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 し poetry

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説



poetry

語源のギリシア語では「創造,生産」を原義とし,一般用法としては「言語芸術の作品」を意味するが,詩を簡単に定義することは至難である。ギリシア以来詩は韻文と不可分の関係にあるが,「韻文と散文」という対置が明確であるのに対して,より一般に使われる「詩と散文」という対立は複雑な問題を含んでいる (たとえば「散文詩」の存在) 。

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デジタル大辞泉の解説

し【詩】

文学の様式の一。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの。押韻韻律・字数などに規定のある定型詩と、それのない自由詩散文詩とがあり、また、内容から叙情詩叙事詩劇詩などに分ける。
漢詩のこと。

し【詩】[漢字項目]

[音](呉)(漢) [訓]うた
学習漢字]3年
文学様式の一。うた。「詩歌(しいか)詩作詩情詩心詩人漢詩劇詩原詩史詩訳詩散文詩
漢詩のこと。「詩吟詩賦唐詩律詩
詩経」のこと。「毛詩

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編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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百科事典マイペディアの解説

詩【し】

一般に,一定の韻律に則って選ばれた句を一定の形式に配列して表現される言語芸術。韻文の別称,英語poempoetryなどの訳で,〈詩歌〉とも。散文に対する(〈詩は舞踊,散文は歩行〉P.バレリー)。
→関連項目散文詩

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世界大百科事典 第2版の解説

し【詩】

詩について記述することはできても,詩を定義することはむずかしいといわれる。とりわけ日本語で〈詩〉といった場合には事情が複雑である。詩という呼称はもともと中国の文芸上の一様式をさすものであり,江戸時代までは詩といえばいわゆる漢詩をさしていたが,明治以降,西欧文芸におけるポエトリーpoetry(英語)またはポエジーpoésie(フランス語)の理念が導入された結果,現在では,詩といえば狭義には文芸の一部門としての新体詩およびそれ以後の近代詩,現代詩をさしながら,広義には言語芸術のうちで散文に対立する韻文芸術の総体を包括的にさすこともある言葉となった。

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大辞林 第三版の解説

し【詩】

文学の形式の一。一定の韻律などを有し、美的感動を凝縮して表現したもの。内容的にはギリシャ以来抒情詩・叙事詩・劇詩に大別され、近代にはいって定型を廃した自由詩・散文詩が盛んとなった。
人の心に訴え、心を清める作用をもつもの。また、詩的趣があるさま。 「 -に乏しい」 「彼の生き方には-がある」
(和歌・俳句に対して)漢詩のこと。 「歌をよみ-をつくる」
詩経しきよう 」に同じ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説



