住吉神社(読み)すみよしじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「住吉神社」の意味・読み・例文・類語

すみよし‐じんじゃ【住吉神社】

住吉の神を主祭神とする神社。全国に二千余社があり、総本宮は大阪の住吉大社。これと下関、福岡の二社を合わせて日本三大住吉という。
[一] 大阪市住吉区住吉にある住吉大社の旧称。昭和二一年(一九四六)改称。
[二] 山口県下関市一の宮住吉にある神社。旧官幣中社。主祭神は表筒男命荒魂(うわつつのおのみことあらみたま)・中筒男命荒魂・底筒男命荒魂。その和魂(にぎたま)は住吉大社にまつられている。三韓征伐から凱旋した神功皇后が、征韓の船を守護した筒男三神(住吉の神)の神託により創建したと伝えられる。本殿は国宝。長門国の一宮。
[三] 福岡市博多区住吉にある神社。旧官幣小社。祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命。神功皇后が、三韓征伐のときに征韓の船を守護した筒男三神(住吉の神)をまつったと伝えられる。筑前国の一宮。住吉宮。
[四] 長崎県壱岐市芦辺町住吉東触にある神社。旧国幣中社。祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命。神功皇后が、三韓征伐のときに征韓の船を守護した筒男三神(住吉の神)をまつったと伝えられる。
[五] 東京都中央区佃一丁目にある神社。旧郷社。正保年間(一六四四‐四八)摂津国の佃から移住した漁民が、摂津国の住吉神社の分社として創建。江戸時代、藤の名所として知られた。

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デジタル大辞泉 「住吉神社」の意味・読み・例文・類語

すみよし‐じんじゃ【住吉神社】

山口県下関市にある神社。祭神は住吉神すみのえのかみ底筒男命そこつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと表筒男命うわつつのおのみこと)ほか四神。本殿は国宝。長門ながと一の宮
長崎県壱岐いき市にある神社。祭神は住吉神。
福岡市博多区にある神社。祭神は住吉神ほか二神。筑前国一の宮。
北海道小樽市にある神社。祭神は住吉神。
住吉大社すみよしたいしゃ

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日本歴史地名大系 「住吉神社」の解説

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]博多区住吉三丁目

現在の鎮座地は博多の市街地であるが、当地はかつて那珂なか川の河口にあたり、海上交通の守護神を祀るにふさわしい立地であったらしい。「延喜式」神名帳にみえる筑前国の大社一六座のうち那珂郡の三座「住吉スミヨシ神社」が当社に比定される。旧官幣大社。祭神は伊弉諾尊が黄泉国の汚穢を清めるため筑紫の日向の小戸おどの「橘之檍原」で禊祓をした時に少童神とともに現れた底筒男神・中筒男神・表筒男神の三神(住吉大神・住吉三神)を主神とし、天照皇大神・息長足姫命(神功皇后)を配祀する。住吉神の協力で神功皇后が新羅征討に成功したとの伝承をもち(「日本書紀」神功皇后摂政前紀)、古くから玉体奉護や海上交通守護の神として厚く信仰される。社蔵の「筑前国住吉大明神御縁起」下軸では当地を檍原あわきはらの古跡とするなど、当社を全国の住吉神社の始源とする説もある。

〔古代〕

 当社についての早い時期の確実な史料は、天平九年(七三七)に朝廷から新羅の無礼を報告され奉幣を受けた記事に「筑紫住吉」とみえるもので(「続日本紀」同年四月一日条)、対新羅関係の悪化に際し朝廷から祈念を受けている。元慶二年(八七八)にも新羅凶賊の来襲を告げる香椎宮の託宣を受けて朝廷から奉幣が行われ(「三代実録」同年一二月二四日条)、寛仁元年(一〇一七)には一代一度の奉幣を受けた(「左経記」同年一〇月二日条)。神封は大同元年(八〇六)の牒(新抄格勅符抄)によると、三六戸が充てられている。神階は天安三年(八五九)に従五位下が授けられたが(「三代実録」貞観元年正月二七日条)、これ以前は無位で以後も従五位下で留置かれている。「延喜式」神名帳では名神大社とされる。天元二年(九七九)二月一四日の太政官符(類聚符宣抄)によれば、当時すでに大宮司が置かれていた。寛弘二年(一〇〇五)に歌人として著名な大宰大弐藤原高遠が参詣し、「すみよしと思ふにはあらでちはやぶる神のこころをまつるなりけり」と詠んだが(大弐高遠集)、のちには摂津住吉社と同様に和歌の神として崇敬を受けた。元永二年(一一一九)には朝廷で遷宮日時について仗議があった(「中右記」同年四月二六日条)。平安時代末期には後白河院領となり(「山槐記」治承三年五月三日条)、治承三年(一一七九)には日宋貿易の拠点を博多津に求めた平清盛に抗した当社神官佐伯昌助・昌守・昌家が、伊豆・安房・隠岐に配流されたが、昌助の弟昌長が源頼朝に仕えて合戦に際し祈祷を行い(「吾妻鏡」同四年七月二三日条・八月一六日条・同月一七日条)、以後佐伯一族は神官御家人として活躍した。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]下関市大字楠乃

いちみやの中央やや北寄りの地に鎮座。神の森としての社叢(県指定天然記念物)を背に広い境内をもつ。祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命を主神として、応神天皇・武内宿禰命・神功皇后・建御名方命を配祀する。旧官幣中社。

神功皇后が三韓出兵の時、表筒男・中筒男・底筒男の託宣があり、三神の和魂は皇后にそって寿命を守り、荒魂は出兵の先鋒となって船を導き勝利を得させるという。皇后は託宣どおりの勝利を得ての帰途、神誨により荒魂を穴門の山田やまだ邑に祀り社を造営したとされる(「日本書紀」神功皇后摂政前紀)

