イネの種実をいう。収穫された米はもみ殻をかぶっており,これを〈もみ(籾)〉という。日本では,もみ殻をはずした玄米の形で包装,集荷,貯蔵するのが多いが,最近一部ではもみのばら集荷,貯蔵が行われている。外国では米はすべてもみの形で集荷,貯蔵される。玄米を精米機にかけて,ぬか層や胚芽を取り除いたものが精米(白米)である。米は小麦とともに人類の最も重要な食糧だが,小麦がロシアやアメリカなど冷涼で比較的乾燥した地域で生産されるのに対し,米は日本をはじめアジア南部など高温で水の豊富な地域で生産される。それらの地域では永年の間,主食として膨大な人口を養ってきた。
種類
(1)日本型とインド型 世界の米は日本型とインド型に大別される。この区別はイネの分類からきたもので,日本型は日本およびその周辺から中国北・中部に多く,エジプト,イタリア,スペイン,あるいは北・中・南米にもある。インド型は東南アジアから中国南部におもに分布し,インドやアメリカ南部でも作られている。インド型の米は日本型にくらべて粒形が細長く,飯に粘りがないのが特徴で,日本人の嗜好(しこう)にはあわない。
(2)うるち(粳)米ともち(糯)米 日本型,インド型のどちらの米にも,うるち米ともち米がある。飯に炊いて普通に食べるのがうるち米で,精米は半透明なものが多く,光沢がある。それに対して餅や赤飯にするもち米は,精米が白くて不透明である。米のデンプンはブドウ糖が鎖状に1列に並んでいるアミロースと,ブドウ糖が樹枝状に分かれた形をつくっているアミロペクチンからできており,うるち米デンプンではアミロース約20%,アミロペクチンが約80%の割合であるが,もち米デンプンではほとんどアミロペクチンだけであり,これが両者の大きな違いである。もち米のなかには精米にしたとき半透明で,うるち米と見分けにくいものがあるが,ヨード・ヨードカリ溶液で染色すると,うるち米は青藍色に,もち米は赤褐色に染まるので,簡単に区別できる。
(3)水稲と陸稲 うるち米,もち米ともに水田につくる水稲と畑につくる陸稲(おかぼ)がある。陸稲は日本では畑の多い関東や南九州におもに栽培されている。米の栄養価値のうえでは両者に大きな差はないが,陸稲の飯は粘りがないので,食味は水稲に劣るといわれている。
(4)硬質米と軟質米 米の乾燥を太陽熱による自然乾燥にたよっていた1945年ころまでは,太平洋側や四国,九州で生産される米は概して乾燥がよく,北陸,山陰,東北,北海道で生産される米は収穫時期の天候などの関係で多水分のものが多く,前者を硬質米,後者を軟質米と呼んでいた。火力を利用する人工乾燥が普及した今日でもこの習慣は続いているが,これは商習慣のうえからきた区分であり,必ずしも米粒の質の硬軟を意味していない。現在市場に流通している玄米の水分は,検査で一般にはその最高限度を15.0%としているが,北陸,山陰の米については0.5%,東北,北海道の米では1.0%,最高限度をあげており,軟質米についてはそれだけ水分の多いものが流通していることになる。また軟質米という言葉は清酒の原料になる酒造米でも使われているが,これは飯用の米とは違って,吸水が速く,こうじ菌のくい込みがよく,もろみで溶けやすい米を指しており,酒造米としては軟質であることがよい米の条件になっている。
(5)早期栽培米 東海地方以西の西南暖地,とくに中国,四国,九州地方において,東北,北陸地方の早生の稲を植え付けて,8月中に収穫する栽培法が1955年ころから普及した。これが早期栽培米で,そのおもなねらいは,台風による災害や秋落ち現象を防いで,米の生産の安定をはかることにあった。早期栽培米は当初,搗精(とうせい)歩留り(精白歩留りともいう)が低い,食味が悪いなどと評判がよくなかったが,その後,搗精歩留りや食味のよい品種を普及させることによって改善されている。なお,一般に9月中に市場に出回る米は早場米(はやばまい)と呼ばれる。
性状
もみ殻をとった玄米の構造は,外側から果皮,種皮,糊粉(こふん)層などのぬか層と呼ばれる部分と,米粒の基部に小部分を占める胚芽と,残りの大部分の胚乳からできている(図1)。果皮の表面には蠟様物質があって,害虫や病菌を防ぐといわれている。種皮の隔膜は酸,アルカリにかなり強く,半透過性隔膜の生理作用をもっており,米粒の内部を保護する役目をしている。糊粉層の細胞にはタンパク質と脂質が多量に集積している。また胚芽は発育してイネになる部分で,タンパク質,脂質,ビタミンB1に富む。胚乳は主としてデンプン粒でみたされ,精米(白米)として食用にする。以上の各部分の全粒に対する重量比は,ぬか層がほぼ5~6%,胚芽2~3%,胚乳が92%の割合になる。食用にするのは胚乳の部分であるので,玄米を精米機にかけて白米をつくると,その搗精歩留りは理論的には92%になるが,一般に市販されているものはもう少しついてあり,91%前後と考えられる。玄米の性状については,米の検査規格をみれば,どのようなものが流通しているか,また精米の原料としてどういう項目が重視されているか,およそ見当がつく。原料米としては搗精歩留りの高い,貯蔵性のすぐれた,食味のよい米が望まれるが,搗精歩留りの指標となるのは容積重,整粒,被害粒などであり,貯蔵性はおもに水分で示されている。しかし食味に関する項目は盛り込まれていない。
食味
米が栽培されてから消費されるまでには数多くの過程があり,多かれ少なかれ味に影響する要因としては,品種,産地,気象条件,栽培方法,収穫,乾燥,貯蔵,精米加工,炊飯などがあげられる。そしてそれらのなかでは品種,産地(気象条件を含む),栽培方法の三つがおもな要因であり,米の味はこれらによって形成される米自体の特質とみることができる。したがって,米の味にとって品種と産地はきわめて重要である。また収穫以後の炊飯に至るまでの諸操作においては,米の味を損なわないようにすることが必要である。例えばもみの火力乾燥では急速な乾燥を避け,穀温を40℃以上に上げないようにする。玄米の貯蔵では夏季でも低温貯蔵を行う。精米加工では調質,色彩選別,ブレンド(混米)などの技術を十分活用する。炊飯においては,水漬(すいし)時間,水加減,蒸らしなどに注意を払うことなどである。
