沖縄(県)(読み)おきなわ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

沖縄(県)
おきなわ

日本最西端、有人島域としては日本最南端に位置する県で、「琉球(りゅうきゅう)」の別称もある。アジア大陸の東縁を九州の南から台湾島の手前の与那国(よなぐに)島まで、弓状にカーブを描いて伸びる1200キロメートルに及ぶ南西諸島(琉球列島)のほぼ南半分を占める。沖縄島をはじめとする島嶼(とうしょ)だけで形成される日本本土にない唯一の県である。面積2281.12平方キロメートル。
 県域は、北端の硫黄鳥島(いおうとりしま)から南端の波照間島(はてるまじま)まで南北約400キロメートル、東端の北大東島(きただいとうじま)から西端の与那国島まで東西約1000キロメートル、北緯24度2分~27度53分、東経122度55分~131度20分に位置する。試みに、県庁所在地の那覇市(なはし)を東京に置いて県域を本州に重ねると、北端の硫黄鳥島は福島県に、西端の与那国島は香川県に位置する広大な県域となる。鹿児島県の南端与論(よろん)島と沖縄島は北緯27度線を挟んで約28キロメートルであり、与那国島と台湾島の間は約100キロメートル、晴れた日に毎年数度は肉眼で台湾島を遠望できる。県域の東側に太平洋があり、西側に東シナ海を挟んで中国大陸が存在する。北側は琉球列島の北半分の島々を経て日本本土に連なり、南西は台湾から東南アジアにつながっている。地理的位置を象徴するものとして、1月中旬から5月下旬にかけて、南十字星の上部を観察することができる点にも注目したい。
 琉球列島の島々は行政上南西諸島の名で総称され、198島から構成される。北半分の38島が薩南(さつなん)諸島(鹿児島県)、残り160島が琉球諸島(沖縄県)である。琉球列島は古く「南島(なんとう)」と称され、そのなかの喜界島(きかいじま)以南の島々は歴史的に「琉球」とよばれてきた。
 琉球諸島は沖縄島を主島とする沖縄諸島(116島)、宮古(みやこ)島を主島とする宮古列島、石垣島を主島とする八重山列島(やえやまれっとう)に区分され、宮古・八重山両列島を総称して先島諸島(さきしましょとう)ともいう。沖縄島が最大で県総面積の53%を占め、ついで西表島(いりおもてじま)、石垣島、宮古島、久米島(くめじま)の順となり、前記5島で県総面積の85%に達し、残りはいずれも狭小な島々ばかりである。有人島は45島で残りは無人島であるが、人口の8割は沖縄島に集中し、宮古・石垣両島を除くと残りはいずれも過疎性の強い離島となっている。2018年(平成30)4月現在11市5郡11町19村からなる。2015年の国勢調査では人口は143万3566で、このうち約77%は市部に集中している。沖縄島は北部(別名国頭(くにがみ)・山原(やんばる))、中部(中頭(なかがみ))、南部(島尻(しまじり))に3大別され、那覇市は南部の北端に位置する。
 沖縄はかつて琉球ともよばれ、日本文化の一環に属する文化をもつ人々が居住し歴史を形成してきた。15世紀初期から約500年間「琉球王国」とよばれる独自の国家が存在したが、1879年(明治12)に「沖縄県」が設置され、日本社会の一員に編成された。だが、第二次世界大戦後に日本社会から分離されアメリカ合衆国の直接統治下に置かれた。しかし、住民の日本復帰の要求が強く、1972年(昭和47)5月15日に日本復帰が実現して今日に至っている。地理、自然、歴史、文化、社会のあらゆる面でユニークな特徴をもつ県の一つである。[目崎茂和・高良倉吉]

琉球の呼称

「琉球」の呼称は中国人による命名で『明実録』洪武(こうぶ)5年(1372)の記事が初見。以後、この名称は喜界島以南から与那国島までの島嶼地域をさすことばとして定着し、同時にまた、琉球王国の成立(1429)から1879年(明治12)の琉球処分により王国が廃止されるまでの約450年間、沖縄の公称として用いられた。一方、「沖縄」はすでに8世紀の文献『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』に「阿児奈波(おきなわ)」の名で登場し、古謡集『おもろさうし』にも「おきなわ」と明記されているが、「沖縄」と明記したのは新井白石(あらいはくせき)の『南島志(なんとうし)』(1719)が最初である。ただし、沖縄はもともとは沖縄島とその周辺離島をさす地域名でしかなく、琉球処分の結果「沖縄県」が設置されるに及んで初めて、現在の県域全体を包括する公称になったものである。ところが、第二次世界大戦後のアメリカ統治下において政治的目的により「琉球」の公称が復活し用いられた。しかし1972年の日本復帰により「沖縄県」がふたたび復活したのに伴い、沖縄という公称もまた復活するに及んだ。琉球、沖縄ともにその語源はいまのところ明らかではない。[高良倉吉]

自然


地形
大東・尖閣(せんかく)両諸島を除くと、沖縄県の島々はすべて、琉球海溝と沖縄舟状海盆(トラフ)とに挟まれる海底山脈状の高まりに形成された弧状列島(島弧)である。その一般的特徴である火山帯の存在は、九州から吐(とから)列島を経て、県最北端の硫黄鳥島まで明瞭(めいりょう)に認められる。火山島列の太平洋側には屋久(やく)島、奄美(あまみ)大島、沖縄島など非火山島列が並び、二重弧の性格を有する。そのため火山島列を内弧、非火山島列を外弧ともいう。しかし先島諸島にはこの関係はない。そのほか、地震や地殻構造など典型的な島弧の特徴があり、地殻変動の顕著な島々となっている。
 琉球列島の成立は約500万年前の新生代新第三紀鮮新世といわれ、それより古い基盤の地質構造は西南日本外帯と類似する帯状構造をもつが、やはり先島諸島ではそれは不明瞭となる。すなわち外弧では大陸側から古生代岩塊を含む中生代、中生代、新生代古第三紀と地質が順に新しくなるように、帯状の配列構造を示す。
 島の地形は、この島弧の特徴や地質の帯状構造と密接に関連している。巨視的に島の地形をみると、山地のある「高島(こうとう)」と台地状の低平な「低島(ていとう)」の2種に大別できる。内弧の火山島はもちろん高島に属し、古生代~新生代古第三紀の地質は大半が山地をなす高島となる。一方、新第三紀~第四紀の新しい地質の島は台地をなして低島となる。高島は久米島、石垣島、西表(いりおもて)島などであり、低島は宮古列島、黒島、波照間(はてるま)島などである。なお沖縄島だけは、北部の高島タイプと中南部の低島タイプが残波(ざんぱ)岬―石川の地帯で接合したものである。高島・低島の分類は薩南諸島にも有効で、南西諸島全体に適用できる。
 また、高島と低島の2大別は地形分類であると同時に、島の地学上の判別にもきわめて有用な分類である。地質的に高島は火山あるいは古第三紀より古い地層から構成されるのに対し、低島は新第三紀の島尻(しまじり)層群の泥岩類と、それを覆う第四紀の琉球石灰岩からなる。この地質的な差異のため高島の土壌は酸性の赤黄色土(国頭マージ(くにがみまーじ)とよぶ)となるのに対し、低島では一般に中性から弱アルカリ性の石灰岩土壌(島尻マージとよぶ)と泥岩未熟土壌(ジャーガルとよぶ)とが主体をなす。地形、地質の相違は水文条件にも影響を与え、高島は河川を中心とするのに対し、低島は地下水主体の水文環境である。高島と低島との地学上の差異は、当然のことながら植物、動物あるいは土地利用、集落立地などにも現れる。[目崎茂和]
気候
一般に、亜熱帯気候とよばれる。だが、気候的には西日本と同じ温帯多雨帯(ケッペンの気候区分Cfa)に属す。長い夏と四季の不明確な点で西日本とは異なるが、その他は気候学的によく類似する。すなわち、本土より1か月早く始まる梅雨(つゆ)(沖縄で小満芒種(スーマンボースー)という)が6月下旬に明けると、小笠原(おがさわら)高気圧に覆われ、南風の高温多湿の夏が10月中旬まで4か月近く続く。その期間の安定した晴天は、毎年平均4個の台風の襲来で乱される。夏季の終了は、北東季節風の吹き出し(この風をミーニシとよぶ)とそれに伴うサシバの渡りで告げられ、梅雨期前までこの北東風が卓越する。この点では西南日本と同じモンスーン気候といえる。冬季はこの北東風のため曇天が多く、日照率は日本海側と同じ30~40%である。だが、1、2月でも最低気温が10℃以下になることはまれで、氷雪をみることはない。島によって若干異なるが、年平均気温は21~24℃、年降水量は1600~3000ミリメートルで、その47%は梅雨と台風によってもたらされる。しかし梅雨や台風期の降水は年の変動が大きいため、干魃(かんばつ)も少なくない。水の器としての小さい島が多いことも干害を助長する。
 気候上は西日本と類似するが、地形、地質や動植物には熱帯的要素が顕著に認められる。たとえば黒潮の北上と関係して、沖縄の島々はサンゴ礁の発達が良好である。大半は裾礁(きょしょう)タイプであるが、久米島や石垣―西表島間には堡礁(ほしょう)が存在する。また、河口には熱帯特有のマングローブ湿地(ヒルギの群生林)があり、とくに西表島の仲間川(なかまがわ)、浦内川(うらうちがわ)に顕著である。島の地形にも、日本本土にはない熱帯性の地形がある。その代表的なものが沖縄島の石灰岩地域に発達する円錐(えんすい)カルストや石灰岩堤の地形であり、これらは熱帯性カルストに分類される。また地質的には、第四紀のサンゴ礁に起源をもつ琉球石灰岩の広大な分布(県面積の約3割)も日本本土にない熱帯的な特徴である。このように地形、地質の面から沖縄の自然は、「島弧の島」「亜熱帯の島」という二重の性格をもつユニークな環境として位置づけられる。[目崎茂和]