なお和魂は別に大津の渟名倉おおつのぬなくら長峡ながをに社祠を建て祀られた(現大阪市住吉区に鎮座する住吉神社)

「三代実録」によれば、貞観元年(八五九)一月従五位下より従五位上、同一七年一〇月には正五位下、同年一二月に従四位上をうけ、仁和二年(八八六)一一月には正四位下をうけている。また「延喜式」神名帳には「住吉坐荒御魂神社三座並名神大」とみえ、名神大社に列して祈年の国幣をうけた。同書の臨時祭の項によれば名神祭の神社とされ、さらに「凡住吉社長門国封祖穀者、令封戸徭夫運送、除運功之遺、令徭分、用社料、但豊浦郡封戸徭夫者、便留充御蔭社」とみえ、摂津住吉社の長門国の封戸の内、豊浦郡の封戸、徭夫を割いて長門住吉神社にあてられている。

中世、住吉神社は武士の尊崇をうけ、源頼朝は壇之浦の戦の後、長門吉永よしなが(現豊浦郡豊浦町)の田畑三〇町を寄進している(文治元年九月七日「源範頼下文案」長門一宮住吉神社文書)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]加西市北条町北条

江戸時代までは酒見さかみ社とよばれ、播磨国三宮といわれた。祭神は酒見神・表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后・応神天皇・仲哀天皇・大歳神。旧県社。神宮寺の酒見寺は行基の開基と伝える古刹で、現在は高野山真言宗の寺院。本尊は十一面観音。「延喜式」神名帳に載る賀茂かも郡「坂合サカアヒノ神社」に比定される社の一つ。当社前の坂合家の裏には坂合さかあい神社という小祠がある。前述のように当社は播磨国三宮とされ、一宮・二宮と四宮・五宮が式内社であることから、当社の式内社説が有力との見方がある。

天平三年(七三一)七月五日に津守宿禰嶋麻呂と同客人が言上したとされる「住吉大社神代記」に、住吉大神を祀る九社の一つとして「播磨国賀茂郡住吉酒見社」がみえ、祭神は三座、封戸(神戸)は三戸とある。大同元年(八〇六)の太政官牒(新抄格勅符抄)にも「酒見神 三戸播万」と記されている。「峯相記」によると、養老六年(七二二)摂津国の住吉大明神が播磨国に現れ、上鴨西条の鎌倉かむつかもさいじようのかまくら峯に座した。のち従神の佐保明神の進言により三重北条みえほうじようへ移ったという。神社のある地はもと山酒人の門田であったが、大明神の霊験により一夜のうちに槻の林となった。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]美津島町知 住吉

白江しれえ山の南麓に鎮座。旧県社。祭神は豊玉姫・鵜茅葺不合尊など。祭神は、神功皇后にかかわる伝承があるので底筒男・中筒男・表筒男の住吉三神のはずであるが、豊玉媛・鵜茅葺不合尊・玉依媛という和多都美の神とするのは、境内の和多都美わたつみ神社に由来すると考えられる。合殿に宗像神を祀るので、住吉・和多都美・宗像が渾然としていたようである。「続日本後紀」承和四年(八三七)二月五日条に下県郡住吉神がみえ、神階が無位より従五位下になり、貞観元年(八五九)従五位上(「三代実録」同年正月二七日条)、同一二年正五位下(同書同年三月五日条)、元慶三年(八七九)従四位下となった(同書同年五月二一日条)。「延喜式」神名帳にみえる下県郡一三座の一つ「住吉スミヨシ神社」に比定され、名神大社であった。「延喜式」に名神大社とする住吉神社は摂津・長門・筑前・壱岐・対馬の五社で、いずれも畿内と朝鮮半島を結ぶ航路の要津に祀られる。境内の和多都美神社も「延喜式」神名帳の同名社に比定されるが、摂津の住吉も境内に大海わたつみ神社があり、神話上でも和多都美の神と住吉の神は同時に現れ、興味深い類似性を示している。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]社町上鴨川 野尻

清水きよみず寺のある清水山系の山麓、東条とうじよう川の支流かも川の左岸に鎮座する。祭神は上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命・神功皇后。旧村社。播州御嶽山清水寺縁起(清水寺蔵)によると、清水寺の開基法道が神功皇后の新羅征討に際して異敵降伏の法を行ったと伝え、当社の創建も古いと察せられる。寛文六年(一六六六)氏子間に紛争が生じ、各地区が独立したため上鴨川かみかもがわ村一村の氏神となったと伝えるが、当社からの分社は加東・多可たか両郡と丹波国多紀たき郡にまたがる広範な地域に存在していたという。本殿は三間社流造・檜皮葺で、国指定重要文化財。本殿木部銘によると、正和五年(一三一六)の造立で、永享六年(一四三四)と明応二年(一四九三)に建替えられている。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]甲府市住吉一丁目

国道三五八号の東側にある。祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長帯姫命。社記并由緒書(社記)によれば、聖武天皇の時代にあら川のほとりにある高畑たかばたけに鎮座していたが、武田信義が現在地に勧請し、社殿を造営したという。神護景雲年間(七六七―七七〇)に高畑に勧請された当社を、元亀年間(一五七〇―七三)に移されたとする説や(甲斐名勝志)、武田信義が高畑から稲積いなづみ庄の中心であった一条いちじよう郷に移し、その後甲府築城に伴って現在地へ移転したとする説などがあるが(甲斐叢書)、いずれも俗説であろう。永禄四年(一五六一)の番帳の三三番には「住よしの禰き」がみえ、当社の神職がかみ村の諏訪明神(現諏訪熊野神社)の神職とともに府中八幡への勤番を命じられていた。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]豊北町大字神田上 根崎

