デジタル大辞泉 「福島」の意味・読み・例文・類語
ふくしま【福島】[都道府県]
福島県北部の市。県庁所在地。江戸時代は奥州街道の宿駅で、板倉氏の城下町。電器・食品工業や、桃・ナシなどの果樹栽培が行われる。飯坂・土湯などの温泉がある。平成20年(2008)に飯野町を編入。人口29.2万(2010)。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
基本情報
面積=1万3782.76km2(全国3位)
人口(2010)=202万9064人(全国18位)
人口密度(2010)=147.2人/km2(全国39位)
市町村(2011.10)=13市31町15村
県庁所在地=福島市(人口=29万2590人)
県花=ネモトシャクナゲ
県木=ケヤキ
県鳥=キビタキ
東北地方の最南部にやや東西に長い形で位置する県。東は太平洋に臨み,北は宮城・山形両県,西は新潟県,南西の一部は群馬県,南は栃木・茨城両県に接する。東西約166km,南北約133km,面積は都府県中では岩手県に次いで広い。
県域はかつての陸奥国南部,明治の分国後は岩代(いわしろ)国全域および磐城(いわき)国南半にあたる。1868年(明治1)1月には会津藩,二本松藩,福島藩,下手渡(しもてど)藩,三春藩,棚倉藩,守山藩,磐城平藩,泉藩,中村藩,湯長谷(ゆながや)藩と,飛地,天領が入り組んでいた。同年の会津戦争後,いちはやく新政府に帰順した守山,三春,中村などを除き,奥羽越列藩同盟に参加した多くの藩は,新政府側諸藩に預けられ,まもなく旧天領とともに各民政取締所(後に民政局と改称)の支配下に置かれた。同年末陸奥国を5国に分割するとともに東北諸藩に対する処分が行われ,旧藩の多くは翌年にかけて領地削減のうえ復活し,69年には若松県,白河県,福島県が新設されて民政局は廃止された。一方,1868年福島藩は三河国重原へ,下手渡藩は筑後国三池へ,翌69年会津藩は陸奥国斗南(となみ)へ,70年には守山藩は常陸国松川へ移されている。71年廃藩置県を経て磐城平,三春,棚倉,泉,中村,湯長谷の諸県は平県(まもなく磐前(いわさき)県と改称)に,福島,二本松,白河の三県は二本松県(のち福島県と改称)に統合され,現県域は若松県を含めて3県に整理された。76年福島県は磐前・若松両県を併合すると同時に亘理,伊具,刈田の3郡を宮城県へ分離し,さらに86年東蒲原(ひがしかんばら)郡(旧会津藩領)を新潟県へ分離して現在に至っている。
縄文時代早期,東北地方最古の竪穴式住居址が竹之内遺跡(いわき市)で調査されている。常世(とこよ)遺跡(喜多方市)は早期中葉常世式の標式遺跡である。中期から後期にかけての大畑貝塚(いわき市)は外湾岩礁性で,鹿角製漁労具を多量に出土した。後・晩期には太平洋岸に大規模な貝塚集落が発達している。県北部の三貫地(さんかんち)貝塚(相馬郡新地町)では後期後半を中心とする100体以上の埋葬人骨が出土した。新地貝塚(相馬郡新地町)は後期加曾利B3式並行の新地(小川)式の標式遺跡。県南の寺脇貝塚(いわき市)は晩期,大洞C・C2式期の組合せ釣針や裂頭燕尾形銛頭の盛行が注目される。薄磯(うすいそ)貝塚(いわき市)では晩期から弥生時代に至る約50層に及ぶ貝層に伴い豊富な遺物が発見されている。
