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フランス演劇 フランスえんげき

3件 の用語解説(フランス演劇の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フランス演劇
フランスえんげき

10世紀末,ロアール地方の教会内で行われた復活祭劇に始り,中世には聖史劇や笑劇が栄えたが,宗教改革によって 1548年聖史劇は禁止され,ギリシアローマ演劇が模範とされるようになった。

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世界大百科事典 第2版の解説

フランスえんげき【フランス演劇】

中世から現代に至るフランス演劇の大きな特徴は,(1)歴史的には,17世紀に起こった一連の変化・断絶を軸として,それ以前とそれ以後に大別され,17世紀以降の演劇の多くのものが,劇場における上演という形にせよ,劇文学の読書という形にせよ,今日まで一応は連続して共有されてきたのに対し,17世紀以前の演劇は,少数の例外を除いて,演劇史あるいは文学史の〈知識〉にとどまること,(2)構造的には,17世紀に舞台芸術ジャンル枠組み(〈言葉の演劇〉,オペラバレエ等)が成立し,国庫補助を含むその制度化(王立音楽アカデミーは1669年,コメディ・フランセーズは1680年に開設された)が進むと,演劇活動のパリの劇場への集中化が行われ,演劇表現内部における〈言葉の演劇〉の優位とそれに伴う文学戯曲重視の伝統が確立したことである。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フランス演劇
ふらんすえんげき

その起源は他のヨーロッパ諸国と同じく、中世キリスト教の教会の儀式(典礼)であるが、中世から現代までのフランス演劇を概観して際だつ特徴は、演劇全盛の17世紀に確立された「ことばの演劇」「詩的演劇」であり、文学戯曲重視の傾向である。アリストテレス以来、演劇芸術は文学の特殊な形式と考えられがちであったうえに、とくにフランスでは近年まで、演出や上演など舞台術は軽視される傾向が強かった。しかし20世紀末には国際交流が盛んになり、台本のエクリチュール(文体、表現)と舞台のそれを融合する動きが活発になった。[伊藤 洋]

中世―宗教劇と世俗劇

宗教劇は9世紀ごろ復活祭などの典礼に、僧侶(そうりょ)がラテン語で聖書の重要部分を交互に唱(うた)う対話体の交誦(トロープス)を取り入れたことから始まる。この教会内の典礼劇がやがて戸外で演じられ、台詞(せりふ)もフランス語へ、演者も一般信者へとかわって、12世紀末の準典礼劇『アダンの劇』(作者不詳)などに進化した。吟遊詩人ジャン・ボデルJean Bodel(1165ころ―1210ころ)作『聖ニコラ劇』(1200ころ)は風俗描写も含み、りっぱな演劇に成長している。14世紀末から16世紀中葉まで大スペクタクルとして発展した聖史劇(ミステール)mystreには、キリスト受難劇や聖母信仰に基づく聖母奇跡劇があった。これらの受難劇上演組合が各地にでき、1402年にはパリに最初の常設劇場も生まれた。上演は原則として女優なしで、地獄や天国など必要な舞台装置を横に並べた並列舞台を使った。受難劇(パシオン)Passionは一般に長大で、その代表作アルヌール・グレバンArnoul Grban(1420ころ―1470ころ)の『受難聖史劇』(1450ころ)は上演に4日を要した。聖史劇はやがてその宗教性を失い、世俗的になりすぎ、1548年パリ高等法院から上演を禁止された。
 一方、聖史劇上演の合間には同じ舞台でファルスfarce(笑劇)、ソチsotie(阿呆(あほう)劇)、道徳劇(モラリテ)moralit(教訓劇)などの世俗劇が演じられていた。世俗劇は正規の説教のパロディーである滑稽(こっけい)説教、旅芸人の大道芸、土俗祭礼などから生まれた。13世紀にはアダン・ド・ラ・アールの牧歌劇『ロバンとマリオン』(1283ころ)などが現れる。注目すべきはのちに影響を与えるファルスで、15世紀にその傑作『パトラン先生』(作者不詳、1464~69ころ)が生まれた。世俗劇の演者は学生や町人で「呑気連(のんきれん)」などの劇団をつくっていた。[伊藤 洋]