poetrypoem英語
posiepomeフランス語
Gedichtドイツ語

はじめに

詩は韻文で書かれたものという通念があるが、ドイツ語で詩は「凝縮する」dichtenという意味をもっている。つまり、詩は凝縮した感情表現、より簡単にいえば、高められたことばにすぎない。[新倉俊一]
詩とはなにか
コールリッジは詩と散文の区別を韻の有無によらないで、「散文はよいことばのよい組合せで、詩はいちばんよいことばのいちばんよい組合せである」と、ただ述べている。とりわけ散文詩という形式が成立した19世紀なかば以降では、詩の定義は韻律のような外面的なものでなく、もっと内面的な要素によらなければならない。したがってコールリッジも「詩作品は他の科学的作品と違って、真実でなく、美を直接の目的とする」と説明している。つまり、一般の科学の論文や報道の文章は単に事実の正確な伝達を目的とし、いったん伝達が終われば用済みとなるが、それに反して詩作品は、伝達の内容よりも表現自体が目的なのである。バレリーが散文を歩行に例え、詩を舞踏に例えたのも、同じ意味であろう。むろん詩においても内容は重要であり、詩も人生についての認識に深くかかわっている。知識が哲学・歴史・天文学のように分化していなかった時代には、詩は総合的な認識様式であった。科学の発展によって細分化された今日でも、シェリーのいうように「詩は知識の中心」であり、「それはすべての学問を内包し、すべての学問は詩に帰せねばならない」と考えてよい。なぜなら、科学は部分的な認識を与え、詩は全体的認識を与えるからである。
 詩は音楽や絵画や彫刻と同じく、人間の全体性について認識を伝える感情表現の一様式であるが、ことばをその表現の固有の手段としている。言語の機能からみると、指示作用よりも暗示作用が本質であって、それは主として音と比喩(ひゆ)表現に依存している。ペーターは「すべての芸術の状態は音楽に近づく」といっているが、詩にとって音楽の役割は大きい。外面的な韻律を用いれば韻文詩となり、内在的な音調を用いれば散文詩あるいは自由詩となる。散文詩や自由詩運動がおこってからは詩の中心は音楽よりもイメージに移ったけれども、音楽性はなくなったわけではない。いま一つの比喩的表現は高められたことばの特徴であり、どのような詩も主旨を効果的に表現するためにはこれを欠くことはできない。だからアリストテレスは、詩人にとって「いちばんたいせつなことは比喩を完全に駆使する力をもつことであり、これだけは他人から学べるものではなく、天才のしるしである」といっている。そういうと、詩はただの修辞のように思われるかもしれないが、詩の比喩はけっして装飾的なものでなく、直観的認識のために不可欠なものである。なぜなら、現実は慣習の眠りのなかに埋もれているので、絶えず新しい比喩によって呼び覚まさなければならないからだ。ワーズワースはこれを「日常の事物に想像の光を注いで新鮮な意識を回復する」といっている。
 具体的にいえば、比喩とは「二つの相似ていない事物の間に類似をみつけること」であり、その一般的な方法には直喩(シミリー)と隠喩(メタフォー)がある。直喩とは、「私の恋人は真っ赤なバラのようだ」(バーンズ)というように比喩の関係が明示されているものをさし、隠喩とは、バラを「純粋な矛盾よ」(リルケ)とよぶように暗示しているものをさす。これはいちおうの区別であって、形式のうえでは「のように」ということばが使われていても、「手術台の上に麻酔をかけられた患者のように/夕暮れが空一面に拡(ひろ)がるとき」(T・S・エリオット)のような比喩は、直喩というよりも隠喩に近い。このような不明瞭(めいりょう)な直喩は、引き伸ばされた隠喩にすぎない。古典主義の時代には明瞭な比喩(つまり直喩)が好まれるが、ロマン主義の時代には不明瞭な比喩が好まれる。
 シェークスピアは大胆にアクロバットのような比喩を駆使した詩人で、ことばのしゃれは彼の「病」とまでいわれる。これに対して古典主義のサミュエル・ジョンソンは「自然」を重んじ、「不調和」を排した。一概に詩は美を目的とするといっても、美にはさまざまな形態がある。自然なものをなるべくそのまま模倣するワーズワースのようなロマン派詩人は、調和のとれた美を目的とする「自然」派詩人であり、これに反して、不自然なものを創造することを好むコールリッジや、象徴派詩人や、それに現代のシュルレアリストたちは「超自然」派詩人である。後者は調和のとれないグロテスクな美を目的とする。一般に近代詩の美はグロテスクの美であって、ワーズワースのように「ただ美しい自然を美しく模写するだけでは詩にならない」とポーは代弁している。ボードレールもまた「文学の二大要素はイロニーと超自然である」と説いた。つまり、かけ離れた事物を比喩のうえで連結しようとすることはイロニーとなり、超自然を生み出すのである。歴史的にみればロマン主義はつねに超自然や怪奇を求めて「不調和」の美に傾き、古典主義は「自然」を重んじ、「調和」の美に復帰する傾向がある。[新倉俊一]
詩の種類
詩の種類は、大別して叙情詩lyric、叙事詩epic、劇詩dramatic poetryに分けられる。このうち叙情詩は、個人を主体として感情を表白したもので、きわめて主観的で短い。「詩は力強い感情の自然にあふれ出たものである」というワーズワースの定義がそれに当てはまる。次に叙事詩は、民族を主体としてその共同の感情を表すために物語の形態をとったもので、より客観的で長い。両者の中間にバラードや物語詩がある。最後の劇詩は、複数の話者をもつ表現形式で、主として韻文で書かれた劇を意味するが、シェークスピアやゲーテ以降はほとんど衰退して、今日ではクローデルやT・S・エリオットなどわずかな例外を除いて、散文の劇に席を譲っている。今日、一般に書かれている詩のほとんどは叙情詩に属し、それらは内容によって、恋愛叙情詩love lyric、哀歌(エレジー)elegy、頌歌(しょうか)(オード)ode、風刺詩satire、牧歌(パストラル)idyll, pastoralなどに分けられている。ジャンルの意味も時代によって変遷があるが、今日の通念では、哀歌は追悼の詩であり、頌歌は荘重な主題についての瞑想(めいそう)詩であり、牧歌は田園生活を賛美した詩である。風刺詩には、人物を風刺攻撃した社会的なものから、作品を純粋にちゃかしたバーレスク詩やパロディー詩などが含まれる。いわゆる滑稽(こっけい)詩やナンセンス詩、ライト・バースは後者の延長と考えることができよう。ほかに書簡体の詩や、警句、銘詩などが、広い意味で叙情詩の周辺にある。[新倉俊一]
詩の形態
詩の形態は、今日では定型詩a fixed form of verse、無韻詩blank verse、自由詩free verse、それに散文詩pome en prose(フランス語)に分かれる。ポーが詩を「美の韻律的創造」と定義したとき、一定の脚韻構成を備えたいくつかの連からなる定型詩を念頭に置いていた。規則的な韻律は詩の格調を高めたり、意味を効果的にしたりするのに役だつ。しかし定型詩は長い詩や劇では単調さを免れないので、基本的に一定の律格(弱強五歩格)に基づきながら、脚韻を不規則に使う無韻詩の形式が英詩では生まれた。シェークスピアの自在な劇や、ミルトンの『失楽園』は、この無韻詩を駆使して書かれている。
 さらに散文の発達に伴い、まったく従来の韻律の要素をもたない散文形式で詩的効果を求める散文詩がおこった。自由詩もまた韻律からは自由であるが、話しことばのリズムをもとに、長短不規則な詩行を用いている。20世紀初頭に「韻文は死んだ技法か」という質問が提起されたが、今日でも韻文はまったく衰えてしまったわけではなく、自由詩や散文詩と並んで用いられている。たとえばフロストは「自由詩はネットを使わないでテニスをするようなものだ。韻律の価値はテニスにおけるネットと同じで、それを使ったほうがはるかに楽しい」と、韻文を擁護している。[新倉俊一]

