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イギリス文学 イギリスぶんがく English literature

3件 の用語解説(イギリス文学の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イギリス文学
イギリスぶんがく
English literature

広義では英語で書かれた文学作品すべての総称であるが,主としてイングランドで書かれたものをさす。『ベーオウルフ』や『アングロ・サクソン年代記』を生んだ古期英語時代 (1150以前) ,G.チョーサーに開花した中期英語時代 (1100~1500) ,16世紀以後現代にいたる近代英語時代に大別できる。

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世界大百科事典 第2版の解説

イギリスぶんがく【イギリス文学】


【詩】
 どの国の文学の歴史を見ても,芸術様式としては散文より先に韻文(詩)が完成されるのがふつうである。それは日常性より高められた言語の用法であり,背後には宗教,呪術,儀式などがあったのかもしれない。やがて,しばしば,職業的な吟遊詩人による〈語り〉の芸術としての詩の発達が見られる。英詩の歴史も例外ではなかった。しかし英詩の歴史の特徴は,それが劇芸術の言語媒体としていっそうの発達をとげたことである。イギリス文学の主流が詩であったという事情は,このような史的背景をもつ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イギリス文学
いぎりすぶんがく

イギリス文学はもとよりヨーロッパ文学の一環をなすものではあるが、ゲルマン語を基底としながらも、ノルマン人の征服がもたらしたノルマン・フランス語の重大な影響などによって、英語が独自の発展を遂げたことや、四面海に囲まれた地理的独立性、さらに均衡を重んずる国民性などによって、独得の性格をもつに至った。しかしそれは孤立性を意味するものではなく、大陸文学との交流はつねに存在し、さらに近世以降においては大陸文学に大きな影響を与えた。[小津次郎・上田和夫]

イギリス文学の歩み


中世
今日のイギリス本土をなすブリテン島の先住民ブリトン人はケルト人の一派で、長い間ローマ帝国の支配下にあったが、5世紀にジュート人、アングル人、サクソン人らのゲルマン民族がヨーロッパ大陸から侵入し、アングロ・サクソン王国が誕生することになった。彼らの用いた言語は現在の英語からはかけ離れたもので、アングロ・サクソン語ないし古(期)英語とよばれている。現存するもっとも古い最大の作品は『ベオウルフ』とよばれる英雄叙事詩である。民衆の間に語り継がれた物語が、8世紀に現在の形に定着したものと思われるが、その説くところは正義であり、運命に従う悲劇的英雄精神である。基調をなすものは北欧系の異教主義であるが、キリスト教の浸透もみられる。
 1066年、北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服してから、フランス語とフランス文化が導入され、その影響のもとに中(期)英語によるイギリス文学が誕生することになる。中世イギリスはヨーロッパ大陸と文化の一体性を形成しているが、その中心をなすものは教会と宮廷であった。道徳的概念を擬人化し、夢のなかで教訓を示す「夢の寓意(ぐうい)詩」が中世文学の一大特色であるが、幼い女児の死を嘆く父親が、夢のなかでその「純潔」によって導かれる、魂の救済を歌った『真珠』は、深い内面性のゆえに感動的な宗教詩となっている。同じく夢物語の形をとり、ラングランドの作といわれる寓意詩『農夫ピアズの幻』(14世紀後半)は深い信仰を語っているが、教会や社会に対する鋭い批判もみられる。一方の宮廷文学はおもに韻文によるロマンスが中心をなしている。ロマンス文学の中心はフランスであるが、イギリスは中世三大ロマンス体系の一つである「アーサー王伝説」を提供している。これはそののちマロリーによって平明な散文で集大成され、『アーサー王の死』という題で1485年に最初の活版印刷で刊行されて、広く普及した。
 宮廷詩人としてのみならず、イギリス中世を通じて最大の詩人はチョーサーであろう。彼はフランスのロマンス文学の代表作『ばら物語』(13世紀)を訳したり、同時代のイタリア文人ペトラルカやボッカチオから深い影響を受けた。その意味で彼はイギリス中世文学の象徴的存在であるが、晩年には外国の影響を脱して独自の世界を開拓した。その結果が14世紀末の『カンタベリー物語』となって現れた。ここにみられる人間への広い観察やユーモアは、そののち長くイギリス文学の特徴となった。15世紀に入って、彼の流れをくむ群小詩人が現れたが、この時代には、それまでみられなかった民衆の文学としてバラード(バラッド、物語詩)が書き残されるようになった。[小津次郎・上田和夫]
ルネサンス期――16世紀
16世紀はチューダー王朝の治世で、中世的な封建制を放棄して近世的な中央集権への政策が進められた時代であるが、思潮史的にはルネサンスの時期にあたり、ヒューマニズムが唱道された。それは異教的なギリシア・ローマの時代を指向し、人間的価値の高揚を目ざす運動ではあったが、キリスト教と矛盾するものと考えられず、ヒューマニストの目標は、クリスチャン・ヒューマニズムの確立であった。1516年に『ユートピア』を書いたトマス・モアはその代表者である。
