デジタル大辞泉 「詩」の意味・読み・例文・類語
し【詩】
2 漢詩のこと。
[類語](1)うた・詩歌・韻文・
詩は韻文で書かれたものという通念があるが、ドイツ語で詩は「凝縮する」dichtenという意味をもっている。つまり、詩は凝縮した感情表現、より簡単にいえば、高められたことばにすぎない。
[新倉俊一]
コールリッジは詩と散文の区別を韻の有無によらないで、「散文はよいことばのよい組合せで、詩はいちばんよいことばのいちばんよい組合せである」と、ただ述べている。とりわけ散文詩という形式が成立した19世紀なかば以降では、詩の定義は韻律のような外面的なものでなく、もっと内面的な要素によらなければならない。したがってコールリッジも「詩作品は他の科学的作品と違って、真実でなく、美を直接の目的とする」と説明している。つまり、一般の科学の論文や報道の文章は単に事実の正確な伝達を目的とし、いったん伝達が終われば用済みとなるが、それに反して詩作品は、伝達の内容よりも表現自体が目的なのである。バレリーが散文を歩行に例え、詩を舞踏に例えたのも、同じ意味であろう。むろん詩においても内容は重要であり、詩も人生についての認識に深くかかわっている。知識が哲学・歴史・天文学のように分化していなかった時代には、詩は総合的な認識様式であった。科学の発展によって細分化された今日でも、シェリーのいうように「詩は知識の中心」であり、「それはすべての学問を内包し、すべての学問は詩に帰せねばならない」と考えてよい。なぜなら、科学は部分的な認識を与え、詩は全体的認識を与えるからである。
詩は音楽や絵画や彫刻と同じく、人間の全体性について認識を伝える感情表現の一様式であるが、ことばをその表現の固有の手段としている。言語の機能からみると、指示作用よりも暗示作用が本質であって、それは主として音と比喩(ひゆ)表現に依存している。ペーターは「すべての芸術の状態は音楽に近づく」といっているが、詩にとって音楽の役割は大きい。外面的な韻律を用いれば韻文詩となり、内在的な音調を用いれば散文詩あるいは自由詩となる。散文詩や自由詩運動がおこってからは詩の中心は音楽よりもイメージに移ったけれども、音楽性はなくなったわけではない。いま一つの比喩的表現は高められたことばの特徴であり、どのような詩も主旨を効果的に表現するためにはこれを欠くことはできない。だからアリストテレスは、詩人にとって「いちばんたいせつなことは比喩を完全に駆使する力をもつことであり、これだけは他人から学べるものではなく、天才のしるしである」といっている。そういうと、詩はただの修辞のように思われるかもしれないが、詩の比喩はけっして装飾的なものでなく、直観的認識のために不可欠なものである。なぜなら、現実は慣習の眠りのなかに埋もれているので、絶えず新しい比喩によって呼び覚まさなければならないからだ。ワーズワースはこれを「日常の事物に想像の光を注いで新鮮な意識を回復する」といっている。
具体的にいえば、比喩とは「二つの相似ていない事物の間に類似をみつけること」であり、その一般的な方法には直喩(シミリー)と隠喩(メタフォー)がある。直喩とは、「私の恋人は真っ赤なバラのようだ」(バーンズ)というように比喩の関係が明示されているものをさし、隠喩とは、バラを「純粋な矛盾よ」(リルケ)とよぶように暗示しているものをさす。これはいちおうの区別であって、形式のうえでは「のように」ということばが使われていても、「手術台の上に麻酔をかけられた患者のように/夕暮れが空一面に拡(ひろ)がるとき」(T・S・エリオット)のような比喩は、直喩というよりも隠喩に近い。このような不明瞭(めいりょう)な直喩は、引き伸ばされた隠喩にすぎない。古典主義の時代には明瞭な比喩(つまり直喩)が好まれるが、ロマン主義の時代には不明瞭な比喩が好まれる。
シェークスピアは大胆にアクロバットのような比喩を駆使した詩人で、ことばのしゃれは彼の「病」とまでいわれる。これに対して古典主義のサミュエル・ジョンソンは「自然」を重んじ、「不調和」を排した。一概に詩は美を目的とするといっても、美にはさまざまな形態がある。自然なものをなるべくそのまま模倣するワーズワースのようなロマン派詩人は、調和のとれた美を目的とする「自然」派詩人であり、これに反して、不自然なものを創造することを好むコールリッジや、象徴派詩人や、それに現代のシュルレアリストたちは「超自然」派詩人である。後者は調和のとれないグロテスクな美を目的とする。一般に近代詩の美はグロテスクの美であって、ワーズワースのように「ただ美しい自然を美しく模写するだけでは詩にならない」とポーは代弁している。ボードレールもまた「文学の二大要素はイロニーと超自然である」と説いた。つまり、かけ離れた事物を比喩のうえで連結しようとすることはイロニーとなり、超自然を生み出すのである。歴史的にみればロマン主義はつねに超自然や怪奇を求めて「不調和」の美に傾き、古典主義は「自然」を重んじ、「調和」の美に復帰する傾向がある。
[新倉俊一]
詩の種類は、大別して叙情詩lyric、叙事詩epic、劇詩dramatic poetryに分けられる。このうち叙情詩は、個人を主体として感情を表白したもので、きわめて主観的で短い。「詩は力強い感情の自然にあふれ出たものである」というワーズワースの定義がそれに当てはまる。次に叙事詩は、民族を主体としてその共同の感情を表すために物語の形態をとったもので、より客観的で長い。両者の中間にバラードや物語詩がある。最後の劇詩は、複数の話者をもつ表現形式で、主として韻文で書かれた劇を意味するが、シェークスピアやゲーテ以降はほとんど衰退して、今日ではクローデルやT・S・エリオットなどわずかな例外を除いて、散文の劇に席を譲っている。今日、一般に書かれている詩のほとんどは叙情詩に属し、それらは内容によって、恋愛叙情詩love lyric、哀歌(エレジー)elegy、頌歌(しょうか)(オード)ode、風刺詩satire、牧歌(パストラル)idyll, pastoralなどに分けられている。ジャンルの意味も時代によって変遷があるが、今日の通念では、哀歌は追悼の詩であり、頌歌は荘重な主題についての瞑想(めいそう)詩であり、牧歌は田園生活を賛美した詩である。風刺詩には、人物を風刺攻撃した社会的なものから、作品を純粋にちゃかしたバーレスク詩やパロディー詩などが含まれる。いわゆる滑稽(こっけい)詩やナンセンス詩、ライト・バースは後者の延長と考えることができよう。ほかに書簡体の詩や、警句、銘詩などが、広い意味で叙情詩の周辺にある。
[新倉俊一]
詩の形態は、今日では定型詩a fixed form of verse、無韻詩blank verse、自由詩free verse、それに散文詩poème en prose(フランス語)に分かれる。ポーが詩を「美の韻律的創造」と定義したとき、一定の脚韻構成を備えたいくつかの連からなる定型詩を念頭に置いていた。規則的な韻律は詩の格調を高めたり、意味を効果的にしたりするのに役だつ。しかし定型詩は長い詩や劇では単調さを免れないので、基本的に一定の律格(弱強五歩格)に基づきながら、脚韻を不規則に使う無韻詩の形式が英詩では生まれた。シェークスピアの自在な劇や、ミルトンの『失楽園』は、この無韻詩を駆使して書かれている。
さらに散文の発達に伴い、まったく従来の韻律の要素をもたない散文形式で詩的効果を求める散文詩がおこった。自由詩もまた韻律からは自由であるが、話しことばのリズムをもとに、長短不規則な詩行を用いている。20世紀初頭に「韻文は死んだ技法か」という質問が提起されたが、今日でも韻文はまったく衰えてしまったわけではなく、自由詩や散文詩と並んで用いられている。たとえばフロストは「自由詩はネットを使わないでテニスをするようなものだ。韻律の価値はテニスにおけるネットと同じで、それを使ったほうがはるかに楽しい」と、韻文を擁護している。
[新倉俊一]
詩を発生的に考えると、それは呪術(じゅじゅつ)のたぐいであった。ギリシア語では詩を、「行う」あるいは「つくる」という意味の「ポイエーシス」poiēsisで表している。つまり原始社会においては、詩人はまじないを唱えて病気を治したり、穀物を繁茂させたりする人であったことを暗示している。そのような例は、フレーザーの『金枝篇(へん)』に集められた小アジアやエジプトの風習にもみられるし、またもっと身近な伝承童謡の「テントウ虫、テントウ虫、家へ飛んでいけ、おまえの家は燃えてるぞ」(「マザーグースの歌」)というまじないの歌にも痕跡(こんせき)がみられよう。古代社会ではこうして詩は、広い意味の祭礼に結び付いて発達してきた。エジプトでオシリス神を崇(あが)める歌がつくられたように、古代ギリシアでもアポロン神やディオニソス神をたたえる歌がつくられた。これらの唱歌から派生した叙情詩には合唱と独唱の2種類がある。前者は共通の興味や崇拝の的を対象とした共同幻想を歌うもので、後者は独唱者自身の感情表現に重点を置いた。合唱用の叙情詩は主としてドリア派ギリシア人の間で栄え、タレータスThalētas(前7世紀)はアポロンに捧(ささ)げる「讃歌(さんか)」をつくった。ピンダロスもアポロンやゼウスに捧げる「頌歌」から、ディオニソスに捧げる「ディスランボス」、それに「合唱舞踊歌」や、オリンピアの競技を讃(たた)えた「競技捷利(しょうり)歌」までつくり、今日の頌歌の基礎をなしている。他方、独唱用叙情詩はおもにアイオリス派ギリシア人によってつくられ、女流詩人サッフォーは情熱的な愛の歌を歌った。これらの叙情詩はいずれもリラlyreなどの楽器の伴奏にあわせて歌われたもので、叙情詩と音楽との本質的な結び付きを示している。中世の吟遊詩人(トルーバドゥール)や、シェークスピアの劇に用いられる歌も、みな同じように楽器の伴奏で歌われたが、印刷術の発展とともに、叙情詩は変質を迫られ、今日では純粋な形での歌はフォークソングやミュージカルのリリックにしか見当たらない。
