都でも見られるようになった。定期市は集,市,市集などとよばれ,華南地方では墟あるいは墟市とよばれ,寺廟の行事と結びつくと廟市あるいは廟会とよばれた。定期市が開かれるときを集期あるいは会期というが,1年に何回か開かれる年市と,10日ごとに何回か開かれる旬市と,毎日開かれ日常品を扱った日市があった。つまり,西洋の週市のかわりに旬市があったことになる。交通の便のある河畔や橋畔などに,仏寺や道観,そして廟の祭日などを利用してにぎわった定期市は,そののち元・明・清の時代を通じてますます盛んとなったのであって,たとえば旧中国の北京では,東城の隆福寺,西城の護国寺,白塔寺,外城宣武門外の土地廟が四大廟会として有名であった。ちなみに定期市は,一般的に華北や華南に多く,華中でもとくに長江(揚子江)下流域ではかえって少なかったといわれる。
都市
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「市」の意味・わかりやすい解説


いち

決まった期日に、特定の場所で、売り手・買い手がお互いに出向いて物資の交換を行う交易の場。

 交易は、本来、共同体内部に根ざした活動というよりは、共同体間の、それもしばしば文化的同質性すら共有しない共同体間の活動であった。コンゴ森林の狩猟採集民とサバナの農耕民の間でみられるような、生業や文化に違いのある集団が、無人の中立地帯や互いの共同体の周縁部で、無言で、あるいは互いに顔をあわせないようにして物資をやりとりするという「沈黙交易」のような形態に、これははっきり現れている。古代国家や西アフリカの伝統的王国にみられた「交易港」やエンポリウムのような制度も、同様な交易の場の「周縁性」の実例である。こうした「周縁性」は、市という表現がより正確に当てはまるいわゆる「定期市」のような制度にも、市のもつ空間的・時間的非日常性として形をとどめている。ナイジェリアのティブの人々の間にみられる5日ごとの市は、市の所有者たちが管理する強力な魔術によってその平和が維持される一種の聖域であり、紛争中の集団にとっての中立の交渉場ともなっている。西アフリカはこうした市の制度をよく発達させていることで知られている。たとえば、ヨルバの社会では、輪環制という市の制度があり、約10キロメートル間隔でほぼ環状に配置された七つの地点で市が順繰りに開かれてゆく。7日で一巡し1日の市なし日が入るので、各地点では8日に1回ずつ市が立つことになる。こうした市の周期は、人々にとって一種のカレンダーの役割もしている。

 市が経済制度であることは指摘するまでもないが、そこに同時にみられる社会的、政治的、宗教的な側面も軽視するわけにはいかない。情報交換の場、娯楽を伴う祭礼的な機会を提供し、しばしば紛争解決といった司法的活動や宗教行事とも結び付く、といったぐあいに、市は多数の人々の集結が必要とされるほとんどあらゆる目的と結び付いた多機能的制度である。さらに、市の制度がみられる多くの社会において、市で取引される物資がかならずしも生活必需品目ではない、市での価格が人々の生産活動の指針とはなっていない、売り手も買い手も市での活動に生活の大部分を頼っているわけではない、といった一連の事実が指摘されている。経済的な面では、市はむしろ周辺的な役割しか演じていないともいえるのである。もちろん、市が演じている役割は、個々の具体的な事例に即して検討されねばならぬことはいうまでもない。日本の市についても、中世以降、経済的な役割が顕著であるとはいえ、古代の市については起源の問題とも絡めて祭礼との結び付きが論ぜられることが多い。市をマチとよぶ地方は多いが、マチは語源的には祭礼と同義であるともいう。近代以降の市の衰退と絡めて、市を、経済的には市場原理が中心的な役割を占める以前の経済に特徴的な制度であるということもできよう。

[濱本 満]

日本


 『日本書紀』によると、5世紀には大和(やまと)(奈良県)に軽市(かるのいち)、河内(かわち)(大阪府)に餌香市(えがのいち)、6世紀に入って大和に海石榴(つばき)市、阿斗桑市(あとのくわのいち)などが開かれていたことが判明する。これらの市はおもに各地方の氏族共同体、あるいはその首長たちの間の物々交換のため開かれたものであろう。大化改新後、律令(りつりょう)制時代に入ると、市は唐の制度に倣って関市令(かんしりょう)に基づいて平城京、平安京内にそれぞれ官営の東西市が設けられるようになったが、藤原京にも設けられたことが伝えられている。これらはおもに官衙(かんが)、貴族、社寺など支配階級の余剰物資の放出、必要物資の調達などの目的で開かれたが、東西の市司(いちのつかさ)の管理下に置かれ、籍帳(せきちょう)に登録された市人が肆(いちくら)で、指定された物資の販売に従事していた。市は正午に開かれ、日没に太鼓を三度鳴らして閉じる習わしであった。これら東西市には人々が群集したので、見せしめに盗犯などの処刑が行われたり、市の聖(いちのひじり)とよばれた空也上人(くうやしょうにん)など僧侶(そうりょ)たちの説教の場でもあった。

