日本語で医学という場合,最も広義には,医療の技術へ焦点をあてた医術,倫理性に焦点をあてた医道,および医療のための知識に焦点をあてた医学の三つを含み,ときにこの二つ,あるいは一つを意味する。最も狭義には3番目の自然科学の一部としての人間生物学を意味する。したがって,それらの間を意味が動くために,なかなか定義が困難である。外国語では,たとえば英語でいうmedicineは,日本語でいう最も広義の医学にあたり,〈社会の制度的機能の一部として,病気の治療のための理論と実践〉として定義される。そこでここでは,最も広義の医学について述べる。
第2次大戦後,世界的に健康であることが人間の基本的権利の一つと考えられるようになり,どの国でもこの権利を国民に保障するために,医療の普及と向上を政治の優先的課題とするようになった。これによって医療を受けるものは急激に増加したが,これに対応するために,医療従事者もその種類と数を増やし,また医療の内容や形式も,それ以前の医療技術の面影がほとんど一新されるほど変化した。いま医療機関では,数ccの血液を採取して自動分析器にかけると,その中に含まれている10~20種もの物質をたちまち別々に測定して,その量を印刷して示すことができる。心臓や脳,筋肉などから発生している微細な電流を増幅して,その異常を分析し,異常のタイプまで分類して示すことができる。戦前には,単純な影でしか見ることのできなかったX線撮影機も,いまは,その影をコンピューターで処理することで,身体の各部の断面を描かせることができる。この器械が使いにくい部分は,超音波の反響や吸収を利用して,身体内部を眼で見えるようにすることができる。治療法についても,これらの情報をもとに,可能性の幅と深さが飛躍的に増大してきた。とくに外科技術の進歩は,身体内でメスの及ばない部分をなくすまでになっただけでなく,臓器の移植や人工臓器までが可能になっている。薬剤療法についても,病原微生物の発育を強力に阻止する抗生物質がつぎつぎと開発され,また,生理機能を選択的に抑制したり昂進させたりする薬剤も多数開発され,医学は病気の統御に絶大な能力をもつと思わせるようになった。
しかしながら,それとともに,医学に内包される矛盾もしだいに大きくなってきた。新技術の開発とその医療現場への導入が,企業ペースで先を競っておこなわれることから,医療の安全性について寒心すべき事態が頻発するようになった。医療が非人間的になったという不満もしだいに高まりつつある。技術の基礎は科学とくに自然科学にあり,自然科学の原則は客観性にあることから,これを技術化すると,患者の主体性を顧慮しない,冷たい技術としての面が広がるからである。ところで,このような技術の進歩を推し進めてきたのは,上記のように健康権という人間の権利を承認したことによる。ところが,それを適用する段階になると,患者の主体性を軽視した医療になるという矛盾がおこる。主体性を尊重するとすれば,医療における意思決定の権利も,当然患者の側になければならない。しかし,病気のために理性的な判断が困難になっている患者の場合,当人の決断をそのまま承認してよいかという問題もおこる。さりとて,すべてを医師の判断にゆだねるその根拠は,と公開の場で問われると,万人を納得させうる論理をもちあわせないという倫理的な問題もおこっている。
これらの矛盾の背後にあって,最も強力な影響力を及ぼしているのは,医療保健経済からの圧力である。なるほど,このような医療の近代化にともなって,確かに,ある種の病気の罹患率は減少し,それらによる死亡率も減少してきたが,逆に上昇しているものもあり,総体としての患者数は増大の一途をたどってきた。これらの病気に対しては,さらに高度の医療技術を開発することで制圧できるという意見もまだ強い。しかし,国民経済の中で医療費に向けられる比率がしだいに大きくなり,とくに1970年代になると,世界的に経済成長が停滞したために,医療費の比率は急速に大きな部分を占めはじめ,それをおしとめるために,投資効果の面から,これらの近代医療の見直しを促進する状況をつくりだすことになった。当然,これまでの医療が準拠してきた医学の諸原理についての再検討も始められる。
これらの再検討から出てくる展望は,医療の形式からすれば,プライマリー・ケアprimary health careということになるであろう。それも,地域住民の保健医療への参加を含めて,計画的に展開される地域保健医療ということになる。このプライマリー・ケアの定義は必ずしも固定していないが,保健医療の問題を,患者の心理,生活,環境をあわせて,全面的,持続的,組織的に扱うものであることは共通している。この方向への展開の妥当性を具体的に検証すべく,いま世界の医学は動きつつある。
→医療
医学は健康を回復させる援助的行為に関連したものであるが,より広義に,そして基礎的には,健康あるいは生命を維持するための行為だといえる。起源的に考えても,ヒトが生命を維持するためには食物を獲得しなければならないことから,自然物のうちなにが食物として適しているのかという判別をはじめ,それが動物性のものならその捕獲法,植物性のものならば生態に関する知識や栽培についての技術などが医学に関連してくる。ヒトは火を用いて調理をおこなうが,生食に比べて,調理されたものは,より健康維持のために有利である。このことから,ヒッポクラテスは医学の起源を論じて,調理術こそそれであるとした(《古い医術について》)。また,体毛の乏しいヒトは,雨露や寒暑を防ぐために衣服を発明し,家屋をつくることを工夫した。住みにくいところ,すなわち健康に不適当な場所でも,住居環境を変えることで,住めるようにしてきた。このような基本的な,生命を維持するための営みは,個人的,家族的,あるいは部族的生活維持の必要性を超えて,自己充足的な運動を展開するようになる。しかしこれが,一方でより起源的,基礎的な部分である直接的な生命の維持や健康の保全に望ましくない作用を及ぼすようになることもある。そこで,この基礎的な部分は,衛生という名によって自己主張しなければならなくなる。
一方,生命維持に破綻(はたん)をきたそうとしている生体は,その生体自身の機能によって生理的な調整をおこない,さらに,その個体に先天的に備わった,あるいは後天的に獲得した特殊な行動をとる。活動性を異常に低下させたり,苦痛の表出をおこなうなどがそれである。集団生活を生存の大きな条件としている人間は,そのような行動をとっている他人を見た場合に,援助的行動をとる。もっている知識・技術を使って,生命維持に破綻をきたそうとしている仲間を助けようとする。このような利他的行動に,医学の動機づけの基礎がある。ただし,人間は発達した大脳をもち,言語的世界での整合性によって日常行動を律するという習性をもつ。したがって,単に生命維持の破綻,あるいはその回復を表す行動と,それに対する援助的行動との結合だけでは満足できない。つまり,原因はなにかということである。その原因は,まずは経験的・自然的世界に求められるが,経験世界が狭いときには,それを発見しえないことがある。このような場合には,超自然的世界にも原因を求めることになる。この世界は,感情的なイメージの類推によって結合がおこなわれるために,不安をもつ被援助者を鎮静させる行動をとりやすい。これが,いわゆる迷信とか,呪術(じゆじゆつ),魔術につながる援助的行動で,未開社会あるいは原始的社会における医療の起源として,しばしば引用されるものである。しかしそれは,原始社会に限らず,現代の科学的に高度に洗練された医学の背後にも存続して,論理の誘導に大きな働きをしている。職業の歴史からすると,このような呪術師は人類最古の職業の一つだという。経験的な援助ならば,同族・同部族の年長者やもの知りなどで対応できるが,経験を超える事態においては,日常性から離れた,超絶した存在であることが,むしろ望ましい。それによって聖性を獲得でき,援助の実をいっそうあげることが可能となるからである。そして逆に,このことがさらに専業を助けることにもなる。呪術師については,民族学者が注目した黒呪(魔)術師と白呪(魔)術師の区別は,援助の倫理性について歴史を超える問題を示すものとして興味ぶかい。つまり,黒呪術師が,依頼者の私的な要求,とくに社会的に非難さるべき要求をも引き受けて,その知識・技能を用い,人をのろうことをもするのに対して,白呪術師は社会的に承認された要求のみを援助する。当然,前者は秘密の職業であり,発見されれば,社会から追放されたり私刑にあうことを覚悟しなければならない。それとともに,いま一つ注記的に指摘しておくべきことは,このような呪術師のおこなう行為をすべて呪術的とみてはならないということである。実際には多くの経験的な判断にもとづいた行動をおこなっているのであり,呪術を行使するのは経験を絶した事態においてである。医学は,このような一般的な援助の中で,とくに身体的な問題に中心を定め,できうる限り経験的に対処することを任務として,分化してきた。その経験を整理するためには,できる限り客観的な合理性を基礎とするが,その表現形態は,それぞれの社会において優位な認識体系に準拠するほか,医学が求められている主要な状況と課題によって,問題解決の方法を変える。医学の歴史は,このような医学をめぐる条件の変化によっておこる認識と行為の歴史である。
ここでは主として,ヨーロッパと日本の医学の歴史について述べる。なお,インド,アラビア,中国の医学の歴史については,それぞれ〈インド医学〉〈アラビア医学〉〈中国医学〉の各項目を参照されたい。
文明の発祥地とされているティグリス川,ユーフラテス川,ナイル川など,いずれの地域における古代国家においても,医療は,かなり重要な技術とされ,国家によって制度化され,国家宗教や支配階層の信ずる呪術と結びついていた。統一国家を統治するためには,その正当性と権力を保証するために宗教や呪術が必要である。医療はその実証として使われる。ただし,医療の任務は,支配階級の医療要求にこたえることを主とし,偉大なる支配者が,神の庇護のもとにおこなう慈善と,その能力を示すために,ときに一般国民の医療要求にもこたえた。すなわち,古代国家における医学は宮廷医学であり,経験を神秘的な衣で包むことによって,その位置を保ったのである。
メソポタミアの古代国家はいずれも多神教と深く結びついている。医療技術者は宮廷周囲に集められて上述のような任務を与えられたが,医療過誤についての罰則規定もあったことがハンムラピ法典の中にみえている。興味あることは,まとまった症状を呈する重要な疾病は,それぞれを神の名において命名されていたことで,たとえば,ペストは〈ナムタルウ神〉,流行病は〈ウルガル神〉〈ネルガル神〉,熱性頭痛は〈アサックウ神〉などである。しかし,多くの身体機能の障害は症状をもってよばれ,これらに対しては,占星術や予兆論的な判断とともに,合理的な治療法も多く講じられている。とくに,香油塗擦,マッサージ,沐浴,罨法(あんポう),浣腸などの処置はかなり一般的であり,ハンムラピ法典などの記載から,白内障の手術や骨折整復などもおこなわれていたことが知られる。メソポタミアにおけるバビロニア以前の古代国家の文明について,最近多くの発掘や資料の解読がおこなわれ,医学的な知識についても,かなり合理的な経験の蓄積があったことが知られている。
エジプトの統一古代国家は紀元前3000年に成立するが,医療は国家の保護を受け,医神〈トート〉ほかの医療の神をまつる神殿の司祭の手によっておこなわれた。いくつかの場所の神殿には医療担当司祭の養成所もあったことが知られている。ヘロドトス(前5世紀)の旅行記や,また墓碑銘に〈王様の肛門の番人〉とか〈宮廷眼科医〉などのタイトルを刻んだもののあることから,古代エジプトの医療には極端な分化があったことが指摘される。しかし,それが医学の発達による分化であるのか,あるいは医学に統一される過程での,個別的な技能者の存在を意味するのか,意見の分かれるところである。古代エジプトの医学を直接示す資料としては,いくつかの医学に関するパピルス文書が残されており,いずれも完全に解読されている。最も古いのはカフーン・パピルス(前20世紀ころ)で,産婦人科と獣医学に関するもの,エドウィン・スミスのパピルス(前14世紀ころ)は外科,エーベルス(前17世紀),ハースト(前16世紀),大ベルリン(前14世紀)と名づけられたパピルスは処方集,ロンドンという名を冠するパピルス(前14世紀)は呪法を内容とする。ほとんど神秘的な粉飾のないものもあり,また呪術的,宗教的な色彩の強いものもある。
