デジタル大辞泉 「フランク」の意味・読み・例文・類語
フランク(frank)
[類語]率直・ありのまま・有り体・ざっくばらん・開けっ広げ・開けっ放し・明け透け・単刀直入・ずばり・
翻訳|frank
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ゲルマン民族中,中世初期に北部ガリアを中心にフランク王国を形成した一部族名。彼らは,3世紀以来ローマ人に,長いブロンドまたは赤色の髪を持つ長身の勇猛な戦士として知られていた。起源は不明であるが,3世紀には多くの支族に分かれ,ライン川右岸の中・下流域に定住した。4世紀に入りライン川を越えた頃から,リブアリ,サリの2支族が台頭し,西ローマ帝国の滅亡前後,前者はケルン地域に,後者はフランデレン地方に進出した。メロヴィング家のクローヴィスがサリ支族の王位につくに及んで,486年ソワソンのシアグリウスを破り,以後アラマン人,ブルグント,西ゴートのゲルマン諸部族国家を撃破し,同時に全フランク族の支配に成功した(メロヴィング朝)。クローヴィスのランス司教聖レミによるカトリック受洗(496年頃)は,フランク王位に対するカトリック教会の支持を勝ちとった。彼の死後,王国はゲルマン法の相続原理により4人の息子に分割されたが,数度にわたり偶然に一人の王に相続が集中した場合を除き,以後王国の不断の分割と一族間の闘争や各地の貴族の台頭が王権を衰微させた。この間にアウストラシアの宮宰(きゅうさい)が勢力を伸長し,751年ピピン(小)は聖ボニファティウスと教皇ザカリアスの支持を得て,実力をもって王位についた(カロリング朝)。その子カール大帝は西ローマ帝位をも得て,西ヨーロッパの全域にフランク帝国を拡張した。ヴェルダン条約,メルセン条約による分割は,それぞれのちのドイツ,フランス,イタリアとなる東フランク王国,西フランク王国,ロタリンギア(ロートリンゲン)をつくりだした。フランク王(帝)位は10世紀以後,それぞれ神聖ローマ皇帝とカペー朝とによって引き継がれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
アメリカの生物物理学者。ドイツのジーゲン生まれ。1963年ドイツのフライブルク大学卒業後、1970年ミュンヘン工科大学で博士号取得。カリフォルニア工科大学バークレー校での博士研究員、ドイツのマックス・プランク研究所研究員などを経て1997年、ニューヨーク州立大学オルバニー校教授、1998年からハワーズ・ヒューズ医学研究所研究員、2008年からコロンビア大学生化学・分子生物物理学科、生物科学科教授。
1975年以降、イギリスの分子生物学者リチャード・ヘンダーソンによって電子顕微鏡でタンパク質などの生体分子を破壊することなく観察することが可能になったが、観察の対象が結晶構造などきれいに並んでいる場合に限られていた。実際の生体分子は液体中にランダムな方向に向いており、これが電子顕微鏡での観察をむずかしくしていた。この問題を数学的な手法を駆使して解決したのがフランクである。1981年、さまざまな方向から撮影された分子の画像を整理し、コンピュータで重ね合わせることで高解像度の三次元(3D)画像を得る計算プログラム(アルゴリズム)を開発した。この手法は単粒子再構成法(single particle analysis:SPA)という画像解析技術で、この成功がクライオ(極低温)電子顕微鏡開発の基盤となった。フランクは、1991年にスイスの生物物理学者デュボシェの開発した凍結法を使い、クライオ電子顕微鏡でリボソームの三次元構造を解明することに成功した。解像度は40オングストローム(100万分の4ミリメートル)で低かったが、科学界には大きなインパクトとなった。その後もプログラムなどの改良を続け、現在は原子レベルの観察が可能となり、X線結晶解析に劣らないレベルに引き上げることに貢献した。
2014年ベンジャミン・フランクリン・メダル、2017年ワイリー賞。同年「タンパク質などの生体分子の構造を高解像度でとらえるクライオ電子顕微鏡の開発」に貢献した業績で、リチャード・ヘンダーソン、ジャック・デュボシェとノーベル化学賞を共同受賞した。
[玉村 治 2018年2月16日]
