岐阜県中西部、郡上郡(ぐじょうぐん)にあった旧町名(大和町(ちょう))。現在は郡上市の西部中央を占める一地域。1955年(昭和30)山田、弥富(やとみ)、西川の3村が合併して大和村となり、合併30周年を機に1985年町制施行。2004年(平成16)八幡(はちまん)、白鳥(しろとり)の2町、高鷲(たかす)、美並(みなみ)、明宝(めいほう)、和良(わら)の4村と合併し、市制施行して郡上市となる。旧大和町には、区域の中央を流れる長良(ながら)川沿いに長良川鉄道、国道156号が走る。東海北陸自動車道が通じ、ぎふ大和インターチェンジがある。農業地域は生活環境の整備が進められ、工業では製材・木工などの振興や電気機器その他の企業誘致が図られた。長良川の支流栗巣(くりす)川の谷には、14世紀以後220年続いた東(とう)氏の館跡の庭園があり、国指定名勝である。小間見(こまみ)川には、国指定の特別天然記念物オオサンショウウオが生息し、生息地も国の天然記念物に指定されている。
[上島正徳]
『『大和村史』(1982・大和村)』▽『『大和町史 通史編』上下(1984、1988・大和町)』▽『『大和町史 史料編』(1988・大和町)』▽『『大和町史 史料編続』上下3冊(1999~2004・大和町)』
新潟県南東部、南魚沼郡(みなみうおぬまぐん)にあった旧町名(大和町(まち))。現在は南魚沼市の北部を占める一地区。1956年(昭和31)浦佐(うらさ)、藪神(やぶかみ)、大崎、東(ひがし)の4村が合併して大和村と改称、1962年町制施行。2004年(平成16)六日(むいか)町と合併して市制施行、南魚沼市となる。旧町域は、六日町盆地北端に位置し、南北に魚野(うおの)川が流れる。JR上越線、上越新幹線、国道17号、291号が通じる。浦佐地区は裸押合祭(はだかおしあいまつり)で有名な毘沙門堂(びしゃもんどう)(普光寺)の門前町として発達し、近世は三国(みくに)街道の宿場町として栄えた。魚野川右岸の大崎地区は越後三山只見国定公園(えちごさんざんただみこくていこうえん)中の八海山(はっかいさん)の登山口で、八海山登拝講中の社務所もあり、広大な水無(みずなし)川の八色原(やいろっぱら)扇状地も広がる。上越新幹線の開通で浦佐駅が設置されて急激に都市化が進む。八色原には国際大学や北里(きたさと)大学保健衛生学院が開設している。観光開発にも力が注がれ、八色スイカが名産である。
[山崎久雄]
『『大和町史』全2巻(1972、1981・大和町)』
神奈川県中央部、横浜市の西に接する市。1959年(昭和34)市制施行。2000年(平成12)特例市に移行(2015年施行時特例市に名称変更)。相模(さがみ)鉄道、小田急電鉄江ノ島線、東急電鉄田園都市線、国道16号・246号・467号が通じる。相模原台地の東部にあたり、境(さかい)川と引地(ひきじ)川が流れるが、水利に恵まれない乾燥地が広がる。中世初期には鎌倉と北関東を結ぶ鎌倉街道が南北に、近世には北部の平地林の中に東海道の脇(わき)往還の矢倉沢(やぐらさわ)往還が通じていたが、市域に宿場は設けられなかった。幕末期から生糸輸出の活況に伴って養蚕が盛んになり、桑畑が広がった。1942年(昭和17)海軍工廠(こうしょう)や航空隊基地が設けられ、第二次世界大戦後、それらはアメリカ軍の厚木基地(一部は綾瀬(あやせ)市)となり、1971年以降は自衛隊との日米共同使用基地となっている。1955年ごろから工場の進出が増え、横浜(一部は東京)への通勤者向け住宅団地の建設が相次ぎ、都市化が急速に進みつつあるが、野菜栽培の近郊農業も行われ、工農住宅都市となっている。草柳(そうやぎ)のシラカシ林は相模原のおもかげを残す自然林(県指定天然記念物)で、周辺は緑地公園「泉の森」として整備されている。面積27.09平方キロメートル、人口23万9169(2020)。