しかし近代の叙情詩も音楽性を捨てたのではなく、ポーが詩を「美の韻律的創造」とよんでいるように、韻文形式に深く依存して、ソネットやバラード調、対句(ついく)などの定型詩を生み出した。詩は元来、話しことばと違って、口から出たときから規則的なリズムの繰り返しに快感を求めてきた。定型への志向は揺りかごのなかからすでにあるといっていい。一口に定型といっても時代の文化とともにさまざまな変遷がある。ギリシアやローマの詩は長短の音量を歩脚にする音量律によってつくられてきたが、強勢のある英語やドイツ語では強勢律によって頭韻詩が発達してきた。
チョーサーの時代に、フランスの音節数律と脚韻の形式を導入して、英詩は強勢律と音節数律をいっしょにした韻文構成に移行した。これによって、今日みられるようなさまざまな定型が誕生したわけである。その結果、ペトラルカ風ソネットとか、シェークスピア風ソネットとか、スペンサー連(九行連)とか、チョーサー連(七行連)とか、そのほか複雑な頌歌などが、叙情詩の音楽の多様性に貢献した。
しかし、19世紀後半にフランスの古典主義詩の12音節数律の規則性に反抗して、ボードレールが「リズムや韻がなくとも、心の叙情の動きや、夢想の波動に、意識の飛躍に即応するような、柔らかくしてしかも剛直な」散文詩を試みた。韻文でなければ詩ではないと信じてきた人たちも、詩の音楽性というものを韻律から切り離して考え直す時期がきた。強勢によるリズムがある英語ではフランス詩ほど散文詩の試みは多くないが、伝統的なメトロノームのような韻律から詩の音楽性を解放しようというイマジズムの自由詩運動が第一次世界大戦前後におこっている。この人たちは、19世紀後半のフランスの自由詩人たちのように厳密な韻律から自由になろうと求めるだけではなくて、日本の俳句に倣ってイメージ本位で、伝統的韻律から完全に自由になろうとしている。
はたしてイメージだけで叙情詩が成立するか、という疑問が投げかけられるかもしれない。現代詩人はイメージの造型性にだけ偏して、詩の音楽性を無視した。これが現代詩の貧困だ、という非難をしばしば耳にする。しかし、イマジストたちも「メトロノームによらないで、音楽の楽句(フレーズ)に従って詩を書く」といっており、イメージの思想性を妨げないような、たとえばワーグナーのような渺茫(びょうぼう)とした新しい音楽を求めているといえよう。古い単純な叙情詩はバラードのような単純な音楽を必要とした。だが今日の複雑な多様化した社会では、叙情詩も単純ではいられなくなり、新しい酒は新しい革袋を必要とするように、新しい叙情詩は新しい音楽を必要としている。
もともと詩の音楽はことばの意味性を離れては存在しない。本当の音楽に比べれば、詩の音楽などきわめて貧弱なものであろう。だからキーツも「きこえる音楽は美しい/だがきこえない音楽はもっと美しい/……だから肉の耳にではなく魂に/調律のない歌をきかせてくれ」と暗示的に歌っている。つまり、私たちは、ことばのあらわな音楽性よりも、イマジストたちのようにことばに内在する音楽性を尊重する必要がある。「シラブルやリズムに対する感覚は、単に思想とか感情という意識的な面からはるかに深いところまで浸透し、遠い過去に忘れられたもっとも原始的なものの底に沈み、その根源に帰って、なにものかを持ち帰る」機能をもつもので、「それは意味を通じて行われる」という現代詩人T・S・エリオットの説に、私たちはもういちど謙虚に耳を傾けるべきであろう。
ポーは『詩の原理』で叙事詩を否定して、「長い詩はことばの矛盾である」「叙情詩のほかに詩はない」と断定しているが、これは純粋詩の立場からそういったまでで、歴史的には叙事詩は大きな役割を担ってきた。ポーはミルトンの叙事詩の亜流たちの時代に生きたので、形骸(けいがい)化した叙事詩の効用を否定したが、民族の台頭の時代には、叙情詩よりも叙事詩のなかに共同のあこがれ、共同の怒りと悲しみ、共同の運命を、人々はみいだしたのである。それは叙情詩の世界とは本質的に異なるものであり、語る者は共同の座において種族の語部(かたりべ)として語るのである。たとえ物語的な詩であっても、アーサー王伝説を扱ったテニソンの叙情的な物語詩『国王牧歌』と叙事詩的な『ベオウルフ』とは、まったく異質である。英雄時代が遠い過去となってしまった中世以降は、叙事詩の題材は超自然的な英雄から万人の精神的規範あるいは鏡のような人物に移ってしまった。たとえばダンテの『神曲』の主人公ダンテは、時代精神の反響板のような存在である。そのような人物の語りは、韻文によらなくても散文で十分にできるので、今日ではほとんどその役割を小説に転嫁してしまった。叙事詩がもっていた全体性や神話的手法は、今日では小説のものとなっている。
同じようなことは劇詩の衰退についてもいえる。アリストテレスは悲劇について「人間行為の全体性」にかかわっていると説いた。ギリシア悲劇は都市国家が成熟したときに栄え、人間存在についての鋭い問いを発した。そして都市国家の衰退とともに消滅している。悲劇はその後ルネサンスの人間復興期にもシェークスピア、ラシーヌなどの天才詩人の出現をみたが、ふたたび時代とともに消えてしまった。とりわけ18世紀の散文の隆盛によって、詩は劇から後退を余儀なくされ、ゲーテやシラーののちは、イプセンやチェーホフの散文劇が近代劇の主流となった。このようにみてくると、現代に残っているものは叙情詩だけのように思える。
叙情詩も、19世紀の産業革命の進展によって急激に科学に押されたとき、象徴派詩人のように極端な個人幻想へと後退し、詩を純粋な魔術に還元しようという運動が生じた。マラルメからイェーツまで、その立場は持続している。現代詩人のスティーブンズが詩的想像力を「外部の暴力に対する内部の(精神の)抵抗」とよんでいるように、詩は今後も外部の圧迫がますます強まっていくにつれて、つねに貴重な個人幻想として価値を持ち続けるだろう。共同体に基盤を置いた叙事詩や劇詩が不可能になったとしても、人間が棲息(せいそく)し続ける限りは、詩は失われない。とりわけ叙情詩は近代の個人に根ざした個人幻想として、その簡潔な表現と音楽性とによって、重要な役割を果たしていくのではなかろうか。
20世紀に入ると、19世紀的な「個人」や「主体」の観念が否定され、多様化と崩壊の兆しを示してくる。それとともに、詩の形態も複雑となり多様化して、従来のような明確なジャンル分けが困難となってきている。たとえば、モダニストのT・S・エリオットの『荒地(あれち)』や、エズラ・パウンドの『キャントーズ』では、話者が多様化して、さまざまなジャンルの混交が同一の作品でみられるようになった。とくに1970年代以降には主体の解体が加速化し、ガートルード・スタインのダダ的な文章構造の破壊の流れを受け継ぐジョン・ケージの言語実験や、ジャック・デリダ流のエクリチュールを主体とした「ランゲッジ・ポエトリ」の一派も現れた。これらが一時的なデカダンスの現象であるか、それとも詩概念の変革につながるかは、将来の判定を待たなければならないだろう。
[新倉俊一]
「近代(現代)詩」というときの狭義の「日本の詩」の始まりは、1882年(明治15)刊行の『新体詩抄』(外山正一(とやままさかず)・矢田部良吉(やたべりょうきち)・井上哲次郎共著)とされている。それまで一般に「詩」とよばれていた漢詩や、伝統的な短歌、俳句とは違う西洋の「ポエトリー」(「西詩」)の影響による新詩の誕生であった。この「新体の詩」は万事新しさを好尚する当時の風潮に迎えられて根づくことになるが、できばえは素人(しろうと)の域を出ず、むろん文語の定型詩ながら、翻訳臭、武骨な軍歌調、俗謡風のものが多かった。
しかし、やがて同じ翻訳ものでも『於母影(おもかげ)』(森鴎外(おうがい)ら新声社同人たちの訳詩集)の出現や、翻訳の賛美歌などの影響もあって、新体詩の文学的価値が広く認知されるようになるのは、島崎藤村(とうそん)の『若菜集』(1897)あたりからである。2年遅れの土井晩翠(つちいばんすい)『天地有情(うじょう)』などとともに、新体詩は、時代の浪漫(ろうまん)主義(同時期の『文学界』や『明星』などの運動とともに)の風潮をもっとも代表するジャンルのようにみなされてくる。20世紀に入ると、これまた上田敏(びん)の名訳詩集『海潮音』(1905)の大きな影響や、西洋の象徴主義の直接の刺激もあって、『有明(ありあけ)集』の蒲原有明(かんばらありあけ)、『白羊宮(はくようきゅう)』の薄田泣菫(すすきだきゅうきん)らの詩は、詠嘆的な浪漫主義に新たに奥行のある象徴味が加わり、新体詩は大きな到達点をみせ、この象徴主義の詩風は北原白秋(はくしゅう)や三木露風(ろふう)らによって深められ、もはや新体詩とはよべない「近代詩」の風格を備えてくる。時代もまた明治の終わりになって、かつての『明星』出身の詩人たち(木下杢太郎(もくたろう)、北原白秋、高村光太郎ら)や若い芸術家たちの「パンの会」の芸術運動がよく示すように、個性的な感覚美を謳歌(おうか)する風潮が高まっていた。
[原 子朗]
一方では小説の自然主義運動の影響や詩人たち自身による詠嘆的な新体詩の限界の自覚もあって、より現実に即した感情の重視ということから言文一致詩(口語詩)が唱導され(口語自由詩運動)、これが一般の趨勢(すうせい)となって、大正期に入ると、従来の口語定形の詩は急速に退行していく。デモクラシーの思想や大正リベラリズムの風潮も、側面からこれを助長した。民衆詩派(白鳥省吾(しろとりせいご)、百田宗治(ももたそうじ)、富田砕花(さいか)、福田正夫ら)の詩も当然平明な口語で日常茶飯事を詩にして、かえって芸術派の詩人たちの反感を買うほどであった。また人道主義、理想主義の詩人と目される千家元麿(せんげもとまろ)、尾崎喜八、福士幸次郎、室生犀星(むろうさいせい)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)らの活動も目だち、影響力をもった。しかし「日常用うるところの語」すなわち口語詩への念願は、実は『新体詩抄』の当初から掲げられていたもので、詩人内面の要求と時代の風潮とに促されて、ようやくそれが実現したとみることもできよう。