1979年産米より生産者から政府が買い入れる価格に,1~5類に区分した品質格差が導入されたが,1・2類に該当するのは品種と産地が指定された銘柄米で,検査等級が1・2等のもので,これらが食味のよい米として選ばれている(表1)。なお,4類は青森県の中津軽郡などの一部を除く区域で生産された米と,東海地方以西で9月30日までに政府に売り渡された米で,5類は巴(ともえ)まさり,ユーカラという品種を除く北海道産米である。3類は以上のいずれの類にも属さない米である。
成分
米の主成分はデンプンで,精米では76%である。米のもつ栄養的意義はエネルギー源としてであるが,その主要源をなすのがこのデンプンである。タンパク質は精米で約7%含まれているが,日本人はタンパク質の必要摂取量の約5分の1を米からとっており,これも栄養源として重要である。タンパク質の栄養価を比較するのには,プロテインスコア(タンパク価)が用いられており,理想状態のプロテインスコアを100とすると,精米は77で,牛乳と同じような良質のタンパク質が含まれていることになる。
脂質は1.3%である。脂質は品質劣化の原因になることが多いので,食味の点からいえば,脂質の少ないことは米の利点ということができる。米は無機質に乏しく,精米では0.6%である。無機質のなかではリンが多く,カルシウムやナトリウムは少ないといえる。ビタミンのおもなものはB1,B2で,A,C,Dはまったくない。しかしB1やB2は胚芽やぬか層に多く分布し,胚乳では少ないので,玄米と精米では含量が著しく違う。
→イネ
執筆者:竹生 新治郎
食用
白米の精白歩留りが90~92%であるのに対して,歩留りが95~96%のものを半搗米または5分搗米,93~94%のものを7分搗米と呼んでいる。また,胚芽を残してぬか層のみを除いたものを胚芽米と呼んでいる。一般に米を玄米のまま炊飯利用せず,白米として炊飯利用するのは,玄米は不味であり消化率も低いためである。半搗米,7分搗米,胚芽米は,玄米のぬか層を部分的にあるいは胚芽を残すことにより,この部分に多く含まれているビタミンB1などB群ビタミンの米粒中への残存を高めることを目的としている。軟質米は食味がよいが,炊き増えが少なく貯蔵性に劣り,夏期になるとかえって硬質米より食味が劣るようになる。日本では米は主食であるため周年利用されるが,本年度産米は翌年秋に新米が出回ると古米と呼ばれる。一般に新米は食味がよく古米は食味が落ち,ときとしてにおいも悪くなる。この変化を古米化と呼び,この状態の好ましくないにおいを古米臭と呼んでいる。古米化は米粒中の一部の脂質が分解,酸化することや酸素活性の低下にみられる生命力の弱化などがおもな原因となって起こる。古米化を防ぐには,温度,湿度が高くなる時期に,米を13℃以下,相対湿度70%以下に保つことが可能な低温倉庫で貯蔵すると,比較的長期間品質を損なうことなく貯蔵できる。日本人にとって,米は主食であり摂取量も多いので,重要なエネルギー源であり,またタンパク質の供給源としても無視できない。しかしカルシウム,ビタミン類のように含量の少ないものは他の副食品で補わねばならない。米の粉はおもに和菓子の材料として使われている。うるち米を水洗し臼びきして得られる糝粉(しんこ),もち米を水洗し臼びきし多量の水で洗った後乾燥した白玉粉,餅またはもち米を蒸してから乾燥し石臼で粗びきした道明寺粉などがそれである。このほかうるち米の粉を原料としためんの一種であるビーフン,うるち米を蒸して乾燥したα米,同じようにもち米から作る即席餅などの製品もある。また,清酒はもとより,焼酎,みりん,米酢,みそなどの醸造加工にも米は重要な原料となっている。
→飯
執筆者:菅原 龍幸
世界の米生産と輸出動向
米は,小麦,トウモロコシとならぶ世界でもっとも重要な穀物だが,世界の米の生産のほとんどは,第2次大戦前も今も,米を主食にしているアジアの国々で生産されている。世界の米総生産量は戦前(1934-38平均)約1億5000万tで,その95%が日本を含むアジアの国々によって生産されていたし,5億5000万tと大幅に増加した今日(1995)も,その90%は依然としてアジアの諸国が生産している(数字はもみ重量,以下も同じ)。なかでも最大の生産国は中国で,第2次大戦前は2000万haの作付面積で5000万t余を生産していたし,今日では3100万haの面積で1億8700万tを生産している。第1次大戦前もそして今も,世界の米の3分の1は中国大陸で生産されているわけである。1995年のおもな米生産国は中国についでインド,インドネシア,バングラデシュ,ベトナム,タイ,ミャンマー,日本の順になり(表2),以上の8ヵ国が世界の米の84%を生産する主要米産国である。また世界全体では単位面積当り収量の増加もなったが,それ以上に収穫面積拡大が生産量の増大に大きく寄与したことに留意すべきである。表2のなかでは,収穫面積を大きく減らしながらも,もっぱら単位面積当り収量増で生産量を増加させたのは日本だけであることが注目される。