宗教から医学が脱却したのは,古代ギリシアと周以降の中国である。ギリシアは,その自然環境が,島々と,後背地が農耕に不適当な山岳地帯であることから,強大な統一国家が生まれず,海洋交易をもって文明をつくった。したがって国家宗教は育たず,さらに言語習慣を異にする民族との交易やコミュニケーションのためには,民族性や宗教色のない,抽象的で互換性のある記述のほうが価値の高いものとされた。ギリシアの自然哲学は,このような条件で生まれた。自然は神によって生まれたものではなく,自然を構成する元素の濃縮や希薄化,あるいは結合・分解によって成立すると考えた。タレスはすべては水の変態だとし,アナクシメネスは空気,ヘラクレイトスは火,そしてエンペドクレスはこれらに土を加えた4元素を考えた。古代ギリシアの各都市では,さまざまな医療がさまざまの学説を基礎として市民に提供されたが,とくに注目されるのはヒッポクラテス(前460ころ-前377ころ)である。コス島の医療者ギルドの家に生まれた彼は,小アジア,地中海沿岸を旅行しつつ,各地で医療技術を修得するとともに,気候・風土と健康の関係を調査した。彼がとくに偉大だとされる理由は,医学を呪術や宗教とはまったく別の基礎をもつものとしたこと,病理的現象と自然環境,食物,生活との関係を注意ぶかく観察したこと(この意味で疫学epidemiologyの開祖といわれる),症状経過の観察から予後を知ることに努めたことなどである。とくに治療に関連して,症状を生体の防衛能力の現れとみて,それを支援することを原則とした。彼の言葉として伝えられる〈病を医するものは自然なり〉,あるいは〈病を治す自然〉から,のちに自然治癒力という概念が生まれる。彼の著作は,没後100年ほどして,アレクサンドリアのプトレマイオス王家の命令で収集,編集され,《ヒッポクラテス全集》として今日まで伝えられている。そのすべてがヒッポクラテスのものではないといわれるが,少なくとも,医療の起源を呪術師でなく調理人とした《古い医術について》,その発作の唐突さと激しさのゆえに,神の怒りによるとされていたてんかんを脳の病気であると論証した《神聖病》,上述の疫学の先駆的記載法とされる《空気・土地・水について》など数編は,彼自身のものとされている。また,〈ヒッポクラテスの誓い〉など医療の倫理に関して,彼によるとされている金言・格言のたぐいも多い。ヒッポクラテスの活動したころから,ギリシアでは奴隷制度が定着・普及し,市民たちは労働をしなくなった。このことが技術と学問との分離をおこし,これにともなって哲学も自然哲学から,人生や思考そのものをテーマにするようになった。プラトンは観念論哲学を確立した。その弟子アリストテレスは,生物学にも関心をよせ,目的論を基礎に生命現象を理論化し,長く後世まで影響を及ぼすことになる。
ローマ人は医療にはあまり関心をもたなかった。ローマ人で医療を志すものは少なく,ローマの領土で医療をおこなうのは,ほとんどが奴隷か外国人かであった。また,ローマ人は自ら学問的研究に従うことより,それまで各地で開発され,伝えられた知識を集大成することに,むしろ興味を注いだ。また,ローマの支配地の拡大にともない,珍しい動植物の収集がおこなわれたが,これも学問的興味というより,収集自体を楽しむことが目的であったようである。生物学史と医学史との関係で注目されるのは,ギリシア人たちの医学的知識を集大成したA.C.ケルスス,約600種の植物の薬効について記載したP.ディオスコリデス,および37巻の《博物誌》を編集した大プリニウスらである。《博物誌》は昔の学者の動植物の記載を集めたものであるが,食用,薬用のほか道徳的教訓としての効用の面から集めている。このような集大成好きのローマの学者で最も傑出しているのは,ガレノスである。小アジアで生まれ,ローマで開業したり,皇帝の侍医となったりしながら,彼はあらゆる学問に関心をもって研究したが,とくに医学に関しては,神経切断実験によって,神経の支配領域を同定したり,摂取した水と排出される尿について量的関係を研究するなど多くの実証的な業績もあげている。疾病観や治療法などは,おもにヒッポクラテスに拠りながら,アリストテレスの目的論的生命観を基礎に,医学を理論化し,整然とした学問的雰囲気を与えることに力を注いだ。これについて,ドイツの医学史家ノイブルガーMax Neuburger(1868-1955)は,ヒッポクラテスが〈医術の父〉とよばれるとすればガレノスは〈医学の父〉であると評している。ただし,あまりにも理論的整合性を追いすぎ,しかも目的論である点が,近代に入って批判された。つまり,ガレノスの克服をもって医学や生物学の近代が始まったという解釈が一般的になっているのである。このほかローマ時代には,学問的には特筆すべきものはあまりないが,上下水道の整備,スポーツの振興,公衆浴場の建設など,健康生活の実践においては卓越していた。
中世は,〈野蛮人〉であるゲルマンの侵寇とキリスト教の支配によって,文化や科学技術の面では暗黒時代であったという解釈がかつて一般的であったが,北方文化と南方文化が混交することによって,むしろ進歩した面も多い。とくに教会建築を支えた技術,さらにその背景にある生産力や経済力については,過小評価すべきではないであろう。もっとも,学問・思想の面では,すべてが教会の示す解釈に従わねばならないために,創造的な思考に制約がかかったというのは確かであろう。
中世ヨーロッパの医学は僧院医学だとされている。事実,二,三の大寺院や修道院には,古い医学書が多数保存され,また主として聖職者のためではあるが医療施設をもっていたところもあり,またそれらの寺院で〈訓練を受けた聖職者〉が,民衆の医療にあたったこともある。しかし,キリスト教の教義からすると,肉体よりは精神を重視せねばならないために,肉体的な問題にあまり濃厚にかかわりあうことには疑義が生ずる。そのため,僧院医学における慈善医療の位置づけは安定さを欠き,ときに奨励されたり,ときに禁止されたりした。もちろん原則としては医療より慈善が優位とされ,社会的弱者,とくに癩患者,孤児,孤独な老人などを収容する施設が,各地に設けられることになる。これらの施設は,〈お客host〉として扱うという意味で,ホスピタルhospitalとよばれることが多かった。もっともこの言葉は,宿泊所の意味をももたされ,教会付属の無料の巡礼宿をさすこともある。このようなホスピタル建設運動には,キリスト教のセクト教団がキリスト教の普及をかねて競ってとりくんだ。とくに癩患者は,その厚い処遇について聖書に指示されており,社会的にも強く忌避されていたこともあって,1179年のラテラノ公会議で,とくに重視するよう布告されてから急速に普及し,13世紀には全ヨーロッパで,1万9000施設にも達したという。ただし,聖書の記載や,中世の診断法などを検討すると,癩という名でよばれていた疾患は,今日のハンセン病ではなく,黄癬(おうせん)や白癬など,かなり広範な皮膚病患者も含んでいたとみられる。中世にはまた,ペストの大流行があった。14世紀に5回,15世紀に7回,16世紀に7回と大小の流行があり,とくに1348年の大流行では,ヨーロッパで2000万人以上が死亡したと推定されている。ペストは社会経済体制にも大きな影響を与えたが,このように大量の患者の発生に対しては医学はまったく無力で,ただ患者を隔離したり,死者の埋葬を急ぐのを傍観するだけであった。
僧院医学が中心の中世とはいえ,都市化が進めば,業としての医療を営むにたる需要もしだいに増えてくる。このような需要にこたえる知識・技術は,人や商品の流れの大きな,とくに異文化との接点のような都市に蓄積される。中世において,このような文化の,そしてとくに医学のセンターとして名声を得た都市は,サレルノとモンペリエであった。サレルノはイタリアのナポリから60kmほど南の港町である。気候もよく,7世紀以降ベネディクト派の僧院が建てられて,奇跡を生むとされた聖人の遺品・遺骨が保管されていたために,難病者たちが集まったことや,領主が文化を保護し,ギリシア,ローマ,アラビア,ユダヤの文化が併存しえたことなどから,古くから栄えた。少なくとも10世紀末には,医学を教える施設がつくられていた。〈サレルノ医学校の4人の教師〉という伝説が示すように,この医学校(サレルノ大学)は,4文化圏出身の教師たちによって始められたと考えてよい。1140年には,医学校はこの地を支配していたシチリア王の名で,〈以後医療をおこなわんとするものは,試験を受けて合格することを要する〉旨の布告を出させて開業制限をおこなった。ヨーロッパにおける医師免許あるいは国の名による開業試験の始まりである。
一方,モンペリエは南フランスの地中海に面した,やはり商業の中心地であった。キリスト教,イスラム教,ユダヤ教の共存が許されており,ここで医師たちは,国籍や宗教を問わず医学を教える権利を領主から与えられていた(モンペリエ大学)。さらに彼らは,ローマ法王から許可を得て,医学教師たちの組合,ウニウェルシタス・メディコルムUniversitas medicorumを設立した(1220)。開業免許証を領主から出させる方式,教師団が教育する権利をもつ方式,いずれも中世ヨーロッパの都市におけるギルド制度を適用したものであり,やがてヨーロッパ各地にも普及するようになる。
ところで,この二つの医学センターでは,医学古典の講述のほかに,動物の解剖示説や,患者との応接法などの具体的,実用的な講義もなされた。各地から集まった患者たちは,おだやかな気候のもとで静養しつつ,多様な医師から多様な治療を受けることができた。
サレルノ,モンペリエの医学教育には,アラビア医学の影響が大きかった。ローマが滅んで,学芸はアラビアに移り,ルネサンスになって,ヨーロッパは再びアラビアを介して,ギリシア,ローマの文化を再発見するというのがおおよその筋になっており,アラビアは単に中継地であるという理解が,かつてはなされていた。しかし,アラビアに固有のもの,または,そこで発展し,ヨーロッパへ継承されたものも少なくないし,今後の歴史的研究によって,さらに解釈が変わるかもしれない。とくに錬金術に結びついた化学,およびその実験技法,それらに関連して発展した薬学領域には,明らかにアラビア固有のものが少なくない。医療制度についても,病人を収容して治療を施す場所としての病院は,ヨーロッパよりアラビア圏においてより古い。すでに7世紀には,バグダードに四つの病院があり,ほかに精神病院もあったという。8世紀から10世紀にかけては,アラビア文化圏のあちこちに同様な施設が設けられた。ヨーロッパでも,病院としてのホスピタルが生まれるのは,アラビア文化に近い,スペインや南フランスが早い。アラビアの医療の実践を支えた知識や理論は,ギリシアやローマ系のものであるが,インド系のものもある。アッバース王朝の侍医を務めたバルマク家はインド系であった。アラビア文化圏の各地では,このような外国語の書物の翻訳がおこなわれた。医学書の翻訳者としてとくに知られているのは,フナイン・ブン・イスハーク,サービト・ブン・クッラらである。フナイン・ブン・イスハークは,各地を旅行して,ギリシア,ローマの医学書の写本を多数比較考証して,正確な訳出に努めた。このような訳書の上にたって,10世紀ころから,オリジナルな医学書も書かれるようになる。臨床家としては,ラージー(ラゼス),理論家としてはイブン・シーナー(アビセンナ),そして外科ではコルドバのアブー・アルカーシム(アルブカシス)が有名である。
→アラビア医学
眼をまたヨーロッパにもどすと,12世紀ころから,医学史の舞台に,フュシクスphysics,マギストレイン・フュシカmagistrein physica,ドクトル・メディキナエdoctor medicinaeなどと名乗る医師たちが登場してくる。彼らは,学位をもつ医師たちで,このころから,イタリア,フランスをはじめ,ヨーロッパの各地に大学が設立された。大学のことを英語ではユニバーシティuniversityというが,その語源はウニウェルシタスuniversitas(〈統一したもの〉の意)で,11~12世紀ころから,教師あるいは学生,さらにはその両者によって,ギルドにならった結社がつくられ,自律的に,教える資格を認定する組織が生まれた。それが大学の起源である。聖職者,法律家とならんで,医療をおこなうものも,この組織によって人を教えるにたる学識を所有することが認定されて,初めて社会的に信用されることになる。医師のことをドクターdoctorというのは,そのような資格をもつ医療者であるということである。中世も末期になると,聖職者,法律家そして医師たちが要求されるような社会経済的な基盤が,ヨーロッパに成立してきたということでもある。
こうして学校が設けられ,学問が盛んになると,本が必要になる。それも,評価の定まっている古典がより重視される。当時最も豊富に,しかも比較的新しい資料を保有していたのはアラビア文化圏であった。アラビア文化との接点では,盛んにアラビア語からの翻訳がおこなわれた。この過程で,アラビア圏での著作だと思われていたものが,その典拠が実はギリシア,ローマの書物にあることに気づき,直接,ギリシア,ローマの書物を研究の対象とし,その思考や表現様式を模倣しはじめたというのが,ルネサンスという言葉の意味であろう。大学がつくられると,当然教師が職業化し,それぞれの教師は専門学をもつことになる。当然,専門に関連した書籍に通じることが評価の対象になるが,さらにそれを深く理解するために,経験との照合が始まり,やがて自らの解釈や学説を提出するようになる。ところで学問とはなんであったのか。ローマ時代には,それは自由七科とよばれた,文法,修辞,弁証法,幾何学,天文学,算術および音楽をいう。これは,大学の教科としても,基礎的なものであり,神学や法学を学ぶにしても,また医学を学ぶにしても,必修とされ,これらの科目の修了者に専門科目が教えられた。パリ大学の15世紀末の医学の科目としては,解剖学,熱病論,瀉血(しやけつ)法,食事療法,薬物学,病理学,外科学などがあり,それぞれ古典を中心に,教師の経験をおりこみながら講義がおこなわれた。同じころのドイツのライプチヒの医学教育の科目としては,午前中は1年目がイブン・シーナーの《医学典範》,2年目はガレノスの《小医典》,3年目はヒッポクラテスの《箴言(しんげん)》が講ぜられ,これらを理論医学とよんだ。午後は臨床医学とよび,1年目はラージーの医学書,2年目は熱病論,3年目は《医学典範》による一般治療学,このほかに特別講義があった。臨床実習については記載されていない。