鳥内遺跡(石川郡石川町)は縄文後・晩期から弥生初期の再葬墓で,特異な人面付土器を出土した。弥生中期には再葬墓が多く,棚倉遺跡(東白川郡棚倉町)では太い沈曲線と磨消縄文手法を多用する中期棚倉式土器を伴い,南御山(みなみおやま)遺跡(会津若松市)はピット中から壺を主とする南御山Ⅰ・Ⅱ式土器多数が勾玉,碧玉製管玉などを伴って出土する。天神原遺跡(双葉郡楢葉町)は中期末の土壙墓と土器棺墓からなる集団墓址。後期の天王山(てんのうやま)遺跡(白河市)は白河盆地中央の孤立丘の頂上に立地する。多数の炉址や焼土があり,土器は直立または横倒し状態で群在し,塊状の炭化米が入っていたものもあった。天王山式土器は注口や台付甕など特異な器種を含み,磨消縄文,交互刺突浮線波状文,連弧文を特徴とする。桜井遺跡(南相馬市)も後期の標式遺跡で,桜井式土器は細い平行沈線による渦文,同心円文,連弧文,格子目文などを特徴とする。
古墳時代では,まず会津大塚山古墳(会津若松市。大塚山古墳)。全長90mの前方後円墳で木棺直葬2例をもち,仿製三角縁神獣鏡などの鏡,玉類,武器,武具,工具などが出土している。4世紀末ごろの築造で,会津地方で最古,また東北南部の代表的古墳である。本屋敷(もとやしき)古墳群(双葉郡浪江町)は4世紀末~5世紀初頭の前方後方墳1をはじめ,方墳2,円墳1からなる。田村山古墳(会津若松市)は全長約25mの帆立貝式古墳。山ノ上古墳(いわき市)は金銅製透彫冠金具の出土から金冠塚の別名をもつ後期の円墳。真野古墳群(南相馬市)は前方後円墳,大型円墳各2基を中核とする約100基からなる東北南部の代表的後期古墳群である。中田横穴群(いわき市)や清戸迫(きよとさく)横穴群(双葉郡双葉町)は装飾・彩色壁画横穴を含む6~7世紀の横穴墓群。彈正作(だんじようさく)横穴墓群(いわき市)は158の横穴からなり,7~8世紀の東北で最大級のもの。歴史時代では,奈良・平安時代の寺院址,腰浜廃寺(福島市)がある。
執筆者:狐塚 裕子
福島県は,ほぼ南北に並列する三つの山地と三つの低地から形成されており,全体としては山地・丘陵地が広い。山地は東から阿武隈高地,奥羽山脈と飯豊(いいで)山地・越後山脈であり,太平洋とそれらの山地の間に,東から浜通り低地帯(浜通り),中通り低地帯(中通り)および会津地方の会津盆地・田島盆地が南北に並列している。阿武隈高地は大部分が標高1000m以下の高原状地形であり,高地内には樹枝状谷が発達する。久慈川の谷を境にして,南西に八溝(やみぞ)山地が雁行している。中央にある奥羽山脈は,標高1200~1300m級の定高性山地の上に,吾妻山,安達太良(あだたら)山,磐梯山などの火山が噴出して標高1700~2000m級の分水山地をなしており,起伏も大きく,傾斜も急である。県の北西部には標高2000m級の飯豊山地,その南西に越後山脈が走り,南部は奥羽山脈の南部と合して高度を増し,山深い奥会津山地となっている。
東北地方では温暖な福島県の中でも浜通り低地帯はとくに温暖で,県内ではこの地域にのみ照葉樹林がみられ,冬季の降水量は少ない。中通り低地帯は寒暖の差が大きく,とくに夏季は高温になる。会津地方は全般的に日本海側気候を呈し,とくに南西部の新潟県境の奥会津地方は豪雪地帯で,4m以上の積雪をみるところもある。
福島県は大起伏の山地,複雑な火山地形,大小の湖沼群など地形の変化に富み,すぐれた自然景観が豊富である。日光,尾瀬および磐梯朝日の3国立公園,越後三山只見国定公園のほか,霊山(りようぜん)など11県立自然公園があり,それらの面積は県全体の12%に及んでいる。また常磐湯本,飯坂,東山など各地に多数の温泉が存在し,名勝や史跡も多い。1975年に東北自動車道が,82年に東北新幹線が開通し,また92年には奥羽本線の福島~山形を改軌して,山形新幹線が開通した。さらに93年の福島空港(須賀川市,玉川村)の開港,96年の磐越自動車道の開通によって,首都圏との時間距離が短縮したため,観光客はいっそう増加している。