ところで,米の世界総生産量は戦前の1億5000万tが5億5000万tへと3.6倍にふえたが,世界の輸出量は965万tが2330万tになったにすぎない。これは三大穀物のなかで,米が小麦やトウモロコシと決定的にちがう点である。小麦は戦前1億6750万tの生産で1730万tの輸出量だったが,今(1995)は5億4400万tの生産で1億1200万tの輸出量になっている。トウモロコシは1億1500万tの生産,1020万tの輸出だったのが,5億1500万tの生産,7800万tの輸出量になっている。いずれも総生産増加率より輸出増加率のほうがはるかに高い。小麦やトウモロコシの生産増大が,輸出のための増産として行われたのに対し,米の増産は基本的にいって米食国での自給のための増産という性格が強いのである。
輸出総量としてはほとんど変わらないが,しかし主要輸出国は戦前と今ではかなり異なる。戦前の輸出国は第1にビルマ(現,ミャンマー),そして旧フランス領インドシナ,タイであり(韓国,台湾のそれは植民地から本国日本への移出で,国際市場への輸出ではなかった),この東南アジア3国が国際市場への大手供給国だった。それが,今も輸出国なのはタイだけであり,ミャンマーは輸出量急減,旧フランス領インドシナのラオス,カンボジア,ベトナムからの輸出はなくなった。第2次大戦後もこの地で続いた戦乱によることはいうまでもない。かわって輸出国になったのが,アメリカであり中国である。中国は高価格の米を輸出して,安い小麦を輸入する政策をとっているので,輸出国としてはやや特殊だが,注目すべきはアメリカである。かつてはタイ,ビルマ,インドシナなどの低単収が示すように,米は原生的生産力に依存した後進国の輸出品だった。今もタイの米輸出にその性格が見られるが,アメリカの米は高単収が象徴しているように,高度の農業技術の所産である。オーストラリア,イタリア,エジプトの米生産も同じであり,米の輸出国は先進国に移りつつある。
なお,ウルグアイ・ラウンドの農業合意(1993)にもとづき,日本は米をミニマム・アクセス(最低輸入量)のかたちで恒常的に輸入することとなった(95年には国内消費量の3%,6年後の2000年には8%)。
日本の米生産
20世紀に入ってからの日本は,つねに米不足だった(図2)。1878-80年の年平均1人当り消費量(酒米など主食用以外の消費もふくむ)は115kgで,国内生産量は国民の総消費量を十分まかない,わずかだが輸出もしていた(3年間の輸出総量14万t,輸入総量2万t,輸出超過量年平均4万t。輸入していたのは安い南京米)。農村ではアワ,ヒエを常食にしているところもあったし,都市でも中小工場職工の主食は〈挽割一升ノ中ニ米二合位〉〈南京米ト挽麦ト半分交ゼタルモノ〉(《職工事情》付録)という状況だった。米とくに国産米は,当時優等財だったのである。国民所得の上昇は当然ながら劣等財のアワ,ヒエ,麦から正常財の米に主食を集中させ,消費量を増大させる(図2)。明治・大正を通じての1人当り米消費量の顕著な増加に注目されたい。1人当り米消費量が148.5kgに達した1891-95年期以降,今日の米過剰時代の開幕を告げる1965-70年期まで,日本は米輸入国になるが,輸入国になってからも1人当り消費量は増えつづけ,1921-25年期に170kgのピークに達する。片山潜が〈あきらかに日本における民衆運動の全般的覚醒の最初の力強い端緒であって,現代革命運動の火蓋をきったもの〉と評価した米騒動が起きたのが1918年である。それは1人当り米消費がピークにくる時期であり,そして国内産米の供給不足量がさらに大きくなっていく時期であった。シベリア出兵にともなう軍買上げ,米商人の投機による米価高騰が引金になったことは確かだが,1人当り消費量の増大,国内供給の不足が基調にあったのである。
1人当り米消費量は1921-25年期をピークに減少する。第2次大戦直後の食糧危機期にあたる46-50年期の急激な落込みを別にすれば,1921-25年期以降今日まで,ほぼ同じペースで1人当り消費量は減少している(図2)。昭和元年が1926年だが,昭和改元は今日につながる食生活の近代化--米飯とみそ汁からの脱却--の開始でもあったのである。しかし1人当り消費量は減っても人口増大があったので,総消費量は1921-25年期以降も増加し続けた。これも第2次大戦期とその直後の食糧危機時代の41-50年の急減を異常な時期の現象として除いて考えれば,61-65年期まで総消費量は明治になって以降ほぼ同じペースで増加し続けた(図2)。増大する米需要に対し,国内産米は20世紀に入って需要を完全には満たせなくなったものの,1人当り消費量がピークになるまでは需給ギャップを大きく拡大させない程度には供給を増加させてきた。だが1人当り消費量が減少に向かい始めるころから,需給ギャップはむしろ拡大する。総消費量は前と同じペースで増えるのに,国内産米の生産増加率が鈍化したからである。1878-80年期の418万tから1916-20年期の855万tまでの39年間の生産増加を年率にすると,1.8%の増加率になる。ところが16-20年の855万tから36-40年期の980万tへの増加年率は0.7%でしかない。かなりの鈍化というべきである。