ルネサンス―古代劇の研究と模倣

イタリアに始まったルネサンスの波は、16世紀にはフランスにも及び、ギリシア・ローマの古代劇の研究・翻訳が盛んになり、人文主義者(ユマニスト)によるその模倣と移植の試みが行われた。エティエンヌ・ジョデルの『囚(とら)われのクレオパトラ』(1552)は主題を古代に求めた、フランス語による最初の人文主義悲劇であり、「五幕構成で合唱隊が登場し、詠嘆調で筋(すじ)の変化はあまりない」というルネサンス悲劇の特徴が明確に現れている。ジャン・ド・ラ・タイユJean de La Taille(1540ころ―1607ころ)の『怒れるサユル』(1572)など聖書に取材した悲劇も書かれた。このころイタリアの学者によるアリストテレスの『詩学』解説が出版され、フランス演劇史上で初めて悲劇(トラジェディ)tragdieと喜劇(コメディ)comdieの分類や三単一の規則(三一致の法則)が明示された。
 16世紀後半には宗教戦争があり、殺伐とした世相を反映して激越なバロック的傾向が生まれてくる。ロベール・ガルニエの傑作悲劇『ユダヤ女たち』(1583)、アントアーヌ・ド・モンクレチアンAntoine de Montchrestien(1575ころ―1621)の叙情的悲劇『スコットランド女王』(1601)にもその影がみえる。喜劇でも古代を模倣して、前記ジョデルが『ウージェーヌ』(1553)を発表するが、あとはピエール・ド・ラリベのイタリア喜劇の翻案が注目される程度である。重要なのは16世紀中葉以後のイタリアの即興仮面喜劇の劇団コメディア・デラルテの来仏で、その人気によってフランスのファルスも見直され、両者が融合してモリエールなどに影響を与えることになる。職業劇団や女優の出現もこの世紀なかばころのことである。[伊藤 洋]

17世紀―バロック演劇から古典主義演劇へ

16世紀末から17世紀前半の演劇は複雑な筋をもち、事件が錯綜(さくそう)するバロック演劇であったが、その演劇性が後の古典主義演劇の土壌になる。荒唐無稽(こうとうむけい)な冒険談バロック悲喜劇(トラジ・コメディ)tragi-comdieは、ガルニエのフランス初の悲喜劇『ブラダマント』(1582)以来盛んだったし、イタリアの影響による羊飼いの恋物語「田園劇(パストラル)」pastoraleも、宮廷バレエとともに宮廷人に愛された。多作家アレクサンドル・アルディはパリ唯一のブルゴーニュ座(1548年創立)の座付作者として劇的葛藤(かっとう)に富む各種の劇を書いた。1630年ごろから上流家庭の子女たちも劇場に通い始め、上品で合理的な演劇が望まれるようになった。34年にはパリに、1629年から使われていた室内掌球場(テニスコートの一種)を改造して第二の常設劇場マレー座が正式に誕生した。同年、規則にかなった悲劇としてジャン・ロトルーが『死にゆくエルキュール』をブルゴーニュ座で、ジャン・メーレが『ソフォニスブ』をマレー座で発表、以後この二つの劇場がそれぞれ作者を抱えて競争することになる。
 1637年にはピエール・コルネイユの悲喜劇『ル・シッド』がマレー座で初演され、画期的な大成功を収める。するとそのころ確立され始めていた古典主義演劇の規則(三単一の規則、ジャンルの峻別(しゅんべつ)、真実らしさ、礼節など)にもとるとして論争がおこり、宰相リシュリュー創設のアカデミー・フランセーズの裁定を受けた。これを契機にバロック演劇から古典主義演劇への転換が始まる。以後コルネイユは『オラース』(1640)など規則を守った英雄意志悲劇の傑作を雄勁(ゆうけい)な韻文で書いた。これに対し規則を最初から受け入れ、流麗な韻文で宿命的情念の悲劇『アンドロマック』(1667)などを書いたのがジャン・ラシーヌである。彼によって秩序と均衡を特徴とする古典悲劇は完成し、ことばがすべてを描写する「ことばの演劇」も確立された。
 1658年からは、パリに第三の劇場(パレ・ロワイヤル劇場)ができ、モリエール一座がそこを使い始めた。モリエールは、喜劇『タルチュフ』(1664~69)などを書いて、従来の低俗な喜劇を文学的な性格喜劇として完成し、一段低くみられていた喜劇を悲劇と同等の位置にまで高めた。これらの悲劇も喜劇も五幕構成、十二音綴(じゅうにおんてつ)詩句(アレクサンドラン)alexandrinの文学的にも優れた韻文で書かれ、ここに文学戯曲の最盛期が現出した。世紀後半のフィリップ・キノーやトマ・コルネイユらは優雅な恋愛劇を書くが、とくにキノーは、1672年王立音楽アカデミー(オペラ座)が設立され、作曲家ジャン・バティスト・リュリがそこの独占権を得ると、台本作者としてオペラ界に転身する。こうして「音楽入りの演劇」(オペラ)が制度的に「ことばの演劇」と分離された。モリエールの死後1680年に誕生した国立劇場コメディ・フランセーズは、主として後者の殿堂になる。[伊藤 洋]

