興福寺(奈良市)(読み)こうふくじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「興福寺(奈良市)」の意味・わかりやすい解説

興福寺(奈良市)
こうふくじ

奈良市登大路(のぼりおおじ)町にある法相(ほっそう)宗の大本山。

[勝又俊教]

沿革

669年(天智天皇8)藤原鎌足(かまたり)が山城(やましろ)国(京都府)宇治山科(やましな)の私宅に一寺を建立しようとして果たさず、没後創建されて山階寺(やましなでら)と号したのに始まる。672年(天武天皇1)これを大和(やまと)国(奈良県)高市(たけち)郡厩坂(うまさか)に移して厩坂寺と号し、ついで710年(和銅3)奈良遷都に伴って、藤原不比等(ふひと)が現在地に移建して興福寺と改めた。以来藤原氏の氏寺として栄え、天平(てんぴょう)年間(729~749)に五重塔、東金堂、西金堂などが建立され、光明(こうみょう)皇后は当寺に施薬院(せやくいん)、悲田院(ひでんいん)を設立した。また興福寺は法相宗の中心道場とされ、中国唐代に成立した唯識(ゆいしき)思想研究の法相宗を日本に伝えた二つの系統のうち、元興寺(がんごうじ)の系統を「南寺伝(なんじのでん)」というのに対して、興福寺の系統を「北寺伝(ほくじのでん)」という。興福寺における法相宗の学問的伝統は、平安時代から江戸時代に至る間に多くの学者が輩出し、多くの著作をなし、諸宗の学者が多くここに留学し、日本における仏教研究の水準を高め、学山として興福寺の名声があがった。この間、とくに平安時代から鎌倉時代にわたっては、「春日版(かすがばん)」といわれる多くの唯識思想関係の仏典を開板するなど、優れた文化財を残している。さらに平安時代には、藤原氏の氏神である春日神社を管轄し、藤原氏が栄えるにしたがって社会的、経済的にも隆盛となり、多くの荘園(しょうえん)を所有して、10世紀には大和一国を寺領とするに至り、南都の四大寺、七大寺、十大寺のなかでも、もっとも有力な寺院とされた。平安末期には僧兵を置いて闘争を事とし、彼らが春日の神木を奉じて京都へ強訴(ごうそ)に出向いた暴挙は、延暦寺(えんりゃくじ)の「山法師」と並んで、「奈良の法師」といわれて恐れられた。

 堂塔は平安時代以来幾たびも火災にあって焼失し、そのつど復興をみたが、1180年(治承4)平重衡(しげひら)による焼き打ちの難はとくに甚だしく、ほとんど全伽藍(がらん)を焼失し、その復興はなかなか進展しなかった。鎌倉時代以後、藤原氏の衰退で寺領は減少したが、しかし江戸時代になってもなお2万1000石を有し、塔頭(たっちゅう)は112院を数えた。1717年(享保2)の火災で大半の堂塔を焼失し、その後は復旧しなかった。なお、中金堂(ちゅうこんどう)は2018年(平成30)に再建された。また明治維新に際しては春日神社と分離し、寺領は上地(あげち)を命ぜられ、大乗(だいじょう)院、一乗(いちじょう)院、喜多(きた)院、宝蔵(ほうぞう)院、勧学(かんがく)院などの子院は廃寺となって衰微した。もと20余万坪もあった寺域も現在は、奈良公園となっている。

[勝又俊教]

