聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)と光明(こうみょう)皇后が発願(ほつがん)し、国ごとに建てさせ、鎮護(ちんご)国家を祈らせた寺。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の741年(天平13)1月15日条に「国分寺」が初見し、ついで翌年11月17日「大養徳(大和)国城下郡司優婆塞貢進文(やまとのくにしきのしもぐんじうばそくこうしんもん)」(正倉院文書)にみえる。国分僧寺(金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、金光明寺)と国分尼寺(にじ)(法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)、法華寺)とからなる。大和の東大寺は総国分寺に、法華寺は総国分尼寺に定められている。
[井上 薫]
685年(天武天皇14)3月27日の詔(みことのり)により「諸国の家ごとに仏舎を作り、乃(すなわ)ち仏像及び経を置き、以(もっ)て礼拝供養せよ」と命じた(『日本書紀』)。この「諸国の家」の「仏舎」に関し、(1)国司が政務をとる国庁(こくちょう)の中に仏殿を建てる、(2)国庁の建物の一部に仏間(ぶつま)をつくる、(3)国庁の近くに寺をつくる、(4)天下の庶民の家に仏殿を建てる、(5)諸国の公卿(くぎょう)の家に仏殿をつくる、などの説が出された。671年(天智天皇10)近江(おうみ)大津宮の内裏(だいり)に仏殿があったことから推測し、天武(てんむ)14年詔にみえる「諸国の家」の仏舎に前記の(1)か(2)の説が適当であり、天武14年ころの仏教の普及度から考えると、(3)(4)(5)の説は当てはまらないと思う。
[井上 薫]
737年(天平9)3月3日に詔して、「国ごとに釈迦(しゃか)仏像一躯(く)・挟侍菩薩(きょうじぼさつ)二躯を造り、兼ねて大般若経(だいはんにゃきょう)一部を写さしめよ」と命じた(『続日本紀』)。これは国分僧寺の創建を命じたものと考えられる。詔に造寺の語がみえないが、仏像と経の造写はそれを安置する寺をつくることを意味したと解してよい。というのは、『続日本紀』の741年1月15日条に、藤原氏が返還した封戸(ふこ)5000のうち3000戸を諸国の「国分寺」の丈六仏像(じょうろくぶつぞう)をつくる費用にあてさせているところから、741年以前に国分寺の創建が命ぜられたことが知られ、737年3月3日の詔が創建を命じたと考えられるからである。735年以来の疱瘡(ほうそう)と飢饉(ききん)の災害で国内が荒廃したところへ、強盛な新羅(しらぎ)が来襲する危険が感じられ、さらに東北地方の蝦夷(えぞ)がうごめき、国家が内外両面から動揺したため、鎮護国家が願望され、737年3月に国分僧寺の創建の詔が出された。
[井上 薫]
740年(天平12)8月に大宰少弐(だざいのしょうに)の藤原広嗣(ひろつぐ)が政府の飢疫対策貧困を非難し、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の顧問をしている吉備真備(きびのまきび)と僧玄昉(げんぼう)の罷免を要求して乱を起こし、聖武天皇は深刻に動揺し、恭仁(くに)(京都府)に遷都し、鎮護国家の願望はさらに高まり、741年2月14日の勅(『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』)で国分僧寺のほかに国分尼寺も建てさせ、護国経典の『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』(紫紙金泥(ししこんでい))を国分僧寺の塔に安置することにし、願文(がんもん)では「聖朝」の護持や「君臣の礼」の維持を祈り、広嗣のような「邪臣」の絶滅を念じている。
[井上 薫]