拡大した需給ギャップを埋めたのは,朝鮮,台湾からの移入だった。移入のピークは1938米穀年度(1937年11月~38年10月)だが,その年は995万tの国内生産の23%にもなる227万tという大量の米が移入されている。この米移入激増は,米騒動に深刻な危機を感じとった日本政府の植民地産米増殖政策が作り出したものだが,朝鮮,台湾から入ってくる米の価格は国内産米よりも2~3割安く,移入米の増大は国内産米に対し生産抑制的に作用することになった。1.8%から0.7%へという生産増加率ダウンの一つの要因がそこにあった。またこの移入でバランスをとる米需給政策は,戦時経済下に崩壊する。きっかけは1939年の朝鮮の干ばつによる大減収だが,そればかりではなかった。朝鮮や台湾の農民は安い雑穀(満州から輸入もした)を主食とし,生産した米を移出するという一種の飢餓移出をしていたのだが,戦時経済下で植民地にも戦争景気とインフレが浸透していくにつれ飢餓移出まではしなくてよくなり,米をみずから消費するようになったのだった。朝鮮,台湾での米消費増大は当然に移出を激減させる。そのため政府は南方米の輸入に手をつけ,42年には食糧管理法を制定,米麦などの主要食糧について乏しきを分かつ〈配給ノ統制〉(1条)を行うようになった(この食糧管理制度は内容は変わっても今日なお続けられている)。しかし戦争の拡大で輸送難になり,44年には南方米輸入もゼロになって敗戦を迎える。敗戦直後は〈配給〉食糧だけでは生きていけず,都市住民は食糧確保に四苦八苦しなければならなかった。米消費が底になった1946米穀年度の1人当り消費量は81kgで,数量としては今日と同じレベルだが,当時はカロリーの約6割(今は約2割)を米からとっていたという状況の違いがある。81kgは今は飽食を意味するが,当時は飢餓を意味したのであって,もつ意味はまったく異なるのである。
敗戦の年の産米は587万tしかなかった。明治30年代(1897-1906)のレベルである。冷夏そして秋の風水害と天候もこの年は悪かった。肥料をはじめとする資材もむろんなかった。“1千万人餓死説”がささやかれ,〈米よこせデモ〉(1946年5月12日),〈食糧メーデー〉(同年5月19日)が発生,デモ隊が皇居に入った。米の増産は何よりも急務であり,農地改革をはじめとする施策が集中的にとられるが,その効果は1946-50年期の865万tが51-55年期には919万tに,56-60年期には1185万tになるという形で現れる。1000万t以上の記録は戦前では1933年の1062万tだけであるが,戦後は55年に1185万tと上回り,59年1250万t,62年1300万t,67年1445万tとつぎつぎに記録を更新する。第2次大戦後の米生産の発展はきわめて急速だったとしてよいであろう。
単位面積当り収量の増加
日本の米生産の特徴は,生産量増大を,ほかの国のように収穫面積増にかなり依存するというのではなく,もっぱらといっていいほど単位面積当り収量増加で実現してきているところにある。その特徴は明治以来のものである(図3)。たしかに収穫面積も明治10年代(1877-1886)250万ha,1910年代300万haと増えている(戦前の最高は1932年の325万ha,戦後の最高は60年の333万6000ha)。しかし250万haを起点にして最高面積をとっても,面積増は33%にとどまる。これに対し総生産量は1878-79年期の427万tから1965-69年期の1274万tへ3倍近くにふえており,日本では単位面積当り収量増こそが総生産量増大にとって決定的だった。単位面積当り収量の引上げは,明治以降三つの画期をもって進展した。(1)ha当り1700kgのレベル(今日のインドやタイのレベルと考えてよい。表2はもみ重量,表2以外の数値は玄米重量,換算率80%で比較されたい)からha当り2772kgになる1915-19年期までの年率1.26%で伸びた上昇期,(2)それから戦時経済をはさんで50-54年期に至る3018kgになった年率0.24%増の停滞期,(3)以降今日までの4560kgになる年率1.7%増の急上昇期である。
(1)は明治農法の確立普及期である。乾田馬耕,塩水選,短冊苗代,正条植,多肥多収品種(神力,愛国,雄町)の普及,そして金肥(魚かす,豆かす)施用の一般化がその内容だが,それはひと口にいって労働集約的土地生産性追求の農法であり,1960年ころまではこの農法が日本の米作技術の骨格を形づくっていた。(2)の停滞については,魚かす,豆かすといった有機質肥料が硫安などの無機質肥料にかわり,地力低下が不安定性を増したということもあるが,より決定的には第1次大戦後の戦後恐慌,そして昭和恐慌と続いた経済変動が長期の農村不況をもたらしたこと(低価格植民地米の移入増大もあった),それに地主制の重圧をあげておくべきであろう。そして戦時経済はもっとも重要な生産力構成要素である農業労働力を奪い,また肥料などの生産資材も入手困難にした。停滞は必然だった。(3)1950年以降の急上昇は,停滞期を規定した要因がすべて逆になったことによってもたらされたといってよい。農地改革は所有の魔力を農民に与え,生産意欲を高めた。国家投資による土地改良の生産安定効果,食管制度のもつ価格安定機能が,農民に対し増産努力が所得向上に直結することを保証し,その上で,それぞれの地域条件にあった短稈(たんかん)穂数型耐肥性増収品種(ホウヨク,藤坂5号,レイメイなど)が開発され,分施施肥法,間断灌漑,病虫害防除技術など,品種に適した肥培管理技術が体系的に普及した。その効果は全国的に単収レベルを引き上げはしたが,単収増をふくめての増産効果には大きな地域差があり,北海道,東北,北陸でもっとも増産効果が高く,近畿,中国,四国などで低く,米産県序列を大きく変えた。戦前のもっとも生産量が多かったころ,単位面積当りの収量序列は高い順で佐賀(ha当り3890kg),奈良(3790kg),大阪(3600kg),香川(3520kg)と西日本各府県で占められていた(数値は1934-38年平均)。東日本では5位に山梨(3470kg),8位に石川(3320kg)が入っていたにすぎない。しかし戦後最高の1445万tをあげた68年の順位をみると,山形(5690kg),秋田(5430kg),長野(5350kg),青森(5200kg),新潟(5180kg)となっており,上位県は東北,北陸諸県が占めている。西日本諸県は10位以内には9位に佐賀(4980kg)があるだけである。戦前は最下位の北海道(2070kg)も68年には11位に上がり,稲作の中心が西日本から東日本に移ったことを象徴的に示している。
