長崎(県)(読み)ながさき

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長崎(県)
ながさき

九州地方の北西部を占める県。東京からおよそ1400キロメートルの距離がある。東シナ海に突出する半島部と離島部からなる海洋県で、面積4105.33平方キロメートル、うち離島部が45%を占める。半島部は北松浦(きたまつうら)、西彼杵(にしそのぎ)、島原(しまばら)、長崎の四つの半島に分岐し、その中央部に多良岳(たらだけ)火山の西半分が介在する。離島部は朝鮮半島に向かって飛び石状に配列する壱岐(いき)、対馬(つしま)と、東シナ海に向かって延びる平戸(ひらど)島、五島(ごとう)列島が分布し、その県域は広く、九州島の広がりに匹敵する。離島群が古代より大陸との文化交流の窓口となったことは先史時代の数多い遺跡や遣隋使(けんずいし)・遣唐使の史実に明らかである。この地理的原理は中世、近世、近代にも継承され、中世末平戸、長崎が開港し、鎖国時代、長崎の出島(でじま)が海外文化導入の窓口をなし、日本の近代化に大きな役割を果たした。近代に入ると、帝国海軍の軍事基地となり、産業面では造船・石炭業などの近代工業や一部で漁業手段の近代化が他県に先行し、長崎市、佐世保(させぼ)市の近代都市化が先駆した。
 その反面、中央からの隔絶性は農漁村の後進性につながり、本県の産業は跛行(はこう)的二重構造を示している。水揚げ量が北海道に次ぐ水産県で、大・中資本の指定漁業(以西底引(いせいそこびき)、大・中型巻網)による水揚げ量が70%を占めるのに対し、零細資本による一般漁業(小型網、釣りなど)の水揚げは小さく、その経営体は本県総数の90%余を占め、指定漁業と対蹠(たいしょ)的である。農業は水田に乏しく、段々畑が象徴的で、本土ではジャガイモ、ミカン栽培の集約的経営が進み、離島の過疎化地帯ではサツマイモ、麦の粗放的経営が主で、島牛(しまうし)を産する。
 人口は1960年(昭和35)の176万をピークに減少を続け、1970年には157万、1980年に159万で微増し、1985年もほぼ同数である。その後、微減を続け、1995年(平成7)には154万強となる。2005年国勢調査によれば147万8632人、2010年国勢調査によれば142万6779人。1975年から1980年に至る増減は長崎・佐世保両市の隣接町村、長崎空港を開いた大村市、観光地の島原市、火力発電所を誘致した大瀬戸(おおせと)町(現西海市)が増加し、閉山の続いた炭田地帯、出稼ぎの多い離島で大きく減少し過疎化が生じている。
 2012年4月時点で、13市4郡8町からなる。県庁所在地は長崎市。[石井泰義・貞方道明]

自然


地形
長崎県は半島と離島から成立しているが、約2万年前のビュルム氷期の最大海退期は全県的に陸続きになっていた。現在の地形は、海進によって低地をまったく失い、リアス式海岸と多くの分離した急傾斜の山地とが特性として示される。地形区分は、火山区として島原火山区、多良岳火山区、長崎火山区、離島火山区、松浦溶岩台地の5区、非火山区として長崎半島区、西彼杵半島区、諫早(いさはや)地峡区、五島区、対馬区の5区に区分される。
 島原火山区には雲仙(うんぜん)火山とその南に南有馬(みなみありま)火山がある。雲仙火山はその中央部に千々石(ちぢわ)、布津(ふつ)、金浜(かなはま)の断層線によって陥没した雲仙地溝があり、地溝内に普賢(ふげん)岳、妙見(みょうけん)岳など山陰系の鐘状火山群を噴出している。明暦(めいれき)~寛政(かんせい)年間(1655~1801)には古焼(ふるやけ)・新焼(しんやけ)の溶岩流を流出、あるいは側火山である眉山(まゆやま)の大崩壊を発生した活火山である。普賢岳(標高1359.3メートル)は、1990年(平成2)11月17日に突然噴火し、1991年5月、溶岩ドームが出現。さらに6月3日、火砕流を発生し、たび重なる火砕流によって焼失した家屋820棟・死者43名に及んだが、1995年やっと沈静化した。この間に溶岩ドームは最高240メートルの高さにまで達した。現在この溶岩ドームは平成新山(標高1483メートル)となっている。南有馬火山は第三紀層上に玄武岩を台状に噴出した火山。多良岳火山区は有明(ありあけ)海と大村湾の間に噴出した豊肥(ほうひ)系火山で緩傾斜の山腹を示すが、山頂部に山陰系の多良岳、五家原(ごかはら)岳など数峰の溶岩円頂丘を新たに噴出し、急傾斜をなす。中央に黒木(くろき)盆地があり、ここから西流する郡(こおり)川は下流に大村扇状地を形成している。なお、1957年(昭和32)7月の諫早大水害では山腹に多数の崩壊地、泥流を発生している。長崎半島と西彼杵半島との間に噴出した長崎火山区は豊肥系の凝灰岩と溶岩の互層からなり、山腹や山麓(さんろく)には急崖(きゅうがい)をなす凝灰岩の岩場が散在する。1982年7月の長崎大水害には多良岳と同型の大崩壊、泥流を発生している。松浦溶岩台地は本土の北松(ほくしょう)溶岩台地と平戸―壱岐間に散在する離島溶岩台地とがあり、両者ともに第三紀層の上に玄武岩が流出してできた台地である。前者は東高西低で、東の国見(くにみ)山系は佐賀県との境をなし、西は九十九(くじゅうく)島のリアス式海岸に達している。山腹では第三紀層と玄武岩層の間に湧水(ゆうすい)があり、これに起因する地すべりが多発している。平戸島北部や生月(いきつき)島も同型の地すべり多発地だが、鷹島(たかしま)、壱岐は、第三紀層が海面下にあるため地すべりの少ない溶岩台地である。