 平安時代には地方にも多くの市が開かれるようになったが、そこでは中央官衙に貢納するための調庸(ちょうよう)物、交易雑物(こうえきぞうもつ)、あるいは荘園(しょうえん)領主に納める年貢、公事(くじ)物の交易、調達が行われていた。一方、この時代には鋳物師(いもじ)、細工人ら各種の手工業者たちが自己の製品・米・衣料など日常消費物資を担ぎ、販売のため廻(かい)国するようになるが、地方港津などに開かれた市は彼らのかっこうの取引の場であった。このように交換が発達してくると、地方の市は干支(えと)にちなんだ特定の日に開かれる定期市の性格を帯びるようになり、それらは子市(ねのいち)、午(うま)市、辰(たつ)市、酉(とり)市などとよばれ、地名として今日まで残るものも現れた。

 平安末期から鎌倉時代にかけて、稲作を中心とした農業生産力の向上、手工業の発達などに象徴される社会的分業の進展、日宋(にっそう)貿易による唐物(からもの)・唐銭(とうせん)・宋銭などの大量の輸入に基づいて、商品貨幣経済がいっそう発達すると、市は全国の荘園、公領内に成立するようになる。それらの多くは一定の日に月三度、たとえば2日、12日、22日に開かれる、いわゆる三斎市(さんさいいち)で、地方の国府(こくふ)、社寺門前、地頭館(じとうやかた)や荘園政所(まんどころ)の周辺、宿駅、港津など交通の要地に開設された。市での交易は当初仮小屋で行われたが、商人はしだいに市に定住するようになり、取引はいわゆる市場在家(いちばざいけ)で営まれる例が増えていった。市での交換が繁(しげ)くなり、市場在家の数も増えると、国司、荘園領主、地頭らは代官、目代(もくだい)、奉行(ぶぎょう)を置いて、その管理や市場税の徴収にあたらせ、市を自己の新しい財源とみなして支配を強化する者も現れた。この時代の定期市での交換は、荘園領主などへの貢納物の調達、代銭納(だいせんのう)のための現物年貢(米や絹布など)の販売換貨、地方社寺、在地領主らの需給のための交換、さらには名主(みょうしゅ)・作人(さくにん)や手工業者など非農業民の広範な参加が大きな特徴をなしていた。また、市が荘園村落や在地領主の領域を中心とした地域経済にとって不可欠の役割を果たすようになることも、この時代の市の新しい歴史的な機能といえよう。

 南北朝から室町時代には、国内における分業のいっそうの発展、日明(にちみん)・日朝(にっちょう)貿易の展開などを背景にして、市はいよいよ普及し、月六度も開かれる六斎市さえ登場し、安芸(あき)国沼田荘(ぬたのしょう)地頭小早川(こばやかわ)氏のように、領内市に禁制(きんぜい)を発布して市場の支配権の確保、市場商人と武士との分離を試みる事例も現れた。そして市場内での乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)、喧嘩口論(けんかこうろん)を禁止し、また市日に集まった商人からの債務取り立てを禁止することを内容とした市場法が各地の領主によって発布されるようになった。

 室町から戦国時代には、各種の市が全国的に普及する一方、公家(くげ)、大社寺などを本所(ほんじょ)にいただく座商人が、市の一定の販売座席を占め、特定商品の独占的な取引を行う、いわゆる特権的な市座商人が現れたが、戦国大名は城下町の建設、領国内市場振興のため多くの商人を集める必要に迫られると、城下町や六斎市などにおける座特権を否定し、自由営業を保証する、いわゆる楽市(らくいち)・楽座(らくざ)令を発布したため、市における座商人の特権はしだいに後退していった。

 中世では時代とともに都市の成立、発展が進行したが、鎌倉・室町時代の鎌倉や奈良、戦国時代の山口のように、店舗商業発展のかたわら定期的に開かれる市における取引も並行的に存続したのであった。また、京都のような大消費都市と西国の生産地とを結節する中継港津であった山城(やましろ)国(京都府)淀魚市(よどのうおいち)には、すでに鎌倉時代から塩などの海産物の卸売市場が、また京都では少なくとも室町時代から米穀の卸売を業とする米市場が成立していた。

 江戸時代には、畿内(きない)地方ではいわゆる在郷町(ざいごうまち)の成立、城下町の建設につれて六斎市など定期市は衰滅の傾向をたどったが、東国など都市の未発達な地方では、六斎市が交換の中心をなしていた例が多い。また、江戸、大坂、京都などの大都市では、日常的な需要の大きい米穀、青物、海産物など消費物資の大量取引を行う卸売市場が成立し、定着した。江戸の神田(かんだ)青物市、大坂の天満(てんま)青物市や雑喉場(ざこば)市場はその典型といえる。

 地方でも各地の特産物、絹、繭、紙、馬、牛などの取引を目的とした特殊市、さらには大市(おおいち)、歳市(としのいち)が特定の日に開かれ、それらのうち近代まで続いたものも少なくない。

[佐々木銀弥]

ヨーロッパ

古典古代の市

西洋の市は、南欧では古典古代に始まる。ギリシアのポリスの中心地が都市化したとき、神殿と区別されて市場広場アゴラが設けられた。そこは商品交換の場であるとともに、社交や政治の場でもあったが、しだいに市場の性格が強くなった。ただし商業は寄留外人の手で行われていた。ローマにおいても同様の市場広場があり、フォルムとよばれた。そこでは神殿との区別があまり明らかでないうえに、軍事的示威の広場の意味も兼ね備えていた。とくに首都ローマは十数個のフォルムをもち、市が専門化していた。