ドイツ生まれのアメリカの物理学者。ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学んだのち、1906年ベルリン大学のE・ワールブルクのもとで学位を得た。1911年からベルリン大学で物理学を教えるかたわら、G・L・ヘルツと協力して種々の気体中での自由電子のふるまいを研究し、ボーア理論に実験的確証(フランク‐ヘルツの実験)を与えることに成功。「原子への電子衝突を支配する諸法則の発見」により、ヘルツとともに1925年のノーベル物理学賞を1926年に受けた。第一次世界大戦後、カイザー・ウィルヘルム研究所(現、マックス・プランク研究所)を経て、ゲッティンゲン大学実験物理学教授となり、気体や蒸気の蛍光の研究に携わった。しかし、1933年に、ナチスに対する抗議として同大学を辞職してアメリカに渡り、ジョンズ・ホプキンズ大学、シカゴ大学教授を務めた。第二次世界大戦中、シカゴ冶金(やきん)研究所化学部門主任として原爆製造(マンハッタン計画)に参加したが、1945年軍部の無警告原爆投下方針に反対するための委員会(フランク委員会)を組織し、彼の名で知られる報告書を提出したことは有名である。
[小林武信]
ドイツ出身の経済学者。シカゴ大学で経済学を学び、アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダ、チリなど米州の各大学で教育・研究に従事したが、1973年チリ軍事クーデターを避けてヨーロッパに移る。ヨーロッパでは、ドイツのマックス・プランク研究所客員研究員、イギリスのイースト・アングリア大学教授を経て、1981年アムステルダム大学開発経済学教授。1998年同大学定年退職後、ふたたび北米に渡り、カナダ、アメリカの諸大学の客員教授を務めた。ラテンアメリカでの講義の過程で、正統派経済理論と第三世界の現実との格差の大きさについての意識を強め、ラテンアメリカ従属学派の諸業績をベースにして新従属理論を提唱。新従属理論の国際化に指導的役割を果たした。また、「開発と低開発は歴史的時間の先後関係にあるのではなく、低開発は開発によってつくりだされたという点で、同一コインの裏表にも例えうる共時的関係にある」という、歴史および世界経済認識の新しいパラダイムを提起して、社会科学の広範な分野での大きな国際的論争を惹(ひ)き起こした。再度の渡米後執筆した大著『リオリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー』Reorient : Global Economy in the Asian Age(1998)では、近代世界システムの起源を16世紀の西ヨーロッパに求めるウォーラーステインの「世界システム論」を含むこれまでの歴史理論を、アジア史を無視したヨーロッパ中心主義史観だと批判するなど、歴史認識上の新たな問題提起を行った。
[本多健吉]
『大橋正治他訳『世界資本主義と低開発――収奪の《中枢―衛星》構造』(1976・柘植書房)』▽『西川潤訳『世界資本主義とラテンアメリカ――ルンペン・ブルジョワジーとルンペン的発展』(1978・岩波書店)』▽『工藤章訳『世界経済危機の構造』(1982・TBSブリタニカ)』▽『山下範久訳『リオリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー』(2000・藤原書店)』
ソ連の物理学者。数学教授の息子としてレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)に生まれる。モスクワ大学のバビロフSergei I. Vavilov(1891―1951)のもとで学び、1930年卒業。翌1931年よりソ連の国立光学研究所の上級科学研究員、1934年にソ連科学アカデミー(現、ロシア科学アカデミー)のレーベデフ物理学研究所の研究員、1941年より原子核研究室の責任者、1957年より同時に原子核連合研究所の主任を兼任した。彼の最初の研究は、光ルミネセンスと光化学であった。1934年以来、原子核反応の研究に転じ、γ(ガンマ)線による対生成(pair creation)およびγ線の測定と応用、中性子、核分裂の実験的研究をした。理論研究としてバビロフ‐チェレンコフ効果の研究を行い、その業績により、1958年、タム、チェレンコフとともにノーベル物理学賞を受賞した。
[佐藤 忠]