外科医の先祖は理髪師だという説がある。確かに床屋外科医(バーバー・サージョンbarber-surgeon)と称する職業はある。はさみやかみそりをもって,髪やひげの手入れをするほか,瀉血をおこなったり,体表の外傷,潰瘍の治療をおこなうことを業とした。今日まで伝わる理髪師の看板である,細長い棒に赤,青,白のらせんがからまっているシンボルは,それぞれ動脈,静脈,神経だという解釈が一般的である。しかし,外科手術をおこなったのは床屋外科医だけではなく,ドクター称号をもつ医師たちもおこなった。サレルノやモンペリエの医学教育の中では外科も内科も区別されなかったし,北イタリアの大学では当初から外科は医学教育の正規の科目として講義されていた。もっとも13世紀には,内外科の分離の兆候が始まっている。まず,パリ大学が教科の中から外科と実地医学という科目を除いた。自然学や理論中心の大学に編成するのに,技術的な科目は嫌われたのである。このころパリには,イタリアから外科に得意な医師たちが,かなり集まっていた。彼らは,床屋外科医と混同されることをおそれ,1260年組合を結成し,サン・コーム・コレージュSaint-Côme Collègeと名乗った。サン・コームとは聖コスマス(コスマスとダミアヌス)のフランス名で,癌で足を切断した患者に死体の肢を接合させた伝説をもち,殉教して聖人に列せられた人物である。この組合は,大学と同様な教育や資格制度をつくり,服装も床屋外科の短衣と区別するために長衣を着たので,長衣の外科医という名称ができた。このような行動は,大学を意識したものであったので,大学側も対抗的に,外科医を一段低いものとして扱い,床屋外科医コースを設けて,学問用語もラテン語ではなくフランス語のテキストで講義をさせたりして混乱させようとした。ベルギーやイギリスの大学は,パリのそれをモデルにして設立されたものであるために,外科が大学から切り離され別建てとなった。これらの外科医の教育・同業組合と大学が対立をやめて,統一されるようになるのは18世紀になってからである。
外科医が学問を修めるとなると,まず注目されるのは解剖学anatomyであった。それもまずは知識としての解剖学,古典を通じての解剖学であった。すでに8世紀ころのサレルノの医学教育では解剖学のテキストを講読することが必修とされていたし,フリードリヒ2世(1194-1250)はサレルノの学生に解剖学を重視することを勧告し,とくに外科学生には1年間の学習を義務づけた(といっても,国王が自発的にこのような命令を発したのではなく,医師団の要請を勅令の形で権威づけただけのことである)。もっとも実習には,おもに動物が用いられ,人体解剖は5年に1度程度,公開でおこなわれた。モンペリエでは,モンドビユHenri de Mondeville(1260?-1320)が最初の解剖学の教師であったという。こうした草創期から16世紀ころまで,最も広く使われたテキストはボローニャ大学のモンディーノMondino dei Liucci(1270-1326)の《解剖学》であった。教皇庁のあるバチカンでは1368年,毎年1回公開で人体解剖をおこなうことが定められ,その他の大学でも14世紀から15世紀にかけて定期的におこなわれるようになった。材料はほとんど刑死体で,市民を対象とすることは多くの都市で禁じられた。このような公開解剖は,はじめは医学関係者に限られていたが,16世紀になると,専用の円形階段講堂がつくられ,一般市民にも公開された。このような状態のなかで,リアリズムを進めようとする芸術家たちも,人体解剖に関心をもった。ミケランジェロ,レオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロらがそうである。このような芸術家たちよりややおくれて,ベルギー生れで解剖学に並はずれた関心と熱意をもってとりくんだA.ベサリウスが登場した。彼は経験にもとづいて《人体の構造》(《デ・ファブリカ》とも略される。1543)を刊行した。図譜はティツィアーノの弟子カルカールGiovanni da Calcar(1499-1546か50)の筆になる。当時の解剖図譜によくみられるように,解剖されつつある身体の後ろに風景が描かれていたり,骸骨が机にほおづえをついたりしている。印刷は当時,最も技術が高いとされた,スイス,バーゼルのオポリヌスJohannes Oporinus(1507-68),出版費用は上記の画家カルカールが出したという。この出版は成功し,ベサリウスの名を有名にした。印刷とのかかわりでいえば,1450年ころ活版印刷が実用段階に入り,医学書の印刷も始まるが,需要からすれば,ラテン語で印刷された高級な学術書より,やや通俗的な保健養生書や,ドクターでない医療技術者向けの本の出版のほうが多く,数も多かった。ドイツで最初に刊行された医学書はドイツ語の《養生保健書》(1472),イタリアでもイタリア語の外科書(1485),イギリスでは一般人向けのペスト対策書(1485)である。15世紀に出版された印刷物のことを書誌学ではインクナブラという。数にして3万8000点ほどあり,うち医学に関するものは1500点,さらに単行書といえるのはその約半数である。
ドクターとよばれる医師たちは,解剖学だけでなく,自然(科)学の諸方面で開拓者的な研究をおこなうようになる。16~17世紀の科学革命とよばれる時代を担ったのは,聖職にあった学者と,医師たちである。生理学(フィジオロジーphysiology)という言葉を導入したということより,子午線1°の正確な測定を初めておこなった(1545)人としてむしろ有名なのは,フランスの医師J.フェルネルであり,イギリスの医師レコードRobert Recorde(1510-58)は,数式に+,-,=などの記号を導入,多項式の平方根の求め方を発見した。スイスのベルヌーイ一家は数学者を多数輩出しているが,そのうちヨハンJohann Bernoulli(1667-1748),ダニエルDaniel B.(1700-82)は医師である。物理学では,エリザベス女王の侍医W.ギルバートは,磁気の研究で,電磁気学史からはずせない。そのほか,時代は次の世紀に移るが,化学や生物学でも医師は広く業績をあげている。まだ専門科学者が生まれてこない時期にあっては,研究費のうえでも,時間についても,専門の研究には比較的余裕のあった聖職者と,医師以外には困難だったということが,このような状態を招来したのであろう。医師たちの自然科学研究で,対象を人体に向けたものも少なくない。イタリアのS.サントリオは,体温計,脈拍計,湿度計などを工夫し,皮膚呼吸を実測しようとしたが,うまくいかなかった。しかし,計測を方法として医学に導入しようとした点は注目される。イギリスのW.ハーベーは,数量的方法と帰納論理を用いて,血液が循環していることを実証した。このことを記載した《動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的論考》(《血液循環の原理》と略される。1628)は,近代実証的生理学の基礎をなすものとされている。フランスの二元論哲学者のR.デカルトは,彼の著作が自分の主張する動物機械論を立証していることを喜んで,自著に紹介したために,ハーベーの所説はヨーロッパの知識階層に広く知られるようになったのである。
デカルトの二元論は,人間に特徴的な自覚する存在という精神の側面と,物質的な身体の側面をはっきり区別した。つまり身体は,精神とまったく別なものとして,物質の相互関係によって解明せられるべきものとされたのである。そのように彼が宣言し,またそれを多くの支持者が承認するという思想的な条件ができていたのである。それは,19世紀の科学史家や医学史家たちの多くが主張したように,キリスト教的思想あるいはキリスト教の支配に対する闘いとして,近代的・実証的科学思想が勝利をおさめたというより,宗教的思想や世界観とならんで,実証主義が育ってきたと考えるべきであろう。ごく単純に観察しても,科学が育つことによって宗教が衰退したということもないからである。しかも,そうした実証主義,科学的世界観自体が,キリスト教圏に胚胎し育ったということも,思想形成の系譜としては重視しなければならない。そうなると,デカルトの二元論は,かなり根源的な意味で見直さなければならなくなる。とまれ,彼によって,身体面を物質世界の現象として理論的に構成しようという傾向が根拠をもって求められだしたことは確かである。
物質世界の現象の理解には,ベサリウスらの解剖学者がやったように,身体内部を観察し,器官や組織の形や位置によって機能を理解することである。手足が筋肉によって動くのは,いかなる機構によってか,これは力学の問題として解ける。物理学が人間や動物の運動理解に有効になる。また生きている身体は,食物をとりいれ,それを身体成分につくりかえて成長したり,運動する。つまり化学的な変化でもあるとすれば,化学的にも理解できる。正常の身体をそのように理解できるとすれば,病気の理解にも有効であり,正しい治療法を理論的に導くこともできるはずであるという考え方も育ってきた。物理学を武器として医学を構成しようと考えた人々のことを物理的医学派(イヤトロフュジカー。医物理派とも訳される),化学を原理としようと考えた人々のことを化学的医学派(イヤトロケミカー。医化学派とも訳される)とよぶ。物理学も化学も,まだ草創期にあり,方法もまだ未熟である時期に,著しく複雑な身体現象の説明を求めても,無理が多い。いきおい,物理学的,化学的な装いを示しながら,その実,思弁でしかない学説がいろいろと提出されることになる。しかも,医学は,つねに切実な,眼の前の実践を目的とするために,それらの学説が患者の治療に応用された。たとえば,ハーベーの血液循環論は,静脈内に直接薬物を注入すれば,内服や外用よりはいっそう早く全身へ運ばれるであろうという期待を生み,1660-70年にかけて,血液をはじめ種々の物質の注入が患者に対しても試みられ,多くの事故を生んだ。また物理的医学派の一人F.ホフマンは,身体の単位的な構成要素としての繊維という概念に達し,あらゆる機能を,この繊維の緊張・弛緩によって説明し,病気は,それぞれのゆきすぎ状態としての過緊張か低緊張,あるいは無緊張であると理論的に単純化したうえで,過緊張に対してはアヘンを,低緊張に対しては酒精(スピリッツ)を処方すべきであると主張し,多くの賛同者を得た。化学的医学派としては,パラケルスス,J.B.vanヘルモント,F.シルビウスらがいる。パラケルススは,身体の機能を自然界の物質の生成,変化,消滅を説明する三つの原質によって動かされるものとし,それらにより直接的に作用するものとして,鉄,水銀,アンチモン,鉛,銅,ヒ素などの金属化合物の薬用を強力にすすめた。シルビウスは,生命機能を発酵としてとらえ,それによって生じた酸性物質とアルカリ性物質とが血液中に適量に混在するときに健康とし,不均衡なとき病気と考えた。このような思想は,近代医学の模索とする考え方もあるが,その背景にドクターと名乗ることになった医師たちが,学識のあかしを精いっぱい診療にもちこむ努力であったとみることもできる。つまり,ドクターとしての信頼をかちえたうえは,理論的にすぐれたようにみえる方法を適用しなければならないが,その結果については個対個の信頼関係の陰で批判の埒外とすることができるからである。
治療の成果が批判されるには,結果が量的にも集められることと,第三者的な批判の場にもちこまれることが必要である。それは,診療の場が集団化すること,つまりは病院が医学の教育や研究開発の場になることによって初めて可能となる。上にも述べたように,中世にあったホスピタルは,病院というよりは宿泊所または収容所であった。これらは教会が設立主体になっていたが,宗教改革やそれにからんだ内戦・外戦の間におおむね閉鎖された。イギリスでは,ヘンリー8世が1534年に国王至上法を発布し,国教を誕生させるが,このとき教団の施設・財産を没収,売却した。収容されていた病人,身障者,孤児,老人たちは,追い出されて街を徘徊して物ごいやかっぱらいなどをして治安上の問題となり,また行路病でたおれるなど衛生上にも問題となった。そこでロンドンでは,かなり経済力をもつようになった商人・工場経営者たちが,自分たちで財政を担当・運営することを条件に,セント・バーソロミュー病院とセント・トマス病院を再開し,新たに2人の外科医を病院の診療担当として任命した。それから2世紀ほど,イギリスの病院といえば,この二つに限られていた。1708年になって,フランスのユグノー派の難民がイギリスに逃げてきて病院を建てた。それに刺激されて,銀行家ホーアHenry Hoareや宗教関係の著述家ウォーガンWilliam Woganらが発起人となって寄付をつのり,ロンドンのセント・マーガレット教区の人々のために,ウェストミンスター聖堂のそばの家を購入して病院とした。これがウェストミンスター病院のおこりである。はじめは2室16床にすぎなかったが,6人の外科医と2人の内科医が無料で入院者の診療を引き受け,各室1人の看護婦と1人のコックを雇って患者の日常的な世話をおこなった。1745年には改築して250床となり,薬剤師や7人の用務員を雇うところまで大きくなった。以後19世紀にかけて,都市化の進行にともなう労働者人口の増大と,彼らが病気になった場合の社会的救助施設としての病院が,ロンドンをはじめイギリスの各都市につぎつぎと設けられるようになる。もちろん,有産階級用の病院もなかったわけではないが,圧倒的多数は,このような社会施設として,公的に設立され,運営された。もちろん,キリスト教社会であるから,そのような事業は慈善として高く評価され,病院の理事会の役員になることを名誉と考え,また開業医たちも,自分の診療所での診療のかたわら,病院へ赴いて,無報酬で収容患者の診療にあたった。このような行為は独立自営業としての医師の地位をさらに高めるものとして,希望者が多かった。イギリス以外の国においても,ほぼ同様な経過をたどって,病院が設立・運営された。このような構造は,医学に大きな変化を及ぼし,医学は近代医学としての特質を備えるようになる。
