太平洋戦争(読み)たいへいようせんそう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

太平洋戦争(第二次世界大戦)
たいへいようせんそう

1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃、日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、1945年9月2日、日本の降伏文書調印によって終わった戦争。日本の指導者層は大東亜戦争と呼称した。1931年(昭和6)の満州事変に始まる日中十五年戦争の発展であり、日中戦争を重要な一部として含む。また世界的には第二次世界大戦の一部であり、その重要な構成要素であった。第二次世界大戦はファシズム諸国を中心とする枢軸陣営と反ファシズム連合国との間で戦われたが、日本は日独伊三国同盟によってドイツ、イタリアと結び付いていたので、枢軸陣営に属した。三国同盟は一面では植民地分割協定であり、その面からいえば、戦争は世界再分割のための帝国主義戦争であった。日本の軍事行動は、中国を中心に東アジアから東南アジア、太平洋地域一帯に対して行われたが、日本の占領地域の民衆が抗日のための民族的な統一戦線を結成し、武装抵抗を行ったのもこの戦争の大きな特徴で、そのため太平洋戦争は、アジア諸民族の側からは帝国主義の植民地体制を打破する重要な契機となった。戦争末期にはソ連も参戦し、その結果、戦後の東北アジアでソ連の影響力が強化されるに至った。[荒井信一]

戦争の起源

太平洋戦争は、明治以来の日本の近代化の総決算ともいうべき深い歴史的根源をもつ大戦争であった。日本は日清(にっしん)・日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太(からふと)を植民地とし、南満州(中国東北)を勢力範囲化して、アジアにおける唯一の帝国主義国として自立するに至った。さらに第一次世界大戦では、ドイツ領南洋諸島と中国の山東(さんとう)半島を占領するとともに、中国に二十一か条要求を突き付け、山東省のドイツ旧権益の継承などを認めさせた。また、ロシア革命後の1918年(大正7)にはシベリアに出兵して、東シベリアに傀儡(かいらい)国家を樹立しようとした。戦後のベルサイユ会議は山東に対する日本の要求を認めたが、これに反発して中国では五・四運動が起こり、シベリア出兵も頑強なソビエト側の抵抗によって失敗した。朝鮮でも独立を要求する三・一独立運動が起きた。
 日本の大陸侵略が、朝鮮や中国の民衆の持続的な抗日運動の展開やソ連の強国化によって停滞をやむなくされたことは、第一次世界大戦後の東アジア史の重要な特徴であった。この時期に太平洋戦争の一因である日米対立も発展した。日露戦争後、満州問題、日本人移民排斥問題などをめぐり日米関係は悪化していた。とくに第一次世界大戦中の日本の強引な大陸進出は、アメリカをはじめとする列国の反感を買っていた。戦後アメリカが極東市場に復帰すると、対立は軍事的にも発展し、両国間の海軍軍備拡張競争が深刻となった。アメリカは1921~1922年にワシントン会議を首唱して、軍縮条約を成立させるとともに、九か国条約によって、アメリカの主張する原則である門戸開放・機会均等などを中国進出の原則として認めさせた。また四か国条約と引き換えに日英同盟は廃止され、山東省の諸権益も中国に返還された。ワシントン体制は、経済的に優越したアメリカの指導権の下に日本の中国進出を経済的分野に限り、またその活動範囲を西太平洋に限定して極東での列強対立の緩和と帝国主義支配の安定化を図ろうとするものであった。
 ワシントン体制の下で、列国との協調、中国内政不干渉を掲げる幣原(しではら)外交が行われ、1920年代の日本の外交は、ほぼ米英との協調派の主導下にあった。しかし中国における国民革命の発展、金融恐慌、世界恐慌の波及に伴う昭和恐慌などの内外情勢は、中国大陸への膨張と対米英抗争を主張する勢力の急激な台頭を招いた。1927年(昭和2)に成立した田中義一(ぎいち)内閣の対華武力干渉政策はその最初の現れであり、太平洋戦争を侵略戦争とし、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)は、日本の侵略計画の発端をこの内閣の対華政策に置いている。1931年の満州事変も、軍部を中心とするこの勢力の始めたものであった。
 満州事変は、15年に及ぶ中国侵略戦争の発端となった。同時に国内では、軍部の「革新派」を中心とするファシズム運動の進展するきっかけとなり、軍部はしだいに政治の指導権を握っていった。「満州国」建設後、軍部はさらに「防共」を大義名分とする華北分離工作を進め、華北に勢力を扶植していったので、中国では華北を中心に抗日救国の動きが全国に広がっていった。その結果、西安(せいあん)事件(1936年12月)を契機に、1937年9月国民党と共産党の提携(第二次国共合作)が成立し、抗日民族統一戦線が結成され、全民族的な抗戦体制が初めて成立した。この年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まる日中間の全面戦争が長期化し、1938年末ごろから戦線が膠着(こうちゃく)していった最大の理由は、このような中国側の主体的状況の画期的な転換にあった。日本の支配層はこのような情勢を認識できず、国民党政府の切り崩しや、ドイツ、イタリアとの結び付き強化など、姑息(こそく)な事変処理策によって戦争の行き詰まりを打開しようとした。その一方、南方に進出して戦争を継続するうえで必要な石油その他の資源を獲得しようとして戦線をずるずる拡大し、太平洋戦争の悲劇に帰結するのである。[荒井信一]