米の生産が史上最高を記録する時期が,総消費量の逆に減少する時期だったことは歴史の皮肉である。20世紀に入って以来の恒常的米輸入国の状況をようやく脱却できるようになったその時点から,過剰生産をどうするかが最大の農政問題になり,今日に至っている。1970年から減産政策が行われており(〈生産調整〉の項目を参照),米生産は現在きびしい作付制限下にある。過剰時代に入って〈配給ノ統制〉をしていた食糧管理制度も改正され,自主流通米が認められるようになった。自主流通米制度は,コシヒカリ,ササニシキなどの良質米作付けを条件のあわないところにまで拡大し,気象変動を受けやすくしている。80-83年の4年続きの冷害の一因はここにある。
→米価
執筆者:梶井 功
日本人と米
古代,中世
縄文時代の晩期から農耕がはじまり,九州地方では米も作られたというが,弥生時代に入ると広く各地に稲作が行われる。大和朝廷の時代に入ると,朝廷に納める租は稲の種実を主体とするようになる。《正倉院文書》のなかの幾つかの国の正税帳をみると,納められる形には穀,穎稲(えいとう),糒(ほしいい)の三つがあり,さらに薩摩,駿河,豊後,紀伊その他では,稲穀のほかにアワが租として納められている。アワ納の場合も穀と穎粟(えいぞく)があるが,アワ納の多い薩摩の2郡の場合でも,米納分の25%くらいである。正租は稲穀主体といってよい。穎はついて殻を除いた玄米であり,穎稲は穂首刈りをした穂つきのもみで,束,把の単位で数えられる。穎稲20束は扱(こ)き,ついて米1石となるとされる。糒は乾飯で,長期の保存に耐える。《延暦交替式》にのせる799年(延暦18)の太政官符には,正税を旧来のように穎納にせよといい,その理由として,土地によって稲には早晩種があるが,租全部を穀にすると早晩の区別がつかないので,穎納に返すのだとしている。正租中の穎稲を20束1石で換算して穀納分に対する比率をみると,数%から十数%の間にある。国衙(こくが)が保存して種子として用いるための穎納なのであろう。
租の用途は祭祀用,官途にあるものへの給米のほか,役民使役のためにも用いられる。朝廷や官に仕える人々の食事は米を主食とするようになっていることがわかる。諸史料によれば,米には黒米,白米,赤米などの名があり,これは搗白の程度によるものである。黒米は玄米で,白米は舂白(しようはく)米である。黒米は大嘗会,新嘗会などの神事に用いられるほか,臨時の雑役や下級の職にある人々への給与に用いられる。《延喜式》の各所にそのことが記され,例えば〈駈使雇夫単五十人食料,黒米人別日二升,塩二勺〉などとある。織部司に働く織手のうち薄機の織手には白米1日1升6合が与えられるが,普通の織手や手伝人,機工には1日に黒米2升を与える定めとなっている。つき減りの歩合を考えると,この二つの量は同じである。このことが直ちに玄米食だったことを示すとはいえないが,朝廷で雇用する人々でも,不熟練労働に従事する人々のなかには,玄米食をする可能性はあったといえよう。
米の種類にはこのほかにうるち(粳),もち(糯)の区別がある。今日では米飯用と餅用の差であるが,古代史料に現れた給与または消費の量に現れたところでは,截然とそのように区別することはむずかしい。《延喜式》大膳上に現れる諸神社の祭事のさいの雑給料には,多少の差はあるが白米とあるものともち米の量がほぼ同量であり,内膳司の部の正月,5月,7月,9月の節の料もうるち,もちの量は同様であり,供御月料でも米3斗6升4合に対してもち米2斗4升7合5勺のほか,もち糒1斗2升7合5勺などとあるからである。餅料と記されるものにもうるち,もち同量が記される。これは当時の飯が甑(こしき)を使って蒸す強飯を常態としたからかも知れない。水を加えて炊く今日の飯は粥(かゆ)のうちの堅粥であった。
中世荘園制下にあっても,広く各層の食料の実態を伝える史料は乏しい。一荘園領主が毎年手にする年貢の種類別総量に対する検討も少ない。しかし例えば皇室領の一つで,長く持明院統の御領であった長講堂領諸荘園の1407年(応永14)の年貢は,米4140石余に対してほかに雑穀などはなく,油,絹,糸,綿,白布,炭,紙,材木薪,香,小莚(こむしろ),漆があげられている。また1266年(文永3)の東寺領丹波大山荘の領家得分は米200石を主体として麦10石,麦6斗,餅120枚のほか,少量ずつの苧(からむし),紙,布,菓子,搗栗(かちぐり),甘栗,生栗,漆,栃(とち),串柿(くしがき),薯蕷(しよよ),野老,牛房(ごぼう),苟若(こんにやく),土筆(つくし),干蕨(ほしわらび),胡桃(くるみ),平茸(ひらたけ),梨,熟柿,山牛房,糸,油があり,さらに桶類,薦(すごも),続松(たいまつ)などが見られる。荘園領主層の食料が,米を中心とすることは明らかである。
米食が広く国民の各層に及んでいたかどうかを史料的に確かめることはできない。しかし稲穀に代わってアワを租として納めることを認めた715年(霊亀1)の詔は,アワは〈支ふること久うして敗れず〉という特色を述べており,麦作の奨励をする723年(養老7)の太政官符では,麦はもっともたいせつで窮乏のときの救いとしてこれ以上のものはないと述べている。小麦,大豆,アズキ,ヒエなどは奈良朝・平安朝期の諸史料に現れている。安房国の義倉にアワの納められていることも知られており,庶民のなかには地方により畑の雑穀類を常食するもののあったことは推測しうるところである。
米は主食の材料であるだけでなく,酒,甘酒の原料となり,さらに調味料としてのひしおなどの製造にも用いられ,酒のかす類は野菜類の漬物の原料として用いられていることが知られる。米は古代からわが国食文化の中枢を占めていた。
近世
食糧としての米