 南欧が古代において地中海の沿海文化のかなめとして市を発展させたのに対し、中欧や北西欧は原則として市を知らぬ純農村地帯であった。ただしフランスを中心とするローマ帝国の勢力の圏内においては、各地にローマ都市が建設され、その中心にフォルムが存在した。だが民族大移動の混乱期を経て、南欧やその他のローマ都市は衰退していき、中欧、北西欧に新しい都市化の動きが始まる。その一部はローマ都市の遺跡を土台にしたが、ほかの多数は新しく建設されたものである。南欧型の古代市場が周辺農村に君臨するポリス成員家族の相互取引の場であり、直接生産者である奴隷や隷属民は疎外されていたのに対し、中欧、北西欧型の中世市場は封建領主制の下という制約はあるにせよ、直接生産者の農奴や隷農、さらに農村から分離、集住した都市手工業者の相互取引の場となった。大陸内部の至る所に稠密(ちゅうみつ)に市場が分布し、内陸文化の時代となる。この時代は初期、中期、後期に大分される。

[寺尾 誠]

内陸文化時代の市

初期には、ローマ都市と一部連続しつつ、修道院や封建諸侯の所領交易が市を成立せしめ、これと市民や農民の取引がしだいに拮抗(きっこう)していく。市内に教会や城館と市場広場の二元性がみられる。中期になると、農奴解放や内国植民を背景に広範な都市市場が人為的に建設される。それはおもに農村の傍らに領主と請負人の協働で計画的につくられた。都市の手工業者、商人と農村の住民との間の取引が盛んとなり、生産者同士の取引の場として市が立った。ただし、それは封建諸侯に保護された、都市住民に有利な特権の市場であった。

 市民の日用必需品のための日市と、市民と周辺農民たちとのさまざまな取引の場とが区別され、後者は週市と名づけられた。週に一度ないし数度にわたり、定められた曜日の時間内に市場広場やそれに類する場所に市が開かれた。市民と周辺の農民はそこにおいてのみ取引が許されたが、とくに後者にとって、それは自らの好む所で取引する自由がなく、特定の都市の市場に赴いて売買を行わざるをえぬ市場強制を意味した。都市から特定距離内にある農村に妥当する市場強制は、市場以外の取引を禁ずる禁制を伴い、その距離の範囲は禁制圏とよばれた。この市場の強制と禁制はよそ者にも適用され、週市は都市を求心点とする閉鎖的な都市経済の象徴となった。都市はこの制度を利用し、公定価格制やギルドによる生産統制などの経済政策を実施し、市民の経済的利益を守った。なおこの閉鎖的な週市を補うのが、開放的な歳市である。年に何度か特定の日時(教会の祭日など)に開かれる市だが、そこには周辺の農民たちだけでなく、近隣、遠隔の諸都市の商人たちも参加する。地元の特産物が販売されるとともに、さまざまな地方のそれも持ち込まれ取引された。歳市を通じて閉鎖的な週市市場圏は、より広い市場圏につながっていった。その市場圏は、地方的な有力都市の大歳市(メッセMesse)を中心とするもの、その相互のつながりのうちに形成される国内的、国際的なものへと広がる。国際的なものでは、ブリュージュ(ブリュッヘ)、アンベルス(アントウェルペン)、それにシャンパーニュのメッセなどが有名である。それらの市場網を通じて、ドイツ・ハンザやイギリス冒険商人などの団体商業が活躍したのである。

 さて内陸文化時代の後期には、都市から農村に市の重心が移って行く。中世後期の黒死病(ペスト)による人口の激減、農業不況と都市手工業者の賃金上昇、それらを背景に手工業の技術革新が始まる。農村の低賃金に目をつけ、水力利用の水車場で、労働節約の量産方式が本格的となる。繊維、金属(鉱山)などの基幹産業において、工業立地が、古い都市から農村(森林、丘陵地帯)へと重心を移して行く。それまで第一次の原料を生産し、都市に供給していた農村が、第二次の半製品や完成品を生産し始める。ここにさまざまな手工業製品が農村内部で取引されることとなる。それを軸に日用必需品の売買も発達し、都市の市と同じような日市、週市、歳市の制度が農村にも許された。ただし、その枠組みが厳密に守られたのではない。一方では従来農村に限られた範囲で認められていた店舗販売(居酒屋、旅籠(はたご)での)が、その制約を超えた取引関係に発展する。他方では家から家、村から村へと練り歩く行商が盛んとなる。とくに後者は伝統的な市場制度に対する重大な挑戦であった。それは、中世の公的制度的な市場取引に対し、純粋な市場取引である。

[寺尾 誠]

新しい市場関係へ

この両者の矛盾は、中世末から近世にかけて都市と農村の市場抗争として現れた。古典古代の遺産を受け継いだ南欧では、都市が封建貴族の拠点となり、農村の市場取引は強く妨げられた。封建諸侯の地方的分裂のため多数の都市群が成立したドイツなど中欧の国々では、市場関係が都市に有利な形で固定化されがちであった。それは東欧においてもっとも著しい。中央集権的王政により封建的分裂が抑えられていたイギリスなど北西欧の国々では、中世の都市市場がそれほど強力な勢力関係とならず、農村の自由な市場が拡充していく。

 以上のような国民的、地域的な偏差を伴いつつ、伝統的な都市の市は、市民革命、産業革命とともに、その重要性を失い、店舗を中心とする小売り―卸売りの市場関係に席を譲る。ただし西洋の今日の都市でも、週市や歳市が一部の機能を残している。とくにライプツィヒやハノーバーのメッセは国際見本市として有名である。

[寺尾 誠]