矢玉やだま川の支流が集まる小盆地の北に鎮座し、参道には黒松の巨木がそびえ、社叢にはイチイガシの巨木や、サカキカズライヌビワなどの珍しい植物が茂る。祭神は住吉三神で、八幡神を配祀する。旧村社。

社伝では養老三年(七一九)藤原範貞が宇佐うさ八幡宮(現大分県宇佐市)より勧請したと伝え、古くは神田かんだ八幡宮・神田別府かんだべつぷ八幡宮・一宮いちのみや八幡宮などと称せられたが、宝暦年中(一七五一―六四)に一宮住吉大神と改めたと伝える。

「寺社由来」は寿永二年(一一八三)と永徳二年(一三八二)の銘のある宝鏡があるとし、応安元年(一三六八)および二年の文書を載せる。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]様似郡様似町潮見台

様似町市街の東部に位置する。祭神は中筒男命・底筒男命・表筒男命の住吉三神で、保食神・事代主命を合祀する。例祭日は九月一五日(改訂様似町史)。一七九九年(寛政一一年)に東蝦夷地が幕府直轄となって以降、シャマニ場所会所近くには観音社・稲荷社・船玉社の三社が祀られていた(東蝦夷地場所大概書)。「廻浦日記」には「鎮守 船玉大明神・観音・いなり 一社有」とみえるので、この頃には前出三社(三体)は一社に併祀されていたようである。シャマニ場所は一八一三年(文化一〇年)から万屋(佐野屋)が請負人となっていたが、「様似町史」によると、五七年(安政四年)佐野屋は新たに弁財天を勧請して新殿を建てたという。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]芦辺町住吉

東触ひがしふれに鎮座。境内にクスの大木が二本ある。旧国幣中社。祭神は底筒男神・中筒男神・表筒男神の住吉三神で、相殿に八千戈神を祀る。摂社に軍越くさごえ神社、末社に厳島神社などがある。当社を含めた島民の巡拝があり、七社参りとよばれる。神功皇后が新羅への出兵に際して住吉大明神の加護で勝利を得たとして、帰国に際して御津みつ浜に寄った皇后が祀ったのが始まりで、のち現在地に移ったと伝える。海上交通の守護として創祀されたのであろう。延暦七年(七八八)五月に勅使があって幣帛を奉納したというが、確認できない(芦辺町史)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]東条町秋津

清水しみずにある。祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長足姫命。旧郷社。常田つねだ古家ふるけ西戸さいど横谷よこだに貞守さだもり長井ながい少分谷しようぶだに長谷ながたに黒石くろいし地区の鎮守。もとは岡本おかもともり地区も氏子であり、古くは森村にあった。秋津百石踊(雨乞踊)の発祥は三韓出兵の際に神功皇后が当社に戦勝を祈願し、帰路にも立寄り、旱魃のとき神前に舞踊を奉納すれば降雨があると教えたことによるという。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]藍住町住吉

吉野川北岸約一キロ、字神蔵じんぞうにある。旧郷社。主祭神筒男三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)と神功皇后。摂社として蛭子えびす神社以下三社五柱を合祀する。幕末までは住吉明神・住吉四所大明神とよばれた(寛保改神社帳など)。創建については、社伝では承安二年(一一七二)とし、「板野郡誌」では正安二年(一三〇〇)に摂津国住吉神社の神官津守国房が勧請したとしている。「住吉神社縁起」では、元暦二年(一一八五)源義経は讃岐屋島やしま(現香川県高松市)攻めを前に吉野川渡河の際、白鳥に化した住吉神の導きによって無事渡り終えたことから、この功により後白河法皇の勅命で建立されたとしているが、前掲社伝とは創建年代や創建事情にも疑問があるうえに、長宗我部氏の侵攻により社殿古記もことごとく焼失したとも記していることからして、後世に義経伝説に付会したものであろう。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]三田市大川瀬

大川瀬おおかわせの中央、曾根そね山に鎮座する。祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后。旧村社。神功皇后が新羅征討に赴く際、住吉大神の霊告を感じて当地に奉祀したとの創祀伝承がある。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)によれば、摂津住吉社の二一ヵ年ごとの造替にかかわる諸役・諸費用が黒田くろだ(現黒田庄町)味間あじま(現篠山市)重国しげくに(現西脇市)内上うちかみ庄などに配分賦課されていた。「住吉大社神代記」によると、神領は船木連の遠祖神田田命の所領で東は味間・日出坂ひでさか藍大路あいおおじ、南は奈波加佐なばかさ、西は木庭多可こばたか、北は阿知万西あちまに・栗造こないまでであったという。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]四條畷市上田原

上田原かみたわらの南東部、天野あまの川上流左岸近くの字みやにある。広域な雑木林を背にして東面、神楽舞台・拝殿・本殿などが並ぶ。本殿は檜皮葺三間社造、本殿の両側に末社が各一、さらにその西方に末社一がある。祭神は住吉四神。旧村社。上田原・下田原立会の産土神。創祀時期は不明だが、天野川中流、現交野かたの市の磐船いわふね神社(住吉四神を祀る)の分霊を勧請したと伝える。磐船神社は舟形岩を神体とするが、その巨岩は饒速日尊が天祖の意を受けて天の磐船に乗り、河内河上哮峰たけるのみねに天降った、その磐船と伝えられている。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]三郷村大字温 楡

楡の黒沢にれのくろざわ川氾濫原にある。

住吉庄一八郷の鎮守。三社または五社を称し、表筒男命・中筒男命・底筒男命の三神のほかに神功皇后・健御名方神を合祀。

<資料は省略されています>

右の住吉神社蔵文書に示したように永禄一〇年(一五六七)某氏は当社造営のために住吉郷中から軒役一〇文の徴収をしてこれを寄進している。

慶長二〇年(一六一五)四月八日松本城主小笠原秀政は当社神主(惣助)に対して御宝殿造営のために三段歩の寄進をしている(楡共有文書)。文禄年代(一五九二―九六)に社領七石。これは穂高神社に次ぐ待遇である。寛文検地帳によれば、下田三段二畝四歩、太鼓免五畝歩が除地。