[浅香幸雄]
『『大和市史』全8巻(1978~2002・大和市)』
旧日本海軍が保有した世界最大の戦艦。1941年(昭和16)12月16日完成。同型艦4隻の建造が計画されたが、2番艦武蔵(むさし)が竣工(しゅんこう)しただけで、3番艦信濃(しなの)は空母に変更され、4番艦は着手されなかった。この空前の戦艦が建造されるに至った理由は、海軍首脳が戦艦による洋上決戦こそ対米戦勝利の鍵(かぎ)であると確信していたこと、戦艦の建造制限を規定したワシントン、ロンドン両条約失効後の無条約時代に対処する新主力艦が必要とされたこと、さらに、想定敵国であるアメリカはパナマ運河の通航条件に拘束されて主砲40センチ砲以上の戦艦はつくれないと考えられたため、それを凌駕(りょうが)する巨砲搭載艦を建造すれば質の面では対米劣勢を克服できると判断された、などによる。
大和は呉(くれ)海軍工廠(こうしょう)で建造されたが、その主要目は全長263メートル、最大幅36.9メートル、公試排水量6万1900トン、速力27ノット、航続力(16ノットで)7200海里、主砲46センチ三連装砲塔3基、副砲15.5センチ三連装砲塔4基、水上偵察機および観測機計7機、射出機2基。就役後、連合艦隊旗艦として主要海戦に参加したが海戦の様相は設計思想と大きく変化しており、その巨砲を米戦艦群に向けて雌雄を決する機会はついになかった。
1945年4月7日、米軍の沖縄上陸を阻止し艦を海岸に擱坐(かくざ)させて主砲を陸上砲台となそうとする特別攻撃に向かう途次、延べ1000機に及ぶ米軍機の空襲を受け、魚雷12本、大型爆弾7発、小型爆弾無数の被害を受け、徳之島西方で沈没した。
[前田哲男]
『吉田満著『戦艦大和ノ最期』(1981・講談社)』
山口県南東部、熊毛郡(くまげぐん)にあった旧町名(大和町(ちょう))。現在は光市(ひかりし)の東部を占める地域。1943年(昭和18)塩田、三輪、岩田、束荷(つかり)の4村が合併して大和村となり、1971年町制施行。2004年(平成16)光市と合併。旧町域は、東は柳井(やない)市に、西は光市に接していた。JR山陽本線が通じる。大部分は丘陵地で、その間に小農村が散在するが、住宅団地の開発が進み、周南(しゅうなん)諸都市のベッドタウン化が顕著。古代の山城(やまじろ)で知られる神籠石(こうごいし)(国指定史跡)のある石城山(いわきさん)は県立自然公園域。山頂の石城神社本殿は室町時代に大内氏が再建したもので国指定重要文化財。束荷は伊藤博文(ひろぶみ)の生誕地で、伊藤公記念公園があり、旧伊藤博文邸(伊藤公記念館)、伊藤公資料館、復原された生家などが整備されている。
[三浦 肇]
『『大和町史』(1983・大和町)』
宮城県中部、黒川郡の町。1955年(昭和30)吉岡(よしおか)町と宮床(みやとこ)、吉田、鶴巣(つるす)、落合の4村が合併して成立。西部は奥羽山脈に連なる丘陵で、東部の吉田川とその支流沿いは水田が広がる農業地帯である。東北自動車道(大和インターチェンジ)、国道4号、457号が通じる。古代から開発が進み、条里遺構がある。1616年(元和2)伊達政宗(だてまさむね)の三男飯坂宗清が今村(吉岡)に城下町を開き、また、1623年には奥州街道の宿場として整備された。宮床も伊達一門の小城下町。中心の吉岡は郡内の商業中心地である。県指定文化財として鳥屋(とや)八幡古墳、吉岡東官衙(かんが)遺跡がある。面積225.49平方キロメートル、人口2万8786(2020)。
[後藤雄二]
『『大和町史』全2冊(1975、1977・大和町)』