中国

独自の発展を遂げた中国の市場網

中国は近代の工業化では遅れが目だつものの、伝統社会の内面で発達した旧秩序、旧組織の到達水準からみると、はるかに他の地域世界のそれを超えるものがあった。ことに旧型の市場網は、血縁や行政の組織と並んで独自の持続発展を遂げたので、中国社会の体質や、近代への適応の成否を見極めるうえでだいじなポイントをなす。

[斯波義信]

市場網のルーツ

中国の旧市場網のルーツは、殷(いん)・周の都市国家時代にさかのぼり、また文明のサイズや生態条件に即して考える必要がある。地文単位としての中国は、広大で生産性の高い大農業地を占め、しかも四通八達した河川交通網に恵まれている。南から珠江(しゅこう/チューチヤン)、長江(ちょうこう/チャンチヤン)、淮河(わいが/ホワイホー)そして黄河(こうが/ホワンホー)と続く河川網は、相互に連絡しつつ黄土台地に突き当たって遮られるが、黄土文明を発祥させた邑(ゆう)とよばれる諸都市は、この河川交通網が断たれ、内陸アジアから東に伸びた陸上交通網と接合する細長い地帯に立地して散布していた。

 殷・周約1000年の都市国家の時代に、人々の定住拠点であった邑は、こうした交通の要所に建てられ、農産物や金属、繊維、木材、塩のほか、遠い海陸の貿易品や貢納品、香料、薬物が集散して、王侯・貴族の財源となった。邑には市里(しり)とよぶ市があり、集会、祭礼、交換、娯楽の場であった。中国の都市国家の歴史は他文明より短く、交換の規模も地中海世界には及ばなかったが、春秋時代末より鉄器が登場し、氏族制が急速に解体すると、市里を通じての流通や富の蓄積は加速され、社会の分業も促進されてここに領土国家の統合が一挙になり、秦(しん)・漢の大帝国が生まれた。

 紀元2年に、県1587、郷(きょう)6622、亭(てい)2万9635が存在したが、かつて無数にあった邑は、ほぼ県に再編されたとみられる。政府は国内の商工業を独占的に統制するため、各県城の一角に市を公設し、商店を業種別に並べ、営業時間を定め、商人を市籍に登記し、市租を徴し、価格の報告を義務づけた。市の価格の掌握は、全国規模の物価調整、量刑の公平な執行に不可欠であった。また市の統制と同じ趣旨で、国境や要所に市(関市(かんし)、互市(ごし))を設けた。六朝(りくちょう)時代になると、辺地や県境に集村が広がり始め、農村部に非公認の草市(そうし)=村市が現れるが、市を県城に公設して厳格に統制する政府の基本姿勢は唐なかばまで続いた。

[斯波義信]

商業革命と市場網の変化

唐末から宋(そう)代に商業革命が起こると、漢以来の市の制度が崩壊し、後の明(みん)・清(しん)時代の市場組織の原型が現れてきた。生産の発達、商業、貨幣経済の浸透を背景に両税法が導入されるに伴い、まず政府の商工統制が弛緩(しかん)し、財源の確保、財政の運用に商業を積極的に利用するようになった。市を県城以上の都市に限定してさまざまな統制を加える制度は廃れ、都市の商工業が自立化する一方で、農村部に半都市=鎮(ちん)や村市が無数に発生してきた。

 こうして十数村が一ブロックとなって一村市に帰属し、数個の村市がより広いブロックをつくって一鎮に、さらに数個の鎮が一県城に帰属するというピラミッド状の成層組織ができた。清末にはこの基底の村市数が2万7000余となり、開港場周辺や先進地では近代化の始動で消滅していったが、1960年代、自留地とともに約3万~4万の旧村市が復活したから、旧市場網はまだ根強く残っている。村市の平均的市場圏は約50キロメートル平方、人口7000~8000、村市間隔8キロメートル弱である。村民は市日にあわせて所属の村市のほか、隣接の村市に毎日出かけ、一方、県城や鎮に拠(よ)る商人、職人は鎮や村市を巡回したので、零細で散漫な村民の需要や購買力が組織されて、県城以上の国内商業と接合された。鎮や村市の商圏は、農民の社交・宗教上の交渉圏でもあったから、行政村の網の目とは独立した、「近隣性」を原理とする実質的な基層のコミュニティが生まれた。

 宋から清まで県城以上の都市化は、行政、軍事支配や科挙による一元支配の目的で(県数の固定にみられるように)、総枠が抑えられていたものの、県以下の都市ではむしろ充実して都鄙(とひ)間の強い均衡が生じ、県や鎮に拠る郷紳(きょうしん)など社会の中間階層がここに育ち、一方、農村部も生計の半数以上を商業経済に依存するという、半自給・半開放的体質に転化したのである。

[斯波義信]