生物相

沖縄島を中心とする南西諸島は、亜熱帯海洋性気候、地理的な位置、島々の成り立ちの地史など特色のある自然環境である。そのため、日本のほかの地域にはみられない特異な生物相を呈している。したがって、生物地理学的にも南西諸島の全体にわたって記述するのが都合がよく、ここでは「動物」についてはその方向で記述する。「植生」は、奄美(あまみ)諸島については「奄美諸島」の項目を参照のこと。[池原貞雄]
動物
南西諸島は、暖帯から熱帯性の動物が主体をなしている。すなわち、動物地理学的には東洋区系の生物が豊富な地域である。そして、東洋区系の生物の分布北限あるいは旧北区系の生物の分布南限が、それぞれこの地域内で区画されるものが多い。たとえば、鳥類などでは蜂須賀(はちすか)線(沖縄島と宮古島間)、哺乳(ほにゅう)類・爬虫(はちゅう)類・両生類などでは渡瀬(わたせ)線(屋久島(やくしま)・種子島(たねがしま)と奄美諸島との間)、昆虫類や高等植物の一部では三宅(みやけ)線(薩南諸島と九州南端との間)に、それぞれ境界があると提唱されている。
 固有種が多く、高等動物の固有種のなかには近隣地域の対応種に比べて、はるかに古い時代の生き残りとみなされるものが多いのも特色の一つである。たとえば沖縄産の甲虫類875種のうち298種が固有種であり、陸産貝類の70%以上が固有種で占められている。奄美諸島のアマミノクロウサギ、沖縄島のノグチゲラ、西表(いりおもて)島のイリオモテヤマネコなどが、古い時代の生き残りとみなされている。これらの古い種は、南西諸島がアジア大陸から海で隔離された古い時代から、島に取り残されて現在に至っていると考えられている。
 海を越えて伝播(でんぱ)できない動物たちに、亜種に分化したり変種に移行したものが多いことも特色である。たとえば、沖縄諸島産のオオコウモリは、オリイオオコウモリ(沖縄島)、ダイトウオオコウモリ(大東諸島)、ヤエヤマオオコウモリ(八重山(やえやま)列島)の三つの亜種に分化している。種の成立や亜種・変種への分化には、地理的な隔離が大きな要因となることはよく知られている。奄美諸島や沖縄諸島に亜種や変種が多いのは、生物が海で隔離された島々に、長年の間封じ込められてきたためであると考えられる。
 絶滅種や外来種が多いことも特色である。前者の例では、哺乳類のオキナワオオコウモリ、鳥類ではリュウキュウカラスバト、ダイトウハシボソウグイス、ダイトウミソサザイなどは、近年まったくみられなくなったことから、絶滅してしまったと考えられている。南西諸島は島の面積が比較的小さいので、島の自然環境の変化はある種の生物に致命的な影響を及ぼすのである。外来種でありながら沖縄で繁栄しているものでは、哺乳類のマングース、両生類のシロアゴガエル、淡水魚のティラピア、グッピー、陸産貝のアフリカマイマイなどがあげられる。昆虫類では、南方地域から人為的(意図的あるいは無意図的)に移入されたものや渡り昆虫などの侵入によって、この地方の昆虫相を複雑なものにしている。
 海の生物相は、熱帯海域の生物相ときわめて似ており、日本のほかの海域ではみられないほど、造礁サンゴを主体とする造礁生物の種類が豊富なことも特色である。サンゴ礁海域には熱帯系の多種多様な生物がみられ、沖縄地方の生物相の一大特色となっている。1970年代以降のオニヒトデの大量発生、1990年代以降の海水温上昇による白化現象など、サンゴ礁をめぐる環境の悪化が問題となっている。[池原貞雄]
植生
沖縄県の植生は、石灰岩と非石灰岩という母岩の相違によって大きく分けられる。非石灰岩上では大部分はスダジイの優占する常緑広葉樹林で占められ、沖縄島ではオキナワシキミ‐スダジイ群集にまとめられる。また石垣島、西表島にはオキナワウラジロガシ群集が、内陸の渓谷沿いの適潤地に発達している。一方、古生代の石灰岩上では、ナガミボチョウジ、リュウキュウガキなどの石灰岩特有の植物で特徴づけられるガジュマル‐クロヨナ群集などの植生がみられるが、自然林としては山地部やドリーネの窪地(くぼち)に残存するだけで、大部分は二次林である。また、ヤシ科植物のビロウ林やヤエヤマヤシ林(西表島星立(ほしだて))などは亜熱帯植生を特徴づけている。さらに海岸の急傾斜地のウバメガシ林やソテツ群落などもよく発達している。
 亜熱帯植生を代表するもう一つの植生にマングローブ(紅樹林)があり、各島の河口部や遠浅な湾部に分布している。メヒルギ、マヤプシギ、オヒルギ、ヤエヤマヒルギなどを主要な群落構成種としている。西表島の仲間川、沖縄島慶佐次(けさじ)湾などにまとまったマングローブ林がみられる。マングローブ林の背後の低湿地に広がるサガリバナ群集や、巨大な板根(ばんこん)を有するサキシマスオウノキの森林は特異である。
 海岸植生も本州から九州にかけての植生とはかなり異なる。海岸隆起サンゴ礁上には、波打ち際よりイソフサギ群落、イソマツ‐モクビャッコウ群集、モンパノキ‐クサトベラ群集の植生配分がみられる。砂丘上ではハマアズキ‐グンバイヒルガオ群集、クロイワザサ‐ハマゴウ群集、アダン群集の植生配分となっている。
 琉球諸島は古くから人々が住み着き、ほとんどが代償植生(人為的な植生)に覆われている。山地部はスダジイ萌芽(ほうが)林やリュウキュウマツ植林で覆われ、一部にススキ草原、リュウキュウチク群落がみられる。隆起サンゴ礁上の平坦(へいたん)地は草地(スズメノコビエ‐チガヤ群集)やパイナップルの耕作地(シマニシキソウ‐ハリビユ群集)と化している。[奥田重俊]