 非火山区の長崎半島は、結晶片岩からなる地塁山地で、高度が半島先端部に向かってしだいに低くなり、その延長は海中に没し、長崎海脚(かいきゃく)をなしている。西彼杵半島も結晶片岩からなる隆起準平原の山地で、これを貫く蛇紋岩、玄武岩が準平原上で円頂丘を形成。西海岸は断層による直線状の急崖をなす岩石海岸で、東海岸は大村湾に臨むリアス式海岸である。諫早地峡区は多良岳、雲仙、長崎の3火山地の間にあって第三紀層の丘陵地と干拓平野から成り立っている。五島列島の山地は北東―南西方向の地塁が北西―南東方向の断層によって分断され、その後沈水して四つの瀬戸を生じている。久賀(ひさか)島、福江(ふくえ)島の中央部には花崗(かこう)岩の侵食盆地がある。列島の両翼には鬼岳(おんだけ)、只狩(ただかり)山、京(きょう)ノ岳および宇久(うく)島、小値賀(おぢか)島の火山が離島火山区をなす。対馬山地は標高400~600メートルの準平原山地で、中央部の一段低い200メートル内外の丘陵地が沈水して浅茅(あそう)湾の溺(おぼ)れ谷を形成している。対馬南部(対馬市厳原町地区)の内山には花崗岩の侵食盆地があり、北部(対馬市上県町地区)の御岳(みたけ)は準平原上の残丘で、北端には海岸段丘が発達している。
 自然公園には、西海(さいかい)国立公園、雲仙天草(あまくさ)国立公園、さらに玄海、壱岐対馬の両国定公園がある。また県立公園として、多良岳、野母(のも)半島、北松、大村湾、西彼杵半島、島原半島の6か所がある。[石井泰義・貞方道明]
気候
対馬暖流に洗われ、また海岸から15キロメートル以上離れた所がなく隔海度が小さいため、概して海洋性の温暖な気候を示す。しかし高度差の大きい山岳と海岸、または緯度差の大きい南と北では気候に多様性がある。年平均気温では長崎市の16.6℃に対し北の佐須奈(さすな)(対馬市)は14.3℃、南の女島(めしま)(五島市)では17.6℃である。冬の南北差はさらに大きく、最低気温が零度以下になる冬日(ふゆび)の年間日数は長崎市で10日、対馬では31日に上る。夏の南北差は小さく、各地とも26~27℃である。年降水量は雲仙岳で2400~2600ミリメートル、離島の各地で2000ミリメートル以下、そのほかの各地で2000ミリメートル内外。年によって諫早―長崎―有川線上に梅雨前線の活動による集中豪雨が発生し、1957年(昭和32)の諫早大水害、1982年の長崎大水害を惹起(じゃっき)している。台風は年平均5回程度来襲し、最大風速25メートルを超える台風は4~5年に1回の割合である。大陸に近い本県特有の黄砂(こうさ)現象は「春一番」のあと、3月に入ってから多く、年平均出現日数は5.3日であるが、多い年は18日に及ぶ。[石井泰義・貞方道明]

歴史


先史・古代
約2万年前のビュルム氷期の海退期には、朝鮮半島と陸続きをなし、旧石器人の往来も推定され、福井(ふくい)洞穴遺跡では細石刃(さいせきじん)などの石器が発見されている。また、泉福寺(せんぷくじ)洞穴では最古の土器とみられる縄文草創期の豆粒文土器(約1万年前)が発見された。越高(こしだか)遺跡の隆起線文土器は縄文早期(約7000年前)のもので、朝鮮半島との交流を実証。岩下(いわした)洞穴や脇岬(わきみさき)遺跡、礫石原(くれいしばる)遺跡なども縄文遺跡で、原山の支石墓(しせきぼ)は朝鮮南部のものと同型である。弥生(やよい)遺跡は塔ノ首(とうのくび)遺跡、原の辻(はるのつじ)遺跡などその半数近くが壱岐(いき)、対馬(つしま)に分布。古墳は約500か所を数えるが、いずれも小規模で、強大な豪族が存在しなかったことを示す。なお銅剣、銅矛(どうほこ)の出土は壱岐、対馬の古墳に多い。大和(やまと)朝廷が朝鮮への進出を試みて失敗した結果、本県は国防の第一線となり、壱岐、対馬には防人(さきもり)が置かれた。浅茅(あそう)湾岸にある金田城(かねたのき)は当時の朝鮮式山城(やまじろ)跡である。607年(推古天皇15)に始まる遣隋使船、702年(大宝2)に始まる遣唐使船は、いずれも県内の海上を利用した。律令(りつりょう)制下では、壱岐国、対馬国、肥前国からなり、延喜(えんぎ)式内社は対馬29社、壱岐24社で全九州の半数を占め、肥前国はわずか4社で、当時の壱岐、対馬の重要性と県本土部の後進性が指摘される。平安時代に入ると日本西域では刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)などによる社会不安から、肥前国で松浦(まつら)党をはじめとする武士団が発生した。[石井泰義・貞方道明]
中世
南北朝時代には松浦氏、深堀(ふかぼり)氏など県下の武士の多くは北朝についたが、有馬氏、西郷氏、大村氏などは南朝にくみした。その後、宇久(うく)島の宇久氏や小値賀(おぢか)島・中通(なかどおり)島の青方(あおかた)氏なども松浦党化して、連合的権力を把握したが、室町時代に入ると松浦党の解体が起こり、平戸の松浦氏、五島の宇久氏が独自の勢力を保った。対馬は少弐(しょうに)氏の地頭(じとう)代であった宗(そう)氏の支配下となり、壱岐は松浦党解体後、平戸松浦氏の所領となった。中世初頭の対外問題は倭寇(わこう)と朝鮮通交で、これらの問題を解決、終始権力を行使したのは宗氏であった。16世紀に入ると中国人王直(おうちょく)が西海(さいかい)の海賊を傘下に収め、ポルトガル人を誘って平戸松浦氏に貿易を求めた。1550年(天文19)松浦隆信(たかのぶ)は平戸港を開き南蛮貿易を行い、武器などを輸入、かわりにキリスト教の布教を許した。しかし、仏教徒とキリスト教徒との対立抗争が起こったため、貿易は大村氏に移り、港も横瀬浦(よこせうら)に移った。