鎮護国家や天子の福寿(ふくじゅ)を祈る寺を国ごとに建てる方式は隋(ずい)・唐に先例があり、(1)隋の文帝(ぶんてい)の州県各立二寺と舎利塔(しゃりとう)建置、(2)唐の高宗(こうそう)の州寺観設置、(3)則天武后(そくてんぶこう)の大雲寺(だいうんじ)設置、(4)中宗(ちゅうそう)の竜興寺(りゅうこうじ)設置、(5)玄宗(げんそう)の開元寺(かいげんじ)設置がそれで、日本の国分寺制に大きな影響を与えたのは(3)であり、次は(4)(1)(2)である。隋唐制を移植した国分寺建立建策者として僧道慈(どうじ)と玄昉(げんぼう)が注目される。国分寺の国は、(イ)日本、(ロ)大和・筑前(ちくぜん)などの国をさす。国ごとに建てる寺であるから(ロ)の国にあたるが、鎮護国家を祈る寺であるので(イ)の日本国とも関係がある。分は何々に所属するとか、何々のためのものという意味である(仏教語の仏分、塔分、聖僧分などの例)。国分僧寺は僧の定員が20人で、封戸50と水田10町が施入され、国分尼寺は定員10人、水田10町であり、僧尼は毎月8日に『最勝王経』を転読し、この経には、仏教を広める支配者の国に四天王が赴いて守護すると説かれている。
[井上 薫]
第1期(737~748、橘諸兄政権期)には、寺地、墾田、封戸、正税(しょうぜい)を寄進し、国司と国師を奨励し、催検使(さいけんし)を遣わした。国司は農民を雑徭(ぞうよう)で徴集し造営にあたらせ、郡司に協力させた。平城京の写経所で金字(こんじ)『最勝王経』を書写し、諸国の国分寺に送った。山背(山城)(やましろ)国では恭仁宮の大極殿(だいごくでん)を国分寺に寄進し金堂とした。第2期(749~763、藤原仲麻呂(なかまろ)政権期)には、郡司が財物を国分寺に寄進した。756年(天平勝宝8歳)聖武太上(だいじょう)天皇が崩じ、その周忌までに国分寺を完成せよと命じ、越後(えちご)・丹波(たんば)・丹後(たんご)・但馬(たじま)・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・出雲(いずも)・石見(いわみ)・美作(みまさか)・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・紀伊(きい)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)・土佐(とさ)・筑後(ちくご)・肥前(ひぜん)・肥後(ひご)・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)・日向(ひゅうが)の26国に灌頂幡(かんじょうのばん)などを授け、周忌に用いさせており、これらの国の国分寺は法要を営むくらいに調っていたらしい。武蔵(むさし)国分寺は758年(天平宝字2)ころまでにできあがった(出土瓦(がわら)の郡名から推定)。第3期(764~784、道鏡(どうきょう)政権期と奈良朝末期)には、造営中の佐渡・出雲、造営遅延の丹後、罹災(りさい)の伊勢(いせ)・尾張(おわり)・美濃(みの)の国分寺が史料にみえ、ほかの国についても「造り畢(おわ)る」「朽損(きゅうそん)」などと記される。道鏡は、国分寺造営・維持の指導権を国司から国師や国分寺に回収した。
[井上 薫]
国分寺の成立期や規模は、国の財力、国・郡司の関心度、政府・豪族からの寄進と技術者や産物の有無などによって相違した。寺域の規模は、国分僧寺の場合、武蔵の方3.5町が最大で、山背(山城)の方3町、河内の東西2町、南北2.5町などがそれに次ぎ、大小の地方差がある。最小は甲斐(かい)の東西53間、南北1町11間である。出雲(方1町23間)では築地(ついじ)に囲まれた境内に南門、金堂、講堂、七重塔、鐘楼(しょうろう)、経楼、僧房などが配置されていた。国分尼寺の規模は僧寺のそれよりも小さく、阿波の方1.5町が筆頭で、以下大小の差があり、出雲、隠岐、備中の方1町が最小である。塔は僧寺だけにみられ、備中国分尼寺の塔跡かといわれる土壇は塔ではありえない(『最勝王経』は、僧寺の塔に安置されるもので、尼寺と関係はない)。律令(りつりょう)国家の衰えとともに国分寺も衰微し、現在に寺として残っているものと、廃寺となり遺跡をとどめるものなど種々の例がみられる。