歴史


時代区分と特徴
歴史は大づかみに五つの時代に区分してとらえられている。〔1〕先史時代、〔2〕古琉球、〔3〕近世琉球、〔4〕近代沖縄、〔5〕戦後沖縄である。「先史時代」はいまから数万年前から紀元後12世紀ごろまで。続く「古琉球」は12世紀ごろから1609年(慶長14)の薩摩(さつま)島津氏による武力征服事件(島津侵入事件)までの約500年間。「近世琉球」は1609年から1879年(明治12)の明治政府による琉球王国の廃止=沖縄県の設置(琉球処分)までの270年間。「近代沖縄」は1879年から1945年(昭和20)の沖縄戦までの70年弱の期間。「戦後沖縄」は1945年からアメリカ統治時代の27年間を経て1972年(昭和47)5月15日の日本復帰以後今日まで、である。
 前記の時代区分に象徴されるように、沖縄の歴史は日本社会の他の地域に類例をみない独自の歩みをたどっていることがわかる。その基本的な特徴をあげると、3点に要約できる。
(1)日本文化を所有する人々が沖縄の島々に住み着いて創造した歴史であるが、やがて人々はしだいに独自の歴史的な歩みをたどるようになり、古琉球の時代にはついに日本社会の枠外で国家(琉球王国)を形成するほどの独自性を発揮したこと。
(2)そういう独自の歩みをたどった地域が、近世初頭の島津侵入事件、近代初頭の琉球処分という二つの事件を契機に段階的に日本社会の一員として編成されたこと。
(3)しかし沖縄戦の結果ふたたび日本社会の枠外に置かれてアメリカの直接統治を受けるようになり、そういう状況のなかで県民が主体的に日本社会への復帰を要求、やがて日本社会の一員に復帰して今日に至っていること。
 このように、沖縄のたどった歴史はきわめてユニークなものであり、沖縄のもつ地域的特質の主要な背景をなしている。以下、各時代順に歴史の推移を述べてみよう。[高良倉吉]
先史時代
歴史の起源は、現在確認されているところでは旧石器時代にまでさかのぼる。那覇市の山下町第一洞穴遺跡から出土した人骨(山下洞人)は3万2000年前、八重瀬(やえせ)町の港川(みなとがわ)遺跡から出土した人骨(港川人)は1万8000年前という古さを示している(いずれもカーボン測定法(炭素14法)による年代)。ただし、旧石器と断定しうるものはまだ確認されていない。当時の人々は島々に広く生息していたシカを狩り、その角(つの)、骨を加工して利器として用いる、いわゆる骨角器文化を所有していたことがわかっている。だが、調査、研究は始まったばかりで不明の点が多く、いかなる文化的系譜をもつものであるかもわかっていない。
 旧石器時代は約1万年前に終了したが、その後しばらくの間人類居住の痕跡(こんせき)を確認できない空白期が続き、やがて貝塚時代(新石器時代)と称される新しい時代が登場する。最新の研究によれば、読谷(よみたん)村の渡具知東原遺跡(とぐちあがりばるいせき)出土の爪形文(つめがたもん)土器にみられるように、貝塚時代は約7000年前、つまり縄文時代草創期にその起源をもち、文化内容としては九州地方の縄文文化と深い関連をもちながら展開したとみられている。九州地方とはその後も文化的接触が継続した模様だが、しかし、貝塚時代前期(縄文時代後期にほぼ相当)を代表する荻堂式土器(おぎどうしきどき)や伊波式土器(いはしきどき)以後は類似の土器が沖縄以外の地域からは出土せず、したがってこの時期から沖縄の先史文化もしだいに土着化・個性化を強めていったと考えられている。やがて貝塚時代後期には、沿岸の浅い礁湖(ラグーン)を舞台とする漁労に支えられた単位集団が海岸付近の低地に成立した。この間、北九州の弥生(やよい)文化の影響も一定程度は及んだが、社会的変化を促すほどの大きなインパクトは及ぼさなかったとみられている。
 貝塚時代は12世紀ごろには終了し、引き続いてグスク時代と称される新しい段階が登場する。グスク時代遺跡は炭化した米や麦、それに鉄製品を出土することから、すでに穀類農耕、鉄器使用の段階に入りつつあったことがわかる。また、須恵器(すえき)や陶磁器の出土にみるように、日本および中国の文化的影響がこの時代から顕著になり始めた状況も確認されている。グスク時代の終末をいつとみるかについては、研究者の間で諸説があり一定しないが、15世紀初期の琉球王国の成立あたりを下限とみたほうが妥当だという見解が提示されている。[高良倉吉]
古琉球
グスク時代は重要な転換期であった。農耕・鉄器文化の進展と外来文化のインパクトが及び始めたため、それまで緩やかに推移してきた先史社会を大きく変容させることになり、やがて按司(あんじ)と称される首長層の動きが各地で活発となり始めた。按司は自己の共同体・地域集団を率いて互いに抗争し、13世紀ごろにはグスクを築き始め、各地に小さな勢力圏を形成するようになったらしい。やがて、強大となった按司を主体とする広域的な勢力圏が出現し、14世紀に入ると沖縄島を中心に三山(さんざん)とよばれる小国家が鼎立(ていりつ)する形勢(三山時代)となった。沖縄島北部地方には今帰仁(なきじん)城を拠点とする山北(さんほく)(または北山(ほくざん))が、中部地方には浦添(うらそえ)城(のちに首里(しゅり)城)を拠点とする中山(ちゅうざん)が、南部地方には島尻大里(しまじりおおざと)城(南城市)を拠点とする山南(さんなん)(南山(なんざん))がそれぞれ登場した(山南の拠点は内紛の結果しばしば島添(しまそえ)大里城に移ったともいう)。
 1372年、中山王察度(さっと)は明(みん)の太祖洪武帝(こうぶてい)の招諭を受けて初めて入貢し、中国との間に密接な外交、交易関係を樹立した(以後この関係は琉球処分までの500年間続く)。これに対し山南・山北もまた同様な関係を樹立したので、三山の抗争は一段とエスカレートする状況となった。1406年、中山王武寧(ぶねい)は山南の一按司尚巴志(しょうはし)に敗れ、尚巴志が中山の覇権を手中にする。1416年、尚巴志は兵を率いて山北王攀安知(はんあち)を攻めこれを滅ぼした。1429年、彼は山南王他魯毎(たろまい)をも倒し、ここについに念願の統一王朝樹立に成功する。尚巴志の手で建設されたこの統一王朝を一般に第一尚氏(しょうし)王朝と称し、この王朝の出現を画期に琉球王国が名実ともに成立したことになる。だが、この王朝の支配はかならずしも安定したものではなく、按司層の勢力はなお各地に温存されたままであった。1453年には王位継承をめぐる内乱(志魯・布里の乱(しろふりのらん))が発生し、1458年には有力按司の反乱(護佐丸・阿麻和利の乱(ござまるあまわりのらん))も惹起(じゃっき)し、王朝の屋台骨は大きくぐらついた。そして1469年、有力者金丸(かなまる)はクーデターにより王権を奪い、翌年即位して尚円(しょうえん)と号し新しい王朝を始めた。これが第二尚氏王朝である。
 第二尚氏王朝は3代尚真(しょうしん)の治世期(在位1477~1526)に最盛期を迎える。国家行政機構を整備するとともに、位階制を制定し、また、各地に割拠する按司層を首里に集住させ、国王を頂点とする国家機構に編成した。さらにまた、隠然たる勢力をもつ神女(しんじょ)層を聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点とする組織に編成してそれを国王の配下に置き、その一方で地方、島嶼(とうしょ)に役人を置いて地域支配を強化した。こうして、北は奄美(あまみ)諸島から南は八重山(やえやま)列島に至る琉球弧の島々を版図とし、国王を頂点とする国家機構をもつ琉球王国が16世紀初期に確立したことになる。国王はティダ(太陽)あるいは世の主(よのぬし)と称されて、その統治拠点であった王都首里には王宮首里城をはじめとする幾多の建造物が建立され栄華を極めた。
 按司の抗争から尚真治世期に至る歴史は琉球王国の形成史と理解することができ、尚真治世期の転換を経た以後の歴史は、琉球王国が東アジアにおいて独自の国家としての展開をみせる時期と理解することができる。琉球王国の形成、展開史に相当する12世紀から16世紀までの時期を沖縄歴史では古琉球と称する。
 古琉球にはいま一つ次のような重要な動向があった。それは、三山の末期から第一尚氏・第二尚氏両王朝を通じて展開された対外交易である。中国(明(みん))との進貢貿易(朝貢貿易ともいう)を主軸に、北は日本、朝鮮、南はシャム、マラッカ、ジャワなど東南アジア諸国との間に活発な交易が繰り広げられている。対外交易は国家が主体に行う官営貿易である点に第一の特徴があった。交易品のなかには琉球産の品も含まれてはいたが、大半は異国産のものによって占められ、諸国の産物を巧みに組み合わせて取引する典型的な中継貿易であったことがわかる。これが第二の特徴であった。交易を中心とする諸国との交流が琉球文化の形成に大きな影響を与えたことはいうまでもなく、同時にまた王国発展の経済的基盤としても重要な意義をもった。東アジアの代表的な交易国家として琉球王国は発展したが、しかし、隆盛を誇ったこの対外交易も、ポルトガル勢力の進出、中国商人・日本商人の発展などにより16世紀中ごろから急速に衰退していった。[高良倉吉]
近世琉球
16世紀末期の日本における統一国家形成の動きは、琉球にもさまざまな波紋を投げかけた。やがて徳川幕府が成立すると、局面は一挙に変転した。かねてから琉球征服の野望を抱いていた薩摩(さつま)藩主島津家久(いえひさ)は徳川家康の承諾を得て、1609年(慶長14)春、兵3000を送り琉球を攻略した。当の琉球側には戦意がなく、若干の抵抗を示しただけで無条件降伏を余儀なくされた(島津侵入事件)。この事件を契機に琉球は幕藩体制の一環に編成されると同時に、島津氏によって管理される政治的地位に置かれることになった。しかし、王国体制や中国との外交関係はそのまま温存されるなど「異国」としての形式は存続した。こうした状態を「幕藩体制のなかの異国」と評する研究者もいる。
 近世琉球は、大づかみにいって三つの要点を中心に推移している。一つは、幕府・薩摩藩の規制下で幕藩体制的秩序をいかに国内において実施するかという問題、二つ目は伝統的な中国との関係をいかに安定的に維持していくかという問題、三つ目は以上の2点を前提に琉球社会をいかに振興していくかという問題である。この三つの要点を政策課題に掲げて登場した代表的な政治家が向象賢(しょうしょうけん)と蔡温(さいおん)であった。彼らの施策により琉球の近世体制はほぼ確立し、王国の直接的な統治主体である首里王府の機能も強化された。この施政の安定を背景に18世紀は琉球文化(沖縄文化)の一大高揚期を迎える。蔡鐸(さいたく)や鄭秉哲(ていへいてつ)らによる修史事業の展開、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)らによる組踊(くみおどり)の創作、識名盛命(しきなせいめい)・平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)らによる和文学の隆盛をはじめ、琉歌・三味線音楽・芸能あるいは美術・工芸、漢詩文・学問などの各分野に優れた人材を輩出し、琉球文化の花を開かせた。