市の民俗

市は特定の日に人と物資とが集散する場のことであるから、それに関する民俗もまた豊富である。

 まず市の開かれる時期のうえからみると、毎年ある定まった日に開かれるものと、月3回とか6回とか日を決めて開かれるものとがある。前者は暮の市、年の市とか盆市とかよばれることが多い。「盆・暮」が重んじられるのは、祖霊信仰のうえでの重要な季節ということから生じている。都会地では暮の市に正月行事に必要な諸品を買う習慣で、とくに破魔弓(はまゆみ)や羽子板(はごいた)を買うという所があり、東京・浅草の「羽子板市」などが有名である。島根県の仁多郡奥出雲(おくいずも)町のように、暮の市を「鰤市(ぶりいち)」とよんで正月に欠かせない鰤を米1俵と交換するのを習いとしていた所もある。暮の市の開かれる日は全国的にみて12月下旬に集中し、とくに23、24日から大みそかまでのうち、2~3日にわたるのが多い。盆市は東京では「草市(くさいち)」とよばれたが、茣蓙(ござ)、盆花、ホオズキなど盆行事に必要な品を農村から持ち込んで路上で売った光景からこうよんだのである。岩手県高田(陸前高田市)の付近の農村では、7月12日高田の盆市に出かける習慣があり、留守居の子供たちはその市からの帰宅を、「町人迎え」といって多大の期待をかけたという。

 毎月3回、6回の市という例も全国にわたって広くみられる。東京都八王子市のように大きな市街地では、日を変えて町々が順に市を開くという例もあったが、もっと広い範囲に散在している小都市で、日を追って次々と開かれるという例が多く、月6回開かれるものを「六斎市(ろくさいいち)」とよび、A町で「一、六の市」、B町で「二、七の市」というように、その地域で毎日、どこかの町で市が開かれるという仕組みになっていた所もよく見受ける。

 各地の市のなかには、特定の商品を名ざしてよばれるものもあり、「雛市(ひないち)」、「だるま市」、「べったら市」(大根の浅漬けをべったら漬けと称して、東京・大伝馬町で10月19日の夜売り出した)などがそれであるが、東京・世田谷の「ぼろ市」なども、いまはあらゆる品物を並べるが、もと、古着を近在の人々が持ち寄り売買したところからきたものである。

 古くから伝わる市では、物々交換の形で行われるものもあった。長崎県早岐(はいき)(佐世保(させぼ)市)の海岸の道路で、5月の「7、8、9の日」3日間ずつ合計9日間開かれる市では、海側に水産物を持ってきた離島の人々と、陸側に農産物を持ってきた農村の人々が陣取って、「かえましょ、かえましょ」の呼び声をあげて取引する。大分市の坂ノ市(さかのいち)の万弘寺の市は、5月18日に開かれる盛大な市であるが、その片隅で開かれるささやかな市では、海村からきた婦人たちと、山村からきた男たちとの間で、互いに相手方の生産物をけなして思う存分悪態をつきながら取引する。これらは古い市交易のおもかげを残したものということができる。

 社寺の縁日や祭礼に際して市の開かれる例も多いが、総じて市の開設は単なる人間業(わざ)でない神秘的な霊力に基づくと考えていたらしいふしがあり、古来、虹(にじ)の立つ所に市を立てたとか、市人に雨乞(あまご)いを祈らせたとか伝え、秋田県浅舞(あさまい)(横手(よこて)市)の市のように、天から大石が降ったので、そこを市の場所としたとの伝えをもつ所もある。信州戸隠(とがくし)付近では、市に姥(うば)が現れるとの伝承がある。山姥が商品を買ってくれた店は、知らず知らず客足がついて売上げが多いという。青森県八戸(はちのへ)でツメノイチというのは年の暮れの市であるが、行けば親に似た顔の人と出会うと言い伝え、鹿児島県大隅(おおすみ)の肝付(きもつき)町高山(こうやま)地区、大崎(おおさき)町あたりでは、市にきた近村の人々が町家の一室を借りて新精霊(しょうりょう)迎えをしたという。イチコといえば土地によっては口寄せをする巫女(みこ)のことであり、イチは古くから神に仕える女性のことであったというあたりも、市のもつ神秘性と深い関係があろう。

[萩原龍夫]

『豊田武著『増訂 中世日本商業史の研究』(1944・岩波書店)』『脇田晴子著『日本中世商業発達史の研究』(1969・御茶の水書房)』『北見俊夫著『民俗民芸叢書56 市と行商の民俗』(1970・岩崎美術社)』『大塚久雄著『欧州経済史』(1973・岩波書店)』『寺尾誠著『中世経済史』(1978・慶応通信)』『G. William SkinnerThe City in Late Imperial China (1977, Stanford University Press)』


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普及版 字通 「市」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 5画

[字音]
[字訓] いち・かう・まち

[説文解字]
[金文]

[字形] 象形
市の立つ場所を示す標識の形。交易の行われる場所には高い標識を樹て、監督者が派遣された。〔説文〕五下に「買賣するものの之(ゆ)くなり」とし、字形について「市に垣り。冂(けい)に從ひ、(きふ)に從ふ。は古なり。物の相ひぶに象るなり。之(し)の省聲」とする。金文の字形は朿(し)と同じく標木を樹(た)てた形で、上に止(之)を加える。止が声符であるのか、意符であるのかは明らかでない。〔唐六典〕に市を「標立候、陳肆(ちんし)辨物」というように、公認の場所に標識を樹て、監督官をおいた。城外近郊の広場などがその地にあてられ、古くはそこで歌垣なども行われた。〔詩(韓)、陳風、東門之枌(とうもんしふん)〕に「旦(こくたん)(よあけ)に于嗟(うさ)(雨乞いの祈りの声)す 南方の原に 其のを績(つむ)がず 市に婆娑(ばさ)す」というのは、その場所での歌垣を歌うものである。〔周礼、地官〕に「司市」の職があり、その規制の方法が詳しく記されている。またそこで、公開処刑が行われることがあった。

