デジタル大辞泉 「米」の意味・読み・例文・類語
こめ【米】
[下接語](ごめ)赤米・
[類語]玄米・白米・新米・古米・古古米・
べい【米】[漢字項目]
[学習漢字]2年

1 五穀の一。こめ。「米価・米穀・米作・米飯/五斗米」
2 長さの単位。メートル。「平米・
3 アメリカ。「米軍・米国/欧米・親米・渡米・南米・日米・反米」
4 (文字分析から)八八歳。「米寿」


[難読]
( 1 )中央気象台は、明治一五年(一八八二)にメートル法を採用し、「仏尺」などと訳していた。その後メートル法が尺貫法とともに法定の度量衡となったために、新たに「メートル」を「米」と表記するように定め、「ミリメートル」「センチメートル」「キロメートル」なども「粍」「糎」「粁」という国字で表わした。
( 2 )「珊米突」「仙迷(センチメートル)」、「米突(メートル)」などの表記も併用されたが、法令や国定教科書などに片仮名表記やローマ字表記とともに使われるようになって漢字表記の「米」「粍」「糎」「粁」が定着した。
( 3 )昭和二一年(一九四六)に当用漢字が制定されてからは、片仮名や cm, m などの記号による表記が一般的となる。
( 1 )コメと類語ヨネとの違いについて契沖は、脱穀したものがコメ、さらに精白したものがヨネではないかとしている〔随・円珠庵雑記〕。しかし、中古・中世の文献によると、漢文訓読および和文的な作品でヨネが多いのに対して、説話や故実書、キリシタン文献などでコメを用いており、これはヨネが雅語的・文章語的性格を有したのに対して、コメが実用語的・口頭語的な性格が強かったからではないかと解釈される。
( 2 )このほか、類義語としては、「米」の字を分解したハチボク(八木)があり、主に記録体の文章に用いられた。また、コメのメを繰り返したと思われるメメや、魔除けのために米をまきちらすことからきたウチマキという語が、中世から近世に女性語として用いられた。
イネ科(APG分類:イネ科)イネ属の植物の種実〔穎果(えいか)〕をいう。世界における米の総生産は籾(もみ)米として年間6億トンを超え、コムギ、トウモロコシとともに世界の三大穀物といわれる。米の90%近くはアジアの諸国で生産され、その大部分はアジアで消費される。日本人の主食として重要なことはいうまでもなく、インド、中国、東南アジア諸国と極東諸国を含む地球人口の半分以上にとって重要な食品である。
[不破英次]
籾(籾米)から籾殻を除いたものが玄米(げんまい)であり、玄米は胚芽(はいが)、胚乳、果皮からできている。玄米全粒に対し重量比で糠(ぬか)層(主として果皮と糊粉層)5~6%、胚芽2~3%、胚乳90~92%である。したがって搗精(とうせい)(精白)により玄米から胚芽と糠層を除いた白米(精白米)は主として胚乳部分を集めたものである。七分搗(づ)き米は、十分搗き精白で除かれる量の70%を除いたもので、精白歩留(ぶどま)りは93~94%である。また胚芽保有率80%以上に精白したものを「はいが精米」という。
胚乳の主成分、したがって白米の主成分はデンプンで、乾物重量の約90%を占める。白米は乾物重量で約6.8%のタンパク質を含む。そのほか脂質、無機質、ビタミンあるいは食物繊維の含量は少ない。これは、デンプン以外の成分の大部分は胚芽と糠層に含まれているため、精白の段階で除かれるからである。
[不破英次]
イネ科植物にはイネのほかコムギ、オオムギ、トウモロコシなど、人類にとって重要な食用作物が多く含まれている。現在イネ属植物は22種に整理されており、このうち2種が栽培種である。すなわちサティバ種Oryza sativa L.は、東南アジアのアッサム、雲南地方にわたるヒマラヤ山麓(さんろく)に紀元前7000~前6000年に起源したといわれ、現在世界中の稲作地帯のほとんど全部で栽培されている。これに対しアフリカイネといわれるグラベリマ種Oryza glaberrima Steud.はアフリカの原産で、西アフリカのごく一部で栽培されているにすぎない。しかしこれら両種の祖先はどこかで連なっているとも推定される。
サティバ種は野生稲のペレニス種から栽培化されたことはほぼ確実で、この野生稲は日本に存在しないから、サティバ種は日本で栽培化されたとは考えられず、国外から渡来したものである。日本へのイネの渡来経路は少なくとも三つある。すなわち朝鮮半島経由、揚子江(ようすこう)南から、および「海上の道」(南方から)で、いずれも北、西あるいは南から九州に最初に上陸し、やがて東進した。渡来の時期は弥生(やよい)時代初期あるいは縄文時代晩期といわれ、それ以前にアジア大陸の各地ではすでに数千年近い稲作の歴史が存在していた。したがって、イネの種子とともに、畦畔(けいはん)をつくり水利を行う水田稲作技術と、水田農作文化が伴って渡来したと考えられる。
[不破英次]
世界のサティバ種、したがって世界の米は、大きく日本型(ジャポニカ)とインド型(インディカ)に分けられる。この二つのイネは形態、生態、遺伝、生理などの性質に多くの違いがある。両群をはっきり分類するのに役だつ単独の形質はないが、籾のフェノール反応、幼植物の塩素酸カリや低温に対する抵抗性、種子の毛の長さなどを組み合わせて判別関数をつくりその値を用いると、比較的間違いなく両群を区別できる。一般に、日本型の米の長さと幅の比は1.7~1.8で、インド型の米は2.5ぐらいのものが多い。この比が2以下のものは見た目に丸く感ずる。いわゆる内地米と外米はそれぞれ日本型とインド型に相当するものが多い。日本型米で炊いた飯は粘りがあるが、同様の条件で炊飯した外米は粘りが少なくぱさぱさしている。この原因は、両者のデンプンの性質の差と米粒の組織・構造の差に基づくと考えられる。世界的にはインド型が広く食用とされており、日本型を好むのは日本人とあと少数である。
[不破英次]
水田で栽培するイネを水稲(すいとう)、畑で栽培するものを陸稲(りくとう)という。日本で栽培されている水稲と陸稲はいろいろの性質に差があり、別の種のようであるが、これら二つのイネの種類はむしろ連続的な変異と考えられている。一定面積当りの収量は水稲のほうが大で、日本における陸稲の作付面積は水稲に比べはるかに少ない。
[不破英次]
米には普通の飯米に用いる粳米と、餅(もち)あるいは赤飯にする糯米とがある。両者の大きな差は主成分のデンプンの違いである。すなわち、粳米のデンプンは直鎖成分のアミロース約20%と、分枝鎖成分アミロペクチン約80%からなるのに対し、糯米のデンプンはアミロースをほとんど含まず、アミロペクチンが大部分である。したがって、粳米と糯米は胚乳部分のヨウ素デンプン呈色反応で容易に区別できる。すなわち、粳米はヨウ素・ヨウ素カリ水溶液で青色に染まるのに対し、糯米は赤~赤褐色を呈する。糯米をはじめ、糯きび、糯あわなど糯種の穀物のねばねばした食感は、照葉樹林文化地帯の人々に好まれる特徴である。
[不破英次]
日本のイネは改良に改良が重ねられて今日に至っている。したがって多くの品種(あるいは栽培品種)が存在する。米の需給が不足から緩和に向かうにつれて、消費者の嗜好(しこう)は、良質で食味がよいものを求める傾向が強くなり、多収型の品種にかわってコシヒカリなど食味の優れた品種の作付面積が伸びるようになった。しかし食味が抜群に好評なコシヒカリやササニシキは、いずれもいもち病に弱く、稈(かん)も弱くて多肥条件で倒伏しやすい欠点がある。ササニシキは1990年(平成2)をピークに、以後作付面積を減らしていき、2017年産米では、水稲粳米全体の作付面積のうち、53.9%がコシヒカリ、ひとめぼれ、ヒノヒカリの上位3品種で占められ、以下、あきたこまち、ななつぼし、はえぬき、キヌヒカリが続いている。
[不破英次]
水分が少なく、砕けにくい硬い米を硬質米といい、これに対し、水分含量が多く、砕けやすい米を軟質米という。同じ品種でも土壌など栽培条件の違いで硬質米になったり、軟質米になったりすることがある。西日本では一般に食味のうえで軟質米系のコシヒカリなどをとくに好み、東日本では硬質米が好まれることが多い。
[不破英次]
登熟が完全で、その品種の特性である粒形を十分に発揮している米粒を完全米という。これに対し、完全米以外の、粒の形、大きさ、色などにどこか異常欠陥のある米粒を不完全米という。不完全米としては、青米(あおまい)、胴割米、腹切(はらぎれ)米、胴切米、ねじれ米、先細(さきほそ)米、茶(ちゃ)米(焼(やけ)米)、乳白(にゅうはく)米、死(しに)米、半死(はんしに)米、しいな、無胚米、双(そう)胚米、双子(ふたご)米などが知られている。腹白(はらじろ)米や心白(しんぱく)米は完全米として扱われている。
[不破英次]
第二次世界大戦中、1942年(昭和17)食糧管理法により米の配給制がとられ、また物価統制令(1946)により1969年(昭和44)までは配給米の価格を規制していた。しかし米の需給の緩和と消費者の良質米嗜好のニーズにこたえ、1969年度産米から政府は配給米(政府米)以外に自主流通米制度を発足させた。自主流通米は価格を自由にするとともに、米卸売業者が指定集荷業者から自由に買い上げるため、価格形成の原理に従い、良質米は相当高価格になることもやむをえない。
1995年(平成7)、食糧管理法にかわり「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」(通称食糧法)が施行された。生産者の政府への米売渡義務がなくなり、非合法だった自由米が計画外流通米として公認され、自主流通米は政府米とともに計画流通米とされた。これにより、政府米の価格も需給を反映したものとなった。
さらに2004年には、食糧法の改正により、制度上は計画流通米と計画外流通米という区別がなくなり、民間流通米と政府米の区別のみとなった。
[不破英次]
かつては配給米、自主流通米ともに、農産物検査法に基づいて政府指定の検査を受けることが義務づけられていた。1995年(平成7)の計画流通制度導入以降も計画流通米については受検義務があったが、2004年の計画流通制度廃止に伴い、すべての米穀について任意検査となった。検査実施主体は、かつては国であったが、2000年の農産物検査法の改正により、民間の登録検査機関に移行することとなった。玄米は、容積重(米1リットルの重量グラム)、整粒%(被害粒、死米、未熟粒などを除いた正常な米粒%)、水分%、形質(米粒の糠層の厚薄、米質の硬軟、粒ぞろい、粒形、光沢、肌ずれ、腹白の程度などを対象とするが、これらは簡単に計測できないので、標準品、すなわち実物見本と比較して等級別の程度を示す)、被害粒%(損害や病害を受けた米粒%)、死米%(充実していない粉状質の米粒%)、異物穀粒%(玄米以外の穀粒%)、異物%(石や砂など)の検査規格に基づき、一~三等および等外の各等級に格づけされる。この玄米規格は形態的、物理的品質を主として示すもので、容積重・整粒・被害粒の項目は精白(搗精(とうせい))歩留(ぶどま)りの指標となり、水分は貯蔵性の指標となるが、食味と直接関連する項目は入っていない。
また2001年4月から、JAS法(農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律)により、容器に入れられるか包装された販売米に対して品質表示が義務づけられた。表示の内容は、一括表示として、(1)名称(玄米、もち精米、うるち精米または精米、胚芽精米)、(2)原料玄米(産地、品種、産年、使用割合)、(3)内容量、(4)精米年月日、(5)販売者(名称、住所、電話番号)の5項目である。
[不破英次]
1995年(平成7)の食糧管理法廃止以前は、政府の検査を通さない自家米を売った場合、原則的に非合法の闇米(不正規米)となった。第二次世界大戦中および戦後、食糧不足で厳しかったときは、消費者(都市生活者)が農家へ闇米を買い出しに行った。1967年(昭和42)ごろから米の豊作が続き、米の需給は不足から緩和に向かい、消費者の嗜好は、配給米の食味に満足せず、良質で食味のよい米を求める傾向が強くなった。これに応じて、今度は農村から都会へ担ぎ屋が品質銘柄のよいおいしい白米の闇米を売り歩くことになった。やがて物価統制令適用の廃止、自主流通米の創設などによって闇米は姿を消したかにみえた。しかし、闇米が、巨額の資金をもつ組織的な商人によって操作されていることは周知のところであった。当時の闇米の農家庭先価格は銘柄米の自主流通米より低いくらいであったが、農家にとっては庭先で売れること、現金払い、税金と無関係という魅力があった。
