ローマ(市)(読み)ろーま(英語表記)Roma

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ローマ(市)
ろーま
Roma

概説

イタリア共和国の首都。イタリア中部、ラツィオ州の州都で、ローマ県の県都でもある。英語名Rome。市域(コムーネ)の面積は1507.6平方キロメートルで、イタリアの都市のうちでもっとも広い。人口245万9776(2001国勢調査速報値)。市内に面積0.44平方キロメートルのバチカン市国があり、カトリック世界の宗教中心地ともなっている。また、古代のローマ時代から続く古い歴史を反映して「永遠の都」と称される。ローマ歴史地区は教皇領、サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会とともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。[藤澤房俊]
自然・気候
地中海の一部をなすティレニア海に注ぐテベレ川が市内を貫流し、市域は河口から約25キロメートル上流の平野と丘陵地帯に広がっている。ローマ発祥の地であるテベレ川左岸(東)の旧市街は、カンピドリオ、パラティーノ、アベンティーノ、エスクイリーノ、クイリナーレ、チェリオ、ビミナーレの標高50メートル内外の七つの丘に囲まれた洪積台地からなる丘陵地帯に位置している。最高点はモンテ・マリオの239メートル。東にアペニン山脈、北東にサビーネ丘陵、東部にアルバーノ丘陵が控えている。
 気候は地中海性のため温暖であり、夏は気温が高いが湿度は少なく、冬は零下4℃以下に下がることは少ないが、トランスモンターナとよばれる北風のために天候が荒れることもある。降水量は9~12月にもっとも多く、年降水量は653ミリメートルである。月平均気温は1月が8.1℃でもっとも低く、7~8月は24.5℃でもっとも高い。年平均気温は16.1℃である。[藤澤房俊]
交通機関
市内あるいは近郊を結ぶ主要な交通機関は、市電・市バス公社(ATAC)とローマ電鉄会社(ACOTRALEFER)の経営するバスと市電である。地下鉄は、テルミニ(終着)駅経由で郊外のチネチッタとバチカン市国に近いオッタビアーノとの間、およびテルミニと副都心エウルのラウレンティーナとの間の2路線がある。市街地と周辺近郊を結ぶ道路に「オリンピック環状道路」があり、国内の主要地に通じる道路としては、イタリアを南北に縦断する高速道路「太陽自動車道路」(アウトストラーダ・デル・ソーレ)があり、ローマ―ナポリ、ローマ―フィレンツェを結んでいる。鉄道網は、第二次世界大戦直後に完成したテルミニ駅を起点に、幹線がイタリア各地に、また国際列車がヨーロッパ各地に発しており、近隣都市との連絡線も付設されている。空港は、南西約35キロメートルのフィウミチーノにレオナルド・ダ・ビンチ・ディ・フィウミチーノ空港があり、ローマに発着する国内線および国際線の大部分を取り扱う。また、南東約15キロメートルにチアンピーノ空港があり、近距離の国際線・国内線に使用される。[藤澤房俊]
産業
ローマは消費的都市の性格が強く、産業は郊外に存在する中小規模の機械、自動車の車体、鉄道車両、自転車、オートバイ、繊維、食品加工などの工場がみられるにすぎない。市内には皮革製品、銀細工、宝石、象眼(ぞうがん)、モザイク細工、彫刻、鋳金、製本、ファッション関係などの小規模な伝統的手工業が存在する。農地はローマ市域にかなり広く存在するが、疎放な放牧地が多い。農産物の大部分は、ラティーナの農業集散地やフィウミチーノの干拓地で行われる集約的農園のほかに、イタリアの各地から供給されている。
 ローマの労働人口のほとんどが官公庁関係、建設業、手工業、商業、サービス業などに従事している。とくにローマのもっとも重要な産業である観光サービス業は、「永遠の都」ローマの歴史的遺産とバチカン市国の存在によるところが大きく、国の内外からの観光客・巡礼者が年間1000万人以上も訪れ、ホテルや商店などの観光関連産業を潤し、ローマの経済を支えている。[藤澤房俊]
市街