[井上 薫]
『角田文衛編『国分寺の研究』上下(1938・考古学研究会)』▽『井上薫著『奈良朝仏教史の研究』(1966・吉川弘文館)』
東京都のほぼ中央部、武蔵野(むさしの)台地にある市。1964年(昭和39)市制施行。台地はより高い武蔵野面と、それより一段低い立川(たちかわ)面に分かれるが、「はけ」とよばれるその境界の崖(がけ)、国分寺崖線沿いに清水がわき、清水を集めた野川が東隣の小金井市に向かって流れている。その付近に国分寺が758年(天平宝字2)ごろまでに建立され、それが市の名となった。台地面の開発は江戸時代の享保(きょうほう)年間(1716~1736)に進み、戸倉、本多、内藤などの新田集落ができた。1889年(明治22)現在のJR中央本線(旧、甲武鉄道)、その後、西武鉄道国分寺線、同多摩湖線が開通、関東大震災(1923)を機に住宅地として発展した。府中街道に沿いJR武蔵野線が通じ、中央本線との交点に西国分寺駅が1973年開設。野菜や植木生産の農業、機械などの工業もみられる。また、鉄道総合技術研究所、日立製作所中央研究所、農林水産省動物医薬品検査所、東京経済大学などの研究・教育機関が立地している。
国分寺崖線の湧水を集めた崖下の清流沿いに、遊歩道として整備された「お鷹の道」が通じ、「真姿の池」などの湧水群は環境庁の「名水百選」に選定され(1985)、東京都の名勝にも指定(1998)されている。武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡は国指定史跡。現国分寺は薬師堂に国指定重要文化財の木造薬師如来坐像(ざぞう)を安置し、武蔵多喜窪(たきくぼ)遺跡第一号住居跡出土品一括(国指定重要文化財)を所蔵。隣接地に万葉植物園がある。旧岩崎家別邸の都立殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)も都の名勝(1998年指定)。面積11.46平方キロメートル、人口12万9242(2020)。
[沢田 清]
香川県中北部、綾歌郡(あやうたぐん)にあった旧町名(国分寺町(ちょう))。現在は高松市(たかまつし)の北西部を占める一地区。1955年(昭和30)端岡(はしおか)、山内の2村が合併、町制施行して成立。2006年(平成18)高松市に編入。JR予讃(よさん)線、国道11号、32号が通じ、高松自動車道の高松西インターチェンジも近い。国分台(五色(ごしき)台)をはじめとする山地と本津(ほんづ)川の形成した低地からなる。奈良時代に讃岐国国分寺が開かれて以来、政治、文化の中心として栄える。水稲のほか、施設園芸としてのイチゴ、ブドウ、花卉(かき)などの栽培が盛んである。また、国内有数の盆栽生産地である。とくに錦松(にしきまつ)発祥の地として知られ、北部地区には盆栽畑が広がる。近年高松市街近郊の住宅地として発展し、人口増加は著しい。国分寺は四国八十八か所第80番札所で、境内には金堂や塔の礎石が残り特別史跡に指定されている。ほかに国分尼寺跡(国指定史跡)、第82番札所根香(ねごろ)寺の奥の院鷲峰(じゅうぶ)寺など文化財も多い。
[新見 治]
栃木県南部、下都賀郡(しもつがぐん)にあった旧町名(国分寺町(まち))。現在は下野市(しもつけし)の南西部を占める地域。旧国分寺町は1954年(昭和29)国分寺村が町制施行して国分寺小金井町となり、国分寺町と改称。2006年(平成18)同郡石橋町(いしばしまち)、河内(かわち)郡南河内町(みなみかわちまち)と合併して市制施行、下野市となった。旧町域の西部は中央を姿(すがた)川が南流する農業地域で、中央部はJR東北本線(宇都宮線)と国道4号が縦断する台地である。米、畜産、麦類、野菜中心の営農であるが、かんぴょうを特産する。思(おもい)川沿岸の台地に下野国分寺(しもつけこくぶんじ)跡、同国分尼寺跡が発見され、東大寺式伽藍(がらん)配置として国の史跡指定を受け、史跡公園として整備されている。また、県立しもつけ風土記(ふどき)の丘資料館もつくられている。小金井一里塚も国の史跡に指定されている。1961年以降は工業化が進み、1975年以降には工業団地が造成され、電気機器工業などが進出している。
