フランス(読み)ふらんす(英語表記)France

翻訳|France

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フランス(国)
ふらんす
France

ヨーロッパ大陸西部にある共和国。正称はフランス共和国Rpublique Franaise。面積59万9090平方キロメートル、人口6018万5831(1999年センサス)、6281万8000(2005年推計)、そのうち本土とコルシカ島のみの人口は5851万8395(1999年センサス、2005年国連年央推計6049万6000)。首都はパリ。[日高達太郎]

総論


国土
国土はほぼ六角形で、東西および南北約1000キロメートルの間に広がる。東はライン川、ジュラ山脈とアルプス、西は北海、イギリス海峡と大西洋、南はピレネー山脈によりそれぞれ限られ、北側は明瞭(めいりょう)な自然境界なしにドイツ、ルクセンブルク、ベルギーに接する。これら本土とコルシカ島のほかに、以下の海外県や海外自治体などをもつ。
〔1〕四つの海外県がある。(1)グアドループ(カリブ海東部)、(2)マルティニーク島(カリブ海東部)、(3)フランス領ギアナ(南アメリカ北東岸)、(4)レユニオン島(インド洋西部)。合計の面積9万0874平方キロメートル、人口166万7436(1999)、180万7000(2005)。
〔2〕四つの海外自治体がある。(1)サン・ピエール・エ・ミクロン(大西洋ニューファンドランド沿岸の島嶼(とうしょ))、(2)マホレ(マヨット)島(マダガスカル島北西のコモロ諸島南東部)、(3)フランス領ポリネシア(南東太平洋タヒチなど)、(4)ウォリス・フトゥナ諸島(中部太平洋)。合計面積は4758平方キロメートル、人口はサン・ピエール・エ・ミクロンが6316(1999)、マホレが16万0265(2002)、フランス領ポリネシアが24万5516(2002)、ウォリス・フトゥナ諸島が1万4944(2003)。
〔3〕特別自治体のニュー・カレドニア(南西太平洋)は、面積1万8575平方キロメートル、人口は19万6836(1996)、23万1000(2004)。
〔4〕フランス領南極地方がある。南極周辺の諸島(インド洋)、南極のアデリー・ランドは1959年の南極条約で領土権主張を凍結し、管轄しているのみ。定住者はない。
 なお、近年、海外領土の地位の見直しが進められている。[日高達太郎]
歴史的特質
国名は「フランク人の国」を意味する。このフランク人は、5世紀末の西ローマ帝国崩壊に伴って現在のフランスの地に侵入した多くの民族のうちもっとも有力であり、パリを中心とする地域に王国を建設した。「ヘクサゴン(六角形)」l'Hexagoneとよばれるフランス本土は中緯度にあって海洋性気候が卓越し、「うまし国フランス」La Douce Franceといわれるように温和な風土で、先史時代以来きわめて多くの民族がこの地に流れ込み、そこにとどまる終着地的な存在であった。同時に、ローヌ川とライン川の谷を通じて地中海文明の北上があり、アキテーヌ盆地とパリ盆地を通じてフランドルとイギリスに至る東西方向の交流が可能になるなど、どの時代にも諸文化・産物の交差点にあたっていた。
 フランク人のクロービスが建設した王国はカール1世の帝国にまで発展(800年)した。この国は以後他民族との大規模な融合を経験することはないが、多少とも独立していた周囲の諸地域をしだいに統合し、15世紀末には現在のフランスに近い領域を占める国家を形成した。異民族とその文化の吸収同化はこの国の伝統であり、現在に至るまでヨーロッパのみならず世界各地からの移民を受け入れ続けてきた。このことは、16世紀すでに他の国々に先駆けて強大な統一国家となっていたことと並んで、フランスの社会・文化の根底をなす特色である。[日高達太郎]
国旗・国歌
フランス大革命の後に制定された国旗は、竿(さお)の側からそれぞれ正義、自由、博愛を表す青、白、赤に三分されているが、三色旗のうちではもっとも有名なものとなった。国歌は1795年制定の『ラ・マルセイエーズ』で、三色旗とともにフランス民族の国家意識と自由獲得の意欲の象徴となっている。[日高達太郎]

