八坂神社(読み)ヤサカジンジャ

デジタル大辞泉 「八坂神社」の意味・読み・例文・類語

やさか‐じんじゃ【八坂神社】

京都市東山区祇園ぎおん町にある神社。旧官幣大社。祭神は素戔嗚尊すさのおのみこと奇稲田姫命くしなだひめのみこと八柱御子神やはしらのみこがみ。創建は貞観年間(859~877)というが諸説ある。全国にある八坂神社の総本社。祇園祭白朮おけらは有名。旧称、祇園天神・祇園社・牛頭ごず天王社。俗称、祇園さん。

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精選版 日本国語大辞典 「八坂神社」の意味・読み・例文・類語

やさか‐じんじゃ【八坂神社】

  1. 京都市東山区祇園町北側にある神社。旧官幣大社。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・稲田比売命(いなだひめのみこと)ほか。斉明天皇二年(六五六)の創祀で天智天皇六年(六六七)に社殿を創建したものとも、貞観一八年(八七六)円如が創建したものとも伝えられる。古くから祇園社、祇園天神、牛頭(ごず)天王と呼ばれていたが、明治元年(一八六八)現名に改称。七月に行なわれる祇園祭、大晦日から元旦にかけての白朮(おけら)祭は名高い。全国約三千の八坂神社・八坂社・祇園社・牛頭天王社の宗社。祇園さん。

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日本歴史地名大系 「八坂神社」の解説

八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]東山区祇園町北側

四条通の東端に位置し、背後は円山まるやま公園。東大路ひがしおおじ通に面する西側に朱塗の西楼門があるが、正門は南の下河原しもかわら通に開かれた南楼門で、本殿も南面する。境内には本殿・拝殿を中心に多くの摂社・末社がある。旧官幣大社。平安時代には二十二社の一つで、近代以前は祇園感神ぎおんかんじん院、また祇園社と称し、明治維新に伴う神仏分離後、現社名となる。祭神は素戔嗚すさのお(旧牛頭天王)

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創〕

創祀時期については古くから諸説がある。創立年代を最も古くとるのは近世末成立の「感神院牛頭天王考」で、天智天皇五年(六六六)一〇月、任那国加良人の乙相庵が高麗国の進調大使として来朝、八坂郷に牛頭天王の神祠を建てたとする。また祇園社家建内家に伝わる「八坂郷鎮座大神之記」は斉明天皇二年(六五六)八月、朝鮮半島より来朝した調進使伊利之使主が新羅国牛頭山に鎮座する須佐之雄尊の御魂をもたらして祀り、天智天皇六年に社号を感神院と定めたとする。乙相庵らの来朝は「日本書紀」にあるが創祀の記述はない。次に古い説をとるのは鎌倉時代末成立の「祇園社家条々記録」で、「当社草創の根元」に「当社草創根元者、貞観十八年、南都円如上人始建立之、是最初本願主也、別記云、貞観十八年、南都円如建立堂宇、奉置薬師千手等像、則今年夏六月十四日、天神東山之麓、祇園林(ママ)御坐」とあり、貞観一八年(八七六)に南都の円如が東山山麓の祇園林に天神(天つ神)が垂迹したとして一堂を建立、薬師如来を祀ったのを草創とする。

室町時代後期の「二十二社註式」は「牛頭天皇、初垂跡於播磨明石浦、移広峰、其後移北白河東光寺、其後人皇五十七代陽成院、元慶年中移感神院」とし、牛頭天皇は明石あかし(現兵庫県明石市)より広峯ひろみね(現同県姫路市)東光とうこう(現京都市左京区)を経て、元慶年中(八七七―八八五)現社地に移ったとする。播磨の広峯社はのちに祇園社造営料所とされ、末社の扱いを受けた神社であるが、その関係から後年になって祇園本社を名乗り、吉田神道がこの説を室町末から近世にかけて広く流布させた。日記類に「祇園」社の名がみえる早い例は「貞信公記」延喜二〇年(九二〇)閏六月二三日条である。「為咳病、可幣帛・走馬祇園之状、令真祇(貞救カ)、又令(玄鑒)上人立送(道カ)」とあり、藤原忠平が祇園に幣帛・走馬を奉っているので、このときすでに「祇園社」はなんらかのかたちで存在したと思われる。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]山口市大字上竪小路

上竪かみたて小路東側の築山館跡地にあり、祭神は素盞嗚尊・奇稲田姫命・手名槌命・足名槌命。祇園ぎおん社ともいう。旧県社。

社伝に応安二年(一三六九)大内弘世が京都感神かんしん(現京都市東山区の八坂神社)を勧請したという。最初の鎮座地は不明であるが、長禄三年(一四五九)大内教弘の時、上宇野令水の上かみうのりようみずのうえ(香積寺門前という)に移した。その後永正一六年(一五一九)冬、大内義興が高嶺こうのみね大神宮(現山口大神宮)の創建にあたり、八坂神社も高嶺大神宮の地に移し、翌一七年社殿を新築した(御鎮座伝記)

八坂神社の祭礼は山口祇園会とも称し、京都の祇園会を移したものとして知られたが、延徳四年(一四九二)六月の大内家壁書に「於築山築地之上祇園会其外自然之見物(被)加制止畢」とあり、すでにその頃には大がかりな祭礼であったものと思われる。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]朝日町天王 堂前

