デジタル大辞泉 「北」の意味・読み・例文・類語
ほく【北】[漢字項目]
[学習漢字]2年
〈ホク〉
1 きた。「北緯・北極・北国・北上・北西・北端・北部・北風・北方・北洋/極北・
2 背を向けて逃げる。「敗北」
〈きた〉「北風・北国・北半球」
[難読]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
観測点から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに北,北北東,北東,東北東,東……など16方位で呼ぶのが一般的である。北は,観測者が太陽の昇る方向(東)に向いたとき左手に当たる方向で,英語のnorthもインド・ヨーロッパ語系のner(on the leftの意)に由来している。古来,中国や日本では十二支(干支(かんし))で方位を呼び,北は子に当たる。
現代人の場合はどうか知らないが,伝統的な日本人の感性にあっては,〈きた〉(北)といえば寒冷,静寂,冬,夜,暗黒,死者などのイメージが付きまとうほか,女性,胎内,水,知恵などとの連想のもとに観念されることが多かった。北風はつめたいものと決まっているし,北向きの部屋はもの静かで暗く,瞑想するにはもってこいの住居空間である。史実をみても,日光東照宮は江戸から真北に当たる霊廟であり,〈北の政所(まんどころ)〉〈北の方(かた)〉〈北の対(たい)〉〈北の台(だい)〉などの尊称は貴人(大臣,大将,公卿など)の妻室の居所から出た呼び名であった。また,〈北面(きたおもて)〉とは,女性のいる勝手口(奥向き,ないしょの意もある)をさす。たとえば,《枕草子》に,宮仕えしている女房の局(つぼね)に通ってくる恋人の男がそこで食事するのははなはだみっともないと叙した文章の末尾に〈里などにて,北面よりいだしては,いかがはせん。それだになほぞある〉(女房が実家にさがっているときに,ないしょで食事を出してやったような場合には,これはしかたない。そんな場合でも,やはり,みっともないことに変りはないが)と記しているのでわかるように,女性のみが出入りする場所を言った。江戸時代にも〈北御部屋(きたのおへや)〉といって将軍家大奥の居間があり,御台所(みだいどころ)や中﨟(ちゆうろう)が懐妊すると,5ヵ月目からこの部屋へ移った。一方,こんにちでも普通におこなわれる習俗である〈北枕〉は,仏教で釈迦涅槃像(しやかねはんぞう)にまねて死人の枕を北へ向けて寝かす臨終時の行儀作法である。このようにみてくると,日本人の〈きた〉に対する感じ方には確かに一定のパターンがあったと言わなければならない。
しかし,その根拠や理由を突き止めるとなると,かならずしも容易ではない。だいたいの見通しとしては,日本列島住民の生活習俗の根底部分に古くから陰陽五行思想が行き渡っていて,これが宮廷行事から民間信仰に至るまでの認識論体系を織り上げていたことと深い関係があるらしい,とだけ言っておこう。
まず,手がかりとして,〈きた〉の語源から調べていこう。貝原益軒《日本釈名(にほんしやくみよう)》(1699)は〈北 直指抄云,北方は其色黒し。上古には黒き色をきたなしと云。なしの文字は無の字の義にはあらず,語の助也。○直指抄の説まことに明か也。或又北は陽のはじめて生ずる方なれば,万物いきいきたるの意歟(か)。冬至子の半,一陽来復すれば也〉と説明づける。益軒の語源説明は,東を〈日頭(ヒガシラ)なり。らの字を略す。日のはじめて出る所,かしら也〉,西を〈いにし也。日は西へいぬる日のいにしと云意。いを略す〉,南を〈万物皆みゆる意。日の南にある時,あきらかにしてみな見ゆる也〉というふうに,方位を示す日本語がすべて太陽の所在場所に由来すると説いているのだが,いくぶん駄洒落(だじやれ)ないし語呂遊びのきみはあるものの,案外に日本古代人の世界認識に触れえていなくもないと思われる部分をも包含している。というのは,時間季節の名称とか色名とかにも太陽の運行をもとにした呼称法が用いられたと考えてよいからである。しかしながら,益軒の〈北は黒,黒はきたない〉説や〈北は陽のはじめ,万物いきいきたるの意〉説をこじつけと感ずる同時代人が現れたのは,これまた当然で,大塚嘉樹《蒼梧随筆》(1800)は〈白石君の東雅の解に見へしを釈日本紀,和名抄の如きに牽合して聊愚見を以て己れが好める方に荷担せしなり〉と注記しつつ,つぎのような語源説を提起してみせる。〈北,きたは分にてわかつの義なり。