米は古来日本人の食糧の代表のようにいわれてきたが,昭和戦前期のように広く各層が米食を普通とするようになったのは,それほど古くはない。近世については全国的な生産統計の類はないので,個別事例によって知る以外には方法がない。そこで幕末期の状態に近いという意味で1878-82年(明治11-15)平均の米収量(陸稲,もち米を含む)をみると2974万石余,同期間の米輸出入額を加除すると,その期間の平均総人口3635万人余に対する米の国内供給量は2953万石余となる。1人当り年間8斗1升2合という数字となり,通常昭和戦前期の年間1人当り消費量を1石1斗とみるのに対して,低くなっている。この1人当り年米供給量を同様の方法で計算すると,1878年の〈農産表〉では7斗7升2合,1875年の〈府県物産表〉では7斗2升となる。幕末期を想定しても,この数量よりさらに少額となることが考えられる。江戸時代の米の生産量総額は知ることができないが,耕地につけられた石高の40%くらいは,本年貢として領主層の手に納められる。このほかにも米で納められる年貢,諸役がある。このことから武士層と農民層とでの米消費量には大きな差の生じることが推定される。この分割比率も知ることができないが,都市居住者,旧武士層は年間米1石を消費するものと仮定し,その人口を400万人と推定すると,残された3100万人の人々の1人当り年消費量は,1878年の米供給量基準で7斗2升5合となる。明治前期についてこのような推計をしたうえで,江戸時代の農民の米消費の状態を示す幾つかの資料を見てみよう。
元禄(1688-1704)前後にいたるまでは,農民の食糧の実態を知りうる資料はない。そのころの紀州紀ノ川沿いの人の著書《地方の聞書(才蔵記)》の記述は象徴的である。〈正月五節句盆神事,年中二十六日米給(たべ)申候〉と記している。この書中には田2町,畑5段,石高31石に及ぶ,当時の大経営の収支計算をのせている。そこでは年貢26石余を納めたあと,手もとに米13石5斗,麦40石,その他雑穀を残すが,これらの多くは売られ,大麦17石7斗5升とキビ5石6斗8升が,10人の日常の食事にあてられている。先の26日分の米の量は1人1日3合米を食べるとしても7升8合にすぎない。ここで年貢米としたのは玄米での量である。江戸時代の年貢米はもみ殻を除いた玄米が通例の形であり,《民間省要》などによれば精選したものを納めるとしている。地方によると山間部などでもみ納の所もあるが,その分布は正確には確かめられてはいない。米を作る農民は,自分たちは麦・雑穀主体の食事をするのである。1707年(宝永4)の加賀石川郡の《耕稼春秋》は,石高50石の収支計算をのせる。収穫物は米57石7斗,菜種20俵,大小麦15~20俵とし,米は年貢25石,村掛り2石,種もみ米1石3斗,1年の諸入用を満たすための販売米25石4斗であり,残米3石8斗6升と大小麦で1年の食事を支えることとなる。もみを選別するさいに出るしいな(粃)や砕米を粉にしたゆる粉で作っただんごも食糧の補充物であり,加賀田所の大百姓も〈麦は百姓給物(たべもの)〉という生活をしているのである。このような雑穀中心の食事に,里芋,カンショ,大根なども雑炊の材料として用いており,米は領主への年貢,町場への販売物にすぎない。
幕末になると農民の生活にも少しずつ米が加わってくる。その例を天保(1830-44)後年以後編纂(へんさん)された長州藩の《防長風土注進案》から二,三あげてみよう。同書では1人当り年間食糧を米,雑穀計1石4斗4升(1日当り約4合)とする地帯と,同1石余(1日当り3合)とする地帯に分けて,1村ごとに米,雑穀の収量,年貢諸役,生計費などをいかに満たすかを記している。それによると桜畠村(現,山口市)では,田89町3反余,畑23町7反余からの米の収量は1518石4斗9升である。うち年貢諸役835石余,販売199石8斗余,借銀利米など138石5斗弱で,自家食糧にあてうる米は345石1斗5升となる。総生産の23%にあたる。総人口1人当りで5斗8升5合となる。米所では米を農民も食べるようになっている。その他は1人当り麦5斗8升5合,雑穀2斗7升を自給して,藩役人の考える標準年間1人1石4斗4升を満たすことになる。これに対して海岸村の久賀村(現,山口県大島郡周防大島町)では1人1年の食糧は米2斗8升9合,麦2斗4升,雑穀5升2合,カラ芋雑穀換算2斗5升5合,大根雑穀換算1斗4升,計9斗7升8合が村内自給で賄われる。御用紙漉立(すきだて)に対して米の支給をうける広瀬村(現,玖珂郡錦町)の例では,1人年間2斗5~6升の米を食うが,これは1日当り0.6~0.8合にあたり,他に麦,雑穀,芋,大根を食べて,標準の3合を満たすことになる。天保後年以後になって,農民も一定量の米を食うものと藩役人も考えるようになっているが,農民は生産する米のうち多くの部分は藩へ年貢として納め,町場の人々に供給する存在だったのである。
江戸時代の領主および家臣団の人口は正確に知ることができない。その層の後身は明治期には華族と士族としてとらえられる。その数は190万前後である。これに家内使用人など同一家計で生活するものを加えても300万人足らずであろう。その人たちの生活は年貢収入によって支えられる。大名,旗本,地方知行(じかたちぎよう)の家臣団は,各々その知行地からの年貢が生活の基盤となり,扶持米給与の家臣団は給与される禄米で暮らす。初期の年貢には米主体の本年貢のほかに,多様な農民の生産物が小物成その他の名目で納められる。塩田に課される塩,長州藩の紙など領主の販売する蔵物となるものもあり,その多くは領主層の生活の資となったが,早期に代金納される。直営鉱山や長崎貿易,株仲間からの納金などをもつ幕府でも,幕末期にはその歳入の95%は本年貢と計算される。その収入の実体からみて,領主・家臣団の食事の中心は米であったと考えられる。これとともに人口200万前後と考えられる三都,城下町,人口の多い宿駅,港町に住む商人・職人などでは主食に占める米の割合は,農民より多かったと考えられる。