天王てんのう集落の西方、蛇谷じやだに山に鎮座する。祭神素盞嗚すさのお尊。旧郷社。近世までは応神おうじん寺、応神天王、祇園天王宮などとよばれた。草創は不詳だが、伝承では神功皇后が三韓出兵の帰途、天下安泰を祈願して当地に神祠を創建し、牛頭天王を祀ったのに始まるという。牛頭天皇御宝殿御造営記写(八坂神社文書)には、天応元年(七八一)・弘仁一三年(八二二)・寛和二年(九八六)・大治五年(一一三〇)・嘉応元年(一一六九)・応安五年(一三七二)の造営が記される。神宮寺を応神寺といい、金剛院・円山院・応撞院・円禅坊・宝威坊・大勝院の末寺があり、応神寺の七坊と称され(丹生郡誌)、のち福蓮寺・宗相寺・天仁寺・宝泉寺・光顕寺・福万寺も建立された(朝日町史)。飛鳥井氏は代々当地一帯を含む田中たなか郷の領主であったと伝えるが、飛鳥井雅縁(宋雅)が、応永三四年(一四二七)越前へ旅した時の紀行文「宋雅道すがらの記」に「御社」とみえるのは当社といわれる(越前国名蹟考)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]上越市西本町四丁目

祭神は素盞嗚尊・建御名方命・大山咋命で、武神、商売繁昌の神として信仰され、素盞嗚尊と八人の王子を祀ることから八王子はちおうじと通称される。社伝などによると古くは素盞嗚を祀る牛頭天王、建御名方を祀る諏訪社、大山咋を祀る日吉山王の各々独立した社であったが、元禄二年(一六八九)これを一殿に合して諏訪神社としたという(一説には慶長年中ともいう)。ただし一社となってからも除地は各々別に認められていて、天保九年(一八三八)の朱印地寺社書上帳(上越市立高田図書館蔵)には、諏訪大明神領高三石八斗余・日吉山王権現領高三石一斗余・牛頭天王領高二石四斗とあり、文政一一年(一八二八)に奉行所へ差出した祇園会関係の数通の書留(福永家文書)にも「三社神主」「三社之神主」とあって諏訪社の称は使われていない。近代に入り三柱みはしら神社を名乗り、昭和三年(一九二八)八坂神社と改称。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]奈良市柳生町

旧村社。祭神素盞嗚すさのお命。享保一七年(一七三二)の柳生村四宮古老旧伝(日本地名学研究所蔵)によると、柳生やぎゆう村は春日大社の神戸四箇郷の一で、当社は春日大社第四殿姫御神の影向地であるため四之宮とも称し、祭神は牛頭天王・八幡・春日大明神とある。また天文一六年(一五四七)柳生因幡守が四宮造営米として五斗五升を寄進した書付が載る。末社に山口やまぐち明神・天神などがあり、明暦元年(一六五五)旗本柳生宗冬(のち柳生藩主)が天神を勧請するため当社社地の紫雲しうん山を検分、地を掘ると一石一字の石や硯が多数出土し、この地に社壇を建立したという。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]瀬高町上庄

旧薩摩街道(現国道四四三号)の南側にある。祭神は素盞嗚尊・応神天皇・武内宿禰・和田住尊。旧県社。かつては祇園社と称した。社伝によれば、安元二年(一一七六)に宇都宮弥三郎の嫡男小太郎藤原中次・重国の兄弟が勧請したという。天正七年(一五七九)七月二四日、統康は武運長久を願い祇園宮別当に対し久富のうち五反を寄進している(「統康願文」八坂神社文書)。文禄五年(一五九六)三月八日の寺社領高覚書(立花家文書)によれば祇園領は瀬高上庄せたかかみのしよう村内三〇石。同年四月、立花親成(宗茂)により瀬高上庄のうち五〇石を寄進され、万雑・諸点役を免除された(「立花親成社領寄進状」八坂神社文書)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]鹿児島市清水町

稲荷いなり川河口左岸、祇園洲ぎおんのす公園の一角に鎮座する旧郷社。祇園社と称された。祭神は素盞嗚尊・御妃奇稲田比売命と八王子神(五男三女神)。合計一〇柱を祀るので社地付近を十柱とはしら(戸柱)ともいう。京都祇園社の末社。勧請年代は不明であるが、天正(一五七三―九二)頃には勧請されていたともみられる(三国名勝図会)。第二次世界大戦後一時市内平之ひらの町に移されていたが、近年旧地に移された。古来、悪厄退散・商工業繁盛の神としてとくに商工業者の信仰が厚い。社前にとび石と称する奇石があった(三国名勝図会)。祭日は六月一五日(現在七月二五日)で、祇園祭(オギオンサア)とよばれる。鹿児島日誌(鹿児島市史)には「今日は祇園会とて鹿児島は勿論外城にても楼車を造り、諸乃雑曲を奏しなとする事なり。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]長門市仙崎

仙崎せんざきの最北部に、対岸の青海おうみ島を望んで鎮座。祇園ぎおん社と称したのを明治二年(一八六九)に現社名に改称。祭神は奇稲田姫命・素盞嗚尊・蛇毒気神。旧県社。

社伝によれば、初め青海島の南端王子おうじ山の頂上に鎮座し、後に本土瀬戸崎の州先に移転したという。康正二年(一四五六)の縁起の写に霊亀二年(七一六)の鎮座とするが、確かでない。

延宝六年(一六七八)の棟札に、民家集密の地にあった社殿を藩費をもって現地に移転改築したことが記される。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]水口町嶬峨

集落の南、宮縄手みやなわてに鎮座する。旧村社。主祭神は素盞嗚すさのお命。古くより儀俄大宮ぎかおおみやを称し、江戸時代は牛頭天王大明神と号した。「延喜式」神名帳の甲賀こうか郡八座のうち「川枯神社」にあてる説がある。社伝によれば、仁徳天皇六九年の勧請、大宝元年(七〇一)の創建といい、天平二一年(七四九)橘諸兄が千光せんこう寺創立のとき社殿を新たに造営したという。承平二年(九三二)現在地に移り、この頃より儀俄大宮と称したといい、儀俄荘の総社として祀られたものと思われる。別当寺は千光寺であったとみられる。現社殿は永享一一年(一四三九)の建造とされ、規模の大きい一間社流造・檜皮葺の本殿は国指定重要文化財