佐賀県東部、佐賀郡にあった旧町名(大和町(ちょう))。現在は佐賀市大和町地区で、市の中部を占める。旧大和町は、1959年(昭和34)町制施行。2005年(平成17)諸富(もろどみ)、富士(ふじ)の2町および三瀬(みつせ)村とともに佐賀市に合併。旧大和町域は、嘉瀬(かせ)川(川上(かわかみ)川)水系の脊振(せふり)山地部と佐賀平野部にまたがり、国道263号が両者を結ぶ。米作や酪農のほか、山間小盆地ではナス栽培や干し柿(がき)生産が知られ、山麓(さんろく)部一帯にはミカン園が開ける。南に広がる扇状地状の平野部は佐賀市街地に近く、近郊野菜栽培やベッドタウン化が目だち、また肥前国府跡(ひぜんこくふあと)などの遺構調査で脚光を浴びる。山麓近くを東西に通り抜ける長崎自動車道の佐賀大和インターチェンジがある。川上峡周辺は川上金立県立自然公園(かわかみきんりゅうけんりつしぜんこうえん)の拠点で、川上峡温泉があり県都の奥座敷。川上頭首工(とうしゅこう)は佐賀平野の分水施設。国指定重要文化財をもつ高城寺(こうじょうじ)や建福寺(けんぷくじ)をはじめ、船塚(ふなづか)、大願寺(だいがんじ)廃寺跡、実相院(じっそういん)、石井樋(いしいび)など旧跡に富む。名尾(なお)の手漉(す)き和紙も存続する。
[川崎 茂]
『『大和町史』(1975・大和町)』
福岡県南西端、山門郡(やまとぐん)にあった旧町名(大和町(まち))。現在は柳川(やながわ)市の南東部を占める。旧大和町は1952年(昭和27)町制施行。2005年(平成17)柳川市に合併。旧町域は東西を矢部川(やべがわ)と支流の塩塚川(しおつかがわ)に限られ、北部はクリーク網の発達した三角州、南部は歴史の新しい干拓地からなり、有明海(ありあけかい)に臨む海抜の低い平地である。西日本鉄道天神大牟田(おおむた)線、国道208号が南北に通じる。主産業は農業で、機械化された生産性の高い稲作のほか、レタス、ナスなどの野菜生産が盛んで、漁業もノリ養殖を中心に貝類の採取が行われる。水産加工などの製造業もある。旧町域は国指定天然記念物のカササギ生息地で、国営大和干拓(1958~1970)を最後とする干拓の歴史は各地に記念碑を残している。
[石黒正紀]
『『大和町史』全3巻(1999~2001・大和町)』
島根県中央部、邑智郡(おおちぐん)にあった旧村名(大和村(むら))。現在は美郷町(みさとちょう)の南部を占める。旧大和村は1957年(昭和32)都賀行(つがゆき)、都賀の2村と布施(ふせ)村の一部が合併して成立。2004年(平成16)邑智町と合併して美郷町となる。旧村域は広島県に接し、中央を江の川(ごうのかわ)が北流する。川沿いを除いた大部分が600メートル前後の中国山地で占められる。国道375号が通じる。1960年ごろまでは木炭の主産地であった。シイタケやマタタビが特産品であるが過疎化により農家戸数は減少している。町役場大和事務所のある都賀本郷は江戸時代は江の川舟運の河港で、砂鉄や鉄製品などの集散地として繁栄した。江の川では伝統漁法の火振漁によるアユ漁を再現、観光船が出ている。また、江の川沿いに潮(うしお)温泉がある。
[野本晃史]
『『大和村誌』上下(1981・大和村)』
山梨県中部、東山梨郡にあった旧村名(大和村(むら))。現在は甲州(こうしゅう)市の南東部にあたる一地区。旧大和村は2005年(平成17)塩山(えんざん)市、勝沼(かつぬま)町と合併して甲州市となる。旧村域は大菩薩嶺(だいぼさつれい)に源を発し笹子(ささご)峠の西側を通って甲府盆地に注ぐ日川(ひかわ)の上流部を占める。JR中央本線、国道20号が通じる。耕地に乏しくかつては養蚕を主としたが、いまは果樹栽培が主体である。また、盆地方面へ通勤する兼業農家も多い。特産に灯籠(とうろう)や庭石にする鞍馬石(くらまいし)がある。1582年(天正10)武田勝頼(かつより)が織田・徳川の連合軍と激戦のすえ敗れ、滅亡したのはこの地で、田野(たの)の景徳院(けいとくいん)に勝頼の墓があり、勝頼が目ざした天目(てんもく)山棲雲寺(せいうんじ)も近い。田野温泉、初鹿野(はじかの)温泉をはじめヤマメの養殖場もあり、観光地に恵まれている。