[訓義]
1. いち、交易をするところ。
2. とりひき、あきない。
3. かう、うる、もうける。
4. まち、まちや、都市。

[古辞書の訓]
〔和名抄〕市人 楊氏語抄に云ふ、市郭の皃、伊知比止(いちひと) 〔名義抄〕市 イチカフ・アキナフ・ハカリ・イチ・カフ/和市 アキナヒカフ 〔字鏡集〕市 ウル・カフ・アキナヒス・ハカリ・サハガシ・アキナフ・イチ

[熟語]
市鬻・市隠・市易・市掾・市怨・市恩・市価・市歌・市・市賈・市・市魁・市・市街・市郭・市区・市刑・市券・市戸・市估・市虎・市・市語・市・市獄・市棍・市肆・市司・市師・市事・市日・市舎・市聚・市署・市倡・市城・市上・市食・市人・市塵・市井・市正・市声・市征・市船・市租・市狙・市曹・市卒・市中・市庁・市長・市朝・市亭・市廛・市店・市・市・市偸・市頭・市道・市徳・市陌・市販・市晩・市賦・市物・市平・市脯・市房・市民・市名・市門・市邑・市傭・市傭・市利・市吏・市里・市列・市楼
[下接語]
花市・海市・開市・街市・関市・鬼市・帰市・棄市・宮市・墟市・互市・交市・江市・市・港市・獄市・山市・司市・秋市・城市・井市・草市・朝市・都市・市・坊市・貿市・夜市・野市・立市

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

百科事典マイペディア 「市」の意味・わかりやすい解説

市【いち】

物資交換の場所で市場(市庭)ともいう。日本で市の制度が発達するのは律令制下で,平城京・平安京などに常設官営市場たる東市(ひがしのいち)・西市が設置された。律令国家崩壊後はこれに代わって都には棚に交換物を展示した店(たな)が発生,地方にも交通上の要地や門前町などに,10日に一度の三斎市(さんさいいち)など定期的な市が発達した。中世後期,商品経済の発展に伴い,六斎市・九斎市などと次第に常設的な市に移行,市の権利も一部はの商人が独占したが,戦国大名の中には城下町の発展のために市を解放して楽市(らくいち)とするものもあった。近世の各都市では全面的に店舗営業が展開し,定期的な市は縁日(えんにち)などに限られる一方,大都市では米市場・魚市場などの専門的な卸売市場が発達した。
→関連項目阿斗桑市市場町大宮小川市加納市鎌倉時代鹿田荘市場四宮河原放生津六斎市

市【し】

市町村

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本歴史地名大系 「市」の解説


つばいち

[現在地名]美東町大字赤 鍔市

あかの南東にある集落。青景あおかげ(現秋芳町)から絵堂の銭屋えどうのぜにやに至る青景街道と南北に通る瀬戸崎せとざき街道が交差する地にあたり、近世以降赤村の中心集落となった。

大内氏の時代、市が立ったと思われるが、慶長一五年(一六一〇)の検地帳には記載がない。

天保二年(一八三一)七月二六日、三田尻宰判内で発生した百姓一揆が鎮静しかけた頃、当地の畔頭勝五郎は、一揆の決行を決意し、赤村村内の各地に連絡し、八月二〇日の夕方、赤郷あか八幡宮の鐘をつき、美祢郡における天保の大一揆が発生した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「市」の意味・わかりやすい解説


いち
market

市場ともいう。一定の場所で物資の交換や売買をすること,およびその場所。人類の経済生活において,最初は生活必需品の物々交換であったが,生産物の多様化,商人の出現,貨幣経済の発達に応じて市も変化していった。市は,人の多く集る交通の要地に立ち,その開催は初めは一定していなかったが,次第に定期的になった。日本では,古くは祭礼や歌垣のときに市が立ったらしい。大化改新後,唐制にならって藤原京に東西両市が設置されて以来,平城京,平安京にも官設の市場が設けられた。平安時代には,二日市から十日市の月3回の定期市である三斎市 (さんさいいち) が開かれており,全国各地に地名として残っている。鎌倉・室町時代になると手工業生産物と農産物の取引がますます盛んになり,1の日と6の日,2の日と7の日などというように,5日目ごとに月6回開かれる六斎市 (ろくさいいち) が増加した。寺社や荘園領主は,これらの市を保護し,開催日を決定し,市座を設けて市の監督統制を行なった。しかし応仁の乱後,戦国大名は城下町の繁栄のため,封鎖的市場を,自由な商業活動が認められる楽市・楽座へ開放する政策を進めた。また,商品取引量の増加に伴い,取扱物資が雑多なものから,特定の物資を取扱う市場が発生し,生産者間の取引から,専門的商人の取引へと変化した。江戸時代になると,問屋,仲買の専門商人が現れ,せり,入札などの競争取引が行われるようになり,江戸日本橋の魚市場,神田の青物市場,大坂堂島の米市場などは卸売市場として発展した。しかし,地方都市の定期市は,常設小売店舗の発達によって次第に縮小した。しかし今日でも,正月の初市や植木市,酉の市のように小規模な市が各地で行われている。また市では守護神として厳島神社の祭神であるイチキシマヒメノミコトや恵比須大黒が祀られている例が多い (→市神 ) 。



shi; shih

中国,古代都市内の一定の商業地区。漢から唐にかけて長安,洛陽などの大都市には2市があったが,多くは1市であった。さらにこの中が,肉行 (肉屋の町) ,銀行 (金銀細工屋の町) のように,行 (こう) と呼ばれる同業商店町に分れていた。市は正午に開き,日没時に閉じる定めで,商人は場所と時間の両面で国家の強い規制を受けていた。しかし中唐以後,農村に草市と呼ばれる小規模な交易の場が発達してくると同時に,市以外にも商店が開かれ,夜間営業の禁令もくずれ,市という語は商店の立並ぶ繁華街をさすにすぎなくなった。