住吉神社
すみのえじんじや

[現在地名]小樽市住ノ江二丁目

旧県社。祭神は底筒男神・中筒男神・表筒男神ならびに息長帯姫命。鎮座地は近世のヲタルナイ役所下にあたる。一七四四―四八年(延享年間)頃創立の山ノ上やまのうえ三本木さんぼんぎの弁天社(のちの厳島社)が前身とも伝える(明治一八年「神社明細帳」小樽市立図書館蔵)。一八六四年(元治元年)七月箱館八幡宮神主菊池重賢がヲタルナイ、タカシマ両場所の鎮守として住吉大神一社造営を箱館奉行所に出願、六五年(慶応元年)六月許されて造営が決まった。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]下京区住吉町

住吉町の北東角に所在し、祭神は天照あまてらす大神・田霧姫たぎりひめ神・底筒男そこつつのお神・中筒男なかつつのお神・表筒男うわつつのお神・神功皇后・武内宿禰たけしうちのすくね。もとは藤原俊成が五条室町むろまち(現下京区)の邸内に勧請したという歌道の神新玉津島にいたまつしま神社であったが、応仁の乱に荒廃。永禄一一年(一五六八)正親町天皇の命により当地に遷座したと伝えるが(坊目誌)、新玉津島神社も旧地の玉津島町に再興されて鎮座する。同社とともに歴代の天皇が歌道伝授の際には勅使を派遣したと伝える。現在の社殿は天明大火後の再建で、境内に末社人麿ひとまろ社がある。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]宮崎市塩路

佐土原さどわら町との境界近くの海岸付近に位置する。祭神は表筒男神・中筒男神・底筒男神。旧村社。塩路しおじ明神・北山明神ともいう。大阪市住吉区の住吉大社、福岡市ひがし区の志賀海しかうみ神社とともに住吉三神として名高い。寛政五年(一七九三)の住吉大明神縁起(宮崎県史蹟調査)では孝安天皇時代の創建という。祭神の三神は伊邪那岐命が黄泉国から逃帰り阿波岐原あわきがはらで禊ぎ祓うことで出現した神で、伊東義祐の飫肥紀行では「日向記」に「アハキカ原ノ波間ヨリ顕レ出シ住吉ノ神、住吉ノ里モチカウ見ヘワタリ、八重ノ塩路ノ松ノ秋風冷々トシテ袖吹送ル」と記される。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]萩市大字浜崎町

町の西に鎮座する。祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后。旧県社。

承応元年(一六五二)浜崎町の北国問屋松本忠兵衛が大坂に航行の途中播磨灘で暴風に遭い、住吉明神に立願して助かり、同三年住吉大社(現大阪市住吉区)から鶴江つるえ台の恵美須えびす森に勧請、万治二年(一六五九)現在地に遷座した。以後歴代藩主や庶民に尊崇され、とくに浜崎港出入りの商人や船人の信仰を集めた。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]東広島市高屋町造賀

盆地状を呈する造賀ぞうか川河谷のほぼ中央、西岸にある丘陵上に鎮座。祭神は上筒男命など三神。旧村社。承和元年(八三四)加藤三左衛門なる者が祀ったと伝える(賀茂郡志)。鎌倉時代の「安芸国神名帳」が賀茂郡四位七前の一つとしてあげる住吉明神に比定される。

延徳三年(一四九一)九月一七日の平賀弘頼預ケ状(平賀家旧記)に「造賀保西上経免参反大田之事、対元岱蔵主預申候、毎年住吉御経被懃、其外城誘段銭相当役之事、可被相拘候」とみえる。元岱は平賀弘頼の弟宗岳のことで高屋堀たかやほり村にあった円満えんまん寺の寺主であったが(「平賀氏系譜」同家文書)、住吉神社にもかかわっていたことが知られる。この時彼に預けられた上経免は、天文一二年(一五四三)一一月二三日の元嘉侍者禅師宛平賀氏奉行人連署坪付(平賀家旧記)にもみえるが、おそらく当社の南を流れる川が造賀川と合流する辺りの京免きようめん(芸藩通志)のことであろう。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]幌泉郡えりも町字本町

本町ほんちよう市街中央部北東寄りの奥地にある。表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神を祀り、例祭日は九月一五日(えりも町史)。一八一四年(文化一一年)ホロイツミ場所請負人である箱館の島屋佐次兵衛の勧請とされる(「明治神社誌資料」など)。ただし文化六年の「東行漫筆」によると、当時すでにホロイツミには弁天社とともに住吉社が祀られていた(同年四月一六日条)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]三次市三次町

西城さいじよう川が馬洗ばせん川に合流する地の西岸に鎮座する。祭神は綿津見命。鎮座地は近世岩神いわがみ渡のあった所で、三次勘定奉行支配であった三次から高田郡吉田よしだ(現吉田町)へ通う川船が、町方へ払下げとなった宝暦八年(一七五八)町方川船持主たちが摂津国の住吉神社を勧請したもの。初め上里あがり寺戸の福谷てらどのふくたに山麓に祀ったが、文化一一年(一八一四)十日市とおかいち町弁財天社の対岸、五日市いつかいち町南端河原かわら町の現在地に遷座し、河原町の町名も住吉町と改まった(国郡志下調書出帳)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]弘前市住吉町