 この世紀の後半は、エリザベス女王治下の文運隆盛の時期であるが、文学の花が咲きそろった一つの理由は、中世の英語を脱皮して完全に近代英語となったものの、ことばが若い柔軟性に富んでいたことに帰せられる。もちろん文芸の主流は韻文であった。エドマンド・スペンサーは『妖精女王(ようせいじょおう)(フェアリー・クイーン)』で、いかにもエリザベス朝の詩人らしく、プラトン的恋愛思想、アリストテレス的人文主義、さらには清教徒主義までも交えて、その相互矛盾も意に介さぬようであったが、官能的な絵画美と諧音(かいおん)的な音楽美を実現した。しかしこの時代の文芸を代表するものは韻文劇であった。宗教劇から出発したイギリス演劇は、世俗化の道をゆっくりと歩きながら16世紀のなかばに達したが、社会的にも思想的にも振幅の大きいエリザベス朝になってから、国民の演劇的エネルギーが爆発し、急速な発展を遂げることとなった。1580年代に現れた「大学才人派(ユニバーシティ・ウィッツ)」とよばれる大学出身のインテリ劇作家は先行者としての役割を果たした。その一人、宮廷人リリーは典雅な宮廷喜劇を書いて、一つのジャンルを確立したが、もっとも天才的であったのは悲劇詩人マーローであった。彼はルネサンス精神の体現者で、物心ともに無限の欲望にとらわれた人物を好んで描いたが、『フォースタス博士』にみられるように、人間の欲望には限度があり、それを越えた者の受けねばならぬ堕地獄の恐ろしさを知っていた。彼は29歳で刺殺されたが、その後を受けた同年輩のシェークスピアによって、エリザベス朝演劇は完成された。人間心理への深い洞察、劇的緊張、ほとんど理想的ともいうべき詩的表現など他の追随を許さず、その傑作はときとして劇形式の限界に達した感さえある。[小津次郎・上田和夫]
清教徒時代――17世紀
17世紀に入るとまもなくスチュアート王朝になる。ジェームズ1世の宮廷では劇作家ベン・ジョンソンと建築家イニゴー・ジョーンズの協力による華麗な宮廷仮面劇が栄え、民衆劇場ではベン・ジョンソンらの風刺喜劇が上演されたが、シェークスピアの四大悲劇もこの時代の所産である。しかし前代の戯曲にみられた向日性は徐々に影を潜め、舞台技巧に重点を置いたボーモントとフレッチャーの作品や、人間存在の暗い面に鋭いメスを入れたジョン・ウェブスター、シリル・ターナー、ジョン・フォードらの悲劇が現れ、一言をもってすればデカダンスの兆候がみられるようになってきた。そして同時に新興市民階級の物欲を風刺するトマス・ミドルトンらの喜劇も好んで上演された。しかしまもなく演劇を罪悪視する清教徒が政界に力をもつようになり、1642年には全劇場は閉鎖され、さらに1649年にはチャールズ1世は彼らによって首をはねられた。
 17世紀前半のイギリス文学で逸することのできないのは形而上(けいじじょう)派(メタフィジカル・ポエット)の詩である。それは人間や社会に対する鋭い観察を奇抜な表現で歌う詩であり、着想のおもしろさとともに、口語的リズムが新鮮な魅力となった。この派の代表者としてジョン・ダンがあげられるが、このような詩が生まれてきた根底には、科学に立脚した新思想の台頭が、旧思想との対立関係を十分に調整しきれなかった当時の思想界の混迷が横たわっている。宮廷人にして詩人かつ探検家であったローリーは、いわばその犠牲者であったが、ベーコンは科学的方法と実験を重んずる経験的帰納法を主張して、1620年に『ノウム・オルガヌム(新機関)』を発表した。クロムウェルに率いられる清教徒の共和政府はわずか11年をもって崩壊し、1660年にはフランスに亡命していたチャールズ2世が即位して王政復古となるが、清教徒主義への反動もあり、フランス文物の盛んな輸入もあり、前代とはうって変わった華やかな時代となった。この時代の文壇に君臨したのはドライデンであった。彼は政治的激動の時代に生きて、時の権力者に迎合する無節操は否定できないものの、古典はもとより、当時のフランス文学にも通じ、自らは古典主義の立場をとって詩作、劇作、評論などに精力的な活動をみせた。
 王政復古期文芸の一特色は風習喜劇の流行である。上流階級の応接間を舞台に、有閑人士の恋愛を主題として、軽妙洒脱(しゃだつ)な会話で描いていく都会的な喜劇で、観客の大半もそのような上流社会人であった。前代とは異なり、演劇の主流は上流階級を志向していた。また、これらの喜劇が散文劇であったことも、過激を退け常識を重んずる時代思潮と一致している。ドライデンの知遇を得たコングリーブはこの派の代表者であった。しかし王政復古期を、フランス的な機知に富む喜劇や風刺文学のみの栄えた時代と考えることは誤っている。この時代はまた非常に優れた清教徒的宗教文学を生み出している。一つは非イングランド教会派の牧師バニヤンの『天路歴程』(2部。1678、1684)であり、さらに偉大なのは、クロムウェルのラテン語秘書を務めた詩人ミルトンの諸作品である。なかでも、原罪と堕地獄を主題とした『失楽園』(1667)は、神の人間に対する道の正しさを立証しようとする意図によって書かれたもので、偉大な構想と詞藻(しそう)の豊かさによって、イギリス文学史を飾る傑作となっている。[小津次郎・上田和夫]
古典主義と小説の隆盛――18世紀
18世紀前半をさしてオーガスタス時代とよぶことがある。元来、文運が栄えてウェルギリウスやホラティウスをはじめとする多くの詩人・哲学者を生んだローマ皇帝アウグストゥスの時代になぞらえて、アン女王の治世(1702~1714)をさしてよんだ名称であるが、この時代には、理性と良識に頼り、規範を尊重する古典主義が文壇を支配していた。この傾向は詩の分野にもっとも顕著で、その代表はポープであった。彼はドライデンから受け継いだヒロイック・カプレット(英雄押韻対句詩型、押韻する弱強5詩脚の2行連句)の詩型を典雅な形に完成し、格言風の内容を巧妙かつ簡潔に表現した。『人間論』(1733~1734)は大いに時好に投じ、イギリス古典主義詩人としての地歩を確立した。しかし、この時代のイギリス文学に、より偉大な足跡を残したのはスウィフトであった。彼もまた古典主義のために論陣を張り、多くの論争的著作やパンフレットを発表した。その本領は人間の弱点を容赦なく暴露した風刺小説であり、『ガリバー旅行記』(1726)はその傑作で、彼の厭世(えんせい)的人間観が強くにじみ出ている。