[村上雅康]
『『図説国分寺町の歴史』(2000・国分寺町)』
天平一一年(七三九)行基によって創建されたと伝える。「土佐州郡志」は「洛陽醍醐報恩院末、天平九丁丑年聖武天皇使行基而創建、有千手観音堂行基之所刻・大師堂・大地蔵堂・護摩堂・十王堂・二王門・聖武天皇祠・山王権現社・大明神社旧在比江国分界隴上、後移今地、又有僧舎中之坊・北之坊・西之坊・別当坊」と記す。天平九年説も同一一年説も、行基創建の伝えとともに確実な史料があるわけではなく、聖武天皇による国分寺建立の詔勅が出されたのは同一三年である(続日本紀)。「続日本紀」天平勝宝八年(七五六)一二月二〇日条に、土佐など二六ヵ国に「国別頒下灌頂幡一具、道場幡九首、緋綱二条、以宛周忌御斎荘餝、用了収置金光明寺、永為寺物、随事出用之」と記されるので、国分寺建立の詔が出て以後に建立されたことは確かである。現在、寺の東南部に創建当初の高さ一・五―二メートル、幅三―四メートルの土塁や、奈良時代の塔の心礎として凹凹座心礎が残る。空海が修造したとの寺伝があり、平安時代は国府とともに文化の中心として寺院は隆盛、「延喜式」(主税上)の「諸国出挙公廨雑稲」に、土佐国の「国分寺料一万束」がみえる。
中世の国分寺については不明だが、阿州三好記大状前書(徴古雑抄)にみえる「金寺」が当寺をさすと考えられ、寺領は七貫文、阿州三好記並寺立屋敷割次第(同書)によると方丈・庫裏・取次・鐘撞堂・土蔵・薬師堂・下坊主部屋・半座敷・表門・裏門があり、寺立は東向き、屋敷一町五反余とある。
中世には
紀ノ川北岸の緩斜面の中央部、
しかし中世に入ると文献にその名は現れない。
天平一三年(七四一)三月二四日の聖武天皇の国分寺建立の詔(続日本紀)により、讃岐国府(現坂出市府中)より二キロ西方の当地に建立された。「続日本紀」天平勝宝八年(七五六)一二月二〇日条によれば、讃岐国など二六ヵ国の国分寺に灌頂幡一具・道場幡四九具・緋綱二条などが頒布されており、周忌御斎の飾りとして用いた後は国分寺に収め置くよう命じているので、この時までには寺観が整っていたようである。天平一三年の詔により国分寺には食封五〇戸・水田一〇町が与えられ、讃岐国分寺料四万束が給されていた(弘仁式)。
相模川左岸用水と
天平一三年(七四一)の聖武天皇発願により、国ごとに国分尼寺とともに建立された寺の一つ。当寺は、他の国の国分寺と異なり、飛鳥時代の法隆寺式の伽藍配置で、白鳳期様式の瓦が出土すること、武蔵国分寺と異なり、郡名・郷名を刻印した瓦の出土が皆無であることなどから、すでに創建されていた土豪(壬生氏か)の氏寺に、七重塔一基と一丈六尺の釈迦仏金像を追加し、国分寺の寺格を満たしたものと推定される。
弘仁一〇年(八一九)二月一九日と八月二九日の二度にわたり火災にみまわれている(類聚国史)。「三代実録」元慶二年(八七八)九月二九日条によれば、相模・武蔵を中心とした関東地方に大地震が起き、同書同五年一〇月三日条によれば「国分寺金色薬師丈六像一体、挟侍菩薩像二体」が破壊され、その直後の失火により焼損した。
天平一三年(七四一)聖武天皇の発願により諸国に設けられた僧寺で、当時の正称は
伽藍は金堂を中心とする四つ割の配置で、旧金堂跡は現在の境内のほぼ中央、現金堂の地に位置する。現在の金堂(県指定有形文化財)は天明七年(一七八七)に毛利重就が重建したもので、その規模は二段の土壇の上に間口二二・〇六メートル、奥行一五・二七メートル、礎石には旧礎石を割ったものや火災をうけたものがある。