 だが、薩摩、首里王府への重い貢租負担を課せられた民衆の疲弊化がしだいに進行し、18世紀後半になると行政単位である間切(まぎり)や村が貢租負担能力を失って倒産するという異常事態が頻発した。この傾向は19世紀に入るとますます深刻となり、王府財政も極度に逼迫(ひっぱく)するようになった。これに加えて、1816年(文化13)のイギリス軍艦アルセスト号、ライアラ号の来航を皮切りに異国船の来航が相次ぐようになり、1853年(嘉永6)にペリー艦隊は琉球側に強い態度で諸要求を突きつけ、翌1854年(安政1)には琉球側もペリーとの間に琉米修好条約の締結を余儀なくされている。内外の多難に対して、琉球内部でも対応策をめぐる路線争いが生じた。牧志・恩河事件(まきしおんがじけん)(1858~1859)で守旧派が勝利を収めたものの、有効な手だてを得ぬまま幕末・維新期の激動を迎えることになった。[高良倉吉]
近代沖縄
明治維新により日本は近代国家の歩みを開始したが、その際領土確定の問題が重要案件の一つとしてクローズアップしてきた。明治政府は1872年(明治5)から琉球王国を近代日本の版図に正式に編入する手だてを練り始めるが、その前に基本的に二つの障害が横たわっていた。一つは琉球側の統合反対の動きであり、他の一つは、伝統的な琉球との関係を盾に明治国家の琉球併合に反対する中国(清(しん))の存在であった。この両者の反対をしり目に1879年春、明治政府は軍隊、警察を投入して王宮首里城の明け渡しを迫り「沖縄県」の設置を宣言した(琉球処分)。この事件により琉球王国は解体したが、琉球の支配層は明治政府に対する不服従運動を展開し、また、旧臣の間には密命を帯びて中国に渡航し中国政府を動かして王国復旧を実現しようとする動きが激増した(脱清運動)。これを受けて中国側も強く抗議したため、明治政府は1880年に宮古、八重山を中国に割譲するのと引き換えに、中国内で欧米並みの特権を得るという分島増約案を示したが、土壇場で実現をみなかった。琉球側の不服従、中国側の抗議は最終的に日清(にっしん)戦争における日本の勝利によって終止符が打たれる。
 置県後、明治政府は沖縄県政に慎重な態度をとり、急激な本土並みの近代化を避け、王国時代の旧制度を基本的に踏襲する旧慣存続策を選んだ。このため沖縄の近代化は本土に比べて大幅に遅れることになり、その不満が宮古島人頭税廃止運動(1892~1894)や謝花昇(じゃはなのぼる)らの運動(1899~1900)となって現れた。これらの動きと日清戦争の勝利を踏まえて、政府は土地整理(1899~1903)を皮切りに本土並みの制度への転換を本格的に推進したが、その作業は大幅に遅れ、1921年(大正10)の首里、那覇への市制の施行によって初めて達成される。
 本土への一体化は沖縄の日本資本主義への実質的な編成を意味したが、これに伴い沖縄社会もしだいに変容の度合いを強め、海外移民や本土工業地帯への出稼ぎ者が増加するなど新たな矛盾を抱えることになった。ことに大正末期から昭和初期にかけての不況は、脆弱(ぜいじゃく)な県経済に打撃を与え「ソテツ地獄」と称される窮乏を招き、大量の移民や出稼ぎ者が発生した。経済を中心とする苦境の一方で、沖縄が日本社会に占める位置のあり方を歴史的・文化的に考えようとする伊波普猷(いはふゆう)らの沖縄学の運動も台頭する。だが、解決されないさまざまな矛盾を抱えたまま、やがて悲劇的な沖縄戦を迎えることになった。[高良倉吉]
第二次世界大戦後の沖縄
本土進攻作戦の一環として、アメリカ軍は、後方支援部隊をあわせて延べ54万の兵力を沖縄戦に投入した。これを迎え撃つ日本軍は約10万といわれるが、その3分の1は沖縄現地で非常徴集された補充兵力にすぎなかった。戦力の劣勢を補うため日本軍は老幼婦女子・生徒までも戦力化することにし、また、一日でも戦闘を引き延ばしてアメリカ軍の本土進攻を遅らせる持久戦をとった。1945年(昭和20)3月下旬から開始されたアメリカ軍の進攻作戦に対し、日本軍の組織的戦闘は6月中旬にはほぼ終了したが、なおも沖縄島南部などで残存兵力によるゲリラ戦的抵抗を続け、牛島満(うしじまみつる)司令官の自決(6月23日)後もなおアメリカ軍は掃討戦を展開し、アメリカ軍が作戦終了を宣言したのはやっと7月2日になってのことである。
 沖縄戦は住民をも巻き込んだ日本唯一の国内地上戦であり、県民生活の場がそのまま戦場となったところに特徴がある。しかも、短期決戦を目ざして物量戦を展開するアメリカ軍と、出血戦を前提に引き延ばしを図る日本軍がぶつかりあったため多数の犠牲者を出すことになった。日本軍将兵(沖縄県出身者を除く)6万5908人、アメリカ軍将兵1万2281人に対して、県出身軍人軍属2万8228人、一般住民9万4000人(沖縄県援護課調べ)の戦死者が出ている。兵士よりも住民死者のほうが多いというこの事実に、沖縄戦の性格が集約されている。しかも、住民戦死者数はまだ推定の域を出ておらず、実数はさらに多いといわれている。住民の集団自決、日本軍による住民虐殺などの異常事態も多発しており、沖縄戦の特徴の一つをなしている。沖縄戦は近代沖縄の「結論」であるといわれるが、同時にまた戦後沖縄の「起点」にも位置していたといえよう。[高良倉吉]
アメリカ統治
アメリカ軍は早くも沖縄戦中に太平洋艦隊司令長官ニミッツの布告に基づいて軍政府を樹立(4月5日)して占領地行政を開始していたが、翌1946年1月に連合軍西南太平洋方面司令官であるマッカーサーは、日本と南西諸島の行政分離を宣言してアメリカによる沖縄確保の意向を打ち出した。冷戦の激化と中華人民共和国の成立(1949)および朝鮮半島における情勢の急変は沖縄の戦略的重要性を高め、アメリカは軍事目的のために沖縄を確保することを明確に決定するようになる。1949年から本格的な基地建設を開始し、1951年9月のサンフランシスコ平和条約(対日講和条約)により沖縄・奄美(あまみ)を日本から分離し自己の施政権下に置いた(奄美は1953年末に日本に返還)。こうして西太平洋におけるアメリカの戦略拠点としての基地オキナワが着々と形成されていったが、その一方でアメリカは基地機能の安定的維持のため各種の民政・復興事業を展開している。琉球政府の設立(1952)、基地依存型経済の創出などの諸施策が次々と実施されたが、しかしそのいずれも最終的には基地機能の確保を目ざす軍事目的の延長線にすぎなかった。したがって、基地優先主義のアメリカ統治は、住民生活との間にしばしば摩擦を生じた。基地建設に伴う土地の強制収用、基本的人権の抑圧・規制などをめぐる幾多の事件が頻発し、あるアメリカ軍高官は「ネコの許す範囲内でしかネズミは遊べない」と豪語したほどである。[高良倉吉]
本土復帰運動
こうした状況下で住民の権利意識、政治意識が高揚し、1950年代中ごろの土地闘争を画期にしだいに諸要求は祖国復帰運動へと収斂(しゅうれん)していった。1960年に復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)が結成されると、復帰運動は人権擁護・反戦平和運動へとしだいに発展し、住民の大多数の声を結集する一大県民運動にまでなった。1965年の佐藤‐ジョンソン共同声明は、沖縄のもつ戦略上の意義とアメリカの施政権の保持を日本、アメリカ双方で了承するにとどまったが、しかし県民の強い要求の前に、1969年の佐藤‐ニクソン会談では1972年の返還を実施する旨声明せざるをえなかった。
 この間、ベトナム戦争の前進基地として沖縄が使われたため社会的にさまざまな問題を惹起(じゃっき)し、復帰運動の反戦平和運動としての性格をますます強めることとなり、教公二法闘争(1967)、屋良朝苗(やらちょうびょう)公選主席の誕生(1968)など革新勢力の相次ぐ前進を生み出している。1972年5月15日、沖縄は日本に復帰したが、基地オキナワを温存したままでの復帰だったため、その後になお多くの問題を残すこととなった。[高良倉吉]
復帰後の諸問題
復帰後、政府による沖縄振興開発事業によって社会資本の整備は著しく進展をみせ、またこれに連動する民間企業の開発も観光・リゾート分野を中心に急速な展開をみせた。その結果、県経済は順次拡大し県民生活は以前にはみられない豊かさを享受するようになった。この意味で、復帰後の沖縄は「経済の時代」だったといえる。しかし、基地経済の比重は小さくなったものの、それにかわって政府の財政支援などに依存する経済体質が顕著となり、「自立経済」の構築を目ざす新たな目標が力説されている。本土との経済格差は依然として横たわったままであり、自立経済への具体的な展望も十分にみいだせないまま推移しているのが現状である。
 その一方で、政治、行政、経済など多くの分野で本土社会との系列化が進行し、地元マスコミには「本土化」「ヤマト化」の危機を訴える記事がしばしば掲載された。また、経済開発などに伴う自然・環境の破壊も進行しており、伝統的な景観も急速に失われつつある。だが、生活の豊かさは伝統文化の見直し、新しい文化の創造に拍車をかけた。とくに音楽・文学・スポーツ分野の隆盛は目覚ましく、沖縄ポップスの本土展開、芥川賞受賞作品の登場、沖縄尚学(しょうがく)高校による選抜高等学校野球大会優勝(1999)は文化現象とみなされた。
 だが、1995年(平成7)9月に起こった沖縄米兵少女暴行事件は、基地オキナワの現実が厳然と横たわり県民生活を圧迫していることを改めて明らかにした。当時の県知事大田昌秀(おおたまさひで)は在日アメリカ軍基地の約75%が沖縄に偏在している不公正を強く主張するとともに、沖縄戦体験に基づく県民の平和意識を力説して、基地の整理・縮小を強く求めた。1996年には当時の首相橋本龍太郎との会談から沖縄政策協議会が設置され、大田県政は政府との対立を含みながら沖縄の主張を続けたが、1998年11月の知事選挙において政府との協調関係の保持、基地問題の漸進的解決を主張する稲嶺恵一(いなみねけいいち)に敗れた。
 なお、2000年7月に先進国首脳会議(九州・沖縄サミット)が開かれ、クリントンが沖縄を訪れたが、これは復帰後初めてのアメリカ大統領の沖縄訪問であった。[高良倉吉]