米の流通
幕末期長州藩領の農村では米所の場合,農民上層の米販売もあったし,同様の例は各地で確認されている。秋田藩では藩米のほかに商人米が大坂に回漕されたことが知られているが,一般的には農民販売米の流通は,その藩の城下町や宿場,港町など狭い範囲であったと考えられる。遠距離の流通は領主の収納した年貢米の一部であり,大坂,江戸に海路輸送(廻米)され,蔵屋敷などをへて大都市市場に出る。そのことと関係して市場での米の銘柄は,各領主の所領の国名で呼ばれることが多い。江戸における米品質の評価において特異な点は,明治以後良質米とされる東北日本海岸の軟質米が劣等品とされたことであろう。これは西廻海運によって大坂に集まり,さらに海路江戸に送られる輸送事情から,昨年の収穫米が江戸市場に出る時期が,梅雨期以後になることから生じることである。
特殊米と農民の改良の意欲
以上米として扱ってきたのは,日本人の食用に供してきた米一般である。これらの米の大部分は短粒白色の日本型稲の種実であるが,本草学者,民俗学者の興味をよせる特殊の稲米に,大唐米,赤米,香稲などがある。これらは早く《清良記》(寛永年間(1624-44)または延宝年間(1673-81)成立といわれる)にその名を現す。早中晩のうるち,畑稲の品種名にならんで,餅稲,太米の品種名をあげるが,餅稲のなかに香餅,赤餅があり,太稲中には大唐を名とするものがある。本草書のなかでは小野必大の《本朝食鑑》がもっとも簡明に大唐米の特質を示している。その米は小粒,赤白2色あってきわめて早生,雨に腐りやすく,実は落ちやすいなどと記し,中華の種を移し植えたもので唐乾(とうぼし)ともいうとして,秈(せん)であろうとする。インド型の稲米である。この種中に赤米や鼠米(ねずみごめ)が入るようにも記し,鼠米は香稲ともとれる記述をする。赤米は対馬などで神事に用いられることから民俗学者の注意を呼ぶ。大唐米に関して注意すべき記述は,越中の農書《私稼農業談》(正保年中(1644-48))に中国より取りよせた仏像の荷造用のわらに残るもみから生じたとすることである。必ずしも古来の伝来ではなく,各種の交易物の包装によって,江戸時代にも伝来する可能性のあることを示すからである。大唐米についての本草書の評価は多収であり,炊き増えすることから農民食糧として好適であるとするが,先に例示した周防桜畠村の例で米の実収量の56%,田畑石高1823石余に対して46%の年貢諸役を米で納め,さらに販売分もあって,収量の23%だけが自家食糧となる事情の下では,稲作は年貢ならびに販売用として日本米を作らなければならない。在来種の田植後,そのそと回りに1列2列植えたり,広い株間に植えるものであるともされる。
江戸時代後期にいたって,農民の米食量も増加するが,それには多数の農書が農民の手で著されたことにも示された農民の技術改良の努力が前提となっている。改良は種子の選択,苗作り,耕作法,施肥の改良,乾田化など稲作の全過程に及んでいるが,多収稲や土地に合った種類の選択は,多くの農民の帳簿からもうかがわれる。多収品種の発見は,ふつう選穂(えりほ)といって,同じ田の稲穂中の生育のよいものを選び,その種の試作を通じて新品種を選び出す方法によっている。その努力が各地域に多数の優良品種を成立させている。
明治以後の米
明治以後の米について影響を与える条件は,外国貿易,地租の金納化,工場労働者・都市人口の増加,近代農学による品種改良などである。貿易統計によって米の輸出入のあとを知ることができるが,明治1-5年(1868-72)には米の輸入超過が続く。輸入超過量は5ヵ年平均51万石余,うち明治3年には215万石に及んでいる。明治7年収穫量に対して,同3年の215万石は8.3%である。以後25年まで5ヵ年平均では輸出超過であるが,以後輸入超過となる。30年代以後輸入超過量は著増し,同じ年度の平均収量に対して36-40年平均では8.3%,実量で385万石となる。この期の米収穫量は明治11-15年平均に対して56%を増しているので,この輸入増加は1人当り消費量の増加の結果でもある。36-40年平均ではその量は1人1年当り1石5升となっている。その輸入先をみるとインド,フランス領インドシナ,タイの地位が高くなっている。いわゆる南京米が,増加する工場労働者の重要食糧となっているのである。この国民の米消費量は大正・昭和と漸増し,大正7年(1918)には前2年度の減収による米価高騰で米騒動が起こっている。国内での稲作面積の著増は望めないので,台湾,朝鮮での産米増殖改良が計画され,日本米との交配による蓬萊(ほうらい)米や新品種に改良された朝鮮米の移入が不可欠のものとなる。国内総生産量は第2次大戦前期にあっては昭和11-15年(1936-40)の平均が最も多く6587万石余で,明治11-15年平均を100として221.5と2.2倍となっている。
江戸時代・明治期を通じて,農民の手で選出された優良品種が各地に普及し,商品米の銘柄が問われるようになるが,明治40年代に国立農事試験場が,純系分離・交配による育種を始めて以後,府県の奨励品種の決定に伴って農事試験場育成の品種中心となっていく。この品種改良は多量の肥料にも倒伏しないこと,寒冷気象,病虫害に強い性質を備えることなどを目的とし,北方地域への稲作拡大と,平均収量の上昇を結果した。
地租の金納化は米作農民・地主をも完全な米の販売者とした。そこから新しい米流通機構が生まれ,さらに最多量の農民的商品である米の輸送をめぐって,旧来の河海舟運に替わる陸上輸送の方法が開けた。明治期における荷車,荷馬車,鉄道の発展の要因となった。