西欧の詩

詩を発生的に考えると、それは呪術(じゅじゅつ)のたぐいであった。ギリシア語では詩を、「行う」あるいは「つくる」という意味の「ポイエーシス」poisisで表している。つまり原始社会においては、詩人はまじないを唱えて病気を治したり、穀物を繁茂させたりする人であったことを暗示している。そのような例は、フレーザーの『金枝篇(へん)』に集められた小アジアやエジプトの風習にもみられるし、またもっと身近な伝承童謡の「テントウ虫、テントウ虫、家へ飛んでいけ、おまえの家は燃えてるぞ」(「マザーグースの歌」)というまじないの歌にも痕跡(こんせき)がみられよう。古代社会ではこうして詩は、広い意味の祭礼に結び付いて発達してきた。エジプトでオシリス神を崇(あが)める歌がつくられたように、古代ギリシアでもアポロン神やディオニソス神をたたえる歌がつくられた。これらの唱歌から派生した叙情詩には合唱と独唱の2種類がある。前者は共通の興味や崇拝の的を対象とした共同幻想を歌うもので、後者は独唱者自身の感情表現に重点を置いた。合唱用の叙情詩は主としてドリア派ギリシア人の間で栄え、タレータスThaltas(前7世紀)はアポロンに捧(ささ)げる「讃歌(さんか)」をつくった。ピンダロスもアポロンやゼウスに捧げる「頌歌」から、ディオニソスに捧げる「ディスランボス」、それに「合唱舞踊歌」や、オリンピアの競技を讃(たた)えた「競技捷利(しょうり)歌」までつくり、今日の頌歌の基礎をなしている。他方、独唱用叙情詩はおもにアイオリス派ギリシア人によってつくられ、女流詩人サッフォーは情熱的な愛の歌を歌った。これらの叙情詩はいずれもリラlyreなどの楽器の伴奏にあわせて歌われたもので、叙情詩と音楽との本質的な結び付きを示している。中世の吟遊詩人(トルーバドゥール)や、シェークスピアの劇に用いられる歌も、みな同じように楽器の伴奏で歌われたが、印刷術の発展とともに、叙情詩は変質を迫られ、今日では純粋な形での歌はフォークソングやミュージカルのリリックにしか見当たらない。
 しかし近代の叙情詩も音楽性を捨てたのではなく、ポーが詩を「美の韻律的創造」とよんでいるように、韻文形式に深く依存して、ソネットやバラード調、対句(ついく)などの定型詩を生み出した。詩は元来、話しことばと違って、口から出たときから規則的なリズムの繰り返しに快感を求めてきた。定型への志向は揺りかごのなかからすでにあるといっていい。一口に定型といっても時代の文化とともにさまざまな変遷がある。ギリシアやローマの詩は長短の音量を歩脚にする音量律によってつくられてきたが、強勢のある英語やドイツ語では強勢律によって頭韻詩が発達してきた。
 チョーサーの時代に、フランスの音節数律と脚韻の形式を導入して、英詩は強勢律と音節数律をいっしょにした韻文構成に移行した。これによって、今日みられるようなさまざまな定型が誕生したわけである。その結果、ペトラルカ風ソネットとか、シェークスピア風ソネットとか、スペンサー連(九行連)とか、チョーサー連(七行連)とか、そのほか複雑な頌歌などが、叙情詩の音楽の多様性に貢献した。
 しかし、19世紀後半にフランスの古典主義詩の12音節数律の規則性に反抗して、ボードレールが「リズムや韻がなくとも、心の叙情の動きや、夢想の波動に、意識の飛躍に即応するような、柔らかくしてしかも剛直な」散文詩を試みた。韻文でなければ詩ではないと信じてきた人たちも、詩の音楽性というものを韻律から切り離して考え直す時期がきた。強勢によるリズムがある英語ではフランス詩ほど散文詩の試みは多くないが、伝統的なメトロノームのような韻律から詩の音楽性を解放しようというイマジズムの自由詩運動が第一次世界大戦前後におこっている。この人たちは、19世紀後半のフランスの自由詩人たちのように厳密な韻律から自由になろうと求めるだけではなくて、日本の俳句に倣ってイメージ本位で、伝統的韻律から完全に自由になろうとしている。
 はたしてイメージだけで叙情詩が成立するか、という疑問が投げかけられるかもしれない。現代詩人はイメージの造型性にだけ偏して、詩の音楽性を無視した。これが現代詩の貧困だ、という非難をしばしば耳にする。しかし、イマジストたちも「メトロノームによらないで、音楽の楽句(フレーズ)に従って詩を書く」といっており、イメージの思想性を妨げないような、たとえばワーグナーのような渺茫(びょうぼう)とした新しい音楽を求めているといえよう。古い単純な叙情詩はバラードのような単純な音楽を必要とした。だが今日の複雑な多様化した社会では、叙情詩も単純ではいられなくなり、新しい酒は新しい革袋を必要とするように、新しい叙情詩は新しい音楽を必要としている。
 もともと詩の音楽はことばの意味性を離れては存在しない。本当の音楽に比べれば、詩の音楽などきわめて貧弱なものであろう。だからキーツも「きこえる音楽は美しい/だがきこえない音楽はもっと美しい/……だから肉の耳にではなく魂に/調律のない歌をきかせてくれ」と暗示的に歌っている。つまり、私たちは、ことばのあらわな音楽性よりも、イマジストたちのようにことばに内在する音楽性を尊重する必要がある。「シラブルやリズムに対する感覚は、単に思想とか感情という意識的な面からはるかに深いところまで浸透し、遠い過去に忘れられたもっとも原始的なものの底に沈み、その根源に帰って、なにものかを持ち帰る」機能をもつもので、「それは意味を通じて行われる」という現代詩人T・S・エリオットの説に、私たちはもういちど謙虚に耳を傾けるべきであろう。
 ポーは『詩の原理』で叙事詩を否定して、「長い詩はことばの矛盾である」「叙情詩のほかに詩はない」と断定しているが、これは純粋詩の立場からそういったまでで、歴史的には叙事詩は大きな役割を担ってきた。ポーはミルトンの叙事詩の亜流たちの時代に生きたので、形骸(けいがい)化した叙事詩の効用を否定したが、民族の台頭の時代には、叙情詩よりも叙事詩のなかに共同のあこがれ、共同の怒りと悲しみ、共同の運命を、人々はみいだしたのである。それは叙情詩の世界とは本質的に異なるものであり、語る者は共同の座において種族の語部(かたりべ)として語るのである。たとえ物語的な詩であっても、アーサー王伝説を扱ったテニソンの叙情的な物語詩『国王牧歌』と叙事詩的な『ベオウルフ』とは、まったく異質である。英雄時代が遠い過去となってしまった中世以降は、叙事詩の題材は超自然的な英雄から万人の精神的規範あるいは鏡のような人物に移ってしまった。たとえばダンテの『神曲』の主人公ダンテは、時代精神の反響板のような存在である。そのような人物の語りは、韻文によらなくても散文で十分にできるので、今日ではほとんどその役割を小説に転嫁してしまった。叙事詩がもっていた全体性や神話的手法は、今日では小説のものとなっている。
 同じようなことは劇詩の衰退についてもいえる。アリストテレスは悲劇について「人間行為の全体性」にかかわっていると説いた。ギリシア悲劇は都市国家が成熟したときに栄え、人間存在についての鋭い問いを発した。そして都市国家の衰退とともに消滅している。悲劇はその後ルネサンスの人間復興期にもシェークスピア、ラシーヌなどの天才詩人の出現をみたが、ふたたび時代とともに消えてしまった。とりわけ18世紀の散文の隆盛によって、詩は劇から後退を余儀なくされ、ゲーテやシラーののちは、イプセンやチェーホフの散文劇が近代劇の主流となった。このようにみてくると、現代に残っているものは叙情詩だけのように思える。
 叙情詩も、19世紀の産業革命の進展によって急激に科学に押されたとき、象徴派詩人のように極端な個人幻想へと後退し、詩を純粋な魔術に還元しようという運動が生じた。マラルメからイェーツまで、その立場は持続している。現代詩人のスティーブンズが詩的想像力を「外部の暴力に対する内部の(精神の)抵抗」とよんでいるように、詩は今後も外部の圧迫がますます強まっていくにつれて、つねに貴重な個人幻想として価値を持ち続けるだろう。共同体に基盤を置いた叙事詩や劇詩が不可能になったとしても、人間が棲息(せいそく)し続ける限りは、詩は失われない。とりわけ叙情詩は近代の個人に根ざした個人幻想として、その簡潔な表現と音楽性とによって、重要な役割を果たしていくのではなかろうか。
 20世紀に入ると、19世紀的な「個人」や「主体」の観念が否定され、多様化と崩壊の兆しを示してくる。それとともに、詩の形態も複雑となり多様化して、従来のような明確なジャンル分けが困難となってきている。たとえば、モダニストのT・S・エリオットの『荒地(あれち)』や、エズラ・パウンドの『キャントーズ』では、話者が多様化して、さまざまなジャンルの混交が同一の作品でみられるようになった。とくに1970年代以降には主体の解体が加速化し、ガートルード・スタインのダダ的な文章構造の破壊の流れを受け継ぐジョン・ケージの言語実験や、ジャック・デリダ流のエクリチュールを主体とした「ランゲッジ・ポエトリ」の一派も現れた。これらが一時的なデカダンスの現象であるか、それとも詩概念の変革につながるかは、将来の判定を待たなければならないだろう。[新倉俊一]