英米との対立激化

他方、このような日本の動きは、列国との対立をいっそう激化させた。満州事変は中国の提訴によって国際連盟の問題となったが、1933年(昭和8)には日本は連盟を脱退する一方、1936年の日独防共協定(翌年イタリアが加入)の締結を機として、独伊とともに枢軸陣営結成に向かった。アメリカは満州事変に際し、日本の侵略の結果に対し不承認を表明したが、やがて1933年にはソ連を承認し、日本に対抗する新しい勢力均衡を東アジアにつくりだそうとした。日本がロンドン軍縮会議から脱退した1936年からは、日米の建艦競争が無制限に行われることになった。日中戦争の開始は、英米と日本との関係を緊張させ、1937年10月にはルーズベルト米大統領が、侵略者を隔離すべきだと演説するまでになった。しかし英米は、中国に対する具体的な援助には慎重であった。一方、日本の膨張にはソ連に対抗する一面もあり、1938年に張鼓峰(ちょうこほう)事件、1939年にはノモンハン事件と日ソ間に大規模な武力衝突も起こった。そこでソ連は、中国の抗日戦に対し当初から積極的な援助を行った。しかし英米の一部には、日本の侵略がソ連の方向に向かうことを期待する空気もあり、日本に対抗する列強の連係は不十分であった。日本の側でも、重要な戦争資材の供給を英米、とくにアメリカに依存している関係上、英米関係を重視する勢力が宮廷や財界をはじめ支配層の有力な部分にあった。しかし日本の占領地域と戦線が拡大するにつれて、英米の在華権益は大打撃を受け、商品や資本も中国市場から後退した。対立が深まるのは不可避であり、英米の対華援助もしだいに強化された。1939年になると、イギリスはヨーロッパ情勢の急迫から、その対華政策を後退させざるをえなかったが、それはかえってアメリカの対華政策を積極化させる契機となり、日米対立がいまや前面に現れることとなった。アメリカはこの年7月、日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも戦争資材の対日供給を停止して、日本を圧迫できる体制をとった。このような国際関係の緊迫のなかで、防共協定を強化して三国軍事同盟を締結しようとする動きも発展した。その推進力であった陸軍は対象国としてソ連を考えていたが、8月独ソ不可侵条約の成立によって実現を阻まれ、無為無策のうちに第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)を迎えなければならず、このころには陸軍も中国からの撤兵を考慮せざるをえない状況となった。[荒井信一]