静岡平野中心部にあった中世の寺院。天平一三年(七四一)聖武天皇の発願により、諸国に国分寺・国分尼寺が建立されていく。駿河国分寺を
千曲川の北岸で
現在の国分寺は、国指定史跡となった信濃国分寺史跡のうち、僧寺跡北方およそ二〇〇メートルの一段高い台地にある。移転の年代は不明であるが、境内の石造多宝塔が鎌倉時代の豪健な作風をもつことや、寺伝に三重塔(重要文化財)が建久八年(一一九七)国分寺修営の時建立された、と伝えるなどから考えると、平安時代に移転されたものであろう。
本堂は薬師堂、または八日堂とよばれる。本尊は薬師如来。諸国の国分寺の本尊が釈迦如来とされるのに、現在の国分寺本尊が薬師如来であるのは、平安中期より、国分寺の経営が不振となり、衰退朽損が激しく、当時の仏教思想の潮流に従い、薬師如来を本尊仏としたものと推定される(上田市史)。
奈良時代に創建され、「延喜式」に「備後国国分寺料二万束」とみえる備後国分寺(僧寺)を継承する寺とされ、境内地を含んでその寺跡がある。享保元年(一七一六)成立の国分寺来由記(「備陽六郡志」所引)に、古くは所領一〇〇余貫、子院が一二あったが、永禄四年(一五六一)春兵火に遭い、神辺城主杉原盛重が寄付をつのり草堂七楹を建て、二〇貫の地を寄進した。
筑後川中流右岸にある。天台宗。護国山。本尊は聖観音。筑後国国分寺跡は現
浄土宗。山号は護国山、本尊は薬師如来(木造坐像、重要文化財)。奈良時代の国分寺の寺名と寺地とを受け継いでおり、その寺跡は国指定史跡。
草創年代は不詳であるが、「延喜式」(主税上)によれば、丹波国の国分寺料として稲四万束があてられている。その後文献上の記載はみられないが、付近から平安後期の軒平瓦が発見され、本尊薬師如来像が藤原様式の仏像である。
中近世の様子も文献を欠き不明であるが、寺伝は天正年間(一五七三―九二)に明智光秀の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良・平安時代に諸国に置いた官寺。僧寺を金光明(こんこうみよう)四天王護国之寺(金光明寺),尼寺(国分尼寺)を法華滅罪之寺(法華寺)と呼び,合わせて国分二寺という。
国分寺制は,7世紀末より促進されてきた護国経典の読誦によって国家の安寧を祈る仏教政策の総仕上げであり,中央の大寺で展開した国家仏教の画一的な地方伸展の意義をもつが,直接的には律令体制の根幹をゆるがす疫病,飢饉,反乱などの災いを,《金光明最勝王経(最勝王経)》の鎮護国家の思想で消除しようと図ったものである。国分寺建立の実際の施策は741年(天平13)2月の勅にあるが,その構想につらなる幾つかの前段階が考えられ,国分寺の性格は複合的であった。国分寺建立の第1段階は737年3月,諸国に釈迦三尊像1体の造立と《大般若経(だいはんにやきよう)》1部の書写を命じたことに始まり,ついで740年6月,諸国に《法華経》10部の書写ならびに七重塔1区の建立を令し,同年9月には観音像1体の造立と《観音経》10巻の書写を行わしめた。こうしてしだいに構想が整い,741年2月諸国に,七重塔1区造建と《最勝王経》《法華経》各10部書写を重ねて命令し,それとは別に天皇の書写した金字の《最勝王経》を塔の中に納めさせ,かつ僧寺・尼寺の名称を〈金光明四天王護国之寺〉〈法華滅罪之寺〉とし,僧寺には封戸(ふこ)50戸・水田10町,尼寺には水田10町の寺領を施入し,僧20人,尼10人を置くことなどの条例,および願文(がんもん)等を制定した。国分二寺の造営は,どちらかといえば,尼寺の法華寺よりも,〈国華〉たる七重塔を造るべき僧寺の金光明寺に重点が置かれ,したがって単に国分寺という場合はこの金光明寺を指すことが多い。