日本の詩


新体詩から象徴詩へ
「近代(現代)詩」というときの狭義の「日本の詩」の始まりは、1882年(明治15)刊行の『新体詩抄』(外山正一(とやままさかず)・矢田部良吉(やたべりょうきち)・井上哲次郎共著)とされている。それまで一般に「詩」とよばれていた漢詩や、伝統的な短歌、俳句とは違う西洋の「ポエトリー」(「西詩」)の影響による新詩の誕生であった。この「新体の詩」は万事新しさを好尚する当時の風潮に迎えられて根づくことになるが、できばえは素人(しろうと)の域を出ず、むろん文語の定型詩ながら、翻訳臭、武骨な軍歌調、俗謡風のものが多かった。
 しかし、やがて同じ翻訳ものでも『於母影(おもかげ)』(森鴎外(おうがい)ら新声社同人たちの訳詩集)の出現や、翻訳の賛美歌などの影響もあって、新体詩の文学的価値が広く認知されるようになるのは、島崎藤村(とうそん)の『若菜集』(1897)あたりからである。2年遅れの土井晩翠(つちいばんすい)『天地有情(うじょう)』などとともに、新体詩は、時代の浪漫(ろうまん)主義(同時期の『文学界』や『明星』などの運動とともに)の風潮をもっとも代表するジャンルのようにみなされてくる。20世紀に入ると、これまた上田敏(びん)の名訳詩集『海潮音』(1905)の大きな影響や、西洋の象徴主義の直接の刺激もあって、『有明(ありあけ)集』の蒲原有明(かんばらありあけ)、『白羊宮(はくようきゅう)』の薄田泣菫(すすきだきゅうきん)らの詩は、詠嘆的な浪漫主義に新たに奥行のある象徴味が加わり、新体詩は大きな到達点をみせ、この象徴主義の詩風は北原白秋(はくしゅう)や三木露風(ろふう)らによって深められ、もはや新体詩とはよべない「近代詩」の風格を備えてくる。時代もまた明治の終わりになって、かつての『明星』出身の詩人たち(木下杢太郎(もくたろう)、北原白秋、高村光太郎ら)や若い芸術家たちの「パンの会」の芸術運動がよく示すように、個性的な感覚美を謳歌(おうか)する風潮が高まっていた。[原 子朗]
口語詩の実現
一方では小説の自然主義運動の影響や詩人たち自身による詠嘆的な新体詩の限界の自覚もあって、より現実に即した感情の重視ということから言文一致詩(口語詩)が唱導され(口語自由詩運動)、これが一般の趨勢(すうせい)となって、大正期に入ると、従来の口語定形の詩は急速に退行していく。デモクラシーの思想や大正リベラリズムの風潮も、側面からこれを助長した。民衆詩派(白鳥省吾(しろとりせいご)、百田宗治(ももたそうじ)、富田砕花(さいか)、福田正夫ら)の詩も当然平明な口語で日常茶飯事を詩にして、かえって芸術派の詩人たちの反感を買うほどであった。また人道主義、理想主義の詩人と目される千家元麿(せんげもとまろ)、尾崎喜八、福士幸次郎、室生犀星(むろうさいせい)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)らの活動も目だち、影響力をもった。しかし「日常用うるところの語」すなわち口語詩への念願は、実は『新体詩抄』の当初から掲げられていたもので、詩人内面の要求と時代の風潮とに促されて、ようやくそれが実現したとみることもできよう。
 この口語表現のメリットを最大限に発揮し、近代詩に大きな転機をもたらした代表的な詩人は、題名からして口語を用いた『月に吠(ほ)える』(1917)の萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)であろう。文語詩のとらええなかった複雑な屈折する自我の内面性が、一見非音楽的な口語表現によって可能となったが、朔太郎は外形に頼らぬ口語独自の音楽性を重視し、微妙なイメージによる口語詩の可能性を追求した(これは、今日、現代詩の問題点でもある)。大正期の詩は小説と同様、ある意味で豊かな時期で、多くの個性的な詩人たちの活躍があった。大手拓次(おおてたくじ)、西条八十(さいじょうやそ)、日夏耿之介(ひなつこうのすけ)、竹内勝太郎ほか、それにまったく詩壇外で独往の芸術的、かつ全人間的な詩を書いた宮沢賢治の現代に及ぶ大きな影響力を考えればよい。影響力といえば、堀口大学の訳詩集『月下の一群』(1925)があった。次の昭和期の詩や小説にまで、これほど直接的な影響と強い刺激を与えた訳詩集はあるまい。一方では、詩の革命的な意識に基づく未来派運動(平戸廉吉(ひらとれんきち))や、『赤と黒』(萩原恭次郎(きょうじろう)、岡本潤(じゅん)、小野十三郎(とおざぶろう)ら)、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』なども、かつてない詩の傾向として影響力をもった。[原 子朗]
モダニズム派・プロレタリア詩の活躍
昭和期に入ると、「新詩精神(レスプリ・ヌーボー)」を掲げる『詩と詩論』(春山行夫(ゆきお)を中心に安西冬衛(ふゆえ)、北川冬彦、近藤東(あずま)、西脇(にしわき)順三郎、吉田一穂(いっすい)、村野四郎ら多数)の斬新(ざんしん)な活動をはじめ、プロレタリア詩(中野重治(しげはる)や小熊(おぐま)秀雄ほか)もかつてないにぎわいをみせた。明治末期の児玉花外(かがい)以来の社会主義詩の傾向が、戦争突入前の暗い時代を背景にあだ花のように咲き誇った感があった。やがて太平洋戦争に突入すると、かつてのプロレタリア詩人たちも、『詩と詩論』から分岐した叙情派(三好達治(みよしたつじ)、丸山薫(かおる)らのいわゆる『四季』派)も、現実派(北川らの『詩・現実』の詩人たち)も、モダニズム派(春山、西脇、北園克衛(かつえ)ら『詩法』『新領土』『VOU(バウ)』の詩人たち)も、また『歴程』による個性豊かな詩人たち(草野心平、逸見猶吉(へんみゆうきち)、中原中也(ちゅうや)ら)も、多かれ少なかれ戦争協力の詩を書き、あるいは沈黙、あるいはあいまいな立場をとるなど、すべて詩の遺産の無力をあらわにした。反戦詩人の唯一の代表のように目される金子光晴(みつはる)さえ、完璧(かんぺき)にその立場を貫き通したとはいえなかった。[原 子朗]
第二次世界大戦後の詩
敗戦を境に、戦前からの詩人たちも解放されたように、一斉に詩を書いた。だが、戦中の詩の無力さへの反省や、戦争肯定や協力の責任も含めて(徹底した追及はなされないまま終わったが)新しい詩の気運もおこった。かつての詩の美学をかなぐり捨てて、詩を生と現実(戦後は解放と同時に苦難の時代でもあった)の接点において、ことばの主体的な可能性を探求しようとする詩人たちの台頭であった。よく『荒地』(鮎川信夫(あゆかわのぶお)、三好豊一郎(みよしとよいちろう)、田村隆一(りゅういち)、黒田三郎ら)、『列島』(関根弘、安東次男(つぐお)、木島始ら)のグループが戦後詩の代表のように引用されるが、この2グループに限らない。戦争というものを通して「経験」の詩に及ぼす意味の重さを、比較的若い詩人たちは、皆かみしめながら重苦しい詩を書いた。戦前までの詩の方法上の主義や主張のレベルを超えて、経験と社会的関心と実存の意識の重さにおいて、戦後の新しい詩人たちは大きく共通するものをもっていた。
 それが1960年(昭和35)前後から、直接の戦争(場)体験をもたない詩的世代が登場すると様相も少なからず変わってくる。なにやら遍満していた重苦しさは薄れてき、総じて、より明るい、それだけに幅広い柔軟な感受性を発揮している点で大きく共通するものをもちながら、しかし、ここではもうかつての主義主張を掲げない、伸びやかな気質的集団ともいえる、たとえば『櫂(かい)』(谷川俊太郎、大岡信(まこと)ら)をはじめとするグループの活動が目だってくる。それだけに一筋縄ではくくれない詩の多様化の時代を迎えたともいうことができる。1970年代に入ると、さらにその多様化の傾向は強まり、個性的な詩の時代といえば、聞こえはよいが、未曽有(みぞう)の世界的な情報化時代のなかで、外に対決する共通の「敵」や主題を見失い、詩人たちは、めいめい個人的で内閉的な詩を書くようになる。
 それは詩人たちの責任というより、一口に「文学は滅んだ」といわれるような、文化のグローバルな構造的変化の一現象といえよう。もともと活字商品市場の圏外にあって流行からもっとも自由なはずの詩の世界にも、視聴覚をはじめとするメディアの多様な発達による(本来なら詩の読者であり支持者であった若者たちの)活字(言語)離れの波が押し寄せた感のある20世紀末の20~30年であった。詩の状況に限っていうと、かつての詩の読者は、作者とともに高齢化し、時代を画する詩や若手の詩人が現れないのも、そうした詩を待望する読者もまた顕在しなくなってしまったという構造的「不況」感も否めない。もしかしたら専門詩人たちの詩にひたすら共鳴していた感受の方式が、いまは自ら詩ないし詩的表現をすることで、かつての詩的欲求を充足させる実践の時代になったのだ、といえるかもしれない。そうしたアマチュアリズムの盛行は、かつてのような専門詩人の影を相対化させ、時代を画する、または代表する詩の集団や詩人、詩集の名をあげることさえ1980年以降はひどく困難になった。出版手段の容易化と経済成長を契機に、刊行される詩誌や詩集はおびただしく、同人詩誌は全国で1500近くあるともいわれているが、1誌最低10人と仮定しても、1万5000人の書き手による詩集の数は推定さえできぬほどである(かつて考えられなかった大きな特徴は、女性の書き手が男性の書き手を圧倒するほどに増え、書かれている内容も性差を感じさせないことである)。しかし、それらのおびただしい数の詩集(ほとんどが高価な自費出版)の購読者は限りなくゼロに近いとさえいわれている。そうした情況の反動のように、茨木のり子の『倚(よ)りかからず』(1999)は例外中の例外のように大ベストセラー詩集となり、それなりの話題をよんだ。歴史的にはかつての遺産だけで食いつないでいるかのような、想像もつかなかった「詩」の現況である。[原 子朗]