戦争への突入

1940年4月、ドイツは電撃戦によって北欧、ついで西欧作戦を展開、6月17日には早くもフランスを降伏させた(その直前の6月10日イタリア参戦)。ドイツはさらにイギリス本土に激しい空襲を加えたが、10月には英本土上陸をあきらめ、ひそかに対ソ戦準備を始め、バルカン半島に進出した。ヒトラーの西欧征服は日本の支配層を眩惑(げんわく)させ、ドイツの支配下に置かれたフランス、オランダの植民地の奪取を中心に東南アジア一帯に武力南進を行おうとする機運を一挙に高めた。7月22日に成立した第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「大東亜新秩序の建設」を呼号し、仏印(フランス領インドシナ)進駐など武力南進の具体的措置を定めるとともに、対米戦の場合を考慮して戦争準備に着手することとした。それは、9月に入って北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟締結となって具体化した。近衛内閣の松岡洋右(ようすけ)外相はさらに翌1941年(昭和16)4月、日ソ中立条約を結び、三国同盟に加えてアメリカを圧伏する体制を整え、対米関係を有利に打開しようとした。この間、国内的にも1940年10月には大政翼賛会を発足させ、強力な権力的統合、国民の自発的支持調達など、総力戦の遂行に不可欠な国内体制の整備に努めた。しかしこれらの動きはかえってアメリカを刺激し、経済制裁や太平洋方面の軍備強化に踏み切らせ、イギリス、オランダもこれに倣った。日本はこれを日本に対するABCD包囲陣(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)の結成と宣伝し、日本とこれら三国との関係は緊張した。この緊張を解決するため、翌1941年4月から日米交渉が開始されたが、交渉は難航した。
 1941年6月22日、ドイツは無通告で対ソ戦を始めた。新事態に対処するため7月2日御前会議が開かれ、南進態勢をいっそう強め、そのためには対米英戦争も辞せずとした。対ソ戦についても、独ソ戦の成り行きが有利となれば開戦することとした。この決定に基づいて南部仏印進駐が行われるとともに、関特演(関東軍特種演習)の名のもとにソ満国境に大軍が集中された。しかしこの動きはアメリカの強い反発を招き、アメリカは在米日本資産の凍結、ついで石油の対日輸出全面禁止に踏み切った。さらに米大統領はチャーチル英首相と会談、8月14日大西洋憲章を発表、枢軸諸国の侵略と対決する立場を明らかにした。すでにこの年3月、アメリカは武器貸与法を制定し「民主主義の兵器廠(しょう)」となることを明らかにしたが、ソ連にもこれを適用、反ファシズム連合国の一員としての立場を明確にした。
 アメリカの石油禁輸により日本は石油の備蓄を食いつぶしてじり貧状態となることが予想され、このような破局を避けるため開戦を急ぐべきだという主張も海軍の強硬派を中心に強まった。9月6日の御前会議は、10月下旬を目標に対米英戦の準備を「完整」すること、日米交渉が10月上旬になっても目途のつかないときには開戦決意をすることに決めた。10月に入ると主戦派の東条英機(ひでき)内閣が成立した。日米交渉はなお続いたが、中国からの撤兵問題や三国同盟の解消問題をめぐって停滞した。こういうなかでアメリカの決意も固まり、11月26日には強硬なハル・ノートを提出してきたので、交渉は行き詰まった。すでに11月5日の御前会議で、12月上旬を武力発動の時機と定める決定が行われ、陸海軍はハワイおよび南方作戦準備のため進発していたが、12月1日の御前会議は最終的に開戦を決意、かくてその一週間後、太平洋戦争は開始されるのである。[荒井信一]