八坂神社
やさかじんじや

鋳物師いもじ町に鎮座。昭和七年(一九三二)現小倉北区城内じようないに移転。もとは祇園社で、明治三年(一八七〇)八坂神社と改称(企救郡誌)。旧県社。祭神は北殿に須佐之男命・櫛名田比売命および天照大御神の子五柱、宗像三女神。南殿に須佐之男命・大名牟遅命・少名比古那命・櫛名田比売命および天照大御神の子、宗像三女神を祀る。元和三年(一六一七)二月小倉城主細川忠興が鋳物師町突当りに社殿を建立し、城西の不動ふどう(愛宕山)にあった祇園社を南殿に、古船場ふるせんばの三本松にあった祇園社を北殿に移して一つの祇園社としたという。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]高鍋町高鍋町 南町

旧城下下横しもよこ町の北側、榎・楠の木の茂った所にある。明治二年(一八六九)までは祇園社と称したので町名も祇園ぎおん町とよばれ、現在も「祇園さ」と親しまれている。祭神は素盞嗚尊・櫛稲田姫命。旧郷社。高鍋藩初代藩主秋月種長が慶長一二年(一六〇七)道具どうぐ小路南部に建立、同年現在地に移した。六月一四日の祭礼には能を行わせ、その前日には大市が立った(「見聞年代記」高鍋町歴史総合資料館蔵)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]鳥栖市田代新町

しん町の西端、長崎街道に南面して鎮座。素盞嗚尊・稲田姫命を祭神とする。永禄六年(一五六三)筑後国小郡おごおり(現福岡県小郡市)よりの勧請。旧村社。境内社に三輪神社・稲荷神社・天満神社がある。

勧請当時祇園ぎおん社とよばれ田代たじろ町の鎮守であったと思われるが、代官所の膝元となったため、「当時之水旱或ハ流行之疾病ニ付は、三郷宗社・田代町祇園社祈祷社参有之候得共、是迄年頭社参之式無之候ニ付、当年よりハ気候和順為祈念、三郷宗社・田代町祇園社社参仕、御初穂及御祝、賄方より用意有之」(田代代官所の寛政二年正月七日「日記抜書」)と、三郷惣社(基肄郡上郷荒穂あらほ宮・同下郷老松おいまつ宮・養父郡四阿屋あずまや宮)並みの扱いを受けている。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]臼杵市臼杵 祇園南

臼杵城三の丸のあった祇園洲ぎおんのすに鎮座し、祇園社とも称する。明治維新の際に八坂神社に改称したという(臼杵小鑑)。祭神は健速須佐之男命・大国主命・櫛名田比売命・事代主神。旧県社。天延三年(九七五)粟田道兼が陸奥国つるみね(現福島県いわき市)に勧請したのが始まりという。寛治五年(一〇九一)奥州に起きた戦乱を避けて同地を離れ、承徳元年(一〇九七)祇園洲に着岸、仁王座におうざ神木原かみのきばるに鎮座した。しかし天正一四年(一五八六)大友宗麟により社殿などを破壊されたため、日向国飫肥おび(現宮崎県日南市)に移転、文禄二年(一五九三)旧社地に戻り翌年太田一吉が現社地に社殿を創建したという(神社明細帳)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]紫波町東長岡 天王

東長岡ひがしながおかの西部、県道花巻―紫波線東側の丘陵上に位置。祭神は素盞雄命で旧郷社。伝承によれば延暦年中(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が勧請したとされるが、貞享(一六八四―八八)の頃野火のため類焼して古器や社記を失い不詳(紫波郡誌)。古くは牛頭天王あるいは朝日森あさひもり神社とよばれた(奥々風土記)。斯波氏や盛岡藩主代々の尊崇が厚く、社領の寄進や社殿の改築が行われた。寛永九年(一六三二)南部重直黒印状(社蔵文書)に「長岡天王」とみえ、禰宜手前持地二七石の年貢のうち毎年一五駄を給与されることになった。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]廿日市町宮内 砂原

宮内みやうち村上組の氏神社で、明治以前は天王社とよばれた。明治七年(一八七四)甲斐守かいのかみ社を合祀した。祭神は、文化三年(一八〇六)の「佐伯郡廿ケ村郷邑記」は牛頭天王、文政二年(一八一九)の「国郡志下調書出帳」は素戔嗚尊・神武天皇と記す。旧村社。

文禄三年(一五九四)一〇月二八日付の厳島社内宮外宮年中祭田付立(野坂文書)に、祭田五反小が「天王前」にあることを記し、その注に「ミそのをニ在之」とみえる。天王はおそらく八坂社のことと思われるから当時は宮内村御衣尾みそのおにあったことが知られる。同年一二月二一日付の佐西郡宮内天王社領打渡坪付(厳島野坂文書)には、「宮内天(王)新御寄進領」として、朝鮮在陣中の毛利元就の子穂田元清の武運を祈念して「田壱段六十歩、分米壱石五升」の社領が寄進されている。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]宍喰町久保

久保くぼに鎮座。旧郷社。主祭神は健速須佐之男命・櫛稲田姫命・八柱御子神とされる。創建年代は未詳ながら、脚咋(宍喰)の始祖の鷲住王を祀っていたという。建永元年(一二〇六)から建暦三年(一二一三)の間に真福しんぷく寺の重慶によって大般若経の奉納が続けられており(大日寺蔵大般若経奥書)、鎌倉期には寺基を構えていたと考えられる。大永六年(一五二六)の再建棟札に「海部郡宍咋庄祇園殿」と記される。「阿波志」はこの修造は藤原持定・本木信久によるとし、三番叟・貌頭・桂男の仮面を所蔵すると記す。天文一七年(一五四八)に修造がなされたという。慶長元年(一五九六)すずヶ峰の麓のおかノ山から現在地に移されたとされる。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]尾島町世良田