文化財

現存する堂塔のうち、北円堂(国宝)は鎌倉時代の純和様の八角円堂で、内陣須弥壇(しゅみだん)上の弥勒菩薩坐像(みろくぼさつざぞう)(運慶(うんけい)作)のほか、無著(むじゃく)、世親(せしん)、四天王など国宝の諸像がある。三重塔(国宝)も鎌倉時代のもので、内部には極彩色が施されている。東金堂(国宝)は室町時代に六度目の復興をみたもので、天平(てんぴょう)の古様式を伝える和様建築であるが、堂内には平安初期の四天王像と鎌倉時代の十二神将像、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)像、維摩(ゆいま)居士像の国宝の諸像を蔵する。猿沢(さるさわ)池に影を落とす有名な五重塔(国宝)も室町時代の再建で、約50メートルの高さは京都の東寺(教王護国寺)の塔に次ぎ、日本の現存の仏塔中第二の高さを誇っている。南円堂は江戸中期に再建された八角円堂であるが、鎌倉時代の不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)(康慶作・国宝)を本尊とし、西国(さいごく)三十三所第9番札所となっており、法相六祖像(国宝)を安置した。301年ぶりに再建された中金堂は江戸時代の木造釈迦如来坐像(もくぞうしゃかにょらいざぞう)を本尊とし、ともに鎌倉時代の木造薬王(もくぞうやくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)立像を脇侍(わきじ)とする。本尊の背面には北向きに南北朝時代の厨子入り木造吉祥天倚像(ずしいりもくぞうきっしょうてんいぞう)を安置。須弥壇の四方には鎌倉時代の作で国宝の木造四天王立像(もくぞうしてんのうりゅうぞう)があり、ほかに東金堂に安置されてきた木造大黒天立像(もくぞうだいこくてんりゅうぞう)も安置されている。1959年(昭和34)食堂(じきどう)跡に開館した国宝館には天竜八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)像(とくに阿修羅(あしゅら)像が有名)、釈迦十大弟子像などもと西金堂に安置されていた乾漆(かんしつ)像や、梵鐘(ぼんしょう)、鎮壇具(ちんだんぐ)、板彫十二神将立像、金銅燈籠(とうろう)、天燈鬼(てんとうき)・竜燈鬼(りゅうとうき)像など、『日本霊異記(りょういき)』などの古写本(以上国宝)、また『僧綱(そうごう)補任』6巻、『興福寺別当次第』6巻などの文書を収蔵しており、同寺の国宝、国の重要文化財はおびただしい数にのぼる。興福寺は1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。

[勝又俊教]

年中行事

おもな行事としては、節分の夜、厄除(やくよ)け招福(しょうふく)を願い、松明(たいまつ)をかざして暴れまわる6匹の鬼を五重塔より年男豆まきで退治する鬼追式(おにおいしき)をはじめ、薪能(たきぎのう)(5月11、12日)、薬師寺と合同で行われる慈恩会(じおんえ)(11月13日)、文殊菩薩の供養(くよう)をし稚児(ちご)行列を行う文殊会などがある。とりわけ南大門(なんだいもん)跡で催される薪能は名高く、平安時代に西金堂の修二会(しゅにえ)で行われた古儀を伝える。11日夕刻より篝火(かがりび)を焚(た)き、野外舞台は能楽四座が技芸の粋(すい)を競う。

[勝又俊教]

興福寺領

当初の財源には藤原不比等(ふひと)ら施入の本願施入田があったが、奈良時代には官寺に準ずる扱いを受け、食封(じきふ)1000戸、墾田200町などを施入され、また100町までの墾田を認められた。封戸(ふこ)制の衰退に伴い、中世には種々の形態の荘園(しょうえん)群が当寺の経営基盤となった。寺領荘園の大部分は畿内(きない)近国にあり、ことに大和(やまと)国では数・量ともに東大寺など他の寺院・権門を圧倒した。また、大和国司兼守護たる当寺は同国内のすべての荘園・公領に土打(つちうち)役などの一国平均役を懸けることができた。さらに、多数の末寺も荘園同様の財源であり、関所・商工業座からの収益も少なくなかった。

 広義の興福寺領には、別当の管掌する寺門領のほか、一乗院・大乗院の両門跡(もんぜき)領および諸院家領が含まれる。寺門領は維摩会(ゆいまえ)など重要な法会(ほうえ)の用途を出す十二大会料所を中核とし、当寺の宗教活動の基盤となった。これに対し、門跡領以下は、数は多いものの、概して院家の家産経済を維持することに主眼があったといえる。所定の年貢・公事(くじ)のほか、寺門領には寺門段銭(たんせん)、門跡領以下には寺門・門跡段銭が随時賦課されたが、文明(ぶんめい)(1469~1487)ごろからは有力衆徒(しゅと)・国民(大和武士)が私段銭を課すようになり、興福寺の寺領支配も徐々に後退した。1580年(天正8)織田信長は大和一国に指出(さしだし)を命じ、この結果、寺門領1万9000石、一乗院領1300石、大乗院領950石が安堵(あんど)された。ついで1595年(文禄4)の太閤(たいこう)検地では寺門領1万5033石余、一乗院領1499石余、大乗院領951石余となり、近世にもほぼこの石高が踏襲された。

[田村憲美]

『永島福太郎著『奈良文化の伝流』(1944・中央公論社)』『朝倉弘著『奈良県史 10 荘園』(1984・名著出版)』『太田博太郎他監修『興福寺』(『名宝日本の美術5』1981・小学館)』『奈良六大寺大観刊行会編『奈良六大寺大観 第7、8巻』(1969、1970・岩波書店)』『『原色日本の美術3 奈良の寺院と天平彫刻』(1966・小学館)』『『古寺巡礼 奈良11 興福寺』(1979・淡交社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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