狭義には外界にあって感覚的に知覚されうる物体を指すが,広義には現実に存在する事実であれ思考対象であれ一般に何らかの存在を指す言葉。また,日本語の用法では,魂,鬼,妖怪のようなものを直接名指すのを避け,〈もの〉〈物の怪(け)〉などと呼ぶこともあるし,〈大物〉〈小物〉など比喩的には人間に関しても用いることがある。ここでは狭義の物に限って考えてみたい。
西洋においても〈物〉という概念はきわめて多義的であり,そのとらえ方も多様である。そのいくつかを列挙してみよう。
(1)一般に原始社会では,動物や樹木はもとより山や岩のような無機物,さらには丹精をこめて造りあげられたり使い慣らされたりした道具など製作物にさえ霊魂が宿ると考えるアニミズム的思考が支配的である。古代の日本人が万物を〈葦牙(あしかび)の萌(も)え騰(あが)るが如く成る〉ものと見たり,古代ギリシア人が万物をその内蔵する原理によっておのずから生成(フュエスタイphyestai)する〈自然(フュシスphysis)〉とみたのも,そのなごりであろう。こうしたアニミズムは文明人の思考のうちにも強く痕跡を残している。
(2)古代ギリシア以来の一つの伝統として,物を形相(エイドスeidos)と質料(ヒュレhylē)の合成体とみる見方がある。プラトンのイデア論がその典型であるが,彼にあっては形相は超自然的原理(イデア)に由来し,質料は自然的なものとみられ,事物の〈何であるか(本質存在)〉は形相によって,それが〈あるかないか(事実存在)〉は質料によって決定されると考えられている。こうした存在論はおそらく製作物の成立ちをモデルにして構想されたものであろう。ギリシア語のエイドスとヒュレはラテン語ではformaとmateria,ドイツ語ではFormとStoffと訳され,これらの用語とともに物の存在構造についてのこの考え方も中世・近代に受けつがれている。
(3)アリストテレス以来,物を経験に与えられる諸特性(シュンベベコスsymbebēkos)の担い手つまり〈基体(ヒュポケイメノンhypokeimenon)〉とみるとらえ方も一つの伝統になっている。シュンベベコスとは基体に付帯して〈共に居合わせるもの〉という意味である。このとらえ方は,ヒュポケイメノンが命題の〈主語〉をも意味するところから知られるように,命題の〈主語-述語〉という構造をモデルに構想されたものである。このヒュポケイメノンが,ラテン語でも〈下に置かれたもの〉という言葉のつくりをそのまま写してsubstantiaないしsubjectumと,シュンベベコスがaccidensと訳され,物をもろもろの特性の基体・実体とみるこの考え方も,中世のスコラ哲学やさらには近代哲学にも継承される。
(4)近代のロックなどにもこの種の考え方は残っており,彼は実体そのものに対しては不可知論的立場をとるが,それでも実体としての物体そのもののうちに実在する第一性質primary qualities(延長,形態,運動など)と,物体によってわれわれの心のうちに生ぜしめられる第二性質secondary qualities(色,音,味,香など)を区別したのに対し,経験論の立場を徹底するD.ヒュームは,経験に与えられることのない実体の想定を否認し,したがって実体を想定してのみ意味をもつ第一性質,第二性質の区別をも否定した。彼にとって〈物〉とは特定の感覚的所与の集合ないし関数関係を名指す名辞にすぎないことになる。こうした考え方は,19世紀末葉のマッハの現象主義や20世紀初頭のフッサールの現象学にも受けつがれている。
(5)物を微小な基本的要素,たとえば原子(アトム)の集合体とみる立場も古代ギリシアのデモクリトス以来一つの強い伝統になっており,現代の量子論によってさらに原子そのものの内部構造が問い深められることによって,ますます精緻に仕上げられつつある。この考え方の一つの変異体として,ライプニッツのようにその基本的単位を空間的広がりをもたぬ力の統一体(モナド)としてとらえる立場もある。
(6)ライプニッツのこの考え方はカントによっても受けつがれる。彼は人間の認識に与えられる物の〈現象Erscheinung〉と,その背後にある〈物自体Ding an sich〉とを区別するが,この物自体は意志つまりある種の力を本質とするものと考えられている。カントの思想を継承したショーペンハウアーは,物自体を明確に意志・意欲・生命力としてとらえている。
(7)興味あるものとして,〈物〉を高次に構成された〈構造〉ないし〈シンボル〉としてとらえる考え方がある。たとえば人間以外の動物の場合には,神経系の発達が最高度の段階に達しているチンパンジーにあってさえも,行動の対象はそのつどの生物学的環境のなかでの刺激の一定の布置,つまりその時々の現れにとどまる。ところが人間の場合には,現に与えられているその現れをただそれだけのものとして受けとるのではなく,現に与えられてはいないがかつて与えられたことのある現れや,あるいは与えられうる可能的現れと重ね合わせ,それらを相互に切り換えて,眼前の現れを,与えられうるであろう多様な現れの一つとして受けとることができる。つまり,現に与えられている構造(刺激の布置)を足場にして,その構造を一つの局面としてもちうるが,けっしてそれに尽きることのないいっそう高次の構造(さまざまな構造の構造ともいうべき〈物〉)を構成し,眼前の構造をその一局面としてとらえることができるのである。動物学者たちが,動物には対象を〈物として扱う態度〉が欠けているというときに考えられているのはこのような事態である。
してみれば,われわれにはきわめて単純な所与のように思われる〈物〉も,実は高次に構成された構造だと考えねばならないことになろう。そして,そうした構成作業を行うのは,与えられた刺激を足場にして,単なる信号にとどまらない〈シンボル〉としての記号を創出する,人間にのみ可能なシンボル機能なのだとしてみれば,〈物〉とはそうした機能によってつくられた一つの〈シンボル〉だということも許されよう。
→事 →物質
執筆者:木田 元