長楽ちようらく寺の北方約五〇〇メートル、清泉せいせん寺の東隣に鎮座し、祭神は素盞嗚命。祇園殿、牛頭天王ともよばれた市神。夏越の祭として旧暦六月一四日・一五日連夜に行われた祇園祭は、かつて世良田祇園会とよばれ関東三大祭の一つに数えられていた。弘化二年(一八四五)版の上毛新田世良田略絵図によると、祭の夜には世良田八ヵ町と女塚おなづかさかい三ッ木みつぎ(現佐波郡境町)の近郷三村から計一一台の屋台車が出て、下町しもちように集められ、八坂神社境内まで一列に引いていくという神事が行われていた。同図によると境内には本地薬師、別当神宮寺(明治初年普門寺へ合併)、神楽殿、釣鐘などがあり、なめら堀が貫通している。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]長崎市鍛冶屋町

古くは祇園宮延寿えんじゆ院とも、宝樹山延寿院現応げんおう寺とも号し、明治初年神仏分離に伴い仏寺号を廃した。旧村社。祭神は健速進雄大神・奇稲田姫大神・八幡大神・大山咋神。寛永三年(一六二六)天台宗本山派修験の高覚院盛宥が京都祇園社の分霊を勧請して八幡大菩薩・山王権現とともに今博多いまはかた町に祀ったことに始まると伝える(長崎市史)。当時は祇園宮延寿院と号し、寛永一五年現在地に移転。寛文七年(一六六七)江戸寛永寺末となり、寺号を宝樹山延寿院現応寺と改めた。明和三年(一七六六)火災にあって焼失、安永二年(一七七三)再建された(長崎市史)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]岩井市岩井 天王

鵠戸くぐいど沼のヤトを見下ろす台地に鎮座。祭神須佐之男命。旧村社。例祭七月一五日。境内社に八幡香取神社・愛宕あたご神社・浅間せんげん神社・道祖神などがある。由来などによると延長二年(九二四)六月七日創立。古くは牛頭天王ごずてんのうと称し、元治元年(一八六四)改称。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)に「一天王社地、年貢地高一石六斗四升、高声寺支配甚太夫、毎年六月二四ニ祇薗祭礼致来ル」とある。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]池田市神田四丁目

猪名いな川左岸、早苗さなえの森に鎮座。祭神は素盞嗚尊。旧村社。古くは牛頭天王社、素盞嗚尊神社ともよばれ、また鎮座地にちなみ早苗の森とも俗称される。神宮寺であった常福じようふく寺蔵の慶長一六年(一六一一)の奥書のある清光山常福寺縁起によると天元元年(九七八)の創建。社伝によると、天正七年(一五七九)織田信長の伊丹いたみ(現兵庫県伊丹市)攻撃の兵火にかかり焼失、それ以前は不明という。慶長一五年、池田備後守光重がその嫡子の成人を祝って当社を再建、現存の本殿はその時に建立されたもので、一間社流造、檜皮葺の桃山時代の様式を伝え、国指定重要文化財。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]安芸市川北 天王

集落北寄りの山麓、字天王てんのうに鎮座。祭神は建速素盞嗚尊。江戸時代は祇園牛頭ぎおんごず天王社と称した。旧郷社。社記に創建は寛文一二年(一六七二)というが明らかでない。安政四年(一八五七)の川北村風土取縮指出牒(川北村役場文書)に、境内四〇代、社領四反余、別当は清水せいすい寺とある。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]藤里町矢坂字冷水岱

矢坂やさかの北端にあり、祭神は素盞雄命。旧村社。

京都の八坂神社から分霊したと伝え、古くは素盞雄堂ともいった。嘉吉三年(一四四三)高岩たかいわ山に拠った豪族額田重親に境内で殺された猿子夫婦を祀ったことから、申子神社ともいい、山王堂と称したこともあった(夏井家文書)。明治四三年(一九一〇)に八坂神社と改称。

祭日は六月一五日で、祭日の前日から仕事を休み、戸ごとに灯籠をともして老若男女とも参詣し、当日は神輿が村内を巡回する。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]弘前市銅屋町

銅屋どうや町の西側、最勝さいしよう院境内にあり、祭神は素戔嗚命、櫛稲田姫命、草野姫命。旧村社。

藩政時代は現在の最勝院の寺域にあった大円だいえん(現南津軽郡大鰐町)の境内に、祇園牛頭天王として祀られていた。勧請年月は不詳で、元禄年間(一六八八―一七〇四)鍛冶かじ町の氏子が現在地へ再建したという(新撰陸奥国誌)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]諫早市八坂町

諫早市街地に鎮座。古くは祇園宮と称した。旧村社。祭神は建速須佐之男命・櫛稲田姫命。天正一五年(一五八七)諫早に入った龍造寺家晴が諫早神社の境内に小祀を建てたのが始まりと伝える。のち旧しも町に移転するが、同所は天台宗祇園寺(明治初年廃寺)の地であったらしい。のち洪水により現在地に移るが、延宝九年(一六八一)銘の石鳥居があることからこれ以前の移転であろう。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]土浦市真鍋五丁目

台地上にあって大木が茂る。祭神は素盞嗚命。旧郷社。天正元年(一五七三)五月四日の宮本山城由緒書(前沢家文書)に「大形村天王賞罰甚厳重にて(中略)川流に仕り候所流れ来箱に其旨書付御座候を漁士両客弥次兵衛、嘉左衛門拾い揚げ候」とあり、霞ヶ浦で神輿を拾い上げ、応永一八年(一四一一)真鍋台まなべだいに祀ったという。

祭礼は毎年六月一二日・一三日の両日に行われ、前沢家文書によれば「嘉左衛門所仮屋建テ弥次兵衛処昼休」となった。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]白石町大字福田字秀津