ここでも仏教徒とキリスト教徒の対立によって港や教会が焼打ちされ、長崎港の開港が進展、1571年(元亀2)ポルトガル船の長崎入港が実現した。当時、群雄の包囲の中にあった大村純忠(すみただ)は、貿易の利益と長崎の防衛を確保するため、長崎と茂木(もぎ)を教会領としてイエズス会に寄進した。島原半島の有馬領内でも口之津(くちのつ)が開かれキリスト教が栄えたので、長崎と有馬領は布教の二大中心地となり、またヨーロッパ文化の日本最初の導入地となった。1582年(天正10)の天正(てんしょう)少年遣欧使節4名のうち3名は長崎県の出生である。1587年豊臣(とよとみ)秀吉は宣教師追放令を出し、教会領だった長崎、茂木を豊臣氏の蔵入地とした。1597年(慶長2)には二十六聖人が西坂(にしざか)で処刑されている。この間1592年(文禄1)、1597年の二度にわたる秀吉の朝鮮出兵があり、その際日本に連行された朝鮮の人々によって九州各地に高麗(こうらい)町、唐人(とうじん)町が形成され、肥前の陶器生産はこのときに起源を有する。[石井泰義・貞方道明]
近世
豊臣秀吉は1592年長崎奉行(ぶぎょう)所を置き、直轄の貿易港とし、朱印船(しゅいんせん)貿易が始まった。この貿易は鎖国まで続いた。この間355隻以上の朱印船が参加、うち3分の1以上が長崎県下の商人に属していた。かつてポルトガル貿易に失敗した松浦鎮信(しげのぶ)は、1609年(慶長14)徳川家康の通商許可を得て平戸にオランダ商館を、続いて1613年イギリス商館を開いて海外貿易を行い、平戸は「西の京都」とよばれるまでに繁栄した。同年家康はキリシタン禁教令を発布、キリシタンの弾圧が始まり、旧有馬領で過酷を極めたため1637年(寛永14)島原の乱が勃発(ぼっぱつ)した。乱平定後、徳川家光(いえみつ)は鎖国令を発布(1639)、出島(でじま)を構築しオランダと中国だけに貿易を許可した。対馬の宗氏は、朝鮮との国交正常化に努力し、幕府は江戸に朝鮮通信使を迎え、日朝の文化交流が行われ、対馬藩は日朝貿易を独占して潤った。鎖国時代を通じ海外に開かれた窓口は長崎と対馬の二つがあったといえよう。
 幕末には天領長崎のほか、厳原(いづはら)、平戸、福江、大村、島原5藩と、佐賀藩(鍋島(なべしま)氏)の支藩として深堀、諫早(いさはや)、神代(こうじろ)の3藩があった。厳原藩は釜山(プサン/ふざん)に倭館(わかん)を置いて日朝貿易を独占、おもに銀を輸出、人蔘(にんじん)、生糸を輸入し、大きな収益を得た。一方、耕地に乏しく焼畑が主で、林業では炭(すみ)の対州白炭(たいしゅうはくたん)を特産した。陶山訥庵(すやまとつあん)(鈍翁(どんおう))は1700年(元禄13)全島に猪鹿追詰(いろくおいつめ)令を出し田畑の被害を防ぎサツマイモ作を奨励して農民生活の安定を図った。鎖国後の平戸藩は、貿易利潤を失ったため財政基盤を農漁業に置き、早岐(はいき)、相浦(あいのうら)などで新田開発を行い、捕鯨業も奨励された。福江藩は藩政中期までは平戸、大村藩とともに西海(さいかい)捕鯨の名を全国にとどろかせ、農政では養蚕、サツマイモ作の普及が計られ、大村藩からの百姓移住を行った。移住者は居着(いつき)とよばれ、隠れキリシタンが主であった。大村藩は財政立て直しのため御一門払いを断行後も地方知行(じかたちぎょう)制から俸禄(ほうろく)制への切り替えなどを行い、一方、1600年代には深沢儀太夫(ふかざわぎだゆう)勝清(1584―1663)による捕鯨業が進められ、それによる蓄財を使って溜池(ためいけ)構築による新田開発も進んだ。島原藩は、高力(こうりき)氏が入部、過疎化した領内に幕府の命令によって全国各藩から供出された農民が移住、天下百姓として厚遇され、近隣の各藩からの逃散(ちょうさん)農民も入植し、島原藩での農民層分化の起源をなした。天領長崎には奉行所が置かれ、代官に町人が任命され、行政は町人から出た町年寄(まちどしより)や乙名(おとな)によって行われ、鎖国時代を通じて、毎年の貿易利益金は地下(じげ)配分銀(竈銀(かまどぎん))として町全体に配分された。したがって町民は豊かで、諏訪(すわ)神社のくんちやハタ(凧(たこ))揚げ、盆祭り、ペーロン競漕(きょうそう)などの行事を華やかに行った。1715年(正徳5)の「正徳(しょうとく)新令」(海舶互市新例)によって年間入港がオランダ船2隻、中国船30隻に制限されたため貿易は大きく後退した。徳川吉宗(よしむね)の洋学奨励により、オランダ通詞(つうじ)が著した『日蘭(にちらん)辞書』『暦象(れきしょう)新書』などによって物理学、数学、天文学などが紹介された。1824年(文政7)シーボルトの鳴滝(なるたき)塾が開かれ、医学、博物学、地理学などの近代的学問や技術が全国的に広がった。1854年(安政1)の神奈川条約によって鎖国は終わりを告げ、大浦地区は外人居留地となり、1855年には海軍伝習所、1857年には医学伝習所、長崎鎔鉄(ようてつ)所が建てられた。トーマス・グラバーは1865年(慶応1)市内で汽車を走らせたり、わが国初の洋式小菅(こすげ)ドック(俗にソロバンドック)を建造、そのほか洋式採炭、缶詰製造、写真技術など日本最初をなすものを多く手がけた。[石井泰義・貞方道明]
近・現代