上古のとき,此葦原の中津国の地方は,北の方は越の山重りて東西をへだち分ちたり。是も都より東へ下り行くときに,南は東西に打つゞきて見へるが,北の方は上にいへるごとく,越の山重りへだゝりて東西を分つなるによて,分の字の義にてきたといへるなり。即ち南へ対したるの訓なり。分の字の訓をきたと云るは,日本紀の訓にて,大分君をおほきたのきと訓じ,又おほきたのきみとも訓ぜしなり。又和名抄に筑前国新分郡をいきた郡と読せたるも,是分をきたと訓ずるの拠る所なり。また段の字をきたと訓て,神代に素盞烏尊の八岐の大蛇を截断て三段となし玉へるなり〉〈全く上世に朝夕の日の出と夕べの日の没とを分ちし方なるを以てきたと云なり〉(巻之二,東西南北之和訓)と。なるほど,大塚嘉樹説のほうが貝原益軒説よりも合理的思考を数歩すすめたことは確かであるが,それにしても,〈きた〉と太陽の所在する方向とを切り離して考えない点ではまったく同じであり,どうやら古代日本人の方位呼称と太陽の射し入る方角ないし明暗度とは密接な関係があると考えるのが妥当のようにおもわれる。
ところが,一歩しりぞいて,東を日が差しそむる空を仰(=青)ぐ色としたり,南を物皆が見ゆる明(=赤)い方角としたり,西を日禰之(=日没)の著(しる)(=白)き方向としたり,北を日の出と日の入りとを分かつ暗(=黒)き穢(きたな)き方位としたりした,古代日本人のごたごたとして矛盾の多い原始心理を,中国伝来の陰陽五行思想の宇宙論システムの網目をとおして整頓し直してみると,いっさいがまことにすっきりしてくる。すなわち,記紀神話であれ祝詞であれ,詩歌であれ造形芸術であれ,はたまた宮廷呪術であれ民間信仰であれ,日本古代人が抱懐した方位感覚は,陰陽五行の中国哲学に準拠して学習=摂取に努めた結果として獲得したものであった。ずさんだったり矛盾だらけであったりするのは,当時の知識人の学力不足の結果であるか,民衆の一知半解ゆえの早とちりの結果である。北についていえば,陰陽五行説は,五番目の気を水とし,五色では黒,五時では冬,五星では辰星,五常では智,十干では壬と癸,十二支では亥・子・丑,月では十・十一・十二月をあらわしている。この基本システムを透視しさえすれば,古代日本人が多少は無理のある方位解釈をおこなったことも,非難するには当たらない。むしろ,非難に値するのは,平安時代になって,王朝貴族たちが本気で〈方違(かたたがえ)〉などの迷信を広めたことのほうである。
執筆者:斎藤 正二
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市北部の瀬戸内海に面した地域一帯をさす名称。名称は同地域が徳島県の最北端に位置し、島嶼部を除いて唯一徳島県が瀬戸内海の播磨灘に面する地であることに由来するとみられる。吉野川流域とは讃岐山脈(阿讃山脈)を隔てており、平地部には乏しいため、古来より漁業を中心に生業が営まれてきた。古くは
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都区部の北部に位置する区。北は荒川を隔てて埼玉県川口市に接する。1932年(昭和7)王子(おうじ)、岩淵(いわぶち)の両町が合併して王子区となり、滝野川(たきのがわ)町が滝野川区をつくり、その両区が1947年(昭和22)合併して北区となった。JR京浜東北線を境として、西半部は山手台地(やまのてだいち)で、台地を横切って流れる石神井(しゃくじい)川から以北は赤羽(あかばね)台、以南は上野台とよばれる。東半部は隅田(すみだ)川右岸の沖積地である。交通は、JR山手線が南東端を通り、JR東北本線と京浜東北線が併走して区部を縦断する。JR赤羽線は赤羽駅で東北本線・京浜東北線と山手線とを結んでいる。1985年に開通したJR埼京線は東北本線の一部と赤羽線を経由しており、赤羽駅はこれら各線の基点となっている。また、東京地下鉄南北線が通じ、都営地下鉄三田(みた)線が南端の豊島区との境界近くを通っている。唯一の都電荒川線も王子を中心に走り、首都高速中央環状線が通じる。区のほぼ南北方向に岩槻(いわつき)街道(日光御成道(おなりみち)、国道122号)が通って岩淵の宿場町を形成、南西端には中山道(なかせんどう)(国道17号)が通って滝野川の商店街がある。