ひで村の中心部、秀津ひでつの中央にある。白石八坂神社(白石のぎおんさん)といわれる。

寛永一八年(一六四一)佐賀藩主鍋島勝茂が秀津に別邸として屋形を構えた際、鬼門鎮護のため須古すこ村にあった八坂神社を遷宮して祭祀したといわれる。旧郷社で、祭神を須佐之男命・稲田姫命・菅原道真とする。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]八戸市湊町 館鼻

新井田にいだ川の河口右岸の高台に位置する。大祐だいすけ神社の北東。祭神は素盞雄尊。明治初年まで牛頭天王ごずてんのう堂と称したが、廃仏毀釈により現社名に改めた。宝暦五年(一七五五)の堂林寺門間数改書上帳(常泉院文書)の「湊村恵美須堂」の項に「末社午頭天王堂」とあり、正徳五年(一七一五)の建立とされる。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]総和町磯部 天王南

磯部いそべ集落北西端、西に釈迦しやか沼のヤト田を望む台地に鎮座。祭神素盞嗚命。石鳥居献額に「牛頭天王」とあり、石鳥居に「文政丁亥年十一月吉日 下総国葛飾郡磯部村」と刻む。その側に幹回り三メートルの神木杉がある。寛政四年(一七九二)の村鑑書上帳(永塚家文書)には天王てんのう宮とあり、別当は真浄しんじよう院。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]守谷町守谷

長竜ちようりゆう寺南方に鎮座。樹齢数百年の銀杏および欅数株、その他の老樹十数本が参道・社殿の周囲に繁茂している。祭神素盞嗚尊。旧村社。大同元年(八〇六)の記銘のある神鏡があるが、年次にいささか疑問がある。初めは大字高野こうや本宿ほんじゆくに鎮座していたが、慶長三年(一五九八)守谷城主土岐(菅沼)定政が現在地に社殿を造営したと伝えられる。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]麻生町麻生

麻生の西北部、字天王崎てんのうざき霞ヶ浦湖畔にある。祭神は須佐之男命。旧村社。創立年代は不詳であるが、寛文八年(一六六八)藩主新庄氏は、当社を藩領二四村の総鎮守とした。棟札に「御領内総鎮守、願主、行方領主新庄主殿守、奉遷宮牛頭天王、奉行岡山孫左衛門、寛文八年申六月十四日、神主小貫大宮丞」とある。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]藤枝市滝沢

滝沢たきさわ川とたき川が合流する丘陵の先端部分にある。祭神は須佐之男命。旧村社。享禄年間(一五二八―三二)の創建と伝える。寛永四年(一六二七)の棟札に「大実天王牛頭天王六所大明神二所大権現大日如来」、寛文一二年(一六七二)の棟札には「本社者牛頭天王真体者薬師如来」「一社者正八幡大菩薩真体者阿弥陀仏、又一社者浅間大菩薩真体大日如来」と記され、古くは天王社・宇佐八幡・浅間宮の三社が祀られていた。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]鳥栖市本町一丁目

瓜生野うりゆうの町北入口に鎮座。町の氏神で旧村社。縁起によれば、正安元年(一二九九)山城国東山八坂の祇園宮(現京都市の八坂神社)よりの勧請、素盞嗚尊・稲田媛命・大己貴命を祀る。もと古野ふるの(現古野町)にあったが近世の初め長崎街道が付替えになった時、現在地に遷座。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]笠間市笠間

おお町の中ほどにあり、祭神は須佐之男命。旧村社。江戸時代には牛頭天王と称した。もとは下野国小貫おぬき(現栃木県芳賀郡茂木町)に祀られていたが、建長期(一二四九―五六)石井いしい村に移され、城下整備のため石井村の住民を大町に移した際に大町へ遷宮された。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]栗橋町北二丁目

栗橋関所跡の石碑の西方にあり、祭神は素戔嗚尊。江戸時代は牛頭天王社とよばれ、栗橋宿の鎮守であった。日光道中分間延絵図では、古利根川の堤上野道の下に天王とみえる。船主の信仰を集め、天王様と親しまれたという。慶長年間(一五九六―一六一五)利根川の洪水の時に元栗橋(現茨城県五霞村)の天王の神輿が流れ着いたので当地に勧請したと伝える。このとき鯉魚と泥亀が神輿を囲んでいたとされ、祭礼の行われる六月には鯉・亀を食さなかったという(風土記稿)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]奈良市大慈山町

大慈山だいじせん町の集落東方にある。祭神は素盞嗚すさのお命。旧村社。牛頭天王社ともいった。かつて当地に大慈山寺と称する寺があったと伝え(大和志)、社前に小字てら垣内かいとも残り、同寺の鎮守であったとも考えられる。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]桃山町段

だん集落の東端にある妙法みようほう壇の壇上に鎮座する。「伝教大師行状記」によると、最澄が当地の八幡宮に詣でた折、「永世、疾病を絶つため祇園天王を祀つるべし」との神告を受け、大同二年(八〇七)に牛頭天王を勧請し鎮守としたのが同社の起りという。また「続風土記」には「正徳二年大水の時小祠流れ来て此村に留まる、土人取りて村中宮屋敷といふ処安にす、享保二年壇上に移といふ」とある。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]右京区嵯峨越畑天慶

越畑こしはた村の南山麓にあり、祭神は素盞嗚命。社伝によれば創立は弘安元年(一二七八)で、藤原頼経の末臣、福田護光が文永八年(一二七一)に当村に土着し、牛頭天王を信仰していたことから、当村に勧請し、祇園社の末社となったことに始まる。元徳二年(一三三〇)には祇園社参会者を村の開闢住人四六人と定め、その四六人が毎年の祭礼をとり行うことにしたという(「村由来記」村瀬芳巳家文書)