国分寺の造営は,744年国ごとに正税(しようぜい)4万束を割き取り,これを毎年出挙(すいこ)して造寺用にあてる財政上の措置が講じられてより本格化するが,一般には新しく伽藍(がらん)を建造するか,または既存寺院を転用するかの2様が想定される。いずれにしろ国司と国師の両者に造営の責任が課せられ,郡司ら地方豪族にも協力を求めている。760年代半ばごろ国分寺はほぼ全国的に完備し,これ以後9世紀前半にかけての時期は〈修造〉のことが督励された。また国分寺が倒壊・焼亡すれば,律令体制の弛緩(しかん)や地方財政の窮乏という状況下では再建することは困難であるので,国内の定額寺(じようがくじ)をもって国分寺の代替とする便宜的な措置をとるなど,ともかく国分寺制の維持につとめている。ところが同時期に,鎮護国家の仏事が国分寺のほかに定額寺や国庁でも催されると,国分寺が創建以来の使命とする護国仏教の役割は相対的に軽減した。やがて9世紀ないし10世紀になれば,国分寺はその存在意義を失って退廃に向かう。939年(天慶2)の太政官符(だいじようかんぷ)によると,〈国分二寺の堂塔雑舎仏像資財等,大破朽損す〉というありさまだった。
執筆者:中井 真孝
国分寺の寺域は国の格によって方3.5町の武蔵国,陸奥国の方800尺などの大きなものが多いが,方2町の例が上総,播磨,備中,備後,周防,讃岐,紀伊などと多く,方500尺の出雲と小さいものもあり,志摩,佐渡などの小国はさらに小さいものもある。尼寺は国分寺よりも小さく,常陸,下野,阿波など500尺四方であった。主要堂塔は南門を入ると中門,中門から出た回廊が金堂にとりつき,後方に講堂,その後に僧房が配され,塔が金堂院の東あるいは西方の外郭に配される例が最も多いが,相模国分寺や下総国分寺のように塔と金堂が併立する法隆寺式配置のもの,中門金堂をつなぐ回廊内の金堂の南東に塔を配する上総,筑前のような例もあり,寺地の地勢とともに各国とも異なって,どれ一つとして同じものがない。尼寺は備中をのぞいて塔がないのが通例で,南門,中門,金堂,講堂,尼坊と中軸線上に並ぶようである。
金堂も講堂も間口7間奥行4間が通例で佐渡のように5間のものもみられる。講堂も間口7間が多いが,下総,相模のように平安時代に9間にひろげられた例がみられる。塔も10尺等間の例が多いが,安芸のように小型のものがあり,すべてが七重であったかどうかはわからない。建築は塔に一番よくあらわれているように,都の建物のように間口の中央間を一番ひろくとり両脇にゆくほど柱間寸法を逓減するというようなきめこまかな設計でなく,等間で両端の廂部分だけ少なくするものが多く,技術的拙劣さが目だつ。このことは屋根に葺いた瓦にも端的にあらわれる。都より持ち帰った雛形を忠実に模した上総,美作の例はよい方で,隷下の各郡に命じて納めさせた武蔵など各地独自の文様をもつ瓦が用いられる。ただ従来国分寺瓦すべてを奈良時代と考えがちであるが,より古い7世紀の瓦を集めて使ったり,平安時代のより文様の退化した粗悪な瓦も多く含まれていることは注意しなければならない。
国分寺の本尊は奈良時代のものは一つも現存せず東大寺にならって毘盧遮那仏かと考えられがちであるが,平安時代以降の現存する本尊のほとんどが薬師如来であり,いま廃寺となって現地に残る小堂も薬師堂と呼ばれるものが多い。現在,寺院の残るところは陸奥,武蔵,信濃,美濃,備中,備後,讃岐,土佐,筑前など数えるほどしかない。
執筆者:坪井 清足
東京都中部の市。1964年市制。人口12万0650(2010)。都心から西へ27km,府中市の北に接する近郊都市で,市名は奈良時代に建立された武蔵国分寺に由来する。現在礎石だけが残る国分寺跡(史)は中央本線国分寺駅南西約2km,武蔵野台地を東西方向に走る国分寺崖線の崖下の湧水地域にある。古い集落はこの寺の跡近くの崖下に発生したが,崖上は水に乏しく,玉川上水開削後の江戸中期に初めて新田集落がつくられ,その後純農村として明治に至った。1889年の甲武鉄道(現,JR中央本線)開通をはじめ,昭和初期までに川越鉄道(現,西武国分寺線),多摩湖鉄道(現,西武多摩湖線)が敷設されて国分寺駅は交通の結節点となり,東京の近郊都市の性格が強まった。第2次大戦後の人口増加は特にめざましく,1973年には武蔵野線の開通に伴い中央本線との交点に新たに西国分寺駅が開設された。日立製作所中央研究所,東京経済大学,万葉植物園などがある。