18世紀―喜劇と市民劇

モリエールの影響を受けて、17世紀末からジャン・フランソア・ルニャールやアラン・ルネ・ルサージュが喜劇を書き、プロスペル・ジョリオ・ド・クレビヨン(父)が残虐な悲劇を書いたが、一般に悲劇は崩壊し喜劇が伸展する。シェークスピアに魅せられた啓蒙(けいもう)思想家ボルテールは『オセロ』をもとに『ザイール』(1732)などを書き、古典悲劇を再興しようとするが成功はしなかった。ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリボーは、1716年からパリに定住していたイタリア人劇団のために『愛と偶然との戯れ』(1730)などを書き、繊細な恋愛感情を分析して、モリエールとは異なる喜劇をつくった。百科全書派の哲学者ドニ・ディドロは古典主義演劇脱却を目ざして、悲劇と喜劇の中間に位する、より近代的な散文劇として市民劇(ドラム・ブルジョア)drame bourgeoisを提唱し、実作とともにその理論を『劇芸術について』(1758)などに著した。その市民劇理論の実践者としてミシェル・ジャン・スデーヌがいるが、なによりも大革命直前に上演されたピエール・オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェの『フィガロの結婚』(1784)が、喜劇と市民劇をみごとに統合している。この世紀は全体として17世紀の偉大な古典主義演劇の桎梏(しっこく)から脱却し、いかに独自性を発揮するかに苦心した時代といえるが、古典劇の形式はなお崩れることなく19世紀初めまで続く。演劇熱は盛んで、オペラや市(いち)の縁日芝居が人気をよび、多様な演劇が生まれた。ブールバール(大通り)の盛り場に劇場が急増し、ボードビルvaudeville(風刺歌付き喜劇)、オペラ・コミックopra-comique(歌曲入りの喜劇)、音楽劇(メロドラム)mlodrameなどが上演され、大衆をひきつけていた。[伊藤 洋]

19世紀―ロマン派劇から写実劇へ

1789年の大革命以後ルネ・シャルル・ギルベール・ド・ピクセレクールの怪奇冒険物語風メロドラマが大流行するが、この大衆演劇がロマン派の古典主義戯曲変革の下地になった。古典悲劇俳優フランソア・ジョゼフ・タルマが死んだ翌年、ビクトル・マリ・ユゴーは『クロムウェル』の序文(1827)で古典劇の制約を破るロマン派演劇の宣言をする。コメディ・フランセーズでの彼の『エルナニ』(1830)上演は論争となったが大成功し、ロマン派劇の時代がくる。アレクサンドル・デュマ・ペール(父)の『アントニー』(1831)、アルフレッド・ド・ビニーの『チャタートン』(1835)、ユゴーの『リュイ・ブラス』(1838)などが「聖なる怪物」といわれる名優フレデリック・ルメートルFrdrick Lematre(1800―76)たちによって上演され、熱狂的歓迎を受けた。しかしこれらは長続きせず、ロマン派後期のアルフレッド・ド・ミュッセの史劇『ロレンザッチョ』(1834)は、世紀末まで上演されなかった。観客は名女優ラシェルの演じる古典悲劇に魅せられたが、反動としてロマン派の「狂気」に対する「良識」派の作家フランソア・ポンサールFranois Ponsard(1814―67)の出現もあった。一方、大衆作家ウージェーヌ・スクリーブ、ビクトリアン・サルドゥーらの「ウェルメイド・プレイ(よくできた芝居)」は大当りし、ジャック・オッフェンバック作曲のオペレッタも盛んだった。またアレクサンドル・デュマ・フィス(子)は『椿姫(つばきひめ)』(1852)など風俗劇を発表し、ウージェーヌ・ラビッシュはボードビルを書いていた。
 これら同時代の風俗劇から、社会問題を扱う深刻な劇として、アンリ・ベックの『からすの群(むれ)』(1882)のような写実劇が生まれ、エミール・ゾラの自然主義演劇理論が生まれた。その影響下でアンドレ・アントアーヌが自由劇場(1887~96)を創設した。舞台に「実人生の断片」をのせるという立場で、北欧のイプセンらの作品を初紹介し、ジョルジュ・ド・ポルト・リッシュの恋愛心理劇、フランソア・ド・キュレルFranois de Curel(1854―1928)の思想劇、ジョルジュ・クールトリーヌの小喜劇、ジュール・ルナールの『にんじん』(1900)などを次々に上演した。自然主義を取り入れ、演出面を重視する自由劇場のこの演劇革新運動は、20世紀初めまで各国の近代劇運動に大きな影響を与えた。しかし他方ではその反動として、詩人ポール・フォールの芸術座(1890~93)、俳優リュネ・ポーの制作座(1893~1929)による象徴派詩人モーリス・メーテルリンクやポール・クローデルの詩劇の紹介、前衛劇の先駆とされるアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』(1896)の上演などがあった。世紀末のエドモン・ロスタンのロマン派風韻文劇『シラノ・ド・ベルジュラック』(1897)の画期的成功は、俳優コンスタン・コクランの名演技によるところ大で、当時の女優サラ・ベルナールやムネ・シュリーMounet-Sully(1841―1916)ら名優の存在と相まって、ここにスターシステム(俳優中心主義)が確立された。[伊藤 洋]