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]酒々井町酒々井

上宿かみじゆくにあり、江戸時代の成田道に沿う。酒々井しゆすいの天王様と通称され、もとは牛頭天王社であった。祭神武速須佐之男命。享保一三年(一七二八)の酒々井村寺社等書上帳(鶴岡家文書)によれば、酒々井村の真言宗勝蔵しようぞう院が管理していた。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]花巻市上似内

上似内の南部に位置する。祭神は須佐男命・大国主命。旧村社。かつては新山堂と称して聖観音を祀る当国三十三所観音の第五番札所であった。しかし明治初年の廃仏毀釈の折に同観音が危機にさらされたため、北東の我生がしよう集落に古くから鎮座していた八坂神社を当地に遷座したという(花巻市史)。現宮司である新山家の先祖は代々羽黒派修験三明院を名乗り、新山堂別当を勤めていた。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]吾北村清水上分 土居

えだ川東岸に鎮座する。古くは滝宮牛頭天王と称し、祭神は速素盞嗚尊。旧村社。「高知県神社明細帳」に「明徳三申年当村ノ内土居分井守ノナロニ小社ヲ建立ス、勧請主ハ井上治部云々、天文十三辰年両渓ノ間ニ社地ヲ定メ社殿再興、遷社天正五丁丑年当村ノ惣鎮守ト奉祀、寛永十四丑年藩ノ営繕ニ属スルノ内定ナリシニ、当村作事ニ出願シ同年社殿ヲ再建スト云」とある。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]龍ケ崎市上町

かみ町の西にある。祭神は須佐之男命。旧村社。天正五年(一五七七)貝原塚かいはらづかから遷宮と伝える。社殿は享保年間(一七一六―三六)の再建。

七月二五―二七日の祇園祭の最終日に橦舞神事が行われる。町通りに作られた仮宮の前に高さ九間の柱を立て、たっつけ袴に雨蛙の面をかぶった男子が柱の上に登り、四方に悪魔払いの矢を放った後、柱の上で各種の演技をする。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]唐津市湊町

湊西分みなとにしぶんの集落の西端にあり、主祭神は素盞嗚尊。村人は「厄神さん」と称する。旧村社。

創建の年代は不明。口伝によれば、神功皇后が朝鮮出兵の時この社に祈願して出船したが、海上の霧が濃くて船が進まず、柏木を焚いて灰をまくと霧は消えたという。旧暦一月一五日の厄神さん祭には、厄年男が木綿・麻の古着を縫い合せ、刺子をして丈夫にしたドンザを着て参拝者に灰を振りまく灰振祭がある。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]名川町下名久井 鍛冶長根

下名久井しもなくい館跡の東に位置する。祭神は素盞嗚命で、旧村社。元文二年(一七三七)の草創というが(新撰陸奥国誌)、由来は不詳。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]古川市稲葉 金五輪

国道四号から東に約二〇〇メートル、樹齢約五〇〇年の杉の巨木に覆われて建つ。現祭神は素盞嗚尊。旧郷社。近世には祇園社とよばれ、天慶三年(九四〇)俵藤太秀郷が建立したという(稲葉村安永風土記)。伊達政宗以来代々の藩主の崇敬厚く、金や神領の寄付があり、志田郡総鎮守であった。


八坂神社
やさかじんじや

[現在地名]取手市東一丁目

水戸街道南に鎮座。旧村社。祭神素盞嗚男命。牛頭天王ごずてんのう社ともよばれ、寛永三年(一六二六)の創建で、寛文年間(一六六一―七三)に水戸街道が開通し、社殿が西南面から北面に変わったといわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八坂神社」の意味・わかりやすい解説

八坂神社
やさかじんじゃ

京都市東山区祇園(ぎおん)町に鎮座。主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)とされ、その妻神櫛稲田姫(くしなだひめ)尊と八柱御子神(やはしらのみこがみ)ほかを配祀(はいし)する。素戔嗚尊はインドの祇園精舎(しょうじゃ)の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と同体と考えられたところから、当社を祇園社と称していたが、1868年(明治1)に神仏分離政策により八坂神社と改称した。全国に3000社以上ある八坂神社(祇園社)または牛頭天王社の本社である。当社の創祀(そうし)について、社伝では、656年(斉明天皇2)に高麗(こま)(高句麗(こうくり))から来朝した伊利之使主(いりしおみ)が新羅(しらぎ)国の牛頭山に鎮座する素戔嗚尊を勧請(かんじょう)し、山城(やましろ)国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に奉斎したのがその始まりであるという。しかし貞観(じょうがん)年間(859~877)あるいは元慶(がんぎょう)年間(877~885)に創建されたとする史料も多い。当社はもと観慶(かんけい)寺あるいは祇園感神院などと称され、935年(承平5)に定額(じょうがく)寺に列し、また995年(長徳1)には二十一社にも列して、神社仏閣両者の性格を兼備していた。主祭神の素戔嗚尊あるいは牛頭天王は疫病退散の神とされ、平安時代に疫病が流行して社会不安が高まるとともに、いわゆる祇園信仰も盛行した。

 863年(貞観5)に疫病が流行したとき神泉苑(えん)で御霊会(ごりょうえ)を行い、また869年にも疫病が流行したので神泉苑で鉾(ほこ)66本を建てて御霊会を執行したが、これが祇園祭(まつり)の起源であるといわれている。しかし、勅会として恒例の祭祀となったのは970年(天禄1)以降である。この祭祀は中世に一時中絶したが、室町時代の1500年(明応9)には、山鉾などは京都の町衆より寄進せられて、祇園祭は復興した。以後、しだいに盛大となり、葵祭(あおいまつり)や時代祭とともに京都三大祭の一つと称されるようになった。この祭の中心は7月17日と24日の両日に分けて行われる山鉾巡行であるが、1966年(昭和41)より山鉾巡行は7月17日に合併されたため、24日には花傘巡行を行うようになっている(2014年に24日の山鉾巡行は復活した)。このほか元日の白朮祭(おけらまつり)や1月7日の若菜祭などの特殊な神事がある。当社には多くの文化財が伝来するが、国宝の本殿のほか、藤原国路(くにみち)作の太刀(たち)三振と豊後(ぶんご)国行平作の太刀一振は重要文化財である。1871年(明治4)官幣中社に列し、1915年(大正4)官幣大社に昇格した。

