中央(区)(読み)ちゅうおう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中央(区)
ちゅうおう

東京都区部の中央、東は隅田川(すみだがわ)、南は東京湾に臨む区。1947年(昭和22)京橋・日本橋の2区が合併して中央区となる。区名のように区部の中央にあり、千代田・港の2区とともに都心部を形成している。旧区名が示すように低地で川や堀割が多く、橋が多く架けられていた。江戸初期、現在の浜町―江戸橋―京橋を結ぶあたりに海岸線があり、多くが浅海であった。1603年(慶長8)ごろから埋立てが始まり、神田山(千代田区駿河台(するがだい))を切り崩した土で豊島洲崎(としますさき)が埋め立てられ、浜町以南から南新橋までが造成された。常盤(ときわ)橋付近が、初期の江戸湊(みなと)であったが、平(ひら)川を延長して日本橋川を開き、日本橋、京橋、銀座地区を整備して町屋とした。1601年金座が本町(ほんちょう)1丁目(現在の日本銀行本店所在地)に置かれ、1612年駿府(すんぷ)の銀座を京橋以南の地に移し、銀座ができて、新両替(しんりょうがえ)町または銀座町ともよばれた。日本橋を中心に江戸の経済が動き、問屋街は旧奥州街道沿いに発展し、本町、室(むろ)町、日本橋のほか横山町の小間物など問屋街が続いていた。多くの堀割には河岸(かし)があり、全国からの物資が運ばれた。明治初年には築地(つきじ)に外国人居留地が開かれ、文明開化の先駆をなした。
 銀座は1872年(明治5)の大火焼失を契機として、1877年れんが造の不燃建築街に生まれ変わり、商業の中心地となった。その後、日本橋付近から銀座にかけて三越(みつこし)、東急(旧、白木屋(しろきや))、高島屋、松屋、松坂屋などのデパートが建ち並ぶようになり(東急日本橋店は1999年閉店)、現在、老舗(しにせ)の専門店とともに商店街を形成している。一方、日本橋本石(ほんごく)町・室町には日本銀行本店をはじめ銀行の本店や支店などがあり、兜町(かぶとちょう)は証券取引所を囲んで株屋の街となっている。江戸時代、日本橋にあった卸売市場は、関東大震災後、南の築地へ移転した。
 第二次世界大戦後の自動車時代を迎えて堀割の多くは埋め立てられ道路にかわった。現在は総武(そうぶ)本線、京葉線などのJR各線や、東京メトロ銀座線・日比谷(ひびや)線・丸ノ内線・有楽町(ゆうらくちょう)線・東西線・半蔵門線、都営地下鉄浅草線・新宿線・大江戸線が通じる。江戸時代、五街道の起点となった日本橋には日本国道路原標があり、現在も国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号の起点となっている。ほかに首都高速道路都心環状線、1号上野線、6号向島線、9号深川線などが通じている。
 佃煮(つくだに)で知られる佃島(現、佃1丁目)は隅田川河口の三角州で、摂津(せっつ)(大阪府)佃村から移った漁民の居住地だった所。その北に接する石川島(現、佃1~2丁目)は幕末に造船所が立地し、石川島造船所として、1939年(昭和14)深川区(現、江東区)豊洲へ移転するまで続いた。第二次世界大戦後も石川島播磨(はりま)重工業(現、IHI)の佃工場があったが、1979年(昭和54)閉鎖された。跡地は再開発(1982年計画決定、1986年着工)が実施され、超高層住宅が建ち並ぶ「大川端リバーシティ21」となり、東京のウォーターフロント開発の先駆けとなった。佃島の沖合いに月島、晴海(はるみ)、豊海(とよみ)が埋め立てられ、東京港の一部となっている。
 区域には、潮入り池を中心とする回遊式臨海庭園の浜離宮恩賜公園(特別名勝および特別史跡)、筑後(ちくご)(福岡県)の久留米(くるめ)藩主有馬(ありま)氏が国元から勧請(かんじょう)した水天宮(すいてんぐう)、桃山風建築の歌舞伎座(かぶきざ)(2013年歌舞伎座と歌舞伎座タワーの複合施設竣工)、インド仏教様式伽藍(がらん)の築地本願寺、跳橋(はねばし)形式で隅田川に架かる勝鬨橋(かちどきばし)(現在は開閉されていない)、佃島の住吉神社などがある。面積10.21平方キロメートル(一部境界未定)、人口14万1183(2015)。[沢田 清]
『『中央区史』全3巻(1958・中央区) ▽『図説中央区史』(1998・中央区)』

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