この口語表現のメリットを最大限に発揮し、近代詩に大きな転機をもたらした代表的な詩人は、題名からして口語を用いた『月に吠(ほ)える』(1917)の萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)であろう。文語詩のとらええなかった複雑な屈折する自我の内面性が、一見非音楽的な口語表現によって可能となったが、朔太郎は外形に頼らぬ口語独自の音楽性を重視し、微妙なイメージによる口語詩の可能性を追求した(これは、今日、現代詩の問題点でもある)。大正期の詩は小説と同様、ある意味で豊かな時期で、多くの個性的な詩人たちの活躍があった。大手拓次(おおてたくじ)、西条八十(さいじょうやそ)、日夏耿之介(ひなつこうのすけ)、竹内勝太郎ほか、それにまったく詩壇外で独往の芸術的、かつ全人間的な詩を書いた宮沢賢治の現代に及ぶ大きな影響力を考えればよい。影響力といえば、堀口大学の訳詩集『月下の一群』(1925)があった。次の昭和期の詩や小説にまで、これほど直接的な影響と強い刺激を与えた訳詩集はあるまい。一方では、詩の革命的な意識に基づく未来派運動(平戸廉吉(ひらとれんきち))や、『赤と黒』(萩原恭次郎(きょうじろう)、岡本潤(じゅん)、小野十三郎(とおざぶろう)ら)、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』なども、かつてない詩の傾向として影響力をもった。
[原 子朗]
昭和期に入ると、「新詩精神(レスプリ・ヌーボー)」を掲げる『詩と詩論』(春山行夫(ゆきお)を中心に安西冬衛(ふゆえ)、北川冬彦、近藤東(あずま)、西脇(にしわき)順三郎、吉田一穂(いっすい)、村野四郎ら多数)の斬新(ざんしん)な活動をはじめ、プロレタリア詩(中野重治(しげはる)や小熊(おぐま)秀雄ほか)もかつてないにぎわいをみせた。明治末期の児玉花外(かがい)以来の社会主義詩の傾向が、戦争突入前の暗い時代を背景にあだ花のように咲き誇った感があった。やがて太平洋戦争に突入すると、かつてのプロレタリア詩人たちも、『詩と詩論』から分岐した叙情派(三好達治(みよしたつじ)、丸山薫(かおる)らのいわゆる『四季』派)も、現実派(北川らの『詩・現実』の詩人たち)も、モダニズム派(春山、西脇、北園克衛(かつえ)ら『詩法』『新領土』『VOU(バウ)』の詩人たち)も、また『歴程』による個性豊かな詩人たち(草野心平、逸見猶吉(へんみゆうきち)、中原中也(ちゅうや)ら)も、多かれ少なかれ戦争協力の詩を書き、あるいは沈黙、あるいはあいまいな立場をとるなど、すべて詩の遺産の無力をあらわにした。反戦詩人の唯一の代表のように目される金子光晴(みつはる)さえ、完璧(かんぺき)にその立場を貫き通したとはいえなかった。
[原 子朗]
敗戦を境に、戦前からの詩人たちも解放されたように、一斉に詩を書いた。だが、戦中の詩の無力さへの反省や、戦争肯定や協力の責任も含めて(徹底した追及はなされないまま終わったが)新しい詩の気運もおこった。かつての詩の美学をかなぐり捨てて、詩を生と現実(戦後は解放と同時に苦難の時代でもあった)の接点において、ことばの主体的な可能性を探求しようとする詩人たちの台頭であった。よく『荒地』(鮎川信夫(あゆかわのぶお)、三好豊一郎(みよしとよいちろう)、田村隆一(りゅういち)、黒田三郎ら)、『列島』(関根弘、安東次男(つぐお)、木島始ら)のグループが戦後詩の代表のように引用されるが、この2グループに限らない。戦争というものを通して「経験」の詩に及ぼす意味の重さを、比較的若い詩人たちは、皆かみしめながら重苦しい詩を書いた。戦前までの詩の方法上の主義や主張のレベルを超えて、経験と社会的関心と実存の意識の重さにおいて、戦後の新しい詩人たちは大きく共通するものをもっていた。
それが1960年(昭和35)前後から、直接の戦争(場)体験をもたない詩的世代が登場すると様相も少なからず変わってくる。なにやら遍満していた重苦しさは薄れてき、総じて、より明るい、それだけに幅広い柔軟な感受性を発揮している点で大きく共通するものをもちながら、しかし、ここではもうかつての主義主張を掲げない、伸びやかな気質的集団ともいえる、たとえば『櫂(かい)』(谷川俊太郎、大岡信(まこと)ら)をはじめとするグループの活動が目だってくる。それだけに一筋縄ではくくれない詩の多様化の時代を迎えたともいうことができる。1970年代に入ると、さらにその多様化の傾向は強まり、個性的な詩の時代といえば、聞こえはよいが、未曽有(みぞう)の世界的な情報化時代のなかで、外に対決する共通の「敵」や主題を見失い、詩人たちは、めいめい個人的で内閉的な詩を書くようになる。
それは詩人たちの責任というより、一口に「文学は滅んだ」といわれるような、文化のグローバルな構造的変化の一現象といえよう。もともと活字商品市場の圏外にあって流行からもっとも自由なはずの詩の世界にも、視聴覚をはじめとするメディアの多様な発達による(本来なら詩の読者であり支持者であった若者たちの)活字(言語)離れの波が押し寄せた感のある20世紀末の20~30年であった。詩の状況に限っていうと、かつての詩の読者は、作者とともに高齢化し、時代を画する詩や若手の詩人が現れないのも、そうした詩を待望する読者もまた顕在しなくなってしまったという構造的「不況」感も否めない。もしかしたら専門詩人たちの詩にひたすら共鳴していた感受の方式が、いまは自ら詩ないし詩的表現をすることで、かつての詩的欲求を充足させる実践の時代になったのだ、といえるかもしれない。そうしたアマチュアリズムの盛行は、かつてのような専門詩人の影を相対化させ、時代を画する、または代表する詩の集団や詩人、詩集の名をあげることさえ1980年以降はひどく困難になった。出版手段の容易化と経済成長を契機に、刊行される詩誌や詩集はおびただしく、同人詩誌は全国で1500近くあるともいわれているが、1誌最低10人と仮定しても、1万5000人の書き手による詩集の数は推定さえできぬほどである(かつて考えられなかった大きな特徴は、女性の書き手が男性の書き手を圧倒するほどに増え、書かれている内容も性差を感じさせないことである)。しかし、それらのおびただしい数の詩集(ほとんどが高価な自費出版)の購読者は限りなくゼロに近いとさえいわれている。そうした情況の反動のように、茨木のり子の『倚(よ)りかからず』(1999)は例外中の例外のように大ベストセラー詩集となり、それなりの話題をよんだ。歴史的にはかつての遺産だけで食いつないでいるかのような、想像もつかなかった「詩」の現況である。
[原 子朗]
中国の詩は、古典詩(旧詩)と現代詩(新詩)とに大別される。前者は日本で漢詩とよんでいるもので、基本的には定型詩である。後者は1917年の文学革命運動以後、新文学のジャンルの一つとして生まれたもので、西欧の詩の影響を受け、伝統的な古典詩への批判から出発した自由詩である。古典詩は総体的には古語(文言)で書かれ、現代詩は口語(白話)で書かれる。
[前野直彬・佐藤 保]
中国詩の源頭とされる『詩経(しきょう)』は、もともと上古の宮廷の楽歌や各地の民謡であったが、経書(けいしょ)の一つとなり、儒家(じゅか)的な文学理論がそれを基礎に構築された。すなわち、詩は本来、純粋な心の声であるから、太平の世には楽しい歌がつくられ、乱世には悲しい歌が生まれるというように、その時々の社会情勢を正確に反映するので、権力者や政治家はこれによって民情を判断することができるし、詩人もまた政治や社会への批評の意味を込めて作品を書かなければならない。さらにまた、詩は作者の人格の正確な反映であるから、優れた詩は当然倫理的にも高いものであり、それを読むことで読者の人格も高められるし、作者自身も人格を高める努力を怠ってはならない、とされた。この考え方は儒教の権威とともに民国初年の文学革命に至るまで詩人たちに受け継がれ、詩壇の風潮が技巧主義・修辞主義に傾きすぎると、いつもこの主張が頭をもたげて補正の役割を果たした。
古典詩には対句(ついく)などの修辞的技法が要求されるほか、古典あるいは先人の作品に関する知識など、相当の教養を必要とするので、詩人は一部の知識階級に限られた。古典詩を鑑賞するのにも当然同じ教養が必要である。この点からみれば、古典詩は少数のエリートの間で育てられてきたということができる。
現代詩が指向した重要な点の一つは、詩を少数のエリートの手から全国民に解放することであり、もう一つは、中国民族の自覚を促し、中国の近代化を推進するための一手段としての詩という点にあった。
[前野直彬・佐藤 保]
古典詩の詩形は、古詩(こし)(古体詩)と近体詩(きんたいし)(今体詩)の区別があり、時代的にいえば、唐を境にしてそれ以前に成立した詩形を古詩、唐代に完成された絶句(ぜっく)・律詩(りっし)・排律(はいりつ)をまとめて近体詩とよび、近体詩のほうが厳格な規則をもっている。
古詩と近体詩のもっとも根本的な違いは韻律の規則にあって、脚韻の踏み方、平仄(ひょうそく)の配列法、さらには用字・対句など修辞的技巧の点に両者の大きな相違がみられる。
[前野直彬・佐藤 保]
詩はもともと民間の歌謡から成長した。現存する中国最古の詩集『詩経』は、紀元前1000年から前600年ごろへかけての古代周王朝の宮廷の歌謡と黄河流域地方の民謡を主体とし、特定の作者をもたない集団の歌であった。王室の先祖の祭りや宴会などでうたわれた宮廷の歌謡も、もとは民歌に根ざしているか、あるいは民間と共通の宗教的基盤から発生した楽歌であったのである。