中国の詩

中国の詩は、古典詩(旧詩)と現代詩(新詩)とに大別される。前者は日本で漢詩とよんでいるもので、基本的には定型詩である。後者は1917年の文学革命運動以後、新文学のジャンルの一つとして生まれたもので、西欧の詩の影響を受け、伝統的な古典詩への批判から出発した自由詩である。古典詩は総体的には古語(文言)で書かれ、現代詩は口語(白話)で書かれる。[前野直彬・佐藤 保]
特色
中国詩の源頭とされる『詩経(しきょう)』は、もともと上古の宮廷の楽歌や各地の民謡であったが、経書(けいしょ)の一つとなり、儒家(じゅか)的な文学理論がそれを基礎に構築された。すなわち、詩は本来、純粋な心の声であるから、太平の世には楽しい歌がつくられ、乱世には悲しい歌が生まれるというように、その時々の社会情勢を正確に反映するので、権力者や政治家はこれによって民情を判断することができるし、詩人もまた政治や社会への批評の意味を込めて作品を書かなければならない。さらにまた、詩は作者の人格の正確な反映であるから、優れた詩は当然倫理的にも高いものであり、それを読むことで読者の人格も高められるし、作者自身も人格を高める努力を怠ってはならない、とされた。この考え方は儒教の権威とともに民国初年の文学革命に至るまで詩人たちに受け継がれ、詩壇の風潮が技巧主義・修辞主義に傾きすぎると、いつもこの主張が頭をもたげて補正の役割を果たした。
 古典詩には対句(ついく)などの修辞的技法が要求されるほか、古典あるいは先人の作品に関する知識など、相当の教養を必要とするので、詩人は一部の知識階級に限られた。古典詩を鑑賞するのにも当然同じ教養が必要である。この点からみれば、古典詩は少数のエリートの間で育てられてきたということができる。
 現代詩が指向した重要な点の一つは、詩を少数のエリートの手から全国民に解放することであり、もう一つは、中国民族の自覚を促し、中国の近代化を推進するための一手段としての詩という点にあった。[前野直彬・佐藤 保]
詩形
古典詩の詩形は、古詩(こし)(古体詩)と近体詩(きんたいし)(今体詩)の区別があり、時代的にいえば、唐を境にしてそれ以前に成立した詩形を古詩、唐代に完成された絶句(ぜっく)・律詩(りっし)・排律(はいりつ)をまとめて近体詩とよび、近体詩のほうが厳格な規則をもっている。
 古詩と近体詩のもっとも根本的な違いは韻律の規則にあって、脚韻の踏み方、平仄(ひょうそく)の配列法、さらには用字・対句など修辞的技巧の点に両者の大きな相違がみられる。[前野直彬・佐藤 保]
歴史