戦争の経過

まず、戦争の経過を大きく概観しておく。太平洋戦争は、1941年(昭和16)12月8日、日本の真珠湾攻撃によって始まり、緒戦は日本軍の優位のうちに、太平洋でも東南アジアでも日本の占領地域は拡大した。しかし、翌年6月のミッドウェー海戦で太平洋の制海権がアメリカ側に移ったことを転機とし、1943年2月、日本軍がガダルカナル島から撤収したことを決定的な分岐点として、連合国軍は反攻に転じた。1944年6月、連合国軍はサイパン島を攻略したが、このことは、(1)第一次世界大戦以来日本の勢力範囲であった内(うち)南洋が連合国軍の手に移ったこと、(2)アメリカの戦略爆撃機B-29による日本本土の往復爆撃が可能となり、戦争の熾烈(しれつ)な被害が直接日本の全土に及ぶようになったこと、の2点で日本の敗勢を決定的とした。1945年5月のドイツの無条件降伏は、翌月の沖縄戦終結と相まって、太平洋戦争の最終段階の到来を意味し、8月の広島・長崎への原爆投下(6日、9日)と、ソ連の参戦(9日)によって、日本はポツダム宣言を最終的に受諾して降伏、戦争はようやく終結したのである。
 1941年12月8日、開戦とともに日本海軍はハワイ真珠湾に奇襲攻撃を加え、航空母艦を除き米太平洋艦隊の主力を全滅させた。さらにマレー沖で英東洋艦隊の主力戦艦を沈め、西太平洋の制海・空権を握った。優勢な海空軍力に支援されて、陸軍はタイ、マレー、フィリピンに進出し、1942年1月にはマニラ、2月にはシンガポールを占領したあと、3月にはラングーン(現ヤンゴン)も占領した。蘭印(らんいん)(オランダ領インドシナ、現インドネシア)も3月には完全に攻略され、日本軍はニューギニア西岸からソロモン諸島に上陸し、この間オーストラリアのポート・ダーウィンにも日本機による空襲が行われた。太平洋では開戦と同時にグアム島上陸が行われ、マーシャル、ギルバート諸島の線にまで日本軍は進出した。
 こうして西太平洋からビルマ(現ミャンマー)に至る広大な地域が日本軍の占領下に置かれた。アジアの諸民族がおのおのそのところを得る「大東亜共栄圏」の建設が日本の占領目的とされたが、具体的な占領政策は、資源の獲得と軍隊の「自活」を目的とした。また将来独立を与えるのはビルマとフィリピンだけで、現地民衆に独立の観念を植え付けるよりは、日本軍に一方的に依存し屈従するよう指導する方針がとられた。「大東亜共栄圏」の実態は日本を中心とする植民地体制にほかならなかった。日本軍は至る所で戦争遂行に必要な資源や労働力を略奪したので、現地の物資は欠乏し、生産は破壊され、激しいインフレーションのため民衆は窮乏した。たとえばベトナムでは約200万人が餓死したといわれる。それは、日本軍の過酷な軍政と相まって、各地民衆の占領に対する武装抵抗運動を発展させた。インドシナのベトミン(ベトナム独立同盟)や、フィリピンのフクバラハップ(抗日人民軍)などが抗日のための民族的な統一戦線として結成され武装闘争を行った。「大東亜共栄圏」の中核とされた中国では、日本の占領地域に中国共産党系の八路軍(はちろぐん)や新四軍(しんしぐん)が浸透して次々に解放区をつくり、終戦までにその人口は約1億(1945年8月15日朱徳総司令の米英ソ3国あて覚書)に達したとされた。これら諸民族の自律的な解放闘争の発展は、日本の占領を内部からむしばみ、その敗北をもたらす要因となった。
 1942年5月のサンゴ海海戦は、日米双方が航空機で戦った新しいタイプの海戦であった。翌月5~6日のミッドウェー海戦では、米空軍の急襲を受けて日本海軍は主力空母を失い、制海・空権を奪われて、以後、戦争の主導権をアメリカに譲ることとなった。8月には南太平洋上の孤島ガダルカナル島に米軍が上陸し死闘が続けられたが、1943年2月日本軍は同島から撤退した。同島およびソロモン海海戦など周辺海域の戦闘で日本軍は兵力のみならず多くの軍艦、航空機、船舶を失った。その結果、南方と日本内地の輸送は致命的な打撃を受け、日本の戦争経済は破綻(はたん)の傾向を強く示すようになった。
 1943年、ヨーロッパ戦線ではソ連軍が戦略的反攻に移り、8月には早くもイタリアが枢軸から脱落して降伏した。太平洋戦線でも連合国軍はソロモン諸島、ニューギニアなどで日本軍を敗退させ、北太平洋でもアッツ島、キスカ島を奪い返した。秋には中部太平洋でも、内南洋制覇を指向する反攻作戦が始まった。9月30日の御前会議は、戦争遂行上絶対確保すべき地域として、戦線のはるか後方に「絶対国防圏」を設けたが、11月末には同圏内にあるギルバート諸島のマキン島とタラワ島が落ち、さらにマーシャル諸島から1944年にはマリアナ諸島に迫り、7月ついに要衝サイパン島が陥落した。同月東条内閣は責任をとって辞職、小磯国昭(こいそくにあき)内閣がこれにかわった。一方、ビルマでも1943年末から連合国軍の反撃が始まった。この間、1944年3月に日本軍はインドへの侵入をねらうインパール作戦を始めたが、イギリス領インド軍のうちのインド人部隊の反撃にあって大敗を喫し、同年中にはビルマ戦線は崩壊した。中国では南方との交通を開く大陸打通(だつう)作戦が1944年春から行われ、国民政府軍に大打撃を与えたが、これが中国大陸における日本軍最後の大作戦になった。[荒井信一]