産業


経済の特質
第二次世界大戦後の沖縄経済は、27年間に及ぶアメリカの統治と日本復帰後に大きく区分される。前者は、戦後沖縄経済の形成過程であり、米軍基地需要を中心に主要な産業や企業を創出してきた。とくに、アメリカ・ドルを通貨としたため生産による供給よりは輸入による供給が卓越し、工業の立ち遅れと流通・サービス業の進展を促進し、第三次産業中心の経済が形成された。
 復帰後は、政府支出と観光収入を両輪に経済が進展し、一段と第三次産業中心の性格が強まった。沖縄国際海洋博覧会の開催(1975.7~1976.1)、沖縄海邦国体の開催(1987)という二大イベントをテコに経済は大きく成長したが、反面、財政依存度が構造的に高く、自立化を妨げる要因となっている。
 また、戦後一貫して県人口は増加し続け、1940年(昭和15)は57万4579であったのが、1960年88万3122、1980年110万6559、2000年(平成12)131万8220、2010年139万2818人、2015年143万3566人を数え、人口増加率は全国的にもトップグループに属し、自然増加率は日本一である。人口の増加を反映して県経済は着実に成長している。しかし、失業率は7.6%(2010年平均、総務省)と全国平均(5.1%)の1.5倍近くもあり、雇用機会の創出と経済の自立化が直面する大きな課題となっている。[真栄城守定]
産業構造
産業構造は第二次世界大戦後大きく転換した。戦前と比較すると、第一次産業と第三次産業の占める比重がまったく入れ替わっている。戦前が「農業社会」であったのに対し、戦後は「三次産業社会」、つまりサービス経済が圧倒的に卓越する社会となった。この産業構造の一大転換はアメリカ軍基地の建設が引き金となっており、三次産業化が促進される一方で、一次産業は急速に低下の過程をたどった。戦後の一時期、食糧の自給化を目ざして一次産業が大きなウェイトを占めたことがあるが、しかし、アメリカ軍基地の建設により新たな需要が生じると、農村地域から基地周辺地域への人口移動が急速に進み、三次産業化が実現する。この基地建設によって戦後沖縄の産業構造の骨格がつくられたが、その後、B円(B型円、アメリカ軍票のこと)から米国ドルへの通貨の切り替え(1958)による貿易の自由化、あるいは砂糖生産を主軸とする農業のモノカルチュア化、ベトナム戦争による特需ブーム、日本復帰、海洋博、海邦国体開催などの諸要因によって産業構造は多様化している。
 概して、日本復帰以前は基地依存型の経済であり、復帰後は財政主導型の経済にそのリーディング・セクターが移行した、といえる。とくに復帰後に特徴的なことは、公共投資の増大に連動して建設業のシェアが拡大したことであろう。海洋博開催に伴う公共工事をはじめ、本土との格差是正のための社会資本への投資、あるいは住宅建設等の増大が建設業拡大の要因となっている。また、海洋博の開催は、その効果として観光の驚異的な伸長を促進し、観光が第三次産業の支柱としての役割を果たす契機となった。近年、産業構造は依然として第三次産業に偏重しながらも、その内部で基地関連から観光関連へと比重が入れ替わる大きな変化をみせている。「沖縄振興開発計画」(1972年12月閣議決定)は、そのねらいとして産業構造のバランスを掲げ第二次産業化を図ったが、実勢はむしろ第三次産業が根強く定着した。また、意図した第二次産業の拡大も、製造業は停滞気味に推移、建設業だけがそのシェアを広げたにすぎない。[真栄城守定]
部門別の状況
以上、産業構造についてマクロの面からみたが、次にミクロの面から部門別に解説すると、まず第一次産業、とくに「農業」は次のような特徴と変化をもつ。作目構造としては現在サトウキビ単作が定着しているが、実はサトウキビは1960年代以降の沖縄農業を根底から変化させた作物である。第二次世界大戦後、食糧自給を余儀なくされたため甘藷(かんしょ)、水稲が長く作目の主座を占めていたが、沖縄産糖特恵措置の閣議決定(1959)を契機に糖業振興策が展開され、サトウキビ作への傾斜が急速に進行した。甘藷畑、水田などの甘蔗(かんしょ)畑への転換、原野の開墾が行われた。このサトウキビへのモノカルチュア化は、サトウキビが価格保証された安定的な作目であったこと、主食である米を安価なアメリカのカリフォルニア米の輸入によって供給できたこと、さらにはキューバ革命による国際糖価の急上昇があったこと、などを背景に進行したものである。
 サトウキビ単作構造の出現は戦後沖縄農業の一大変革であり、兼業農家の増加への大きな引き金となり、農業構造や社会構造の各面にまで深く影響を及ぼすほどのものであった。しかし、1990年(平成2)以降、サトウキビの生産は価格の低迷、従事者の高齢化などを反映して減少し、精糖工場の統廃合が始まっている。なお、サトウキビと並んでパイナップルも換金作物として戦後定着をみせたが、近年国際競争の面からしだいに衰退しつつある。野菜は日本復帰後に県外出荷が実現し、全国市場へ進出するようになったが、特産のゴーヤー(ニガウリ)は増加したものの、県外出荷量は伸び悩んでいる。一方、キクを中心とする花卉(かき)類、マンゴーなどの果樹類は急速な伸びをみせている。サトウキビ単作の農業構造から作目の多様化へと向かいつつある。肉用牛の飼養頭数は増加を続け、2010年には8万5000頭にのぼっている。
 第二次産業については、建設業と製造業の盛衰が特徴的である。公共投資と民間建設活動に依存して建設業は大きな伸びを示しているが、他方、製造業は低迷・停滞を続けている。復帰前、県産品保護策のもとで成立していた県内製造業も、復帰後の本土商品の攻勢を受けて淘汰(とうた)されたものが多い。製造業内部の変化も大きく、基本的には建設関連業種と食品関連業種に限られてきている。しかし、食品関連では特産品開発と連動して、多様な製品が生産され、アンテナショップを全国主要都市、台湾、シンガポールに展開し、全国的に注目されている。なお、CTS(石油備蓄基地)建設に伴い石油精製業等の石油関連業種が、生産額および輸出額で大きなシェアを有していることも特徴的であろう。
 水産業は、おもに鮮魚生産を中心とした日帰り操業で、同時に、1970年代後半ごろから、クルマエビやモズクなどの養殖業が盛んになっている。林業は未発達で、わずかにパルプ用材や特用林産物を生産している。また鉱業も資源に恵まれず、セメント原料や路盤材の産出がみられる程度である。
 伝統工芸は、琉球王国時代の遺産として継承され、琉球絣(がすり)、久米島紬(つむぎ)、宮古上布(じょうふ)、八重山上布、芭蕉布(ばしょうふ)などの織物をはじめ、陶器、漆器、染物(紅型(びんがた))などきわめて多様である。また第二次世界大戦後、ガラス工芸も定着している。伝統工芸は年間57億6000万円(1982)の生産実績をあげるなど、観光の進展と相まって土産(みやげ)品としての魅力と地歩を築いてきたが、近年は漸減傾向にある(2010年41億円)。
 観光産業は沖縄の重要な産業となっていて、近年では国際的な観光・リゾート地としての発展をみせている。西表石垣国立公園(いりおもていしがきこくりつこうえん)、沖縄海岸国定公園、沖縄戦跡国定公園があり、自然、文化遺産、伝統芸能などの観光資源に恵まれ、2010年には572万人の観光客が訪れている。
 復帰前は基地依存、復帰後は財政支出依存という県経済の体質は他律型という点では変化がない。所得水準も全国平均の約70%であり、産業開発の課題は大きい。なお、復帰後、第一次(1972~1981)、第二次(1982~1991)、第三次(1992~2001)にわたる沖縄振興開発計画が国によって策定され、それに基づいて自立的発展のための基礎条件の整備等が推進されている。2002年には新たな「沖縄振興計画」が策定された。また沖縄振興開発特別措置法により、特定免税店制度、自由貿易地域制度など沖縄独自の制度が設けられている。[真栄城守定]