福島県は農業とともに工業も盛んで,また地域的にも多彩である。農業では耕地面積が16.5万ha(1996,以下同)と広く,水田率は7割近く,米の収穫量は47.6万tで全国6位を占める。米作は会津地方の会津盆地,猪苗代盆地,中通りの郡山盆地,須賀川盆地や,浜通り北部の沿岸低地で盛んであるが,なかでも県下最大の会津盆地は,中世以来開拓された水田が集中しており,水稲10a当り収量が600kg近くの地区もあって,県内一の米どころである。また明治初年まで水利のよくなかった郡山盆地では,猪苗代湖から水を引く安積(あさか)疎水が1882年完成して水田面積が増大し,大正期以降の郡山市の紡績業の発展にも貢献した。野菜類では,須賀川市付近を中心として昭和40年代から盛んになったキュウリ(全国2位,1995,以下同)をはじめ,トマトやネギなどの生産が多い。果物類では,福島盆地を中心として第2次大戦前までは,梨,サクランボの生産が盛んであったが,昭和30年代以降リンゴ(全国5位),桃(3位)の生産が盛んとなり,ほかにカキの生産も多い。工芸作物では,阿武隈高地中南部を中心とするタバコ,同南部のコンニャクの栽培も盛んである。養蚕は近世以降盛んとなり,現在も福島盆地東部から阿武隈高地西部にかけては桑園が多く,繭の生産量は群馬県に次いで全国2位を占める。第2次大戦までは県は全国屈指の馬産地で,阿武隈高地や浜通り北部の相馬地方などで飼育されていたが,戦後急減し,代わって牛や豚の飼育が多くなった。相馬地方の相馬市,南相馬市では7月に相馬野馬追の祭礼行事が行われる。
県内の近代産業は,近世後期から明治初期にかけて行われた常磐炭田北部の開発に始まる。当初,採掘された石炭は小名浜(おなはま)などの港から帆船によって東京方面へ出荷されたが,1898年に現在の常磐線が全通し,輸送の便がよくなって1950年代まで急速に発展した。60年代からの石炭産業の不況化によって衰退し,76年にほぼ全面的に閉山したが,この間常磐炭田が浜通り南部の経済に及ぼした影響は大きい。
工業は明治期から第2次大戦前までは生糸,絹織物などの繊維工業および食料品,木材工業などが主であったが,1960年以降,重化学工業が盛んになった。製造品出荷額5兆1868億円(1995)は東北地方1位を占め,その内訳は電気機器,化学,輸送用機器,食品,機械などとなっている。浜通りのいわき市,中通りの郡山市,福島市などの都市が県内の主要工業地域であり,とくに常磐・郡山地区は1964年に新産業都市に指定され,常磐地区では化学,金属精錬が,郡山地区では機械などの各種工業が集積してきた。そのほか,近世から続く会津漆器や相馬焼などの特産物もある。
福島県は,浜通り,中通り,会津地方の3地域に分けられる。
(1)浜通り 西部は阿武隈高地の東半部からなり,太平洋に臨む東部は丘陵,台地と沖積地の断続する低地帯が南北に続く。低地帯には古くから勿来(なこそ)関を越える浜街道が通っており,その周辺地域として,この名称が用いられている。行政的には中心のいわき市のほか南相馬・相馬両市と相馬・双葉の両郡からなり,面積,人口とも全県の約1/4を占める。北部の相馬・双葉両郡および相馬・南相馬両市の範囲の相双(そうそう)低地は水田農業を主としているが,双葉郡の臨海部一帯は福島第1原子力発電所(1971運転開始)および第2原子力発電所(1982)や,東京電力広野火力発電所(1980)などが建設されて,首都圏への電源地帯となっている。南部のいわき低地は,1950年代まで常磐炭田をひかえて産炭地として栄えたが,51年小名浜港が重要港湾に指定され,64年常磐地区が中通りの郡山地区とともに新産業都市に指定されて以来,工場誘致が急速に進んで臨海工業地域となっている。海岸に平行して国道6号線と常磐自動車道とJR常磐線,いわき市から郡山市へJR磐越東線,磐越自動車道が通じる。