住吉町内南側にある。明治初年の社名は護穀ごこく神社。祭神は保食神。旧村社。

津軽一統志」に、宝永五年(一七〇八)富田とみた村領に住吉大明神社地をおいたとあり、当初は住吉神を祀る神社であった。寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(市立弘前図書館蔵)によれば、社地付近に五智如来ごちによらい堂があり、また延宝五年(一六七七)弘前惣御絵図(同館蔵)普光ふこう院とある。明治三年(一八七〇)の弘前図(八木橋文庫蔵)によれば、社地の付箋に普光寺住吉宮境内とあり、神仏習合した形で経過してきたのであろう。護穀神は寛延三年(一七五〇)に六代藩主津軽信著が勧請したという(新撰陸奥国誌)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]盛岡市住吉町

盛岡天満宮の南西に位置する。祭神は上筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后。別当は津守越後で、航海安全の神として信仰された(内史略本「盛岡砂子」など)。もとは下厨川しもくりやがわ境田さかいだ川原に鎮座した古社で(一説に源義家の勧請という)、寛政(一七八九―一八〇一)の頃に商船が行方不明になったとき卜者がいろいろと占っても不明で、当社の別当の霊感によって行方が判明したところから、商人たちに大いに信仰が起こり、新庄しんじよう村のふじもりの地を願上げて、同七年頃に新たに社殿を建立して遷座した(同書)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]青梅市住江町

稲荷いなり山に鎮座。祭神は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命および神功皇后。旧郷社。住吉山延命えんめい寺蔵の応安二年(一三六九)六月銘の銅製棟札に「当山鎮守四社住吉大明神」とあり、本地仏は観音菩薩と記される。江戸時代は青梅村の総鎮守。寛文八年(一六六八)の青梅村屋敷検地帳(青梅市郷土博物館蔵)では住吉明神免として畠二畝余・屋敷一反一畝余、別当は大福だいふく院とある。正徳六年(一七一六)建立の本殿は一間社造の変形春日造檜皮葺で、和泉国の貝塚作右衛門作(棟札銘)。彫刻彩画布下地朱漆塗の華麗な社屋。拝殿は文政七年(一八二四)の勧化帳(当社蔵)によれば、江戸の三井家や内藤新宿・新吉原しんよしわらからの勧化などもあって、組物彫刻も華麗な造営がなされた。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]西脇市比延町

比延ひえ町の西部、加古川東岸(旧別所村域)にある。祭神は上筒男命・中筒男命・底筒男命・気長足姫命。旧村社。社伝によれば、最初下比延の南のりゆうヶ峰に勧請され、その後明神芝みようじんしばに移建、弘安二年(一二七九)当地へ移されたという(西脇市史)。天正九年(一五八一)三月二二日、伊藤秀盛が羽柴秀吉の武運長久を祈念して灯明田二反を寄進(「伊藤秀盛判物」比延住吉神社文書)、同一一年九月一六日羽柴長秀(秀長)が同田を安堵し(「小堀新介下代等連署奉書」同文書)、慶長五年(一六〇〇)池田輝政が改めて灯明田二反を寄進している(「野間久次灯明田等寄進状」同文書)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]篠山市今田町本荘

荘中しようなかに鎮座。祭神は底筒男命のほか、大歳神・天児屋根命・火結神。旧村社。創建年代は未詳ながら、黒石の住吉社から古面を神霊として分祀されたため、めんの宮とも称されたという。「多紀郡明細記」に住吉大明神とあり、別当寺は天台宗清水きよみず(現社町)末の神宮じんぐう寺で、祭礼日は九月九日。明治四一年(一九〇八)本荘の西光ほんじようのさいこう寺荒神神社、荘中の大歳おおとし神社、しばかわの春日神社を合祀、境内に牛頭天王社・島姫しまひめ神社・太神宮社・稲荷社・愛宕社・大歳社・天満宮を祀る(兵庫県神社誌)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]村松町村松 寺町

日枝神社の北隣にある。祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命のほか村松藩太祖奥田氏種・同太宗堀直寄を合祀。旧村社。大同元年(八〇六)勧請という。正保二年(一六四五)藩主堀直吉が宗祖の霊を配祀。当社はもと町の北にあたる現在の秋葉あきば町辺りにあったが、寛文二年(一六六二)八月に直吉により臥龍がりゆう山東の太子たいし山に遷座。さらに同四年五月宰臣堀玄蕃直常が現在地に奉遷。同年一〇月に本殿・祝詞殿・拝殿を新営しかつ社領米年年五石宛を寄進。造営にあたった宮大工の小黒杢右衛門は、寄木造の高砂翁媼を彫り、神社に奉納。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]美津島町鴨居瀬

鴨居瀬かもいせあか崎の間の狭い水道、住吉の瀬戸に面して鎮座。祭神は鵜葺草葺不合尊。旧郷社。社伝ではけちの住吉神社は当地から勧請したとされ、「延喜式」神名帳に下県郡一三座の一つとしてみえる住吉神社に比定する説がある。しかし祭神が筒之男ではなく、和多都美の神で、また豊玉媛の伝説を語り伝え、出産のときのたまと称する遺跡があるなど、住吉にはふさわしくない。延徳二年(一四九〇)九月一一日の宗茂勝書下(与良郷宗家判物写)に「せとのすミよしのミやうふ」とみえ、瀬戸の住吉と称されていた。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]篠山市今田町木津

古寺垣内ふるてらがちに鎮座。旧村社。祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命および神功皇后。創建年代は未詳ながら、黒石くろいしの住吉神社から分霊を勧請するに際して笠を霊代としたことから笠の宮とよばれているという。「多紀郡明細記」に住吉大明神とあり、高二石余は承応二年(一六五三)の検地で除地にされたという。祭日は「丹波志」で九月九日とするが、「兵庫県神社誌」では一〇月一七日、現在は一〇月一〇日。この一〇月一〇日の九月頭(九月当とも。表頭)と、正月二日の正月頭(正月当とも。裏頭)があったが、昭和二六年(一九五一)まで宮当とよばれるものがあり、木津こつ中の氏子三九軒の長男で構成され、頭人は四月三日玄関にお刷毛を立て、宮守を一ヵ年勤めた。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]名和町御来屋