執筆者:井内 昇
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
741年(天平13)聖武天皇の発願により国ごとに設けられた僧寺。護国経典の一つ「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」に依拠して設立され,正式には金光明四天王護国之寺(ごこくのてら)と称する。国衙(こくが)所在地に近く,人里と適度に距離を隔てて立地し,境内に七重塔がたてられて,聖武天皇直筆の金字の「金光明最勝王経」が安置された。また封戸(ふこ)50戸と水田10町を施入するとともに,僧20人を常住させ,欠員があれば補充することとされた。鎮護国家の機能をになう本格的な地方の官寺として国家の期待がよせられたが,その建築は順調には進展せず,既存の寺院を転用して国分寺とする場合もあった。近年各地で国分寺の発掘調査が進められているが,その規模や伽藍配置などは多様である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…1966年に東北本線小金井駅の北に小山電車基地が完成,東京方面への交通の便がよくなり,人口が増加した。国分地区には下野国分寺跡(史),同尼寺跡(史)があり,しもつけ風土記の丘も開設されている。【千葉 立也】。…
…玄宗は738年(開元26)に勅して両京と各州に一つずつ仏寺と道観を建てさせ,年号にちなんで開元寺,開元観と名づけた。則天武后がおいた大雲経寺にならったもので,日本の国分寺はこれらをモデルにしている。744年には玄宗等身の仏像と天尊像を開元寺観に奉安させ,鎮護国家の役割を果たさせた。…
…官寺すなわち大寺は国家が檀越(だんおつ)で,造建するに当たっては,造仏官,造寺司が設けられた。741年(天平13)には国分寺,国分尼寺の設置があり,地方の国司,国師が監督した。一方貴族,豪族の私寺には一定の用途(修理・灯分料)を支給して国家統制下におく定額寺(じようがくじ)があったが,その数は明らかでない。…
… 日本においてはこれらの動向をうけて660年(斉明6)5月に仁王会が行われ,677年(天武6)11月には諸国で《金光明経》《仁王経》の講説が行われ,宮中においても《金光明経》が講説されるにいたり,以後律令国家成立に密接な関係をもつようになった。741年(天平13)2月の国分二寺(国分寺)の創建は,中国にその範を求めた制度とはいいながら,前年における天然痘の流行や藤原広嗣の乱による国情不安にも起因する。僧寺は〈金光明四天王護国之寺〉といい,《金光明最勝王経》によった寺として,尼寺は〈法華滅罪之寺〉と称して,《法華経》に基づいた寺として創建された。…
…官寺を中心に,そこでは学問のほか,国家鎮護の祈禱が盛んに行われた。それを象徴するものが,聖武天皇による741年(天平13)の国分寺造営の詔と,743年の大仏造営発願の詔だった。相続く政局の動揺で衝撃をうけた聖武の朝廷が,仏教による国家の平安と繁栄を祈る試みだった。…
…それも南北朝時代への反省に立ち,君主権の強化を急いだ結果であるが,君主権を弱体化する貴族・豪族勢力を抑えるため,587年に開始した官吏登用制度いわゆる科挙は,唐代になって機能を発揮しはじめ,紆余曲折を経ながら清末まで継承された事実をみても,彼の創見,くふうのすばらしさがわかる。 彼はまた仏教信仰による民心収攬をもくろみ,601年(仁寿1)と604年の2回にわたり100余州に仏舎利塔を建立しているが,これも唐代の官寺,日本の国分寺の濫觴(らんしよう)となっている。みずから節倹にはげみ賦税を軽減し民力を強め国庫を充実したが,それが煬帝(ようだい)を相つぐ大土木工事,無謀な侵略戦争に駆りたてる原因となったのは皮肉である。…
※「国分寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新