(2)中通り 東の阿武隈高地と西の奥羽山脈にはさまれて福島盆地,郡山盆地,須賀川盆地,久慈川河谷の平地が連なる地域で,南部の久慈川流域を除くと大部分が北流する阿武隈川流域に属する。この平地を関東地方から白河関を越える古代・中世の山道(さんどう),近世の奥州道中が通っており,その周辺地域としてこの名称が用いられる。行政的には中心の福島市のほか二本松,郡山,須賀川,白河,伊達,田村,本宮の7市と周辺の町村からなり,面積は全県の約4割,人口は6割を占める。中通りには近世までの城下町,明治以降の県庁所在地で政治・文化の中心をなす福島市と,奥州道中の宿場町から発展し,現在は県の経済的中心をなす郡山市があり,他の2地域と比べて人口密度が高く,商工業も発達し,県の中心的地域となっている。現在の交通でも東北地方の表玄関的機能を果たし,国道4号線,東北自動車道,JR東北本線,東北新幹線が南北に,JR磐越西線,磐越自動車道が東西に通じる。福島市から山形県側へ国道13号線,JR奥羽本線(山形新幹線)が分岐している。会津地方との間は北西部が磐梯朝日国立公園,南西部が日光国立公園に含まれている。
(3)会津地方 磐梯山,飯豊山,奥会津(奥只見)などの山地地域が広く,中央北寄りに会津盆地,その東に猪苗代盆地,南に田島盆地があり,県内でも最も水田農業が発達している地域である。全体が日本有数の包蔵水力をもつ阿賀川(阿賀野川)水系に属し,ここも首都圏への電源地帯をなしている。明治後期以降,猪苗代湖周辺や阿賀川,只見川などで電源開発が進められてきたが,とくに1950年代以降奥只見地域で建設された田子倉ダム,奥只見ダムは日本屈指の発電力をもつダムである。国道49号線,磐越自動車道,JR磐越西線が東西方向の中通りや新潟県側に通じているが,南北方向は山地にさえぎられて首都圏への交通はやや不便である。行政的には会津若松市を中心に喜多方市と周辺の町村からなり,面積は4割弱,人口は2割弱を占める。会津若松市の中心市街地は会津藩の城下町時代の面影をとどめ,猫苗代湖や磐梯高原とともに観光客が多い。南西には尾瀬国立公園に属し,群馬・新潟両県にまたがる日本屈指の規模の高層湿原,尾瀬ヶ原がある。
執筆者:大澤 貞一郎
福島県中通り北部に位置する県庁所在都市。2008年7月旧福島市が飯野(いいの)町を編入して成立した。人口29万2590(2010)。
福島市南東端の旧町。旧伊達郡所属。人口6488(2005)。阿武隈高地北部の丘陵地帯にあり,西は旧福島市に接する。小起伏の丘陵が多く,耕地も傾斜地にある。1955年,1町3村が合体して飯野町が誕生したが,人口は1950年をピークに年々減少を続けている。かつては国鉄川俣線が松川駅で東北本線に接続していたが,71年に廃止された。旧福島市の商圏に含まれ,旧福島市や川俣町への通勤者も多い。農業は米,養蚕,畜産が行われ,生鮮野菜に力を入れている。古くからの機業地で零細規模の絹・人絹織物工場が多いが,出荷額では電気関係が繊維をしのぐ。阿武隈川の蓬萊発電所の貯水池は飯野堰堤公園として行楽地となっている。国道114号線が通る。
執筆者:佐藤 裕治