1987年からは農家と消費者とが直接取引する特別栽培米制度が例外的な措置として設けられた。さらに1995年(平成7)11月に施行された食糧法では、食管法時代に自由米と称された闇米に対して、それを含めた正規の流通ルートからはずれる米を「計画外流通米」とし、販売数量を国に届ければ流通が許可されることになった。2004年からの改正食糧法では、計画外流通米は自主流通米とあわせて「民間流通米」と称されるようになった。
[不破英次]
1年以上たった米が古米で、新米が出ると、それ以前の米は古米となる。2年以上古いものは古々米という。米の貯蔵の方法、温度や湿度の違い、さらに貯蔵の期間などによって、古米化する程度が異なり、したがって味の低下の程度が異なる。日本ではカントリーエレベーターのサイロビンに籾をばら貯蔵する以外は、大部分の米は玄米で貯蔵され、低温貯蔵(15℃以下、相対湿度70~80%)や準低温倉庫(常時20℃以下)での貯蔵以外の普通の貯蔵条件では、玄米は翌年の梅雨を越して夏に入ると急に味が落ちるのが一般である。高温・多湿では早く古米化し、味が落ちるのは当然であるが、こういう条件下では米にカビや虫がつき、いっそう味を悪くする。また虫やカビを防ぐために薬品で燻蒸(くんじょう)、消毒すると、さらに味を悪くする原因にもなる。籾で貯蔵したほうが、玄米で貯蔵した場合より、カビや虫がつきにくいし、米の呼吸、米が空気に触れる程度も少ないから味の変質も少ない。また白米貯蔵は玄米貯蔵より早く味が悪くなることが知られている。
[不破英次]
清酒醸造の原料米には原理的にはどんな米でも使用可能である。しかし酒造りに用いる米、とくに米麹(こめこうじ)の製造に用いるもと米(まい)は、普通の食用粳白米(精白度90~92%)よりさらに精白の進んだもの(80%以下、ときには60~50%)を用いる。したがって、精白しても砕けにくく、また麹菌のはぜ込みのよいものが酒造好適米(醸造用もと米)として特定されている。これらは一般に大粒で、米粒の腹部にある腹白あるいは心白の多い品種群である。すなわち山田錦(にしき)(兵庫県、岡山県)、雄町(おまち)(岡山県)と五百万石(新潟県)が酒造米品種として有名である。しかし酒造りの機械化が進むにつれて、機械製麹(せいきく)に適した品種の育成が行われている。
[不破英次]
玄米の表面の種皮に赤色系色素を含んでいる米を赤米という。粒色は淡褐色からほとんど黒紫色のものまである。普通、飯米の透明かやや白色の白米は赤米の突然変異で生ずることがある。赤米が混入すると米の品質を下げるので生産農家は赤米を嫌う。現在日本でみられる赤米には日本型とインド型の両種がある。日本型赤米は白米粒とほぼ同時に古代九州に渡来したものと考えられており、糯性と粳性のものがある。一方インド型赤米は日本型赤米よりずっと遅く、11世紀後半から14世紀にかけて華中から入った占城(チャンパ)稲(ベトナム占城から華南に伝わったインド型イネ)に源を発しており、大唐米(だいとうまい)、ていとう、唐法師(とうぼし)ともいう。粳米が主であるが糯種も存在する。対馬(つしま)、壱岐(いき)、五島(ごとう)などでは、いまでも神事として日本型赤米種を用いた田植を行い、そのあとに赤米の飯が供されている。現在の赤飯はこの赤米の飯から由来しているとの説がある。
[不破英次]
米に種々の微生物が繁殖し、変質米(病変米)を生ずることがある。ペニシリウム属のカビが米に生育すると黄色あるいは赤紅色の物質を生産し、穀粒が着色するので、この変質米を黄変米という。日本で昔からごくわずかであるがこの現象は知られていた。とくに第二次世界大戦後の食糧難の時代に輸入された米のいくつかから、肝臓毒を生ずる有害ペニシリウム菌が分離され、1954~1955年を中心に大きな話題となった。
[不破英次]
玄米の香りがとくに強いイネの品種を香米(かおり米(まい))とよんでいる。そのにおいはけっしてよいものではないが、普通の米にごく少量(米1升に対し杯(さかずき)1杯程度)を混ぜて炊飯すると、おいしい新米の香りが漂うという。全国各地でごく一部の農家が栽培し、すし米などにブレンドされる。また日本のみでなく東南アジア、アメリカなどでも栽培されている。
[不破英次]
米の一代雑種品種(F1品種)を意味し、雑種強勢を利用して収率を向上させることを目的としている。トウモロコシのように他家受精する他殖性作物は、人工的に自殖を続けると草丈が小さくなり、収量も著しく低下するなど生活力が減退する。この現象を自殖弱勢という。この自殖系統間の雑種F1は自殖以前のものより生活力が旺盛(おうせい)となる。この現象が雑種強勢(ヘテローシス)とよばれる。雑種強勢は固定されず、自殖するとふたたび弱勢化する。したがって、F1にのみ現れ第2代目(F2)以降は退化する。F1品種はトウモロコシで歴史が長く、著しい成果をあげている。しかしもともと、自殖性のイネやコムギでのF1品種の実用化にはいろいろと困難な点があり、ハイブリッド・ライスは中華人民共和国が1974年世界で初めて実用品種を育成して以来、多数の品種を育成し、実用化段階に入っているが、中国以外の国ではまだ実用化に成功していない。日本では細胞質雄性不稔(ふねん)系と稔性回復系統を用いてのハイブリッド・ライスの実用化が待望されている。1984年(昭和59)農林水産省北陸農事試験場で、藤坂5号系の稲を母親に、レイメイと外国稲をかけ合わせたものを父親にした「北陸交1号」が開発され、種苗法に基づく新品種として登録出願されている。収量は1ヘクタール当り7.9トンと多く、従来の最多収品種であるアキヒカリよりも10%以上多い。しかし茎が長く穂も重いので倒伏しやすく、実用化はまだ不明である。
[不破英次]
精白米100グラム〔これは茶碗(ちゃわん)2杯分の飯にほぼ相当する〕の総エネルギー量は356キロカロリーで、たとえば1日2食に飯4杯を食べると1日摂取量2500キロカロリーの約30%が米からとれることとなる。このエネルギーの主要部分(80%以上)は糖質から供給され、その主体は消化のよいデンプンである。タンパク質は約7グラム含まれており、茶碗4杯で1日のタンパク質必要量約70グラムの5分の1が米でとれる。米のタンパク質は、植物性のなかではもっとも良質なものの一つである。伝統的な日本の食事での取り合わせである米と大豆と魚は、タンパク質の面で互いに相補い、摂取の仕方として理想的に近い。ビタミンB1・B2、ナイアシンなどのB群ビタミンと食物繊維は玄米にかなり含まれているが、胚芽や糠層にその大部分が存在するため、白米には多くを期待することはできない。
[不破英次]
世界の米生産量(籾(もみ))は1990年代に入って5億トン強であったが、2000年代になると6億トンを超えるようになった。主要な生産国は生産量の多い順に、中国、インド、インドネシア、バングラデシュ、ベトナム、ミャンマー、タイ、フィリピン、ブラジル、パキスタン、アメリカ、カンボジア、日本である。貿易量は全生産量の5%程度であり、おもな輸出国はインド、ベトナム、タイ、ミャンマーなどであり、おもな輸入国は中国、インドネシア、フィリピンなどである。世界で生産される米の大部分はインド型で、日本型の生産は日本、韓国、中国の一部とミャンマーの一部などごくわずかである。
米の国際価格は、タイ国貿易取引委員会(BOT)が発表する輸出公表価格(BOT公表価格)を基準として値決めが行われ、年々変動する。1980年にはBOT公表価格は粳精米トン当り400米ドルを上回る水準だったものが、その後低迷し、2004~2006年では300米ドル前後の水準となった。これはキログラム当り、高くとも30円であり、日本の米価(60キログラム当り約1万6000円として)の約9分の1である。しかし、2007年10月以降、ベトナム、インド、中国などの輸出規制の影響もあり、国際米価は高騰した。2008年5月21日にトン当り1038米ドルの史上最高値を更新したのちは下落し、同年11月以降は、トン当り600米ドル前後の水準となった。その後も下落し、2016年から2017年にかけては380米ドル前後になっている。
地球上における人類の栄養素摂取のあり方をいくつかの類型に分類すると、麦類、米卓越(米食)、雑穀、根菜作物卓越の四つの類型が主で、とくに前二者が重要である。これらのうち、米食類型に属する人口は世界最大の集団をつくっており、インド南部、インドシナ半島、東南アジア諸国、中国南部、北朝鮮、韓国、日本がこれに属する。一方、麦類食は南北アメリカ、ヨーロッパ、ロシアなどに広がっている。すなわち、これらはそれぞれの植物の生育適性で決まっているといえる。ただしイネは他の雑穀に比べ水田で栽培できるため収量が多く、安定しており、味がよく、穀粒が大きくて精穀および調理しやすいなど有利な点が多い。さらに水稲は連作が可能で、トウモロコシや麦類のような畑作物と異なり、水田では表土流出が少ない利点も加わって、今後イネの生産は世界的に増加する可能性が大きい。事実、コムギをおもな食物としていた所でも、水稲栽培が可能な所では米作に転向し、米を食べるようになる例が多い。日本のように米作に適し、従来米を主食としてきたのに、コムギのほうへ嗜好が移ったという例はきわめてまれな例外といえる。
[不破英次・横尾政雄]
米は植物学的に2種ある。一つは中国南部の山地で栽培の始まった普通の稲のものである。他は西アフリカのニジェール川中流域で栽培化されたグラベリマ種で、アフリカ中部のかなりの地域に栽培がある。しかし、グラベリマ種はその地域の雑穀農耕文化の一要素としてとどまり、独自の米食文化にまでは展開しなかった。
東アジア原産の普通の稲は、東アジアで、西アジア起源の麦作文化に対応する特色のある稲作文化を生み出し、独自性の強い米食文化をつくりあげた。その文化は日本、朝鮮、中国の中南部、東南アジア(東端はスラウェシ)、西はミャンマーとインドのアッサム地方、ヒマラヤのブータン、シッキム、ネパールに及んでいる。インドの広大な稲作地帯、バングラデシュは稲作をしているが、稲作文化としてはやや異なったもので、その米食もやや異なったものと考えられる。
米を食用とすることは、稲の栽培化よりも当然古くから行われていたと考えられる。それは野生稲の採集によって食用にしていた。野生稲はアジア、アフリカ、中米の熱帯水湿地に各種が分布しているが、それらのなかでアジアの普通稲、アフリカのグラベリマ種が栽培化され、中米の野生稲は利用されなかった。考古学的にはタイ国の北東部のノンノクターの遺跡から稲の出土が確かめられているが、それが野生採集か栽培かは明らかでない。その年代は紀元前3500年ころとされている。中国の長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))地域でも最近になって非常に古い稲作文化が発掘されているが、いまだ稲作文化の年代的編年はできていない。いままでの資料からみると、稲を食用とした歴史はだいたい6000年くらいさかのぼるといったところであろう。
[中尾佐助]
日本の古墳時代からは土器の蒸し器が多く出土し、糯米(もちごめ)をおこわとしていたとみられている。奈良・平安時代では糯米の蒸したおこわが強飯(こわいい)とよばれ正式の食事とされていたが、ほかに粳米(うるちまい)の固粥(かたかゆ)、汁粥(しるかゆ)があり、現在日本の米飯は固粥から由来している。中国では春秋戦国時代から漢代にかけては黄河地帯では糯米のおこわが米の標準的料理法であった。現在でもタイ人のなかでは糯米が好まれ、中国南部のタイの人々の一部、ラオスおよび近傍のタイの人々では糯米のおこわが常食になっている。
粳米の飯をつくることは、金属鍋(なべ)のない土器だけの時代では困難であった。粥をつくるには土器でもよいが、飯を炊くと土器におこげができやすく、破損することが多い。そのため飯の炊き方はいろいろなくふうが各地でなされた。インドネシアのように土器の中に竹笊(ざる)を入れて煮たり、大量の水で半煮えのときに水を取り去り、その後に弱火で蒸したりした。この方法は湯どり法とよばれるもので、朝鮮、中国、東南アジア、インドなどで慣行となった方法である。日本の現在普通の飯の炊き方は、一定量の水で終わりまで炊き上げる方法で、炊き干し法とよばれている。東南アジア、インドにも炊き干し法は都市などにあって、現在農村部にもその方法が広がりつつある。