20世紀


演出家の時代
20世紀初頭はジョルジュ・フェードーやサッシャ・ギトリなどのブールバール劇thtre de boulevardが盛んだったが、演出家ジャック・コポーが1913年、演劇を商業化から救うために文学戯曲を上演する場としてビュー・コロンビエ座を創設する。上演作品はモリエールなど古典のほかにクローデル、プロスペル・メリメなどだが、とりわけシャルル・ビルドラックの『商船テナシチー』(1920)は成功した。コポーの弟子のシャルル・デュランとルイ・ジューベはやがて師のもとを去り、それぞれ反写実主義的演出を手がけ、前者はマルセル・アシャール、アルマン・サラクルーを、後者はジュール・ロマン、ジャン・コクトー、とくにジャン・ジロドゥーの『ジークフリート』(1928)などの演出で成功し、後年の演出家と作家の緊密な協力関係の金字塔を打ち建てた。このデュランとジューベに、若いジャン・アヌイを世に出した白系ロシア人のジョルジュ・ピトエフ、アンリ・ルネ・ルノルマンの心理劇を紹介したガストン・バティの2人を加えた4人の演出家とその劇団が「カルテル4人組」Cartel des quatreをつくって、第二次世界大戦までのフランス演劇界をリードした。その共通点は反自然主義と反商業主義であった。超現実主義(シュルレアリスム)演劇ではロジェ・ビトラックやギヨーム・アポリネールがいるが、特記すべきはアントナン・アルトーである。彼の「残酷演劇(テアトル・ド・ラ・クリュオーテ)」thtre de la cruaut論(1938)は1950年代の反演劇につながっている。[伊藤 洋]
不条理劇の出現
ジャン・ポール・サルトル、アルベール・カミュ、アヌイは第二次世界大戦中のドイツ占領下で、それぞれ『蠅(はえ)』(1943)、『誤解』(1944)、『アンチゴーヌ』(1944)で抵抗の時代を劇化し、戦後は実存主義演劇や反抗の演劇を発表する。1950年代初め、従来の戯曲作法に反し、筋書き、登場人物の性格や心理を無視し、台詞やことばを解体するところから「反演劇(アンチ・テアトル)」anti-thtreとか、「不条理劇(テアトル・ド・ラプシュルド)」thtre de l'absurdeとよばれる「新しい演劇(ヌーボー・テアトル)」nouveau thtreが生まれた。ウージェーヌ・イヨネスコの『禿(はげ)の女歌手』(1950)、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)を筆頭に、ジャック・オーディベルチ、アルチュール・アダモフ、ジャン・ジュネらの作品が、彼ら独自のことばで不条理の世界を描いた。一方でミシェル・ド・ゲルドロードやボリス・ビアンの独特な世界も注目され、さらにジャン・ボーティエJean Vauthier(1910―92)、マルグリット・デュラス、フランソア・ビエドゥーら詩的言語に特別に関心をもつ劇作家たちも現れる。共通していえることは、戯曲構造を破壊することによって演劇性とは何かを探る試みだった。
 この流れに属さずに1960年代の演劇を担った若手劇作家がスペイン出身のフェルナンド・アラバールで、その作品は南米アルゼンチン出身のジョルジュ・ラベリ、ジェローム・サバリJrme Savary(1942― )、ビクトール・ガルシアという3人の演出家の手で、ネオバロックとして上演され反響をよんだ。また戦後の演劇人として、デュランの弟子で演出家のジャン・ルイ・バローとジャン・ビラールは欠かせない。バローは1925年に書かれたまま未上演だったクローデルの大作『繻子(しゅす)の靴』を43年に初演し、第二次世界大戦後も宇宙的空間をもつクローデルの主要な詩劇を上演し、「全体演劇(テアトル・トタル)」thtre totalを実現した。夫人の女優マドレーヌ・ルノーと結成したルノー‐バロー劇団は、ほかにもイヨネスコの『犀(さい)』(1960)、ベケットの『美(うる)わしの日々』(1963)、ジュネの『屏風(びょうぶ)』(1966)などを上演して50~60年代のフランス演劇の中心だった。一方ビラールは、TNP(テーエヌペー)(国立民衆劇場)やアビニョン演劇祭を主宰して、俳優ジェラール・フィリップ、マリア・カザレスMaria Casars(1922―97)らとともに古典を上演し、演劇を民衆のものにするために貢献した。これに次ぐ演出家はブレヒト演劇の実践者であるロジェ・プランションやアントアーヌ・ビテーズで、前者は古典の新解釈によってモリエールの『タルチュフ』を62年に上演するなどして新生面を開いた。一方アンドレ・ルッサン、マルク・カモレッティMarc Camoletti(1923―2003)らのブールバール劇はつねに大衆を魅了している。[伊藤 洋]