詩経と楚辞
詩はもともと民間の歌謡から成長した。現存する中国最古の詩集『詩経』は、紀元前1000年から前600年ごろへかけての古代周王朝の宮廷の歌謡と黄河流域地方の民謡を主体とし、特定の作者をもたない集団の歌であった。王室の先祖の祭りや宴会などでうたわれた宮廷の歌謡も、もとは民歌に根ざしているか、あるいは民間と共通の宗教的基盤から発生した楽歌であったのである。
 いま『詩経』に収められている古代歌謡の中心は、その半数以上を占める地方の民謡(国風(こくふう))であり、現実的で素朴なうたいぶりは後世の詩人たちに大きな影響を与えた。だが、『詩経』の形式は後世にあまり影響を与えなかった。それは、うたうときの旋律のためであろうが、基本的なリズムが一句四言の短いもので、表現しうる内容にもおのずから限界があったからである。
 戦国末期の南の長江(揚子江(ようすこう))流域には、『詩経』の歌よりももっと自由で複雑な形式をもつ歌謡が発達していた。やはり元来は集団の祭祀(さいし)の楽歌であったに違いないが、この形式を使って個性的に自己の感情をうたいあげた代表的な詩人が、楚(そ)の屈原(くつげん)である。彼とその追随者の歌は、楚の歌謡に基づくところから「楚辞」と総称される。
 楚辞は漢代に入ると「賦(ふ)」という独特な有韻の文へと発展し、時代が下るにつれてしだいに詩の主流からは離れるが、楚辞体の作品の創作はその後もけっしてとだえることはなかった。[前野直彬・佐藤 保]
漢代の楽府と五言詩
漢の民間には楚辞体と異なる歌謡が流行していた。史書の伝えるところによれば、前漢の武帝(ぶてい)(在位前141~前87)のときに宮中に音楽署の楽府(がくふ)を設けて、これら各地の民謡を採集整理させ、また演奏させたという。楽器の伴奏をつけてうたわれたこれらの歌は、同じ曲に多くの歌詞がつくられると同時に、一つの曲に多数の変曲が生まれ、さらにまた当時開かれたばかりのシルク・ロードを通じて西域(せいいき)の音楽も輸入されて、前漢の中期から後期にかけて最盛期を迎えた。それを「楽府(がふ)」もしくは「楽府詩」とよぶのは、武帝のときの音楽署の名に由来する。
 楽府の詩形はそれぞれの曲によってさまざまに異なり、ときには長短句を交えた雑言詩の形をとるが、そのなかから一句五言の形式をもつものが育ち、後漢(ごかん)のころには一般に定着し、やがて楚辞体にかわる新しい詩形として詩人たちに好まれるようになった。[前野直彬・佐藤 保]
魏・晋・南北朝の詩
後漢末、すでに政治の実権は漢の王室劉(りゅう)氏の手から曹(そう)氏一族に移っていた。曹操(そうそう)・曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)父子、さらには王粲(おうさん)を代表とする「建安七子(けんあんしちし)」とよばれる詩人たちが、五言詩の詩形を用いて優れた叙情詩をつくり、五言詩は民謡から離れて専門詩人が用いる詩形となった。
 魏(ぎ)・晋(しん)の不安な社会情勢のなかで、五言詩の表現技術は著しく進歩し、詩人たちは胸中の不安と苦悩をそれに託して表現した。「竹林(ちくりん)の七賢」の代表と目される阮籍(げんせき)(けいこう)の作品には、明確な自我の主張と思索的な深みがあり、新鮮な叙情性をもつ。だが、貴族制社会の確立に伴って、詩の表現は華麗を求める方向に進み、修辞にくふうが凝らされるようになった。晋の陸機(りくき)や潘岳(はんがく)らはその先駆けである。
 南北朝の時期、江南に逃れた漢民族はめまぐるしい王朝交代を繰り返し、政治・社会の不安定はますます深刻になったが、王侯貴族は江南の豊かな産物と美しい山水のたたずまいにひとときの安らぎを享楽した。サロン的な雰囲気のなかで修辞的、かつ遊戯的な詩がもてはやされる風潮にあって、江南の自然をみずみずしい感覚でうたった山水詩の謝霊運(しゃれいうん)、隠逸(いんいつ)の立場から田園生活を詠じた陶淵明(とうえんめい)(陶潜)、さらに楽府体の詩に力量を示した鮑照(ほうしょう)などの人々はむしろ特異な存在であった。
 南朝の中期、華麗な表現を求める傾向はますます強まり、繊細な句づくりに努力が重ねられた。表現技術のくふうは言語学の発達と合体して、「四声八病(しせいはっぺい)の説」を生み出した。梁(りょう)の沈約(しんやく)が首唱者とされるその説は、中国語に四声・平仄の区別があるという自覚のもとに、それを効果的に配列することによって詩の音楽的な美を整えようというもので、この規定が整理されていって、やがて唐代に入って近体詩を生み出すことになった。
 また南朝の特色として、おびただしい数の民間歌謡の発掘と、それらに対する詩人たちの擬作がある。そのなかの七言形式がこれまた唐代に至って大きく発展し、七言の定型詩の成立をもたらした。
 一方、異民族が統治した北朝にあっては、素朴な力強い楽府作品もみいだせるが、全体としてみれば南朝風模倣の色彩が濃い。[前野直彬・佐藤 保]
唐の詩
短命の隋(ずい)代を経て、中国の古典詩は唐代に入って花開いた。唐一代を初・盛・中・晩の四つの時期に分ける「四唐説」は、後の明(みん)代になって定着したものであるが、王勃(おうぼつ)・楊炯(ようけい)・盧照鄰(ろしょうりん)・駱賓王(らくひんのう)の「初唐四傑」や陳子昂(ちんすごう)の活躍した初唐期、李白(りはく)や杜甫(とほ)をはじめとして王維(おうい)・孟浩然(もうこうねん)など才能豊かな人々によって彩られる盛唐期、韓愈(かんゆ)と白居易(はくきょい)を代表とする中唐期、そして爛熟(らんじゅく)から滅亡へと向かった杜牧(とぼく)・温庭(おんていいん)・李商隠(りしょういん)の時期の晩唐と、それぞれの時期を特徴づける数多くの詩人たちが活躍した。「詩の時代」とよばれるにふさわしい状況は、政治の安定と文化の進展に伴う人々の生活の広がりと深化、外来文化との接触などによってもたらされたが、科挙(かきょ)の試験に詩賦が課せられるようになったことも、詩の隆盛の要因の一つとなった。もっとも、安史の乱を境として唐の社会は大きく転換するが、詩の状況も同じく、白居易・元(げんしん)らの「新楽府運動」は行き詰まった詩の改革運動であり、韓愈・柳宗元(りゅうそうげん)らの「古文運動」とともに、古典主義の立場から文学の新たな出口を模索するものであった。彼らが切り開いた詩文の新しい世界は、晩唐・五代を経て宋(そう)代で初めて実を結んだ。[前野直彬・佐藤 保]
宋の詩
宋の時代は、漢民族が南北両中国を統一していた北宋の時期と、北中国を女真(じょしん)族の金(きん)に占領されていた南宋の時期とに分かれる。強力な中央集権国家として出発した宋は、文人官僚を重用していわゆる「文治」に心を砕いたので、詩文の才能のある人々がそれなりに社会的地位を獲得できた時代であった。この点、総じて仕官も意のままにならず、社会的には不遇のまま生涯を終えることの多かった唐の詩人たちとは、様相を異にする。一般に宋の詩人たちにみられる落ち着きと自負は、社会・文化と彼らとの深いかかわりから生まれたものである。