いま『詩経』に収められている古代歌謡の中心は、その半数以上を占める地方の民謡(国風(こくふう))であり、現実的で素朴なうたいぶりは後世の詩人たちに大きな影響を与えた。だが、『詩経』の形式は後世にあまり影響を与えなかった。それは、うたうときの旋律のためであろうが、基本的なリズムが一句四言の短いもので、表現しうる内容にもおのずから限界があったからである。
戦国末期の南の長江(揚子江(ようすこう))流域には、『詩経』の歌よりももっと自由で複雑な形式をもつ歌謡が発達していた。やはり元来は集団の祭祀(さいし)の楽歌であったに違いないが、この形式を使って個性的に自己の感情をうたいあげた代表的な詩人が、楚(そ)の屈原(くつげん)である。彼とその追随者の歌は、楚の歌謡に基づくところから「楚辞」と総称される。
楚辞は漢代に入ると「賦(ふ)」という独特な有韻の文へと発展し、時代が下るにつれてしだいに詩の主流からは離れるが、楚辞体の作品の創作はその後もけっしてとだえることはなかった。
[前野直彬・佐藤 保]
漢の民間には楚辞体と異なる歌謡が流行していた。史書の伝えるところによれば、前漢の武帝(ぶてい)(在位前141~前87)のときに宮中に音楽署の楽府(がくふ)を設けて、これら各地の民謡を採集整理させ、また演奏させたという。楽器の伴奏をつけてうたわれたこれらの歌は、同じ曲に多くの歌詞がつくられると同時に、一つの曲に多数の変曲が生まれ、さらにまた当時開かれたばかりのシルク・ロードを通じて西域(せいいき)の音楽も輸入されて、前漢の中期から後期にかけて最盛期を迎えた。それを「楽府(がふ)」もしくは「楽府詩」とよぶのは、武帝のときの音楽署の名に由来する。
楽府の詩形はそれぞれの曲によってさまざまに異なり、ときには長短句を交えた雑言詩の形をとるが、そのなかから一句五言の形式をもつものが育ち、後漢(ごかん)のころには一般に定着し、やがて楚辞体にかわる新しい詩形として詩人たちに好まれるようになった。
[前野直彬・佐藤 保]
後漢末、すでに政治の実権は漢の王室劉(りゅう)氏の手から曹(そう)氏一族に移っていた。曹操(そうそう)・曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)父子、さらには王粲(おうさん)を代表とする「建安七子(けんあんしちし)」とよばれる詩人たちが、五言詩の詩形を用いて優れた叙情詩をつくり、五言詩は民謡から離れて専門詩人が用いる詩形となった。
魏(ぎ)・晋(しん)の不安な社会情勢のなかで、五言詩の表現技術は著しく進歩し、詩人たちは胸中の不安と苦悩をそれに託して表現した。「竹林(ちくりん)の七賢」の代表と目される阮籍(げんせき)と嵆康(けいこう)の作品には、明確な自我の主張と思索的な深みがあり、新鮮な叙情性をもつ。だが、貴族制社会の確立に伴って、詩の表現は華麗を求める方向に進み、修辞にくふうが凝らされるようになった。晋の陸機(りくき)や潘岳(はんがく)らはその先駆けである。
南北朝の時期、江南に逃れた漢民族はめまぐるしい王朝交代を繰り返し、政治・社会の不安定はますます深刻になったが、王侯貴族は江南の豊かな産物と美しい山水のたたずまいにひとときの安らぎを享楽した。サロン的な雰囲気のなかで修辞的、かつ遊戯的な詩がもてはやされる風潮にあって、江南の自然をみずみずしい感覚でうたった山水詩の謝霊運(しゃれいうん)、隠逸(いんいつ)の立場から田園生活を詠じた陶淵明(とうえんめい)(陶潜)、さらに楽府体の詩に力量を示した鮑照(ほうしょう)などの人々はむしろ特異な存在であった。
南朝の中期、華麗な表現を求める傾向はますます強まり、繊細な句づくりに努力が重ねられた。表現技術のくふうは言語学の発達と合体して、「四声八病(しせいはっぺい)の説」を生み出した。梁(りょう)の沈約(しんやく)が首唱者とされるその説は、中国語に四声・平仄の区別があるという自覚のもとに、それを効果的に配列することによって詩の音楽的な美を整えようというもので、この規定が整理されていって、やがて唐代に入って近体詩を生み出すことになった。
また南朝の特色として、おびただしい数の民間歌謡の発掘と、それらに対する詩人たちの擬作がある。そのなかの七言形式がこれまた唐代に至って大きく発展し、七言の定型詩の成立をもたらした。
一方、異民族が統治した北朝にあっては、素朴な力強い楽府作品もみいだせるが、全体としてみれば南朝風模倣の色彩が濃い。
[前野直彬・佐藤 保]
短命の隋(ずい)代を経て、中国の古典詩は唐代に入って花開いた。唐一代を初・盛・中・晩の四つの時期に分ける「四唐説」は、後の明(みん)代になって定着したものであるが、王勃(おうぼつ)・楊炯(ようけい)・盧照鄰(ろしょうりん)・駱賓王(らくひんのう)の「初唐四傑」や陳子昂(ちんすごう)の活躍した初唐期、李白(りはく)や杜甫(とほ)をはじめとして王維(おうい)・孟浩然(もうこうねん)など才能豊かな人々によって彩られる盛唐期、韓愈(かんゆ)と白居易(はくきょい)を代表とする中唐期、そして爛熟(らんじゅく)から滅亡へと向かった杜牧(とぼく)・温庭筠(おんていいん)・李商隠(りしょういん)の時期の晩唐と、それぞれの時期を特徴づける数多くの詩人たちが活躍した。「詩の時代」とよばれるにふさわしい状況は、政治の安定と文化の進展に伴う人々の生活の広がりと深化、外来文化との接触などによってもたらされたが、科挙(かきょ)の試験に詩賦が課せられるようになったことも、詩の隆盛の要因の一つとなった。もっとも、安史の乱を境として唐の社会は大きく転換するが、詩の状況も同じく、白居易・元稹(げんしん)らの「新楽府運動」は行き詰まった詩の改革運動であり、韓愈・柳宗元(りゅうそうげん)らの「古文運動」とともに、古典主義の立場から文学の新たな出口を模索するものであった。彼らが切り開いた詩文の新しい世界は、晩唐・五代を経て宋(そう)代で初めて実を結んだ。
[前野直彬・佐藤 保]
宋の時代は、漢民族が南北両中国を統一していた北宋の時期と、北中国を女真(じょしん)族の金(きん)に占領されていた南宋の時期とに分かれる。強力な中央集権国家として出発した宋は、文人官僚を重用していわゆる「文治」に心を砕いたので、詩文の才能のある人々がそれなりに社会的地位を獲得できた時代であった。この点、総じて仕官も意のままにならず、社会的には不遇のまま生涯を終えることの多かった唐の詩人たちとは、様相を異にする。一般に宋の詩人たちにみられる落ち着きと自負は、社会・文化と彼らとの深いかかわりから生まれたものである。
詩の内容にも当然それは反映し、宋の詩人たちは独自の詩の世界をつくりあげて、唐詩と並ぶもう一つのピークを形成した。それはひと口にいえば唐詩と際だった対照を示し、唐詩の激情に対して宋詩の冷静さと余情、唐詩の雄大なスケールに対して宋詩が発見した日常生活のなかの細やかな美、唐詩が感情のままに絶叫するのに対して宋詩は緻密(ちみつ)な論理によって詩人の思想が展開される、などの特徴をもつ。したがって宋以後は、唐詩を学ぶか、それとも宋詩を学ぶかによって詩人たちの傾向が分かれ、論戦が行われたこともあった。
このような宋詩的世界は、北宋期、欧陽修(おうようしゅう)・梅堯臣(ばいぎょうしん)らによって開拓され、王安石(おうあんせき)・蘇軾(そしょく)・黄庭堅(こうていけん)らによって完成された。とりわけ蘇軾の功績は大きく、宋詩の代表詩人といえよう。北宋末期以降、「江西(こうせい)派」とよばれる詩句の繊細な表現に心を配り微妙な情趣を重視する詩風が流行したが、南宋の陸游(りくゆう)は中国北部の奪還を熱情込めてうたい、范成大(はんせいだい)は田園生活の新鮮な感興を詠じて、江西派の詩風にとらわれない詩境を示した詩人たちも少なくない。
[前野直彬・佐藤 保]
ごく概括的にいえば、中国の古典詩は内容・形式の両面において唐・宋二つの時期にほとんど完成し、それ以後とくに新しい発展はなかった。詩人たちは、もとよりそれぞれの個性的な詩を追求したのではあるが、学ぶべき対象として唐・宋いずれかの選択を迫られることが多かった。
金・元の詩は、なかには金の元好問(げんこうもん)のごとく唐詩を尊んだ人も多かったものの、総じて宋詩に影響された繊弱の風があり、明代では李夢陽(りぼうよう)・何景明(かけいめい)らの「前七子(ぜんしちし)」、李攀竜(りはんりゅう)・王世貞(おうせいてい)を代表とする「後(ご)七子」の人々が、唐詩、とりわけ盛唐の詩を高く評価して擬古的な作品をつくった。これらの人々を「古文辞(こぶんじ)派」とよぶ。彼らの主張は「文は秦漢(しんかん)、詩は盛唐」というものであったが、あまりにも排他的な古文辞派の主張はそれ自体が単なる模倣に堕落していったこともあって、明末には唐宋折衷の詩を主張する声が強くなってきた。「公安(こうあん)派」の袁宏道(えんこうどう)は白居易と蘇軾を尊びながらも、それらにとらわれない自由な立場をとった人である。
清代に入って古文辞派の勢力が失われるとともに、唐詩一辺倒の風潮も当然改まり、詩人たちはそれぞれに唐詩または宋詩のなかから学ぶべき対象をみつけだした。かならずしも一つの時代、一人の詩人にとらわれないで、唐・宋を兼ねたり、あるいは元・明の詩のなかからも対象は選ばれた。しかしそのなかにも流行はあり、清代初期の王士禎(おうしてい)は盛唐の王維や孟浩然の詩の余韻を重視して「神韻(しんいん)」説を唱え、中期の沈徳潜(しんとくせん)は李白・杜甫の詩の風格と音調の典雅を尊ぶ「格調(かくちょう)」説を主張し、また規範の束縛を排して精神の自由を叫んだ袁枚(えんばい)の「性霊(せいれい)」説は明末の公安派の主張に沿うものであった。清朝末期には一般に宋詩が好まれた。
[前野直彬・佐藤 保]