[横田忠夫]
広島県東部、賀茂郡(かもぐん)にあった旧町名(大和町(ちょう))。現在は三原市(みはらし)の一地区。1955年(昭和30)豊田(とよた)郡椹梨(くわなし)、大草(おおぐさ)の2村と世羅(せら)郡神田(かんだ)村が合併して豊田郡大和町となり、1956年賀茂郡に編入。2005年(平成17)大和町は三原市に合併。国道432号、486号が通じる。旧町域は吉備(きび)高原の平均標高400メートルの世羅台地にあり、椋梨(むくなし)川が台地を刻んで曲流している。米作中心の農業を営み、専業農家が多いが、近年、乳牛飼育や野菜栽培など多角的経営が図られている。特産品にモモ、ハトムギがある。また、県営工業団地の造営や、隣接する三原市本郷町に広島空港が開港したことにより、工場の進出がみられる。南西部に椋梨ダムが完成し、貯水池白竜湖畔はスポーツ村公園がつくられるなど、レクリエーション化が進んでいる。
[北川建次]
茨城県中西部、真壁郡(まかべぐん)にあった旧村名(大和村(むら))。現在は桜川市(さくらがわし)の中央部を占める地域。1954年(昭和29)雨引(あまびき)、大国(おおくに)の2村が合併して大和村となる。2005年(平成17)、西茨城郡岩瀬町(いわせまち)、真壁郡真壁町と合併して市制施行、桜川市となった。旧村域は筑波(つくば)山地と真壁台地および桜川の低地。JR水戸線が通じ、大和駅は1988年の開業。中世は真壁氏、近世は笠間(かさま)藩ほかに分属した。農業が主産業で、従来の米、葉タバコに加えて施設園芸、露地野菜が増えた。花崗岩(かこうがん)石材業が多く、台山高森工業団地に電気、機械などの工場もある。水郷筑波国定公園の一部で、マダラ鬼神祭のある楽法寺(らくほうじ)(雨引観音(かんのん))は国指定重要文化財の観世音菩薩立像(かんぜおんぼさつりゅうぞう)ほか県指定文化財が多い。
[櫻井明俊]
鹿児島県大島郡、奄美大島(あまみおおしま)中部にある村。奄美大島の最高峰湯湾岳(ゆわんだけ)(694メートル)など古生層の山地で覆われ、耕地面積はわずか1.3%にすぎない。奄美市名瀬(なぜ)からバスが通じる。中世、琉球王国(りゅうきゅうおうこく)に属したが、1609年(慶長14)島津氏の琉球侵略以後は薩摩(さつま)藩直轄領。スモモやポンカンなどの果樹栽培、パルプ用材の伐採が盛んである。湯湾岳は天然保護区域に指定され、特別天然記念物のアマミノクロウサギをはじめ、国天然記念物のルリカケス、オオトラツグミ、オーストンオオアカゲラ、トゲネズミなどの貴重な動物が生息する。民俗建築物として大和浜に高倉群がある。面積88.26平方キロメートル、人口1364(2020)。
[平岡昭利]
東京都東大和市の旧町名。多摩湖の南側、武蔵野(むさしの)台地に位置し、1919年(大正8)六か村を合併して大和村とし、1954年(昭和29)町制(北多摩郡大和町)、1970年市制施行のときに東大和と改称した。
[編集部]
狭義では奈良県の一地域,ついで奈良県全部,広義では日本全体を指した語。大和政権の領域拡大とともに日本全体を指すにいたったもの。狭義のヤマトは,《古事記》《日本書紀》に,奈良を過ぎヤマトを過ぎ葛城(かつらぎ)へ,という歌謡があるように,奈良の南方で葛城の東北方の,大和国城下(しきのしも)郡大和(おおやまと)郷,今日の天理市新泉町の大和(おおやまと)神社周辺の地とされる。このヤマトは,葛城と並んで土着の勢力の中心地。やがて畿内豪族の連合政権である朝廷が奈良盆地に拠点を置くと,今日のほぼ奈良全県をヤマトと呼ぶようになった。語義は山に囲まれた処(と)の意かという。