→病院
病院は原則的に社会施設である。社会の費用で収容されている患者が多数いる。そこへ知名の開業医が奉仕的に診療をおこなう。医学生や若い医師たちにとって,先輩の診療を豊富に見られるというのは,大きな学習経験の場であることから,多数が病院に集まった。後輩たちに見守られるとあっては,先輩たる医師は独断は許されない。その結果がつねに後輩たちによって注意されているからである。つまり,開業医1人でやる診療所での医療の閉鎖性が,ここでは破られる。
病院に関してさらに重要なのは,病院が社会に対して閉じていることである。開業医の診療所を訪れる患者,あるいは開業医が訪れる患者(このほうが比率からすれば大きい)の場合は,患者の生活史に直接触れることができるが,病院ではそれが困難である。しかも,慈善で収容される患者にとっては,個人史的な背景を明らかにすることを喜ばない。また,病院には重い病気の患者が主として収容される傾向があるために,たとえ個人史を明らかにする意思があっても,口がきけないこともある。個人史をもたない人間は,ヒトになる。つまり,生物学的存在として医師たちの前に身体を横たえること,別の言葉でいえば,客観的,科学的な探究の対象になることになるのである。このような条件のもとで,医学は,病人の援助のための諸知識であることから,病気の科学としての輪郭をとりはじめ,方法としての科学が深く広く浸透することになる。病気が動植物の種のように,それぞれ出現と消滅の運命をもった実体であり,病人はそれを宿すことによって病人となるという考えを最初に提出したのは,イギリスのT.シデナムだという。しかし,彼は単に概念の先駆者として,後になって意味づけられただけで,この概念,つまり,病人と切り離した疾病という実体,あるいは実体的な考え方が積極的に採用されるのは,18世紀後半から19世紀初頭にかけて,病院の中で医学が開発されていく時期においてであった。病院で多くの患者の症状を観察していると,類似した組合せをもつもののあることが明らかになってくる。個人差を超えてみられるこの組合せは,一つの疾病単位とよぶことができる。そして,収容されている患者が不幸にして死んだときは,解剖することによって生前の症状と対比できる。すでにイタリアのG.B.モルガーニは,この方法によって経験を重ね,その成果を《病気の座と原因について》(1761)と題する著書として発表している。解剖によって,病気の位置が確定できるのである。ここにいたって,医学における解剖の実践的な意義が,はっきりと認識されるにいたった。病気の原因をさぐる解剖学,すなわち病理解剖ができるためには,正常人の解剖が必要になる。医学生や若い医師たちは,競って人体解剖の機会を得ようと腐心した。このため,秘かに墓をあばいたり,また死体を遠くから運んできて,彼らに売りつけるものさえ現れた。19世紀半ばになって,法律により,本人または家族が承認すれば,病院で没した患者の解剖は許されることになり,上記の非行は後を絶ったが,そのためにも,病院は医学の学習や研究のセンターとしての位置を強化することになる。このような方法がまず成果を生んだのは外科領域であった。
症状と解剖との対比研究によって症状を見れば,どこに病気が存在するかが判断できるようになる。しかも,そのような場合の患者の運命も予測できる。とすれば,手術して運命を回避しなければならないという行為が必然性をもつ。技術は不十分でも,手をつかねているよりは,手術をすることによって奇跡をよぶこともできよう。それを繰り返しながら技術開発をおこなえば,いつの日にか技術的困難を完全に克服できるという期待がもてる。近代外科の発展にとって最も大きな技術開発は,(1)消毒あるいは無菌手術,(2)麻酔,および(3)止血と輸血あるいは輸液,の三つである。消毒はイギリスのJ.リスターが先鞭をつけ,ウィーンではI.F.ゼンメルワイスが独自にそれを導入した。いずれも細菌学の知識なしに,傷口の化膿・腐敗あるいは血液毒を中和するために,強力な芳香をもつ石炭酸や塩素水を使用した。もちろん,細菌学がその根拠を与えた後は,いっそう洗練された方法となり,急速に普及していった。麻酔については,アメリカの歯科医W.T.G.モートンがエーテルによる無痛抜歯に成功した1846年を麻酔法元年とする。外科に導入したのは,やはりアメリカ人のウォーレンJohn C.Warren(1778-1856)で,やがてヨーロッパにも普及する。これらは全身麻酔であるが,局所麻酔は,ドイツの眼科医コレルKarl Kollerがコカインを用いて角膜麻酔をおこなったのにつづいて,ニューヨークの外科医ハルステッドWilliam S.Halsted(1852-1922)が積極的にその開発にとりくんだ。止血のためには,結紮(けつさつ)法や止血鉗子が開発され,出血を減らす方法がまず試みられ,ついでK.ラントシュタイナーによって血液型が発見されたことにより,安全な輸血をおこなえるようになった。さらに輸液技術が開発されたことで,手術にともなう出血や,手術そのものによる生体への影響を著しく軽減することが可能になり,理論的には,生体内のほとんどどの部分にでもメスを入れることができるようになった。
内科的な治療法は,それほど直線的には進歩はしなかった。確かに,病院が医学開発の基地になってから,患者の観察法はつぎつぎと工夫が重ねられた。ウィーンのJ.L.アウエンブルッガーは打診法を発明した。パリのR.ラエネクは聴診器を発明した。これで,かなり情報量は増えることになる。病理解剖の次元も,しだいに微視的になる。パリのM.F.X.ビシャーは,臓器の次元からそれを構成する組織の次元まで病気の座を広げた。ドイツのR.フィルヒョーは,顕微鏡を用いて,細胞次元の病理学の基礎をきずいた。さらに,内科的治療の発展に大きな影響を与えたのは,統計学を医学に導入して,それまで有効といわれてきた治療法の検討がおこなわれるようになったことである。開業医たちの独善的,印象的な効果の判定とちがって,病院では,同様な病気をもつ患者も多く,治療法の成果も統計的にまとめやすい。統計学的調査によれば,その成果はいずれも有効性を認める根拠は乏しいということであった。内科医たちの多くは懐疑的になった。これを治療上の虚無主義とよぶこともある。古くから医学での金言に,〈無害第一Primium non nocere〉がある。効かなくても害は与えてはならないという意味である。外科医は,あえてこれを破って,新しい局面を開いたが,内科医たちは,まず治療をひかえて,自然の経過を見守ることにした。やがて,彼らの中からは予防に注目するものが現れた。当時,フランス革命の余波がヨーロッパにつづき,自由と平等と博愛の三つの精神は医師たちをも動かした。ある地区に,ある階級に,ある病気がとくに多ければ,人間が平等である以上,その差異を生んだのは,その地区,その階級がもっている条件が原因だとされる。さらに,その差異を解消すれば,その病気の発生を最低のレベルまで下げることができるはずだという考え方が出てくる。上述のフィルヒョーは〈医学は一つの社会科学であり政治学である〉といった。フランスでは,このような傾向の医学を社会医学とよんだ。しかし1848年に大きな転機を迎える。この年の2月パリでは二月革命が,3月にはベルリンで,4月にはイギリスでチャーチスト革命として,ブルジョアジーと労働者とが結んでの革命的政治運動がヨーロッパに波及していくが,最終的には労働者をふりきったブルジョアジーの支配体制が成立する。社会主義とか社会医学とよばれるものは,以後しばらく沈潜を強いられる。そして,医学はもう一段飛躍して新しい時代を迎えるが,それを述べる前に,衛生学あるいは公衆衛生学の歴史をみておく必要がある。
医学の目的は病気の治療に向けられているが,さらに,病気にならないよう健康な生活を送るほうが望ましい。なにを食べ,どのような衣服を着け,どのような態度で,どのような条件で生活すべきかは,人間の誕生以来,経験によって修正され,医療専門家たちも,それを集約して,見解を加えてきた。それが健康指導法なり指導書であり,いつの時代にもあった。たとえば,中世末期の医学のセンター,サレルノでつくられた《サレルノ養生書》は多くの国語に訳されて普及されていた。
しかし,近世に入ると,環境の変化が大きく,個人的な養生では対応しきれなくなる。とくに経済が世界に拡大し,ヨーロッパ内部では覇権戦争がつづくといった状況では,伝染病が頻発する。中世以来のペストはしだいに終息したが,これに代わる強力な伝染病がつぎつぎと襲った。15~16世紀にイギリスだけを襲った奇病,イギリス発汗熱,また16世紀以降とくに戦争の折,および平時では監獄でしばしば流行した発疹チフス,それに1493年アメリカ発見の航海から帰ったコロンブスの一行によってもちこまれた梅毒も,たちまちヨーロッパをまきこんだ。インドのベンガル地域の地方病コレラが,19世紀には6回にわたって世界的な大流行をおこした。このような大流行に対して,治療医学はほとんどなすべき手段をもたなかった。医師たちにできることは,それを詳しく観察・記載することと,病気の予防の一般則の一つである不潔を改めるために,市民たちと協力して行政を動かすことであった。
そのような伝染病はなにかしら不潔な場所から発生する悪い気体という意味のミアスマmiasmaによるという観念が,広く支持されていた。ミアスマを退散させるために,街角で火を燃やしたり,香水をまき,香をたくなどの方法もとられたが,もっと根本的にはミアスマの発生源と考えられる不潔をとり去ればよい。ミアスマは大別して植物性のミアスマと動物性のミアスマに分けられた。植物性ミアスマとは,沼地や停滞している川などに木の葉など植物性の物質が沈殿,腐敗することによって発生するもので,これによっておこる伝染病の典型はマラリアだと考えられていた。水はけをよくして,このミアスマが発生しなくなるようにすればマラリアは減退する。一方,動物性のミアスマは,人間や家畜の出す排出物の腐敗によって生ずる。そのミアスマによる病気の代表は発疹チフスである。
18世紀から19世紀にかけて,いわゆる産業革命とペースをあわせて,都市の過密化,不潔化が深化する。最も過密で不潔な場所は労働階級の居住区であった。当然,伝染病が最も猛威をふるったのも,この地区である。しかし,伝染病はその地区に静止していない。伝染病流行時には,交通遮断して,人や物資の流動を停止させる措置が古くからとられたが,ほとんど成功しなかった。中産階級以上の居住区にも伝染病が波及してくるとなれば,多少の投資は覚悟しても,上下水道の整備を中心に環境改善をおこなうようになる。その際,理論的根拠を与えたのがミアスマ説である。これによって,都市の衛生条件はかなり改革され,伝染病のまんえんも下火になっていった。このとき登場してくるのが病原細菌学で,これによって,医学の研究方法,そして医療にも大きな変革がおこる。つまり,病気の科学として,個々の病気を同定するようになったところへ,そのような状態をひきおこす原因を実証的にとらえるようになったのである。このことは,この原因の力を失わせれば治療も確実に約束されることを意味する。病原細菌学は,そのような道をつけることによって,医学の近代化に礎石を与えた。考え方として,このような病因説がなかったわけではない。すでにローマ時代の著述家ウァロは,微小な動物が病気を媒介するという説を発表している。病気によっては,確かに,なにものかに媒介されたと思わざるをえないような病気もある。天然痘や性病や,ある種の皮膚病は,病変部位に触れることで伝染することがはっきりしている。指のまたなどにできる疥癬は,すこし鋭い眼で見ると,その中に小さな虫がうごめいているのが観察される。これらの経験を概念的に一般化したものとして,コンタギウムcontagium animatumという実体が考えられた。ミアスマが気体的な実体であるのに対して,これは固体的で,眼に見えないほど小さい生きものだと考えられた。顕微鏡の性能が向上してくると,実際に,それらしいものを観察することができる。理論的に,もし,そのような微生物が病気の原因だとすると,実験的証明としてみたされなければならないのはなにかを,ベルリン大学の解剖学教授J.ヘンレは《ミアスマおよび接触伝染病原(コンタギウム)》(1840)において明らかにした。しかし,19世紀前半は,まだミアスマ説に従った衛生改革が成果をあげつつあり,コンタギウム説はあまり支持者がなかった。