フランスの作曲家、オルガン奏者。フランス語圏のべルギー人の父、ドイツ人の母をもつ。生地リエージュ(ベルギー)の音楽院に学び、9歳でソルフェージュ、11歳でピアノの各科を卒業、13歳ごろからベルギー各地でピアノ演奏会を行い、自作も発表した。1835年パリに移り、37年パリ音楽院に入学、ピアノ、オルガン、作曲などを学ぶ。42年父は息子を演奏家として活躍させようと考え、パリ音楽院からは退学を余儀なくされた。しかし、演奏家としては成功せず、父子間の関係も破綻(はたん)した。以後、教会オルガン奏者、教育者として生計をたてる一方、作曲活動にも力を注ぐようになった。58年、パリの聖クロティルド教会オルガン奏者に就任、カバイエ・コル製作の優れた大オルガンを使った即興演奏やオルガン音楽の作曲によってしだいに知られるようになる。71年には、フランスの器楽曲創作を推進しようとサン・サーンスらにより設立された国民音楽協会に協力、翌72年パリ音楽院オルガン科教授に迎えられる。70年代の後半にワーグナーの影響を受けた管弦楽曲などを作曲したのち、80年ごろから充実した独自の形式とスタイルによる作品を次々に発表、そのなかにはピアノ曲『前奏曲・コラールとフーガ』(1884)、ピアノと管弦楽のための『交響的変奏曲』(1885)、バイオリン・ソナタ(1886)、交響曲ニ短調(1886~88)、オルガン曲『三つのコラール』(1890)など、彼の代表的傑作が含まれていたが、当時はほとんどの作品が不評で、真価が認められたのは彼の死後であった。
フランクは、オペラと演奏家の表面的な名人芸が人気を得た19世紀後半のフランスの音楽界で、それらの流行に追随するのをもっとも明確に拒んだ作曲家であった。そして、バッハをはじめとするドイツ音楽の厳密な論理的構成に比肩する形式を探究し、全曲が一つのモチーフの多彩な変化によって有機的に構築されるという独自の形式、すなわち循環形式を確立した。晩年の名作の大半がこの形式によって作曲されている。また、18世紀後半以後沈滞していたフランス・オルガン音楽の復興に努めた。彼の交響的なスケールと色彩感、充実度を備えたオルガン曲は、フランス・ロマン派オルガン音楽の出発点となるものである。フランクは教育者としても優れ、次代のフランス作曲界を担う逸材を、それぞれの個性をだいじにしつつ教育し、世に送り出してもいる。
[美山良夫]
『E・ビュアンゾ著、田辺保訳『フランク』(1971・音楽之友社)』
アメリカの写真家。スイスのチューリヒ生まれ。ファッション写真家を志し1947年に渡米、著名なアート・ディレクターのアレクセイ・ブロードビッチAlexey Brodovitch(1898―1971)の後見を受けて女性向けファッション誌『ハーパーズ・バザー』Haper's BAZAARなどの仕事を始める。しかし希望を託した新天地アメリカの現実は厳しく、さまざまな人間模様を直視するうちにファッション写真に限界を感じ、ドキュメンタリー写真の手法で人間の運命や人生の意味を問う写真家へと転身する。1955年と1956年にグッゲンハイム奨学金を受けて、全米を取材旅行し刊行した写真集『アメリカ人』The Americans(1958年パリ、1959年ニューヨークで刊行)は、従来は公正さや客観性が重視されたドキュメンタリー写真の世界に、私的な洞察力の表明という新たな次元を開き、現代芸術たる写真表現の可能性を確立した。1959年以降は個人映画も製作し、1960年代より現代芸術の諸分野に幅広い影響を及ぼす。寡作なため1980年代にはその活動がみえにくかったが、1990年代には再評価の機運が世界的に高まり、1998年ワシントンのナショナル・ギャラリーを皮切りに大規模な回顧展が世界各地で開催された。
[平木 収]
『The Americans(1959, Grove Press, New York)』
ドイツの医学者。近代公衆衛生学の建設者とされる。ラインラント・プファルツの小村ロータルベンに生まれ、1766年ハイデルベルク大学を卒業。以後、開業して臨床経験を積み、宮廷医などもしながら著述を行った。1779年、『完全な医事警察の体系』System einer vollständigen medizinischen Polizeiの第1巻を刊行、最終の第6巻は1817年に発刊され、その補巻3巻が1822、1825、1827年にそれぞれ刊行された。その内容は、結婚・妊娠・出産から児童福祉、衣食住と環境衛生、人口問題や病院、性病など、公衆衛生に関する広範囲な問題を扱っており、人々の健康は公的な機関によって維持されるという思想を、豊かな知識と実践経験に基づいて展開している。この著作によって名声を得た彼は、ゲッティンゲン(1784)、パビーア(1786)、ウィーン(1795)の大学教授を歴任、1804年にはロシア皇帝侍医に任ぜられた。