1871年(明治4)の廃藩置県によって平戸、大村、島原、福江、厳原の各藩は県に改められた。天領長崎は天草とともに長崎府を経て長崎県となり、5県を合体して長崎県を形成。同年天草を八代(やつしろ)県に移管。1872年厳原県は伊万里(いまり)県、三潴(みづま)県の移管を経て長崎県に復帰。1876年佐賀県を編入したが、1885年佐賀県は分離再置された。産業面では1871年長崎鎔鉄所を官営長崎造船所と改め、幕末に開かれた炭鉱を工部省の所管とし、高島炭田や佐世保、北松(ほくしょう)の炭田開発を行い、鉱工業における日本の先駆地をなした。1889年長崎に市制が施行され、1902年(明治35)佐世保村に市制が敷かれた。2市は近代的都市として発足、本県における二極性の核をなすに至った。日清(にっしん)・日露そして第二次世界大戦へと日本の軍事化が進むなかで、長崎・佐世保の軍需工業の発達と両市を二つの極とする全県的な要塞(ようさい)地帯化が行われ、広範な県域では産業の停滞や後進性が特徴となった。1945年(昭和20)8月9日浦上(うらかみ)に原子爆弾が投下された。戦後、長崎市は国際文化都市を宣言。県下の要塞地帯は解除され、1955年には西海国立公園、1968年には壱岐対馬国定公園が誕生、雲仙天草国立公園とともに、県下全域が観光の対象地となった。炭田は衰退期を迎え、造船も不況期を迎えた現在、機械器具工業などへの転換とともに地場産業の活性化やエネルギー(火力発電)開発などによって県工業の再建が計られている。[石井泰義・貞方道明]

産業


農業
2015年(平成27)時点の耕地面積は4万9100ヘクタール、うち田2万2700ヘクタール、畑2万6400ヘクタール(うち樹園地6250ヘクタール)で、水田率は46.2%にすぎない。農家1戸当りの平均耕地面積は1.45ヘクタール。総農家数3万3802戸のうち、販売農家数は2万1304戸であり、63%を占める。米の主産地は諫早干拓地と北松浦郡の棚田(たなだ)地帯で、県内自給は不可能。畑の大部分は段々畑でサツマイモ、麦を主としたが、1960年代からミカン、ジャガイモに転換し、ミカンは伊木力(いきりき)を中心に大村湾オレンジベルト地帯を形成、ジャガイモは島原半島を中心に全県に拡大している。ミカンの収穫量は5万0200トンで全国第5位(2016)。ジャガイモは、農業・食品産業技術総合研究機構の種苗管理センター雲仙農場を有し、春・秋の二作が導入され、暖地ジャガイモとしては全国一を誇る。同じく全国一を誇る茂木(もぎ)ビワは、長崎半島東岸の急傾斜地での特産品。根菜類のタマネギは島原半島、ショウガは諫早近郊に集中する特産品で、ニンジン、ダイコンの栽培も盛んである。福江島は葉タバコの産地として知られている。壱岐では全島ボーリングによる畑地灌漑(かんがい)が行われ、換金作物が主となったが、そのほかの離島地域ではサツマイモ、麦作がおもで、五島牛、平戸牛、壱岐牛など島牛の特産がある。
 平坦(へいたん)でまとまった優良農地の創設と高潮や洪水防止を事業目的として、諫早湾の干拓事業の検討が始まったのは20世紀半ばであった。時代の要請に対応して目的や規模にも変遷があった。最初は「国営長崎干拓事業」(1953~1969)、次に「長崎南部地域総合開発計画」(1970~1982)と事業名を改め、さらに、1983年(昭和58)からは締切面積をこれまでの約3分の1(3550ヘクタール)に縮小し、「国営諫早湾干拓事業」として実施計画・事業着手と進み、ようやく1997年(平成9)4月14日潮受堤防(堤長7050メートル・標高7メートル)の締切りが実現した。事業地域は、計画決定時には諫早市・高来(たかき)町・森山(もりやま)町(現、諫早市)、吾妻(あづま)町・愛野(あいの)町(現、雲仙市)に囲まれた諫早湾奥部の海面で、事業面積は2002年(平成14)の計画変更により締切面積3542ヘクタール、そのなかで干陸面積942ヘクタール(うち農用地等面積816ヘクタール)、調整池約2600ヘクタール(調整容量7900万立方メートル、平常時は締切堤防外水面より水位を1メートル下げて管理し、洪水防止と淡水にして干陸地の灌漑(かんがい)用水として利用する)に区分されている。総事業費は2533億円。1993年度に長崎県が策定した新農政プラン(2001年度目標)によると、新しくつくられるこの干拓地は米をつくるのではなく、野菜や畜産などの生産を振興するためのもので、諫早湾干拓事業計画では、周辺農家の増反による野菜経営と肉用牛の肥育経営および入植による酪農経営の三つのタイプの経営が示されている。約580戸の農家で構成する新型の農業地域が誕生する計画であった。2008年には事業が竣工し、営農が始まった。一方、堤防締切後、タイラギの不漁、ノリの不作などが続き、沿岸漁民を中心に排水門開放の訴訟が起こされた。佐賀地方裁判所は2004年に工事中止の仮処分を決定、2008年には開門を認める1審判決が下されている。[石井泰義・貞方道明]
林業
県総面積の58%を占める森林は、対馬、五島を中心に雲仙、多良、国見の各山系に分布し、私有林が72%を占める。私有林のうち人工林は47%で天然林のほうが多い。県の森林面積の26%を占め、林野率88%の対馬では林業公社などによる植林が進められ、人工林率は30%台に上昇、2010年以後の用材生産量年間20万立方メートルを期待し、天然林からパルプ、チップ材として年間5万立方メートルの生産がある。木炭は対州白炭として年間120万俵を出荷したが、1980年(昭和55)5万8000俵に激減。近年ナラ、クヌギなどの原木が豊富なためシイタケ栽培が盛んとなり、干しシイタケの年間生産高は270トンを上回っている。[石井泰義・貞方道明]
水産業