米の粉食法は米食文化地帯の全部にわたり、従属的にみられる。それは湿式製粉法によるもので、白米を一晩水につけて吸水させ、石臼(いしうす)などで製粉すると、ぬれたかたまりになる。これが粢(しとぎ)で、日本、朝鮮、中国、フィリピン、スリランカその他の地域にみられる。粢は日本ではそのまま神事に供され、その他の国ではさらに加熱加工して食用にしている。フィリピンでは粢から蒸しパンをつくり、スリランカでは麺(めん)状製品、チャパティ状食品をつくっている。東南アジアでは粢から菓子をつくることが多い。
[中尾佐助]
東アジアの米食地帯では米の飯を主食としており、それに副食をあわせてとるという食事体系が確立している。この場合には米の飯は純白、淡味のものが選ばれているが、米質については細かな微妙な嗜好(しこう)ができている。
インドの中西部、パキスタンから始まり、その以西のイラン、西アジア、ヨーロッパでは米は麦の次に位する重要性をもっているが、その料理法の基本は異なっている。洗った米を油で炒(いた)め、塩味を加えて炊くプラオが原型となっている。プラオには香辛料、乾果物、肉など加えた上等品もある。プラオの名はヨーロッパに伝わりピラフとなっている。イベリア半島のパエリャは、この系統のものである。またイタリアにはリゾットとよばれるおじや状の米のスープがある。ヨーロッパでは最近になって、プレーン・ライスや米料理が皿の上に盛合せとして利用されるようになってきたが、それは食事の主役というものにはなっていない。
現在の米食人口は世界人口の51%とされているが、その大部分はアジアに住んでいる。
[中尾佐助]
日本列島は温帯でモンスーン地帯の北部に位置し、年間の雨量1000ミリメートル以上、イネの生育期間90日の気温20℃以上、1日の気温落差10℃内外、年間温度差25℃以上と、夏季に水と温度に恵まれ水田稲作にもっとも適した地といえる。したがって古代稲の渡来以来、数千年に及ぶ歴史は稲作とともに歩んできたといっても過言ではない。まず日本の国家自体が「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂の地(みずほのくに)」といわれたように、稲作の定着とその生産力の拡大につれて形成され、原始国家の成立後6世紀なかばには大和(やまと)に統一国家が形成された。その後、国家運営の基礎に田とイネと米が置かれ、701年(大宝1)に完成した律令(りつりょう)制度のなかで土地制と税制が整えられ、国家の基礎が固められた。米は貢租の中心に位置づけられ、これは近世まで続いた。次に荘園(しょうえん)がつくられたが、9世紀には公営田(くえいでん)や勅旨田が広がった。中世に入り武士が力をつけ、公家(くげ)や寺社の支配下にあった荘園をめぐる争いが激化した。武士団は武力を背景に土地を守りさらに拡充するために結束し、結局は、鎌倉幕府樹立による強固な封建的主従関係が成立した。さらに近世に入り、幕府、諸藩の所領は米の生産高で表され(石高制)、米遣いの経済とよばれるほど米は重要な商品となった。諸産業の発達のなかで、交通運輸が発達し、とくに水上大量輸送が可能となることにより、貨幣経済の浸透していく過程で、江戸時代諸藩の年貢米の集散と換金の中心地大坂が経済活動の中心となった(堂島米市場)。また明治維新後の近代国家の成立過程で行われた地租改正では、全国の土地について官・公・民の区分が明らかにされ、民有地については所有権を認めるとともに、地主には地租を負担させた。すなわち、この土地の大もとは田であり、地租の大部分は米を換金して納められた。
[不破英次]
水稲農耕は、小区画の隣接しあった水田において気象条件の変化や病虫害に抵抗しながら、田植、雑草除去、収穫などの適期における膨大な作業と、相互の水田を結ぶ水の管理を伴って進められる。したがって、一定地域の水田を対象として強固な横組みの共同社会、すなわち農村共同体が形成された。昨今、都市型、工業型地域社会が優勢を占めるといわれるが、今日でも人口の3分の1以上は農村に定住しており、また都市生活者もかなりの部分が農村出身者であることを考えると、農村型共同社会が日本社会に及ぼしている影響は大きい。また、水田稲作における収穫への期待、労働の厳しさ、気象や病虫害による災害の恐ろしさなどが、結果として日本人の信仰を生み、祭りや芸能を育てた部分が大きい。
日本人の食生活において米は昔から主食であったといわれるが、一部支配者を除き、一般の人々は、米は生産しても年貢に納め、実際に口にすることはまれであり、むしろ米を主食にしたいと願望してきたというのが正しい。たとえば、江戸時代は農業生産力が著しく向上した時代であったが、米はもっぱら年貢米として納め、農民が主として食べていたのはアワ、ヒエなどの雑穀、あるいはそれらといも類や大根を煮込んだ雑炊(ぞうすい)であった。したがって、米からつくった酒を飲み、糯米を搗いた餅を食べるのは、冠婚葬祭など特別の催しのある場合に限られていた。明治時代に入り米の生産力は飛躍的に伸びたが、一方人口も急激に増え、また所得の伸びにしたがって1人当りの米の消費も大幅に増加した。明治末から大正を通じ、1人1年約1石(こく)(150キログラム)を消費する時代が続き、米の国内生産は不足で、外国からの輸入で補った。昭和に入り、戦時体制下につねに不足しがちの米はしだいに国家管理の色彩を強め、1942年(昭和17)には主要食糧の全量を国家が直接管理する食糧管理制度が発足し、米については政府の直接管理を基本としてきたが、1995年(平成7)、食糧法の施行により制度は大幅に変更された。
[不破英次]
『古事記』や『日本書紀』には、高天原(たかまがはら)に天照大神(あまてらすおおみかみ)の水田があり、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)(素戔嗚尊)が暴力的でその水田の畦(あぜ)を壊したことや、天照大神が水稲と思われる種子を、天上の支配者の食物として天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に持たせた記載がある。すなわち、天上(高天原)ですでに行われていた水田耕作(稲作)が、地上に伝えられたと考えられている。
また、『古事記』では、須佐之男命に殺された大気都比売神(おおげつひめのかみ)の死体から稲をはじめとするさまざまなものが化生(けしょう)したとしているが、類型の話は『日本書紀』にもある。月読命(つきよみのみこと)が葦原中国(あしはらのなかつくに)(地上)の保食神(うけもちのかみ)に食物を乞(こ)うたおり、保食神は口から食物を出して御馳走(ごちそう)しようとしたので、怒った月読命は保食神を殺し、その死体の頭から牛馬、額から粟(あわ)、眉(まゆ)から蚕(かいこ)、目から稗(ひえ)、腹から稲、陰部からは麦、大豆、小豆(あずき)が生じたという。
米は神聖なものであり、作神(さくがみ)(農神(のうがみ))や弘法大師(こうぼうだいし)からの授かり物という伝承もある。神聖な米をつくる水田に屎尿(しにょう)などの肥料を避ける例はかなり遅くまで残った。病人の枕元(まくらもと)で竹筒に入れた白米を振ってみせると病気が治るという振り米、神仏に詣(もう)でるときや祓(はらい)のときなどに米をまいて魔物をはらう散米(さんまい)(ウチマキ、オサンゴ)などは、米のもつ霊力を借りようとするものであった。食物を強いる祭りとして知られる強飯(ごうはん)式、大飯(おおいい)の神事にも同じような意味が込められている。出産直後に炊く産飯(うぶめし)(ウブタテ飯)、婚礼のときに供される高盛の飯、死者の枕辺に供える枕飯は、人生三度の高盛飯といわれるが、これも誕生・再生の儀式に米の霊力を期待したものと考えられる。
このほか、鶴(つる)が稲穂(稲種)を運んできたとする穂落とし神型の伝承や、狐(きつね)が中国で稲穂を一つ盗み、それを竹棒の中に隠して日本にもたらしたとする伝承、姑(しゅうとめ)から1日で広い田の田植を済ませるように命ぜられた1人の女が、完成できずに自殺したという伝え(嫁殺し田型)などもある。
[不破英次]
古くから稲作を中心としてきた日本人の祖先たちにとって、毎年秋の稔(みの)りが豊作であるか、凶作であるかは生活にかかわる重大問題であった。すなわち、まず稲作の開始に先だって秋の稔りの成就(じょうじゅ)を祝福祈願する予祝行事がある。これには、1月15日の小正月(こしょうがつ)のときに行われるモノツクリ、すなわち餅花などいろいろの飾り物をつくり農作物の豊かな稔りを模して飾る行事と、サツキといって田植のまねをする行事の二つがあるが、さらに農作物に害のある動物を追う行事(鳥追いなど)が加わる。次に、4月、5月、6月は田植を中心とした重要な時期であり、この時期の雨量が田植にとって不可欠のものであり、天候が大きく左右するので、嵐除(あらしよ)け、雨乞(あまご)い、天道念仏など天気にかかわる祭りと害虫除去の祭りがこの間に行われる。
イネの生産過程に沿った最後の儀礼が収穫祭であり、刈り入れ前の穂掛け祭と実収穫後の刈上げ祭の二つが重要である。穂掛け祭は実際の収穫の前に、神に初穂を捧(ささ)げてイネの成長への感謝と収穫の無事を祈る意味があり、初穂のできぐあいをみてその年の豊凶を占う所もある。稲刈り終了後に行われるのが刈上げ祭であり、収穫祭の中心をなす。形式だけをみると、宮廷行事のうち、イネの初穂を伊勢(いせ)神宮に捧げる神嘗祭(かんなめさい)と、イネの収穫祭である新嘗祭(にいなめさい)とが上記二つに対応する。しかし収穫祭の個々の儀礼はかならずしもイネに特有のものではなく、むしろムギ、アワ、ヒエやダイズ、アズキ、いも、ダイコンの儀礼を基礎に稲作儀礼化したものが多いようである。
[不破英次]
農作物、日本ではとくに米のできが悪く食物が極端に欠乏し死人が出ることを飢饉(ききん)(饑饉)という。日本は過去に大小取り混ぜ約500回の飢饉の記録があり、そのおもな原因は干害、冷害、風水害という気象異変があげられ、そのほか戦乱、疫病、虫害、火山爆発も見逃せない。江戸時代最大の天明(てんめい)の飢饉(1783~1787)は、全国的な冷夏と長雨、東日本の虫害、さらに浅間山の大爆発といくつかの原因が重なっている。一般に東日本とくに北部(奥羽)では冷害が多く、西日本は干魃(かんばつ)によるものが多い。北日本で近世の四大飢饉といわれる1702~1703年(元禄15~16)、1755~1756年(宝暦5~6)、天明(前述)、1833~1837年(天保4~8)の飢饉はいずれも冷害による。1180~1181年(治承4~養和1)には西日本で大干魃による飢饉があり、1732~1733年(享保17~18)には西日本にウンカによる大虫害のため起こった飢饉が記録されている。当然のことながら、大凶作のあった翌年の端境(はざかい)期にもっとも餓死者が多く出る。また「飢饉は二年続く」という諺(ことわざ)があるが、大凶作の年には農民の栄養状態が悪化し、流行病がはやり、飢えのため種籾(たねもみ)さえも食い尽くすことから、翌年は労働力の投下が著しく不足して農作物の作柄(さくがら)が悪くなるのが原因である。
飢饉で食糧が不足し餓死する人が出るようなときには、世情が不安定になり、一揆(いっき)が起こる。一揆は、形態・規模はさまざまであるが、形態から不穏(ふおん)、逃散(ちょうさん)、愁訴(しゅうそ)、越訴(おっそ)、打毀(うちこわし)(米騒動)、強訴(ごうそ)、蜂起(ほうき)(叛乱(はんらん)を含む)の七つに分類される。江戸時代、とくに天明年間(1781~1789)、天保(てんぽう)年間(1830~1844)、慶応(けいおう)年間(1865~1868)に一揆の発生回数が多い。1866年(慶応2)の一揆は、東日本の冷害による大凶作で米価が全国的に大暴騰したためであり、結局江戸幕府を倒し明治維新につながる革命的エネルギーをもっていた。また1918年(大正7)の米騒動は、富山県の港町で主婦たちが先頭にたって米屋に押しかけ、米の積み出しを実力で阻止し、安売りを行わせようとしたこと(「越中(えっちゅう)女房一揆」)に端を発し、その後、名古屋、京都、大阪、神戸に広がり、各地で米の安売りの強要や米屋打毀の暴動が起こった。これは、第一次世界大戦による都市人口の急増に米の供給が間に合わなかったこと、地主、商人の投機的動機による買占め、売り惜しみや、寺内正毅(まさたけ)内閣が外米輸入に必要な措置をとらなかったこと、加えてシベリア出兵決定により買占めがいっそう進行したことにより、米価が高騰したことが原因であった。