[大鳥蘭三郎]
アメリカの古典学者、ローマ史家。1919年よりジョンズ・ホプキンズ大学教授。とくに経済史の分野で大きな業績をあげた。おもな著書として『ローマの帝国主義』(1919)、『共和政期ローマの生活と文学』(1930)、『ローマ経済史』(1929)があるが、とくに彼が編纂(へんさん)した『古代ローマ経済概観』全五巻(1933~40)は、ローマの経済史に関する主要な史料を編集したうえに、その英訳と解説を付しており、この分野の研究にとってもっとも基本的な文献の一つとなっている。
[坂口 明]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカの物理学者。ドイツのハンブルクの生れ。ハイデルベルク大学で化学を学ぶが,1902年ベルリン大学に移って物理学に転ずる。最初,E.G.ワールブルクの下で気体放電の研究を行ったが,まもなくイオンの可動性についての研究に進み,遅い電子と不活性気体原子との衝突を調べ,その過程が弾性衝突であることを見いだした。また13年以降,G.L.ヘルツと共同で電子衝突の研究を行い,14年電子が4.9eV以上の運動エネルギーをもつときにのみ水銀原子にそのエネルギーを与えることができ,そのエネルギーを吸収した水銀原子が2537Åの共鳴線を放出することを見いだした(フランク=ヘルツの実験)。この研究は前年に発表されたボーアの量子論的な原子構造理論に実験的基礎を与えるものとなり,ヘルツとともに25年ノーベル物理学賞を受けた。1917年から21年までカイザー・ウィルヘルム物理化学研究所助教授,その後12年間,ゲッティンゲン大学実験物理学主任としてM.ボルンとともに量子物理学の発展に貢献し多くの研究者を養成したが,33年ナチスの台頭に抗して職を辞し,アメリカに渡り,38年からシカゴ大学の物理化学の教授となった。第2次世界大戦中は,シカゴ大学冶金学研究所で原爆開発に携わったが,原爆投下に関しては慎重を期すべきであるという科学者たちの意見書(〈フランク報告〉)を政府に提出している。
執筆者:日野川 静枝
ドイツの医学者。近代公衆衛生学の創始者の一人。ドイツのロータルベンに生まれた。フランスで哲学を学んだ後,1766年にハイデルベルク大学で医師試験に合格し,ロートリンゲンのビッチやドイツのバーデンで臨床経験を積んだ。この時期に,妻を産褥(さんじよく)熱で,子どもを痘瘡(とうそう)で亡くしたことも一因となり,公衆衛生に関する百科全書的著作に取り組む決意を固めた。バーデン・バーデンとラシュタットで宮廷医を経験しつつ著述をすすめ,79年に《医事行政大系》第1巻を刊行した(全6巻は1817年に完結)。彼のいう医事行政medizinische Polizei(直訳すれば医事警察だが,内容上は行政の意味と考えられる)とは,法律によって裏づけられ公的機関によって執行される,公衆と個人とを対象にした衛生施策をさす。この著作によって学界における名声を得た後,ゲッティンゲン大学,パビア大学,ウィーン大学などで内科学教授を歴任し,とくにウィーンにおいては,オーストリア皇帝ヨーゼフ2世によりロンバルディア州医務局長を兼任させられ,大規模な舞台での衛生行政に携わった。大学教授を辞めてからも,ロシア皇帝の侍医としてペテルブルグへ赴き,さらにはナポレオン1世からの招きを受けたが辞退した。フランクは公衆衛生学者として記憶されているが,その仕事は臨床医としての実践に裏づけされたものである。
執筆者:日野 秀逸
ベルギー生れのフランスの作曲家,オルガン奏者,教育者。息子をピアニストにすることを夢見た父親の計画に従ってリエージュの音楽院,次いでパリ音楽院で学んだ。しかし彼は父親の期待に反して作曲に関心を寄せたため,1842年音楽院を退学させられ,演奏活動にはいったが成功しなかった。その後専制的な父親のもとを離れた彼は,生徒を教え,教会のオルガン奏者を務めながら作曲に専心した。1858年パリのサント・クロティルド教会のオルガン奏者となり,オルガニストとしての評価がしだいに高まる。1872年パリ音楽院のオルガン科教授に任命され,彼を慕って多くの弟子が集まった。作曲活動は50歳代にはいって急に活発になり,円熟した傑作を次々と生み出した。とくに晩年の《バイオリン・ソナタ》(1886)や《交響曲ニ短調》(1888)をはじめとする器楽作品では,厳格な論理性と深い精神性をもつ彼独自の作風の確立が認められる。しかし,これらの傑作も,劇音楽中心の当時のフランス音楽界にあっては,ほとんど理解されなかった。作品は上述のほか,《3声のミサ曲》(1860),オラトリオ《贖罪》(1872),《ピアノ五重奏曲》(1879),《弦楽四重奏曲》(1889),オルガン曲,歌曲,交響詩などがある。