ドイツにおいて,細菌学時代を開いたR.コッホが,地方で診療の余暇に,家畜の病気,脾脱疽病の原因としての細菌を発見し,ヘンレの教えに従って,それを証明した論文(1876)を指導的地位にあった数人の医学者に送ったが,ほとんど反応がなかった。1880年になって,突然ベルリンに新設された帝国衛生院の研究主任として就任することを求められる。この政府機関は,種痘接種について責任をもつとともに,全ドイツの医学的および獣医学的警察行政へ科学的根拠を与えるべく設置されたものである。この時点で,行政はミアスマ説からコンタギウム説へ転換したこと,および行政が積極的に医学的研究施設を設けて,その推進にのりだした点に大きな意義がある。ドイツでは19世紀の初頭から,科学振興を国の行政方針の一つとして位置づけ,大学の理工学部や医学部を研究機関として育成するようになる。ヨーロッパ列強の中では当時後進国であったドイツを急速に発展させるためにとった政策である。事実,それは成功した。医学も研究室の中で開発されるようになってドイツ医学を世界の指導的位置にまで高め,19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて,世界中から若い医学者や医師たちが,ドイツの大学医学部の研究室に集まり,その方法を学んで,それぞれの国の医学の近代化に努めた。それは研究室の医学といってもよい。すでに病気の医学になったとき,医学は方法的には病人,つまり個人的な生活史から切り離された病気を対象とするようになった。とはいえ,実際には,人間と病気は切り離されていなかった。しかし研究室の医学になると,そこへもちこまれるのは,病人から採取した資料であり,完全に病人から切り離される。これによって抽象度や客観性が高まるとともに,一般性もより確実になる。ところで,コッホは,ある細菌が特定の伝染病の原因であることを証明するのに,三つの原則が必要であるとしたといわれる。いわゆる〈コッホの三原則〉である。これは,(1)特定の伝染病になった病体から特定の細菌を必ず発見する,(2)その細菌を分離する,そして(3)分離された細菌を純粋に培養したもので原病が再現できること,の3点で,この三つの原則がみたされれば,病原菌として証明されたとした。このうち伝染病を病気一般に拡大し,細菌を物質にかえれば,同じ原則で,ビタミン欠乏による病気であろうと内分泌疾患であろうと,それぞれ特異的な病因を同定できる。しかも,コッホの三原則の最後の項目の原病の再現は,人間では倫理的にできないために,動物実験によらなければならない。動物によっても医学研究ができるとなると,診療所や病院とはまったく無関係に研究を進めることができるようになる。治療法の開発ですら,かなりの部分が病床を離れておこなうことができる。期待されたにもかかわらず,コッホ自身は,いくつかの病原菌の発見にとどまり,治療法までにはいたらなかった。しかしその弟子たちは,病原菌の発見から,画期的な治療法を発見した。1883年E.クレブスとF.A.J.レフラーがジフテリア菌を発見,90年には同門の北里柴三郎は菌から毒性成分を分離した。彼はさらにベーリングとともに,これを動物に少量ずつ注射して,かなりの量にも耐えられるようになったところで,その動物の血清がジフテリアにかかった動物を回復させる能力のあることを発見(1893),同様な方法で,2人は破傷風についても治療血清をつくりだした。フランスのL.パスツールは,細菌学の知識を利用して醸造業の能率向上,畜産獣医学方面での防疫法をつぎつぎと開発,人間においても狂犬病ワクチンの開発に成功した(1885)。このような治療血清やワクチンは,細菌学の技法を用いているとはいえ,基本的にはE.ジェンナーの牛痘接種による痘瘡(とうそう)予防と同じく,生体自身がもっている免疫能力を利用したものである。ところが同じくコッホの門人であったP.エールリヒは,細菌には染料によって着色されやすいものとそうでないもののあることから,細菌のみに作用して動物や人体には影響のない物質を発見できる理論的可能性に着目し,秦佐八郎とともに梅毒の病原体にのみ特異的に結合し,その発育を阻止する物質サルバルサンを開発,化学療法の基礎をきずいた(1909)。このような開発研究は,アイデアはともかくとして,実験が多大の資材や人員を要し,いかに政府によって設立され,経常費を支出されている研究室でも,その限界を上まわる。そこで,新薬開発によって大きな利益を得ることを目的とする化学工業がスポンサーとして登場する。
すでに,ベーリングらのジフテリア治療血清の研究はヘキスト社が,そしてエールリヒのサルバルサン開発はバイエル社が支援した。同時に,ドイツの大手化学工業会社は,独自に研究所を設立して開発を始めた。バイエル1社についてみても,1890年に150万マルクを投じ,200人もの研究者を働かせる研究所を設立している。この研究所では,アニリン色素の中から抗菌作用をもつもののスクリーニング実験をおこない,プロントジルに到達する。すなわち,サルファ系化学療法剤のはじめとなった薬剤である。こうして,ドイツは製薬業において,世界を市場とする位置を占めるようになった。他の国の製薬企業が研究所を設けて独自の新薬開発にのりだすのは,第1次大戦によってドイツからの医薬品の供給がとまったからでもある。同時に,指導的位置にあった国からの医学情報の中断と,その国の敗戦による疲弊から,戦勝国は,それぞれ自前の医学を開発し,またそれぞれ世界市場を目標とした医薬品や医療機器の開発にのりだした。原理的には,研究室の医学が個人を無視した物質の医学である以上,その医学の有効性は国籍や人種,地域,階級などによって左右されないはずだからである。
第2次大戦後は,医療は人権の一部として保障さるべきものとなり,医学研究にも大きな公的支出がされるようになった。しかしながら,医療全体へ投ぜられる資金の割には健康度の上昇がみられなくなり,加えて医学開発と人権とが直接矛盾するような,いわゆる倫理に関する問題も多く表面化するようになるなど,近代医学の原理についての疑義も生まれつつあり,未来に向けて,もう一度大きな変革が模索されている。
《古事記》や《日本書紀》の伝える神話では,常世国から来た小人の少彦名命(すくなびこなのみこと)が,農業や医療について人々を教えたのち,たわめたアワの茎の反動を利用して,国に帰ってしまう。なぜ農業や医療を教えた神は小さいのか,なぜ帰ってしまったのか。神話学としても,あまり解釈はない。しかし,日本人にとって,そのような技術は外来性のものだとしても,それほど大きな役割は果たさず,短期間教えられただけで,後は自力で開発するということを象徴化したものと考えることができそうである。
古代日本人の起源についてはまだ不明の部分が少なくないが,縄文人とよばれる人たちは,まだ農耕文化をもたず,食物採取生活を主としていたものと思われている。彼らはまた,縄文式土器とともに種々の奇怪な顔や体をした土偶を多く残している。それがなにを意味するのかは不明であるが,日本人の神秘主義にある種の原型を与えるものであることは想像できる。縄文人は石器文化を保有していたが,世界の他の地域の石器時代人のそれと同じく,すでに頭骨に穿頭(せんとう)術を施した遺骨が発見されている。次の弥生人になると,稲作文化と銅器の使用が始まる。この文化は,おそらく中国から朝鮮経由で伝えられたものと考えられるが,南方の植物である稲を日本で育てるには,かなりの技術を要する。しかも稲作は,とくに労働集約的で共同作業を要求することから,つねに周囲を気にする,あるいは周囲に期待と依存を強くもつ,日本人の精神特性がつくられたと思われる。《日本書紀》や《古事記》などによると,健康と幸福のために,不浄・不潔を遠ざけることをとくに意識しているようにみえる。その不潔は実際上であっても,また想像上の観念的なものであっても,同様に,清潔にするために,水で洗ったり,水で清めたりする行動をとる。死体はとくに不浄で,見ることすらタブー視されているが,今日の日本人も,葬儀から帰った場合,塩で清めるという象徴的行動をとる風習が残っている。古代日本人にとって,分娩も同様に不浄とされ,産婦は分娩用に設けられた小屋(産屋)で独力で産む習慣があった。分娩後しばらくは,聖なる場所に入ることは許されなかった。医薬に関する知識については,ほとんど知る手段がないが,《古事記》《日本書紀》《風土記》などに,火傷に生貝のジュース,傷口にガマの穂などの用法がみえる。文書記録上,最初の外来の医療は,允恭天皇の病気の治療のため新羅から来た金武と名乗る医師によるものである(414)。459年にも徳来という医師が来日し,帰化して難波薬師(なにわのくすし)として,子孫も同じく医業を営んだとある。積極的に外国医学を摂取したのは,恵日と福因の2人が小野妹子とともに隋に留学して帰ったのが最初だと思われる。インド医学も仏教の渡来とともに日本に伝わったが,医学を含めての外来文化は,それぞれの部族の勢威を示すものとして競って摂取された。
8世紀になって,唐の都長安をモデルに平城京が建設される。制度も唐制を模した養老令(718)がつくられるが,その中に医療制度を定めた医疾令がある。それによれば,宮廷の医薬の業務を執行するための内薬司,典薬司がおかれ,大学,国学を設けて医学教育にあたらせることが規定されているが,おそらく空文であったという推測が有力である。養老令には,徴税や労役・兵役のための徴募が主目的であったが,かたわら,公的扶助の基準設定のために,身体障害の重症度による区分がなされていることは興味ぶかい。一方,仏教の普及にともない慈善事業がとりあげられたことも注目される。9世紀になると,ようやく日本固有の医学を集約しようという気運が生まれる。平城天皇は全国の国司,神社および名族旧家に伝来の薬方を報告することを命じ,これを出雲広貞,安倍真直に編集させ,808年(大同3)《大同類聚方》100巻として結実した。さらに清和天皇の貞観年間(859-877)に《金蘭方》50巻がつくられた。この2書が日本の医書としては最古のものである。次いで,982年(天元5)の丹波康頼(たんばのやすより)による《医心方》30巻がある。その内容は,隋時代の医書《諸病源候論》を基本とし,隋・唐の医書約100点を参照している。丹波家は世襲的に宮廷医を務め,この《医心方》は永らく門外不出として丹波家が独占し,17世紀の中ごろ,いま一人の宮廷医半井家のものが見ることを許されたきりである。印刷刊行されたのは1854年(安政1)である。薬物書としては799年(延暦18)ころに和気広世が編集した《薬経太素》が永らく重要視された。これは,唐の《新修本草》に従い,254種の動・植・鉱物性薬の調製,保存および適応を記したものである。いま一つ,よく知られたものとして,深根輔仁(ふかねのすけひと)の《本草和名(ほんぞうわみよう)》(918)がある。これは,鉱物性薬81種,植物性薬509種,動物性薬182種の和名を収録したものである。このような医学知識は,多少は慈善的に用いられたが,基本は宮廷や貴族の医療に供するためのものであった。薬物も国産のもののほか,外国産のものも少なくなかった。正倉院宝物の中には,中国産のもののほかにインドやペルシア産のものもある。宮廷医学として興味あることは,中国のそれにならって,長命のための仙薬の服用が流行していることである。この仙薬は,金,銀,水銀,ヒ素などの重金属を主成分とするもので,用量をすぎれば,かえって寿命を縮める結果になる。鑑真が来日して名声を得た理由の一つには,彼の医学知識,なかんずく上記の仙薬による中毒の治療法を知っていたためともいう。
12世紀になると,貴族政治が衰退し,各地の豪族が覇権を競い,最終的に鎌倉幕府によって統一される。この戦乱によって,文化にも脱中央化がおこり,人々の生活にも大きな変化がおこる。仏教も大衆化し,新しい階級を対象にした宗派が勃興する。このような政治的・文化的変動とともに医学も,宮廷やそれと直接結びついた寺院との関係は希薄となり,地方封建領主,新宗派,および勃興しつつある市民階層に基盤をおくようになった。開業医が登場するのも,これ以降である。基盤が変われば医学の形式も変化する。宮廷医学時代の陰陽五行説とか五運六気説など,煩瑣(はんさ)で思弁的な形式的洗練を目標とするより,直接実用的な効果を記述する傾向が前面に出てくる。医師の肖像画にみる服装の遷移にも,この間の事情をうかがうことができる。8世紀以前のそれは公卿風であったが,以後僧服僧体のものが多くなる。鎌倉時代に有名であった栄西,梶原性全(かじわらしようぜん)はいずれも僧医である。栄西は中国から禅宗をもたらしたが,同時に健康保命のために茶の飲用をすすめたことでも有名である。彼の著書《喫茶養生記》は,中国やインド医学の説を引用しつつも,著者独自の見解を提出した,最初の日本医学書といわれる。梶原性全は,和文で書かれた最初の医書《頓医抄》50巻(1303)と,《万安方》62巻(1315)の著者として知られている。後者は,隋・唐・宋の医書を参照しながら自分の経験も加えたもので,興味のあるのは内臓諸器官の解剖や生理についてかなり詳しいことである。思弁的ながら内臓の解剖図も収録されている。この図はアジアで存在する最古のものである。性全は中年になってから私費で宋に留学しているが,このような例も彼以前にはみられない。仏教の新宗派が誕生し普及されていくのに,貧困者・障害者の救療活動も大きな役を果たした。奈良近くの西大寺は傍らに癩者の救療のために癩人院を設けた。鎌倉の極楽寺も,貧困者の救療の施設〈北山十八間戸〉を設けて,20年間に5万7250人を受け入れたという記録がある。この寺では病馬の治療もおこなったという。封建制が確立されていく過程で,地方都市の形成がみられ,庶民たちの中に経済的余力をもつものが増えてくると,医療を業として生活するものも現れる。彼らの多くは,系統的な医学教育を受けたものではなく,部分的に修得した知識や技術をもって医業を営んだ。多くは定住せず,旅をしながら積極的に医療需要を開拓していった。鎌倉時代の作といわれる《病草紙》には,そのような旅医者の治療風景が描かれている。宮廷や寺院などの後援をもたないで,医業のみで生計をたてるには,医療の知識・技術の向上だけでは信頼を博しがたい。