江戸時代、台地は江戸北郊の地で飛鳥山(あすかやま)はサクラと紅葉の名所で知られた。野菜づくりの農村地帯は、明治以後に軍用地に利用、西ヶ原の海軍火薬庫、王子の陸軍造兵廠(しょう)、赤羽の工兵隊と火薬庫などがつくられた。第二次世界大戦後は住宅地や東京外国語大学(2000年府中市に移転)などの学園用地、公務員宿舎などの公共用地に転換した。一方、水田地帯であった東半部の低地は水利と交通など工業の立地条件に恵まれ、明治初期から製紙、紡績、化学などの工業が立地するようになった。
おもな観光・文化施設として、飛鳥山公園、旧古河(ふるかわ)庭園、名主(なぬし)の滝公園、凧市(たこいち)で有名な王子稲荷神社(いなりじんじゃ)、紙の博物館、国指定史跡の西ヶ原一里塚などがある。面積20.61平方キロメートル、人口35万5213(2020)。
[沢田 清]
『『北区史』(1992~1996・北区)』
北海道中西部、空知(そらち)支庁(現、空知総合振興局)管内にあった旧村名(北村(むら))。現在は岩見沢(いわみざわ)市の北部を占める地域。2006年(平成18)、空知郡栗沢村(くりさわむら)とともに岩見沢市へ編入。旧村域は石狩(いしかり)川中流左岸の低平地を占める。1893年(明治26)山梨県人北村雄治(1871―1903)が小作人を入れて北村農場を開き、開拓が本格化した。旧村名は彼の姓に基づく。旧村域は低湿地のため再三洪水の害を受けたが、治水工事の進展により、稲作農村として穀倉地帯の一環となった。JR路線、国道とも村域内を通らないが、月形(つきがた)町域の国道275号と、岩見沢(いわみざわ)市域の函館(はこだて)本線、国道12号、道央自動車道との間に挟まれている。
[柏村一郎]
『『北村村史』(1960・北村)』
方角の一つ。日の出の方角に向かって左手側にあたる。正確にいえば、方位主点(東西南北)の一つで、地軸の一端の方位を北、他端を南と定める。方位として十二支をあてる場合は子(ね)の方位となる。北はまた北風の略語として使われることもあるが、奄美(あまみ)大島や沖縄などの南西諸島では北はニシ、北風はマニシ、ニシカジとよばれ、西はイリ、西風はイリカジとよばれている。
江戸時代には江戸では吉原遊廓(ゆうかく)を、大坂では堂島を北といった。また釈迦(しゃか)入滅のときの臥(が)法が北枕(きたまくら)であったので、北枕は仏教徒の臨終の作法となり、死者をこのように扱ったので、北を忌むようになった。しかし部屋の北側は気温や明かりの変化が小さいので、静かに読書したり安眠をするには北向きがよく、古来、寺院などでは北窓に文机(ふづくえ)を置いたり、現在はアトリエなどで北から採光をしてあるものが少なくない。
[根本順吉]
語源については、冬至ののちふたたび太陽が戻ってくる(きたる)方角であるところからとする『和訓栞(わくんのしおり)』などの説、暗黒(きたなし)の義とする『日本釈名』などの説、日月の出没の方角たる東西を分ける(きた)意とする『東雅』などの諸説がある。北枕を忌む風習など、北にまつわる独特な習俗、名称は多い。公卿(くぎょう)、大名など身分の高い人の妻を北の方とよぶのは、彼女たちが寝殿造で正殿の北にある建物(北の対)に起居したことにより、北の政所(まんどころ)の語が摂政(せっしょう)・関白など貴人の正妻をいうのもこれによっている。
[宇田敏彦]
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…栃木県北部,那須岳(1917m)の南東麓に広がる高原。標高1200mをこえる大丸(おおまる)温泉付近から標高300~400mの国道4号線付近までの扇形に広がるすそ野を指し,那須町の一部をなす。…
…大阪市北区のJR大阪駅付近の交通ターミナルを中心とする地区名。18世紀初めに大坂三郷の北端に曾根崎新地が置かれて〈キタ〉と呼ばれるようになったが,1874年大阪駅が開設された時は,西成郡曾根崎村の水田地帯であった。…
…地形は,淀川と大和(やまと)川がつくった沖積低地と上町台地によって構成される。上町台地は大坂城付近から南へ向かって細長く半島状につづく台地で,淀川に臨む台地北部は,古代の難波(なにわ)京と四天王寺,中世後期の石山本願寺,近世の大坂城が立地して,大阪の長い都市史における中核をなしてきた。台地の北側と西側には,天満から船場,島之内を経て難波(なんば),粉浜(こはま)にかけて,砂州と呼ばれる微高地が帯状に伸びている。…
※「北」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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