自然


地質
フランスには北ヨーロッパにみられるような楯状地(たてじょうち)こそないが、カレドニア褶曲(しゅうきょく)運動を受けた先カンブリア時代の地質と古生代初期の変成岩層が、西部のアルモリカン山地に知られている。シルル紀の堆積物(たいせきぶつ)は、アルモリカン山地とモルバン山地に硬砂岩、スレート、赤鉄鉱層などとして現れる。デボン紀に形成された地向斜の厚い層は、石炭紀末のヘルシニア(アルモリカン、バリスカン、アパラチア)褶曲を受けている。その進行中あるいは前後に、花崗岩(かこうがん)の貫入による変成作用を伴っており、地質分布は複雑である。その褶曲軸には、西部の北西―南東に延びるアルモリカン方向と、東部(中央群山(マッシフ・サントラル)とボージュ山脈)の南西―北東に延びるバリスカン方向の二つがあり、アイルランド南部からウラル山脈までW字型にヨーロッパ全域に及んだ大きな褶曲運動に属している。ペルム紀(二畳紀)の褶曲による炭層の堆積や火山活動(ボージュ山脈、マッシフ・サントラル、エステレル山地)などを交えながら、この大山地の準平原化が進んだ。三畳紀の中ごろには海進が始まり、ボージュ山脈は海没、他の山地間では潟(かた)や盆地に新しい堆積層が形成され(ロレーヌ地方の岩塩など)、旧地形は化石化する。緩慢な侵食と堆積、および海進を主とする中生代には、こうして南部と南東部にきわめて厚い地向斜が形成され、第三紀のアルプス大褶曲運動を迎える。
 ピレネー山脈に始まり、アルプス、ジュラ山脈、コルシカ島の山系を形成した地殻運動は、侵食の進んでいた古い山塊、その周囲の盆地をも距離に応じて多少とも変形させた。マッシフ・サントラルは数ブロックに砕かれ、アルモリカン山地もゆがみ、ボージュ山脈は傾動、東側は陥没してアルザス地溝帯となり、シュワルツワルト山地と分かれた。パリ盆地中心部、ロアール川下流地域、アキテーヌ盆地などは沈下する。マッシフ・サントラルでは、鮮新世の溶岩台地(オーブラック台地)や大火山体(モン・ドール山地、カンタル山地)の形成から第四紀(ピュイ火山)まで続く火山活動も始まる。古生代の褶曲を受けた古い地域の最南部と、新しい大造山地域の最北部が、フランスにおいて他所にもまして緊密に影響しあったのである。こうして若返った地質構造を骨格として、温暖な第三紀、寒冷期を挟む第四紀、それぞれの侵食・堆積作用を経て現在の起伏が生まれた。[日高達太郎]
地形

東西の境界
地質構造に由来する地形特性に従って2地域に分かれる。その境界は、マッシフ・サントラルの南西にあるモンターニュ・ノアール山地(最高点1211メートル)から東縁のセベンヌ山地(最高点1699メートル、ビバレ山地南部を含めれば1754メートル)、ビバレ山地、ラングル高地(最高点516メートル)を経てボージュ山脈までS字型に走る線である。この境界は大西洋側と地中海側両水系の分水嶺(ぶんすいれい)ともなっている。西側の広い地域は、古い平坦(へいたん)面を多く残しているヘルシニア諸山塊、大盆地、小丘陵地、谷に刻まれた低台地などによって占められ、マッシフ・サントラルとボージュ山脈の山間地帯を除いては交通障害もない。モーゼル川、セーヌ川、ロアール川、ドルドーニュ川、ガロンヌ川などの諸河川が、多くの支流の水を集めて各低地を潤している。これに対し、境界線の南側と東側は、若い山地とその前衛地帯および構造谷(アルザス地方、ソーヌ川流域の低地帯)に占められ、起伏ははるかに大きく、水系は地質構造を反映する明瞭(めいりょう)なパターンを示す場合が多い。[日高達太郎]
アルプスとピレネー
アルプスはヨーロッパの最高峰モンブラン(4808メートル)を含み、ピレネー山脈中央部では180キロメートルの間に3000メートル以上の高峰が続いていて、尖峰(せんぽう)、やせ尾根、ときにはドーム状の大山頂を示し、斜面と谷間には氷河地形がみられる。ピレネー山脈は、海岸に臨む東西両端を除いては通過困難な障壁を形成しているが、アルプスでは古来、峠道が発達し、山間の連絡は比較的容易である。西側の石灰岩質のアルプス前地にはいくつかの横谷があり、東側の山脈本体との間の低地(コンブ・ド・サボア、グレジボダン、トリエーブの各地方)に通じている。ここからは氷食を受けた広いU字谷(イゼール川上流タランテーズ、アルク川上流モーリエンヌ)が深く山中に食い込んでいて、山間地区(バノワーズ山群、最高点3852メートル)への通路となる。低高度のジュラ山脈では、規則正しく並行した稜線(りょうせん)の間を谷(バルval)または陥没低地(コンブcombe)が走り、河流は横谷を通じて隣の谷に流れ込むため大きく迂回(うかい)する一方、石灰岩層中に地下流を形成し、西方山麓(さんろく)に至って湧出(ゆうしゅつ)する(アン川、ドゥー川)。[日高達太郎]