ローマは、その発祥の地であるテベレ川左岸にある七つの丘を中心につくられた旧市街と、皇帝アウレリアヌス(在位270~275)の時代につくられた市壁の外側に広がる新市街からなる。テベレ川の右岸にカトリックの総本山で、教皇庁の所在地であるバチカン市国、2世紀にハドリアヌス帝が墓としてつくり、その後教皇の住居、牢獄(ろうごく)と変遷を重ねて現在は武器博物館として利用されているサンタンジェロ(聖天使)城、最高裁判所などがある。旧市街は、市内の交通の結節点であるベネチア広場を中心に多くの道路が放射状に広がっている。まず、ベネチア広場の南側に、イタリア王国の初代国王ビットリオ・エマヌエレ2世記念堂がある。無名戦士の墓もある白大理石でつくられたその巨大な建物は、ローマ市民から「世界最大のタイプライター」あるいは「クリスマスケーキ」とよばれている。その建物の背後に、ローマ発祥の地として有名な七つの丘の一つカンピドリオの丘がある。ベネチア広場の西側に、かつてムッソリーニが官邸とし、そのバルコニーから民衆の歓呼にこたえたベネチア宮殿があり、現在は美術館として利用されている。広場から北に向かって長さ1500メートルのコルソ通りが延び、楕円(だえん)形のポポロ広場に至る。この広場にはアウグストゥス帝がヘリオポリスから持ち帰ったオベリスクが立ち、ローマの北の門とされるポポロ門がある。コルソ通りには、ローマでもっとも交通量の多いコロンナ広場があり、そこにはマルクス・アウレリウス帝によるゲルマン遠征のオベリスク(高さ30メートル)が立っている。その広場に面して、総理府となっているキジ宮殿がある。
 コロンナ広場から東にトリトーネ通りを抜けると「海王トリトンの泉」のあるバルベリーニ広場に至る。この広場の近くに、国立絵画館となっているバルベリーニ宮殿がある。その付近のバルベリーニ広場からボルゲーゼ公園に抜けるピンチャーナ門までをベネト通りとよぶ。この通りはローマ第一級の繁華街として知られ、ホテル、航空会社、カフェーが並んでいる。ボルゲーゼ公園は17世紀につくられ、ボルゲーゼ家出身の枢機卿(すうききょう)コレクションを中心にしたボルゲーゼ美術館や馬場などがある。この公園は、ローマの中心に位置し、広大な敷地で緑も多く、市民の散策、憩いの場となっている。バルベリーニ広場からシスティナ通りがあり、この通りの行き着くところにトリニタ・ディ・モンティ教会がある。その前のスペイン階段を下りると「小舟の噴水」のあるスペイン広場に出る。この広場からコルソ通りに至るのがコンドッティ通りで、衣類や装飾具を売る高級品店が並んでいる。
 ベネチア広場から南東にフォリ・インペリアーリ通りが延びており、その右側に古代ローマの政治・経済の中心地で公会場であったフォロ・ロマーノの遺跡がある。その通りの到達点に巨大な円形闘技場コロッセオ(コロセウム)がある。それと並んで、パリの凱旋門(がいせんもん)など多くの他の凱旋門の原型となったコンスタンティヌス帝の凱旋門があり、315年にマクセンティウス帝を破ったのを記念してつくられた。そこから南約1キロメートルにカラカラ浴場跡があり、夏の夜にはここで野外オペラが催される。また、その近くに国連機関の国連食糧農業機関(FAO)の本部がある。ベネチア広場から北東にナツィオナーレ通りを進むと、中央に噴水のある共和国広場、別名エセドラ広場に至り、さらに進むとテルミニ駅に至る。エセドラ広場に面して、ディオクレティアヌスの浴場跡につくられたローマ国立美術館、通称テルメ(浴場)美術館がある。ベネチア広場から北西にビットリオ・エマヌエレ2世通りを抜けるとバチカン市国に至る。その間に、天体の7神を祀(まつ)ったローマ神殿として紀元前27年に建てられ、その後改築されて紀元後609年にキリスト教の教会となったパンテオン、また17世紀につくられたバロック期ローマの代表的広場であるナボーナ広場がある。そこには、ベルニーニの手になる世界の四大河川(ドナウ、ナイル、ガンジス、ラ・プラタ)を意味する四つの彫像(河の噴水)がある。