筑後国の山門(やまと)などとは,同じトでも当時のトの音が異なり,意味も別である。倭という漢字は,回り遠い,従順,矮小などの意だが,中国で古くから日本を指すのに用いられたので,5世紀の倭の五王のころには〈倭国王〉と自称するようになり,意味の上では本来関係のない倭という字とヤマトという訓とが結びつくこととなった。7世紀から8世紀にかけて,国号には倭の字を避け,〈日本〉という表記を用いるようになり,その訓もヒノモト,オホヤマト,オホヤシマなどとしてヤマトとはいちおう区別し,倭国,大倭国といえばふつうは奈良全県を指す行政区域名となった。律令体制下の1国としての大倭国は,737年(天平9)から747年まで〈大養徳国〉と表記を改め,757年(天平宝字1)ころから大和国と表記されるようになる。しかしその後も引き続き,一般には倭,和の字やヤマトという語は,日本的,日本風を意味するときに使われている。
→倭(わ)
執筆者:青木 和夫
同型艦〈武蔵〉とともに,旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦。第2次世界大戦前に対米英数的劣勢を質的優位で対抗するために,当時の日本海軍が造艦技術の粋を結集して建造を推進した。本艦は1937年呉工厰で起工,41年開戦直後に完成した。常備排水量6万9100トン,全長244m,速力27ノット。主砲は当時の最大口径40cmを超える空前絶後の大口径の46cm砲であり,また備砲と同等の威力の砲弾に対して主要部分を防御するため徹底した集中防御方式を採用した。本艦の建造に際してその建造要目は最高機密とされ,極秘裏に巨艦を建造するためにあらゆる苦心と努力が払われた。大戦中は連合艦隊旗艦として使用されたが,航空主体の近代海戦においてはすでに主砲威力を有効に発揮する機会がなく,戦争末期の45年4月,水上特攻部隊として沖縄に向け出撃し,九州南西方において多数の米艦載機の攻撃を受けて沈没した。なお,2番艦〈武蔵〉は42年三菱長崎造船所で完成,44年10月レイテ沖海戦において沈没,3番艦〈信濃〉は,建造途中で航空母艦に改装され,44年11月横須賀海軍工厰で完成,同月潮岬沖で潜水艦の雷撃により沈没,4番艦は開戦後建造が中止された。
執筆者:本多 一郎
神奈川県中部の市。1954年市制。人口22万8186(2010)。相模原台地の東縁を占め,北東部を境川,西部を引地川が流れる。鎌倉時代は渋谷荘司,室町時代は関東管領家,戦国期には小田原北条氏の支配下にあった。江戸時代は旗本領となり,多くの旗本の知行地とされ,下鶴間は大山街道(現,国道246号線)の宿駅として栄えた。1926年に相模川の砂利輸送のため神中鉄道(現,相模鉄道)が通じ,29年には小田急江ノ島線が通じてその交点の大和駅周辺の都市化が進んだ。41年には隣接する綾瀬市域にまたがって海軍工厰,海軍航空隊が設置され,厚木飛行場が設けられた。飛行場は第2次大戦後アメリカ軍に引き継がれて厚木航空基地となっている。戦後,付近一帯の畑地には灌漑工事が施され,モデル農業地区となっていたが,50年代後半以降工場誘致が相次ぎ,自動車,電気関連などの大工場が立地した。また交通至便なため,京浜地区のベッドタウンとなり,東急田園都市線も小田急江ノ島線の中央林間から東京渋谷へ直通し,東京都心と直結している。
執筆者:伊倉 退蔵
鹿児島県奄美大島中部,東シナ海側に臨む大島郡の村。人口1765(2010)。湯湾岳(694m)を主峰とする急峻な山々が連続し,海岸まで迫る。海岸は複雑なリアス式海岸で平地に乏しく,前面にはサンゴ礁が発達している。海岸線上に点在する11の集落は湾奥の小平地に立地し,耕地はきわめて狭く,零細規模の兼業農家が多い。亜熱帯気候を生かしたスモモ,ポンカン,タンカン,野菜,茶などの栽培が行われる。漁業はホタ,チビキ,タイなどの一本釣りを主とし,モズク,アオサなどの養殖業も伸びている。湯湾岳周辺の亜熱帯林(天)には,アマミノクロウサギ(特天)をはじめとする珍しい動物が多く生息する。恩勝(おんがち)の開饒(ひらとみ)神社は奄美糖業の祖直川智をまつり,大和浜には島内に唯一残る奄美独特の高倉群が見られる。また出入りの多い海岸線は風光に優れ,奄美群島国定公園に属する。