北海道に次ぐ水産県で、年間漁獲量は約54万トンで、そのうち遠洋の以西底引網および近海の大・中型巻網からなる指定漁業によるものが約70%強を占める。以西底引は長崎港を基地として東シナ海、黄海で操業、100トン以上の漁船約200隻が長期出漁、ハモ、エソ、グチなどの底物(そこもの)を漁獲する。大・中型巻網は長崎、奈良尾(ならお)、生月(いきつき)の諸港を基地として五島、済州(さいしゅう)島の近海、山陰沖に出漁、アジ、サバ、イワシなどの浮物(うきもの)を漁獲する。両者とも大・中資本で、漁獲量は全県の54%を占め、本県水産業の中核をなす。一般漁業は中・小規模の沖合、沿岸漁業で、そのうち揚繰(あぐり)網、大型定置網による漁獲量が大半を占め、大型定置網は大手資本によるが、ほかの一本釣り、延縄(はえなわ)などの零細漁業体が漁業経営体数1万4300の95%以上を占める。一本釣りのうちイカ釣り漁業は壱岐、対馬を中心にもっとも盛んで、日本海へも出漁する。水産養殖はハマチ、ブリ、タイのほかノリ、ワカメなどが行われ、真珠の養殖も盛んである。[石井泰義・貞方道明]
鉱工業
対州鉱山の歴史は古く、国産銀の始まりをなし、江戸中期には産銀の最高を記録した。明治時代より東邦亜鉛の経営となり亜鉛、鉛の産出を主としたが、カドミウム汚染によって1973年(昭和48)閉山。一方、石炭採掘は18世紀に始まり、洋式採炭は幕末、グラバーによって行われ、大正、昭和に向かって発展を続け、1957年の最盛期には炭鉱数166を数えたが、以後閉山が相次ぎ、2001年(平成13)の池島炭鉱(いけしまたんこう)の閉山を最後に稼行炭鉱は姿を消した。
 工業は、明治時代以後軍需と結合した造船業とその関連工業が中核をなした。第二次世界大戦後は一時衰退したが、朝鮮戦争以後復活、とくにスエズ運河閉鎖を契機に船舶の大型化が計られ、三菱(みつびし)重工長崎造船所、佐世保重工(旧海軍工廠(こうしょう))では超大型タンカーを次々に進水させ、その進水量は世界一を誇った。しかし、昭和40年代後半の原油輸入規制などによって、造船は大きく後退、機械器具(兵器を含む)など陸上部門への転換が計られ、1983年出荷額では、輸送用機械器具は一般機械器具、食料品に次ぐ第3位に転落している。産炭地振興のために誘致された大島造船所も省エネ船、LNG(液化天然ガス)輸送船の進水を主としている。一方、日本のエネルギー基地としての工業の復活を計るため、大村発電所(2002年より長期計画停止)、松島発電所のほか松浦市には大型発電所が建設され、LPG(液化石油ガス)の大型貯蔵基地も完成している。地場産業は、島原の乱後、香川県小豆(しょうど)島からの移住者によって始められた島原素麺(そうめん)がある。秀吉の朝鮮出兵の際、藩主が連れ帰った陶工によって始められた大村藩の波佐見(はさみ)焼と平戸藩の三川内(みかわち)焼は、現在、前者は日用食器の工業的大量生産を行い、後者は料理店向け食器を中心に手工業的生産を行っている。両者ともに国の伝統的工芸品に指定されている。また、長崎市内にはべっこう、カステラの伝統的手工業が続けられている。[石井泰義・貞方道明]
貿易・商業
貿易港には長崎港、佐世保港、松浦港、福島港、厳原港、松島港、そして長崎空港がある。長崎港は日本唯一の開港場という特殊性を失い、明治時代以後その地位は急落し、第二次世界大戦後、貿易は絶えたが、朝鮮戦争後回復の兆しを示し、1950年代後半から大型タンカーの輸出を中心に片貿易が行われていたが、現在は造船不況により船舶の輸出は減少している。佐世保港も船舶輸出の片貿易から長崎港と同じ経過をたどり、松島港、松浦港は石炭輸入、福島港はLPGの片貿易、厳原港は対韓貿易、長崎空港は対中貿易を主としている。1995年(平成7)貿易額総計3068億円のうち、輸出が72%強を占める片貿易で、輸出品目は一般機械、食品、船舶など、輸入品目は鉱物性燃料、機械機器、食料品などである。県内における年間商品販売額は3兆7911億円で、そのうちの63%を長崎・佐世保両市が占める。壱岐、対馬は博多(はかた)商圏に属するので、本県は三大商圏でカバーされる。地方的小商圏の核として、城下町・対馬市厳原、平戸、大村、島原、諫早のほか、本土では松浦市、壱岐では壱岐市郷ノ浦(ごうのうら)と芦辺(あしべ)、五島では五島市と新上五島町が年間60億円以上の販売額を示す商店街を形成している。[石井泰義・貞方道明]
交通
1898年(明治31)長崎本線、佐世保線が開通、その後、大村線、松浦線、私鉄の島原鉄道を加え、産炭地には世知原(せちばる)線、柚木(ゆのき)線、臼ノ浦(うすのうら)線が敷かれたが、現在、産炭地の鉄道は廃止された。長崎半島、西彼杵(にしそのぎ)半島および離島には鉄道の歴史がない。旧松浦線は現在第三セクター「松浦鉄道」として運行されている。道路は国道34号、35号、202号、204号、205号、206号、251号、383号などが本土でのおもな動脈をなし、九州横断自動車道長崎大分線(長崎自動車道・大分自動車道)は長崎多良見(たらみ)―大分米良(めら)間、西九州自動車道の武雄―佐世保間が開通している。離島では対馬縦貫道路の完成などがあり、瀬戸や湾をまたぐ万関(まんぜき)橋、西海(さいかい)橋、平戸大橋、福島大橋、崎戸(さきと)大橋、斑(まだら)大橋、戸岐(とき)大橋、旭(あさひ)大橋、若松大橋、生月(いきつき)大橋などが架けられ、本県交通景観の特色を示す。
 海上交通は第二次世界大戦前、上海(シャンハイ)との定期航路を有したが、戦後は閉鎖。1994年(平成6)再開の定期運航も3年で停止に追い込まれたが、2011年ハウステンボスのクルーズ船による定期運航が始まった。島原―熊本港間、厳原―壱岐―博多(福岡県)間、比田勝(ひたかつ)―博多間、印通寺(いんどうじ)―唐津東(佐賀県)間が県外と結ばれる海上航路で、離島航路は長崎―福江間、長崎―奈良尾間、佐世保―有川間、佐世保―大島・崎戸間、平戸―大島間、松浦今福―鷹島間などがあり、壱岐、対馬は博多港と結ばれ、いずれもカーフェリーが就航する。