[熊谷保孝]


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改訂新版 世界大百科事典 「八坂神社」の意味・わかりやすい解説

八坂神社 (やさかじんじゃ)

京都市東山区祇園町北側(ぎおんまちきたがわ)に鎮座。旧官幣大社。現社名は1868年(明治1),神仏分離にさいして付されたもので,それ以前は祇園社,祇園感神院(かんしんいん)(感神院は別当寺)と称していた。こんにちでも市民のあいだでは〈祇園さん〉の呼称で親しまれている。八坂の称は当地一帯がもと山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に属していたことによる。祭神は素戔嗚(すさのお)命(もと牛頭天王(ごずてんのう))。草創の時期については確実でないが,《貞信公記(ていしんこうき)》の延喜20年(920)閏6月23日条に藤原忠平が〈咳病〉を除去すべく〈祇園〉に幣帛と走馬を奉納したとみえているので,すでに社の原型があり,信仰されていたことがわかる。しかし当時はまだ,八坂郷の鎮守としての位置をしめる程度であったと推察される。その後,御霊(ごりよう)信仰のひろまりにつれて,しだいに人々の信仰をあつめ,祭礼もさかんとなっていった。

 10世紀中ごろまでは,清水(きよみず)寺とともに,南都(奈良)の興福寺の末寺であったが,959年(天徳3),清水寺とのあいだに紛争を生じ,これが契機となって天台宗の延暦寺派に帰属,以後ながく南都と北嶺の確執・抗争の一因となった。996年(長徳2),臨時奉幣社に昇格。1070年(延久2)の大火いらいたびたび火災にみまわれたが,そのつど復興した。だが,応仁・文明の乱による罹災ばかりは,当時の社会情勢により容易に回復できず,正遷宮は1492年(明応1)まで待たねばならなかった。そののち社運の隆昌は豊臣秀吉によってもたらされ,彼は母の大政所(おおまんどころ)の病気平癒を願って1万石を寄進,ついで祇園大塔を造営して,当社の威風をたかめた。徳川幕府もまた堂舎の修造に力を入れるとともに朱印高140石を寄進し,境内所役を免除して,幕末にいたった。

 明治維新により,神仏分離のため坊舎は撤廃され,仏像等は他寺院に移管,また境内地も減少した。社殿は南面し,四条通の東端にたつ楼門は西門で,下河原通につうじる南楼門が正門である。7月14日から24日までの祇園祭の期間や,大晦日から元旦にかけての白朮(おけら)祭(おけらまいり)には参詣客でにぎわう。社蔵の古文化財も多く,ことに《祇園執行日記(ぎおんしゆぎようにつき)》をはじめとする古文書・古記録類は貴重な史料として知られる。
祇園信仰 →つるめそ
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百科事典マイペディア 「八坂神社」の意味・わかりやすい解説

八坂神社【やさかじんじゃ】

京都市東山区祇園(ぎおん)に鎮座。祇園社,祇園天神,牛頭(ごず)天王などと通称。旧官幣大社。祭神は素戔嗚(すさのお)尊,奇稲田姫(くしなだひめ)命,八柱御子(やはしらのみこ)神。社伝では天智天皇6年の鎮祭。天王信仰の中心地で,全国3千余の八坂神社の総本社。平安時代から朝野の尊信厚く,972年以来御霊会(ごりょうえ)(御霊信仰)は勅会となった。鎌倉〜室町時代には武家の信仰も盛んで足利氏は産土(うぶすな)神として尊崇した。また全盛時代には多くの神人(じにん)を支配し,しばしば強訴などの暴挙に出た。現在の本殿は1654年建立のもので,平安時代のおもかげをよくのこし,神座の左右に参籠(さんろう)のための部屋をもつ複雑な構造。祇園造と呼ばれる。例祭は6月15日。7月の祇園会(祇園祭)山鉾(やまぼこ)巡行は有名。ほかに白朮(おけら)祭(1月1日未明)がある。《祇園執行日記》などの古文書・古記録がある。
→関連項目絵馬おけら参り祇園(京都)祇園執行日記祇園信仰京都[市]馬借一揆東山[区]広峰神社【ほ】【き】内伝円山公園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八坂神社」の意味・わかりやすい解説

八坂神社
やさかじんじゃ

京都府京都市東山区祇園町に鎮座する元官幣大社(→官幣社)。祇園天神,祇園社ともいう。祭神はスサノオノミコト(素戔嗚尊),イナダヒメノミコト,ヤハシラミコノカミ。例祭 6月15日。ほかに祇園祭(7月1~31日),白朮祭1月1日),若菜祭(1月7日)などが知られる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「八坂神社」の解説

八坂神社
やさかじんじゃ

京都市東山区にある神社で,祭神は初め祇園天神・牛頭天王 (ごずてんのう) ,現在は素戔嗚尊 (すさのおのみこと) 他2神
旧称祇園社で1871年現神社名に改称。876年,円如が播磨から勧請したのに始まる。その年の夏に流行した疫病の平癒を祈って御霊会を行ったが,これが祇園会(祇園祭)のおこりで,970年以来年中行事となる。この祭りは,江戸の神田祭,大坂の天神祭とともに「天下三大祭」と称され,中世以来,町衆→町人の祭りとなって伝統を受け継いでいる。豪華な山鉾 (やまぼこ) 巡幸が特色。また中世,この社を本所とする諸座が活躍し,特に綿座は有名であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「八坂神社」の解説