交通

広い海域に分布する島嶼だけで形成され、しかも日本の最西端、最南端に位置するという特性が交通の特性をも大きく規定している。交通網は沖縄島を中心に編成されており、県外および県内主要離島は那覇市を拠点とする航空機や船舶によって結ばれている。かつては県営鉄道が走っていたが第二次世界大戦後の陸上交通は自動車に依存している。2003年(平成15)8月10日那覇市内12.9キロメートル(那覇空港―首里間)に沖縄都市モノレール(ゆいレール)が開通した。なお、宮古列島は宮古島市、八重山列島は石垣市をそれぞれ拠点に、那覇市および列島内各離島と航空機、船舶で連絡している。[真栄城守定]
航空路
航空路は国内線、県内線、国際線が開設されている。国内線は日本航空と全日空を中心に日本トランスオーシャン(JTA)が就航し、東京、大阪、福岡、名古屋をはじめ、東北、北陸、中・四国、九州のほぼ国内全域と結び、観光の伸長とともに輸送能力の増加が著しい。なお、宮古、石垣は東京、大阪、福岡、中部便が毎日就航している。県内線はJTA、全日空、琉球エアーコミューター(RAC)が担当し、宮古島、石垣島、久米島、南大東島、北大東島、与那国島が那覇と直接結ばれ、宮古島からは石垣島と多良間島へ、石垣島からは与那国島へそれぞれネットされている。また、RACは鹿児島県の与論島と那覇を結んでいる。国際線は、那覇から台北(チャイナエアラインなど)、ソウル(アシアナ航空など)、香港(ホンコン)(香港航空など)、上海(シャンハイ)(中国東方航空など)へは毎日、北京(中国国際航空)、シンガポール(ジェットスター)などへは週数便の割合で就航している。[真栄城守定]
航路
船舶も、航空機同様、国内、県内、国際の各航路がある。国内は奄美諸島、鹿児島、阪神、東京と結んでいる。おもな県内航路は那覇市、宮古島市、石垣市をそれぞれ拠点に編成されているが、そのほかにも各地、各離島にサブ拠点があって航路がネットされており、離島住民の生活航路、観光客輸送、物資輸送に大きな役割を果たしている。[真栄城守定]
陸上交通
第二次世界大戦後、長く鉄軌道がなかったため、全面的に自動車に依存しているのが特徴的である。公共交通はバス、タクシーが担当しているが、個人交通としての自家用車の普及がかなり進んでいる。自動車の普及は2人に1台の割合に達し、この急速な増加に道路整備が追いつかない状況下で、那覇市をはじめとする既成市街地で交通渋滞が大きな社会問題となっている。沖縄島ではバス路線網がかなり発達しているが、自家用車の普及に伴ってバス離れ現象が生じ、路線網の再編成や企業経営の立て直しが課題となっている。なお、沖縄自動車道(名護市―那覇市間)は1987年に全面開通し、2000年に那覇空港自動車道も一部開通、2003年には那覇市の沖縄都市モノレールが開通した。宮古島、石垣島、西表島でもバス路線がある程度整備されている。[真栄城守定]