執筆者:寺田 由美子
アメリカの写真家。スイスのチューリヒに生まれ,ジュネーブ,バーゼルなどの商業写真家の下で写真の勉強をする。1947年ニューヨークに渡り《ハーパーズ・バザー》でファッション写真の仕事をする。その後南アメリカやスペイン,イギリスを旅行しながら写真を撮るが,52年再びニューヨークに戻り,55年外国人としてはじめてグッゲンハイム財団奨学金を受けた。それをもとに約2年間アメリカ中を自動車でまわり写真を撮り,写真集《アメリカ人》(1958)を出版した。その中に収められているアメリカの姿は,エネルギーと栄光に満ちたものではなく,病み疲れたアメリカのなまの姿であった。それは対象を冷酷につきはなし一瞥(いちべつ)を加えるといったまなざしであるが,実はそこには対象に対する根底的な愛情なしには見えてこない真実の姿とでもいうべきものが感じられる。その後,フランクは写真の世界から離れ,《わたしのヒナギクを摘め》(1959),《救命艇地球号》(1969)などの個人映画の制作に没頭するが,それらの多くの作品も評価の高いものである。
執筆者:金子 隆一
アメリカの法律家でリアリズム法学の代表的論客の一人。1912年シカゴ大学卒業後長く弁護士として活躍した。リアリストの多くと同じく,ニューディール政策の支持者であり,みずからも証券取引委員会(SEC)の委員長として同政策の推進に当たった。41年以後は第2巡回控訴裁判所判事の地位にあった。
フロイトの精神分析学の成果を法学に採り入れた《法と現代精神》(1935)やゲシュタルト心理学の影響が見られる《裁かれる裁判所》(1949)等の著者としても著名で,裁判過程の不確実性を強調する点において他のリアリストと共通するが,フランクの場合は,判決の構成要素とされる法規範と事実のうち,とりわけ後者に不確実性の由来を求める点に特徴を見出すことができ,みずからの立場を事実懐疑論fact scepticismとして,ルーウェリン等の規範懐疑論rule scepticismと区別した。
執筆者:古賀 正義
いわゆる《アンネの日記》で知られる少女。ユダヤ系実業家の娘としてドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれ,1933年アムステルダムに移住する。ドイツ占領下のアムステルダムでユダヤ人の強制移送を逃れるため,42年夏から家族とともに民家の屋根裏に隠れ住む。44年8月逮捕され45年3月ベルゲン・ベルゼン収容所で病死した。隠れ家での生活をつづった日記は,46年父親の手で刊行され,ナチスによるユダヤ人迫害に対する比類のない告発として全世界に知られるにいたった。
執筆者:下村 由一
宗教改革期のドイツにおける代表的な心霊主義者。初めルター主義者だったが,あらゆる既成教会における内なる霊の疎外現象に気づき,無党派的心霊主義者となり,文筆をもってそれを批判し続けた。彼の理念は,あらゆる外的なものを捨て去り,不可視なる神の言葉によってのみ統治される見えざる霊の教会であった。正統派に迫害されたが,彼の思想は,オランダに受け継がれ,宗教的寛容を培った。著書に《歴史聖書》(1531),《背理》(1534),《ゲルマニア》(1539)などがある。
執筆者:倉塚 平
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…やがて民族大移動期に展開する東ゲルマン諸部族のあの活発かつ遠距離への迅速な移動の可能性は,一つにはこうした歴史的背景があったせいである。逆にいうならば,その歴史的環境からみて,ゲルマンの故地からきわめて漸次かつ長期にわたって南西方へ移動した西ゲルマン諸族(フランクFranken,ザクセンSaxen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなど)には,ローマ文明との融合現象があり,北ゲルマン諸族(デーネンDänen,スウェーデンSchweden,ノルウェーNorwegerなど)には,古いゲルマン的伝統を保持する可能性が強かったということになる。民族大移動【増田 四郎】。…