 1975年(昭和50)大村空港を箕島(みしま)に移転し、島を掘削、海を埋め立ててつくった長崎空港は世界初の海上空港で、東京、大阪、名古屋、沖縄に定期空路があるほか上海、ソウルへの国際線がある。1963年福江空港の開設に続き、壱岐空港、対馬空港、上五島(かみごとう)空港、小値賀(おぢか)空港が開かれ(上五島・小値賀は2006年から休港)、離島空路も発達している。[石井泰義・貞方道明]
観光
春の新緑とツツジ、夏に涼を求めて散策し、秋の紅葉(もみじ)、冬の霧氷と四季それぞれの装いをかえる雲仙(うんぜん)は、日本で最初の国立公園に指定された。1990年(平成2)に198年ぶりに噴煙をあげ、1996年の「噴火活動終息宣言」までに43名の尊い命と多くの被害をもたらした。いまでは、元気を出して頑張ろうという意味の“がまだす”をスローガンに掲げて復興に取り組み、元のようすを取り戻しつつある。雲仙の麓(ふもと)には、甚大な被災の実態と火山活動を学習できる「雲仙岳災害記念館」が建設され、多くの観光客を集めている。
 壱岐(いき)、対馬(つしま)、五島列島に周辺の島々や半島をつなぐ総延長4170キロメートルの海岸線は、北海道に次いで長く、その景観は変化に富み西海(さいかい)国立公園、壱岐対馬と玄海(げんかい)の二つの国定公園となっている。
 佐世保(させぼ)の弓張岳(ゆみはりだけ)、展海峰(てんかいほう)などからの九十九(くじゅうく)島の景観を眺望したり、鹿子前(かしまえ)から発着する遊覧船「パールクィーン」で島々の間を巡ったり、カヌーを楽しむ人も多い。
 五島列島の美しい景観を眺め、太公望を夢見る釣り人も新鮮な海産物に舌づつみをうち、教会の夕映えと遣隋(けんずい)・遣唐使が最後の寄港地とした浦を巡る観光客もいる。
 日本の最西端は、大陸にもっとも近く、早くから国際交流が盛んで、それにつながる遺跡が随所にある。なかでも、江戸時代の長崎は、出島(でじま)を日本唯一の門戸として栄えた。長崎は、いま、出島や長崎奉行所を復元し、修学旅行の生徒たちも楽しみながら歴史学習のできる都市づくりを推進している。
 原爆記念日には平和を祈り、夏に爆竹の音色悲しく響きわたる精霊流(しょうろうなが)し、秋は、竜踊(じゃおどり)やふとん型御神輿(おみこし)のコッコデショなどが繰り出し“もってこーい”の掛け声で賑わう長崎くんち、冬には中国の春節祭にちなんだランタンフェスティバルがある。新地の中華街を中心にランタン(ちょうちん)を灯して曲芸を披露(ひろう)する中国雑技(ざつぎ)や蛇踊りなどが繰り広げられ、歴史に培われた独特の風情を醸し出し、多くの観光客を集めている。
 1992年、佐世保に開業した滞在型の大型テーマパーク「ハウステンボス(森の家)」は、県の内外における観光客の動向ルートを変化させることになった。ハウステンボスは「千年の街」を目ざし、建造物は本物志向で総工費152億円をかけ、175ヘクタールの敷地にオランダの古い町並みを忠実に復元し、環境対策に惜しみなく費用をかけた。1996年には420万人の入場者が訪れたが、その後はバブルの崩壊、そしてデフレ経済の影響で入場者を漸減させたものの、県内トップの観光客数を維持している。だが、2003年に会社更生法の適用を受ける手続きをするに至った。しかし、地域経済への影響は計り知れないものがあり、長崎県はじめ多くの団体からの支援もあって、営業は従来通り続けられており、来訪者も多い。
 2001年の長崎県の観光客は約3163万人で、対前年比0.4%増である。これは、修学旅行などが、アメリカ同時多発テロ事件の影響で、海外旅行から国内旅行に変更されたことや、五島での地引き網などが自然体験学習志向に合致したことなどで、好影響をもたらしたものと思われる。しかし、県全体としては、日帰り客が増加し、宿泊滞在型客は横ばいもしくは漸減となっている。
 外国人宿泊客は、訪日団体観光旅行の解禁から中国が漸増し、台湾、韓国、香港(ホンコン)、アメリカ合衆国から41万人で、県内宿泊客の3.2%を占めている。
 県内の地域別観光客は、ハウステンボスを含む佐世保地区が23.2%でもっとも多く、次いで歴史に彩られた港町長崎を囲む地区が19.3%、高速自動車道のインターと長崎空港がある大村地区は日帰り客が多いが10.3%、雲仙の火砕流跡や深江町・雲仙岳災害記念館近くの道の駅「みずなし本陣ふかえ」のある南高地区が9.7%、温泉のある小浜(おばま)地区8.7%である。さらに五島列島、平戸、壱岐、対馬、島原、松浦、西彼杵(にしそのぎ)など隠された魅力をもつ所が多く、児童・生徒を対象とした体験学習型の開発を含めた観光開発がまたれている。[松尾義嗣]

社会・文化


教育文化
中世末、外国貿易やキリスト教の繁栄によって、教会付設の小・中学校(セミナリオ)、高校(コレジオ)が設けられ、語学書、宗教書などの出版も行われていた。鎖国後はオランダ商館、唐館(とうかん)を通じて西洋文化(医学、博物学など)や中国文化(儒学、漢方、算術など)が伝えられた。1824年(文政7)シーボルトの開設した鳴滝(なるたき)塾は全国から集まった多くの英才を教育した。藩校の多くは17世紀中期以後開設され、大村藩の集義館(しゅうぎかん)、対馬藩の小学校(しょうがくこう)・思文(しぶん)館、五島藩の育英館(至善堂(しぜんどう))、島原藩の稽古(けいこ)館・済衆(さいしゅう)館、諫早領の好古(こうこ)館、神代領の鳴鶴所(めいかくしょ)、深堀領の謹申(きんしん)堂が藩士の子弟の教育の場だった。