 18世紀イギリス文学の特色は小説の発達とその隆盛である。イギリス小説の発生をどこに置くかは学者によって諸説あるが、1719年に発表されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー』がその初期に位置する重要な作品であることは論をまたない。絶海の孤島にあって神を信じつつ自らの力で運命を切り開いていくクルーソーは、当時の市民階級のモラルの具体的表現であったが、その手法は、事実を尊ぶ市民階級に対して説得力をもたせるために、あくなき写実主義に徹しており、このゆえに近代リアリズム小説の先駆けとなりえた。この小説の大成功を支えたのは読書習慣を身につけた新興市民階級であったが、彼らの出現は小説を文芸の主流に押し出すことになった。『パミラ』(1740)を著したサミュエル・リチャードソンは書簡体を用いて、すでにデフォーに示されたリアリズムの手法を人間の内面に向け、主人公の女性の繊細な心理を描くことに成功し、フランス文学にも大きな影響を与えた。『パミラ』のセンチメンタルな道徳臭に対する反感から、これのパロディーとして書き始められたのがフィールディングの『ジョーゼフ・アンドルーズ』(1742)であった。彼の最高傑作は『トム・ジョーンズ』(1749)であるが、喜劇的な筆致で、ありのままの健康的な人間の姿がのびやかに描き出されている。スモレットは『ロデリック・ランダム』(1748)を書いたが、これは16世紀スペインに端を発するいわゆるピカレスク小説(悪漢小説)であった。悪漢(ピカロ)というアウトサイダーの目を通して社会の各階層を写実的に描くことによって、彼はこのジャンルをイギリス小説に確立した。上述のような作家たちの手によって発達を遂げてきた小説技法を覆し、きわめて破天荒な奇書『トリストラム・シャンディの生涯と意見』(1760~1767)を書いたのが、ロレンス・スターンであった。この小説では事件の時間的順序が無視され、物語は錯綜(さくそう)した展開を示すが、これは、作者が事件の展開よりも心理の動きを重視し、小説を純粋に芸術的な所産とすることを意図したためであり、20世紀のいわゆる「意識の流れ」の文学の先駆けともみなしうる、きわめて現代的な小説になっている。
 新興読書階級の生んだもう一つの現象に、ジャーナリズムの発達があった。スティールが1709年に創刊し、のちに友人アジソンも加わった『タトラー』、同誌の廃刊後2人で始めた日刊紙『スペクテーター』は平明な文体で当時の世相を論じ、身近な話題を取り上げて市民階級の倫理的指導者の役割を果たした。これらの雑誌には文芸批評も数多く取り上げられたが、世紀のなかばに至って批評史上の巨大な存在として登場してきたのがサミュエル・ジョンソンであった。その批評はときとして個人的偏見に満ちてはいるものの、深い学識に基づく洞察力と不動の信念に支えられたものであり、また、自ら編纂(へんさん)した『シェークスピア全集』(1765)につけた序文は、古典主義全盛の世にあって、これと相いれぬ面を多分にもつシェークスピアの偉大さを認めた点で、シェークスピア批評史上特筆に値する。貧困と病苦のなかで8年間を費やして独力で『英語辞典』(1755)を完成したことはあまりにも有名であるが、ジョンソンのもつ豪放かつ人情味に富んだ人格は、ボズウェルによる伝記文学の傑作『サミュエル・ジョンソン伝』(1791)によってよく知ることができる。
 古典主義全盛の18世紀前半の詩壇にあっても、自然を観察し、個人の内なる瞑想(めいそう)を歌う詩人が存在していた。流行のヒロイック・カプレット(英雄押韻対句詩型)ではなくブランク・バース(無韻詩型)を使って優れた自然描写を行ったジェームズ・トムソンの『四季』(1726~1730)や、古典主義的な模倣の手法を用いながらも豊かな叙情をたたえたトマス・グレーの瞑想詩『墓畔の哀歌』(1751)などがそれだが、こうした古典主義に対する反動は、18世紀後半に至ると随所にいっそう顕著に現れてきた。スコットランドの貧農の子に生まれ、主としてこの地の農民の生活に題材をとったロバート・バーンズの叙情詩は明らかにロマン主義の胎動を告げるものであったし、産業革命のただなかにあるロンドンに生まれたウィリアム・ブレイクは、一世代後のロマン派の詩人たちよりも、いっそう激しくロマン主義的とさえいえる特異なビジョンと問題意識を抱いた詩人であった。中世趣味の流行も反古典主義の一つの現象であるが、これは小説の分野でゴシック小説とよばれる怪奇小説の流行を生むことになった。アン・ラドクリフの『ユードルフォの怪奇』(1794)はその代表的作品であり、これらの小説は荒唐無稽(こうとうむけい)な点が多いにしても、理性と良識を重んずる古典主義に対する反逆という点からみれば、まさにロマン主義の前触れであった。[小津次郎・上田和夫]
ロマン主義――19世紀前半
ロマン主義がもっとも華々しく花開いたのは詩壇であった。18世紀末のロマン主義勃興(ぼっこう)は全ヨーロッパ的現象であり、フランス革命や産業革命のような政治的・社会的事件とも関連があるが、ワーズワース(ワーズワス)とコールリッジの共著『叙情民謡集』が出た1798年はイギリス・ロマン主義文学にとって記念すべき年であり、「詩は力強い感情の自然な横溢(おういつ)」であるべきであって、「日常生活の主題を日常の用語で歌うべきである」と主張した1800年の再版の序文は、ロマン主義詩人のマニフェスト(宣言)ともよぶべきものである。ワーズワースは数多くの自然詩を残したが、それらは単に自然を詳細に観察し描写するにとどまらず、自然との神秘的な交わりを通して存在の根源に迫ろうとする瞑想的態度の強いものであった。自らの精神的遍歴を自伝的につづったのが大作『序曲』(1805年完成、大幅な加筆訂正ののち1850年刊)である。ワーズワースが自然にひかれたのに対して、コールリッジは人間と超自然的な外界とのかかわりを描いて現実を超えた想像力の世界を現前せしめた。『叙情民謡集』の巻頭を飾った『老水夫の歌』(『老水夫行』)はその代表作であるが、ゴシック小説にみられた怪奇趣味は、ここにみごとなロマン的結実をみたということができる。
 この2詩人に続いて、19世紀初頭の詩壇には、バイロン、シェリー、キーツらが現れた。先行する2詩人がフランス革命の熱狂のなかで青年時代を迎えたのに対し、これらの若い世代の詩人たちの特徴は、革命の理想が潰(つい)えた1815年以後の反動の時代にあって、これに反逆する形で革命の理想を信じ、かつ行動していった点にある。その傾向がもっとも強かったのはシェリーであり、詩劇『プロメテウス解縛(かいばく)』(1820)は愛の力による圧制からの解放を歌う、宇宙的な広がりをもつ叙情詩である。バイロンは奔放な生き方のゆえに社会から放逐され、波瀾(はらん)に富んだ生涯を送った。その作品は多様であるが、大陸で大いにもてはやされ、ヨーロッパのロマン主義に多大の影響を与えた。これら2人に対比して、キーツはもっとも純粋に詩の不滅を信じ、「美は真なり、真は美なり」という認識によってたつ「美の詩人」であった。