八坂神社
やさかじんじゃ

祇園社・祇園感神院とも。京都市東山区祇園町北側に鎮座。二十二社下社。旧官幣大社。祭神は素盞嗚(すさのお)尊。876年(貞観18)神託により牛頭(ごず)天王が感神院に祭られ,のちに社殿が建立されたと伝える。仏教的性格も強く,祇園社の名もインドの祇園精舎に由来。興福寺の別院ともされ,のちには日吉社の末社として洛中の僧兵・神人(じにん)の拠点となった。疫神・疫気を鎮めるとされ,970年(天禄元)に行った祈祷は御霊会(ごりょうえ)としての祇園祭の起源となった。例祭は旧暦6月14日,現在は7月17日・24日,本殿・鳥居・蛭子(えびす)社社殿は重文。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「八坂神社」の解説

八坂神社〔京都府〕

京都府京都市東山区にある神社。主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。ほかに櫛稲田姫尊(くしなだひめのみこと)と八柱御子神(やはしらのみこがみ)などを祀る。古くは祇園社と称したが、明治の神仏分離令により改称。全国の八坂神社、牛頭天王社の総本社。祇園祭で知られ、地元では「祇園さん」とも呼ばれる。本殿、楼門などは国の重要文化財。

八坂神社〔千葉県〕

千葉県香取市にある神社。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。毎年7月に行われる祇園祭は秋に行われる諏訪神社の祭礼とあわせて「佐原の大祭」と呼ばれ、山車行事は国の重要無形民俗文化財に指定、かつユネスコ世界無形文化遺産に登録されている。

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事典 日本の地域遺産 「八坂神社」の解説

八坂神社

(岩手県遠野市青笹町糠前17-55)
遠野遺産」指定の地域遺産。
約600年前、京都より染色工・機織工の職人が入植した際、京都・八坂神社の神霊を勧請して祀ったことに始まるといわれる

八坂神社

(京都府京都市東山区祇園町北側625)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

八坂神社

(東京都練馬区大泉町1-44)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「八坂神社」の解説

八坂神社

(滋賀県甲賀市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の八坂神社の言及

【桃井直詮】より

…直詮の出身地は越前国西田中(現,福井県丹生郡朝日町)で,この地は江戸中期まで院内(いんない)とも呼ばれていたところから,武将の子孫とするのは仮託で,実は低い身分の出身とする説があり,敗残の将が芸能民に身を寄せたとも考えられるから,系図などの伝承を大筋で認めてよいとする説などもある。この地には八坂神社があって,14世紀後期の記録に同社の舞人として幸若の名が見え,直詮も同社所属の舞人集団の出身と推定される。没年は1470年(文明2)とも80年とも伝え,享年は78,66,61歳とも伝える。…

【御火焼き】より

…燃えあがったところへ神酒をかけて,爆竹を3度ならして終わった。現行の御火焼き神事としては,八坂神社(11月1日),伏見稲荷(11月8日),白峰神宮(11月21日)などの諸社で行われている。とくに稲荷の御火焼き神事は,鍛冶職人などを中心に鞴(ふいご)祭と称して全国的に行われている。…

【祇園祭】より

…京都の祇園社(現,東山区八坂神社)および同社を勧請した地方の祭礼。京都の祇園祭は山鉾の巡行を中心とした盛大な祭礼として日本三大祭の一つに数えられ,また現存する山鉾29基すべてが国の重要民俗資料に指定されている。…

【牛頭天王】より

…京都祇園社(八坂神社)の祭神で,本来は祇園精舎の守護神とされるが,日本では行疫神として流布しており,各種の教説がある。たとえば《備後国風土記》では,牛頭天王を武塔神とも呼び素戔嗚(すさのお)尊と同一視し,有名な蘇民将来(そみんしようらい)の説話を伝え,《伊呂波字類抄》では,天竺の北方九相国の王で,沙渇羅竜王の娘と結婚して八王子を生み,8万4654の眷属神をもつとする。…

【つるめそ】より

…鎌倉時代から江戸時代にかけて,京都の清水坂,建仁寺のあたりに集住した〈賤民〉の一種。本来の名称は〈犬神人(いぬじにん∥いぬじんにん)〉といい,祇園社(ぎおんしや)(八坂神社)に隷属して,最下級の神人(じにん)として境内地・墓所などの清掃や祇園御霊会(ごりようえ)(祇園祭)の神幸の警護,神幸路の清めなどを主要な任務にするとともに,とくに中世には比叡山延暦寺の末社であった祇園社の軍事的・警察的組織をなして縦横に活躍した。また,京都での葬礼に関する権益を保持して布施を得たことも知られている。…

【天王信仰】より

…高天原から追放された素戔嗚尊が,海を渡り新羅についた後,牛頭方という土地に住みつき,牛頭天王と名のるようになったという縁起(えんぎ)もある。 各地に天王信仰は展開しているが,中心は,播磨(兵庫県)の広峰神社,京都の八坂神社,尾張(愛知県)の津島神社にあり,とくに京都の八坂神社が,御霊(ごりよう)信仰とともに発展した。これはまず,八坂に天神がまつられた後,その地に祇園精舎になぞらえた観慶寺(俗称,祇園寺)が建立され,守護神である牛頭天王も勧請された。…

【広峰神社】より

…速風武雄神,並びに従五位下を授く〉とあるのが,広峰社の史料上の初見とされる。平安時代に御霊信仰と疫神祭が盛んになる中で,スサノオと習合した牛頭天王が広峰山にまつられたが,これが京都の八坂に移されて祇園社(八坂神社)となったといわれる。《二十二社註式》によると,祇園社の牛頭天王は初め播磨国明石浦に跡を垂れて広峰に移り,その後北白川東光寺に移り,元慶年中(877‐885)に祇園感神院に移ったという。…

※「八坂神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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