古典詩の最初の変貌(へんぼう)は、清末の変わりつつある時代の新しい事物をうたうためにことばの革新から始まった。清末の黄遵憲(こうじゅんけん)らは文言(文語)のなかに新名詞や俗語を積極的に取り入れて時代に即応しようとしたが、詩のことばを全面的に口語にすべきだという主張は、1917年の胡適(こてき)の「文学改良芻議(すうぎ)」を最初とする。古典詩との決別を訴えたこの文章は、辛亥(しんがい)革命直後の改革に燃える青年たちに大きな勇気を与え、いわゆる文学革命の口火となった。しかし、初期の詩はほぼ西欧詩の模倣ともいうべきもので、中国独自の現代詩を創造するために郭沫若(かくまつじゃく)・聞一多(ぶんいった)などの人々が実作と評論で苦心を積み重ねた。その後、日中戦争、さらには国内の革命戦争を通じて多くの作品が生まれ、理論化が進められたが、その努力はいまなお継続中であり、中国社会の変動とともに現代詩の内容も広がってきて、さまざまな傾向の作品がつくられている。
[前野直彬・佐藤 保]
『西脇順三郎著『詩学』(1969・筑摩書房)』▽『今道友信訳『詩学』(『アリストテレス全集 第17巻』所収・1972・岩波書店)』▽『『世界批評大系』全7巻(1974~1975・筑摩書房)』▽『『世界詩集』(『世界文学全集38』1976・講談社)』▽『『現代詩論大系』全5巻(1980・思潮社)』▽『窪田般彌・新倉俊一編『世界の詩論――アリストテレスからボヌフォアまで』(1994・青土社)』▽『当津武彦著『アリストテレス「詩学」の研究』上下(1999、2000・大阪大学出版会)』▽『伊藤信吉他編『現代詩鑑賞講座12 明治・大正・昭和詩史』(1969・角川書店)』▽『山宮允他編『日本現代詩大系』全11巻(1974~1975・河出書房新社)』▽『小海永二編『鑑賞日本現代文学31 現代詩』(1982・角川書店)』▽『吉本隆明著『戦後詩史論』増補版(1984・大和書房)』▽『芸象現代詩集刊行会編『現代詩人選集 新芸象』(1992・詩歌文学刊行会)』▽『詩歌文学刊行会編・刊『現代詩人選集』(1993)』▽『馬渡憲三郎著『昭和詩史への試み』(1993・朝文社)』▽『現代詩誌総覧編集委員会編『現代詩誌総覧』7巻(1996~1998・日外アソシエーツ)』▽『神崎崇著『現代詩への旅立ち』(2001・詩画工房)』▽『沢正宏著『詩の成り立つところ 日本の近代詩、現代詩への接近』(2001・翰林書房)』▽『吉川幸次郎・小川環樹編『中国詩人選集』全16巻、別巻、二集全15巻(1957~1963・岩波書店)』▽『小川環樹著『唐詩概説』(『中国詩人選集 別巻』1958・岩波書店)』▽『吉川幸次郎著『宋詩概説』『元明詩概説』(『中国詩人選集 二集1・2』1962、1963・岩波書店)』▽『中野重治・今村与志雄編『中国現代文学選集19 詩・民謡集』(1962・平凡社)』▽『青木正児他編『漢詩大系』全24巻(1964~1968・集英社)』▽『前野直彬編著『中国文学史』(1975・東京大学出版会)』▽『前野直彬著『中国古典詩聚花11 中国古典詩総説』(1985・小学館)』▽『吉川幸次郎・高橋和巳著『中国詩史』上下(1985・筑摩書房)』▽『松浦友久著『中国詩歌原論』(1986・大修館書店)』▽『佐藤保著『中国古典詩学』(1997・放送大学教育振興会)』▽『岩佐昌暉編『詩刊 1957―1964総目録・著訳者名索引』(1997・中国書店)』▽『松浦友久著『漢詩――美の在りか』(岩波新書)』
詩について記述することはできても,詩を定義することはむずかしいといわれる。とりわけ日本語で〈詩〉といった場合には事情が複雑である。詩という呼称はもともと中国の文芸上の一様式をさすものであり,江戸時代までは詩といえばいわゆる漢詩をさしていたが,明治以降,西欧文芸におけるポエトリーpoetry(英語)またはポエジーpoésie(フランス語)の理念が導入された結果,現在では,詩といえば狭義には文芸の一部門としての新体詩およびそれ以後の近代詩,現代詩をさしながら,広義には言語芸術のうちで散文に対立する韻文芸術の総体を包括的にさすこともある言葉となった。しかし日本固有の韻文芸術は伝統的に詩とは呼ばれず,歌や句といった別種の呼称を現在でも守っているから,狭義の詩はしばしば短歌や俳句や歌謡と並ぶ表現様式の一つとして扱われる一方,広義の詩を言いあらわすためには便宜的に〈詩歌〉という言葉が使われたりする。さらに,具体的な個々の作品としてのポエムpoem(英語),poème(フランス語)と,抽象的な概念としての前記ポエトリーまたはポエジーが,日本語ではともに詩と呼ばれていることも,問題の所在をわかりにくくしている。詩とは,提示されるテキストそのものであるのか,それともそのテキストによって表現されたと信じられる何ものかであるのか--という論争は,歴史の中で手をかえ品をかえてくり返されながらいまだに決着がついていない。最近では,書き手がそのようなテキストを書くという行為そのもの,読み手がそのようなテキストを読むという行為そのものの中に詩があるのだという,新しい考え方も台頭している。
通念的な理解に従えば,詩とは一般に,一定の韻律に従って書かれた詩句を,一定の形式的要請に従って配置することで形成される言語芸術である。これは短歌や俳句の通念的な定義がもっぱらその音数構成に着目しているのと同じような,外形面からの理解にすぎないが,たとえば中国の絶句,西欧のバラードやソネットといった,厳密な客観的形式を踏む定型詩はもちろんのこと,自由詩や散文詩のように外面的な韻律や形式への配慮を放棄しているらしく見える作例にもなお,何らかの形態感やリズム感が暗黙のうちに作用していることを考えれば,この理解もあながち無効とはいえない。散文詩を別にすれば,詩はすべて詩句ごとに行を替えて表記され,またそれらの詩句がいくつかまとまって詩節をなすこともある。こうした表記上の特徴は,視覚的な文字配列として目につくばかりではなく,音読,さらには黙読の場合にも運動的に感じ取られ,それが,提示されるテキストが詩であることをただちに享受者に認知させる。韻律,とりわけリズムやくり返しの発揮する呪縛力はきわめて強く,これが詩の大きなよりどころとなっていることは否めない。
だが,それだからといって,韻文作品がすなわち詩であるということにはならない。韻文で書かれた伝承的英雄物語(叙事詩)や,韻文で書かれた運命劇(劇詩)は,かつてはそれぞれ詩の重要な一部門をなすと考えられていたが,今日ではむしろ,詩としてよりも物語として,演劇としての特性から評価される傾向にあり,詩はもっぱら抒情詩を中心として考えられるようになった。この傾向は,文芸思潮史の上では,西欧の18世紀後半から19世紀にかけてのロマン主義以降に顕著となったもので,時代的にははるかに遅れて発足した日本の新体詩においても,その最初期にこそ叙事詩や劇詩,さらには教訓詩などが試みられたものの,ロマン主義思潮の導入とともに同じ傾向を示すようになった。これはロマン主義が,韻律をはじめとする文芸の客観的規範を離れて,個人の内面にある主観的な情念を制作者(詩人)から享受者(読者)へと直接伝えることを重んじ,さらにそのあとに現れた象徴主義が,文芸の基材としての言語の成立ちそのものについて,それまでの一般的理解を解体してしまったためである。
しかしこうして,詩の本質を言語の形態的要素から切り離して理解するとなると,詩は何か人間の日常的で平凡な現実とは別の次元にある特殊なもの,超越的なもの,価値の高いものを発見し,それを特別の言い方によって表現しようとする文芸であり,そのために詩人には常人にない感受性(いわゆる霊感)が必要とされる,という考え方が生まれてくる。この考え方はさらに,詩を言語芸術の外にまで押しひろげ,他の種類の芸術や自然界の現象にまで詩的情緒(詩情)や詩的感動を見いだすところまでいく。だが,そのような〈詩的なるもの〉は,もともと比喩的に〈詩において味わえるようなもの〉という意味をもつにすぎないから,これによって詩を説明しようとすれば同語反復におちいるほかはない。
西欧の文芸思潮の中で現代の詩の理念に大きな影響を及ぼした象徴主義の言語観によれば,日常の言葉はつねに伝達という目的に添って用いられる道具であり,いわば貨幣のように流通するものだが,詩における言葉はより本質的な何かを創造的に喚起するためにそこに置かれる。つまり詩は,この喚起という機能を言葉に最大限に発揮させるために,韻律ばかりでなく,音韻や意味における言葉の響き合いや,さまざまな修辞を駆使することになる。言葉はその直接指示する意味においてだけでなく,あらゆる含意において用いられ,作品それ自体が一つの隠喩=メタファーmetaphor(英語),métaphore(フランス語)として成立する。この考え方は,単に詩を散文から区別するという小さな射程しか持たないものではなく,表象体系としての言語の根本にかかわるものでもあった。
今日の言語観からすれば,言葉の伝達機能と喚起機能はこれほど二者択一的な関係にあるものではなく,むしろ表裏一体をなすものであるから,問題はむしろ一つのテキストを詩として提示する詩人の意図,もしくはそれを詩として解読し享受する読者の意図にある。たとえば〈赤ん坊が眠っている〉という一つの文は,それが提示され受け取られるときの状況しだいで,単なる事実の報告でもあり得るし,物音を立てるなという命令でもあり得るし,ある種の人間的感動への共感を誘う呼び声でもあり得るし,さらにはまったくの虚構でもあり得るが,詩は,そのいずれの場合についても,そのような文が提示され受け取られるという事実の中に成立し得る。しかし,そのような提示と受容がない限りは成立し得ない。そして詩の価値は,その文によって伝達された事実もしくは喚起された映像そのものの社会的価値や,その文を構成する音韻もしくは観念の美的価値とは別個のものである。現代詩人の中には新聞の報道記事や百科事典の記述をそのまま詩として提示する実験さえ試みた例がある。詩が言葉そのものであるとはこのような意味あいで言われることであって,言語による表出と受容の行為そのもの,あるいは表出や受容における選択という行為そのものが自己目的化したところに詩があるのだと考えられる。そして,実際に歴史の上で現れたさまざまな詩観や,それにもとづく思潮と流派の交代は,そのような詩的営為を評価する際に,そこに秘められている知的緊張や言語操作技術を重視するか,それとも直観性や自発性を重視するかの違いに帰着するといえる。