戦争の終結

アメリカの対日反攻戦略は、日本陸軍の主力と戦うことによる人命の損失と消耗を避けるため、中国本土を避け、フィリピンから沖縄を経て日本本土へ迫る島伝い作戦の形をとった。1944年(昭和19)10月、米軍はフィリピンに上陸し、日本の地上兵力を壊滅させたほか、レイテ沖海戦などで海軍兵力と航空機の大半を失わせたので、日本本土と南方資源地帯との連絡は完全に遮断された。11月からは、サイパンを基地として大型爆撃機B-29が大挙して飛来、東京をはじめ各都市の空襲を開始し、本土の国民も直接の戦禍を受けるようになった。1945年1月には最高戦争指導会議で本土決戦即応態勢確立の方針が決まる一方、10代の少年から40代の老兵までが召集されて本土決戦用の兵力が増強された。2月には米軍の硫黄島(いおうとう)上陸があり、4月には沖縄本島上陸が開始された。日本軍による組織的抵抗の終わった6月23日まで3か月近く続いた沖縄戦では、県民も戦闘に義勇軍として動員される一方、戦闘の巻き添えを食ったり、日本軍にじゃま者扱いにされて殺される例も多かった。当時50万の人口をもつと思われる沖縄で、県民非戦闘員を含む日本側の死者は、約18万人(県援護課資料による)をはるかに超えたものと推定される。沖縄に米軍が上陸した直後、小磯内閣は辞職し、鈴木貫太郎内閣が成立したが、5月ドイツが降伏すると、最高戦争指導会議は、ソ連を利用する和平工作を進めることを決定、和平の仲介をソ連に申し入れることとした。
 一方、連合国はすでに1943年11月、カイロ宣言を発し、対日戦の目的を明らかにするとともに、日本の無条件降伏まで戦争を続ける態度を明らかにしていた。さらに日本本土上陸作戦が具体化するにつれて、アメリカはソ連の対日参戦を熱望し、1945年2月の米英ソ首脳によるヤルタ会談では、ソ連の満州の権益や北方領土確保と引き換えに、対独戦終了後における対日参戦の約束がなされた。しかし対独戦が終わったころから、米ソ対立が表面化し、米政府内部では、天皇制の保持を約束することによって日本の早期降伏を促進しようとする機運が高まり、7月初めにはその趣旨を盛り込んだポツダム宣言の原案が作成された。しかし、7月16日に原爆実験が成功すると、ポツダム会談に臨んだトルーマン大統領は、天皇制条項を日本が受諾しにくい形に書き改め、7月26日に公表して日本に無条件降伏を呼びかける一方、25日には原爆投下命令を出した。それは、8月1日以降天候の許すときには日本の4都市(広島、小倉(こくら)、新潟、長崎)のいずれかに原爆を投下することを命令したものであって、ソ連参戦以前に対日戦を終了させようとし、または対ソ示威の効果をねらったものと解されている。その結果8月6日広島に、8月9日長崎に原爆が投下され、市街地を壊滅させたほか、被爆による死者は、1945年末までに、広島で約14万人(誤差1万人)、長崎で7万人(誤差1万人)に上ったとされている(ISDA JNPC編集出版委員会編『被爆の実相と被爆者の実情――1977NGO被爆問題シンポジウム報告書』による)。
 しかし、日本の終戦決意を最終的に固めさせたのは原爆ではなく、ソ連の参戦であった。8月9日、ソ連が参戦し、満州・朝鮮で軍事行動を開始すると、同日夜半から10日にかけて開かれた御前会議は、国体護持の条件のみでポツダム宣言を受諾することを決定した。これに対し、アメリカは12日、日本側の条件を暗に認めた回答文をバーンズ国務長官の名で通告してきた。その表現があいまいであったため、陸軍を中心とする主戦派はあくまで本土決戦を主張したが、14日の御前会議は天皇の「聖断」によって無条件降伏を決定した。この決定は翌15日、天皇のラジオ放送(「玉音放送」)によって国民に告げられ、戦争は終わったのである(なお正式の降伏文書調印は9月2日)。[荒井信一]