平野部
堆積盆地、山地前面の平野と山間の地溝帯、フランドリアン期の海岸平野など3種に分かれる。
〔1〕堆積盆地 アキテーヌ盆地と国土の25%を占めるパリ盆地は、中生代と第三紀の堆積層からなり、周囲には多少ともケスタ地形が発達している。両盆地とも粘土層または砂層に覆われ、主として森林地区として残った部分を除けば、台地、谷間などが古くから人間活動の舞台となってきた。ケスタ背後の第三紀石灰岩層の現れる乾燥した「シャンパーニュ」champagne(白亜質平野)とよばれる地域には、レス(黄土)に覆われた豊かな農業地帯と、レス層がなく森林・荒地が多い地帯とがある。ケスタ急崖(きゅうがい)の足下、古い山塊の麓(ふもと)などには、ときに沼も多い(ロレーヌ地方)湿潤な帯状の平野、台地がある。アキテーヌ盆地のケスタは不明瞭でシャンパーニュは少ないが(シャラント、サントンジュ、ペリゴールの各地方)、小起伏を示す石灰質砂岩地域に土壌が重く耕作に困難を伴う地区(アルマニャック地方、トゥールーズ市周辺)が多い。地溝帯内の堆積物は、周囲の地質構造や地質と密接に関係し、変化に富み、分布も複雑である。
〔2〕山地前面の平野 背後山地の隆起の条件、氷河、周氷河侵食などの諸要素が加わって、地形、堆積層の構成ともにきわめて多様となる(ローヌ川の谷、ソローニュ地方、ランヌムザン地方)。
〔3〕海岸平野 洪積世(更新世)の海進による海岸平野は、北海(フランドル)、イギリス海峡(マルカンテール地方、セーヌ川河口、ドル沼沢地)、大西洋(ブルターニュ、ポアチエ、シャラント、ボルドー各地方の沼沢地)などに面してポルダー地区を形成している。堤防と排水路を完備した放牧地(プレ・サレ)、耕作地、塩田あるいは貝・甲殻類養殖水域などを前面に有し、背後には泥炭質の湿地が残っていることも多く、特殊な景観を示す。ローヌ川の河口からピレネー山脈東麓まで延びる潟の連なる海岸平野は内陸性のもので、第四紀の泥灰岩質および砂質の堆積物により形成された。[日高達太郎]
海岸線
フランスの海岸線延長は3200キロメートルで、背後の地形に応じて多様な景観を示すが、その現形は第四紀の大規模な海面昇降の跡をとどめ、沈水海岸の地形が大部分を占める。アルプスとプロバンス地方の南岸、コルシカ島西岸、ピレネー山脈東麓など山地に接する部分では、急崖の迫る出入りの多い海岸線、岬の延長上の島嶼(とうしょ)、狭い入り江、じょうご型の湾入などが交錯して美景を呈する。アルモリカン山地の沿岸も同様で、海食崖、硬砂岩の岬とその沖合いの島々、数多くの沈水した旧河口が形成する深い入り江に切られた低地部の浜辺などがみられる。堆積平野前面の海岸もその緩やかな起伏に応じて、凸部(ブローニュ、コー、シャラント各地方沖合いの島々)と凹部(セーヌ河口、ジロンド河口)を形成している。そして、潮流が砂を運び砂丘の発達する部分では、その前面に、滑らかな海岸線に沿って広い砂浜が続いている(ランド地方、ラングドック地方)。[日高達太郎]
気候と植生
地中海沿岸部とアキテーヌ盆地の一部を除いて温帯気候に属し、西に開いた地形配置は海洋性低気圧の内部侵入を容易にし、年間を通じて降雨があり、夏冬の気温較差も小さい。典型的な海洋性気候は、西の卓越風にさらされているブルターニュ地方やノルマンディー地方にみられ、年中、とくに秋に霧雨が多く(ブレスト市、年降水量1123ミリメートル、降雨日数201日)、海洋の緩衝効果が明らかで気温の年較差は小さい(同市、10.7℃、霜日数17日)。ダンケルク市の気温年較差は12℃にとどまるが、冬の気温は4℃、霜日数38日で緯度の影響を示す。緯度は少し下がっても北海から遠ざかるリール市では、年較差14.7℃、冬季温度2.5℃、霜日数61日となる。南側のアキテーヌ盆地ではすでに西風とオータンとよばれる南東風が交互に吹き、春と秋に雨が多く、高温の夏はほとんど地中海岸を思わせ、トウモロコシの大農もみられる。植生もブルターニュのブナとカシの林相に対し、カシワとマツが多くなる。