宮の前屋敷みやのまえやしきに鎮座する。旧郷社。古来摂津大明神などと称されたが、明治四年(一八七一)現社名に改称された。祭神は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命ほか五神。創祀年代は不詳であるが、摂津国の住吉社の分霊を祀ったと伝える。「伯耆民談記」には元弘三年(一三三三)に「後醍醐天皇此地に御着船の時、先つ当社に行幸ありて、奉幣し玉ひ、聖運を開かせ玉ふ」とみえる。近世は西にししよう大社とも称したが、宝永六年(一七〇九)には正一位住吉大明神と改称した(県神社誌)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]柵原町大戸上

本山ほんざん川左岸、愛宕あたご山南東麓に鎮座。祭神は中筒之男命。旧村社。「作陽誌」には大戸だいと村の項にみえ、大戸村西半分と定宗さだむね村の氏神とある。「美作国神社資料」によると、本殿は万治二年(一六五九)に建立。口碑では元徳二年(一三三〇)塚角の轟つかつののとどろき城主入江弾正が当社を氏神として崇敬し、社領を寄付し祭神に供えたという。今も毎年祭祀の神饌が古式のまま行われ、御供田の新穀をもって赤飯一二台・神酒二樽を供献する例になっている。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]篠山市今田町上小野原

井根口水谷いねぐちすいたに山に鎮座。蛙の宮とも称した。旧村社。祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命および神功皇后と、応神天皇・天児屋根命・倉稲魂命。平安期から摂津住吉神社領であった小野原おのばら庄のうちでは早くに創立された住吉社といわれ、文保年間(一三一七―一九)の勧請と伝える(兵庫県神社誌)。「多紀郡明細記」には住吉社として境内山林二町で、高四石余は承応二年(一六五三)の検地で除地とされたという。別当寺は播磨清水きよみず(現社町)末の神宮じんぐう寺。祭礼日は八月一五日で、この八幡祭で奉納されていた神舞は中世の田楽の風を伝えるものとされ、紺地黒地の大広袖の素袍に鶴亀を白く染め抜いたものを付け、かつては烏帽子を用いていたという。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]いわき市小名浜住吉

字住吉にあり、祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命で、旧郷社。「延喜式」神名帳の磐城郡七座の一つで、神名帳に載る住吉神社は全国で当社のみである。社伝によると武内宿禰が海上で暴風雨にあい、住吉神に祈り、のちいそ山に勧請したという。海上安全の神として信仰される。社殿は三間社流造で、寛永一八年(一六四一)泉藩主内藤政晴が泉藩の武運長久を願って建立。桃山文化の遺構を伝える江戸時代初期の建築として、本殿(付)棟札・木簡八枚は県指定重要文化財。棟札・木簡によれば寛永一八年の建立は二月二七日に始まり、六月一九日終了、八月五日に遷宮している。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]長浜町長浜

国鉄予讃本線伊予長浜駅西方の御建おたて山にあり、表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神と大帯姫命(神功皇后)の四柱の神を祀る。旧県社。

元和三年(一六一七)大洲に入封した加藤貞泰は、長浜を藩の表玄関港としたのち、元和五年海上守護神として長浜町沖浦おきうらにあった住吉大明神を御建山麓に勧請し、船舶航海の安全と港長浜の繁栄を祈願した(明暦二年住吉宮由来)。大洲二代藩主泰興は、明暦元年(一六五五)本社殿を建築し(承応四年九月吉祥日の棟札)、寛文八年(一六六八)一町四反余の社領を寄進した。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]会津若松市材木町一丁目

材木ざいもく町の西へ少し入った所にあり、西側を応湖おうご川が流れる。祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后。至徳元年(一三八四)簗田盛胤がこの地に居住し、大坂の住吉大社の分霊を勧請、黒川くろかわの市神とした。文禄元年(一五九二)蒲生氏郷の城下町建設に協力した簗田藤左衛門はその功によりおお札之辻ふだのつじに二千数百坪の敷地を賜った(新編会津風土記)

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]末吉町二之方

うばヶ岳にある。旧県社。「三国名勝図会」によれば、住吉大明神社の祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命で、住吉山の中腹に鎮座するが、頂上に中間より二つに破裂して日向・大隅二州の境界を示す姥石があり、山中に松・樟・椎の各七株合せて二一株の神木があったという。慶長五年(一六〇〇)三月吉日の北郷忠能願文写(都城島津家文書)に末吉の「住吉大明神」とみえる。鹿児島藩主の尊崇も厚く、慶長年間には島津義久・家久の参詣があって和歌を奉納しており(「夏日詠松間郭公和歌」社蔵)、嘉永六年(一八五三)には島津斉彬も参詣している。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]岡崎市中島町 住吉西

中島なかじま地籍の南に位置する。祭神は中筒男命。社伝では永和五年(一三七九)に藤原貞時が摂津国から勧請し、社号を堺郡神社と称するという。後に住吉大明神と改称。「三河志」は「小園村住吉大明神社 領三石 神主牧甚右衛門」とある。文化九年(一八一二)に神主牧甚右衛門が提出した由緒書には「神君様永禄三庚申年、度々小園江御成之節、当社へ御参詣被遊、其節御紋付提灯拝領仕候」とある。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]川上村大字東川小字高佐垣内

高佐垣内たかさがいとの小丘に鎮座。祭神は表筒男うわつつのお命・中筒男なかつつのお命・底筒男そこつつのお命。伝後亀山天皇の皇子小倉宮実仁親王の廟所で、小倉宮・自天王・忠義王を合して三筒男神として祀ると伝える(川上村史)。住吉大明神ともよび、毎年二月四日慰霊祭が行われている。元禄一三年(一七〇〇)の吉野郡東川村五垣内役人書上記録(東川区有文書)に「長禄之丑年に自天親王奉葬御陵有之。