戦時下の国民生活

日中戦争が長期化すると、政府は1938年(昭和13)4月国家総動員法を制定、労働力や物資を統制し、民需産業を極度に切り詰めて軍需産業を拡大した。そのため日常生活物資が不足し、衣料品や砂糖、マッチなどが配給制度となった。食糧もしだいに不足し、1942年2月には食糧管理法が制定されて、主食も全面的に統制された。一方、国民精神総動員の名のもとに国民の生活や思想に対する統制が強まり、反戦的な言論や戦争に非協力な人々に対する弾圧が強化された。朝鮮・台湾では皇民化政策がとられた。とくに朝鮮では1938年以来、学校での朝鮮語の使用禁止、姓名の日本式姓名への改変、神社参拝などが強制され、物心両面における動員態勢が急激に進められた。
 太平洋戦争が始まると、その直後に「言論出版集会結社等臨時取締法」が制定され、すこしでも戦争に疑問をもつ者は「国賊」として徹底的に取り締まられた。一方、1942年5月大政翼賛会も改組され、以降、翼賛会の指導する部落会、町内会、隣組を通じて、国民生活は隅々まで官僚の統制下に置かれ、国民を戦争に動員する「翼賛政治体制」が確立した。戦争はこのように国民に対する過酷な支配と統制の下に進められたが、しだいに深刻化した食糧など物資の不足と労働力の欠乏は、さらに国民に大きな犠牲を強要した。1943年ごろから食糧難は深刻化し、国民はヤミによる物資の補給によってかろうじて生活を維持する状態となった。労働力の不足を補うため、1943年以降は徴用制度が強行され、学徒動員や、女子挺身(ていしん)隊の拡大が行われた。また1944年には朝鮮で、1945年には台湾において徴兵制が実施された。
 戦争末期には空襲によって、国内の軍需生産能力も国民生活も深刻な打撃を受けた。学童疎開なども行われたが、空襲によってほとんどの都市が焼失し、1000万に近い罹災(りさい)者を出した。インフレによる物価の高騰も、戦争直後に急速に進行して国民生活を悪化させた。戦時下の日本では、厳しい弾圧によって組織的な反戦運動はほとんど存在せず、わずかに国外の日本兵捕虜を中心に、中国で日本人民解放連盟が組織されて反戦運動を行った程度であった。しかし総力戦の強行に伴う国民生活の広範な破壊は広く厭戦(えんせん)的気分を生み、戦争末期には支配層をして、敗戦よりも敗戦に伴う革命を危惧(きぐ)させるまでとなった。[荒井信一]