執筆者:赤池 享一
宮城県中部,黒川郡の町。人口2万4894(2010)。鳴瀬川の支流吉田川の流域を占める。西部は泉ヶ岳北東麓の山地・丘陵で,東部の吉田川中流域に平地が広がる。中心集落の吉岡は,仙台の北を守る要地として1616年(元和2)伊達政宗の三男宗時が城下町を開いたことに始まり,23年以降は奥州街道と羽後街道の分岐点の宿場町として発展,5・9の日の六斎市が開かれてにぎわった。米作を中心とする農業が主産業で,シイタケ,ナメコなど林産物の特産もある。東北自動車道大和インターチェンジ付近に大規模な工業団地が造成され,企業が進出している。吉田川支流には南川ダムが1987年完成した。陸上自衛隊駐屯地がある。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
日本海軍の超戦艦。海軍軍縮条約の制限から離脱すると,日本海軍は従来の条約型戦艦を圧倒する超戦艦の建造を計画し,大和を1941年(昭和16)12月18日呉海軍工廠で竣工させた。備砲46cm9門,排水量6.8万トンで史上世界最大の戦艦。戦争中連合艦隊旗艦となり,マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦にも参加したが,連合軍の沖縄本島来攻時,海上特攻艦隊旗艦として敵上陸点に突入しようとし,45年4月7日九州南方海上でアメリカ空母機に撃沈された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…王権を基礎づける神話として《古事記》神話が編成された時,その冒頭に置かれて神々の世界を統括した宇宙最高神。中国では東方世界の主宰神として天皇大帝があった。この神は天の中心にあって不動の北極星を神格化した神である。アメノミナカヌシノカミはこの天皇大帝の観念の借用であり翻訳であった。この神は《古事記》神話のなかで,民間の太陽信仰を統括かつ祖神化した皇室の天照大神(あまてらすおおかみ)によって,尊厳を具体化され,神話の根幹は,天御中主神→天照大神→天神御子→初代天皇という展開をたどって,王権神話を完成する。…
…旧国名。和州。現在の奈良県。
【古代】
畿内に属する大国(《延喜式》)。添上(そふのかみ),添下,平群(へぐり),広瀬,葛上(かつらぎのかみ),葛下,忍海(おしうみ∥おしみ),宇智(うち),吉野,宇陀(うだ),城上(しきのかみ),城下,高市(たけち),十市(とおち),山辺(やまのべ)の15郡に分かれていた。大和国を地形的にみると,奈良盆地(国中),大和高原(東山中),宇陀,吉野の4地域に分かれる。奈良盆地には13郡が設置され,添上郡と山辺郡の東半部が大和高原に及んでいた。…
…日清・日露の海戦で初めてこの艦砲の威力が実証され,イギリスは12インチ砲を主砲とする新鋭戦艦ドレッドノートを建造し大艦巨砲時代の幕を開いた。ロンドン軍縮会議で艦砲は口径14インチ以下と定められたが,期限切れ後に日本は世界最大の46cm砲を装備した戦艦大和,武蔵を建造した。この砲の最大射距離は46kmで弾丸1発の重量は1.5tであった。…
※「大和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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