 東部では亜大陸性の気候が現れ、冬には零下25℃以下、夏には35℃以上を示すこともあり、山地を除いて雨量は減じ、夏に集中する(ストラスブール市、年降水量607ミリメートル、最大降雨月8月、80ミリメートル)。ボージュ山脈の稜線(りょうせん)付近の牧草地帯の下方に広がるモミの大森林をはじめ、ムーズ川、モーゼル川のケスタ斜面、ラングル高地などは、ブナ、ハリモミ、アカマツの美林に覆われている。一方、湿潤な西風から守られている低地では、夏の高温に助けられて地中海性植物もみられる。これら東西両地域の間は、海洋性気候から亜大陸性気候への漸移帯を構成する。
 地中海性気候の特徴は、夏の高温と乾燥、低温期とくに秋に多い集中豪雨、乾燥し寒冷な強い北風(ローヌ川の谷のミストラル、ルシヨン地方のトラモンタン)などである。その直接の影響範囲は、背後の山地、ローヌ川の峡谷部などに阻まれて狭く、オリーブの生育限界にほぼ一致する。ほかにウバメガシ、マツ、イトスギが、石灰岩地帯の小低木と芳香性草本のみが生育するガリッグgarrigue(石灰質荒地)や、コルシカ島で有名な結晶岩地帯のマキmaquis(密生低木林)などとともに、南フランスに独特の景観を与えている。
 他方、山地では高度が大きくなれば冬の気温が下がるのみならず、降雨をもたらす西風を受ける斜面とその陰となる部分との差が大きい(アルプス前地、ジュラ地方、ボージュ地方、マッシフ・サントラルとピレネー山脈の西部)。陥没した構造谷では海洋からの影響が減少し、雪・霜の多い厳冬や嵐(あらし)も多い高温の夏など大陸的な性格が現れる(アルザス地方、ソーヌ川の谷、リマーニュ地方)。山地の植生分布は、ピレネー山脈ではブナ、マツなどを主として比較的単純であるが、自然要素のより多様なマッシフ・サントラルのカシワ、ブナ、クリ、アルプスの各種のマツ、カシ、ブナの森林の水平・垂直方向の分布はきわめて複雑である。[日高達太郎]

地誌


地域区分
おのおのの自然条件と歴史を背景とした小地区(ペイpays)と、その必然的あるいは人為的な地域的集合である州(プロバンスprovince)の概念は、現在なおフランス人の心のなかに生きている。これが強力なパリ中心の体制によって結ばれているのがフランスの地誌的特色である。19世紀に工業化が始まり、各地に工業都市が発展した際も、その本部はパリに集まり、経済の分野でも首都としての地位は強化された。現在なお人口100万以上の都市がパリだけ(大都市圏人口ではマルセイユとリヨンとリールも100万を超える)であることは意味深い。かくして今日、マッシフ・サントラル、南西地方などは西ヨーロッパ大工業地帯に遠く、投資削減、人口老齢化などに悩んでいる。この事実を考慮しつつ、フランスを三大地域に分けることができる。(1)アルモリカン山地からピレネー山脈までを含む西部・大西洋地域(西フランス)、(2)アルザス地方から地中海に至るライン川・ローヌ川の廊下地帯の両側地区、東部地域(東フランス)、(3)パリ盆地、ロレーヌ地方、フランドル地方を抱擁する北部平野地域(北フランス)の3地域である。[日高達太郎]
西フランス
湿潤な海洋性気候に恵まれる伝統的な農業地域で、ブルターニュ地方がその性格を代表している。ブルターニュ半島南岸にフランス第二の漁港ロリアンがある。この地域は、缶詰工業があるとはいえ、沿岸では半漁・半農、内部では中心都市レンヌの盆地とシャトーランの台地・平野に単作の豊かな農業があるほかは、立ち木に囲まれた農家、牧場、畑など、ボカージュbocage(農牧地を取り囲む帯状の樹林)の景観がみられる多角的農業が行われる。ロアール川の河口はナントの古い造船と食品工業を基礎に、造船のサン・ナゼール、精油のドンジュを含む工業地帯に発展したが、ほかには海軍工廠(こうしょう)のあったブレストに第二次世界大戦後誘致された軽工業、レンヌに自動車工業があるにとどまる。