戦争の指導体制と戦争責任

太平洋戦争終結後、1946年(昭和21)から開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)は、太平洋戦争を、軍部を中心とする日本の支配層の共同謀議による侵略戦争とみて、東条英機以下の被告に有罪判決を下した。裁判が国民の前に、戦争の準備や経過、侵略の実態を明らかにした功績は大きいが、反面、裁判が勝者の論理で進められたことや、天皇、財界の指導者の訴追を行わなかったことは、日本の戦争責任の解明に問題を残した。1956年に昭和史論争が論壇をにぎわしたが、そこでは侵略戦争に加担した国民の戦争責任の問題が提起された。
 太平洋戦争における日本の戦争責任の問題は、戦争の指導体制の実態をどうみるかと密接にかかわっている。日中戦争以来、戦争の拡大化とともに、軍部や革新官僚を中心として総力戦体制が構築されていった。それを第二次世界大戦におけるファシズム陣営の一翼を担ったものとして、国際的にファシズム体制とみるのであるが、国内的には天皇制の強化という権威主義的要素が強く、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムとの共通性と差違をどう認識するかが問題になっている。また太平洋戦争の開戦も終戦も天皇の臨席する御前会議の決定によるものであり、総力戦体制は東条内閣の下で軍部独裁の性格を強めたが、陸軍と海軍の間でも、統帥と国務の間でも、分裂は最後まで克服されず、日本の戦争指導体制の実態は多元的であり、侵略戦争の遂行にあたって個々の人物や勢力の役割や責任を特定しにくいことも事実である。[荒井信一]

戦争の結果

太平洋戦争の人的被害についての正確な数字はわからない。日本側では一般国民を含め250万人前後が死亡または行方不明になったと考えられている。日本の侵略を受けたアジア諸国での死者は1800万人に上り、日本でもアジア諸国でも死者の比率はおおよそ30人に1人と考えられる。最大の被害を受けた中国では軍人・ゲリラの死者321万人、一般市民の死者1000万人以上とされている。
 日本の敗北は、アジアの各地域において植民地体制崩壊のきっかけとなった。ベトナム、インドネシアは敗戦直後に独立を宣言した。フランス、オランダはこれを認めなかったが、いずれも激しい独立戦争ののち独立を承認させた。ビルマ(ミャンマー)でも戦争中の反日抵抗組織が完全独立を要求して、1948年に独立を獲得した。インドでは、戦時中に日本軍が組織した「インド国民軍」に対する軍事裁判がきっかけとなって反英運動が発展し、1947年にはパキスタン、インドが二つの自治領の形で事実上独立し、セイロン(スリランカ)も翌年イギリス連邦内の一国として独立した。マラヤは1948年2月自治州の連邦(マレーシア)となり、フィリピンは1946年7月共和国として独立したが、これら諸国では戦争中の抗日武装勢力は抑圧された。
 東アジアでは、中国は戦勝国であったが、戦争終結とともに、国民政府と共産党との関係が深刻化し、1946年には内戦に発展した。朝鮮は38度線を境に米ソ両軍によって占領されたが、米ソ関係の悪化とともに、連合国の信託統治を経て独立へというコースは実現せず、1948年にはアメリカ占領地域に韓国、ソ連占領地域に北朝鮮がつくられて、分割国家の悲劇を生んだ。
 日本はカイロ宣言によって、主権を本州、九州、四国、北海道とその周辺の諸小島に限られ、連合国軍の占領下に置かれた。沖縄および奄美(あまみ)諸島は直接米軍の軍政下に置かれたが、それ以外の本土に対しては、天皇以下日本政府の機構を通じて占領政策を行う間接統治の方針がとられた。しかし米ソ対立が発展し、中国革命が進展するにつれて、占領政策は日本の経済復興や再軍備を図り、日本を極東における反共の防壁とすることをねらうものとなった。そして朝鮮戦争の勃発(1950年6月)を契機に、日本の再軍備を促すとともに、ソ連などの社会主義国や、中国その他アジア諸国の反対を押し切って、1951年(昭和26)9月サンフランシスコ講和条約を成立させた。しかし、太平洋戦争に多くの犠牲を払った国民の平和意識は成長し、一方的な講和に対する反対は国内でも強く、またその後の再軍備の進展や、そのための憲法改正を阻む大きな要因となった。この国民意識の変革こそ、太平洋戦争の結果としてもっとも重視されるべきであろう。[荒井信一]
『歴史学研究会編『太平洋戦争史』全6巻(1971~73・青木書店) ▽日本国際政治学会太平洋戦争原因部会編『太平洋戦争への道』全8巻(1963・朝日新聞社) ▽児島襄著『太平洋戦争』上下(中公新書) ▽本多公栄著『ぼくらの太平洋戦争』(1973・鳩の森書房) ▽木坂順一郎著『昭和の歴史7 太平洋戦争』(1982・小学館)』

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