私塾として天領長崎の聖(ひじり)堂(輔仁(ほじん)堂・明倫(めいりん)堂)は儒学を講じ、そのほか寺子屋は九州では熊本、大分に次いで多かった。明治・大正時代における小・中学教育の全県的普及はやや遅れたが、離島や交通に不便な土地を抱えた特殊事情によるもので、今日では有数な教育県と評される。中等教育の萌芽(ほうが)は古く、長崎商業学校(現長崎商業高等学校)は1885年(明治18)の創立で、その起源は1858年(安政5)の英語伝習所に求められる。大学教育では、長崎大学医学部は1857年設立の医学伝習所にその起源があり、長崎府医学校、長崎医学校、官立第五高等中学医学部、長崎医科大学を経て現在に至っている。薬学部は1890年第五高等中学医学部薬学科として発足。長崎大学はほかに教育・経済・水産・工・歯学・環境科学部と8学部を有し、その総合性を発揮している。私立活水(かっすい)女子大学は1879年日本初の女子高等教育機関をなした活水女学校が母体、長崎純心聖母会創立の長崎純心大学はカトリック系である。ほかに長崎市に私立長崎総合科学大学、私立長崎外語短大などがある。1967年(昭和42)、佐世保市に長崎県立国際経済大学が新設され、現在長崎県立大学と改称されている。マスコミには県内一紙の『長崎新聞』、民放の長崎放送(NBC)、テレビ長崎(KTN)、長崎国際テレビ(NIB)、長崎文化放送(NCC)、テレビ佐世保(TVS)、FM長崎がある。[石井泰義・貞方道明]
生活文化
「京の女郎に長崎衣裳(いしょう)……」といわれるほど江戸時代の天領長崎の服装は華美ではでなものだったという。外国人と接触する長崎人の体面を保つために配分された竈銀(かまどぎん)に支えられた豊かさもあったためであろう。金銀縫箔(ぬいはく)の衣類を用い、べっこう、珊瑚(さんご)などの髪飾り、それに指鉄(ゆびがね)(指輪)などのトップモードも加わっていた。明治以後、活動的で簡素な服装になったとはいえ、現在でも高級衣料や貴金属の売れ行きはほかの都市より大きいといわれる。
 長崎の正月料理には、寒ブリと鯨肉とは欠かせないものとされた。鯨の腸をゆでた百尋(ひゃくひろ)は長寿のめでたい料理。鯨肉に熱湯を通したおばいけの酢みそ和(あ)えも珍味である。島原半島にはガンバ(河豚(ふぐ)料理)や具雑煮(ぐぞうに)、五島の奈良尾には紀州の漁民が伝えた紀鮨(きずし)がある。対馬のそば、五島のかんころ餅(もち)も食品的特産。南蛮、中国料理の導入による長崎の料理には卓袱(しっぽく)料理、普茶(ふちゃ)料理、ちゃんぽん、皿うどん、南蛮菓子としてカステラがある。
 長崎市内の商家は京都風で間口が狭く、細長い敷地の奥深くに部屋をつくり、中間に小庭をつくり、またここで採光している。急な坂の町では道路に沿った2階に玄関を設け、階下に食堂や居間をつくっている。[石井泰義・貞方道明]
民俗芸能
長崎くんちの奉納踊は諏訪(すわ)神社の神事で、竜踊(じゃおどり)など中国の影響を受けたものが多い。平戸市の亀岡神社で奉納される平戸神楽(かぐら)は24番あり、神職だけが伝承する二剣の舞(にけんのまい)は真剣を両手に持ち、白刃を口にくわえて回転する神技が奉納される。壱岐神楽は島内各神社の神職によって伝承され、4種目の神楽のほか湯立(ゆだち)神楽を伴い、二剣の舞も奉納される。いずれも国指定重要無形民俗文化財である。貝津(かいつ)神社(五島市)では神楽に付属していた獅子舞(ししまい)が正月行事として氏子(うじこ)の家を回る。浮立(ふりゅう)は鬼面や仮装で踊る華やかな芸能で、県下至る所で行われる。坂本浮立(東彼杵(ひがしそのぎ)町)は神楽浮立とよばれる大村藩の御用浮立で、井崎まっこみ浮立(諫早市小長井(こながい)町)は諫早領の陣立(じんだて)浮立である。佐世保市黒髪(くろかみ)町には木場(こば)浮立がある。いずれも雨乞(あまご)いや豊年祝いの行事、祭礼に演じられる。勇壮な武家姿が主役をなす踊りに黒丸(くろまる)踊り、沖田(おきた)踊り、鷹島(たかしま)踊りがある。黒丸踊り(大村市)は、武家衆8人が胸に大太鼓を抱き、背中に花からいを差して踊る。花からいはそれぞれ15個の花をつけた長さ3メートルの小竹を81本束ねたもので、踊るたびに華麗な花が空中に舞う。念仏踊りは離島部に独特のものが多く、オーモンデー(五島市)は嵯峨(さが)ノ島に伝承された念仏踊りで南方系のものといわれる。踊り手、鉦方(かねかた)ともに男性。チャンココ踊り(五島市)もオーモンデーと同形の踊りである。ジャンガラ念仏(平戸市)は前二者と同類の念仏踊りであるが、踊り手、鉦方のほかに太鼓、幟(のぼり)が多く加わり、武家色が濃く、30人余が集団をなして踊る。対馬の盆踊りは、歌舞伎(かぶき)、浄瑠璃(じょうるり)の影響を受け、盆狂言とよばれる。皿山(さらやま)(波佐見(はさみ)町)には皿山人形浄瑠璃、千綿(ちわた)(東彼杵町)には人形芝居の芸能が継承されている。[石井泰義・貞方道明]
文化財