 ロアール川下流の南に広がるバンデー地方とシャラント地方は、それぞれアルモリカン山地とマッシフ・サントラルの前面台地・平野にあたり、農業地帯を形成する。沿岸のロシュフォール、ラ・ロシェル両港をはじめとする諸漁港の重要性は減じたが、潟地区の貝と甲殻類の養殖が盛んである。農業地帯の酪農はノルマンディー地方に劣らず、ショレの繊維工業(ハンカチーフ)と靴製造は全国的に有名である。シャラント地方のブドウ栽培はコニャック地方のブランデーにより世界に知られる。マッシフ・サントラル西縁のリムーザン台地では牧畜が発達し、台地周辺の谷間には地方小炭田と水力発電により発展した小工業都市がある(リモージュ、モンリュソン、チュール)。アキテーヌ盆地には、ジロンド川河口沿岸のブドウ(ボルドー・ワイン)や段丘上の野菜栽培は例外として、伝統的な多角的農業の形態がもっとも明らかに残っている。マッシフ・サントラル南西面の厚い石灰岩層に覆われたケルシー地方は、多くの先史遺跡(クロマニョン、ラ・マドレーヌ)が古くからの人間活動を示しており、18世紀までは豊かな農業地帯でもあったが、耕作の困難、干魃(かんばつ)などによって放棄され、現在は荒地でヒツジの放牧が行われる。その逆が北側のペリゴール地方で、むしろ軟らかい砂岩地帯が多く、昔のクリの実を主食とした貧しい地区は、中世の僧院による開発も手伝って豊かな農業地帯となった。アキテーヌ盆地の工業は、航空機のトゥールーズ、天然ガス開発のポー、港湾活動と精油のボルドーに集中している。[日高達太郎]
東フランス
西ヨーロッパの南北方向の幹線に沿う地域である。地中海沿岸の観光は特異な経済的地位を占めているが、背後の平野・台地には、ブドウ、花卉(かき)、灌漑(かんがい)による果物・野菜などを主とする商品作物の農業がある。数多い小都市がおのおのの影響圏をもって発達してきたのも地中海地域の特色であり、マルセイユやローヌ川河口の大工業地帯が南フランス全体の経済活動の中心となったのは第二次世界大戦後のことである。コルシカ島は、山中のヒツジの放牧ととくに東部海岸平野のブドウ栽培によりプロバンス地方に比較でき、1960年代以降は観光も重要性を増した。
 アルプス山脈では、北部の広い谷が交通路(グルノーブル、アヌシー、シャンベリ)と耕地として、また山頂部が放牧場(アルプ)として利用され、夏冬の観光も発展した。水力の活用による山間地の工業も古くからあり、その地方中心は残った(グルノーブル)。これに対し山脈南部はコンパクトな地形と乾燥した気候でヒツジの放牧に限られ、夏冬の観光も振るわない。ジュラ山脈の森林は主として公共財産であり、歴史の古い協同組合(フルイティエール)による大型チーズの生産など酪農が活動の中心である。山間の手工業も古く、北部の時計、中部のろくろ細工など各地区の伝統を生かしている(サン・クロードのパイプ、モレーズの眼鏡レンズ、モルトーの柱時計など)。山麓(さんろく)の交通要衝ブザンソンのみが、主要な地方都市として発展した。美林で有名なボージュ山脈は、東にアルザス地方、西にロレーヌ地方の斜面を控えている。アルザス平原は古くからホップ、タバコ、ブドウ栽培など豊かな農業地帯であったが、19世紀の工業化は全国に先駆けた。ミュルーズの繊維工業はボージュ山脈東斜面の山間に及び、同時に各地に小工業の中心となる地区が発生した。コルマルの製紙、アグノーの化学工業、山麓地帯の軽金属工業は時代順応も巧みに発展を続けた。カリ塩とライン川の水力発電のみを資源とするアルザス地方では、ライン川の水運もきわめて重要である。ライン川の谷は、ソーヌ川・ローヌ川の谷とはジュラ山脈とボージュ山脈との間の狭い帯状の低地により結ばれている。この低地帯の中心都市ベルフォールと南部のモンベリアルなどは工業化に成功している。