 ロマン主義は古いもの遠いものへのあこがれをもち、中世趣味の復活を促したが、ウォルター・スコットの歴史小説はそのような時代の好みによくこたえるものであった。また、ロマン主義という大きな時代の流れの外側で、「田舎(いなか)の家族の三つ四つ」に題材を求めて、『自負と偏見』(1813)、『エマ』(1815)のようなイギリス小説史に燦然(さんぜん)たる傑作を残したのがジェーン・オースティンであった。彼女は激情とは無縁の、冷静で軽妙な筆致で、しかも的確な判断力をもってごく普通の人間の行動を描き分け、それをみごとに統一された小説世界へとつくりあげることに成功した。
 ロマン主義は文芸批評にも大きな影響を与え、コールリッジをはじめ、ハズリット、ラムのような優れた批評家を生むこととなったが、彼らによって最大の尊敬を受けたのはシェークスピアであり、今日においても彼がイギリス文学史上、比較を絶する高い評価を受けているのは、19世紀ロマン主義批評家に負うところが多いといわねばなるまい。[小津次郎・上田和夫]
ビクトリア朝――19世紀後半
1837年から1901年までのビクトリア女王の治世は、産業革命の成功により、イギリスは強大な工業国となり、物質文明が栄え、七つの海を支配する大英帝国を形成した時代である。商工業・貿易に従事して成功した中産階級が富を蓄え、彼らが社会階層を上昇していくとともに、功利主義的倫理が支配的地位を占め、自己満足的で上品ぶった道徳主義を特徴とする、いわゆるビクトリアニズムが生ずるに至った。しかし他方では、過度に人口の集中した都市に住み、劣悪な条件下で働く労働者の生活は悲惨であり、その結果チャーティスト運動のような急進的な運動もおこった。マルクスは亡命中のロンドンで『資本論』(1867)を書いたが、彼の眼前にはそのようなイギリスの社会が展開されていたのである。文学は当然そのような社会の反映であった。
 幼いころ靴墨工場で働いたこともあるディケンズは、自らも経験したことのあるロンドンの下層労働者階級とそれを取り巻く環境を題材にして数々のおもしろい読み物を書いた。出世作『ピックウィック・ペーパーズ』(1837)をはじめ『デビッド・カパーフィールド』(1850)など初期の作品では、ユーモアとペーソスにあふれ、人間の善意を信じる明るい笑いに満ちた物語が展開するが、後期に至ると『荒涼館』(1853)にみられるような、救いのない陰鬱(いんうつ)さが作品を支配するようになる。ディケンズと対照的に、ビクトリア朝の上層中流階級に題材をとり、彼らのもつ偽善と俗物根性を知的な筆致で暴いてみせたのがサッカレーであった。『虚栄の市』(1847~1848)はその代表作である。ここにはビクトリア朝社会の姿が冷静、忠実に描かれている。
 19世紀に入ってから多くの女流作家が生まれたが、ビクトリア朝に入ってからはさらにブロンテ姉妹、ギャスケル、ジョージ・エリオットらの女流作家が輩出した。ブロンテ姉妹の長姉シャーロットの『ジェーン・エア』(1847)は、時代の通念に反して強い自我をもった女性の情熱を前面に押し出した点で画期的な小説であった。三姉妹はみな詩をよくしたが、なかでも次姉エミリーの詩才は際だっていた。その力強い想像力は小説においては名作『嵐(あらし)が丘』(1847)を生んだ。荒涼たるヨークシャーの自然を背景に描き出される激しい情念の世界は完成された悲劇の高みに達しており、イギリス小説史上屈指の名作に数えられる。ジョージ・エリオットも本名をメアリ・アン・エバンズという女流作家で、伝統的信仰に懐疑を抱いた、鋭い知性と強固な倫理性を備えた作家であり、晩年の作『ミドルマーチ』(1871~1872)もまたイギリス小説の最高傑作の一つに数えられる。
 詩の分野ではまずテニソンをあげねばならない。彼は数多くの短い叙情詩、および『イン・メモリアム』(1850)をはじめとする長詩を書いたが、憂愁と倦怠(けんたい)のなかに、基本的には楽観的な人類の進歩への信仰を表明し続けた点で、まさにビクトリア朝を代表する詩人であり、詩法の巧みさ、流麗な音楽性には比類ないものがある。彼と並んでビクトリア朝を代表するもう一人の詩人はロバート・ブラウニングである。彼はテニソンと同じく楽天的でありながら、これと対照的に激しいことばと男性的な韻律を好み、「劇的独白」の手法を用いて人間の内面を描き出した。ときに難解に陥ることはあるものの、真摯(しんし)な人生に対する取り組み方は、大作『指輪と本』(1868~1869)によくみることができる。この時代の詩人として他に名をあげるべき人々に、批評家として有名なマシュー・アーノルド、ラファエル前派に属する画家でもあり、イタリアからの亡命者の子として南欧風の官能的な詩を書いたD・G・ロセッティ、その友人で流麗な音楽的韻律を特徴とするA・C・スウィンバーンらがいる。またカトリックの宗教詩人G・M・ホプキンズは、同じころにスプラング・リズムとよばれる独得の韻律を用いて力強い詩を書いていたが、没後20年を経た1918年にその作品が発表されるや、20世紀の新しい詩人たちに深い影響を与えた。
 ビクトリア朝前半の批評界をみると、3人の名前をあげておかねばならない。T・B・マコーレー、トマス・カーライル、J・H・ニューマンである。歴史家マコーレーは華麗にして明快な『イギリス史』(1848~1861)を著して多大の読者を勝ち得た、いわば時代精神の代弁者であったのに対し、他の2人は時代を批判する態度を貫いた。ロマン主義的傾向の強いカーライルは機械観的合理主義を排し、個人の内的生命を重んずる立場にたって、唯物主義と功利主義の支配する時代の風潮を痛罵(つうば)した。文章は難解をもって鳴るが、その反俗的姿勢が青年たちに与えた影響は多大であった。有名な『衣装哲学』(1833~1834)はその精神の形成過程を述べたものである。一方宗教家ニューマンは、当時の宗教的自由主義思想に対して、教会の超俗的な地位と機能を守ることを主張するいわゆる「オックスフォード運動」の指導的役割を演じ、のちにローマ・カトリックに転じたが、神学者としてのみならず当代の代表的散文作家の一人としても聞こえ、『わが生涯の弁明』(1864)は精神的自叙伝の古典としての地位を保っている。これら3人より一世代遅れてこの世紀の後半に活躍した批評家ないし思想家にラスキン、アーノルド、ウィリアム・モリス、ウォルター・ペイター、レズリー・スティーブンSir Leslie Stephen(1832―1904)らがいる。なかでも今日もっとも生命を保っているのはアーノルドであろう。彼は現在を謳歌(おうか)する当時のイギリス人の知的島国根性を指摘し、ロマン主義的思想に反対して秩序の観念を重視し、貴族階級、中産階級、労働者階級をそれぞれ野蛮人、俗人、大衆とよんで痛罵し、個々人が自らの人間完成を目ざす「教養」を身につけることによって時代の「無秩序」を正すべきことを説いた。