旧石器~縄文時代の福井洞穴遺跡(佐世保市吉井町)をはじめ、縄文、弥生の遺跡や古墳群が数多く発掘されている。縄文、弥生遺跡は壱岐、対馬に多く、古墳は全県に広がるが、規模の小さいことを特色としている。667年(天智天皇6)に築かれた金田城(かねたのき)跡(特別史跡)は浅茅(あそう)湾岸の城山(じょうやま)(対馬市美津島町(みつしままち))を利用した朝鮮式山城で、石塁が山体を取り巻き、一ノ城戸(きど)、二ノ城戸、三ノ城戸の水門の遺構がある。中世、県北の諸島が大陸との文化交流を行った証左として高麗仏(こうらいぶつ)、仏典、経巻などの文化財がある。海神(わたつみ)神社(対馬市峰町(みねまち))の銅造如来(にょらい)立像(国指定重要文化財、以下重文と略す)は8世紀ごろの作である。黒瀬観音(くろせかんのん)堂(対馬市美津島町)の銅造如来坐像(ざぞう)は新羅(しらぎ)仏(重文)、安国(あんこく)寺(壱岐市芦辺(あしべ)町)の大般若経(だいはんにゃきょう)591帖(じょう)(重文)は高麗版である。また、早田(そうだ)家(対馬市美津島町)は李朝(りちょう)の国王が貿易に関連して発行した辞令、告身(こくしん)3通(重文)を所蔵(県立対馬歴史民俗資料館)。中世末の南蛮関係にはキリシタン墓碑(国指定史跡、以下史跡と略す。南島原市西有家(にしありえ)町、東彼杵町、大村市、川棚(かわたな)町、西海(さいかい)市西彼(せいひ)町など)が多い。平戸開港から長崎開港に至る文化財には平戸和蘭(おらんだ)商館跡(史跡)、幸(さいわい)橋(重文)があり、江戸前期では、島原の乱の原城(はらじょう)跡(史跡、南島原市南有馬(みなみありま)町)、「天草四郎時貞(ときさだ)関係資料」(重文)、さらに出島和蘭商館跡(史跡)がある。興福(こうふく)寺本堂(重文、長崎市)は1620年(元和6)創立の唐寺(とうでら)で、国宝の崇福(そうふく)寺大雄宝殿(だいゆうほうでん)は1646年(正保3)建立の福州系の唐寺、眼鏡(めがね)橋(重文)は唐僧如定(にょじょう)によってつくられた。旧円融(えんゆう)寺庭園(国指定名勝、大村市)は現在護国神社内にある石庭。江戸後期の文化財は長崎市に集中し、安政(あんせい)2年(1855)日蘭条約書、シーボルト関係資料、旧グラバー住宅、旧リンガー住宅(以上重文)などがある。国宝大浦(おおうら)天主堂は1864年(元治1)の建造物である。[石井泰義・貞方道明]
伝説
平戸の周辺は大陸に近いだけに遣唐船、元寇(げんこう)、倭寇など大陸にかかわりのある伝説が多い。平戸は中国徽州(きしゅう)生まれの大海賊王直(おうちょく)の根拠地だった所と伝えている。印山寺(いんざんじ)屋敷は王直の屋敷跡という。王直は、倭寇の松浦三十六党と手を組んで日本海を荒らし回った。また、密貿易にも活躍して巨万の富を積んだが、のち中国杭州(こうしゅう)で捕らえられて処刑された。五島には王直ゆかりの六角井戸、明人堂(みんじんどう)などが残っている。平戸川内浦(かわちうら)の千里ヶ浜には、台湾独立を図った風雲児鄭成功(ていせいこう)(和唐内(わとうない))の児誕石(じたんせき)がある。鄭成功は川内浦の女を母、明人鄭芝竜(ていしりゅう)を父とした混血児で、幼時を川内浦で過ごした。成人ののちオランダに支配されていた台湾を奪い返したが、雄図なかばにして病死した。その事績から近松門左衛門は『国性爺(こくせんや)合戦』という浄瑠璃をつくっている。付近には鄭成功分霊廟(ぶんれいびょう)や碑、手植えのナギの木などがある。佐賀県の陶都有田(ありた)に接している波佐見も、陶磁器で知られている所であるが、ここに鎮西(ちんぜい)八郎為朝(ためとも)伝説が根づいている。諫早地峡の御館山(みたてやま)に為朝の城館があったと伝えている。御館山から射た矢が遠く小豆崎(あずきざき)の岩に突き立ったという。為朝がこの地をあとにして京へ上ったのは、自分のために父源為義(ためよし)が朝廷に罰せられるとの知らせがあったからである。大村市に放虎原(ほうこばる)という地名があるが、放虎原とは荒れ果てた土地の意味である。昔、隠れキリシタンが潜んでいると密告した者がいて、このとき長崎奉行に捕らえられた者608名。そのうち牢死(ろうし)を免れた411名がこの地で殉教した。これを俗に郡崩(こおりくず)れという。放虎原には胴塚、首塚がある。信者の首と胴を切り離して埋めたのは、キリシタンの妖術(ようじゅつ)で死霊が蘇生(そせい)するのを恐(おそ)れたからと伝えている。獄門所跡の近くに、妻子が涙したという涙石が残る。長崎市春徳(しゅんとく)寺の境内に、外道井(げどうい)と名づける井戸がある。キリシタンのトードス・オス・サントス寺院の跡地で、弾圧の際に備えて長崎港まで通ずる地下道が井戸の底につくってあったという。毎年水飢饉(みずききん)に悩む長崎でも、麹屋(こうじや)町の井戸は三大美水の一つとしてたいせつにされていた。この井戸の別名を幽霊井戸とよぶ。昔、飴屋(あめや)へ夜更けに通ってくる女客がいた。その女の後をつけて行くと光源寺の墓地の新墓で消え、その墓の下から赤子が掘り出された。女はお礼に涸(か)れることのない美水のありかを教えたという。その幽霊の等身像が光源寺の寺宝となっている。市を東流する中島川の上流には河童(かっぱ)伝説が多い。昔は西山(にしやま)橋の下あたりで、河童が河原で遊ぶのが目撃できたという。河童伝説が著しいのは壱岐島で、いまも壱岐市の郷ノ浦(ごうのうら)や芦辺に河童の墓や供養塔が残っている。ともに河童の霊の祟(たた)りを恐れて供養した跡と伝えている。[武田静澄]
『『長崎県史史料編』全4巻(1963~1965・吉川弘文館) ▽瀬野精一郎著『長崎県の歴史』(1972・山川出版社) ▽吉松祐一著『長崎の民話』(1972・未来社) ▽『長崎県通史』全3巻(1973~1976・長崎県) ▽福田清人・深江福吉著『長崎の伝説』(1978・角川書店) ▽『新長崎風土記』(1981・創土社) ▽『長崎県大百科事典』(1984・長崎新聞社) ▽長崎県自然保護協会編『大地は語る』(1996・博文社) ▽長崎県県民生活部統計課編『長崎県勢要覧』『長崎県統計年鑑』各年版(長崎県統計協会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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