1968年以後―肉体の演劇
1968年の「五月革命」前後に来仏したポーランドの演出家イェジュイ・グロトフスキやアメリカのリビング・シアターに刺激されて、演劇の根源的エネルギーを引き出すために肉体を重視する動きが、フランスにも生まれてきた。これは演劇についての本質的な問いかけであり、「ことばの演劇」への対決でもあった。70年代にその流れをくんだ女性演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンAriane Mnouchkine(1939― )の太陽劇団が集団制作『1789年』(1970)を成功させる。オペラやバレエ、さらには日本の舞踏などが見直されているのもその表れである。80年代のフランス演劇は、パトリス・シェローPatrice Chreau(1944― )、ジャン・ピエール・バンサンJean-Pierre Vincent(1942― )、ジャック・ラサールJacques Lassalle(1936― )らの演出家主導が強くなり、古典の再読解とともに、肉体とことばの関係・調和を模索し、探求してきた。劇作家について触れると、1970年代に活躍した劇作家として、ミシェル・ビナベールMichel Vinaver(1927― )が企業人の立場から『求職』(1973)などを発表し、ジャン・クロード・グランベールは『アトリエ』(1979)などでユダヤ人問題を軽妙に扱って成功した。80年代にはエイズで夭逝(ようせい)したベルナール・マリ・コルテスBernard-Marie Kolts(1948―89)が『黒人と犬どもの闘い』(1983)や『綿畑の孤独の中で』(1987)などで野性的な叙情性を表現し、シェローの舞台化で話題になった。
 第二次世界大戦後、地方都市に国立演劇センターを創設した政府・文化省の演劇地方分散化政策(デサントラリザシヨン)が功を奏し、やがてパリ以外の地方でも演劇は活発になった。一方、国際交流も盛んになった。1970年代には、イギリスのピーター・ブルックがパリに国際演劇研究センター(CIRT(シルト)、1974年国際演劇創造センター、CICT(シクト)と改称)を創設し、世界各国の演劇人を集めて活動を始めた。また、83年にはパリのオデオン座に「オデオン・ヨーロッパ劇場」がつくられて、初代総監督にイタリアのジョルジョ・ストレーレルが就任、その後スペインのルイス・パスクワルLluis Pasqual(1951― )、フランスのジョルジュ・ラボーダンGeorges Lavaudant(1947― )が総監督になって注目すべき成果をあげている。ほかにもアメリカのボブ(本名ロバート)・ウィルソンBob(Robert) Wilson(1941― )、ドイツのペーター・シュタインPeter Stein(1937― )、クラウス・ミヒャエル・グリューバーKlaus Michael Grber(1941― )ら著名な演出家たちがフランスで舞台をつくっている。90年代になると国際交流はますます盛んになり、いつまでも収まらない戦争、人類共通の災禍であるエイズの問題などが国際的な規模で取り上げられるようになった。こうして各国の美学が混じり合い、新しい舞台づくりを競い合うことで、今日のフランスの舞台は非常に活発でバラエティに富んだものになっている。このことは、ヤスミナ・レザYasmina Reza(1959― )、オリビエ・ピーOlivier Py(1965― )、グザビエ・デュランジェXavier Durringer(1963― )ら多様な若手劇作家の輩出にもつながっている。[伊藤 洋]