ヨーロッパでは,ギルド的な結社をつくり,国王や教会の名において権威づけたり,また学識をドクターというタイトルによってあかしとした。日本の場合,“流”という家系に似せた連続性をもつ集団の一員であることを示すことによって権威づけを得ようとした。もちろん,これは医業のみに限られた制度ではない。ひとたび流が確立されると,教科書や教育制度もつくられ,門人の養成がおこなわれるが,ヨーロッパのギルドが横社会の原理に従っているのに対し,流は縦社会の原理で知識・技術の内容の閉鎖性を特徴とし,公開による発展の可能性は制限される。14~15世紀にかけて名を残している医師たちの多くは,いずれも,ある特定領域の診療を得意としている。眼科の馬島流の開祖馬島晴眼,産婦人科の安芸守定,また,うちつづいた戦乱の間に創傷処置にたけた金創医,すなわち外科医も,多くの流派ができた。室町時代には明との交通が盛んで,個人的に留学する医師も多く,中国の医書・医薬品も多く流入した。留学生の中には,逆に中国で名医として遇せられるものも出ている。室町時代に書かれた医学書としては,南禅寺の僧医有隣が書いた《福田方》2巻,筑前の僧医生西の《五体身分集》3巻がある。いずれも,著者の独自の見解がおもに編されている。室町時代に有名な医師として特記すべきものに,田代三喜,曲直瀬道三(まなせどうさん),永田徳本らが挙げられる。田代は,足利学校で学んだのち明に渡り,12年間とどまって,新しい医学を修得して帰った。それまで日本では,宋代の,発汗剤,吐瀉剤,下剤を中心にした,体内のものを外に出す激烈な処方を主としていたが,より緩やかな栄養補給的な処方に変わったのを学んできたのである。このような医学を李朱医学という。曲直瀬は,田代に学び,京都に出て大いに名声を博した。戦国時代の有名人の多くも,病気のときに彼の診療を受けている。彼はまた,京都に私学の啓迪(けいてき)院を設けて,医学教育をおこなった。門人800人ともいい,また3000人ともいう。著書《啓迪集》8巻(1573)もよく読まれた。永田は,自らは知足斎と称して栄達を求めず,諸国を遍歴して診療をし,〈甲斐の徳本〉とよばれて尊敬された。
1543年ポルトガルの商船が種子島に漂着してから,ヨーロッパとの交流の道がひらけた。ヨーロッパ人の日本への接近の目的は交易であるが,その尖兵としてザビエルをはじめとするキリスト教宣教師が渡来し,伝道の一環として医療をおこなった。さらに,ヨーロッパにおいて普及しはじめていた病院を設けて,救貧・救療事業をおこなった。とくに有名なのはリスボン出身の商人L.deアルメイダで,通商旅行の必要性から多少の医術を知っていたが,日本でイエズス会に入信,豊後の大友宗麟の後援のもとに府内(現,大分市)に育児院と病院をつくった。この病院は2棟からなり,1棟は癩患者用に,1棟は一般の傷病者用とした。彼は簡単な外科手術もよくし,それを公開したので,日本人でその術を修得したものも現れた。ただし,イエズス会の方針が変わり,医療を宣教に用いることが禁じられたこと,および日本においても,キリスト教の禁令・弾圧が始まり,これらの施設は廃された。しかし,宣教師から得た医学的知識・技術は,南蛮流として,しだいに日本風に同化しつつ,その後も命脈を保った。
江戸時代の医学の主流は,上述の新しく中国から受容した医学であったが,その中にあって,あえて古い医学,とくに《傷寒論》を基本にしようという医師たちが現れた。その先駆者は,永田徳本,名古屋玄医,後藤艮山(ごとうこんざん),山脇東洋,吉益東洞らである。彼らは古医方派とよばれる。《傷寒論》は,中国医学の系統のうえでは,かなり特異的な位置にあり,理論的にも変わっている。そのうえに,テキストとしては簡明である。つまり,その内容を理解するためには,テキストから得られる情報は限られていることから,実際の経験を参照するほかない。このことが,古医方派の医師たちに実証的態度を育てた。たとえば,山脇東洋は1754年(宝暦4),人体解剖を観察して《蔵志》に記録し,それまで信じられていた五臓六腑の説の誤りであること,そして,オランダ渡来の西洋解剖書の記載がより信ずるに値することを知った。東洋は,宮廷医を務め,また古医方の大家として名声を得ていたので,彼の人体解剖の経験は大きな波紋をおこした。とくに,オランダ医学を標榜していた医師にとっては,自分たちの依拠している医学の優越性を確信するためにも大きな希望であった。
このオランダ医学派の医師たちは,鎖国後,長崎に限定された窓からもたらされるわずかの知識,とくにオランダ商館づきの医師たちを通じて得られる医学的知識や技法を基礎としていた。当初,通訳官(通詞)以外にはオランダ語を研究することは禁じられていたので,それらの通訳官が,オランダ流医学,つまり蘭方医の開祖となった。外科にすぐれていたといわれる西玄甫(にしげんぽ),西洋解剖図譜《和蘭全軀内外分合図》をつくった本木了意,A.パレの外科書をもとに《紅夷外科宗伝》を著した楢林鎮山(ならばやしちんざん)らは通詞である。徳川8代将軍吉宗の治政に殖産振興・実学尊重の政策がとられ,その一環として実学に関するオランダ語の研究が解禁された。とはいいながら,通詞以外には,せいぜい単語を覚えたり,挿絵から推測する程度のことを出なかった。それらの乏しいオランダの知識をもつものが,協力して訳出したのが《解体新書》5巻(1774)で,4年間に11回も原稿を書きかえてできあがったという。原著は,ドイツ人クルムスJohann Adam Kulmusの解剖図譜のオランダ語版《ターヘル・アナトミア》である。この訳業のきっかけを与えたのは,1771年(明和8)3月4日,江戸小塚原刑場であった解剖(腑分け)を,杉田玄白,前野良沢,中川淳庵が見学し,その際持参したクルムスの図譜の正確なことに驚いて,翻訳をすることに意見が一致し,さらに桂川甫周,石川玄常,嶺春泰,桐山正哲らも加わって集団討議を繰り返しながらできあがったものである。その経緯は,杉田玄白の《蘭学事始》に詳しい。《解体新書》はほとんど完全な訳本である。したがって,伝統医学の術語と対応しない言葉もあり,これに新しい造語をおこない,今日まで伝えられているものもある。〈神経〉〈門脈〉などはその例である。確かに,この訳業は蘭学事始であった。
これ以降,長崎以外の地においてもオランダ語を読むものが増え,医学書を含めて,多くの実学書が翻訳されることになった。また,それらが触媒となって,医療技術も大きく進歩した。たとえば紀州の華岡青洲は,マンダラゲを主成分とする麻酔剤を開発して,乳癌の手術などを多く実施した。その門人本間棗軒(1804-76)は,四肢の切断や陰茎切断などの困難な手術にも成功している。京都の産科医賀川玄悦は,胎児が子宮内で頭を下にした背面倒首していることを日本で初めて記載し,また異常分娩を救うために,種々の有効な措置を工夫したことでも知られている。この賀川の業績は,シーボルトによってヨーロッパに紹介されたほど独創的なものであるが,すでに日本にも入っていた,イギリスのスメリーWilliam Smellie(1697-1763)の産科書に類似の工夫があることから,これからヒントを得たとも考えられる。しかし,子宮内の胎位の発見については,当時出産調節のために胎児を殺す風習があり,これを堕胎する機会が多かったことから,その際の観察であると考えれば,独自の発見であったことも十分推定できる。それに,異常分娩に対する工夫も,胎児よりはむしろ母体を助ける方法であった。いわゆる中条流として,江戸時代に流産や堕胎を専門におこなう業者があり,かなり需要も多かったというが,また失敗も少なくなかったと思われる。
このような業者以外に,江戸時代には,江戸,京都,大坂をはじめ,全国各地に商業都市が勃興し,人口を集め,医療需要も高まったことから,開業医数も増加した。医業をおこなうのに,とくに資格は問われなかったが,信用を博するためには,しかるべき医師の門人として,流派の一員につらなることが有利である。また,しかるべき医師のほうも,塾を設けることは権威づけのために有効であるので,競って門人を集めた。それらのうち有名なのは,漢方医学では,京都の畑黄山の医学院,江戸では多紀家の躋寿(せいじゆ)館がある。多紀家は,《医心方》の編者丹波康頼の子孫で,代々京都で医業をおこなってきたが,江戸幕府が開かれてから江戸に移住した。この塾は,1791年(寛政3)には幕府立となり,医学館と改称した。しかしその長は,やはり多紀家のものがあたった。蘭方系としては,江戸で伊東玄朴が開設した象先堂(1833),大坂で緒方洪庵による適々斎塾(1838),京都の新宮涼庭による順正書院(1839),さらに佐倉の佐藤泰然の順天堂(1843)などが知られている。
これらの背景には,江戸幕府政権のイデオロギー確立のための文教政策としての儒学センター昌平坂学問所の設置と,それにならっての各地での藩校の設置がある。寛政~文政(1789-1830)には,その数87校に達したという。これらの儒学教育機関のほかに,幕末ごろから実学である医学や,西欧の殖産技術や軍事知識の導入のための語学校なども併設される傾向があった。たとえば山崎佐によれば,1871年(明治4)の廃藩置県の際,全国の272藩の医学教育施設として,藩校に医学科を設けていたのが約36藩,藩校と独立に医学校を設けていたのが約26藩,このような設備によらず医学教育をしていたのが約21藩,医学研修のため他国遊学の制度をもっていたのが約16藩といい,これらの医学教育で蘭方医学を採用していたのは約18藩,洋学(英,仏,独)の教育を採用していたのが17藩であったという。また,医師個人の私塾で医学教育をしていたのが33ヵ所あったという。この数字からもうかがえるように,1871年現在でも,まだ蘭方医学は主流ではなかった。
上述の吉宗時代のオランダ語研究の解禁があったが,蘭方医学はそれほど信用されて普及したわけではなかったのである。蘭方医が将軍家の奥医師として登用されたのは1858年(安政5)になってからである。それは,外科手術を除いては漢方も蘭方もそれほど印象的な優劣はなかったことも一因であった。そこへ,痘瘡の予防に有効な方法がヨーロッパで開発されていることが伝えられた。ジェンナーの牛痘法である。彼がそれを発表したのは1798年であったが,実効が広く認められたのは19世紀の初頭であった。情報として日本に伝わったのも,19世紀初頭から1820年代にかけてで,一つは長崎のオランダ商館経由で,いま一つは,千島からロシア船に拉致されて,5年間ロシア生活を送って帰って来た漁師中川五郎治によるものである。1820年ころからは長崎で何度か試みられたが成功しなかった。牛痘苗を入手するためにも種々の工作がなされたが,49年(嘉永2)になってジャワから到着した痘苗を,長崎に住んでいた佐賀藩の藩医楢林宗建が息子に接種して成功し,それを各地の蘭方医たちがリレーで接種し,全国へ広げていった。江戸における拠点は神田お玉ヶ池の種痘所で,江戸在住の蘭方医82人の拠金によって58年に開設された。これは,業務としては種痘をすることであるが,蘭方医たちが集まって研修する場としても使われた。種痘の効果は幕府に認められ,60年(万延1)に直営の施設となり,さらに61年(文久1)西洋医学所と改称され,はっきりと教育機関としての性格を表に出すようになる。初代頭取は仙台藩医大槻俊斎,2代目は緒方洪庵である。63年には単に医学所となり,漢方系の医学館と対峙することになる。
幕府は西欧軍事技術とともに軍陣医学技術を導入させるべく,長崎に海軍伝習所とともに,医学の教養施設をつくった。医学については,オランダより招聘(しようへい)した軍医ポンペを師とし,日本側は,幕臣松本良順をはじめ各藩より選択されたものが学生となって,初めて西欧式の系統だった医学教育がおこなわれた。とくに臨床実習のために,小島という場所に西欧風の病院を建築しておこなうなど,本格的である。松本良順はここで学んだのち,江戸の医学所の3代目の頭取となって校則を一新するが,やがて幕府解体とともに廃校になり,明治新政府によって,大学東校として再発足(1869),現在の東京大学医学部へとつながっていく。
1870年,新政府は大学東校の医学教師としてドイツから2人の軍医を招聘したい旨,駐日ドイツ大使に申し入れている。なぜこの時期にドイツから,しかも軍医を招聘したのかについては異説が多いが,71年ドイツ陸軍軍医少佐L.B.C.ミュラーと海軍軍医少尉T.E.ホフマンが着任,ドイツの軍医学校のカリキュラムに似た,全科必修の教育システムの基礎がしかれた。その後,この2人の軍医のほかに医学者や科学者がつぎつぎと来日して教壇に立ち,一方,この学校で学んだ卒業生のうち,教授候補に選ばれたものはつぎつぎとドイツへ国費留学させられ,帰国して,ドイツ人の先任者と交代した。1900年最後のドイツ人教師E.vonベルツが退任,入沢達吉が後をついだ時点で,全員が日本人教授によることになった。中央でのこのような動きに呼応して,地方でも,旧藩時代の医学教育施設を接収,外国人教師を雇って拡充に努めるところもあり,また,とくに地方住民の医療要求にこたえるために,国公立病院の設置も盛んで,1877年ころには,病院のない府県はほとんどなくなり,さらに増加していった。しかし,西南戦争による財政難を打開するためのデフレ政策により,国立施設は整理され,公立施設も,その運営費を地方税で補てんすることが禁止されたため,独立採算のとれない医学校・病院は,つぎつぎと廃止あるいは民営へ移管された。それに代わって,私立病院が増え,第2次大戦後も圧倒的に私的経営になる医療機関の比重の大きい構造を生むきっかけをつくった。明治新政府になって最初の包括的な医療に関する法律は〈医制〉(1874)であるが,当時,医療についての主務官庁が文部省であったことも理由であろうが,その大部分が教育に関する規定で,実際の医療についてはほとんど規定がない。近代国家の医療のためには,医学教育を規格化すればたるという考え方が基盤にあるかのごとくである。その線にそって,伝統的な漢方医学を排除する施策が重ねられた。すなわち1876年に発布された医術開業試験法は,西洋医学のみについて試験されるために,漢方医学のみを学んだものには著しく不利になる。漢方医たちは組織をつくって,漢方医学によっても医師になる道を法律的に開かせるべく運動をつづけるが,95年第8議会で法案が否決されて最後の希望を断たれた。以後,鍼灸(しんきゆう)は医療類似行為という名称で法律的に認められて存続してきたが,漢方医学は異端とされ,一部の研究者の興味と民間における関心とに支えられて今日にいたっている。しかし1970年ころから世界的な伝統再評価の波にのって関心が集まりつつある。