 ソーヌ川の谷の西側斜面は有名なブルゴーニュ・ワインの産地で、斜面を切り込む谷はパリ盆地への通路(ブルゴーニュ運河)である。東岸では多角的な農業が行われ、人工沼の淡水魚養殖(ドンブ地方)、酪農(ブレス地方)など比較的貧しい土地の開発に多くの努力が払われた。ソーヌ川はリヨンでローヌ川に合流し、アルプス前地とマッシフ・サントラルに挟まれたいくつかの「関門」と広い平野に向かう。バランス、モンテリマルなどの平野は、灌漑により果樹園の並ぶ豊かな地帯となった。リヨンは西ヨーロッパの一大交差点に位置する。この古代からの都市は16世紀以降ローヌ川の谷のクワを原料に絹の町となり、その下請け工業はマッシフ・サントラルの谷間に及ぶ。中世以来の資本と広い市場に企業家の活躍も加わり、化学工業、ついで鉄鋼業がおこった。
 マッシフ・サントラルの山間部は、溶岩台地上または小盆地内で小麦が耕作できるが、いくつかの温泉地がある程度で、牧畜・酪農に頼る人口流出の激しい地域である。しかしこの山中にも東部のサンテティエンヌとクルーゾの石炭資源による工業地帯、北部のクレルモン・フェランを中心都市とするアリエ川の谷(リマーニュ地方)、ロアンヌを中心都市とするロアール川上流の谷に連なる小盆地など、農業・牧畜、地方的小工業の諸地区がある。[日高達太郎]
北フランス
フランス近代工業の出発点となった地域で、豊かなパリ盆地の大農地も近代化の先端にある。東縁のロレーヌ地方は水系が北海に向かい、気候的にも地質的にも大陸性ヨーロッパに接し、歴史的には辺境地帯の性格を示す。林業と牧畜を主とするボージュ山脈西斜面、メスとナンシーの2都市を有する豊かな土地と活発な工業に恵まれた中央廊下地帯、斜面上のブドウ栽培で有名な西側ケスタ地区の三つがあり、森林資源を生かした手工業(ガラス工芸、高級家具、楽器、刃物)、繊維工業などの伝統産業に加えて、岩塩採掘による化学工業、世界第三の鉄鉱石層とザールに連なる炭田を基礎とする重工業も発展した。パリ盆地北側、狭い意味の北フランスは、アルトア、ブーロネの丘陵地とその北側に広がるフランドルの平野と内陸台地、そしてアルデンヌ山地の南西端部を含む。北海に臨み、各方向への海上連絡もパリ盆地中心部への陸上連絡もよいフランドル地方は、繊維工業を中心とする中世以来の活発な経済地域で、近代以降は炭田の存在によりその重要性が高まった。周辺地区の多様な農業も、ビール醸造、製糖、アルコール蒸留などの加工工業に結び付いている。
 パリ盆地中心部の広い台地では、19世紀以来テンサイ、小麦、大麦、家畜飼料などの商業作物を、ときに600ヘクタールにも及ぶ大農園で少人数の資本集約的経営により生産している。丘陵地と谷間は大都市への野菜・果物の供給地である。そして周囲には、ケスタ斜面のブドウ栽培で有名なシャンパーニュ地方、平坦(へいたん)な台地の広がるピカルディー地方、港湾・漁業活動のシェルブールやカーンを中心とする海岸地帯、ルーアンやル・アーブルを中心とするセーヌ川下流工業地帯などが広がる。内陸の丘陵地では、酪農を主としつつ台地上で大農も発達するノルマンディー地方があり、南には「フランスの庭」とよばれるロアール川中流域の谷を挟む豊かな農業地帯が広がる。[日高達太郎]

政治


フランス政治の歴史的特質
第二次世界大戦以降現在に至るまでのフランスの政治は、1958年5~6月を境として、第四共和政と第五共和政の2時期に分けられている。前者は、議会制の民主化を企てながら、大戦前の第三共和政の政治体制に逆戻りし、大戦の諸打撃からの回復と刷新を目ざして諸分野で成果を収めながら、植民地アルジェリアとの戦争につまずき倒壊した。それにとってかわった第五共和政は、前体制の枠組みを基本的に修正した議会制的大統領制(M・デュベルジェはこれを半大統領制と名づける)を樹立、政府の安定性と主導性を増し、対外的自主性を強めてきた。とはいえ、フランス大革命(1789~1799)以来200年を越える歴史の刻んだ諸困難をすべて整序しえたわけではない。
(1)政治体制の非永続性 第三共和政は70年続き、第五共和政も40年を超えた。しかし現体制は大革命以来16番目の体制である。それは、政府の統治力の弱さを、あるいは体制に関する国民的合意の狭さを示すものであろう。現に第五共和政も1962年、1968年、1981年そして1986年に命運を問われかけたのである。