→詩学 →詩法
詩の起源は歴史以前までさかのぼり,おそらくは言語そのものの起源と等しいから,これについての考察はすべて仮説でしかないが,一般に,原始的な農耕社会において豊穣祈願の祭儀に唱えられた呪文から出たものではないかと考えられている。また,人間の誕生や死,求愛や婚姻といった,強い感動や祈願の機会にも特別の言語活動が必要とされたであろう。いずれにせよ,歓喜,不安,希求といった人間の魂の動きが祭儀化することは詩的表出と密接な関係にあり,宗教のあるところには必ず詩があるといわれる。他方,農事などの集団作業において,そのリズムをととのえ,絶えず共同性を確認するために唱えられる労働歌も,詩の有力な起源の一つとされる。このような共同体的性格もまた,詩の重要な側面をなしている。さらに,文字の発明以前には,それぞれの共同体の存在理由,歴史,習慣や規律などを口誦によって伝承する必要があり,そこから,記憶にも便利で聴き手にも感銘を与える韻律形態をととのえた,叙事詩や教訓詩が生まれてきたと考えてよい。
したがってどの民族も,その文明の最初期の段階から,宗教的な頌歌,説話的な叙事詩,抒情的な歌謡などを持っていたものと思われる。くり返し享受されているうちにしだいにテキストが定まり,とりわけ祭儀や宮廷行事などの場を中心に専門的な朗吟者が,ついで専門的な作者が出るようになったものだろう。文字に記されて残っているものとしては,古代オリエントの《ギルガメシュ叙事詩》や古代インドの二大叙事詩,古代エジプトの〈ピラミッド・テキスト〉や神々への賛歌,古代ギリシアのホメロスの叙事詩,旧約聖書中の韻文テキスト,古代中国の《詩経》などが名高い。日本の場合は,《古事記》《日本書紀》《風土記》などに古代の歌垣や婚姻の歌,国ほめや神ほめの歌が記録されているほか,祝詞(のりと)などの宗教的テキスト,《万葉集》の中の伝承歌謡などがあり,また時代は下るが,沖縄の《おもろさうし》やアイヌ民族の口誦叙事詩群〈ユーカラ〉も知られている。
→口承文芸
ひとくちに西欧の詩といっても,ギリシアからローマに至る古代のそれと,中世から現代に至るヨーロッパのそれとは,本来は別個のものと考えるべきだろう。ただし後者は,前者の影響を強く受け,しばしば前者を継承するという自負を示すことがある。いずれにせよ,どちらの場合も,まず叙事詩,ついで抒情詩,劇詩が盛んになっている。
古代ギリシアはまず,ホメロスという伝説的な詩人の作と伝えられる二大叙事詩《イーリアス》と《オデュッセイア》を持つ。これはトロイア戦争を題材とする膨大な叙事詩群の一部をなすもので,紀元前8世紀ごろ成立したとされるが,実際にはそれ以前から長期にわたって吟遊詩人によって語り伝えられていたものらしい。これら英雄や神々の物語とは別に,庶民の日常生活に根ざしたヘシオドス(前700ごろ)の《農と暦》や,神話伝説を整理した《神統記》もある。抒情詩を代表するのはアルカイオスと女流詩人サッフォー(ともに前7世紀)で,ついでアナクレオンが出るが,いずれも古くから伝わる独唱歌の様式を踏んでいる。他方,合唱歌の作者としてはシモニデス,ピンダロス(ともに前6世紀から前5世紀)があり,これは公式行事や祭儀で歌われた。前者は碑銘詩の作者としても知られ,後者はオード形式の範とされる。のち,この合唱用抒情詩から悲劇が生まれたものらしい。
アレクサンドリア時代には短詩のカリマコス,牧歌のテオクリトス,叙事詩のアポロニオスらが出るが,これらの詩人の作品はすでに書かれ読まれるものとなっている。このアレクサンドリア詩の影響下に,古代ローマのいわゆるラテン詩が始まり,前1世紀にまずルクレティウス,カトゥルスが,ついで叙事詩人ウェルギリウス,抒情詩人ホラティウスが現れる。ウェルギリウスの《アエネーイス》はトロイアの落城後生き残った英雄が各地をさまよった末,イタリアにローマを建国する物語だが,題材には伝承を取り入れながらも一人の詩人の創作として構想され,書き下ろされたものである。またルクレティウスの《事物の本性について》は韻文による哲学的な宇宙論である。ほかに,情念の詩人として《悲歌》のオウィディウスがいる。
西ローマ帝国の衰亡後も,ラテン語は長くヨーロッパの公用語であり続けたので,10世紀ごろまでのヨーロッパの詩は大半がラテン語で書かれた。その中には《カルミナ・ブラーナ》(12世紀ごろ成立)のような大規模な歌謡集もある。
中世に入ると,キリスト教化しつつヨーロッパに定着したゲルマン系の諸民族が,それぞれの伝承をもとに,神話的もしくは英雄的な叙事詩を生み出した。古いものでは8世紀ごろ成立したイギリスの《ベーオウルフ》があり,北欧の〈エッダ〉と〈サガ〉,ドイツの《ニーベルンゲンの歌》などのゲルマン色の濃いものや,おそらくケルト系のアーサー王伝説群,それに,キリスト教徒の武勲詩の性格をもつフランスの《ローランの歌》,スペインの《わがシッドの歌》などが,いずれも12,13世紀ごろまでに成立する。抒情詩としては12世紀ごろから南仏で活動したトルバドゥールと呼ばれる詩人たちの恋愛歌や物語歌がジョングルールという芸人たちによって歌われ,北仏のトルベール,ドイツのミンネゼンガーなどに伝わって,貴族階級による優雅な宮廷抒情詩の流れを生むが,他方には舞踏歌,牧歌,お針歌などの形で奔放な生活感情を歌った民衆歌謡の流れがあり,これがリュトブフ(13世紀)の嘆き節を経て,中世最後の詩人といわれるフランソア・ビヨン(15世紀)につらなる。ほぼ同じ時期に最後の宮廷詩人シャルル・ドルレアンもいて,ともにバラードやロンドーといった定型詩の代表作を残した。
いちはやくルネサンスに入ったイタリアでは,すでに14世紀にダンテが《神曲》《新生》を,ペトラルカがソネット形式による甘美な抒情詩を書いていたが,16世紀までには他のヨーロッパ諸国にもその影響がひろがる。フランスではC.マロがペトラルカを翻訳,この新しい抒情のもとにセーブらのリヨン派,ロンサールらのプレイヤード派が活動,豊麗なバロック詩がやがてマレルブによって厳密な詩法に整頓される。イギリスではエリザベス朝文化を代表するシェークスピアが数々の韻文劇を書いたほか,いわゆるシェークスピア風ソネットを定着させ,他方ではJ.ダンらの形而上派の詩人たちが出る。スペインではゴンゴラの抒情詩,ポルトガルではカモンイスのソネットと叙事詩が書かれ,イタリアでもタッソやアリオストの叙事詩が相つぐ。ドイツでは,16世紀に栄えた市民文化からマイスタージンガー(工匠歌手)と呼ばれる詩人たちが現れ,その代表者H.ザックスは多数の歌曲や謝肉祭劇をつくった。宗教戦争の中からフランスのドービニェは激越な《悲愴曲》を書き,清教徒の立場からイギリスのミルトンは《失楽園》を書いた。
17世紀の末からフランスは古典主義時代に入り,コルネイユやラシーヌの劇詩を生むが,それ以外には,自由詩型によるラ・フォンテーヌの《寓話詩》などを別にすると,全般に形式ばかりを重んじた作品がふえてくる。しかし18世紀後半に入ると,ドイツでクロプシュトックが多感な情念を宗教的に歌い上げ,ついでゲーテとJ.C.F.シラーが現れて,主情的に個性を打ち出そうとするロマン主義的傾向がはっきりしてくる。同時にこのロマン主義は,民間伝承や民衆歌謡に題材や表現形態を求めることで,詩に生気をよみがえらせようとしたが,これは因襲化した秩序への反抗と,言語表現への,ひいては文化そのものへの大きな楽観とを,根底に秘めていたといえる。スコットランドの農村詩人R.バーンズ,神秘的な幻想のW.ブレークらがイギリスに登場したのもこの傾向による。アメリカの独立とフランス革命がこれに拍車をかけ,19世紀前半のヨーロッパはまさにロマン主義の時代となった。ドイツ・ロマン派にはノバーリス,ヘルダーリン,ハイネらが,イギリスからはワーズワースやコールリジに続いてバイロン,P.B.シェリー,キーツらが新しい詩風を開拓,その影響は遠く日本まで及んだ。新興国アメリカにはロングフェローやポーが出る。フランスのロマン主義は独英の影響から始まって,ラマルティーヌ,ユゴー,ビニー,ミュッセらが開花させ,ネルバルに受けつがれた。ロシアではプーシキンとレールモントフが活動した。
19世紀後半の詩はイギリスにテニソンやブラウニング,アメリカにホイットマンを生むが,思潮としてはフランスを中心に高踏派から象徴主義へと推移する。まずボードレールの《悪の華》が真の意味での近代精神を歌うことに成功して近代詩の出発点を据え,ベルレーヌが言葉の音楽美を解放,マラルメはついに言語それ自体をもって完全な小宇宙を閉じる象徴詩を生み出した。ランボーは同じ理念をむしろダイナミックな意思の過程としてとらえることで,現代詩への通路を切り開いた。
この象徴主義によってもたらされた新しい言語観が20世紀の詩のあらゆる局面に潜在的に影響している。その直接的継承者とされるバレリー,クローデルといった詩人たちばかりでなく,〈新精神〉を唱えたアポリネールや,第1次大戦後に始まったダダやシュルレアリスムの運動にまでその影が読み取られるし,アイルランドではW.B.イェーツ,ドイツではゲオルゲやリルケ,イタリアではウンガレッティが象徴主義の影響を濃く受けている。またラフォルグを経てT.S.エリオットに伝わった流れは,第1次大戦後に《荒地》を生む。そしてここから第2次大戦にかけて,さらに戦後期にかけて,実に多種多様な試みが無数の詩人たちによって行われ,現代詩をきわめて多面的で複雑なものにしている。