 詩の内容にも当然それは反映し、宋の詩人たちは独自の詩の世界をつくりあげて、唐詩と並ぶもう一つのピークを形成した。それはひと口にいえば唐詩と際だった対照を示し、唐詩の激情に対して宋詩の冷静さと余情、唐詩の雄大なスケールに対して宋詩が発見した日常生活のなかの細やかな美、唐詩が感情のままに絶叫するのに対して宋詩は緻密(ちみつ)な論理によって詩人の思想が展開される、などの特徴をもつ。したがって宋以後は、唐詩を学ぶか、それとも宋詩を学ぶかによって詩人たちの傾向が分かれ、論戦が行われたこともあった。
 このような宋詩的世界は、北宋期、欧陽修(おうようしゅう)・梅堯臣(ばいぎょうしん)らによって開拓され、王安石(おうあんせき)・蘇軾(そしょく)・黄庭堅(こうていけん)らによって完成された。とりわけ蘇軾の功績は大きく、宋詩の代表詩人といえよう。北宋末期以降、「江西(こうせい)派」とよばれる詩句の繊細な表現に心を配り微妙な情趣を重視する詩風が流行したが、南宋の陸游(りくゆう)は中国北部の奪還を熱情込めてうたい、范成大(はんせいだい)は田園生活の新鮮な感興を詠じて、江西派の詩風にとらわれない詩境を示した詩人たちも少なくない。[前野直彬・佐藤 保]
金・元・明・清の詩
ごく概括的にいえば、中国の古典詩は内容・形式の両面において唐・宋二つの時期にほとんど完成し、それ以後とくに新しい発展はなかった。詩人たちは、もとよりそれぞれの個性的な詩を追求したのではあるが、学ぶべき対象として唐・宋いずれかの選択を迫られることが多かった。
 金・元の詩は、なかには金の元好問(げんこうもん)のごとく唐詩を尊んだ人も多かったものの、総じて宋詩に影響された繊弱の風があり、明代では李夢陽(りぼうよう)・何景明(かけいめい)らの「前七子(ぜんしちし)」、李攀竜(りはんりゅう)・王世貞(おうせいてい)を代表とする「後(ご)七子」の人々が、唐詩、とりわけ盛唐の詩を高く評価して擬古的な作品をつくった。これらの人々を「古文辞(こぶんじ)派」とよぶ。彼らの主張は「文は秦漢(しんかん)、詩は盛唐」というものであったが、あまりにも排他的な古文辞派の主張はそれ自体が単なる模倣に堕落していったこともあって、明末には唐宋折衷の詩を主張する声が強くなってきた。「公安(こうあん)派」の袁宏道(えんこうどう)は白居易と蘇軾を尊びながらも、それらにとらわれない自由な立場をとった人である。
 清代に入って古文辞派の勢力が失われるとともに、唐詩一辺倒の風潮も当然改まり、詩人たちはそれぞれに唐詩または宋詩のなかから学ぶべき対象をみつけだした。かならずしも一つの時代、一人の詩人にとらわれないで、唐・宋を兼ねたり、あるいは元・明の詩のなかからも対象は選ばれた。しかしそのなかにも流行はあり、清代初期の王士禎(おうしてい)は盛唐の王維や孟浩然の詩の余韻を重視して「神韻(しんいん)」説を唱え、中期の沈徳潜(しんとくせん)は李白・杜甫の詩の風格と音調の典雅を尊ぶ「格調(かくちょう)」説を主張し、また規範の束縛を排して精神の自由を叫んだ袁枚(えんばい)の「性霊(せいれい)」説は明末の公安派の主張に沿うものであった。清朝末期には一般に宋詩が好まれた。[前野直彬・佐藤 保]
現代詩
古典詩の最初の変貌(へんぼう)は、清末の変わりつつある時代の新しい事物をうたうためにことばの革新から始まった。清末の黄遵憲(こうじゅんけん)らは文言(文語)のなかに新名詞や俗語を積極的に取り入れて時代に即応しようとしたが、詩のことばを全面的に口語にすべきだという主張は、1917年の胡適(こてき)の「文学改良芻議(すうぎ)」を最初とする。古典詩との決別を訴えたこの文章は、辛亥(しんがい)革命直後の改革に燃える青年たちに大きな勇気を与え、いわゆる文学革命の口火となった。しかし、初期の詩はほぼ西欧詩の模倣ともいうべきもので、中国独自の現代詩を創造するために郭沫若(かくまつじゃく)・聞一多(ぶんいった)などの人々が実作と評論で苦心を積み重ねた。その後、日中戦争、さらには国内の革命戦争を通じて多くの作品が生まれ、理論化が進められたが、その努力はいまなお継続中であり、中国社会の変動とともに現代詩の内容も広がってきて、さまざまな傾向の作品がつくられている。[前野直彬・佐藤 保]
『●世界 ▽西脇順三郎著『詩学』(1969・筑摩書房) ▽今道友信訳『詩学』(『アリストテレス全集 第17巻』所収・1972・岩波書店) ▽『世界批評大系』全7巻(1974~1975・筑摩書房) ▽『世界詩集』(『世界文学全集38』1976・講談社) ▽『現代詩論大系』全5巻(1980・思潮社) ▽窪田般彌・新倉俊一編『世界の詩論――アリストテレスからボヌフォアまで』(1994・青土社) ▽当津武彦著『アリストテレス「詩学」の研究』上下(1999、2000・大阪大学出版会)』
『●日本 ▽伊藤信吉他編『現代詩鑑賞講座12 明治・大正・昭和詩史』(1969・角川書店) ▽山宮允他編『日本現代詩大系』全11巻(1974~1975・河出書房新社) ▽小海永二編『鑑賞日本現代文学31 現代詩』(1982・角川書店) ▽吉本隆明著『戦後詩史論』増補版(1984・大和書房) ▽芸象現代詩集刊行会編『現代詩人選集 新芸象』(1992・詩歌文学刊行会) ▽詩歌文学刊行会編・刊『現代詩人選集』(1993) ▽馬渡憲三郎著『昭和詩史への試み』(1993・朝文社) ▽現代詩誌総覧編集委員会編『現代詩誌総覧』7巻(1996~1998・日外アソシエーツ) ▽神崎崇著『現代詩への旅立ち』(2001・詩画工房) ▽沢正宏著『詩の成り立つところ 日本の近代詩、現代詩への接近』(2001・翰林書房)』
『●中国 ▽吉川幸次郎・小川環樹編『中国詩人選集』全16巻、別巻、二集全15巻(1957~1963・岩波書店) ▽小川環樹著『唐詩概説』(『中国詩人選集 別巻』1958・岩波書店) ▽吉川幸次郎著『宋詩概説』『元明詩概説』(『中国詩人選集 二集1・2』1962、1963・岩波書店) ▽中野重治・今村与志雄編『中国現代文学選集19 詩・民謡集』(1962・平凡社) ▽青木正児他編『漢詩大系』全24巻(1964~1968・集英社) ▽前野直彬編著『中国文学史』(1975・東京大学出版会) ▽前野直彬著『中国古典詩聚花11 中国古典詩総説』(1985・小学館) ▽吉川幸次郎・高橋和巳著『中国詩史』上下(1985・筑摩書房) ▽松浦友久著『中国詩歌原論』(1986・大修館書店) ▽佐藤保著『中国古典詩学』(1997・放送大学教育振興会) ▽岩佐昌暉編『詩刊 1957―1964総目録・著訳者名索引』(1997・中国書店) ▽松浦友久著『漢詩――美の在りか』(岩波新書)』