 文学とは直接のかかわりをもたないが、単に専門科学者のみでなく一般読者を対象として書かれ、それゆえに時代思潮に計り知れぬ影響を与えることになった点で、チャールズ・ダーウィンの『種の起原』(1859)をあげておくべきであろう。進化論と適者生存の考え方がただちに伝統的キリスト教信仰を覆したわけではないにしても、世界は非人格的な法則に従って、だれにもわからぬ目的に向かって動いているにすぎないのかもしれぬという疑いは、徐々にではあるが人々の宗教的確信を揺るがしていった。小説の分野ではすでにジョージ・エリオットに主知的懐疑の傾向がみられたが、メレディスに至ってこの傾向はいっそう強まった。やがて世紀も終わりに近づくころ、ギッシング、ジョージ・ムーアらの自然主義的傾向をもった作家が現れるが、その流れのなかでトマス・ハーディが『テス』(1891)を書き、人間は「宇宙に内在する力(イマネント・ウィル)」、すなわち盲目的な大きな力にもてあそばれるにすぎぬ存在だという思想を展開するのをみると、ダーウィン以降の思潮の変化が顕在化してきているのがみてとれる。
 一見ビクトリア思潮はなお強固であったが、文学の世界にはさまざまな反動も現れていた。サミュエル・バトラーは『エレホン』(1872)、『万人の道』(1903)のなかでビクトリアニズムのもつ偽善性を痛烈に暴いてみせたし、ペイターが「詩的情熱、美への欲求、芸術のための芸術に対する愛」こそが「人生の成功」をもたらすものだと主張したのも、時代の俗物性に対する反抗の態度の表明であった。また世俗に反抗して退廃の道を選んだオスカー・ワイルドにあっては、彼の生き方それ自体がビクトリアニズムへの反動であった。イギリスにも世紀末が訪れていたのである。
 そのころ、演劇界では近代劇運動がおこってきた。イギリス演劇は18世紀以来戯曲の貧困に陥り、劇壇は興行師と俳優の支配下に置かれていたが、19世紀末にヨーロッパ大陸におこった芸術劇場運動に刺激されて、1899年に「舞台協会」が設立され、その指導者の一人バーナード・ショーはイプセンの影響を受けながら、独自のユーモアと皮肉を交えた数々の戯曲を発表し、イギリス近代劇の父とよばれるに至った。アイルランドに民族主義的な新劇運動(アイルランド文芸復興)が盛んになったのも、ほぼ同じころである。[小津次郎・上田和夫]
20世紀

第二次世界大戦まで
エドワード朝(1901~1910)とよばれる20世紀劈頭(へきとう)の10年間は、ビクトリア朝から20世紀へと移行する過渡期であった。ビクトリア朝の楽天的・現世謳歌的な傾向に対して、この時代は既成の宗教・道徳・権威に対する懐疑の色を濃くした時代ではあるが、一方、後の第一次世界大戦後の時代と比べれば、19世紀的な安定と繁栄をとどめた時代でもあった。
 小説についていえば、ゴールズワージーは三部作『フォーサイト家物語』(1922)を著したが、ここで彼は1886年から第一次世界大戦後に至る間のフォーサイト家一族の人々を描くことによって、ビクトリア朝の繁栄の中軸となった上層中流階級がこの歴史の転換期にたどった変貌(へんぼう)のさまをみごとに記録した。ベネットは「五つの町」を舞台に地方の下層中流階級を描いて大衆的にも人気を博し、H・G・ウェルズは文明批評・社会批評的要素の強い数々の著作をものし、また『タイム・マシン』(1895)などの科学小説を書いて、今日のSFの先駆けとなった。こうした作家たちは、社会階層の変化、科学の進歩といった時代の流れを敏感に作品に取り入れていったが、その小説は19世紀的写実によっており、それを支える思想も、根本的には19世紀的な人間への信頼と進歩への信仰に支えられていた。彼らより年代的にはすこし古いものの、後の世代に与えた影響の大きさは彼らに勝る2人の作家に、ヘンリー・ジェームズとコンラッドがあげられる。アメリカ生まれのジェームズは、素朴だが善良なアメリカと、爛熟(らんじゅく)した伝統文化を誇る一方、内面的な腐敗を宿すヨーロッパを対比させ、両者の相克から生ずる人間の心理的・倫理的問題を取り扱った。その手法は初期の19世紀的写実主義から、しだいに心理描写を重んずるに至ったが、小説技法に対する彼の鋭い意識は後の作家に多大の影響を与えることになった。ポーランド生まれのコンラッドは作家になる前、長く船員生活を送ったが、彼の作品はその経験に基づいて、船上での生活や遠い異国に題材をとったものが多い。しかしそれらは単なる海洋冒険小説ではなく、極限状況における人間の内面を探ろうとするきわめて倫理的な性格を帯びている。彼もまた19世紀的リアリズムを内面化した点で現代小説の先駆となった。
 20世紀初頭に残るビクトリア朝的楽天主義に致命的な打撃を与え、19世紀のイギリスを完全に過去のものとしたのは第一次世界大戦(1914~1918)であった。ルネサンス以来のヒューマニズムを否定して人間の有限性を見つめるべきことを説き、ロマン主義にかえて古典主義を主張したT・E・ヒュームの思想は、大戦の経験を通して19世紀的な人間性への信頼を失った結果として生じたものであった。彼の思想的影響を受けつつ、イマジズムとよばれる革新的な自由詩の運動をおこしたのが、エズラ・パウンドであった。この両者から多くを学んだT・S・エリオットは『荒地(あれち)』(1922)を書いて、第一次世界大戦後の世界の荒廃を歌い、詩壇に革命的衝撃を与えた。ロマン主義の夢を追っていたイェーツもまたパウンドから深い影響を受け、20世紀におけるもっとも優れた象徴派詩人に変貌を遂げた。小説の分野においても、行動の裏に潜む心理を追求し、いわゆる「意識の流れ」を描こうとするバージニア・ウルフらの主張は、19世紀的リアリズムに明確な決別を告げるものであった。この手法を極限まで推し進めたジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)は詩における『荒地』に匹敵する革命的作品であった。また、人間に潜在する本能に注目し、性を生命の源泉とみなすD・H・ローレンス(ロレンス)の諸作品も、19世紀的道徳意識とは遠く隔たるものがあり、とくに『チャタレイ夫人の恋人』(1929)は社会的にも物議を醸すこととなった。『インドへの道』(1924)のE・M・フォースター、『恋愛対位法』(1928)のオルダス・ハクスリーの2人も、この時期の作家を支配していた知的自由主義とその不安を伝える代表的作家として無視さるべきではないであろう。