[不破英次]
食糧管理法は、戦時経済下において主要食糧の国家統制を強化するというねらいで1942年(昭和17)に戦時立法として制定された。その目的は「国民食糧の確保及び国民経済の安定を図る」ため「食糧を管理しその需給及び価格の調整並びに配給の統制を行う」ことである。また対象とする主要食糧の範囲は米麦とされており、米穀粉など8品目が指定されていた。この法律は成立以来、米の需給事情その他の経済、社会状況が大きく変貌(へんぼう)するなかで、国民食糧の確保と国民経済の安定に大きな役割を果たしてきた。しかし昭和40年代に入り、食生活が豊かになり、米に対する需要が多様化してくるとともに、需給基調が過剰傾向に転ずるようになると、不足下に制定された制度では十分対応できない事態が生じてきた。このため、自主流通米の創設、政府売渡価格への品種格差の導入、末端価格の物価統制令適用廃止など、運用面における各種改善措置が講ぜられたが、制度のたてまえと運用の実態との間の食い違いが問題とされていた。
この制度の下での米の流通は、指定集荷業者、政府、卸売販売業者、小売販売業者という原則として一元的流通ルートで多数の供給と需要を結び付け、国および地方公共団体が配給制度という枠組みのなかで直接的に監督にあたるところが特色である。その結果、流通の秩序が維持され、たとえばオイル・ショックによる狂乱物価のときにも米の供給および価格は安定に保たれた。今後も国内外の食糧情勢はけっして楽観を許さないので、食糧資源の乏しい日本で国民に食糧の安定的な供給を保障していくためには、国内で十分な供給能力をもつ主要食糧である米の需給の均衡を図るとともに、その確実な流通を確保していく必要があろう。
[不破英次]
自主流通米が主食用粳米の流通に占める割合は、1970年(昭和45)以降年ごとに増え、1991年では主食用米の70%近くになった。この自主流通米では市場原理を生かし、産地品種銘柄ごとの需給動向や品質評価を反映した価格形成を図るため、1990年から入札取引制度の自主米取引場が開設された。さらに1995年11月には食糧管理法が廃止され、それにかわり「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」(通称食糧法)が施行され、米の流通は、政府米と自主流通米からなる計画流通米と、それ以外の計画外流通米との二本立てとされ、市場原理が大幅に導入された。
一方、有機栽培米や無農薬米などを求める消費者の要望に応えるため、1987年から特別栽培米制度が導入された。この制度は化学肥料や農薬を使わないなど、普通の栽培方法と著しく異なる方法によって生産した米を、生産者と消費者が一定条件の下で直接取引できるようにしたものである。
その後、2004年施行の改正食糧法によって計画流通制度は廃止された。計画流通米と計画外流通米という区別はなくなり、米の流通ルートは原則自由化された。
[横尾政雄]
日本では、1950年代から水田面積が増え、かつ、単位面積当りの収量が飛躍的に向上したことによって、1960年代後半には米の生産量が1400万トンを超えて需要量を上回り、自給が達成された。しかし、このため生産過剰問題が起こり、1970年代初めからは需要に見合う量を生産するように調整し、生産量は1000万トン前後を推移するようになった。しかし1992年(平成4)は280万ヘクタールの水田のうち80万ヘクタールにイネを植えないようにしたところ、1993年、戦後最大という冷害により国内の生産が大幅に減少し、米不足が発生した。そのため米の供給は緊急輸入に頼らざるをえない状態に陥り、生産調整見直しの論議がおきた。その後数年は1000万トン以上の生産が続いたが、以後漸減し、2004年以降は800万トン台になっている。2016年の国内生産量は855万トンである。
国民1人当りの米の年間消費量は1960年(昭和35)には約115キログラムであったのが、その後急速に減り、1990年代に入るとついに70キログラムを割った。しかし、各種団体による米消費促進運動の成果により、減少の度合いは緩やかで、2007年では約61キログラムだった。しかし2008年には60キログラムを割り、2016年は54.4キログラムである。消費量が減って消費者の需要が量より質に移り、うまい米品種のコシヒカリなどが多くつくられるようになり、それらを系譜にもつ新品種の作付面積が急速に増えている。従来、食味では不評であった北海道や九州でも、うまい米の品種栽培ができるようになり作付面積が増え、そのほかの地域でも銘柄米をつくる運動が盛んで、全国的な産地間競争の時代になっている。
家庭食における米の消費量が減少する一方、外食における消費量は年々増加して200万トン前後と推定されている。外食産業の業務用や、家庭の調理済み食品に対する需要の増加を背景に、冷凍米飯やレトルト米飯などの加工米飯の生産量が増え、米の使用量も増加する傾向にある。また、外国の米料理に対する関心が高まり、普通の米とは性質の異なる米を求める声が強くなっている。そのため、粒の形の大きな米や細長い米、香米(かおりまい)、普通の粳米よりもさらに飯が粘らない高アミロース米、粳米と糯米の中間の性質をもち、飯がよく粘る低アミロース米などの品種がすでに育成され、いろいろな米が少しずつではあるが生産されている。今後、粒の形の小さな米、赤米(あかまい)・紫黒米(しこくまい)、低タンパク米やそれぞれの性質をさまざまに組み合わせた品種も育成されるだろう。
[横尾政雄]
日本では米の大部分は玄米で貯蔵され、精白(搗精)の過程を経て、大部分が白米(精白米)の形で飯米として用いられる。ごく一部は玄米、「はいが精米」、半搗き米、七分搗き米も飯米として食用に供される。近年、食物中の繊維など不消化性成分の生理的意義が世界的に見直されてきており、日本でも「はいが精米」や玄米は無機質やビタミンなどの供給とともに食物繊維の供給の面から新しい関心を集めている。「はいが精米」は白米よりいくぶん多い水加減をすれば白米と同様常圧で炊飯できるが、玄米の炊飯は常圧では二度炊きしてもなかなかおいしい飯になりにくく、圧力釜(がま)などの特殊な器具を用いたほうが上手に炊ける。
米は主食として飯で食べる一方、古くから餅、米菓、米みそ、清酒などの加工品として利用されてきた。さらに最近では、食生活の多様化、簡便化に対応して、米の特性を生かした新しい加工食品の開発も積極的に進められ、種々の製品が市場に出回るようになった。代表的なものとして、レトルト米飯、包装餅、ライススナックなどがあげられる。次に市販されている米利用加工食品を列挙する。
(1)米飯類(レトルト米飯、米飯缶詰、アルファ化米など)
(2)米粉麺(めん)類(米粉生麺、ビーフンなど)
(3)米を原料とするパン類
(4)米菓およびスナック食品(ライススナック、ライスフレークなど各種スナック食品)
(5)加工米穀類(簡単に炊ける玄米、新ビタミン強化米など)
(6)調味料類(みりん、米酢、米みそなど)
(7)穀粉類(上新粉(じょうしんこ)、白玉粉(しらたまこ)、アルファ化米粉など)
(8)包装餅類(包装餅、白玉餅、冷凍団子など)
(9)即席粥(がゆ)類(玄米ミール、離乳食、圧扁(あっぺん)玄米など)
(10)酒類および飲料類(清酒、焼酎(しょうちゅう)乙類、ワインタイプの酒、玄米茶など)
[不破英次]
玄米は古くから俵(たわら)に詰められたが、近年は麻袋、紙袋、叺(かます)、樹脂袋のいずれかに包装されて保蔵あるいは流通する。すなわち、稲藁(いねわら)でつくった米俵は近年ほとんどみることはできないが、いまも1俵(いっぴょう)(約60キログラム)という米の量を計る単位は慣習として残っている。玄米を精白した白米は、10キログラム、5キログラム、2キログラム入りのプラスチックあるいは紙袋に包装され、消費者に小売りされる。農林水産省が消費者の多様な需要に対応するため、米の品質表示を包装上に明確化するよう指導監視しており、精白した期日が消費者にすぐわかるよう表示されている。小売りの玄米や「はいが精米」では、ナイロンとポリエチレンの多層構造のフィルムでつくった袋に入れて密閉し、米の呼吸によって酸素を消費し、炭酸ガスがたまるようにした「ガスパック」(冬眠密着包装)で保存性をよくしたものもある。
[不破英次]
日本では1960年代後半に自給が達成されてからは、特殊な場合を除いて政府による実質的な輸入はなかった。しかし外国から日本の米輸入を求める動きが活発になり、日本の米輸入制限はガット(GATT。世界貿易機関=WTOの前身)違反であると、全米精米業者協会(RMA)は1988年にアメリカ政府に提訴。アメリカ政府はこれをウルグアイ・ラウンドの農業交渉の場で扱うこととした。これに対し日本は、米は日本の基礎的食糧であり、食糧安全保障の対象であると主張し続けた。しかし1993年(平成5)12月、日本政府はウルグアイ・ラウンド成功のため、6年間の猶予期間を設けて米の輸入の関税化を受け入れる決定を行った。猶予期間中は最低輸入枠(ミニマム・アクセス)を設定して輸入し、1999年には関税化による日本の米市場開放が行われたが、ミニマム・アクセス米の輸入は継続されている。
[横尾政雄]
『中尾佐助著『料理の起源』(1972・NHKブックス)』▽『松尾孝嶺著『お米とともに』(1976・玉川大学出版部)』▽『星川清親著『米』(1979・柴田書店)』▽『米問題研究会編『こめ』(1981・創造書房)』▽『家永泰光著『穀物文化の起源』(1982・古今書院)』▽『佐佐木高明編『日本農耕文化の源流』(1983・日本放送出版協会)』▽『渡辺忠世著『アジア稲作の系譜』(1983・法政大学出版局)』▽『石毛直道著『世界の米料理』(『朝日百科 世界の食べもの121』所収・1983・朝日新聞社)』▽『藤巻正生・井上五郎・田中武彦編『米・大豆と魚』(1984・光生館)』▽『田中勉監修『米穀の流通と管理』(1985・地球社)』▽『石谷孝佑・藤木正一編『米飯食品事典』(1994・サイエンスフォーラム)』▽『石谷孝佑・大坪研一編『米の科学』(1995・朝倉書店)』▽『土門剛著『新食糧法で日本のお米はこう変わる』(1995・東洋経済新報社)』▽『大内力・佐伯尚美編『日本の米を考える』1~3(1995・家の光協会)』▽『黒柳俊雄・嘉田良平編『米自由化の計量分析』(1996・大明堂)』▽『川原泉著『「米」流通大革新』(1996・経営情報出版社)』▽『日本農業市場学会編『激変する食糧法下の米市場』(1997・筑波書房)』▽『食生活消費情報研究会著、大蔵省印刷局編『お米なぜなぜ質問箱88』(1997・大蔵省印刷局)』▽『農政ジャーナリストの会編『日本農業の動き 「新たな米政策」は何を目指すか』(1998・農林統計協会)』▽『伊藤喜雄編著『米産業の競争構造』(1998・農山漁村文化協会)』▽『小田紘一郎著『新データブック世界の米』(1999・農山漁村文化協会)』▽『板倉聖宣監修『調べてみようわたしたちの食べもの1 米』(1999・小峰書店)』▽『A・J・H・レイサム著、丸山利夫訳『米 この貴重なる食糧――世界の米生産と米貿易』(1999・農林統計協会)』▽『遠藤保雄著『米・欧農業交渉――関税削減交渉から農政改革交渉へ』(1999・農林統計協会)』▽『日本フード学会編『新食糧法下における米の加工・流通問題』(1999・農林統計協会)』▽『農山漁村文化協会編・刊『米ヌカを使いこなす――雑草防除・食味向上のしくみと実際』(2000)』▽『井上ひさし・島田彰夫ほか著、学校給食と子どもの健康を考える会編『完全米飯給食が日本を救う』(2000・東洋経済新報社)』▽『網野善彦・石井進著『米・百姓・天皇――日本史の虚像のゆくえ』(2000・大和書房)』▽『桜井由躬雄著、大村次郷写真『アジアをゆく 米に生きる人々――太陽のはげまし、森と水のやさしさ』(2000・集英社)』▽『鶴田敦子・高木直ほか編著『教科を基礎にした 米(食と農)からはじめる総合的学習』(2000・かもがわ出版)』▽『諏訪春雄編『日本人と米』(2000・勉誠出版)』▽『土肥鑑高著『米の日本史』(2001・雄山閣出版)』▽『中沢弁次郎著『日本米価変動史』(2001・柏書房)』▽『石谷孝佑編『米の事典――稲作からゲノムまで』(2002・幸書房)』▽『青柳健二写真・文『日本の棚田百選――米も風景もおいしい私たちの「文化遺産」』(2002・小学館)』▽『保岡孝之監修『お米なんでも大百科』全5巻(2002・ポプラ社)』▽『井上ひさし著『新潮オンデマンドブックス コメの話』(2002・新潮社)』▽『井上ひさし選、日本ペンクラブ編『お米を考える本』(光文社文庫)』▽『大島清著『食糧と農業を考える』(岩波新書)』▽『山口彦之著『作物改良に挑む』(岩波新書)』