 教会堂には、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂(326創建、1452~1626改築、ルネサンス様式)のほかに、ローマ市内にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会(6世紀創建、1646~50改築、バロック様式)、サンタ・マリア・マッジョーレ教会(432創建、ファサードは1741~43年のネオ・クラシック様式)、サン・ロレンツォ・フォーリ・レ・ムーラ教会(4~13世紀、バシリカ)などがある。また、ローマからイタリア半島南端のブリンディジまで続くアッピア街道(前312建設)には当時の敷石が残っているが、その街道のサン・セバスティアノ門から10キロメートルほどのサン・カリストに、カタコンベとよばれる大きな地下墓地がある。ここはキリスト教徒が迫害の難を逃れたところでもあり、現在では巡礼地の一つとなっている。
 市の南10キロメートルに副都心エウル(EUR。ローマ万国博覧会の略称)がある。ムッソリーニ時代の末期の1942年に予定されていた万国博覧会会場として建設が開始されたが、第二次世界大戦後は副都心として新しい都市計画に基づいて整備された。ここには厚生省、ENI(エニ)(全国炭化水素公社)などの政府・公社諸機関、ローマ文明博物館、1960年の第17回オリンピック大会のためにつくられたスポーツ宮殿など、ローマ市内ではみられない現代建築物がある。[藤澤房俊]
文化施設
1303年創立のローマ大学はボローニャ大学(11世紀創立)に次ぐ古い歴史をもち、イタリア最大規模の13学部を擁する。ほかに、カトリック大学医学部、教皇庁管轄の諸大学(グレゴリアーナ、ラテラネーゼ、アンジェリコ、アントニアーノなど)、美術アカデミー、サンタ・チェチーリア音楽学校、修復専門学校、演劇学校、舞踊学校など数多くの高等教育機関や専門学校が存在する。また、リンチェイ・アカデミー(イタリア・アカデミーの後身)のほかに、世界の多くの国が学術研究・紹介の機能を果たすアカデミーをローマに置いている。
 博物館や美術館も多く、エトルリア人の遺物を中心に展示するビラ・ジュリア美術館、ギリシア・ローマの彫刻などを収蔵する(ローマ国立)美術館、ルネサンス期の絵画など豊富なコレクションを有するボルゲーゼ美術館、バルベリーニ美術館、イタリアのみならず世界中の近・現代美術の豊富なコレクションを誇る国立近代美術館などがある。図書館には国立図書館、国立公文書館、ローマ大学内のアレッサンドリーナ図書館のほかに、美術史、中世史、近・現代史などの専門的図書館が数多くある。さらに、バチカン市国にも、世界屈指の美術館、博物館、図書館が置かれている。
 音楽・演劇関係では、1671年に創設されたローマ国立歌劇場をはじめ、数多くのコンサート・ホールや劇場がある。また、イタリアの映画製作のメッカともいえるローマ郊外のチネチッタからは、多くのイタリア映画の傑作が生み出された。テベレ川右岸には5000人近い職員が働くイタリア放送協会(RAI(ライ))があり、テレビ、ラジオを放送している。スポーツ施設としては、1960年のオリンピック・ローマ大会のメイン・スタジアムがフォロ・イタリコにあり、サッカー試合などが盛んに行われる。テベレ川沿いには多くの私設のスポーツ・クラブがあり、ボートやテニスが盛んである。[藤澤房俊]
住民
イタリア王国が1871年に首都をローマに置いたとき、人口は22万であったが、その後出生率の上昇やイタリア各地からの人口流入によって、約13倍の284万(1981)となった。しかし、1970年代以降の人口流入の減少、出生率の低下によって、急激な人口の増大はおさまっている。住民の産業別人口構成は、農業約3%、工業約20%、輸送・金融など約56%、行政機関に勤務する者約20%である。ローマに滞在する外国人は約10万人といわれる。ローマ人の気質は大幅な人口流入などによって失われたといわれるものの、テベレ川右岸のトラステベレ地域には、旺盛な生活力や明るく庶民的な雰囲気など、ローマ人の特徴がまだ生き生きと残っている。[藤澤房俊]

歴史


古代