 批評の分野でまったく新しい活動がみられたのもこの時代であった。T・S・エリオットはT・E・ヒュームの反ロマン主義を継承する形で、詩が個人を超越して伝統に参加すべきものであるという古典主義的な批評を展開した。またI・A・リチャーズは作品を純粋に言語的観点からとらえようとする文学理論・批評理論の確立に努めた。その弟子にあたるエンプソンは『曖昧(あいまい)の七つの型』(1930)を著して、作品の一語一語に至るまで精緻(せいち)な分析を加えて批評に新しい地平を開いた。批評の関心をもっぱら作品の言語面に据えるこのような態度は、のちにアメリカで栄えた、いわゆる「新批評(ニュー・クリティシズム)」を生む源となった。リチャーズと同じケンブリッジ大学教授で、雑誌『スクルーティニー』に拠(よ)って、いわゆるケンブリッジ学派を率いたF・R・リービスも、イギリスの伝統を守ろうとする倫理的色彩の濃い批評を展開して社会的に幅広い影響を及ぼした。
 1930年代は暗い時代であった。「大恐慌」に端を発する世界的不況のなかで、ナチスが著しい台頭を示し、ヨーロッパはいっそう深い不安に陥り、知識人の間には左傾化する者が多くみられた。やがて左右の対立によるスペイン内戦(1936~1939)が起こり、イギリスの若い文学者のなかには人民戦線政府側に参加する者が少なくなかったが、内戦の実態を直視した結果、彼らの多くは共産主義への信頼に動揺をきたし、しだいにこれから離れていった。この時代の詩を代表する「オーデン・グループ」とよばれる一群の詩人の中核をなすオーデンやスペンダー、そして小説家で鋭い社会批評家でもあったジョージ・オーウェルはこうした傾向を代表している。[小津次郎・上田和夫]
第二次世界大戦以後
第二次世界大戦(1939~1945)によってイギリス社会が被った打撃はきわめて深刻なものであったが、この時期にまず目につくのは、大戦以前から活躍を続ける2人のカトリック作家、グレアム・グリーンとイブリン・ウォーである。グリーンは極限状況を通じて神を求める人間の姿を巧みな筋立てで描き、ウォーは徹底的に突き放したドライな風刺を武器に人間の暗黒面をえぐり出してみせた。一見非宗教的な人物が神を求める姿を描くグリーンにも、反俗的貴族趣味の高みから風刺の鞭(むち)を振るうウォーにも、大戦後の既成の価値観の崩壊のなかで模索する作家の姿がある。戦後になってから作家活動を始めた小説家にアンガス・ウィルソンがいる。彼もまた戦後の混乱に風刺の目を向けることから出発し、そののちイギリス風俗小説の伝統を堅持した作品を次々と発表して人気を得た。
 詩の世界では、1930年代の詩人が政治に興味を失って以来、個人主義に向かって揺り戻しの傾向がみられたが、こうした傾向を新しいロマン主義的香気に満ちた詩として結実させたのがウェールズ出身のディラン・トマスであった。「性」と「死」を主題とする彼の不気味で音楽的な作品は、第二次世界大戦の戦中・戦後にわたって広く読者を魅了した。しかし、戦後の1950年代に入ると社会的な安定志向の気運と照応するかのように、ムーブメント派とよばれるフィリップ・ラーキンを中心とする新しい動きが出現する。若き1950年代の詩人たちにとって、エリオットに代表される実験的モダニズムは、その高踏的観念性のゆえに英詩伝統の破壊者にほかならなかった。彼らはロマン主義の情緒過多を排し、合理的かつ知的な古典主義を標榜(ひょうぼう)し、ハーディの土俗的な詩をモデルにイギリス的なるものへ回帰しようとする。が、しだいにジェノサイドを体験した戦後世代から浮き上がり、戦後詩の衰弱が声高に叫ばれるようになった。
 やがて新しい戦後文学の担い手たちが登場してくる。「怒れる若者たち(アングリー・ヤングメン)」とよばれる青年作家の一群である。福祉国家となって生活は保障されたものの、情熱をこめて生きるべき目標を失った若者たちが、既成の秩序に深い疑惑を投げかけ、強い反抗を示したのである。ジョン・オズボーンの戯曲『怒りをこめてふり返れ』(1956)はこうした傾向を代表する作品として大きな社会的反響をよんだし、小説にあっても、キングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』(1954)、アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』(1958)が同じような「怒り」の態度を示している。ほかにはジョン・ウェイン、コリン・ウィルソンらの名があげられる。この派に分類されている作家たちはその多くが下層中産階級の出身であり、労働者階級に積極的に取材している点に特徴があるが、一面では彼らは優秀な成績で大学を卒業し、大学で教鞭(きょうべん)をとる者も多く、その活動も一つのジャンルにとらわれず、詩、小説、批評と多岐にわたっている才人たちで、ときに「新しい大学才人(ニュー・ユニバーシティ・ウィッツ)」とよばれることもある。彼らの仲間として出発し、小説家として目覚ましい活躍を続けてきたのが、愛の変奏を主題として写実的あるいは幻想的な小説世界を多彩に展開したアイリス・マードックである。また彼女のもっている象徴性・寓意(ぐうい)性をさらに深化させ、「神話作家」とさえよばれた『蝿(はえ)の王』(1954)のゴールディング、連作小説『アレクサンドリア四重奏』(1957~1960)の華麗な文体で知られるロレンス・ダレル、逆ユートピア小説『時計仕掛けのオレンジ』(1962)など多作なアントニー・バージェスなども人気作家である。1960年代以降は、蝶(ちょう)収集狂を扱った『コレクター』(1963)やビクトリア朝を舞台にさまざまな小説作法を駆使した話題作『フランス人副船長の女』(1969)などのジョン・ファウルズJohn Fowles(1926―2005)、キャンパス小説の創始者で批評家としても知られるデービッド・ロッジDavid Lodge(1935― )などが多彩な才能を競っている。