日本のフランス演劇

1919年(大正8)に渡仏してコポーに学んだ岸田国士(くにお)は、フランスの「ことばの演劇」を日本に移植すべく、自ら劇作をし、岩田豊雄(とよお)(獅子文六(ししぶんろく))らとともにフランス近代劇を翻訳・紹介し、37年(昭和12)に文学座を創立した。第二次世界大戦後は加藤道夫、芥川比呂志(あくたがわひろし)らの文学座によるサルトル、カミュの紹介、浅利慶太(1933― )らの劇団四季(1953年創立)によるアヌイ、ジロドゥー上演と続き、60年代にはベケットなどフランスの1950年代前衛劇が導入され、70年代初めの一時期アラバールももてはやされた。ほかにテアトル・エコー(1950年創立)やNLT(1964年創立)などの劇団によるブールバール劇上演も行われた。劇作家としてはラシーヌに心酔した三島由紀夫、モリエール、アヌイの影響を受けた矢代静一、ベケットら前衛劇に触発された別役実(べつやくみのる)、佐藤信(まこと)(1943― )、若手では鴻上尚史(こうかみしょうじ)(1958― )などが現れている。80年代にはブラック・ユーモア作家ギィ・フォワシィの数作品が上演され、またラシーヌが渡辺守章(もりあき)(1933― )の新たな翻訳・演出で連続上演されるなど多様な面を示した。渡辺演出の日本語訳ラシーヌ『フェードル』は、86年パリ公演をして注目を浴びた。
 このころから能や歌舞伎(かぶき)のみならず現代演劇の海外公演も盛んになり、寺山修司主宰の劇団「天井桟敷(さじき)」や鈴木忠志(ただし)(1939― )主宰の劇団「SCOT(スコット)」などがパリ公演を果たし、舞踏集団の公演もフランスで高く評価された。1990年代以後は、日仏合同制作も目だつようになり、なかでも若手劇作家平田オリザ(1962― )作『東京ノート』(1994)が仏訳され、2000年に作者の演出でフランス各地で上演されたことなど、国際交流が作品の輸入だけでなく輸出面でも目覚ましくなってきていることは特筆に価する。[伊藤 洋]
『本庄桂輔著『フランス近代劇史』(1969・新潮社) ▽A・アダン著、今野一雄訳『フランス古典劇』(1971・白水社) ▽菅原太郎著『西洋演劇史』(1973・演劇出版社) ▽渡辺守章ほか著『フランス文学講座4 演劇』(1977・大修館書店) ▽M・コルヴァン著、利光哲夫訳『フランスの前衛劇』(1982・白水社) ▽佐伯隆幸著『20世紀演劇の精神史』(1982・晶文社) ▽川島順平著『フランス演劇とその周辺』(1986・駿河台出版社) ▽風間研著『パリの芝居小屋から』(1987・筑摩書房) ▽藤井康生著『フランス・バロック演劇研究』(1995・平凡社) ▽P・ドゥヴォー著、伊藤洋訳『コメディ=フランセーズ』(1995・白水社) ▽風間研著『幕間のパリ』(1995・NTT出版) ▽鈴木康司著『闘うフィガロ――ボーマルシェ一代記』(1997・大修館書店) ▽戸張規子著『フランス悲劇女優の誕生――パリ・宮廷の華』(1998・人文書院) ▽岩瀬孝・佐藤実枝・伊藤洋著『フランス演劇史概説』増補新装版(1999・早稲田大学出版部) ▽R・ギシュメール著、伊藤洋訳『フランス古典喜劇』(1999・白水社) ▽橋本能著『遠近法と仕掛け芝居――17世紀フランスのセノグラフィ』(2000・中央大学出版部) ▽ギー・フォアシィ、フランソワーズ・ドラン、シモーヌ・ド・ボーボワール、フランソワーズ・サガン他著、柴田耕太郎訳『現代フランス演劇傑作選』(2001・演劇出版社)』

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