伝説によればローマは紀元前753年(他の伝えもある)ロムルスによって建設された。しかし考古学的には前一千年紀の初めにすでにパラティーノ丘にラテン人の、またクイリナーレ丘とエスクイリーノ丘にサビニ人の住居が認められ、両者によってローマ市が築かれたのは前7世紀中ごろとされる。伝えによれば、建国以来7代にわたって王に支配され、最後に数代のエトルリア人王朝の支配を経て共和政になる。したがってローマ市には最初からエトルリアの影響が強い。ローマ市そのものも正式にはエトルリア系の儀式によって設けられた市壁に囲まれた特定の空間をさし(これはのちに拡大される)、市民の生活空間がその外に拡大しても、そのたてまえは変わらなかった。政務官の管轄も市内(ドミー)と外地(ミーリティアエ)に2大別され、市内では特別の場合(たとえば凱旋(がいせん)式)のほか武装することは許されなかった。市のほぼ中央の広場をフォルム(現在のフォロ・ロマーノ)といい、市民生活の中心をなし、民会はだいたいここで開かれたが、武装民会である兵員会(コミティア・ケントゥリアータ)は市外の「マルスの野」で開かれた。カエサル(シーザー)の晩年以来、広場はいくつか新設されたが、その廃墟(はいきょ)は現在フォリ・インペリアーリ通りの周辺にみられる。
 ローマの地中海世界支配の確立とともにローマ市は全地中海世界の政治的中心となり、諸国の使節は争ってローマ元老院の謁見を求め、海外からの略奪品はローマ市を飾った。やがて「ローマ女神」は海外各地で宗教的礼拝を受けるに至った。しかし共和政期のイタリア農業経済の不健全な発展の結果、イタリアの多数の農民が没落してローマ市に蝟集(いしゅう)し、深刻な社会問題となった。前2世紀末以来、国家は彼らに安価に(のち無償で)一定量の穀物を配給したが、前1世紀にその受給者は32万人に達した。帝政期にもそれは続けられたが、受給者数はカエサル以後15万、帝政初期に20万、古代末期に12万と制限された。また政治家たちは、帝政期の皇帝まで含めて、市民の人気を得るため戦車競技、剣闘士競技、演劇などの催し物を行った。ローマの支配拡大は巨大な富の流入をもたらし、ローマ市は豪壮な神殿やバシリカなどで飾られ、帝政期には多くの浴場、図書館なども設けられた。一般市民はなお粗末なアパートに住んだが、上水・下水、道路などが完備して市民生活を豊かにした。とくに前312年につくられたアッピア水道以来、ローマ市の水道施設が完備していたことは有名である。他方、海外各地からローマに運ばれた多数の奴隷は次々と解放されてローマ市民になったので、ローマ市住民中外来系の占める比率は時とともに高まり、帝政期に入ると、100万を超えるローマ市総人口のうち純粋なローマ人はほんの一部分にすぎなくなった。
 ローマ皇帝コンスタンティヌス(大帝)は紀元後330年に首都をコンスタンティノープルに移したが、ローマは新都より格が高く、ローマ元老院議員も新都の元老院議員より格式が高かった。ローマ帝国が東西に分割されてから、西ローマ皇帝はミラノ、ラベンナなどにいることが多く、ローマ市にとどまることはまれであった。だがローマ元老院は威信を失わず、東西両帝国のなかでももっとも富裕かつ高貴な者から形成され、ローマ市長官も近衛(このえ)都督らと並ぶ帝国最高の官職であり、一定数のローマ市民は穀物ないしパンの無料配給を受け続けた。またローマの司教はコンスタンティヌス帝の寄進によって富裕となり、この時代からローマ市のキリスト教化が飛躍的に進んだ。コンスタンティヌス帝時代にさかのぼる教会堂として(のちに改造されて)現存するものに、サン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会などがある。しかし伝統の古いローマ、とくに元老院にはキリスト教化に反対する勢力も強かった。
 すでに3世紀後半にアウレリアヌス帝はローマ市に堅固な城壁を巡らしたが(これは現在でもわりあいよく保存されている)、古代末期にはローマは幾たびか異民族の侵入に脅かされた。西ゴート王アラリックは410年、バンダル王ガイセリックは455年にローマ市を占領・略奪した。かくてローマは6世紀には人口数万の小都市と化した。[吉村忠典]