イネの種実をいう。収穫された米はもみ殻をかぶっており,これを〈もみ(籾)〉という。日本では,もみ殻をはずした玄米の形で包装,集荷,貯蔵するのが多いが,最近一部ではもみのばら集荷,貯蔵が行われている。外国では米はすべてもみの形で集荷,貯蔵される。玄米を精米機にかけて,ぬか層や胚芽を取り除いたものが精米(白米)である。米は小麦とともに人類の最も重要な食糧だが,小麦がロシアやアメリカなど冷涼で比較的乾燥した地域で生産されるのに対し,米は日本をはじめアジア南部など高温で水の豊富な地域で生産される。それらの地域では永年の間,主食として膨大な人口を養ってきた。
(1)日本型とインド型 世界の米は日本型とインド型に大別される。この区別はイネの分類からきたもので,日本型は日本およびその周辺から中国北・中部に多く,エジプト,イタリア,スペイン,あるいは北・中・南米にもある。インド型は東南アジアから中国南部におもに分布し,インドやアメリカ南部でも作られている。インド型の米は日本型にくらべて粒形が細長く,飯に粘りがないのが特徴で,日本人の嗜好(しこう)にはあわない。
(2)うるち(粳)米ともち(糯)米 日本型,インド型のどちらの米にも,うるち米ともち米がある。飯に炊いて普通に食べるのがうるち米で,精米は半透明なものが多く,光沢がある。それに対して餅や赤飯にするもち米は,精米が白くて不透明である。米のデンプンはブドウ糖が鎖状に1列に並んでいるアミロースと,ブドウ糖が樹枝状に分かれた形をつくっているアミロペクチンからできており,うるち米デンプンではアミロース約20%,アミロペクチンが約80%の割合であるが,もち米デンプンではほとんどアミロペクチンだけであり,これが両者の大きな違いである。もち米のなかには精米にしたとき半透明で,うるち米と見分けにくいものがあるが,ヨード・ヨードカリ溶液で染色すると,うるち米は青藍色に,もち米は赤褐色に染まるので,簡単に区別できる。
(3)水稲と陸稲 うるち米,もち米ともに水田につくる水稲と畑につくる陸稲(おかぼ)がある。陸稲は日本では畑の多い関東や南九州におもに栽培されている。米の栄養価値のうえでは両者に大きな差はないが,陸稲の飯は粘りがないので,食味は水稲に劣るといわれている。
(4)硬質米と軟質米 米の乾燥を太陽熱による自然乾燥にたよっていた1945年ころまでは,太平洋側や四国,九州で生産される米は概して乾燥がよく,北陸,山陰,東北,北海道で生産される米は収穫時期の天候などの関係で多水分のものが多く,前者を硬質米,後者を軟質米と呼んでいた。火力を利用する人工乾燥が普及した今日でもこの習慣は続いているが,これは商習慣のうえからきた区分であり,必ずしも米粒の質の硬軟を意味していない。現在市場に流通している玄米の水分は,検査で一般にはその最高限度を15.0%としているが,北陸,山陰の米については0.5%,東北,北海道の米では1.0%,最高限度をあげており,軟質米についてはそれだけ水分の多いものが流通していることになる。また軟質米という言葉は清酒の原料になる酒造米でも使われているが,これは飯用の米とは違って,吸水が速く,こうじ菌のくい込みがよく,もろみで溶けやすい米を指しており,酒造米としては軟質であることがよい米の条件になっている。
(5)早期栽培米 東海地方以西の西南暖地,とくに中国,四国,九州地方において,東北,北陸地方の早生の稲を植え付けて,8月中に収穫する栽培法が1955年ころから普及した。これが早期栽培米で,そのおもなねらいは,台風による災害や秋落ち現象を防いで,米の生産の安定をはかることにあった。早期栽培米は当初,搗精(とうせい)歩留り(精白歩留りともいう)が低い,食味が悪いなどと評判がよくなかったが,その後,搗精歩留りや食味のよい品種を普及させることによって改善されている。なお,一般に9月中に市場に出回る米は早場米(はやばまい)と呼ばれる。
もみ殻をとった玄米の構造は,外側から果皮,種皮,糊粉(こふん)層などのぬか層と呼ばれる部分と,米粒の基部に小部分を占める胚芽と,残りの大部分の胚乳からできている(図1)。果皮の表面には蠟様物質があって,害虫や病菌を防ぐといわれている。種皮の隔膜は酸,アルカリにかなり強く,半透過性隔膜の生理作用をもっており,米粒の内部を保護する役目をしている。糊粉層の細胞にはタンパク質と脂質が多量に集積している。また胚芽は発育してイネになる部分で,タンパク質,脂質,ビタミンB1に富む。胚乳は主としてデンプン粒でみたされ,精米(白米)として食用にする。以上の各部分の全粒に対する重量比は,ぬか層がほぼ5~6%,胚芽2~3%,胚乳が92%の割合になる。食用にするのは胚乳の部分であるので,玄米を精米機にかけて白米をつくると,その搗精歩留りは理論的には92%になるが,一般に市販されているものはもう少しついてあり,91%前後と考えられる。玄米の性状については,米の検査規格をみれば,どのようなものが流通しているか,また精米の原料としてどういう項目が重視されているか,およそ見当がつく。原料米としては搗精歩留りの高い,貯蔵性のすぐれた,食味のよい米が望まれるが,搗精歩留りの指標となるのは容積重,整粒,被害粒などであり,貯蔵性はおもに水分で示されている。しかし食味に関する項目は盛り込まれていない。
米が栽培されてから消費されるまでには数多くの過程があり,多かれ少なかれ味に影響する要因としては,品種,産地,気象条件,栽培方法,収穫,乾燥,貯蔵,精米加工,炊飯などがあげられる。そしてそれらのなかでは品種,産地(気象条件を含む),栽培方法の三つがおもな要因であり,米の味はこれらによって形成される米自体の特質とみることができる。したがって,米の味にとって品種と産地はきわめて重要である。また収穫以後の炊飯に至るまでの諸操作においては,米の味を損なわないようにすることが必要である。例えばもみの火力乾燥では急速な乾燥を避け,穀温を40℃以上に上げないようにする。玄米の貯蔵では夏季でも低温貯蔵を行う。精米加工では調質,色彩選別,ブレンド(混米)などの技術を十分活用する。炊飯においては,水漬(すいし)時間,水加減,蒸らしなどに注意を払うことなどである。
1979年産米より生産者から政府が買い入れる価格に,1~5類に区分した品質格差が導入されたが,1・2類に該当するのは品種と産地が指定された銘柄米で,検査等級が1・2等のもので,これらが食味のよい米として選ばれている(表1)。なお,4類は青森県の中津軽郡などの一部を除く区域で生産された米と,東海地方以西で9月30日までに政府に売り渡された米で,5類は巴(ともえ)まさり,ユーカラという品種を除く北海道産米である。3類は以上のいずれの類にも属さない米である。
米の主成分はデンプンで,精米では76%である。米のもつ栄養的意義はエネルギー源としてであるが,その主要源をなすのがこのデンプンである。タンパク質は精米で約7%含まれているが,日本人はタンパク質の必要摂取量の約5分の1を米からとっており,これも栄養源として重要である。タンパク質の栄養価を比較するのには,プロテインスコア(タンパク価)が用いられており,理想状態のプロテインスコアを100とすると,精米は77で,牛乳と同じような良質のタンパク質が含まれていることになる。
脂質は1.3%である。脂質は品質劣化の原因になることが多いので,食味の点からいえば,脂質の少ないことは米の利点ということができる。米は無機質に乏しく,精米では0.6%である。無機質のなかではリンが多く,カルシウムやナトリウムは少ないといえる。ビタミンのおもなものはB1,B2で,A,C,Dはまったくない。しかしB1やB2は胚芽やぬか層に多く分布し,胚乳では少ないので,玄米と精米では含量が著しく違う。
→イネ
執筆者:竹生 新治郎
白米の精白歩留りが90~92%であるのに対して,歩留りが95~96%のものを半搗米または5分搗米,93~94%のものを7分搗米と呼んでいる。また,胚芽を残してぬか層のみを除いたものを胚芽米と呼んでいる。一般に米を玄米のまま炊飯利用せず,白米として炊飯利用するのは,玄米は不味であり消化率も低いためである。半搗米,7分搗米,胚芽米は,玄米のぬか層を部分的にあるいは胚芽を残すことにより,この部分に多く含まれているビタミンB1などB群ビタミンの米粒中への残存を高めることを目的としている。軟質米は食味がよいが,炊き増えが少なく貯蔵性に劣り,夏期になるとかえって硬質米より食味が劣るようになる。日本では米は主食であるため周年利用されるが,本年度産米は翌年秋に新米が出回ると古米と呼ばれる。一般に新米は食味がよく古米は食味が落ち,ときとしてにおいも悪くなる。この変化を古米化と呼び,この状態の好ましくないにおいを古米臭と呼んでいる。古米化は米粒中の一部の脂質が分解,酸化することや酸素活性の低下にみられる生命力の弱化などがおもな原因となって起こる。古米化を防ぐには,温度,湿度が高くなる時期に,米を13℃以下,相対湿度70%以下に保つことが可能な低温倉庫で貯蔵すると,比較的長期間品質を損なうことなく貯蔵できる。日本人にとって,米は主食であり摂取量も多いので,重要なエネルギー源であり,またタンパク質の供給源としても無視できない。しかしカルシウム,ビタミン類のように含量の少ないものは他の副食品で補わねばならない。米の粉はおもに和菓子の材料として使われている。うるち米を水洗し臼びきして得られる糝粉(しんこ),もち米を水洗し臼びきし多量の水で洗った後乾燥した白玉粉,餅またはもち米を蒸してから乾燥し石臼で粗びきした道明寺粉などがそれである。このほかうるち米の粉を原料としためんの一種であるビーフン,うるち米を蒸して乾燥したα米,同じようにもち米から作る即席餅などの製品もある。また,清酒はもとより,焼酎,みりん,米酢,みそなどの醸造加工にも米は重要な原料となっている。
→飯
執筆者:菅原 龍幸
米は,小麦,トウモロコシとならぶ世界でもっとも重要な穀物だが,世界の米の生産のほとんどは,第2次大戦前も今も,米を主食にしているアジアの国々で生産されている。世界の米総生産量は戦前(1934-38平均)約1億5000万tで,その95%が日本を含むアジアの国々によって生産されていたし,5億5000万tと大幅に増加した今日(1995)も,その90%は依然としてアジアの諸国が生産している(数字はもみ重量,以下も同じ)。なかでも最大の生産国は中国で,第2次大戦前は2000万haの作付面積で5000万t余を生産していたし,今日では3100万haの面積で1億8700万tを生産している。第1次大戦前もそして今も,世界の米の3分の1は中国大陸で生産されているわけである。1995年のおもな米生産国は中国についでインド,インドネシア,バングラデシュ,ベトナム,タイ,ミャンマー,日本の順になり(表2),以上の8ヵ国が世界の米の84%を生産する主要米産国である。また世界全体では単位面積当り収量の増加もなったが,それ以上に収穫面積拡大が生産量の増大に大きく寄与したことに留意すべきである。表2のなかでは,収穫面積を大きく減らしながらも,もっぱら単位面積当り収量増で生産量を増加させたのは日本だけであることが注目される。
ところで,米の世界総生産量は戦前の1億5000万tが5億5000万tへと3.6倍にふえたが,世界の輸出量は965万tが2330万tになったにすぎない。これは三大穀物のなかで,米が小麦やトウモロコシと決定的にちがう点である。小麦は戦前1億6750万tの生産で1730万tの輸出量だったが,今(1995)は5億4400万tの生産で1億1200万tの輸出量になっている。トウモロコシは1億1500万tの生産,1020万tの輸出だったのが,5億1500万tの生産,7800万tの輸出量になっている。いずれも総生産増加率より輸出増加率のほうがはるかに高い。小麦やトウモロコシの生産増大が,輸出のための増産として行われたのに対し,米の増産は基本的にいって米食国での自給のための増産という性格が強いのである。