 なかでも、1960~1970年代に高揚したウーマン・リブやフェミニズム運動の洗礼を受けた女性作家群と、外国生まれの作家たちの活躍が目だつ。マードックとほぼ同年齢の短編の名手ミュリエル・スパーク、画期的な長編『黄金(おうごん)のノート』(1962)など現代的課題に挑戦し続けるドリス・レッシングをはじめ、フェイ・ウェルドンFay Weldon(1931― )、エドナ・オブライエンEdna O'Brien(1930― )、来日したバイアットAntonia Susan Byatt(1936― )および才女ドラブルMargaret Drabble(1939― )の姉妹、アニタ・ブルックナーAnita Brookner(1928―2016)、アンジェラ・カーターAngela Carter(1940―1992)など、日本でも彼女たちの作品の多くが翻訳出版されてなじみが深い。さらに、ノーベル文学賞を受けた南アフリカ白人女性作家のナディン・ゴーディマと西インド系のV・S・ナイポールをはじめ、『悪魔の詩(うた)』(1988)で国際的話題を提供したインド系イスラムのサルマン・ラシュディSalman Rushdie(1947― )、各種文学賞を総なめにした日系のカズオ・イシグロKazuo Ishiguro(1954― )など外国生まれの作家たちが、イギリス人読者に未知の感性に基づく新しい小説の世界を提示して高い評価を受けているが、さらにキングズリー・エイミスの息子マーチン・エイミスMartin Amis(1949― )、黙示録的SF作家として知られるJ・G・バラード、『フロベールの鸚鵡(おうむ)』(1984)のジュリアン・バーンズJulian Barnes(1946― )なども登場して、小説界は活況を呈している。
 詩の分野に目を転じれば、脱モダニズムを掲げて出発した戦後詩は、ムーブメント派の後退した1960年代以後、急速に新しい展開を示した。原初的な自然と神話的な古代のなかに、人間存在の生き生きとした本質を発見しようとするテッド・ヒューズやジェフリー・ヒルGeoffrey Hill(1932―2016)が現れ、詩壇は活気をとりもどした。続いて北アイルランド貧農の出身で、貧しい母国アイルランドの風物を背景に、アイルランドの現在と過去の現実を赤裸々に歌うノーベル文学賞受賞詩人のシェイマス・ヒーニーをはじめ、同じくアイルランド系のトム・ポーリンTom Paulin(1949― )、ポール・マルドゥーンPaul Mulduoon(1951― )ら、さらにクレイグ・レインCraig Raine(1944― )、ジェームズ・フェントンJames Martin Fenton(1949― )、新桂冠詩人のアンドルー・モーションAndrew Motion(1952― )、またキャロル・アン・ダフィーCarol Ann Duffy(1965― )ら気鋭の女性詩人といった、戦後生まれの新しい詩人たちが活躍を続けている。彼らに共通するところは、民族差別やジェンダーなど、人間の意識の底に眠らされてきた「負」の記憶を仮借なく掘り起こすことによって、文学ひいては人間の新しい未来を創造しようという、深い思いのようである。近年さらに、最前線にいる若い詩人たちは、詩の朗読を中心とする文学キャバレーなどによって、積極的に読(聴)者に対し挑発的メッセージを送り続けている。
 第二次世界大戦後のイギリス演劇は活気に満ちている。ノエル・カワードやテレンス・ラティガンによって継承される伝統的な風習喜劇・商業演劇が根強い人気を保つ一方、T・S・エリオットやクリストファー・フライは詩劇の復活を試みてかなりの成功を収めたが、まったく新しい演劇の出現をみたのは1950年代なかばに至ってからであった。前記オズボーンに続いて、下層階級の生活感情を社会変革の夢と挫折(ざせつ)に絡めて描くアーノルド・ウェスカーも多大の人気を博した。彼らが作劇法的には伝統的な手法にのっとっているのに対して、従来の枠にとらわれない反演劇的な、いわゆる「不条理劇」として大きな反響を巻き起こしたのが、アイルランド生まれでフランスで活躍していたサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953年パリ初演、1955年ロンドン初演)であった。この系譜に属するハロルド・ピンターは、反演劇の不条理性と伝統的演劇性とを巧みにつき交ぜた形で数々の戯曲を発表し、世界的な人気を博するに至っている。これよりさらに新しい世代に属するトム・ストッパードやエドワード・ボンドらの活躍も目覚ましいものがあるが、とりわけ、風習喜劇の伝統を復活させつつ、人間性に鋭い光をあてて笑いを誘うアラン・エイクボーンAlan Ayckbourn(1939― )や、政治的主題を叙事詩的に壮大に展開するハワード・ブレントンHoward Brenton(1942― )、デービッド・ヘアーDavid Hare(1947― )、デービッド・エドガーDavid Edgar(1948― )らの活躍も注目に値する。
 批評においても、1950年代に入ると、「怒りの季節」にあわせるように、新しい展開が始まった。ノースロップ・フライNorthrop Frye(1912―1991)のいわゆる原型批評である。彼が『批評の解剖』(1957)において導入した「原型(アーキタイプ)」という概念は、あらゆる神話や聖書に共通して現れる普遍的かつ類型的なイメージをいい、それが元素のようにダイナミックに創造的に働いて作品を形成する過程を探究しようという考えによるもので、ユングの集合無意識理論とジェームズ・フレイザーらの文化人類学に負うところが多く、図式化のおそれはあるものの、文学教育の有効な方法として、新しい視座を与えた功績は大きい。
 一方、これに対し、1930年代のクリストファー・コードウェルらのマルクス主義批評と、反体制的な大衆文化論で知られるレイモンド・ウィリアムズやリチャード・ホガートRichard Hoggart(1918―2014)の流れをくむ、テリー・イーグルトンら「ニュー・レフト」派の批評家たちは、文学・政治・社会にわたる革新者として活発な論陣を張った。この流れは、さらに構造主義、記号論、ラカンの精神分析、ポスト構造主義、脱構築、フェミニズム、ニュー・ヒストリシズムなどさまざまな現代思想とつながり、1960年代以降、ことに1990年代に入って文明、文化、文学を覆う世紀末の重苦しい閉塞(へいそく)感を突き破るため、「カルチュラル・スタディーズ」とよばれる学際的な新しい批評活動を精力的に展開している。[上田和夫]