社会・文化


伝統文化の推移
奄美諸島から沖縄諸島、先島諸島に至る島々には古くから琉球文化(あるいは沖縄文化)と総称される独自の文化圏が形成されていた。この文化は日本文化の明確な一環であり、日本文化の源流と深い結び付きをもつ文化であると同時に、たとえば日本語が本土方言と琉球方言(琉球語)に2大別されるように、日本本土の文化(狭義の日本文化)に対して強い独自性を発揮する文化として知られている。そのことは言語の面だけでなく、宗教、民俗、芸能、文学、美術工芸などのあらゆる面で顕著である。琉球文化のもつ、こうした独自的な性格を生んだ背景として考えられる点は三つある。
 一つは、これらの島々が一方では広大な海域に分布するため、他と隔絶された孤立的な環境下で歴史、文化を形成したこと。二つ目は、他方では東アジアに独自の地理的位置を占めるため、日本本土はもとより中国、朝鮮、東南アジアなどの文化的影響をさまざまな形で受けたこと。そして三つ目は、15世紀初期から琉球処分(1879)までの450年余にわたって独自の国家(琉球王国)をこれらの島々が生み出したこと、であろう。
 以上の背景をもって形成された琉球文化は、大づかみにみると二つのレベルに区分してとらえることができる。一つは村落共同体レベルで形成されたものであり、言語、宗教、祭祀(さいし)、芸能、民俗など琉球文化の基盤、根幹をなすものである。いま一つは首里の王朝を中心に開花したもので、共同体レベルの文化のうえに海外の文化を取り入れて形成され、美術工芸、文芸、音楽、舞踊、建築などの分野で洗練され様式化された文化として発展した。しかし、王朝レベルの文化は、琉球処分により王国が崩壊するに及んで多くは消滅し、そのなかの一部のもの(たとえば三線(さんしん)=琉球三味線、音楽、舞踊、漆芸など)が民衆生活のなかに受け継がれ存続したにすぎない。一方、村落共同体レベルの文化も、琉球処分後の近代において日本本土への一体化政策が推進されたため、しばしば遅れた野蛮なものとして排斥された。たとえば、方言の使用を禁じて標準語の普及を強制するために、学校教育で「方言札(ふだ)」を常用して方言を使う生徒を罰することが行われた。しかし、こうした規制、禁圧の波にさらされながらも、共同体レベルの伝統文化の根幹は沖縄の各地で着実に受け継がれていった。[大城将保・高良倉吉]
第二次世界大戦後の社会変動とその特徴
伝統文化を根底から揺り動かしたのは、沖縄戦とそれに続くアメリカ統治下での戦後の激動であったといえよう。戦争は幾多の人命を失わせたばかりでなく、文化遺産や生活基盤をも灰燼(かいじん)に帰した。しかも沖縄は日本本土から分離され、アメリカの直接統治下に置かれることになり、広大な軍事基地が建設されて多数のアメリカ兵が至るところに氾濫(はんらん)する状況となった。人々はこうした激しい時代の変転を「ヤマト(日本)世(ゆー)」から「アメリカ世」への「世替り」と称した。「アメリカ世」はそれまでにない状況を沖縄の社会にもたらした。
(1)まず「基地オキナワ」の出現である。農地や宅地、墓地が接収されて広大なアメリカ軍基地が各地に建設されたばかりでなく、多くの住民が基地労働者や基地関連サービス業に従事するという基地依存のいわゆる「基地経済」が成立した。
(2)それに伴い基地の集中する沖縄島中南部に地方、離島からの人口の流入がおこり、「基地の街」化あるいは都市化が急激に進んだ。旧コザ市(沖縄市)などは基地のゲート前面に発達した典型的な「基地の街」である。
(3)他方、農村、離島では深刻な過疎化がおこり、伝統的な村落共同体の維持さえ危ぶまれる状況となった。このことは、「基地経済」を中心とする第三次産業(サービス経済)が肥大化を遂げる一方で、第一次産業、とくに農業は衰退するという経済構造の変化に連動するものであった。
(4)また「アメリカ世」は、アメリカ型の消費生活、物質文化、価値観をもたらしたので、世相、人心も大きく変化し始めた。戦前までの貧困を相対的に脱しつつあった県民の間で、日本式の生活様式とともにアメリカ式の生活様式も生活の一部に浸透し始めた。
 このように、「アメリカ世」は、県民にとってまさしく異質な文化的・社会的衝撃であったといえよう。
 こうした状況のなかで、県民の意識構造に大きな変化が現れ始めた。そのもっとも基本的な点は、「アメリカ世」という一種のカルチャー・ショックに遭遇したことにより、自らのアイデンティティの回復を求めて伝統文化への回帰とウチナーンチュ(沖縄人)意識を強烈にもち始めたことだろう。そのことは、たとえば基地の街として形成された旧コザ市において、伝統的な地縁・血縁によって結ばれた人間関係が濃密に成立し、精神的には戦後社会の情感を歌い上げるおびただしい数の民謡が生まれ歌われたことによく象徴されている。つまり、「アメリカ世」に直面して自分たちの文化的伝統を見つめ直し、そのことによって、自らのアイデンティティを回復する営みが随所に展開された。[大城将保・高良倉吉]
アメリカ世からヤマト世へ
「アメリカ世」に対置するアイデンティティの回復は、一方では民族的自覚の問題につながっていた。第二次世界大戦後の一時期、「琉球独立論」などもささやかれたが、しかし大多数の県民は自らが日本人であり、沖縄もいずれ早い時期に日本社会に復帰すべきであると考えていた。たとえば、学校教育において教師たちの熱意により日本語による教育、日本の教科書による教育、つまり「日本国民としての教育」が早い時期から意識的に推進された。こうした民族的自覚の高揚が、日本復帰運動の支柱の一つとなったのである。
 「アメリカ世」の政治的現実は、アメリカの軍事優先主義、県民の無権利状態であった。県民の側の政治的要求がしばしばアメリカ側によって強権的に圧迫されたばかりでなく、アメリカ兵の理不尽な犯罪が治外法権を盾に無罪もしくはうやむやにされた。こうした現実下で当然のことながら政治的権利の回復、基本的人権の確保が切実な課題となり、この要求が復帰運動の二つ目の支柱となった。沖縄の歴史始まって以来といわれるほどに県民の政治的意識が高まり、それが復帰運動の大きなうねりとして発現したのも戦後の基本的な特徴の一つである。また、復帰運動の三つ目の支柱として、沖縄戦における過酷な戦場体験とその反省にたつ平和への希求があったことも忘れてはならない点だろう。
 こうした3本の支柱に支えられた復帰運動は、多くの県民を結集して1960年代以後活発となり、1972年(昭和47)5月15日、ついに宿願の日本復帰は実現した。「アメリカ世」から「ヤマト(日本)世」への世替りである。[大城将保・高良倉吉]
復帰後の特徴
復帰後の特徴としては次の点があげられる。
(1)「アメリカ世」時代には保障されなかった政治的権利、基本的人権が制度的に保障されるようになったこと。
(2)しかしその一方で、全国の米軍専用基地の75%が集中する「基地オキナワ」で当初約束された基地の整理・縮小は進まず、軍用地の強制使用、実弾演習や爆音による被害、米兵犯罪などの多発のほか、地域開発の障害にもなり、基地は諸悪の根源といわれた。
(3)本土社会との格差を是正するために国庫による大規模な投資が行われ、生活基盤、社会資本が飛躍的な充実をみせ、本土並みの水準に急速に近づきつつある点も特徴の一つである。
(4)消費生活水準も全体として急速にレベルアップし、経済生活の面でこれまでにない豊かな状況が現出した点も見逃せない。
(5)しかし一方では、日本復帰によって本土社会との間に各分野で急速な系列化が進み、県民意識、生活の面で「本土化」とよばれる変動が進行している。
(6)これに対し、県民の間で文化的伝統への積極的な関心も高まり、自らのアイデンティティの確立を求める気運も強まってきている。そのことは、伝統文化とそれに立脚する文化創造の隆盛ぶりによく現れている。[大城将保・高良倉吉]
伝統文化の隆盛
有形の文化遺産の多くは、沖縄戦で灰燼(かいじん)に帰した。戦前までは琉球王国時代の粋を伝える21件もの国宝指定文化財が存在したが、そのすべてが砲弾で破壊された。しかし、戦火を免れた史跡、名勝などが各地にまだかなり残っており、歴史や文化を語りかける素材として重視されている。1992年(平成4)には沖縄戦で焼失した首里城が復元された。一方、無形の技術、技能を生かした文化遺産は戦争や戦後の激動をくぐり抜けてますます盛んとなっている。たとえば、琉球舞踊、三線(琉球三味線)を中心とする芸能分野では、各地におびただしい数の私設の研究所があって後継者を養成しており、発表会、演奏会がしきりに開かれている。しかも、舞踊、音楽は専門家が演じるだけでなく、家庭、宴席および酒席など日常生活のあらゆる場面で一般の県民によって演じられており、広い裾野(すその)に支えられている。こうした文化的土壌に支えられる形で、1980年代末期から、りんけんバンドや喜納昌吉(きなしょうきち)などによって代表される沖縄ポップスが台頭し、全国的に知られるようになった。なお、2004年1月には、おもに琉球舞踊など伝統芸能の保存振興を目的とした国立劇場おきなわが開場した。
 観光客の急増に伴い、土産品としても脚光を浴びている伝統工芸は、種々の問題をはらみながらも盛んに生産されている。陶器や漆器あるいは紅型(びんがた)に代表される織物をはじめとして、ガラス工芸、菓子類などが着実に生産されている。沖縄を代表する酒泡盛(あわもり)も各地で生産されており、また、琉球料理も家庭だけでなく専門の料理店で賞味することができる。空手(からて)は各地に多くの道場があり、その鍛錬にいそしむ人が多い。沖縄独特の年中行事、民俗芸能も各地で盛んであり、ウヤガン(宮古島)、アカマタ・クロマタ(八重山)などの神秘的な神行事もなお受け継がれている。[大城将保・高良倉吉]
沖縄研究と文学・芸術
伝統文化の隆盛に加えて、沖縄では沖縄学=沖縄研究と称される学問研究も盛んである。地元の琉球大学(国立大学法人)、県立芸術大学、県立看護大学、名桜大学(公立)、沖縄国際大学、沖縄大学、沖縄キリスト教学院大学、沖縄科学技術大学院大学(以上4校私立)などの大学をはじめ(2018)、公立の試験研究機関や学会、研究会に所属する多くの研究者によって推進されており、県外の研究者、県内のアマチュア研究家も多く、県民もまたこの学問に対して強い関心を払っている。1980年代からは諸外国との学術交流も活発化し、外国人研究者も沖縄をテーマとする研究に取組みはじめた。とくに中国や台湾との交流は目覚ましく、アジアの視野で沖縄の歴史・文化を検討する動きが盛んとなった。そのことを反映して出版も隆盛を極め、県内外で出版される沖縄関係図書は年間300点前後に及ぶといわれている。