輸出総量としてはほとんど変わらないが,しかし主要輸出国は戦前と今ではかなり異なる。戦前の輸出国は第1にビルマ(現,ミャンマー),そして旧フランス領インドシナ,タイであり(韓国,台湾のそれは植民地から本国日本への移出で,国際市場への輸出ではなかった),この東南アジア3国が国際市場への大手供給国だった。それが,今も輸出国なのはタイだけであり,ミャンマーは輸出量急減,旧フランス領インドシナのラオス,カンボジア,ベトナムからの輸出はなくなった。第2次大戦後もこの地で続いた戦乱によることはいうまでもない。かわって輸出国になったのが,アメリカであり中国である。中国は高価格の米を輸出して,安い小麦を輸入する政策をとっているので,輸出国としてはやや特殊だが,注目すべきはアメリカである。かつてはタイ,ビルマ,インドシナなどの低単収が示すように,米は原生的生産力に依存した後進国の輸出品だった。今もタイの米輸出にその性格が見られるが,アメリカの米は高単収が象徴しているように,高度の農業技術の所産である。オーストラリア,イタリア,エジプトの米生産も同じであり,米の輸出国は先進国に移りつつある。
なお,ウルグアイ・ラウンドの農業合意(1993)にもとづき,日本は米をミニマム・アクセス(最低輸入量)のかたちで恒常的に輸入することとなった(95年には国内消費量の3%,6年後の2000年には8%)。
20世紀に入ってからの日本は,つねに米不足だった(図2)。1878-80年の年平均1人当り消費量(酒米など主食用以外の消費もふくむ)は115kgで,国内生産量は国民の総消費量を十分まかない,わずかだが輸出もしていた(3年間の輸出総量14万t,輸入総量2万t,輸出超過量年平均4万t。輸入していたのは安い南京米)。農村ではアワ,ヒエを常食にしているところもあったし,都市でも中小工場職工の主食は〈挽割一升ノ中ニ米二合位〉〈南京米ト挽麦ト半分交ゼタルモノ〉(《職工事情》付録)という状況だった。米とくに国産米は,当時優等財だったのである。国民所得の上昇は当然ながら劣等財のアワ,ヒエ,麦から正常財の米に主食を集中させ,消費量を増大させる(図2)。明治・大正を通じての1人当り米消費量の顕著な増加に注目されたい。1人当り米消費量が148.5kgに達した1891-95年期以降,今日の米過剰時代の開幕を告げる1965-70年期まで,日本は米輸入国になるが,輸入国になってからも1人当り消費量は増えつづけ,1921-25年期に170kgのピークに達する。片山潜が〈あきらかに日本における民衆運動の全般的覚醒の最初の力強い端緒であって,現代革命運動の火蓋をきったもの〉と評価した米騒動が起きたのが1918年である。それは1人当り米消費がピークにくる時期であり,そして国内産米の供給不足量がさらに大きくなっていく時期であった。シベリア出兵にともなう軍買上げ,米商人の投機による米価高騰が引金になったことは確かだが,1人当り消費量の増大,国内供給の不足が基調にあったのである。
1人当り米消費量は1921-25年期をピークに減少する。第2次大戦直後の食糧危機期にあたる46-50年期の急激な落込みを別にすれば,1921-25年期以降今日まで,ほぼ同じペースで1人当り消費量は減少している(図2)。昭和元年が1926年だが,昭和改元は今日につながる食生活の近代化--米飯とみそ汁からの脱却--の開始でもあったのである。しかし1人当り消費量は減っても人口増大があったので,総消費量は1921-25年期以降も増加し続けた。これも第2次大戦期とその直後の食糧危機時代の41-50年の急減を異常な時期の現象として除いて考えれば,61-65年期まで総消費量は明治になって以降ほぼ同じペースで増加し続けた(図2)。増大する米需要に対し,国内産米は20世紀に入って需要を完全には満たせなくなったものの,1人当り消費量がピークになるまでは需給ギャップを大きく拡大させない程度には供給を増加させてきた。だが1人当り消費量が減少に向かい始めるころから,需給ギャップはむしろ拡大する。総消費量は前と同じペースで増えるのに,国内産米の生産増加率が鈍化したからである。1878-80年期の418万tから1916-20年期の855万tまでの39年間の生産増加を年率にすると,1.8%の増加率になる。ところが16-20年の855万tから36-40年期の980万tへの増加年率は0.7%でしかない。かなりの鈍化というべきである。
拡大した需給ギャップを埋めたのは,朝鮮,台湾からの移入だった。移入のピークは1938米穀年度(1937年11月~38年10月)だが,その年は995万tの国内生産の23%にもなる227万tという大量の米が移入されている。この米移入激増は,米騒動に深刻な危機を感じとった日本政府の植民地産米増殖政策が作り出したものだが,朝鮮,台湾から入ってくる米の価格は国内産米よりも2~3割安く,移入米の増大は国内産米に対し生産抑制的に作用することになった。1.8%から0.7%へという生産増加率ダウンの一つの要因がそこにあった。またこの移入でバランスをとる米需給政策は,戦時経済下に崩壊する。きっかけは1939年の朝鮮の干ばつによる大減収だが,そればかりではなかった。朝鮮や台湾の農民は安い雑穀(満州から輸入もした)を主食とし,生産した米を移出するという一種の飢餓移出をしていたのだが,戦時経済下で植民地にも戦争景気とインフレが浸透していくにつれ飢餓移出まではしなくてよくなり,米をみずから消費するようになったのだった。朝鮮,台湾での米消費増大は当然に移出を激減させる。そのため政府は南方米の輸入に手をつけ,42年には食糧管理法を制定,米麦などの主要食糧について乏しきを分かつ〈配給ノ統制〉(1条)を行うようになった(この食糧管理制度は内容は変わっても今日なお続けられている)。しかし戦争の拡大で輸送難になり,44年には南方米輸入もゼロになって敗戦を迎える。敗戦直後は〈配給〉食糧だけでは生きていけず,都市住民は食糧確保に四苦八苦しなければならなかった。米消費が底になった1946米穀年度の1人当り消費量は81kgで,数量としては今日と同じレベルだが,当時はカロリーの約6割(今は約2割)を米からとっていたという状況の違いがある。81kgは今は飽食を意味するが,当時は飢餓を意味したのであって,もつ意味はまったく異なるのである。
敗戦の年の産米は587万tしかなかった。明治30年代(1897-1906)のレベルである。冷夏そして秋の風水害と天候もこの年は悪かった。肥料をはじめとする資材もむろんなかった。“1千万人餓死説”がささやかれ,〈米よこせデモ〉(1946年5月12日),〈食糧メーデー〉(同年5月19日)が発生,デモ隊が皇居に入った。米の増産は何よりも急務であり,農地改革をはじめとする施策が集中的にとられるが,その効果は1946-50年期の865万tが51-55年期には919万tに,56-60年期には1185万tになるという形で現れる。1000万t以上の記録は戦前では1933年の1062万tだけであるが,戦後は55年に1185万tと上回り,59年1250万t,62年1300万t,67年1445万tとつぎつぎに記録を更新する。第2次大戦後の米生産の発展はきわめて急速だったとしてよいであろう。
日本の米生産の特徴は,生産量増大を,ほかの国のように収穫面積増にかなり依存するというのではなく,もっぱらといっていいほど単位面積当り収量増加で実現してきているところにある。その特徴は明治以来のものである(図3)。たしかに収穫面積も明治10年代(1877-1886)250万ha,1910年代300万haと増えている(戦前の最高は1932年の325万ha,戦後の最高は60年の333万6000ha)。しかし250万haを起点にして最高面積をとっても,面積増は33%にとどまる。これに対し総生産量は1878-79年期の427万tから1965-69年期の1274万tへ3倍近くにふえており,日本では単位面積当り収量増こそが総生産量増大にとって決定的だった。単位面積当り収量の引上げは,明治以降三つの画期をもって進展した。(1)ha当り1700kgのレベル(今日のインドやタイのレベルと考えてよい。表2はもみ重量,表2以外の数値は玄米重量,換算率80%で比較されたい)からha当り2772kgになる1915-19年期までの年率1.26%で伸びた上昇期,(2)それから戦時経済をはさんで50-54年期に至る3018kgになった年率0.24%増の停滞期,(3)以降今日までの4560kgになる年率1.7%増の急上昇期である。
(1)は明治農法の確立普及期である。乾田馬耕,塩水選,短冊苗代,正条植,多肥多収品種(神力,愛国,雄町)の普及,そして金肥(魚かす,豆かす)施用の一般化がその内容だが,それはひと口にいって労働集約的土地生産性追求の農法であり,1960年ころまではこの農法が日本の米作技術の骨格を形づくっていた。(2)の停滞については,魚かす,豆かすといった有機質肥料が硫安などの無機質肥料にかわり,地力低下が不安定性を増したということもあるが,より決定的には第1次大戦後の戦後恐慌,そして昭和恐慌と続いた経済変動が長期の農村不況をもたらしたこと(低価格植民地米の移入増大もあった),それに地主制の重圧をあげておくべきであろう。そして戦時経済はもっとも重要な生産力構成要素である農業労働力を奪い,また肥料などの生産資材も入手困難にした。停滞は必然だった。(3)1950年以降の急上昇は,停滞期を規定した要因がすべて逆になったことによってもたらされたといってよい。農地改革は所有の魔力を農民に与え,生産意欲を高めた。国家投資による土地改良の生産安定効果,食管制度のもつ価格安定機能が,農民に対し増産努力が所得向上に直結することを保証し,その上で,それぞれの地域条件にあった短稈(たんかん)穂数型耐肥性増収品種(ホウヨク,藤坂5号,レイメイなど)が開発され,分施施肥法,間断灌漑,病虫害防除技術など,品種に適した肥培管理技術が体系的に普及した。その効果は全国的に単収レベルを引き上げはしたが,単収増をふくめての増産効果には大きな地域差があり,北海道,東北,北陸でもっとも増産効果が高く,近畿,中国,四国などで低く,米産県序列を大きく変えた。戦前のもっとも生産量が多かったころ,単位面積当りの収量序列は高い順で佐賀(ha当り3890kg),奈良(3790kg),大阪(3600kg),香川(3520kg)と西日本各府県で占められていた(数値は1934-38年平均)。東日本では5位に山梨(3470kg),8位に石川(3320kg)が入っていたにすぎない。しかし戦後最高の1445万tをあげた68年の順位をみると,山形(5690kg),秋田(5430kg),長野(5350kg),青森(5200kg),新潟(5180kg)となっており,上位県は東北,北陸諸県が占めている。西日本諸県は10位以内には9位に佐賀(4980kg)があるだけである。戦前は最下位の北海道(2070kg)も68年には11位に上がり,稲作の中心が西日本から東日本に移ったことを象徴的に示している。
米の生産が史上最高を記録する時期が,総消費量の逆に減少する時期だったことは歴史の皮肉である。20世紀に入って以来の恒常的米輸入国の状況をようやく脱却できるようになったその時点から,過剰生産をどうするかが最大の農政問題になり,今日に至っている。1970年から減産政策が行われており(〈生産調整〉の項目を参照),米生産は現在きびしい作付制限下にある。過剰時代に入って〈配給ノ統制〉をしていた食糧管理制度も改正され,自主流通米が認められるようになった。自主流通米制度は,コシヒカリ,ササニシキなどの良質米作付けを条件のあわないところにまで拡大し,気象変動を受けやすくしている。80-83年の4年続きの冷害の一因はここにある。
→米価
執筆者:梶井 功
縄文時代の晩期から農耕がはじまり,九州地方では米も作られたというが,弥生時代に入ると広く各地に稲作が行われる。大和朝廷の時代に入ると,朝廷に納める租は稲の種実を主体とするようになる。《正倉院文書》のなかの幾つかの国の正税帳をみると,納められる形には穀,穎稲(えいとう),糒(ほしいい)の三つがあり,さらに薩摩,駿河,豊後,紀伊その他では,稲穀のほかにアワが租として納められている。アワ納の場合も穀と穎粟(えいぞく)があるが,アワ納の多い薩摩の2郡の場合でも,米納分の25%くらいである。正租は稲穀主体といってよい。穎はついて殻を除いた玄米であり,穎稲は穂首刈りをした穂つきのもみで,束,把の単位で数えられる。穎稲20束は扱(こ)き,ついて米1石となるとされる。糒は乾飯で,長期の保存に耐える。《延暦交替式》にのせる799年(延暦18)の太政官符には,正税を旧来のように穎納にせよといい,その理由として,土地によって稲には早晩種があるが,租全部を穀にすると早晩の区別がつかないので,穎納に返すのだとしている。正租中の穎稲を20束1石で換算して穀納分に対する比率をみると,数%から十数%の間にある。国衙(こくが)が保存して種子として用いるための穎納なのであろう。