執筆者:安藤 元雄
中国では,詩は民衆の歌から起こった。中国のもっとも古い詩集は《詩経》であるが,これは前6世紀に,孔子がそれまでの歌謡を編集整理して成ったと伝えられるものである。《詩経》の大きな部分を占める〈風(ふう)〉とは,周王朝治下の諸国の民謡であり,さらに,〈雅(が)〉や〈頌(しよう)〉とよばれる部分も,それぞれ前者は周王室に関連した楽歌,後者は王朝の祭祀の楽歌である。また,《詩経》の最古の注釈である《毛詩》の序にも,詩と歌謡や舞踏との関連が言及されている。《詩経》は後世の中国の詩がもつ性格を,発生の段階においてすでに示している。まず第1に,中国の詩は抒情詩を中心とするということである。《詩経》の作品はほとんどが短い抒情詩であり,ギリシアにおけるホメロスのような叙事詩は見られない。〈詩は志の之(おもむ)く所なり。心に在るを志と為し,言に発するを詩と為す〉とは《毛詩》の序に言うところである。詩とは,作者の感動が言語という形をとって外に表されたものだと考えられたのである。第2に,《詩経》は儒家によって〈五経〉の一つとして尊重されたが,彼らは《詩経》を政治や社会に引きつけて解釈しようとした。詩は民衆や社会の姿を反映するものであると考えたのである。〈太平の世には楽しい詩,乱世には怨みのこもった詩,亡国に際しては哀しい詩が生まれる〉とは,これも《毛詩》の序の言葉である。《毛詩》は一見男女の愛をうたった作品でも,政治的な風刺としてとらえるのであり,これは後世の中国の詩が政治や社会に強い関心を示すことにつながるものである。
《詩経》は原則として,4音節すなわち4字を1句とし,各句はおおむね脚韻を踏む。つまり,〈四言〉という音数律と厳密な脚韻とをそなえた定型詩であった。しかし,この〈四言詩〉という形式は単調なリズムであったため,早く衰退してしまい,後世においてはほとんどつくられることはなくなった。なお,20世紀に入って近代詩が興り,かならずしも押韻を必須としない完全な自由詩型が提唱されるまで,中国において詩といえば,《詩経》以来ほとんどすべて定型詩であったと言ってもよいほどである。
《詩経》ののち,戦国時代の末に至って新しい詩が起こる。これが《楚辞》である。《詩経》が北方黄河流域に発生したのに対し,《楚辞》は南方長江(揚子江)中流域,楚の国に生まれた。古い伝承によれば,《楚辞》は屈原とその弟子の宋玉らの作だという。なかでも,最も有名な〈離騒〉は,代表的な作者たる屈原が,みずからの世にいれられぬ苦悶をうたったものとして知られる。それは楚の国の歌謡をもとにした特色ある詩形を駆使し,その表現は多彩であり,華麗な比喩表現に富み,激しい感情表白をともなう。また,日常的なできごとや事物に即してうたうのではなく,しばしば超自然の世界が描かれる。しかし,屈原および宋玉らを実在の詩人とする確証は別にない。やはり《詩経》同様,個人の名を冠することのできない集団的な歌声とみる方がむしろ無難であろう。《楚辞》の詩形は〈三言〉を基調とするもので,リズムを整える助字〈兮(けい)〉が頻繁に用いられている。しかし,この形式すなわち〈辞〉は漢代に入ると〈賦(ふ)〉とよばれる長編の美文へと転化して,韻文と散文の中間的な性格をもつものとなり,伝統的なジャンルの区分においては〈詩〉のなかには入れられなくなった。
漢代になると,民間の歌謡のなかから〈五言〉の形式が知識人たちによって採り入れられて,〈五言詩〉が成立する。《文選(もんぜん)》に収められる作者不明の《古詩十九首》は,〈五言詩〉の最古のものに属する。ここに至って,中国の文学ははじめて,歌謡から離れて自立した詩をもつことになった。〈五言詩〉は,以後三国,南北朝および隋を経て唐に至るまでの約400年間,中国の詩の主流となる。〈七言〉の形式もすでに発生してはいたが,まだ安定するには至らず,それには唐代を待たねばならない。詩といえば〈五言詩〉を意味していたのである。こうしたなかで,詩はしだいに文学の主座を占めるようになる。まず,後漢末から三国時代にかけて,曹植を中心とする文学集団が形成されて,〈五言詩〉の制作が盛んになってゆく。彼らの詩は剛健で激情に富むものであったが,初めて個人の署名入りの作品集が生まれるのがまさしくこのころであった。世に〈建安文学〉と呼ばれるこの時期こそ,詩史上の画期とみなすべきである。〈建安〉の詩人たちに続いて現れたのは,〈竹林の七賢〉の領袖であった阮籍(げんせき)と嵆康(けいこう)である。彼らの生きた時代は,司馬氏が魏を奪して西晋を興す時期に当たるが,その詩は当時の暗い世相を背景に,真摯(しんし)な深い思索に裏打ちされた哲学的なものであった。
南北朝時代は,政治的には異民族国家の北朝が南朝を圧迫していた。しかし,文化的には,華麗優雅な生活を楽しむ漢人貴族の政権たる南朝が優位に立っていた。中国の詩はこの時期に技巧的な面で発展を見せる。ひとつには対句の技法が発達した。またひとつには,詩の音律の面に注意がはらわれるようになった。すなわち,中国語固有の四つの声調(〈四声〉)を調和させて用いることに心がけるようになったのである。なかでも,梁の沈約(しんやく)は《四声譜》を著して,この面に大きく貢献した。南朝の詩の特色をよく表しているのは,南斉の謝朓(しやちよう)の作品である。南朝の詩は技巧面での発展につれて,繊細な感覚と精密な描写へと向かったが,梁代に至ると,簡文帝を中心とする〈宮体〉の詩人たちを生み出すことになる。〈宮体〉とは主として女性の美を詠じたもので,官能的退廃的な側面をもつものであった。この種の作品を集めたのが《玉台新詠》である。一方,《文選》は,こうした当時の詩風に対する反発として編まれたものである。なお,東晋末から宋にかけて重要な詩人が2人ある。陶潜(淵明)と謝霊運である。前者は田園詩人として日本でも広く知られるが,詩壇の主流の外にあった詩人で,その詩は平明な用語の裏に,実は深い思索を秘めている。後者は江南の山水の美をうたって,〈山水詩〉の創始者となった詩人である。北朝においてはみるべき作品はより少ない。わずかにトルコ系民族の歌謡の漢訳とされる《勅勒(ちよくろく)の歌》などが注目される。
詩は唐代に至って頂点の時代を迎える。唐の詩人たちは,魏・晋から南北朝を通じて発展してきた〈五言〉の形式を受け継ぎ,さらに〈七言〉の形式を完成させた。また,詩に〈古体〉と〈今(近)体〉の別が定まったのもこの時代である。〈古体〉とは比較的自由な形式の詩であり,〈今体〉とは韻律が一定の型に従うもので,律詩と絶句がこれに当たる。唐代以後は,別系統の韻文〈詞〉や〈曲〉を除外すれば,詩に新しい形式は生まれず,その形式は唐代において定まったのである。唐代最大の詩人は盛唐の李白と杜甫であるが,前者は古詩と絶句を得意とし,後者は律詩を完成させた。このほか,盛唐では山水の美をうたった王維,中唐では豪放険怪な詩風の韓愈と流麗平易な詩風の白居易,晩唐では七言絶句にすぐれた杜牧と男女の愛をうたった作品に傑作を残した李商隠などがいる。
宋代の初めは,しばらく晩唐風の感傷的な詩が主流であったが,11世紀前半の欧陽修や梅尭臣(ばいぎようしん)の出現とともに,より理知的思弁的に変わり,激しい感情をそのまま吐露することは少なく,また,題材もいっそう日常生活に限定されるようになった。宋代の詩人たちは詩形はまったくそのまま受け継ぎ,杜甫や韓愈などに代表される唐代の詩を祖述したのであるが,つくりあげた詩風は唐詩とはいささか異なってきたのである。宋代は詩人の数も唐代に比べて飛躍的に増大した。唐代までは,詩はほとんど社会の上層,高級知識人のみによってつくられていたが,宋代とくに12世紀南宋の時代になると,一般市民の間からも作詩者が輩出するようになった。これは詩と社会・文化との関連という点からすれば,はなはだ注目すべき現象である。この時期を代表する詩人は北宋の蘇軾(そしよく)であり,他に王安石,黄庭堅らがいる。南宋では陸游,范成大,楊万里などが傑出している。
元以後の詩の歴史は,唐詩と宋詩とのいずれの詩風を継承するかをめぐって展開し,そこから独自の新しい詩風を生み出そうという努力が続けられた。しかし,おのおのの時代にすぐれた詩人を出してはいるものの,もはや再び唐詩や宋詩のような輝きを放つ作品を生むことはきわめて困難であった。20世紀に至ると〈文学革命〉が起こって,〈新詩〉すなわち口語による自由詩(白話詩)が一般に行われるようになったが,〈旧詩〉すなわち古典詩の制作も消滅したわけではない。
中国の長い文学の歴史において,詩はきわめて重要な位置を占めてきた。漢代では〈賦〉が盛んであったが,〈五言詩〉が成立すると,詩はしだいに文学の諸ジャンルの中で最も尊重されるようになり,その傾向は唐代に至って確定的となった。唐代では,詩が高級官僚資格試験である〈科挙〉の最重要科目とみなされたこともあって,詩作は官僚たらんとする知識人に必須の教養となったのである。宋代を代表する文学は〈詞〉であるとは,よく言われることであるが,それは〈詞〉が〈詩〉を圧倒したことを意味するものではない。やはり,宋代においても〈詩〉は,新興通俗の〈詞〉とは隔絶して正統的な位置を占めていたのであり,それは現在に伝わる作品数の多少を比べても明らかである。また,元代を代表する文学として,宋代の〈詞〉にあたる〈曲〉があげられるが,この場合も事情は宋代と変りないといえる。このように,長く中心的な地位にあった中国の詩であるが,近代以後においては,文学の世界の王座を小説に譲った感のあること,他の諸国の状況と同様である。