住吉神社
すみよしじんじや

白山神社の末社で、菊理媛命・表筒男命など七神を祀る。はじめ洲崎すさき町に祀られたが延享(一七四四―四八)頃白山境内に遷座、安永七年(一七七八)再興という。七月初めに行われる住吉神社の祭礼は湊祭と称し、新潟町最大の祭で、七日の町廻りがことに盛大なため七夕祭ともよばれる。近世中期に始まるといわれ、天保一四年(一八四三)の新潟町明細帳(新潟町会所文書)にも「住吉神輿、六日白山宮より御旅所洲崎町引移り、七日町中相廻り、昼屋台笠鉾等町中相廻り、夜額灯籠等町中湊口辺迄相廻り申候」とある。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]唐津市神集島

神集かしわ島の南西の宮崎の砂州の突端にあり、主祭神として表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神を祀る。旧村社。

縁起によれば、神功皇后が朝鮮出兵の時、神集かしわ島に神神を集め、干珠・満珠を納めて海上の安全を祈ったという。神集島の弓張ゆみはり山に鎮座していたのを元禄七年(一六九四)現在地に遷宮し、いま干珠・満珠の神宝を蔵する。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]西淀川区野里一丁目

住吉大神を祭神とする。旧村社。永徳二年(一三八二)将軍足利義満の勧請と伝え、近世には野里のざと村の産土神。境内社には五座相殿社・事平神社・稲荷神社がある。明治初年までは約一町の神田があり、その所得米一八石を例祭の支出にあてていた。例祭は「野里の一夜官女」と称する特殊神事で、府指定選択民俗資料。「摂津名所図会」に「住吉の例祭の時、この里の民家より十二、三ばかりの女子に衣裳を改め神供を備ふ、これを野里の一夜官女といふ、むかし御手村一双の地にして例祭厳重なり、今はその形ばかりを行ふ」と記す。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]佐世保市広田町

早岐はいき瀬戸に臨んで鎮座する。古くは住吉大明神などと称され、西海総社住吉宮ともよばれた。旧郷社。祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神。景行天皇の征西に関連する神社とも、弘仁一四年(八二三)嵯峨天皇の手になる木像を祀ったとも伝えるが、未詳。彼杵そのき郡の宗廟として大村氏をはじめ、一六世紀中期以降の松浦氏などの崇敬を集め、江戸時代には平戸藩の庇護を得て例大祭には代参や奉幣が行われたという。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]肥前町大字納所字西ノ川

納所のうさ集落のほぼ中央に位置する。旧郷社。住吉三神を祀る。文永元年(一二六四)の創建と伝える。

神社縁起によれば、佐登ばばという者の夢に白髪の翁が現れ、我は住吉大明神なり、今海中にあり、早く引き揚げよと告げた。一二月二〇日、大納所という磯辺の海中で異光を放つ鏡を見つけ、帰路につく途中みやの岳で鏡が重くて動けず、そこに祠を作って祀った。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]滝野町河高

加古川の右岸にある。祭神は表筒男之命・中筒男之命・底筒男之命・息長足姫命。旧村社。享禄四年(一五三一)の住吉大明神銘のある本地仏があるので、創建は中世にさかのぼると思われる。境内に巨石があり住吉大明神の休息石という。凝灰岩製の明神鳥居は柱の木割が太く、丈の低さに特徴がある。

住吉神社
すみよしじんじや

[現在地名]宇土市住吉町

表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神と気長足姫命・大海津見神・健磐龍神・菊池則隆公を祭神とする旧県社で、例祭は一〇月一三日である。社伝によれば、延久三年(一〇七一)肥後国司菊池則隆が海上安全の祈願所として祀ったのが始まりで、寛文一三年(一六七三)細川綱利によって再建された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「住吉神社」の意味・わかりやすい解説

住吉神社 (すみよしじんじゃ)

山口県下関市楠乃に鎮座。表筒男命荒魂(うわつつのおのみことのあらみたま),中筒男命荒魂,底筒男命荒魂を主神とし,応神天皇,武内宿禰,気長足姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后),建御名方命を配祀する。主神は住吉神で伊弉諾(いざなき)尊が筑紫で禊祓をしたとき出現した神と伝えられ,神功皇后の三韓遠征のときその船を守護,凱旋ののち,その三神の神誨により,穴門(あなと)の山田の邑,すなわち現在地にまつり,穴門の直(あたい)の祖践立(ほんたて)を神主としたと伝えられている。886年(仁和2)には神階は正四位下となり,《延喜式》に〈住吉坐荒御魂(すみよしにますあらみたま)神社〉と記され三座ともに名神大社,のち長門国一宮。武家時代に武家が多く神領を寄進,江戸期に藩主毛利氏が社殿造営に当たった。明治の制で官幣中社。例祭12月15日,その前,同月8日より当日までの御斎祭(おいみさい)ほか和布刈(めかり)神事など特殊神事が多い。
執筆者:

住吉神社 (すみよしじんじゃ)

福岡市博多区住吉に鎮座。底筒男(そこつつのお)命,中筒男命,表(うわ)筒男命を主神とし,天照皇大神,神功皇后を配祀する。主神は日本神話で伊弉諾(いざなき)尊が黄泉(よみ)の国より帰り,筑紫日向小戸橘之檍原(つくしのひむかのおどのたちばなのあはぎがはら)で禊祓をしたとき出現した神であり,神功皇后三韓遠征のときにも援助した神と伝えられ,それより長門,摂津にも神託により勧請された。すなわち全国約2100社の住吉社の元祖で,延喜の制で名神大社,のち筑前国の一宮となる。中世初頭は武将の崇敬,保護をうけたが,戦国期に社領を押領されて衰微,のち近世に入り藩主黒田長政以下に保護された。明治の制で官幣小社。例祭10月13日を相撲会祭といい,ほかにも7月30日から行われる夏越(なごし)祭など特殊神事が多い。
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住吉神社 (すみよしじんじゃ)