租の用途は祭祀用,官途にあるものへの給米のほか,役民使役のためにも用いられる。朝廷や官に仕える人々の食事は米を主食とするようになっていることがわかる。諸史料によれば,米には黒米,白米,赤米などの名があり,これは搗白の程度によるものである。黒米は玄米で,白米は舂白(しようはく)米である。黒米は大嘗会,新嘗会などの神事に用いられるほか,臨時の雑役や下級の職にある人々への給与に用いられる。《延喜式》の各所にそのことが記され,例えば〈駈使雇夫単五十人食料,黒米人別日二升,塩二勺〉などとある。織部司に働く織手のうち薄機の織手には白米1日1升6合が与えられるが,普通の織手や手伝人,機工には1日に黒米2升を与える定めとなっている。つき減りの歩合を考えると,この二つの量は同じである。このことが直ちに玄米食だったことを示すとはいえないが,朝廷で雇用する人々でも,不熟練労働に従事する人々のなかには,玄米食をする可能性はあったといえよう。
米の種類にはこのほかにうるち(粳),もち(糯)の区別がある。今日では米飯用と餅用の差であるが,古代史料に現れた給与または消費の量に現れたところでは,截然とそのように区別することはむずかしい。《延喜式》大膳上に現れる諸神社の祭事のさいの雑給料には,多少の差はあるが白米とあるものともち米の量がほぼ同量であり,内膳司の部の正月,5月,7月,9月の節の料もうるち,もちの量は同様であり,供御月料でも米3斗6升4合に対してもち米2斗4升7合5勺のほか,もち糒1斗2升7合5勺などとあるからである。餅料と記されるものにもうるち,もち同量が記される。これは当時の飯が甑(こしき)を使って蒸す強飯を常態としたからかも知れない。水を加えて炊く今日の飯は粥(かゆ)のうちの堅粥であった。
中世荘園制下にあっても,広く各層の食料の実態を伝える史料は乏しい。一荘園領主が毎年手にする年貢の種類別総量に対する検討も少ない。しかし例えば皇室領の一つで,長く持明院統の御領であった長講堂領諸荘園の1407年(応永14)の年貢は,米4140石余に対してほかに雑穀などはなく,油,絹,糸,綿,白布,炭,紙,材木薪,香,小莚(こむしろ),漆があげられている。また1266年(文永3)の東寺領丹波大山荘の領家得分は米200石を主体として麦10石,麦6斗,餅120枚のほか,少量ずつの苧(からむし),紙,布,菓子,搗栗(かちぐり),甘栗,生栗,漆,栃(とち),串柿(くしがき),薯蕷(しよよ),野老,牛房(ごぼう),苟若(こんにやく),土筆(つくし),干蕨(ほしわらび),胡桃(くるみ),平茸(ひらたけ),梨,熟柿,山牛房,糸,油があり,さらに桶類,薦(すごも),続松(たいまつ)などが見られる。荘園領主層の食料が,米を中心とすることは明らかである。
米食が広く国民の各層に及んでいたかどうかを史料的に確かめることはできない。しかし稲穀に代わってアワを租として納めることを認めた715年(霊亀1)の詔は,アワは〈支ふること久うして敗れず〉という特色を述べており,麦作の奨励をする723年(養老7)の太政官符では,麦はもっともたいせつで窮乏のときの救いとしてこれ以上のものはないと述べている。小麦,大豆,アズキ,ヒエなどは奈良朝・平安朝期の諸史料に現れている。安房国の義倉にアワの納められていることも知られており,庶民のなかには地方により畑の雑穀類を常食するもののあったことは推測しうるところである。
米は主食の材料であるだけでなく,酒,甘酒の原料となり,さらに調味料としてのひしおなどの製造にも用いられ,酒のかす類は野菜類の漬物の原料として用いられていることが知られる。米は古代からわが国食文化の中枢を占めていた。
米は古来日本人の食糧の代表のようにいわれてきたが,昭和戦前期のように広く各層が米食を普通とするようになったのは,それほど古くはない。近世については全国的な生産統計の類はないので,個別事例によって知る以外には方法がない。そこで幕末期の状態に近いという意味で1878-82年(明治11-15)平均の米収量(陸稲,もち米を含む)をみると2974万石余,同期間の米輸出入額を加除すると,その期間の平均総人口3635万人余に対する米の国内供給量は2953万石余となる。1人当り年間8斗1升2合という数字となり,通常昭和戦前期の年間1人当り消費量を1石1斗とみるのに対して,低くなっている。この1人当り年米供給量を同様の方法で計算すると,1878年の〈農産表〉では7斗7升2合,1875年の〈府県物産表〉では7斗2升となる。幕末期を想定しても,この数量よりさらに少額となることが考えられる。江戸時代の米の生産量総額は知ることができないが,耕地につけられた石高の40%くらいは,本年貢として領主層の手に納められる。このほかにも米で納められる年貢,諸役がある。このことから武士層と農民層とでの米消費量には大きな差の生じることが推定される。この分割比率も知ることができないが,都市居住者,旧武士層は年間米1石を消費するものと仮定し,その人口を400万人と推定すると,残された3100万人の人々の1人当り年消費量は,1878年の米供給量基準で7斗2升5合となる。明治前期についてこのような推計をしたうえで,江戸時代の農民の米消費の状態を示す幾つかの資料を見てみよう。
元禄(1688-1704)前後にいたるまでは,農民の食糧の実態を知りうる資料はない。そのころの紀州紀ノ川沿いの人の著書《地方の聞書(才蔵記)》の記述は象徴的である。〈正月五節句盆神事,年中二十六日米給(たべ)申候〉と記している。この書中には田2町,畑5段,石高31石に及ぶ,当時の大経営の収支計算をのせている。そこでは年貢26石余を納めたあと,手もとに米13石5斗,麦40石,その他雑穀を残すが,これらの多くは売られ,大麦17石7斗5升とキビ5石6斗8升が,10人の日常の食事にあてられている。先の26日分の米の量は1人1日3合米を食べるとしても7升8合にすぎない。ここで年貢米としたのは玄米での量である。江戸時代の年貢米はもみ殻を除いた玄米が通例の形であり,《民間省要》などによれば精選したものを納めるとしている。地方によると山間部などでもみ納の所もあるが,その分布は正確には確かめられてはいない。米を作る農民は,自分たちは麦・雑穀主体の食事をするのである。1707年(宝永4)の加賀石川郡の《耕稼春秋》は,石高50石の収支計算をのせる。収穫物は米57石7斗,菜種20俵,大小麦15~20俵とし,米は年貢25石,村掛り2石,種もみ米1石3斗,1年の諸入用を満たすための販売米25石4斗であり,残米3石8斗6升と大小麦で1年の食事を支えることとなる。もみを選別するさいに出るしいな(粃)や砕米を粉にしたゆる粉で作っただんごも食糧の補充物であり,加賀田所の大百姓も〈麦は百姓給物(たべもの)〉という生活をしているのである。このような雑穀中心の食事に,里芋,カンショ,大根なども雑炊の材料として用いており,米は領主への年貢,町場への販売物にすぎない。
幕末になると農民の生活にも少しずつ米が加わってくる。その例を天保(1830-44)後年以後編纂(へんさん)された長州藩の《防長風土注進案》から二,三あげてみよう。同書では1人当り年間食糧を米,雑穀計1石4斗4升(1日当り約4合)とする地帯と,同1石余(1日当り3合)とする地帯に分けて,1村ごとに米,雑穀の収量,年貢諸役,生計費などをいかに満たすかを記している。それによると桜畠村(現,山口市)では,田89町3反余,畑23町7反余からの米の収量は1518石4斗9升である。うち年貢諸役835石余,販売199石8斗余,借銀利米など138石5斗弱で,自家食糧にあてうる米は345石1斗5升となる。総生産の23%にあたる。総人口1人当りで5斗8升5合となる。米所では米を農民も食べるようになっている。その他は1人当り麦5斗8升5合,雑穀2斗7升を自給して,藩役人の考える標準年間1人1石4斗4升を満たすことになる。これに対して海岸村の久賀村(現,山口県大島郡周防大島町)では1人1年の食糧は米2斗8升9合,麦2斗4升,雑穀5升2合,カラ芋雑穀換算2斗5升5合,大根雑穀換算1斗4升,計9斗7升8合が村内自給で賄われる。御用紙漉立(すきだて)に対して米の支給をうける広瀬村(現,玖珂郡錦町)の例では,1人年間2斗5~6升の米を食うが,これは1日当り0.6~0.8合にあたり,他に麦,雑穀,芋,大根を食べて,標準の3合を満たすことになる。天保後年以後になって,農民も一定量の米を食うものと藩役人も考えるようになっているが,農民は生産する米のうち多くの部分は藩へ年貢として納め,町場の人々に供給する存在だったのである。
江戸時代の領主および家臣団の人口は正確に知ることができない。その層の後身は明治期には華族と士族としてとらえられる。その数は190万前後である。これに家内使用人など同一家計で生活するものを加えても300万人足らずであろう。その人たちの生活は年貢収入によって支えられる。大名,旗本,地方知行(じかたちぎよう)の家臣団は,各々その知行地からの年貢が生活の基盤となり,扶持米給与の家臣団は給与される禄米で暮らす。初期の年貢には米主体の本年貢のほかに,多様な農民の生産物が小物成その他の名目で納められる。塩田に課される塩,長州藩の紙など領主の販売する蔵物となるものもあり,その多くは領主層の生活の資となったが,早期に代金納される。直営鉱山や長崎貿易,株仲間からの納金などをもつ幕府でも,幕末期にはその歳入の95%は本年貢と計算される。その収入の実体からみて,領主・家臣団の食事の中心は米であったと考えられる。これとともに人口200万前後と考えられる三都,城下町,人口の多い宿駅,港町に住む商人・職人などでは主食に占める米の割合は,農民より多かったと考えられる。
幕末期長州藩領の農村では米所の場合,農民上層の米販売もあったし,同様の例は各地で確認されている。秋田藩では藩米のほかに商人米が大坂に回漕されたことが知られているが,一般的には農民販売米の流通は,その藩の城下町や宿場,港町など狭い範囲であったと考えられる。遠距離の流通は領主の収納した年貢米の一部であり,大坂,江戸に海路輸送(廻米)され,蔵屋敷などをへて大都市市場に出る。そのことと関係して市場での米の銘柄は,各領主の所領の国名で呼ばれることが多い。江戸における米品質の評価において特異な点は,明治以後良質米とされる東北日本海岸の軟質米が劣等品とされたことであろう。これは西廻海運によって大坂に集まり,さらに海路江戸に送られる輸送事情から,昨年の収穫米が江戸市場に出る時期が,梅雨期以後になることから生じることである。
以上米として扱ってきたのは,日本人の食用に供してきた米一般である。これらの米の大部分は短粒白色の日本型稲の種実であるが,本草学者,民俗学者の興味をよせる特殊の稲米に,大唐米,赤米,香稲などがある。これらは早く《清良記》(寛永年間(1624-44)または延宝年間(1673-81)成立といわれる)にその名を現す。早中晩のうるち,畑稲の品種名にならんで,餅稲,太米の品種名をあげるが,餅稲のなかに香餅,赤餅があり,太稲中には大唐を名とするものがある。本草書のなかでは小野必大の《本朝食鑑》がもっとも簡明に大唐米の特質を示している。その米は小粒,赤白2色あってきわめて早生,雨に腐りやすく,実は落ちやすいなどと記し,中華の種を移し植えたもので唐乾(とうぼし)ともいうとして,秈(せん)であろうとする。インド型の稲米である。この種中に赤米や鼠米(ねずみごめ)が入るようにも記し,鼠米は香稲ともとれる記述をする。赤米は対馬などで神事に用いられることから民俗学者の注意を呼ぶ。大唐米に関して注意すべき記述は,越中の農書《私稼農業談》(正保年中(1644-48))に中国より取りよせた仏像の荷造用のわらに残るもみから生じたとすることである。必ずしも古来の伝来ではなく,各種の交易物の包装によって,江戸時代にも伝来する可能性のあることを示すからである。大唐米についての本草書の評価は多収であり,炊き増えすることから農民食糧として好適であるとするが,先に例示した周防桜畠村の例で米の実収量の56%,田畑石高1823石余に対して46%の年貢諸役を米で納め,さらに販売分もあって,収量の23%だけが自家食糧となる事情の下では,稲作は年貢ならびに販売用として日本米を作らなければならない。在来種の田植後,そのそと回りに1列2列植えたり,広い株間に植えるものであるともされる。