地方制度」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「市」の解説


いち

物資や情報の交換取引が行われる場。大化の改新以前から河内国餌香市(えがのいち),大和国海石榴市(つばいち),同国阿斗桑市(あとのくわのいち)などが開かれていた。大化の改新以後,律令制のもとに平城京・平安京に東西市がおかれ,各地の国府でも市が開かれた。平安末期には月3回の定期市(三斎市)が開かれるようになり,鎌倉時代には社寺の門前,領主の居館周辺,宿駅・港津などにもみられるようになった。南北朝期には常陸国府市のように月6回開かれる六斎市が,三斎市と並行して発生。戦国期には諸国の農村にも広がった。戦国大名は独占的な市座を楽市令によって排し,市の発展を促した。江戸時代にも東国では六斎市が開かれたが,城下町などの都市の発展とともに常設店舗が発達し,一般に市は衰退。近世には江戸・大坂・京都などの大都市に米穀・青物・海産物などの大規模な卸売市場が発達した。新年の必要品などを扱う年の市や,門前・境内で開かれる祭礼市は今日まで続いている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「市」の解説


中国の物資交易の機関・市場
古くからあったが,戦国時代以来唐までは城郭内の1区画を特に市に指定し,商店の営業を許可した。城外の市を草市 (そうし) と呼ぶ。商店の税は市租として有力な税源であった。唐の長安の東市・西市や洛陽の南市・北市が有名。市には行 (こう) が設けられ,同種の商店が1か所に集まっていた。市は正午に鼓を打って開かれ,日没前に鉦 (かね) を合図に閉じられた。唐中期以降,経済発展に伴い,市の制度はしだいにゆるみ,商店は市の区域外,つまり他の坊にも進出した。宋代に坊制が廃されると,商店は街頭にも現れ,夜間営業の禁も廃止された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「市」の解説


いち

物資の交換・売買をする所
古くは軽市 (かるのいち) などがあり,律令時代の藤原・平城・平安諸京には官設の東西市があった。鎌倉〜室町時代には寺社門前や交通要地に定期市が開かれ,しだいに市日も増し(三斎市・六斎市など),常設の店もできた。商人は荘園領主・守護大名らの保護のもとで市座を設け販売を独占し,また数日ないし数週間にわたる長期の大市も開かれるようになった。戦国大名は城下町繁栄のため市座を廃し楽市とした。江戸時代には,専門商品販売の大市場と店商業の発達のため,定期市は補助的なものとなった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「市」の解説

市(し)

中国で交易場所およびその取引を市と呼んだ。秦漢時代には,都市内の商業は国家の市場管理制度(市制)により場所,時間,営業にわたり厳格な統制を受けた。唐半ばから宋以後になると,商業・都市の発達によって市制はくずれ,また地方村落や交通路上では交易場が発達してそのなかから小都会ないし市場地をさす鎮・市がおこった。大都市内の市も,特定商品の取引およびその場所を示すようになった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「市」の解説

いち

お市の方(おいちのかた)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のの言及

【市町村制】より

…市町村は2階層制地方自治制度を構成する基礎的普通地方公共団体であり,都道府県に包括される。日本国憲法改正原案には地方団体の種別が規定されていたが,GHQと日本政府の折衝を経て成立した日本国憲法は,地方団体の種別を明示しておらず,それは地方自治法をはじめとする国会制定法にゆだねられている。…

【アンシャン・レジーム】より

…最初にこのように名づけたのは,新しいフランスの誕生に歓喜した革命の世代であり,彼らは,先立つ過去のいっさいを〈旧体制〉の名の下に断罪したのであった。やがて19世紀半ば,トックビルが《アンシャン・レジームと革命》(1856)と題する名著を著し,さらにテーヌが《現代フランスの起源》6巻(1875‐93)において,革命を間にはさむ〈旧体制〉と〈新体制〉の断絶を説くに及んで,学問上の用語としても市民権をえた。 アンシャン・レジームは,社会体制を示す概念であるから,その初めと終りを明確な時点で示すことはむずかしい。…

【市神】より

…市取引の平穏を守護し,その場に集う人々に幸をもたらすと信ぜられる神。市姫ともいう。…

【市場町】より

…市場の存在が成立の基礎となって形成された集落。市場集落ともいう。…

【市女】より

…市に現れる女の商人。平安時代には都の東・西市で市人(いちびと)とともに,政府の買上品や,余剰物資の売却品の取扱いに従事したが,東・西市が衰微するに従い,私商人化した。…

【井戸】より

…東京都西多摩郡羽村町のまいまいず井戸は,台地面から水面までの深さ約10m,周囲60mで,水を汲みやすいように鉢状に掘り下げてあり,形がカタツムリに似ているのでこの名がついた。ローマ市の北北西にあるオルビエト市の聖パトリック井は特殊な構造のまいまい井戸で,1527年から10年かけて凝灰岩中に掘られた。竪井戸は直径4.7m,深さ58.4mで,螺旋状に回って12まわりを248段の階段で下り,別の階段で上ることができる。…