(2)多党制のもたらす諸問題 多党制の決定的な政治問題は、多数党もしくは多数派連合の構造にあるが、第四共和政の国民議会や戦間期の代議院には単独多数党がなく、連合多数派は不安定で一貫性を欠いていた。したがってそれを基礎とする政府も不安定で弱体となるほかなかった。ことに第四共和政で、両翼に強力な反対派をもつ中央派の連合多数派の場合がそうであった。たとえ多党制でも、選挙、議会、政府を通じて、明確な政策協定にたつ連合が組織され、参加政党の院内投票規律が厳しければ、多数派、政府、ひいては議会制の諸困難も救われたであろうが、第五共和政以前のフランスには、そのような投票規律や多数派連合がまれであった。この点で、第五共和政下の政党には注目すべき進展があった。とはいえ、フランスの政党特有の政党機能にかかわる問題、すなわち市民の政党不信、弱体な政党組織などの歴史的な根本問題が解決されたわけではない。
(3)権威主義的官僚制の重み 第三、第四共和政が政治の自由化、民主化を進めてきたことは事実であるが、それは主として政策定立あるいは立法過程に関してのことで、政策実施の過程、つまり行政過程にまで拡大、浸透したわけではなかった。政治家が行政分野に立ち入り、官僚を監視し、制御しえたわけではなく、政治家や大臣のなしえたことは、地方的利益や中小企業の利益のための調整であった。これに対して官僚は国家的利益の擁護者を自任し、国家の永続性の名において行政過程を支配してきた。しかもこの支配は、中央行政ばかりでなく地方にまで行き渡っていて、多年強固な官僚的中央集権制を維持してきた。政府の任命する県知事は、中央の出先機関を監督して、県を管理する。市民が選出する県議会や市町村議会はあるが、その議決権限の範囲は狭く、市町村は県知事によって後見監督される。したがって地方政治あるいは地方自治の内容もごく限られていた。1982年の左翼政権は、地方分権化改革に取り組んだ。これにより、県知事は共和国委員(1988年知事の名称は復活)となって、地方における国の職務のみを行い、市町村への事前統制権を失う。また地域、県、市町村は自治体として大幅な権限を有するようになった。
 こうして、民主化されてきた中央の立法過程に対して、権威主義的官僚団の支配する行政過程が自立性をもって併存してきたのである。両者の関係はそれだけではない。長期的にみれば、立法過程に対してさえ官僚は重要な役割を果たしてきた。議会多数派権力や政府権力の一貫性の欠如や安定性の不足を補って、政治の連続性を保証してきたのは官僚である。大臣は去るが官僚は残り、政府は短命にして交替するが行政は永続するのである。それに加えて戦後、経済・社会に関する問題が政治問題として増加するにつれ、政策の立案定立に関してテクノクラート(専門家)官僚が政治的影響力を増してきた。ディリジスム(国家主導型経済体制)や経済計画に加わる官僚がそうであった。中央官庁の上級官僚ばかりでなく、首相や各大臣の政治的スタッフである大臣官房への出向官僚も同じ理由で政治的影響力を増してきている。これらのエリート官僚の多くは、歴史的にグラン・コール・ド・レタgrands corps de l'tat(国家基幹官僚団)とよばれてきたが、第二次世界大戦後は、1945年設立の国立行政学院l'cole Nationale d'Administration(略称ENA(エナ))によって供給され、その出身者はエナルクとよばれている。エナルクの多数は専門家的合理主義を奉じつつも、中・上級階層の出身であるうえに、卒業後の公私部門のポストやときに婚姻関係を通じて、上級階層や大企業の立場に結び付きやすい。このナポレオン帝政以来の伝統をもった権威主義的官僚制は1981年に就任した大統領ミッテランの左翼政権下でも基本的には変化しなかった(いわゆるエリート・ローズの出現)。[横田地弘・井上すず]
政治権力の構造

第五共和政の成立
第四共和政の不安定な多数派連合政権の下では、内外の課題への対応に十分な強力さを欠き、現状凍結的保守政策(イモビリスム)が目だった。とくに旧植民地諸地域との関係の再編問題、とりわけアルジェリア問題の処理は困難を極め、まもなくこの政府の不決断は軍の反抗を招いた(一九五八年五月十三日事件)。そこでこの危機を救うべく再登場したのが将軍ドゴールである。ドゴールは6月3日議会から全権委任されて、憲法改正にとりかかる。新憲法は当然、強力な政府と威信ある国家の確立というドゴールの憲法思想を反映したものであった。[横田地弘・井上すず]