日本の医学の近代化はドイツをモデルにしたと信じられている。その場合のドイツ・モデルとは,大学中心,研究中心,疾病中心のモデルである。モデルはしばしば原型より純粋である。たちまち日本医学者は,世界の医学に伍する体制をつくりあげ,しかるべき研究業績をあげはじめた。とくに細菌学や寄生虫学は,それらの勃興期に導入したために,早くから重要な発見を重ねている。一方,日本は急速な近代化にともなって,国民は健康上の大きな問題につぎつぎと直面した。乳児死亡や肺結核死亡は上昇をつづけ,寄生虫病,トラコーマ,性病などがまんえんしつづけた。国は,労働力や兵力の確保のためにも,これらの病気に対する対策を講じたが,第2次大戦後しばらくまでは,ほとんど実効はなかった。
戦後の平和体制下に,国民の生活・労働条件が向上し,それに新しい医療技術の普及とが重なって,乳児死亡率は世界最低のレベルに,平均寿命は世界最高のレベルに達し,肺結核も主要死因から姿を消した。代わって,癌や脳血管疾患,心臓病による死亡が上位を占め,糖尿病,高血圧,精神障害などが増加しつつある。これらは,日本に限らず,先進工業国に共通の事態であり,これらに対して,近代医学の主流であった研究室の医学のみで対応できるかどうかについて疑問が呈されている。最近,世界的に関心を集めている地域保健や第一線医療(プライマリー・ケア)がその解答になるのか,とくに高齢化社会を迎える日本にとって,それをどのように理論化し実践にもちこむか注目されるところである。
執筆者:中川 米造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本語で医学という場合、広義と狭義の二つがあり、しかも両者の間がかならずしも円滑ではない。広義の医学とは、医療の実践を示し、狭義の医学とは、実践から離れた学問としての医学を示すわけである。ところがヨーロッパ語で表現される医学の場合は、その区別がなく、学問の部分も実践から離れない。この差異を踏まえたうえで、日本での医学を定義するとすれば、次のような定義がかなり一般性をもつといえる。「医学は、物理、化学、数学等多くの自然科学を基礎とする総合科学であって、人の生命の機構を解明することを究極の目的とする高度の科学である。この医学の社会的適用が医療であり、人を対象として、健康時の健康養護、および健康破綻(はたん)からの回復を目的とした、医学の実践面に要求される機能が医療であるということができよう」(竹内嘉巳(よしみ)。1971)。これに対して、たとえばアメリカでは、「医学(メディシンmedicine)とは、全体として、知識、信条、技術、規準、価値、イデオロギー、態度、習慣、象徴など相互に支えあっている体系の複合であって……」(サンダースL. Sanders、1954)といった定義となり、ドイツでは、「医学(メディツィンMedizin)は人間文化の一分野で、個人および集団の健康を守り、病気を回復せしめて社会に復帰させるよう助力することを目的とする」(ロートシューK. Rothschuh、1965)という定義になるが、いずれの場合も、医学が社会の一つの機能や、文化の一分野として理解される傾向が強い。
それをさらに強く印象づけるのは、日本と外国の図書分類表における医学の位置づけ方の相違である。日本図書館協会が制定・使用している日本十進分類法(NDC)では、医学は、自然科学(400)のなかにあり、数学、物理学、化学、地学・地質学、生物学、植物学、動物学といったような分野が続いた最後に医学(490)が置かれている。一方、世界的に採用されている国際十進分類法(UDC)では、医学は、応用科学・医学・工学・農学区分のなかの初めの部分(61)に位置づけられ、以下、工学、農学などの諸分類が続いている。
確かに、欧米の医学においても、医学研究は自然科学的な方法が中心になって展開されているが、あくまでもそれは方法としてであって、医学そのものが自然科学であるとは考えられていない。日本における医学のこのような理解は、日本が西欧医学を受容し始めた時期に、医学が著しく自然科学的な傾向を強くみせていたために、その傾向のみを医学であると思ったためであろう。したがって、西欧では1950年ごろから、病気へのより広範な対処や医学的方法そのものの見直しのために、社会科学や人文科学的な方法が医学のなかでしだいに広い地位を占めるようになっているのに対し、日本でこうした動きがないのは、自らつくった医学の定義に、自らが拘束されているためである。以上のような前提のうえで、日本における狭義の医学の構成をみると、次の四つの分類が現在採用されている。すなわち、基礎医学、臨床基礎医学、臨床医学、社会医学の4分類である。以下それぞれについて解説する。
[中川米造・中川 晶]
基礎医学はさらにいくつかの分野に分かれている。その一つである解剖学は、生物学では形態学とよばれるが、医学では伝統的に解剖学と呼び習わしている。近代医学は人体解剖学の復活から始まったという歴史的な認識が一般化していることに呼応して、解剖学が基礎中の基礎と考えられている。さらに解剖学は、組織の形態や構造を記述する組織学、細胞の構造を記述する細胞学、そして発生の形態や構造を記述する発生学あるいは胎生学を含むのが慣習である。さらに全体としてのヒトの形態の変異を記述して系統について推論する身体的人類学も、ときに解剖学に含められる。ついで生理学がある。生理学は解剖学の分科として派生・独立した分野である。つまり、構造を研究すること自体が機能の説明になるために、かつて生理学は「生きた解剖学」とよばれたことがある。機能を説明するためには、さらに、構造を構成する物質やエネルギーに向けての研究が必要であり、これらの研究は化学の方法に負う部分が多いために医化学とよばれたり、生命一般との関係を意識して生化学とよばれたりして、生理学から分派・独立している。また、1950年ごろから分子レベルでの解明も急速に進んで生化学などが大きな領域に育ったために、分子生物学という呼称も一般化している。これらのほかに、遺伝学や、放射線の生体への影響を研究する基礎放射線学なども、基礎医学に分類されているが、遺伝学などを総称して人間生物学とよぶこともある。
[中川米造・中川 晶]
臨床基礎医学という呼び方は比較的新しい。かつては、これも基礎医学のなかに含められていたが、とくに臨床医学と関係が深いものを別扱いにすることになったものである。まず初めに病理学がある。病理学は、病気による形態的変化を記述するもので、病理解剖学ということばもあったが、病因を追究する実験病理学とあわせて病理学といわれることが多い。基礎医学において解剖学のほかに生理学や生化学があったように、病理学においても病理解剖学、病態生理学、病態生化学という呼称が主張される場合がある。病気の原因について近代医学では、細菌やウイルスなどの微生物との関連がとくに大きく取り扱われてきたため、細菌学とか微生物学が独立した科学として臨床基礎医学の中心に位置を占めている。微生物と人体との関係を研究中に免疫現象が明らかになり、それに伴って血清の意義が脚光を浴びたところから、それぞれが免疫学や血清学となって独立の領域を確立している。また、感染症の媒介にあたる種々の動物の行動を知るために医動物学も育ってきている。薬に関する科学は一般には薬学といわれるが、医学では薬物の作用についてとくに関心を払うので、薬理学という。1970年ごろより、人間とりわけ病人への作用について研究することが求められるようになり、とくに臨床薬理学という領域が開けているが、これは臨床基礎医学と臨床医学との境界、あるいは両者にまたがる領域であるといえる。
[中川米造・中川 晶]
臨床医学は古典的には内科系と外科系に分けられる。内科系としては、内科、小児科、精神科などがあり、外科系としては、外科、整形外科、眼科、耳鼻咽喉(いんこう)科、皮膚科などがある。皮膚科が外科系に入っているのは、かつて医療の対象になった皮膚の病気の多くが、切開などの外科的な処置を要するものが多かったことによる。ところが最近では、内科系、外科系とは異なる、臨床医学の分科が盛んであるが、分科の原理を求めてみると、おおよそ次の四つになる。まず、患者の特性による分科がある。小児科とか婦人科などがこれにあてはまるが、20世紀後半に分科した老年科あるいは成人科などもこの原理に入る。とくに小児科では、成長期の重要な部分を占め、医療的配慮を要する問題も多いために、小児外科とか、小児眼科、小児精神科などと、従来の分科をさらに小児対象に関連させ、細かい新領域が生まれている。2番目は、病気そのものが特殊であり、しかも大きな問題を抱えているために生まれた分科である。性病科、結核科、精神病科などがこれである。3番目には、器官あるいは臓器別の分科がある。眼科、耳鼻咽喉科、皮膚科などがそうであるが、20世紀になってから分科独立したものとして、泌尿器科、循環器科、呼吸器科、消化器科、神経内科、脳神経外科、胸部外科、消化器外科などがある。そして4番目の原理としては、その医療技術の特殊性に由来するものがある。形成外科、美容外科、産科、放射線科、麻酔科などである。心身医学科や心療内科は、内科的な症状に精神医学的方法を用いるものであるので、やはりこの分科原理に従っているものといえよう。行動医学といわれる領域も新しい。これは行動科学を治療に役だてようとするものである。
[中川米造・中川 晶]
社会医学を基礎医学に入れることもあるが、1960年以降、別の分類にすることが多くなった。この領域に属するものとしては、衛生学、公衆衛生学、法医学、医事法学などがある。社会医学の系譜では衛生学がもっとも古い。当初、衛生学は健康を保持するための衣食住の条件を明らかにする目的で出発したものであり、しかも方法的には、物理学や化学などの自然科学的手段によることが多かったために、基礎医学に位置づけられたものと思われるが、衛生学の研究調査の場は、基礎医学のような研究室ではなく、また臨床医学のような診療所や病院でもない。つまりは、社会から隔絶された環境に研究調査の場があるのではなく、生きている現実の環境にその場があることとなる。公衆衛生を例にとっても、その内容は、直接的に人間が集団で生活している状況について、とくに行政的な介入によって健康にどのような影響を与えうるかを研究するものである。したがって、社会医学の分類原理は、まず社会的環境の分類に対応するものであるといえる。この分類原理に沿えば、社会医学には、農村医学、都市医学、産業医学、学校医学、民族医学などが含まれる。また、研究方法や問題解決の方法に注目すれば、疫学、公衆衛生学、予防医学、包括医学、管理医学などが含まれる。社会医学が、病気より前に出て、その予防や健康保持に重点を置くものであることを明確にするためには、医学ということばよりは、衛生学、さらには保健ということばを、前出のそれぞれの領域を示す名称につけるほうがよいと考える学者も多い。たとえば、農村医学にかえて農村衛生学あるいは農村保健という表現を使うわけである。
[中川米造・中川 晶]
医療や保健が、それ自体独立したものではなく、社会的な機能の一部であることが明らかになり、しかも、それを無視しては、医療や保健の望ましい展開は不可能であることが意識されるにつれて、医療の社会科学的な研究が必要視されてきた。この新しい観点から生まれたのが医療社会学である。医療社会学は、社会医学とほぼ同義に使われることがあるが、医療や保健から出発せずに、社会学で開発された研究手法を医療や保健に適用し、この有効性が認められたところに意義がある。医療社会学では、患者、医療者の特性およびその相互関係などが研究対象となる。また一方、文化との関連で、病気の定義が変わったり医療への対応が異なったりすることに文化人類学者が注目し、医療に関する部分を対象として医療人類学(メディカル・アンソロポロジー)という新しい学問的位置づけがなされようとしている。さらに、医療費が社会経済のなかで無視できない割合を占めるようになり、その大きな部分が公的な支出によるようになると、医療に経済学的な考察が必要となってくる。この場合、狭義には医療施設の経営経済学を意味するが、これと区別して、公的な経済政策との関連を示すときには保健経済学という語が使われる。また、医療の公的性格が強調され、医療を受ける側の権利が基本となると、これまでは医療者、とくに医師の結論的判断によって行使された医療技術は、その判断の根拠の論理性と倫理性が公開の場で検討されなければならなくなる。医療の倫理学は新しい理論構築が要求されるし、医療の論理学、とくに医療的意志の決定過程を論理的にあるいは哲学的に明らかにする必要が生じてくる。これまでは、ただ医師の教養としてしか考えられなかった社会科学、人文科学が、直接医療との関連で、緊急な関心を集めつつ、新しい科学分野として研究され、制度化されようとしているわけである。