また,中国の詩人の大多数は,高級官僚として国政に参与したり,あるいはそれを目ざした人々であった。したがって,中国の詩は,アクチュアルな問題につねに強い関心を示すという一面をもち,しばしば世上の悪徳や民衆の困苦を題材としてとりあげ,当局への批判や風刺を加える。既述した《詩経》以来の伝統や漢代の〈楽府(がふ)〉の精神を受け継ぐものであるが,その典型的な例は,杜甫の作品や白居易の〈新楽府(しんがふ)〉などに見ることができる。なお,〈新楽府〉の名は,民間の実情を天子に知らしめるという〈楽府〉本来の主旨にもどるとの意による。
執筆者:荒井 健
日本近代詩の歴史は,和歌,俳諧,漢詩など旧来の伝統的詩形に替わるものとしての西洋のポエトリーの移入によって始まったと,一応いうことができる。外山正一,矢田部良吉,井上哲次郎共著の《新体詩抄》(1882)が一時代を画したとされるのはそのためである。彼らは上述の伝統詩形に対する明治の新しいスタイルの詩という意気ごみで,自分たちの作ならびに訳詩を〈新体詩〉と呼んだ。もっとも,文明開化の新時代の詩を生み出す上では,これに先立つ1874年版,1876年版,1882年版などの賛美歌集や1881年に初編刊行の《小学唱歌集》などがその土壌をはぐくんでいたことを忘れてはならない。また福沢諭吉の《世界国尽》(1869)は,古来の和讃や歌謡のスタイルに通じる七五調の長詩形式によって,世界諸大陸の地理・歴史・文物に関する啓蒙を意図した作物で,明治2年(1869)という早い時期にベストセラーとなった。福沢自身は詩を書くつもりはまったくなかったが,七五調のおかげで,文字を解さぬ人々にも大いに愛誦された。《新体詩抄》で外山らが社会学その他の通俗啓蒙を七五調で実行したのは,福沢の範にならったともいうべく,〈新体〉の詩も実際は七五調という伝統詩の容器を利用せずには成り立ちえなかったことを示している。これらは総じて明治新体制の指導的立場にある知識人たちによる啓蒙の詩であり,〈公〉的な用途を明確に意識したパンフレットであったといってよい。詩の本来もつべき繊細微妙な香りや味わいは彼らの追求の主目的ではなかったから,その方面である程度満足すべき質をそなえた仕事は,森鷗外らの新声社同人による訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)の出現をまたねばならなかった。1893年,北村透谷,島崎藤村,上田敏らが《文学界》を創刊,キリスト教およびルネサンスへの関心を中核にもつ浪漫主義運動を展開,啓蒙的・社会改良的功利主義を批判して,文学・芸術独自の価値にもとづく作品活動を主張した。藤村の《若菜集》(1897)の恋愛詩はその代表的な成果である。抒情詩における恋愛至上の情熱の表現は,在来の封建社会的倫理観や家族制度に対する抵抗の意思表示となりえた点で,青年男女の熱狂的支持を得た。藤村と並び称されたのは《天地有情》(1899)の土井晩翠で,漢詩調の叙事詩・史詩によって,国勢伸張期の青年層の思想感情に強く訴えるもう一つの浪漫詩の成果を示し,全国の高校寮歌や校歌にも大きな影響を与えた。明治30年代にはまた,与謝野寛(鉄幹)・晶子らが浪漫主義の旗をかかげ,新詩社を母胎に雑誌《明星》を創刊,一方,河井酔茗,横瀬夜雨,伊良子清白ら《文庫》派の詩人たちも清新な抒情詩の秀逸を数多く発表した。薄田泣菫の《白羊宮》(1906),蒲原有明の《春鳥集》(1905)は,新体詩の達しえた高度に複雑な言語美の世界を示したが,彼らの高踏的・象徴的詩風は,フランス高踏派や象徴派に主眼をおいた訳詩によって日本近代詩史に甚大な影響を及ぼした上田敏の《海潮音》(1905)と同じ精神の土壌から発していた。訳書としての《海潮音》が明治末期の詩界で果たしたのと同様な役割を大正末期・昭和初期に果たしたのは,堀口大学の訳詩集《月下の一群》(1925)である。
上田敏,蒲原有明らの仕事が実を結んだころには早くも自然主義思想が詩界にも浸透しはじめていた。川路柳虹の口語自由詩の試作が発表されたのは1907年だが,口語自由詩の芸術的熟成にはなお多くの曲折があった。明星派から出た北原白秋,木下杢太郎は,与謝野寛らと九州の南蛮遺跡をめぐり,その収穫が異国情緒と官能性を合体させた白秋の《邪宗門》(1909)に結実した。同年三木露風が《廃園》を出し,白露時代と並称された。北原白秋,木下杢太郎ら耽美派と呼ばれる詩人たちは《スバル》に拠って自然主義運動のあとに来るべき文学・芸術上の新思潮を準備した。《スバル》は指導者に森鷗外を仰ぎ,石川啄木,吉井勇その他多くの新進詩人,作家,劇作家らを擁した。同じく《スバル》で活躍した高村光太郎は,口語を駆使して書かれた最初の重要な詩集《道程》(1914)を刊行,生命の爆発的燃焼と倫理的な意志にもとづくその理想主義的作風は,大正詩の新たな出発を鮮やかに告げた。一方,白秋門の萩原朔太郎は《月に吠える》(1917)や《青猫》(1923)によって近代人の孤独な自我の内景を表現し,〈“傷める生命”そのもののやるせない絶叫〉とみずからいう世界を言語化した。彼の親友室生犀星は《抒情小曲集》《愛の詩集》(ともに1918)を出して,同じく大きな影響を与えた。
大正中期には大正デモクラシーを反映したいわゆる民衆詩派の白鳥省吾,百田宗治,福田正夫,富田砕花らが,農民や労働者の生活を詩にとりあげた。福士幸次郎,山村暮鳥,千家元麿,尾崎喜八らがこの時代的背景の中で人道主義的な詩を書いた。大正中期以後,佐藤春夫,日夏耿之介,西条八十,三富朽葉,大手拓次,佐藤惣之助,竹内勝太郎,宮沢賢治,八木重吉らすぐれた才能が輩出した。しかし,大正中期以後の社会不安の増大や関東大震災の影響は,詩の世界にも大きな変化をもたらした。第1次世界大戦前後の西欧で,現代文明への不安や焦燥,既存の美や秩序への反抗から生まれた前衛思想が,日本にも同時代的な影響を及ぼす。未来派,ダダ,アナーキズムなどの渦の中から,高橋新吉の《ダダイスト新吉の詩》(1923)や萩原恭次郎の《死刑宣告》(1925)などが生まれ,壺井繁治,岡本潤,小野十三郎らアナーキズム系の詩人らが登場した。これらの詩人は,中野重治に代表されるマルクス主義系の詩人らとともに,昭和初年代のプロレタリア詩運動の中核を形づくる。マルクス主義系詩人では昭和前期に小熊秀雄が出て,叙事詩にもすぐれた作品を示した。大正末期には同人詩誌が全国的に多く生まれたが,その芸術前衛的傾向を吸収して一大勢力としたのが春山行夫編集の《詩と詩論》(1928創刊)である。北川冬彦,安西冬衛,三好達治,西脇順三郎,近藤東,竹中郁,吉田一穂,北園克衛,村野四郎その他多くの新進詩人たちが〈エスプリ・ヌーボー(新精神)〉の呼び声にふさわしい仕事をここに発表した。だが,1931年の満州事変勃発以後45年まで続く戦時体制の時代に入り,プロレタリア文学運動は弾圧によってほとんど崩壊,西欧前衛芸術の影響を強く受けた新詩運動も,自由主義思想への統制強化によってしだいに方向転換を余儀なくされた。代わって伝統的な抒情詩風が昭和10年前後からとみに有力になる。なかでも月刊《四季》(1934創刊)は知的で清新な抒情詩人たちの活躍の場として広く愛読された。堀辰雄,三好達治,丸山薫,津村信夫,立原道造,田中冬二,伊東静雄,中原中也その他,きわめて多くの詩人,学者がこれに参加している。先輩格として室生犀星,萩原朔太郎も深い関係をもった。一方,草野心平,逸見猶吉,高橋新吉,菱山修三,中原中也,山之口貘,伊藤信吉らは《歴程》(1935創刊)に拠り,それぞれの個性的な詩風を展開すると同時に,宮沢賢治,八木重吉ら物故詩人の仕事の顕彰につとめた。《歴程》には高村光太郎や金子光晴も寄稿した。戦争の激化とともに多くの詩人が軍事国家体制下の戦争詩の書き手に変貌していったが,金子光晴は近代的自我意識に根ざす反骨と批判精神を保った抵抗の詩をひそかに書きつづけ,戦後《落下傘》(1948),《女たちへのエレジー》(1949)その他の詩集としてこれらを発表,反響を呼んだ。しかし,注目されるのは,高村光太郎とともに多くの戦争詩を書いた三好達治の場合をとっても,また伊東静雄,立原道造,中原中也らの場合をとっても,昭和前期の詩人たちの抒情詩には,大量に〈死〉や〈滅び〉の予感が歌われている事例が多いことである。そこにはそれぞれの個人的事情のみならず,時代全体の不幸が鋭敏にとらえられていたことを見逃してはならないだろう。
→戦後文学[詩]
執筆者:大岡 信
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…〈詩〉あるいは〈詩〉の創作にかかわる研究・分析・論考をさす言葉。ただしここでいうところの〈詩〉とは,狭い意味でのいわゆる詩ばかりではなく(このような比較的狭い範囲のものを扱う場合には,〈詩法〉〈詩論〉の用語もしばしば用いられる),文学一般,さらにロシア・フォルマリズムの登場以後の現代においては,まったく違う視座から,芸術全般,文化全般をも含むものとなっている。…
…日本人は中国へ観光客としてよりも巡礼として行く〉(エドガー・スノー)。ある程度の教育をうけた日本人で孔子や孟子の金言のいくつか,李白や杜甫の詩の一句や二句を記憶にとどめていないものは少ないであろう。われわれは単なる風景,習俗,物産の珍しさを喜ぶよりも,孔孟,諸葛孔明,李杜韓白(李白・杜甫・韓愈・白居易)の国であることに感動する面が,たしかにある。…
…たとえば〈日本文学〉〈中世文学〉というように。そのさい現代日本語では,その内容が詩,小説,劇などの純文学にかぎられる傾向がつよい。フランスではパスカルのような哲学者やミシュレのような歴史家の作品も文学史に載るが,日本では新井白石や中江兆民は載らぬことが多い。…
※「詩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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