執筆者:古島 敏雄
民俗
第2次大戦後までの日本人,まして農民の多くの願いは,毎日の3度の食事に米の飯が登場すること,あるいは国民に十分な米を供給することであった。豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)思想は記紀神話にもとづく日本国家の理念であったとしても,長い歴史を通して日本人が稲作民族であるという前提をつくりあげるのに役だった。そのために,日本の社会も文化も稲作をぬきにしては考えられない。それほど強い影響を与えたのはなぜか。米の特色として,計画的に栽培でき,貯蔵や運搬と同時に計量と分配も容易である点に加えて,調理がしやすく,食べてうまいことなどが挙げられる。しかしそれだけでなく,国の政治,経済,宗教のすべてが米を絶対的基準としてしくまれていたために,米を作ることは国民としての義務であったし,国の基礎はそのうえに成り立つと考えられてきた。宮廷において天皇の行う最重要の祭政は,高天原から中津国にもたらされた稲の種子を奉じて,それをあやまりなく栽培することであり,祈年祭は米の豊作の祈願であり,新嘗祭は収穫のよろこびの奉告であった。また天皇の代替りに行われる大嘗祭は,米の霊的力によって皇太子が天皇としての霊魂を聖体に鎮ませる儀式であった。
米が天皇をはじめとする人々の霊魂を再生復活させる力をもつ食べ物であるという信仰は,民俗としてはさまざまな形で伝えられている。まず日本人にとって米は常食でも主食でもなかった。稲を作るための祭りや年中行事などの祝い事のときに,米を調理して神や先祖に供え,人も食べることにより新しく強い力を補充することができると考えた。各地の祭りに,飯を強いたり,酒をふるまったりして多量の米を消費する強飯祭や甘酒祭,餅をついて分配する祭りの多いのはそのためである。とくに氏神や旧社,大社に属する神田で栽培した米で調理した食べ物は,神聖な力が強く働きかけてくるものと考えられてきた。熱帯の植物である稲は,日本列島以外から渡来してきたために,天孫降臨神話とは別に,弘法大師のような貴い僧が持ち帰ったとか,ツルが運んできたとかの伝説が各地に伝えられているのも,米の神聖性とともに外来の作物であることを反映している。打蒔(うちまき),散米(さんまい)とか散供(さんぐ)といって,神や仏の前などで米をまく習俗があるが,これは米の霊的な力によって邪悪な霊を追い払い,そこを聖域にしようとする意図をもっている。
米が霊的な力をもつという観念は,人間の一生の儀式にも見られる。出産にあたって産室に米をまくとか,米俵を持ちこんで妊婦にすがりつかせるのも,米の力によって妊婦を勇気づけるとともに,米の神が出産を助けたことを意味している。結婚の儀式に,椀に高く盛った飯を嫁に食べさせるのも,これまで生家で育ってきた嫁が,婿方の人間として新しく生まれかわるための儀式と考えられる。死者のまくらもとに高盛りにした飯を供える習俗(枕飯)も全国的であるが,この世からあの世へ生まれかわっていくための再生の儀式と考えることができる。このような人生上の通過儀礼ばかりでなく,凶事としての火災,洪水,台風,津波など予期せぬ災害にあって,人々が疲労し精神的不安に立ったときも多量の米が消費されているが,それは消耗したエネルギーを米によって補うとともに,人の精神を立ち直らせるためであった。戦争という事態に米がもっとも必要とされたのは,戦争が集団全体の運命に関係するからであった。そのほか,開拓工事,道普請,新築,田植や稲刈り,山仕事など,短い時間に多くの人の共同の力を必要とし,危険なしごとのときに米は必要であった。このように,米は日常の生活に必要なのではなく,めでたいときや不幸のとき,大きなしごとを成功させようとするときのように,非日常の状態におかれたときに食べるものであった。
日常の生活で米を食べてきた者は,近世でも貴族や武士その他の上層階級の人々であり,都市民その他の非生産者であった。庶民にとって米は非日常的な食べ物であったために,なんとかして日常も3度ごとに米を食べることが生活の理想となってくる。米を作るための苗代祭,田植祝,虫送り,雨乞い,風祭などは,少しでも多くの米を収穫して生活の理想を達成させ,幸福を得たいと考えたからである。米を生産できない地方が後進的な文化の低い所とする考え方や,米作農民が一人前の農民であるという優越性が生み出されて,日本人の間に米作志向が極度に進行したのであり,非農民であっても3度の食事に飯が食えないということが恥ずかしいこととされるようになった。稲作の栽培過程や非日常における生活の中から,米の民俗はしだいに姿を消しているが,それは米の生産量が過剰となってきた最近の現象といってよい。日本の庶民にとって,もともと米を常食化していなかったところへ,現実に米が豊富に供給されるようになると,そこから米離れを起こし,本来の雑食化が形を変えて復活してきたともいえよう。すると米を基盤とした日本の文化は終わったのかということになるが,決してそうはいえない。長い歴史を通して,今日の日本的同質性は米によって形成されたものであり,その米の文化が日本人の社会行動や思考の様式を育ててきたのである。したがって今,工業化社会に転換した日本にとって,米の文化とは異質な文化と接触したことになる。異質な文化との接触によって,日本人はそれとどのように対応したらよいか,その選択に迷っているとみてよかろう。日本人が形成してきた米を基盤とする行動や思考の様式とは何であったのかを,過去の米作文化の中から探り出さねば,新しい状況を正確に判断し,対応の方向を見つけることはできないといえる。その点で米の文化の研究は,日本人の未来を発見していくための重要な鍵となってくる。
→赤米 →稲作文化
執筆者:坪井 洋文