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世界大百科事典内のの言及

【詩学】より

…〈詩〉あるいは〈詩〉の創作にかかわる研究・分析・論考をさす言葉。ただしここでいうところの〈詩〉とは,狭い意味でのいわゆるばかりではなく(このような比較的狭い範囲のものを扱う場合には,〈詩法〉〈詩論〉の用語もしばしば用いられる),文学一般,さらにロシア・フォルマリズムの登場以後の現代においては,まったく違う視座から,芸術全般,文化全般をも含むものとなっている。…

【中国】より

…日本人は中国へ観光客としてよりも巡礼として行く〉(エドガー・スノー)。ある程度の教育をうけた日本人で孔子や孟子の金言のいくつか,李白や杜甫の詩の一句や二句を記憶にとどめていないものは少ないであろう。われわれは単なる風景,習俗,物産の珍しさを喜ぶよりも,孔孟,諸葛孔明,李杜韓白(李白・杜甫・韓愈・白居易)の国であることに感動する面が,たしかにある。…

【文学】より

…たとえば〈日本文学〉〈中世文学〉というように。そのさい現代日本語では,その内容が詩,小説,劇などの純文学にかぎられる傾向がつよい。フランスではパスカルのような哲学者やミシュレのような歴史家の作品も文学史に載るが,日本では新井白石や中江兆民は載らぬことが多い。…

※「詩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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