イギリス文学の日本への影響

イギリス文学は、江戸末期から宣教師や貿易商によって日本に紹介されていたが、本格的に読まれるようになったのは明治以降のことである。しかしその初期にあっては、文学というよりも政治的関心のゆえに求められたのであって、J・S・ミルの『自由論』(1859)が訳され、リットン卿(きょう)やディズレーリのような政治家の小説が愛読されたのはそのためである。イギリス文学の本格的移植は、井上哲次郎その他による1882年(明治15)刊行の『新体詩抄』が最初であろう。1993年(平成5)には『文学界』が創刊され、同人のイギリス・ロマン派への傾倒がみられる。島崎藤村や国木田独歩はワーズワース的自然観に心をひかれ、北村透谷はバイロンの強い影響を受けた。やがて上田敏の訳詩集『海潮音』(1905)が現れ、英詩が日本の近代詩につながる路程が決定的となる。
 同じく大学で英文学を学んだ夏目漱石(そうせき)は、やがて小説家になったが、その作品にはメレディスやオースティンらイギリス作家の影響が著しく、当時の日本文壇を支配していたロシア文学やフランス文学の影響下にあった作家とは異なった作風を樹立した。漱石は批評家としても18世紀イギリス文学に関する優れた評論を残している。彼らの先輩にあたる坪内逍遙(しょうよう)は、イギリス文学を通し東西文明の調和を目ざして『早稲田文学』を創刊(1891)するが、とくにシェークスピアに強い関心を抱き、日本演劇改良の支柱たらしめんとした。シェークスピア全作品の邦訳は顕著な功績である。大正から昭和にかけては、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)とオスカー・ワイルドをはじめ、西脇(にしわき)順三郎とT・S・エリオット、阿部知二とハクスリーら主知主義文学、伊藤整とジョイスなど、イギリス文学と現代日本文学の間には深い関係が認められる。[小津次郎・上田和夫]
 英米を正面の敵として戦った第二次世界大戦中、敵性文学に心惹(ひ)かれる者として屈折した心的状況に置かされていた戦中派の一部青年たちは、敗戦直後の混乱期に、いち早く新しい戦後文学の出発を告知するかのように活動を開始した。鮎川(あゆかわ)信夫、田村隆一、中桐(なかぎり)雅夫ら、文芸誌『荒地』に拠(よ)る詩人グループをはじめ、ローレンスから強い啓示をうけた福田恆存(つねあり)、文学の民主的革命を目ざし『近代文学』同人として精力的に論陣をはった荒正人(あらまさひと)、シェークスピア研究から出発し、民衆の伝統と演劇とを創造的にとらえようとする劇作家木下順二らが、それぞれ戦後日本文学の重要な指標となりえた。続いて、代表的英文学者として著名な斎藤勇(たけし)に師事した中野好夫や平井正穂(まさほ)(1911―2005)、加納秀夫(1911―2003)、中橋一夫(1911―1957)、また深瀬基寛(もとひろ)ら戦中派の英文学者たちから直接・間接に啓発を受け、ジョイスの言語実験と、福原麟太郎(りんたろう)、吉田健一らのラム一流の人生論的エッセイ文学とはひと味違うイギリスのエッセイ・ジャーナリズムを、それぞれ体現した丸谷才一、それと和するかのようにイギリス・ジャーナリスト批評を果敢に実践した篠田一士(しのだはじめ)(1927―1989)、浪漫主義伝統を批評の基軸に据える磯田光一(いそだこういち)らが、世界文学的視野のもとに多彩な文壇活動を始めた。
 また、第三の新人として戦後文学の一時期を画した小島信夫、吉行淳之介(じゅんのすけ)、庄野潤三(じゅんぞう)、世界のなかの日本文学という巨視的な視点から活発な評論活動を続ける佐伯彰一(さえきしょういち)(1922―2016)、漱石を原点として近代日本の精神の位相に光をあてた江藤淳(じゅん)、土居光知(こうち)、島田謹二(きんじ)に連なる大橋健三郎(1919―2014)の薫陶(くんとう)を受け、1970年代以降の評論活動に主導的な役割を果たしつつある柄谷行人(からたにこうじん)その他、翻訳などを通して世界文学のなかに組み込まれつつある日本文学の現状において、イギリス文学を滋養とする文学者たちは意外に多い。逍遙に次いでシェークスピア全訳を成し遂げ、戦後演劇の活性化に資した小田島雄志(おだしまゆうし)(1930― )も特筆に値する。[上田和夫・上田和夫]
『福原麟太郎著『英文学の特質』(1954・岩波書店) ▽G・サンプソン、R・C・チャーチル著、平井正穂監訳『ケンブリッジ版イギリス文学史』全4冊(1977~1989・研究社出版) ▽朱牟田夏雄他著『イギリス文学史』(1978・東京大学出版会) ▽青山富士夫編『20世紀イギリス文学作家総覧』全5冊(1979~1984・北星堂書店) ▽羽矢謙一・虎岩正純著『20世紀イギリス文学研究必携』(1985・中教出版) ▽斎藤勇著『イギリス文学史』改訂増補第5版(1987・研究社出版) ▽平井正穂・海老池俊治著『イギリス文学史』(1988・明治書院) ▽橋口稔著、荒竹出版編集部編『年表 イギリス文学史』(1989・荒竹出版) ▽神山妙子編著『はじめて学ぶイギリス文学史』(1989・ミネルヴァ書房) ▽パット・ロジャーズ編、桜庭信之監訳『図説 イギリス文学史』(1990・大修館書店) ▽高松雄一編『想像力の変容――イギリス文学の諸相』(1991・研究社出版) ▽定松正・虎岩正純・蛭川久康・村松賢一編『イギリス文学地名事典』(1992・研究社出版) ▽マーガレット・ドラブル著、ジョージ・レヴィンスキー写真、奥原宇・丹羽隆子訳『風景のイギリス文学』(1993・研究社出版) ▽相島倫嘉著『イギリス文学の流れ』(1994・南雲堂) ▽笠原勝朗著『最新イギリス文学史年表――翻訳書・研究書列記』(1995・こびあん書房) ▽和田久士写真、浜なつ子文『イギリス文学散歩』(1997・小学館) ▽工藤昭雄編『静かなる中心――イギリス文学をよむ』(2001・南雲堂)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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