福島市の大部分を占める旧市で,県庁所在都市。1907年市制。人口29万0869(2005)。市域は,福島盆地の南西半を中心に,北部および西部の奥羽山脈に属する山地と吾妻火山の東斜面,南東部と南部の阿武隈高地北西部丘陵地域に及ぶ。旧信夫(しのぶ)郡全域ともとの伊達郡,安達郡の一部を含む面積746km2で,県内ではいわき市に次ぎ,人口はいわき市,郡山市に次ぐ。中心市街地は,盆地内に孤立する信夫山(275m)の南,阿武隈川とその支流荒川の合流点付近に位置し,16世紀末蒲生氏の所領のとき,杉妻(すぎのめ)城から福島城と改称され,その城下町として発達した。また福島の町は,奥州道中(仙台・松前道)の宿駅,阿武隈川舟運の河岸として,米や周辺の養蚕地帯の生糸,蚕種などを集散して活気を帯びた。明治に入り,福島県の県庁がこの町に置かれ,その後1887年東北本線が開通,99年には奥羽本線の分岐点となり,商業とともに製糸工業が発達した。
現在では電気機械,精密機械,食料品,金属,窯業(ガラス繊維)などの工業が盛んで,商工業都市であるとともに政治・文化の中心地でもある。東北自動車道,国道4号,13号,114号,115号線が集中し,1982年東北新幹線も開通して首都圏との時間距離は大幅に短縮されている(92年山形新幹線との分岐点となる)。しかし県北端部にある当市の交通上の位置は有利とはいえず,県中央部にあって東西,南北の交通の要地をなす郡山市が県経済の中心をなしている。周辺の農村部では昭和30年代から瀬上(せのうえ)付近でリンゴ,飯坂付近で桃,庭坂付近で梨の栽培が盛んになった。市域内には飯坂温泉,吾妻高湯温泉,土湯温泉などの温泉があり,磐梯吾妻道路(通称,磐梯吾妻スカイライン。1959開通)で吾妻山の浄土平に通じるため,当市はそれらの観光基地となっている。市街地北東部の阿武隈川の文知摺(もじずり)橋下流には,毎冬数百羽のハクチョウが渡来する。《古今集》などに歌われ,古くから信仰の山として尊ばれてきた信夫山は御山(おやま),青葉山とも呼ばれ,三つに分かれた山頂部には羽黒,月山,湯殿の3神社がまつられている。この山は平地に孤立するため展望がよく,中腹ではユズが栽培され,南麓には信夫山公園があって観光名所となっている。
執筆者:大澤 貞一郎
陸奥国信夫郡の城下町,奥州道中の宿駅であり,また米沢,会津,相馬と結ばれる交通の要所であった。また阿武隈川舟運の河港として栄えた。1593年(文禄2)蒲生氏郷の家臣木村吉清が杉妻を福島と改めたと伝えられる。98年(慶長3)上杉氏の支配となって本格的に宿駅の整備が行われた。1686年(貞享3)堀田氏の城下のとき,奥州道中に沿って,南口から柳町,荒町,中町,本町,上町,北南町,馬喰町と続く7町制が確立した。町年寄は金沢弥五兵衛が世襲し,本陣1,脇本陣2,各町に検断を置き,五人組を統轄,また月番で本町脇本陣兼問屋の寺島家に詰め,駅馬・役夫を差配した。1703年(元禄16)の福島村明細帳では,家数640軒,人口4261人。医者9人のほか大工18人,鍛冶屋12人,染屋17人などの職人がみえる。市日は1・3・6・8の日の十二斎市であった。養蚕・生糸の集荷地として,天領はもとより米沢,会津の年貢米が集められ,阿武隈川舟運によって荒浜まで下された。柳町,荒町には大店が軒を並べ,北南町,馬喰町には旅籠屋(はたごや),茶屋が多く,飯盛女を多く抱えていた。また,城下の商業が盛んなことを反映して島屋,千疋屋,京屋の支店があり,福島三飛脚問屋と称された。戊辰戦争の開戦前夜,北南町の旅籠屋に投宿中の官軍参謀世良修蔵が暗殺された。
→福島藩
執筆者:誉田 宏