江戸時代後期にいたって,農民の米食量も増加するが,それには多数の農書が農民の手で著されたことにも示された農民の技術改良の努力が前提となっている。改良は種子の選択,苗作り,耕作法,施肥の改良,乾田化など稲作の全過程に及んでいるが,多収稲や土地に合った種類の選択は,多くの農民の帳簿からもうかがわれる。多収品種の発見は,ふつう選穂(えりほ)といって,同じ田の稲穂中の生育のよいものを選び,その種の試作を通じて新品種を選び出す方法によっている。その努力が各地域に多数の優良品種を成立させている。
明治以後の米について影響を与える条件は,外国貿易,地租の金納化,工場労働者・都市人口の増加,近代農学による品種改良などである。貿易統計によって米の輸出入のあとを知ることができるが,明治1-5年(1868-72)には米の輸入超過が続く。輸入超過量は5ヵ年平均51万石余,うち明治3年には215万石に及んでいる。明治7年収穫量に対して,同3年の215万石は8.3%である。以後25年まで5ヵ年平均では輸出超過であるが,以後輸入超過となる。30年代以後輸入超過量は著増し,同じ年度の平均収量に対して36-40年平均では8.3%,実量で385万石となる。この期の米収穫量は明治11-15年平均に対して56%を増しているので,この輸入増加は1人当り消費量の増加の結果でもある。36-40年平均ではその量は1人1年当り1石5升となっている。その輸入先をみるとインド,フランス領インドシナ,タイの地位が高くなっている。いわゆる南京米が,増加する工場労働者の重要食糧となっているのである。この国民の米消費量は大正・昭和と漸増し,大正7年(1918)には前2年度の減収による米価高騰で米騒動が起こっている。国内での稲作面積の著増は望めないので,台湾,朝鮮での産米増殖改良が計画され,日本米との交配による蓬萊(ほうらい)米や新品種に改良された朝鮮米の移入が不可欠のものとなる。国内総生産量は第2次大戦前期にあっては昭和11-15年(1936-40)の平均が最も多く6587万石余で,明治11-15年平均を100として221.5と2.2倍となっている。
江戸時代・明治期を通じて,農民の手で選出された優良品種が各地に普及し,商品米の銘柄が問われるようになるが,明治40年代に国立農事試験場が,純系分離・交配による育種を始めて以後,府県の奨励品種の決定に伴って農事試験場育成の品種中心となっていく。この品種改良は多量の肥料にも倒伏しないこと,寒冷気象,病虫害に強い性質を備えることなどを目的とし,北方地域への稲作拡大と,平均収量の上昇を結果した。
地租の金納化は米作農民・地主をも完全な米の販売者とした。そこから新しい米流通機構が生まれ,さらに最多量の農民的商品である米の輸送をめぐって,旧来の河海舟運に替わる陸上輸送の方法が開けた。明治期における荷車,荷馬車,鉄道の発展の要因となった。
執筆者:古島 敏雄
第2次大戦後までの日本人,まして農民の多くの願いは,毎日の3度の食事に米の飯が登場すること,あるいは国民に十分な米を供給することであった。豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)思想は記紀神話にもとづく日本国家の理念であったとしても,長い歴史を通して日本人が稲作民族であるという前提をつくりあげるのに役だった。そのために,日本の社会も文化も稲作をぬきにしては考えられない。それほど強い影響を与えたのはなぜか。米の特色として,計画的に栽培でき,貯蔵や運搬と同時に計量と分配も容易である点に加えて,調理がしやすく,食べてうまいことなどが挙げられる。しかしそれだけでなく,国の政治,経済,宗教のすべてが米を絶対的基準としてしくまれていたために,米を作ることは国民としての義務であったし,国の基礎はそのうえに成り立つと考えられてきた。宮廷において天皇の行う最重要の祭政は,高天原から中津国にもたらされた稲の種子を奉じて,それをあやまりなく栽培することであり,祈年祭は米の豊作の祈願であり,新嘗祭は収穫のよろこびの奉告であった。また天皇の代替りに行われる大嘗祭は,米の霊的力によって皇太子が天皇としての霊魂を聖体に鎮ませる儀式であった。
米が天皇をはじめとする人々の霊魂を再生復活させる力をもつ食べ物であるという信仰は,民俗としてはさまざまな形で伝えられている。まず日本人にとって米は常食でも主食でもなかった。稲を作るための祭りや年中行事などの祝い事のときに,米を調理して神や先祖に供え,人も食べることにより新しく強い力を補充することができると考えた。各地の祭りに,飯を強いたり,酒をふるまったりして多量の米を消費する強飯祭や甘酒祭,餅をついて分配する祭りの多いのはそのためである。とくに氏神や旧社,大社に属する神田で栽培した米で調理した食べ物は,神聖な力が強く働きかけてくるものと考えられてきた。熱帯の植物である稲は,日本列島以外から渡来してきたために,天孫降臨神話とは別に,弘法大師のような貴い僧が持ち帰ったとか,ツルが運んできたとかの伝説が各地に伝えられているのも,米の神聖性とともに外来の作物であることを反映している。打蒔(うちまき),散米(さんまい)とか散供(さんぐ)といって,神や仏の前などで米をまく習俗があるが,これは米の霊的な力によって邪悪な霊を追い払い,そこを聖域にしようとする意図をもっている。
米が霊的な力をもつという観念は,人間の一生の儀式にも見られる。出産にあたって産室に米をまくとか,米俵を持ちこんで妊婦にすがりつかせるのも,米の力によって妊婦を勇気づけるとともに,米の神が出産を助けたことを意味している。結婚の儀式に,椀に高く盛った飯を嫁に食べさせるのも,これまで生家で育ってきた嫁が,婿方の人間として新しく生まれかわるための儀式と考えられる。死者のまくらもとに高盛りにした飯を供える習俗(枕飯)も全国的であるが,この世からあの世へ生まれかわっていくための再生の儀式と考えることができる。このような人生上の通過儀礼ばかりでなく,凶事としての火災,洪水,台風,津波など予期せぬ災害にあって,人々が疲労し精神的不安に立ったときも多量の米が消費されているが,それは消耗したエネルギーを米によって補うとともに,人の精神を立ち直らせるためであった。戦争という事態に米がもっとも必要とされたのは,戦争が集団全体の運命に関係するからであった。そのほか,開拓工事,道普請,新築,田植や稲刈り,山仕事など,短い時間に多くの人の共同の力を必要とし,危険なしごとのときに米は必要であった。このように,米は日常の生活に必要なのではなく,めでたいときや不幸のとき,大きなしごとを成功させようとするときのように,非日常の状態におかれたときに食べるものであった。
日常の生活で米を食べてきた者は,近世でも貴族や武士その他の上層階級の人々であり,都市民その他の非生産者であった。庶民にとって米は非日常的な食べ物であったために,なんとかして日常も3度ごとに米を食べることが生活の理想となってくる。米を作るための苗代祭,田植祝,虫送り,雨乞い,風祭などは,少しでも多くの米を収穫して生活の理想を達成させ,幸福を得たいと考えたからである。米を生産できない地方が後進的な文化の低い所とする考え方や,米作農民が一人前の農民であるという優越性が生み出されて,日本人の間に米作志向が極度に進行したのであり,非農民であっても3度の食事に飯が食えないということが恥ずかしいこととされるようになった。稲作の栽培過程や非日常における生活の中から,米の民俗はしだいに姿を消しているが,それは米の生産量が過剰となってきた最近の現象といってよい。日本の庶民にとって,もともと米を常食化していなかったところへ,現実に米が豊富に供給されるようになると,そこから米離れを起こし,本来の雑食化が形を変えて復活してきたともいえよう。すると米を基盤とした日本の文化は終わったのかということになるが,決してそうはいえない。長い歴史を通して,今日の日本的同質性は米によって形成されたものであり,その米の文化が日本人の社会行動や思考の様式を育ててきたのである。したがって今,工業化社会に転換した日本にとって,米の文化とは異質な文化と接触したことになる。異質な文化との接触によって,日本人はそれとどのように対応したらよいか,その選択に迷っているとみてよかろう。日本人が形成してきた米を基盤とする行動や思考の様式とは何であったのかを,過去の米作文化の中から探り出さねば,新しい状況を正確に判断し,対応の方向を見つけることはできないといえる。その点で米の文化の研究は,日本人の未来を発見していくための重要な鍵となってくる。
→赤米 →稲作文化
執筆者:坪井 洋文
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…コムギ,トウモロコシとならんで世界の三大穀物の一つに数えられるイネ科の一年草で,その穀粒である米は,世界人口の半数におよぶ人間の主食をまかなっている。日本では古来,農業の中心に位置づけられてきた重要な作物である。…
…江戸時代,多量の米をある地点から他地点に輸送すること,またはその輸送米をいう。年貢米を徴収した幕藩領主は,一部を地払いすることもあったが,大部分を海路で大坂や江戸に回送し販売した(払米(はらいまい))。…
…年貢量はこれに一定の割合(免率)を乗じて算出される。すべての土地は,田はもちろん,実際には米を生産しない畠・屋敷地も米の収穫高に換算されて石高がつけられ,いっさいが石高に結ばれる。この結果,石高が社会関係の統一的基準となり,武士階級の身分も,たとえば10万石の大名,2000石の旗本,30石の切米取という形で序列化され,百姓が所持する土地も面積ではなく石高で示され,高持百姓と水呑百姓(無高)に区別される。…
…酒や醬油の醸造業者が同様の性格を備えた場合もあった。
[商品の流通経路]
近世経済は米納年貢の流通を基本にして組み立てられていたから,蔵物(くらもの)の流通をまず見ると,幕府や諸藩は年貢米の一部を領内で販売し,多くを大坂,江戸,京都などの大都市で販売した。米は大坂などの蔵屋敷に搬入し,それに所属した問屋または売捌人より米仲買に売却した。…
…今日,主要資本主義国で農産物価格政策を展開していない国はない。 日本でも,米価調節政策が昭和に入ると展開されたように,農産物価格政策はかなり長い歴史をもっているが,対象農産物として主要農産物のほとんどをカバーするまでに制度的に整備されるのは1960年以降である。今日では農産物価格政策の対象になっている農産物の総価額は,農業粗生産額の80%を超えるまでになっている。…
…〈召しあがるもの〉の意で,穀類,とくに米を煮たり蒸したりしたものの総称。穀類を煮たり蒸したりすることを古くは〈炊(かし)ぐ〉といい,のち〈炊(た)く〉というようになった。…
…弥生文化は,基本的に食料採集(食用植物・貝の採取,狩猟,漁労)に依存する縄文文化と根本的に性格を異にする一方,後続する古墳文化以降の社会とは経済的基盤を等しくする。つまり水稲耕作を主として食用家畜を欠く農業,米を主食とする食生活は弥生文化に始まり,現代に至る日本文化を基本的に特色づけることになったのである。弥生文化の領域は,南は薩南諸島から北は東北地方までに及び,縄文文化の領域であった屋久島以南から沖縄諸島にかけてと北海道においては,弥生時代以降も食料採集に基礎を置く生活が続いた。…
…都市まで輸送するものもあるが,舟運のある河川の上流部の河岸(かし)まで運び,以後を舟運にゆだねるものもあった。 江戸時代初期に長距離輸送されたものの中心は,年貢として領主の手に納められた米その他蔵物(くらもの)と呼ばれる諸物資である。米を中心に年貢の輸送の方法を述べると,幕府直轄領では納入のための輸送は5里内農民負担で,各地の御蔵へ納入される。…
※「米」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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