[1] 〘名〙 (目方(まへ)の意で、尻方(しりへ)に対する)
[一] 空間的に前方または前部を表わす。
① 普通の状態で顔の向いている方向、またその方向にある部分、場所。
※万葉(8C後)一八・四一二九「針袋取り上げ麻敝(マヘ)に置き反(かへ)さへばおのともおのや裏も継ぎたり」
② 物の正面にあたる部分、場所。前面。
※竹取(9C末‐10C初)「
賓頭盧のまへなる鉢の、ひた黒に墨つきたるをとりて」
③ 家の正面に接する所。庭。
※大和(947‐957頃)一四八「ひとりしていかにせましとわびつればそよともまへの荻ぞこたふる」
④ 人体の正面に当たる部分。
(イ) 頭部の正面や胸部など。
※観智院本名義抄(1241)「胸
〈略〉ムネ マヘ」
(ロ) 着衣の正面、着物を前で合わせる部分。
※歌舞伎・韓人漢文手管始(
唐人殺し)(1789)一「『あわれ不便
(ふびん)と思し召、忰
(せがれ)にお情を下さりませ』ト前を拓
(ひら)く」
(ハ) 男根または女陰。陰部。
※宇治拾遺(1221頃)九「男のまへのかゆきやうなりければ」
⑤ 順序のあるときの、はじめの方。「列の前の方」「前から読まないと分からない」
⑥ 勢力の及ぶ範囲。「規則の前に手をこまぬく」
[二] (多く接頭語「御
(お・おん)」を伴って用いる。→
おまえ・
おんまえ) 神仏あるいは貴人に面する意で、そこに伺候すること、転じて、神仏貴人そのものをさし、さらに、そこに供えるものなどをもいう。
① (神について)
(イ) 神格を間接的にさす。絶対敬語のように用いる。
※
古事記(712)上「此れの鏡は、専ら我が御魂
(みたま)として、吾が前を拝
(いつ)くが如伊都岐奉
(いつきまつ)れ」
(ロ) (「
前神」の略であるが、すでにこの語だけで神そのものを示す) 主神以外の神。主神に近侍する神。
※延喜式(927)一「奠二幣案上一神三百四座、社一百九十所〈略〉前一百六座」
② (貴人について)
(イ) 貴人に近く相対する場所に座をしめること。伺候すること。
※後撰(951‐953頃)春上・四・詞書「ある人の許に新参りの女の侍りけるが、月日久しく経て正月の朔頃にまへ許されたりけるに、雨のふるを見て」
(ロ) 貴人その人をさす。
※
紫式部日記(1010頃か)寛弘五年秋「御まへにも、近うさぶらふ人々はかなき物語するを聞こしめしつつ」
(ハ) (「…の前」の形で) 女性の名に添えて敬意を表わす。
※平家(13C前)一〇「この二三年めしつかはれ候が、名をば千手の前と申候」
③ 貴人に先立って動作をする人、また、そのこと。
※
梁塵秘抄口伝集(12C後)一〇「殊の外に声遣ひ心得て、振などは確かに、忘れず。まへ払ふ程にはあり」
※宇治拾遺(1221頃)九「しりたる人にも物こひとりて、講師の前、人にあつらへさせなどして」
[三] 時間的に前方、またはさかのぼっての事柄を表わす。
① 既に経過した時。過去。
※大鏡(12C前)三「まへの日事いださせたまへりしたびのことぞかし」
② ある時点より早い時期。以前。
※
太平記(14C後)七「前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳加て、百万騎に余りければ」
③ 順番が一つ早い方。直前。「前の校長」
※或る朝(1908)〈
志賀直哉〉「祖父の三回忌の
法事のある前の晩」
④ 現在。眼前の時。
※随筆・胆大小心録(1808)四「
韓退之のおしやりし、前のほまれあらんよりは、後のそしりをおもへとぞ」
⑤ かつてあった事柄、事例。
(イ) 以前あった事例。前例。
※上杉家文書‐大永六年(1526)正月一八日・本庄房長色部昌長連署起請文「於国役等之儀も各前不レ可二見合申一候」
(ロ) 犯罪者について、その人の過去の罪。前科。〔隠語全集(1952)〕
※たった一人の
反乱(1972)〈丸谷才一〉一七「マエのある連中、ずいぶん見かけましたよ。でも、女はあたしだけと思っていたら、歌子ねえさんもねえ」
[四] (「…の前」の形で体言格を受けて形式名詞のように用いる)
① 既に知覚されたことを示す
語句を受けて、それに合致すること、その通りであることを示す。…の通り。現代では、その状態をあえて許容する
気持を込めて用いることが多い。
※歌舞伎・貞操花鳥羽恋塚(1809)四立「初めより蔵人も、誠にあらざる恋路とは存じの前」
※にごりえ(1895)〈樋口一葉〉三「恨まれるは覚悟の前(マヘ)」
② 人をさす語句を受けて、その人に対しての気がね、
体裁、
面目などを示す。てまえ。
※二人女房(1891‐92)〈尾崎紅葉〉中「お母様の前があるから何程か貸してやったけれど」
[2] 〘語素〙
① 名詞または動詞の連用形に付いて、それに相当する分量、…する部分の意を表わす。「
一人前」「分け前」など。
※黒川本今川仮名目録‐定(1560頃)一二条「知行差出の
員数之外、私曲之由訴人有て、
百姓まへ検地すべきよし申に付ては、不
レ可
レ及
二披露
一」
② 人に関する語について、その属性、機能を強調していう。「腕前」「男前」など。