…しかしセルジューク朝が異教徒の処遇について,イスラム法のジンミー保護の規定を著しく逸脱した政策をとった事実は認められない。一般に当時のイスラム教徒は十字軍の真の目的を理解できず,ヨーロッパから来住したキリスト教徒の武装集団を,十字軍ではなく,単にフランク人Ifranj,Firanjと呼ぶのが慣例であった。ザンギー朝のヌール・アッディーンはスンナ派擁護の政策に基づいてイスラム世界の統一を図り,異教徒に対するジハードを宣言して十字軍に対する最初の反撃を開始した。…
…中世ヨーロッパにおいてフランク族(フランケン)が建国した王国。486‐987年。…
…また中世ドイツの歴史的地域名。ゲルマン人の一部族としてのフランケン(フランク族。ラテン語ではフランキFranciで〈自由な人〉〈勇敢な人〉の意)はライン川とウェーザー川の中間地域のゲルマン諸族(カマウィ,ブルクテリなど)の呼称として3世紀中ごろから使用された。…
…その一つは,移動前,ゲルマニアの東部にいた東ゲルマン諸族,次はその西部にいた西ゲルマン諸族,そしていま一つは北方スカンジナビア半島やユトランド半島にいた北ゲルマン諸族である。東ゲルマンに属する部族としては,東ゴート,西ゴート,バンダルWandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobardenなどが数えられ,西ゲルマンでは,フランクFranken,ザクセンSachsen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなどが,また北ゲルマンでは,デーンDänen,スウェーデンSchweden(スベアSvear),ノルウェーNorwegerなどが挙げられる。このうち北ゲルマン諸族は,前2者よりやや遅れ,8世紀から11世紀にかけ,ノルマン人の名でイングランド,アイルランド,ノルマンディー,アイスランドならびに東方遠くキエフ・ロシアにまで移動し,それぞれの地に建国したため,通常これを第2の民族移動と称する。…
… ねじ山のうち,おねじではもっとも外側,めねじではもっとも内側にある部分を山の頂といい,逆におねじではもっとも内側,めねじではもっとも外側にある部分を谷底という。また山の頂と谷底を連絡する面(軸線を含んだ断面形では一般に直線に規定されている)をフランクfrankといい,隣り合う二つのフランクのなす角をねじ山の角度という(図3)。 今まで円筒の表面状のつる巻線に沿ってねじ山をもつねじを考えてきたが,円筒のかわりに円錐表面を用いたものもあり,これをテーパーねじという。…
…メンデルスゾーンの《バイオリン協奏曲》にはダーフィトFerdinand David(1810‐73)が協力し,J.ヨアヒムのためには,シューマン,ブルッフ,ブラームス,ドボルジャークなどが優れた協奏曲を書いている。高度の名人芸を優れた音楽性に結びつけようとした19世紀後半のバイオリン曲には,同時代の名演奏家P.deサラサーテにささげられたE.ラロの《スペイン協奏曲》(1873)やサン・サーンスの《バイオリン協奏曲第3番》(1880),またソナタとしては,ブラームスの3曲(1879,86,88),ベルギーの名手E.A.イザイエにささげられたC.フランクの傑作(1886),ノルウェーの抒情性に富んだE.グリーグの第3番(1887)などがあり,今日の演奏会の重要な曲目を形成している。 調性を離れた革新的な作曲語法の探究という20世紀音楽のおもな潮流は,バイオリンの旋律的性格とは異質な音響世界の構築へと向かった。…
…
[中世]
4~8世紀,キリストの教会の一分枝であるガリア教会は,独自の典礼と聖歌を実践していた。資料が乏しいためその実体は不詳だが,フランク国王ピピンが,政治的理由と広域にわたっている臣下を一つの精神的な共同体に包み入れる目的とで,754年ローマ教会の典礼と聖歌(グレゴリオ聖歌)を用いることに踏み切ったのち,後者にガリア聖歌ほかの地方的な聖歌は吸収されていったようである。ただし今日のグレゴリオ聖歌の曲目には,8~9世紀ガリア地方で形成されたものが多いと考えられている。…
※「フランク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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