木曾谷(長野県)の中心の町。中世には木曾氏の城館があった。元和年間(1615-24)木曾は尾張藩領となり,木曾代官山村甚兵衛の陣屋町,また中山道の宿場町として発達した。宿場の入口には福島関が設けられていた。木曾川をはさんで町づくりされ,右岸が代官屋敷とそれに続く武家屋敷,左岸の中山道沿いに宿場町が町並みをつくっていた。福島宿は上(かん)町,下(しも)町,横宿からなり,町長3町55間,本陣,脇本陣,問屋をはじめ136軒の町家が軒を並べていた。これに中山道沿いに上之段(うえのだん)町,八沢(やさわ)町(町長1町49間,家数100軒)が続き,八沢町は木曾漆器の発祥地で全戸が木地屋,漆器屋を営んでいた。明治維新後は郡役所をはじめ,郡の政治,経済,文化の中心地として郡の機関のほとんどが集中した。信仰の山御嶽(おんたけ)の登山口として,また木曾馬市,木曾踊,みこしまくりの奇祭は有名である。1967年木曾福島町,2005年木曾町となる。
中山道の中間,木曾の福島に置かれた江戸幕府の関所。福島宿の江戸方入口の木曾川の断崖に臨む要害の場所に設けられ,東海道の箱根,新居,中山道の碓氷(うすい)とともに四大関所の一つとして重視されていた。1604年(慶長9)の創設といわれる。尾張藩の木曾代官山村甚兵衛が関を守り,上番2人,下番4人が勤めた。女改めと鉄砲改めとに重点がおかれた。1869年(明治2)廃止。
執筆者:生駒 勘七
北海道南西部,渡島(おしま)支庁松前郡の町。人口5114(2010)。渡島半島南西端に位置し,南は津軽海峡をへだてて津軽半島を望む。15世紀中ごろにはすでに和人が定住し,漁業を営んでいた。町域の大部分は山地からなり,基幹産業は漁業で,津軽海峡でのイカ漁を中心にマス,コンブ,ワカメなどを産するが,最近は育てる漁業へと転換し,水産加工業も盛んになっている。西部の吉岡は青函トンネルの北海道側の建設基地にあたり,建設中は活気があったが,1988年トンネル開通後は経済活動が低下している。北西端の大千軒岳(1072m)にはかつて松前藩の金山があり,1639年(寛永16)には,ここで働く多くのキリシタンが処刑されたことで知られ,毎年7月に巡礼ミサが行われる。青函トンネル記念館がある。
執筆者:奥平 忠志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
徳島城下東方の武家地。福島は北を東流する
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…また木曾路の称が中山道の代名詞としてつかわれたこともあるが,これは木曾路の知名度の高さを示すものである。木曾路は分水嶺鳥居峠をはさんで,南と北に流れる木曾川と奈良井川(信濃川の上流)に沿って,南北に縦貫し,その間に贄川(にえかわ),奈良井,藪原,宮越(みやのこし),福島,上松(あげまつ),須原,野尻,三留野(みどの),妻籠(つまご),馬籠(まごめ)の11宿が設けられ,また福島には江戸時代の四大関所福島関が置かれていた。宿駅は幕府の交通上の機関として設けられたものであって,各宿とも公用人馬の継立て,公式の宿泊・休憩などを担当する問屋場(とんやば)・本陣・脇本陣をはじめ,これらの業務にたずさわる問屋役・年寄役・伝馬役などの宿役人の家や,一般の旅人の休泊のための旅籠屋・茶屋,それに諸商人・諸職人の家など,200軒から400軒が街道に沿っていわゆる宿場町を形成していた。…
※「福島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
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