【卸売市場】より

…最も広義には,生産者と販売業者,販売業者相互,または販売業者と産業用需要者の間における取引,すなわち卸売取引が行われる空間的・時間的な広がりを意味する。しかし,一般的には,具体的な施設と制度を有して恒常的な卸売取引がなされる場(具体的市場)を指す。なかでも,青果物(野菜,果物),水産物,食肉といった生鮮食料品を中心とした商品について,現物を眼前に置きながら取引をする具体的な場所とそこにおける取引制度を称することが多い。…

【死罪】より

…死刑の執行には天皇の勅裁を必要とし,かつその奏上は原則として3度行う。死刑の執行は市(いち)において公開されるが,皇親や五位以上の者は家で刑部省官人の立会いのもとで自尽することを許し,七位以上の者および婦人の絞は公開しない。市での執行は,弾正台および衛府の官人が立ち会い,もし囚に無実の疑いがあれば直ちに執行の停止を命じ,奏聞する。…

【十楽】より

…同様の例として〈一楽名〉も見られるが,このように広く庶民の間で用いられるにつれて,十楽は楽に力点を置いて理解されるようになる。戦国時代,諸国の商人の自由な取引の場となった伊勢の桑名,松坂を〈十楽の津〉〈十楽〉の町といい,関,渡しにおける交通税を免除された商人の集まる市(いち)で,不入権を持ち,地子を免除され,債務や主従の縁の切れるアジールでもあった市を〈楽市〉〈楽市場〉といったように,〈十楽〉〈楽〉は中世における自由を,十分ではないにせよ表現する語となった。〈楽雑談〉〈楽書〉などはみなその意味であり,織田信長はこの動きをとりこみ,みずから安土(あづち)に楽市を設定している(楽市・楽座)。…

【商業】より

…したがって,商業を取引のために存在するところの企業と認識するこの説のほかに,交換説,再販売購入説,配給説などがある。交換説は,中世の都市経済における個別的な直接交換をとらえて商業とみる説であり,再販売購入説は,18世紀において商行為を専門の業務とする商人活動が盛んになるに至って,商人の再販売のための購入活動をもって商業とするものである。さらに,19世紀から20世紀にかけて,商人のみならず生産者,消費者,国もしくは地方公共団体によっても商行為が専門的に行われるに及んで,それらの組織体の商行為をも商業ととらえる配給説が唱えられた。…

【場市】より

…朝鮮における市(いち)の一種で,常設の店舗等の特別の施設を有さず,行商人や近辺の農民たちが定期的に集まって商品交換を行う場所。朝鮮語ではチャンシchangsi。…

【商品市場】より

…商品市場とは,商品の〈売り〉と〈買い〉とが集まって値段が決まる場をいう。商品は一般に生産者から問屋(卸業者)を経て小売店に至り,需要家の手に入る。…

【定期市】より


[日本]
 月のうち特定の日に開かれた日切り市。11世紀の半ば,石清水八幡宮の宿院河原(現,京都府八幡市)には午の日,のち子の日に市が開かれたが,これは干支にちなんだ日に開かれた市で,定期市のもっとも早い事例である。…

【都市】より

…都市という日本語は明治中期以後の語で,しばしば行政上の市や町と混同されるが,まったく別の概念である。英語のtownとcityは日本では行政上の町と市,および集落単位の町や都市の訳語にも用いられるが,イギリスではtownとcityはほぼ類似の意味で用いられ,とくにtownが小型の集落だけを意味していない。…

【年の市(歳の市)】より

…年末に立つ市で,年神祭の用具や正月用の飾物,雑貨,衣類,海産物の類を売るのを目的としている。かつて毎月の定期市のうち,その年最後の市を正月用品販売にあてる場合が多かったので,暮市,節季市,ツメ市などともいわれる。…

【東市・西市】より

…日本古代の都城に付設された官市。その存在が確認される初めは藤原京の場合で,宮の北面中門から出土した木簡に糸90斤を沽却(売却)する〈市〉のことがみえる。…

【巫女∥神子】より

…鈴振り神子,湯立神子,神楽神子とも称される。これにもローカルタームがあって,宮中の神事に奉仕した御巫(みかんこ),伊勢神宮の斎宮(いつきのみや),賀茂神社の斎院またはアレオトメ,熱田神宮の惣の市(そうのいち),鹿島神宮の物忌(ものいみ),厳島神社の内侍(ないし),美保神社の市(いち)などが著名である。けれども現在では,本来の神がかり現象を示すものはほとんどみられない。…

【無主地】より

…寺堂のまわりに開かれた田畠や在家は,その経営基盤として年貢・公事(くじ)が免除された。が無主の荒野や峠などに立てられることもよくみられた。市立(いちだて)の場合,商人・百姓等が,自然に荒野などに集まることもあったと推測される。…

【山人】より

…里に住んで水田稲作農業に従事している人々からは,山は異質の空間であると認識され,畏怖の観念でとらえられていたため,多くの怪異を生み出したのである。しかし,東北地方の狩猟者であるまたぎ,関東以西に多い山窩(さんか),全国の山間奥地に分布した木地屋(きじや)など漂泊的生活を送ってきた人々は,定期的にたつ(いち)の日などに,その生産物をたずさえて現れ,里人と交易することがあった。その接触の経験が背景となって,里人は山住みの山人を異質の文化に属する集団だという印象をもっていたのである。…

※「市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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