[中川米造・中川 晶]
これまでに述べた医学の構成については、19世紀前半にドイツでつくられた医学教育の教科目分類の原則に基づいたものである。ここで、ドイツなどの医学教育に触れながら、日本の医学教育について解説する。
19世紀におけるドイツの医学教育は、ドイツの近代的大学の原則である教える自由、学ぶ自由、および研究の自由の三つの自由をスローガンに進められた。つまり、教授は講義で何を話してもよく、学生はすべての大学であらゆる教授の講義を聞くことができ、そして大学では研究がもっとも重視されたわけである。医学生は、望みの大学で望みの教授の講義を聞いて、基礎医学と臨床医学の二つについて行われる国家試験に合格すれば、医師になれるが、卒業後は、希望する教授の講座に研究生として参加し、研究に従事し、学位を受けることによって初めて、医師社会における地位を築くことができたわけである。
日本は、1869年(明治2)このようなドイツ医学教育のシステムを導入したが、学ぶ自由は制限され、大学を自由に移動すること、あるいは多様な講義のなかから望みのものを選択する自由はほとんど提供されなかった。ただし、卒業後の学位取得についてのみは、より関心の高いものとなった。文部省(現文部科学省)調べによると、1962年(昭和37)まで続いた旧制度における博士の学位取得者の総数は8万9857人で、そのうち6万9672人、78%が医学博士となっている。それ以降でも、取得者数は50%と、他の領域の博士取得者数をはるかに超えている。
第二次世界大戦以降は、とくにアメリカ占領軍の示唆で、アメリカ型の医学教育の影響が大きくなった。アメリカ型教育の特徴は、臨床教育の重視、つまり講義よりも実地を重視することである。アメリカの多くの医科大学では、学生が基礎医学や臨床基礎医学の段階を終えると、教育病院に配属し、ある一定期間、いくつかの基幹となる科目についての病棟実習を行うこととしている。つまりは、臨床医としての学習を体験的に積み上げさせるのが教育の原則で、ドイツや日本のように臨床医学を講堂で講義するということは少ない。アメリカでは、かつてのドイツのように大学間を自由に学生が移動するという自由はないが、各医科大学には、多様な選択を可能にする授業が提供されている。さらに医学校卒業後は、医師としての基本的な技術や態度の研修を行うインターンを経たうえで、専門医としての研修を行うレジデント(病棟医)の期間を経験したのち、専門学会の認定試験を受けて専門医になるというコースを設けている。医学的な研究も臨床的な研究が中心で、ドイツや日本のような実験室での研究はおもに他学部出身者が行うのが普通である。第二次世界大戦後、日本がアメリカ型の医学教育のうちで、まず採用したのはインターン制度であるが、趣旨が理解されず、不満のみが高まって、1968年に廃止された。また、医学校における病棟実習も導入され、一時はかなり強化されたが、アメリカのように講堂における臨床医学の講義を大幅に減らす、というまでには至らなかった。
第二次世界大戦後、どこの国でも医療需要が急速に増加し、医師不足が顕在化した。これに対して多くの国で医学校の増設が行われた。日本では第二次世界大戦中、軍医を養成するために医学校の大増設を行ったが、多くの卒業生を出す以前に敗戦となった。戦後しばらくは復員軍医も多く、医師不足は当面ないという判断が生まれ、戦時中に増設した医学校を整理する方針をとった。ところが、1959年国民のすべてが健康保険に加入することになってから、比較的多いと思われていた医師の需給関係が急速に逼迫(ひっぱく)するようになり、1971年からふたたび増設に踏み切った。その時点での目標は、「昭和35年(1960)における医師数と患者数の相対的比率をいちおうの基準として、昭和43年(1968)における必要医師数を求め、人口10万人当り150人の医師数を昭和60年(1985)までに確保する」ことであった。この増設に踏み切る前年の医学校数は46で、4360人(定員)の学生が入学していたのが、この方針の結果、1981年には8340人にまで増加し、前出の目標も1983年にはほぼ達成という結果となった。1983年の医学校の数は79校、ほかに自衛官のための医療要員養成のために1974年に設置された防衛医科大学校を加えると80校であった。しかし、それ以後は医学校の増設はみられず、逆に多くの医学校で定員の削減が行われ、1997年(平成9)には学生数7730人となった。この背景には医療費を抑制するには医師数を抑制する必要があるという厚生省(現厚生労働省)の判断があった。日本医師会は医師充足率が欧米と比較して低すぎることを指摘してきたが、厚生省は一貫して医師数は充足しており、問題は医師数の地域的分布すなわち医師の都市部への集中であるとしてきた。確かに医師数の地域的分布において都市部への集中がみられ適正な分布とはいいがたいが、問題はそれだけにとどまらない。2000年ごろより研修医の過労死が顕在化し始め、公的病院から一挙に多くの医師が退職したり、脳出血を起こした妊婦の救急車の搬送先がみつからないなど医師不足による現場医師の疲弊が社会問題となるに至り「医療崩壊」という言葉が叫ばれるようになった。2007年政府はついに、これまでの医師数は充足しているという認識を変更し医師養成数を増加する方針に切り替えた(2009年度の医学部養成定員は大幅に増員され8486人となっている)。
また、1994年には高齢化率が14%を超え、慢性病の増加など疾病構造の変化に伴い医学教育も変化を迫られている。求められる方向性として、人間性豊かで臨床手技にも熟達した全人的医療能力の向上があげられている。その試みとして1991年の大学設置基準の大綱化に伴い、各医学校が自主的にカリキュラム編成を行うことができるようになった。伝統的に日本では臨床医学も講義で行う形式が一般的で、欧米と比較すると臨床実習がなおざりにされる傾向があった。そこで1991年には医学生の医療行為が緩和され大いに期待されたが、教育スタッフの不足や、学生に医療行為をさせた場合保健診療上どのような扱いになるのかむずかしいなど障害も多い。
医師国家試験では、1997年より医の倫理的問題やプライマリ・ケア(診断とそれに結び付く医療からなる第一次医療)など医師として必須(ひっす)の事項を必修問題として出題し、ほかの領域の問題より高い正答率が求められるようになった。しかし試験が多肢選択形式であるため、人格や識見など医師としての必要な資質を選抜するという意味においては限界があるという意見も多い。医師の臨床研修については、前述したようにインターン制度が1968年(昭和43)に廃止されてから、同年臨床研修制度が導入され、卒業後2年以上の臨床研修を行うよう努めるものとされたが、これは努力規定にとどまるものであった。しかも研修内容について詳しい内容は決められていなかったため結局は徒弟制度的な要素の多い大学医局に残る者が多かった。このためプライマリ・ケアや救急処置の研修が十分でないことが指摘されていた。2004年(平成16)、新医師臨床研修制度が制定され、診療に従事しようとする医師は、2年以上の臨床研修を受けねばならないとされた。内容も細かく決められ、内科、外科および救急部門(麻酔科を含む)、小児科、産婦人科、精神科および地域保健・医療をローテーション研修しなければならない。原則として当初の1年は内科を6か月以上、残りを外科および麻酔科で研修することが望ましいとしている。医師としての基礎的な臨床能力を養成しようとする新制度ではあったが、現場で指導する医師側からすれば研修医の指導はこれまで以上の過重労働となり、疲弊し辞めて行く医師も増加しており、先に述べた医療崩壊に拍車をかけているともいえる。
[中川米造・中川 晶]
科学技術の発展は多かれ少なかれ両刃(もろは)の剣である。とくに医療の場合、直接生命にかかわってくるので問題は先鋭化しやすい。まず、移植医療においての問題点はドナー(移植臓器提供者)の臓器が新鮮であることが求められるため、死の定義をやり直さねばならなかったことである。すなわち脳死という概念の普及が前提となったため、多くの倫理的問題を巻き起こした。1967年に世界初の心臓移植が南アフリカで行われると、翌年には米ハーバード大学で脳死基準「不可逆的昏睡(こんすい)の定義」が発表されている。日本では1968年(昭和43)に札幌医大で心臓移植が行われたが、これを契機に脳死からの臓器移植について大きな議論が巻き起こったが立ち消えになっている。その後1997年(平成9)に日本では臓器移植法が施行され、本格的な移植医療が計画されているが倫理的議論が十分になされないままの見切り発車となっていることは否めない。
次に人工受精(人工授精)をはじめとする生殖医療は、誕生してくる生命を人工的に操作できるという技術そのものに危険性が内在している。遺伝的に優れた子供を生殖医療を通じて人工的につくれることは、社会が求める一元的な能力に遺伝的に特化された子供が増加することになる。すると自然が本来もっている多様性が低減する。多様性が少なくなることは種としての弱体化を招くだろう。
医学が進歩するにしたがって、多くの強力な治療法が発明されてきた。それは病気をコントロールしようという試みであったはずである。しかしどこまでコントロールしてよいのかという問題に医学は答えることができない。たとえばうつ病を治療するのはいいとしても、実存的な悩みまでコントロールしてしまっていいものだろうか。またペインコントロールは大事だが、痛みがなければ危険回避に問題はないだろうか。これらの境界はあいまいである。
現代医学は生物科学を基礎において著しい発展を遂げ、その応用として医療を位置づけてきた。確かに急性疾患や外傷に対しての有効性、卓越性は疑うべくもない。しかし、慢性疾患・神経症・心身症といった病気に対しては突如切れ味が悪くなる。なぜかというと、これらの疾患では主観が病気に深くかかわっていて、客観的であることを旨とする生物科学は立ち往生してしまうからである。主観的なものを客観的な方法で扱うことには無理が生じる。結局、病気の客観化できる部分にだけ焦点をあてた治療が行われることになり、その他の部分は切り捨てられることになる。
エンゲルGeorge Engelは現代医学の生物科学万能主義を批判して「プロクルテスのベッド」の寓話(ぐうわ)を引用している。プロクルテスというのはギリシア神話に出てくる盗賊で、旅人を捕まえては用意したベッドにくくりつけるのだが、旅人の足がベッドより長ければ切り落とし、短ければ引き延ばしてベッドと同じ長さに揃(そろ)えて楽しんだという。現代医学も同様に医学のまな板にのらない部分は切り捨てるという発想がある。今後の医学はさまざまな問題を抱えながら修正されていかねばならない。
[中川 晶]
『中川米造著『医療的認識の探究』(1975・医療図書出版)』▽『吉利和・中川米造著『新医学序説』(1977・篠原出版)』▽『中川米造著『医療行為の論理』(1980・医療図書出版)』▽『中川米造著『医療のクリニック「癒しの医療」のために』(1994・新曜社)』▽『日経メディカル編集部編『21世紀の医学・医療――日本の基礎・臨床医学者100人の提言』(1995・日経BP社)』▽『中川米造著『医療の原点』(1996・岩波書店)』▽『中川米造著『医学の不確実性』(1996・日本評論社)』▽『大井玄・堀原一・村上陽一郎編『医療原論――医の人間学』(1996・弘文堂)』▽『日野原重明監修『医療概論』(1997・建帛社)』▽『星野一正編著『生の尊厳――日米欧の医療倫理』(1999・思文閣出版)』▽『黒田浩一郎編『医療社会学のフロンティア――現代医療と社会』(2001・世界思想社)』▽『日本エム・イー学会監修、江部充著『医学概論』改訂版(2002・コロナ社)』▽『日野原重明監修、医療秘書教育全国協議会編、江花昭一他著『医療概論』改訂版(2002・建帛社)』▽『後藤由夫著『医学概論』(2004・文光堂)』▽『新臨床検査技師教育研究会編『医学概論・臨床医学総論』(2005・医歯薬出版)』▽『梶田昭著『医学の歴史』(講談社学術文庫)』▽『高久史麿著『医の現在』(岩波新書)』
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…内科学の略称。臨床医学の一分野であるが,内科が医学そのものを意味したこともあるくらい重要な部門なので,内科を定義づけようとすれば,医学の概念の変化をまずたどる必要があるであろう。
[医学と内科]
医学は英語ではmedicineという言葉で表されるが,この語には,このほかに〈まじない〉〈魔術〉〈薬〉〈医術〉〈内科学〉などの意味がある。…
…医学の一部門として発生し,さまざまな曲折を経て今日の様相にまで発展してきた一種の技術科学と考えられ,医薬品の創製,製造,患者への適用・管理,流通管理のほか,国民の保健衛生の向上,保全に資する総合的学問である。
[薬学の歴史]
薬学の成立を歴史的にたどるとすれば,その淵源はギリシア時代の〈調剤医師〉に求められる。…
※「医学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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