長崎県壱岐市の旧芦辺町に鎮座。表筒之男(うわつつのお)命,中筒之男命,底筒之男命を主神とし,八千矛神を配祀する。主神は伊弉諾(いざなき)尊が禊祓したときに出現したと伝える住吉三神で,神功皇后の三韓遠征のとき功績のあったことから,皇后帰還ののち大陸との交通上の要地の神として奉斎したと伝える。延喜の制で名神大社,中世以降も重視され,多くの社領を寄せられていた。近世に入り平戸藩主松浦(まつら)氏が崇敬保護,社殿の造営にも当たった。明治の制で国幣中社。例祭4月11日を春の祭とし,11月9日を秋の祭とする。第2次大戦前まで軍越の神事などの特殊神事があったが,現在はない。
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百科事典マイペディア 「住吉神社」の意味・わかりやすい解説

住吉神社【すみよしじんじゃ】

墨江三前(すみのえのみまえ)大神,住吉(すみのえ)神とも。底筒男(そこつつのお)命・中筒男命・表(うわ)筒男命の3神をまつった神社。3神は《日本書紀》では伊弉諾(いざなぎ)尊が筑紫で禊祓(みそぎはらえ)をしたとき生まれた神で,神功皇后征韓の役の時,その和魂(にぎみたま)は皇后の寿命を守り,荒魂(あらみたま)は船を先導したという。海上守護と開運の神として信仰される。→住吉大社(1)山口県下関市一宮に鎮座。旧官幣中社。3神の荒魂をまつる。延喜式内の名神大社とされ,長門国の一宮。例祭は12月15日のほか旧1月1日の和布刈(めかり)祭,5月中旬の御田植祭などがある。(2)福岡市博多区住吉に鎮座。旧官幣小社。3神の和魂をまつる。延喜式内の名神大社とされ,筑前国の一宮。例祭10月13日。10月12〜13日の相撲会(すもうえ)祭,11月7日の歩射祭などがある。(3)長崎県壱岐市に鎮座。旧国幣中社。3神の和魂をまつる。延喜式内の名神大社とされる。例祭は11月9日。1月17日,5月28日,10月27日には軍越(いくさごえ)神事がある。
→関連項目和布刈神事

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デジタル大辞泉プラス 「住吉神社」の解説

住吉神社〔東京都〕

東京都中央区にある神社。旧郷社。「佃住吉神社」ともいう。1646年創祀。祭神は底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中筒之男命(なかつつのおのみこと)、表筒之男命(うわつつのおのみこと)(住吉三神)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと)(徳川家康)。

住吉神社〔山口県〕

山口県下関市にある神社。延喜式内社。主祭神は住吉大神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒(なかつつ)男命、表筒(うわつつ)男命の3神)。長門国一之宮。室町時代初期建造の本殿(国宝)、拝殿・銅鐘(国の重要文化財)など多くの文化財を所有。

住吉神社〔広島県〕

広島県広島市にある神社。1733年創祀。祭神は表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)。航海安全、交通安全や縁結びの神として信仰を集める。

住吉神社〔福岡県〕

福岡県福岡市にある神社。延喜式内社。祭神は住吉神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒(なかつつ)男命、表筒(うわつつ)男命の3神)。筑前国一之宮。住吉造の本殿は国の重要文化財に指定。

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旺文社日本史事典 三訂版 「住吉神社」の解説

住吉神社
すみよしじんじゃ

大阪市住吉区住吉町にある神社。祭神は底筒男 (そこつつお) 命・中筒男命・表 (うわ) 筒男命・神功皇后
神功皇后三韓征討の折,霊験を現したので建てられたという。国家安泰・航海安全の守護神として信仰厚く,今でも大阪一円の総氏神として信仰を集めている。本殿は住吉造。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「住吉神社」の意味・わかりやすい解説

住吉神社
すみよしじんじゃ

山口県下関市にある元官幣中社。住吉大神を当初の祭神とし,神功皇后の創祀と伝えられる。本殿は応安3 (1370) 年,大内弘世の造営で,九間社流造 (きゅうけんしゃながれづくり) の長大な建築。室町時代の神社建築の遺構として貴重であり,国宝。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

防府市歴史用語集 「住吉神社」の解説

住吉神社

 御船手組[おふなてぐみ]の人たちに海の神様としてあがめられていた神社です。最初はほこらだけでしたが、1715年に神社がつくられました。なお、境内にある燈台[とうだい]は1863年につくられたものです。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

事典・日本の観光資源 「住吉神社」の解説

住吉神社

(福岡県福岡市博多区)
日本三大住吉」指定の観光名所。

住吉神社

(長野県安曇野市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

住吉神社

(山口県下関市)
日本三大住吉」指定の観光名所。

住吉神社

(兵庫県神戸市灘区)
灘百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の住吉神社の言及

【和布刈神事】より

…一般には和布刈祭と呼ばれており,旧暦の大晦日夜半から元旦にかけて同時に,山口県下関市住吉神社と福岡県北九州市門司区の和布刈神社(隼人明神,早鞆(はやとも)様とも呼ばれる)で行われる神事。両神社とも神功皇后の三韓征伐伝承に深い関係をもつといわれ,住吉神社の社伝では最初の神主践立(ほんだち)命が神功皇后の命により壇ノ浦の和布(ワカメ)を刈り,元旦の供え物としたことから始まるとされる。…

※「住吉神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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