 文学、芸術分野の活動も活発である。共通した傾向は、沖縄をテーマとし沖縄のなかから素材をみつけるという態度であろう。芥川(あくたがわ)賞受賞作である大城立裕(おおしろたつひろ)『カクテル・パーティー』(1967年受賞)、東峰夫(ひがしみねお)『オキナワの少年』(1971年受賞)、又吉栄喜(またよしえいき)『豚の報い』(1995年受賞)、目取真俊(めどるましゅん)『水滴』(1997年受賞)は戦後沖縄の現実を題材とした代表的な作品である。[大城将保・高良倉吉]
県民意識と生活
(1)新聞・報道の役割 文化活動に対する『沖縄タイムス』『琉球新報』の地元2紙の役割はきわめて大きい。新聞購読者の大半のシェアを占めるこの2紙は、文化活動に対して戦後一貫して牽引車(けんいんしゃ)的な役割を発揮してきた。テレビ、ラジオはNHKのほかに琉球放送、沖縄テレビ、琉球朝日放送、ラジオ沖縄、FM沖縄などがあり(2018)、いずれも沖縄に関する自主企画番組を編成して地域文化の振興に一役買っている。
 このように郷土の文化的伝統への愛着・執着、あるいは「県人意識」(ウチナーンチュ=沖縄人意識)の強烈さという点で他県にはみられない状況を呈している。この傾向は本土に居住する県出身者、ハワイ、南米など海外諸国に居住する県出身移民の間にも共通にみられる点で、郷土愛の強い県民性としてしばしば指摘されている。
(2)信仰形態と門中(もんちゅう) 信仰は伝統的な祖霊、祖先神信仰を中心にいまなお根強く保持されており、とくに祖先崇拝とこれに支えられた各種の年中行事はたいせつにされている。また、独特の造型をもつ大きな亀甲墓(かめこうばか)に代表されるように、墓には金をかけ供養を怠らない伝統をもつ。仏教の影響は他県に比べてかなり少なく、寺院の数も限られている。王国時代における中国との交流を反映して道教的習俗がみられ、第二次世界大戦後のアメリカ統治時代の影響もあってキリスト教もいくぶん定着している。しかし、全体としてみると固有信仰が社会的に大きな比重を占める点が、特徴の一つである。また、血縁・地縁に基づく交際が重視される点も特徴の一つで、門中とよばれる独特の親族集団内での交際や都市地区における出身地ごとの郷友会、村人会活動が活発である。民間金融としての役割をもつ模合(もあい)(頼母子講(たのもしこう))も盛んで、しばしば交際、親睦(しんぼく)を目的とする集会手段として活用されている。
 社会的には農村地区、都市地区を問わず公民館を中心とする伝統的なコミュニティ活動が盛んであり、とくに都市地区以外ではシマとよばれる集落(字(あざ)に相当)が生活母体として強固に維持されており、シマ単位の各種の活動(年中行事、PTA活動など)が展開されている。[大城将保・高良倉吉]
沖縄の神話
総じて「沖縄」は地域名、「琉球」は文化圏として用いるため、「琉球神話」とよぶべきであろう。琉球神話は、文献に記載された王朝神話と、民間に伝承された祝詞(のりと)、巫歌(ふか)、歌謡、伝説などに現れる民間神話とに大別される。文献上の初出は、袋中和尚(たいちゅうおしょう)の『琉球神道記(しんとうき)』(1605)で、それによると、「アマミキュ」「シネリキュ」という男女2人が天降りして波間に漂う島から沖縄の国土を形成し、往来の風によってはらんで3子を産み、長子は所々の主(ぬし)、次子は祝(のろ)、三子は土民の始めとなったと記されている。また『おもろさうし』第10巻(1623)にはテダ(日神)が「アマミキヨ」「シネリキヨ」を召して島造りを命じたとあり、かつては太陽信仰が絡んでいた様相がうかがえる。さらに『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』(1650)に至ると、日本の記紀神話や漢籍の影響が強くなる。それによると天帝は阿摩美久(あまみく)を下界に降し、土石(どせき)を用いて島造りをさせ、その要請により天帝の男女の御子を降し、風によってはらんで生まれた3男2女が、国々の主(天孫子(てんそんし))、諸侯、百姓、君々(きみ)、祝女(のろ)の始めとなったと記されている。これに穀物起源神話も加わって、阿摩美久が天上から五穀の種をもらい受け、麦、粟(あわ)、菽(しゅく)(豆)、黍(きび)を久高(くだか)島に、稲を知念(ちねん)・玉城(たまぐすく)(南城市)に播(ま)いたという。これらの神話の共通要素は、天界出自の男女2人の始祖神による人類起源、波間に漂う島からの国土生成、王朝の政治・宗教的支配による階層秩序の呈示、王朝の収穫儀礼の行われる聖地と穀物起源を結び付けて語ること、などである。
 一方、文献にみえる神話に対し、民間に伝承された神話によれば、東方の海上の島にいる女神の漂着による始祖の話や、古宇利(こうり)島などに伝わる近親相姦(そうかん)による兄妹始祖伝説、アマンチューという巨人の天地分離による世界創造の伝説などがあり、別系統の創世神話を伝えている。これらは包括的な神話体系を形成するまでには至らず、奄美(あまみ)から、沖縄、宮古(みやこ)を経て八重山(やえやま)に至る琉球諸島各地では、さまざまな系統の神話が混ざり合っている。
 琉球神話の特徴を神話学者大林太良(おおばやしたりょう)(1929―2001)の見解に基づいて整理すると、(1)なんらかの形での兄妹始祖神話はこれらの地域に共通して存在する。(2)モチーフは北部の奄美・沖縄と、南部の宮古・八重山に大別され、流れ島、風によってはらむ、世界分離巨人は北部から、犬祖(けんそ)伝説、地中よりの始祖の出現は南部から、それぞれ報告されている。(3)琉球の王朝神話は共通した要素を持ち伝えているが、そのうち流れ島、風によりはらむというモチーフは、沖縄でも後世には凋落(ちょうらく)し、宮古・八重山へは伝播(でんぱ)していない。(4)民間神話のモチーフは始祖漂着、生み損ない、犬祖、地中よりの始祖、世界分離巨人などである。これらは一複合体を形成せず、したがって王朝文化に対する民間の基層文化にはかなりの地方差や系統差があったことが指摘される。総じてこれらの神話や伝説は、日本、朝鮮、華南などの文化系統を比較する際の指標とされ、生業や社会集団との結び付きを通して相互の文化伝播(でんぱ)の様相を明らかにしうるものと考えられている。沖縄の神話は、その結節点として重要である。[鈴木正崇]
伝説
沖縄本島や先島(さきしま)諸島は亜熱帯に位置するだけに、竜宮、大魚報恩、漂流、津波、島の成立など海に関する神話、伝説が豊富である。津波伝説は南太平洋の島々にも伝承されているが、多良間(たらま)島では、兄妹が津波に遭難して生き残っていっしょになり、この島で栄えた。その子孫から土原豊見親(んたばるといみや)のような勇士が生まれたという。来間(くりま)島では、敗残の兵に追われて無人島に泳ぎ着いた兄妹が、やはり夫婦になって村建てをしたという。沖縄では村をシマというが、その神事をつかさどるのは祝女(のろ)で、他人のうかがうことを許さぬ御嶽(うたき)には、独特の伝説を生む要素をもつ。八重山(やえやま)列島のアカマタ・クロマタは海のかなたから豊穣(ほうじょう)をもたらしてくる神々の秘儀で、常世(とこよ)信仰のニライカナイに裏づけられた伝説によっている。沖縄の神々の信仰には洞窟(どうくつ)を宮としたものが多くある。那覇市首里桃原(しゅりとうばる)の女が芭蕉布(ばしょうふ)の糸を紡いでいるところを見られ、糸巻きの管(くだ)をくわえて去り、普天間(ふてんま)(宜野湾(ぎのわん)市)の洞窟に消えた。女は洞窟の神となったという。洞窟の中は神秘をはらむ神域であって、みだりに入ることを許されない。これなども洞窟に対する沖縄人の信仰からきた伝説ということができる。英雄伝説には、為朝(ためとも)、百合若(ゆりわか)、カニカマド、目黒盛豊見親(めぐろもりといみや)、サカイイソバ(サンアイイソバ)など多い。為朝は伊豆を逃れて沖縄に上陸し、豪族の女(むすめ)をめとったが、その子は琉球王統となったと伝える。北九州の巨人百合若説話が沖縄水納(みんな)島に根づいている。百合若のかわいがったタカの墓と称するものまであり、日琉同根の伝説となっている。巨人カニカマドは八重瀬城(やえせぐすく)に、勇士目黒盛豊見親は宮古島に、女酋(じょしゅう)サカイイソバは与那国(よなぐに)島に、いずれも怪力の巨人、もしくは知謀武略の英雄伝説になっている。沖縄にも「真玉橋(まだんばし)の人柱」など、いくつかの人柱伝説がある。真玉橋の主人公は七色の元結(もとゆい)をした女性で、自ら人柱になったが、死後その女性の子供は口がきけなくなったというモチーフは、本土の影響が濃厚である。八重山列島の島民は人頭税や島分けという過酷な政策を課せられ、その悲劇から石垣島の「野底(のそこ)マーペー」などの悲しい伝説を生んでいる。[武田静澄]
『鳥越憲三郎著『琉球の神話』(1966・淡交社) ▽沖縄タイムス社編・刊『沖縄の証言』上下(1971、1973) ▽大城立裕著『内なる沖縄』(1972・読売新聞社) ▽新里恵二他編『沖縄県の歴史』(1972・山川出版社) ▽大林太良著『琉球神話と周囲諸民族神話との比較』(『沖縄の民族学的研究――民俗社会と世界像』所収・1973・民族学振興会) ▽新崎盛暉著『戦後沖縄史』(1976・日本評論社) ▽新崎盛暉著『沖縄現代史』(岩波新書) ▽『講座 日本の神話10 日本神話と琉球』(1977・有精堂出版) ▽高良倉吉著『琉球の時代』(1980・筑摩書房) ▽高良倉吉著『琉球王国』(岩波新書) ▽木崎甲子郎編『琉球の自然史』(1980・築地書館) ▽大田昌秀編著『総史沖縄戦』(1982・岩波書店) ▽嶋津与志著『沖縄戦を考える』(1983・ひるぎ社) ▽『沖縄大百科事典』本巻3・別巻1(1983・沖縄タイムス社) ▽上野英信著『眉家私記』(1984・潮出版社) ▽目崎茂和著『琉球弧をさぐる』(1985・沖縄あき書房) ▽木崎甲子郎編『琉球弧の地質誌』(1985・沖縄タイムス社) ▽外間守善著『沖縄の歴史と文化』(1986・中央公論社) ▽『角川日本地名大辞典47 沖縄県』(1986・角川書店) ▽鹿野政直著『戦後沖縄の思想像』(1987・朝日新聞社) ▽鹿野政直著『沖縄の淵――伊波普猷とその時代』(1993・岩波書店) ▽高良倉吉・田名真之編『図説・琉球王国』(1993・河出書房新社) ▽牧野浩隆著『再考沖縄経済』(1996・沖縄タイムス社) ▽『沖縄を知る事典』(2000・日外アソシエーツ) ▽『日本歴史地名大系48 沖縄県の地名』(2002・平凡社) ▽『沖縄を深く知る事典』(2003・日外アソシエーツ)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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