帝国の滅亡以後
異民族の侵入によって都市ローマは大きな損害を受け、人口も減少した。帝国の滅亡とともに元老院も機能を失い、わずかに教会が秩序維持の中心としての役割を果たしていた。しかし、教皇グレゴリウス1世(在位590~604)の時代に教皇の威信が高まったとはいえ、教会も実際に都市を統治するだけの力はなく、その後も東ローマやランゴバルド系スポレート公などの介入によって不安定な状態にあった。教皇レオ3世がフランクとの提携を進め、800年にカール(大帝)に帝冠を授けたのも、都市貴族の勢力を抑えるとともに東ローマ帝国からの自立を図ったためであった。962年オットー1世の戴冠(たいかん)によって神聖ローマ帝国が成立すると、ローマは皇帝権と教皇権の対立の舞台となり、これに都市貴族の対立が絡んで不安定な状況が続いた。聖職叙任権闘争の時代には皇帝ハインリヒ4世がローマを攻囲し、教皇グレゴリウス7世はかろうじてサンタンジェロ城に逃れ(1083)、ノルマン軍の援助で復帰することができた。この時代から市民の自治組織が形成されるようになるが、北イタリアのコムーネ(自治都市)のような安定した都市国家の成立には至らなかった。ローマは商業、手工業も不活発で、教皇庁、聖職者、巡礼に経済的に依存しており、コムーネの確立に至るだけの基盤がなかった。カンピドリオ丘の西側、テベレ川沿いの低地に細民が住んでささやかな商工業を営んでおり、所々に都市貴族の館(やかた)がそびえていた。とくにオルシーニ家とコロンナ家は都市の支配をめぐって激しく争った。アビニョン教皇庁の時代(1309~77)には抗争がさらに激化し、ローマ市護民官、コーラ・ディ・リエンツォの指導したコムーネ運動(1347)も失敗に終わった。
 ローマが活気を取り戻すのは、コロンナ家出身のマルティヌス5世(1417即位)以降、「ルネサンス教皇」が教会国家の再建に努力し、ローマをその首都にふさわしくするための造営に力を入れるようになってからである。16世紀にはローマはフィレンツェに続いてルネサンス文化の中心となった。一時は2万人ほどに減少した人口も5万人にまで回復したといわれる。1527年にはカール5世軍の一部による「ローマ劫略(ごうりゃく)」があったが、反宗教改革の中心、バロックの都として復活した。ローマは教会国家の首都であったので、18、19世紀の改革やリソルジメント(イタリア統一運動)の動きのなかで保守側の中心的な役割を演じた。1798~99年にはフランス革命の影響下に、1849年には思想家マッツィーニの指導によって、ローマ共和国が成立したが、いずれも短期間に終わった。1861年にイタリア王国が成立したあとも、ローマはその独自な立場を保持し、王国軍のローマ征服によって併合が実現したのは1870年であった。教皇ピウス9世はバチカンに閉じこもり、王国政府との交渉を拒否した。この問題が解決したのは、1929年ムッソリーニ政権とピウス11世との間にラテラン(ラテラノ)協定が締結され、バチカン市国が成立したときである。
 1871年、ローマはイタリア王国の首都となり、以後急速に発展した。1936年には人口が100万を突破し、交通、住宅などの都市問題が深刻化し、ムッソリーニ政権も多くの土木工事をおこしたが、古都ローマを近代都市に変容させることはできなかった。第二次世界大戦末期、連合軍の攻撃に際して無防備都市を宣言し、貴重な文化財は戦火を免れることができた。[清水廣一郎]
『イェシュタード著、浅香正訳『ローマ都市の起源』(1983・みすず書房) ▽矢島みゆき著『ローマ』(1987・教育社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

ブラックフライデー

米国などで、感謝祭(11月第4木曜日)の翌日の金曜日のこと。休日とする職場が多く、商店にとってはクリスマス商戦の初日に当たる。「ブラック」は、買い物客による混雑、または黒字を連想させることから。→サイ...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android