半大統領制
ドゴールは、国民投票(1958年9月、1962年10月)に訴えて承認を得た1958~1962年の憲法によって、議会制とは異なる論理とメカニズムをもついわゆる半大統領制を創出した。それは、アメリカ型の大統領制に、議会による政府抑制という議会制的メカニズムを併せ備えていた。明らかにそれは、当時の危機的状況に対するドゴールとドゴール党による、伝統的議会制に対する折衷的反応であった。政府権力の核心は多くの特権を備えた大統領にある。大統領を独裁者としない政治的歯止めとして、彼の任命する政府に対して政治責任を問いうる国民議会(下院)が設けられるが、その手続は限定される。大統領が多くの権限を実質的なものとし、その優越的地位を保持するためには、市民の直接選挙によって民主的正統性を与えられなければならない。この選挙は2回投票式多数得票制による。つまり第1回投票で有効投票の絶対多数を得た者がなければ、2週間後に、第1回投票の上位者2名について決選投票が行われる。なお任期は7年(2000年任期を5年に短縮)と長く、再選禁止などの規定もない。大統領は首相の任免権(ときにより閣僚の実質的任免権)、国民議会の解散権、非常事態対処権限などをもつ。また閣議を統裁し、政府と共同で国民投票付託権(1995年シラク政権下では付託しうる法案の範囲は拡大された)、文武官任命権、政令・特別政令(デクレ・オルドナンス)の署名権、憲法改正発議権などをもつ。対外政策を指導し、軍の首長として戦略核戦力の使用決定権をもつことが注目される。[横田地弘・井上すず]
国民議会の地位
第四共和政までのグベルヌマン・ダサンブレgouvernement d'assemble(議会優越体制)に慣れた人々は、その低下に驚きまたは憤った。確かに、議会はその立法審議権を制限され、政府の責任追及権も制約されている。会期は年170日以内(1995年シラク政権下で通常会期1期制9か月に改正)とされ、議事日程の自主性を失い、常任委員会の数を19から6に減らされ、法律案、予算案の審議・採決に介入され、法案の修正権を制限されている。ことに、政府が国民議会でこの法案に責任を賭(か)けると宣言し、これに対する問責動議(いわゆる不信任案)が可決されなければ、法案そのものが審議なしに可決となる手続さえある。また、立法の範囲そのものも明示的に限定されている。政府の責任追及の主要手段である問責動議についても、提出者、表決時期、賛成票などについて厳しい条件がつけられている。しかし、これらは、議会の審議をより効率的にする技術であり、政府の行動の麻痺(まひ)を防ぎ、さらには政府を安定・強化させる技術であり、議会制の民主化に逆行するかにみえてそれを「合理化」する技術である。市民によって直接選出され、同じ民主的正統性にたつ国民議会と大統領という2権力を均衡させている、ともいえよう。なお、国民議会の議員の任期は5年で、単記2回式多数得票制によって選出される。これに対する元老院(上院)は、任期9年(2003年任期を6年に短縮)で、3年ごとにその3分の1が間接選挙で改選される。その選挙人団は県ごとに、県選出代議士と県会議員に市町村会議員の代表を加えて構成される。国会議員の兼職禁止規定は種々あるが、第五共和政特有の制度として注目すべきものは、元老院、国民議会の議員はいずれも首相以下の政府構成員との兼職は許されない。このため、すべての候補者は選挙に際して、当選後入閣する場合、自分にかわる議員となるべき補充者を伴って立候補する。ところが地方議員(市長なども含む)との兼職については、第五共和政以前から行われてきたように、国会議員のみならず首相以下政府構成員にも認められている。このフランス独自の兼職制度は、中央―地方関係が政党組織よりも政治家の個人的影響力により動かされる傾向を強め、不透明な政策過程、ひいては政治家の汚職問題とからめて、近年批判が絶えない。とくに地方自治の進展は、この問題をより深刻にしている。また議会の欠席率増大とこうした兼職との関連が指摘され、1985年の法律により、ヨーロッパ連合の議員を含めて、地方議員と国会議員との兼職は二つまでに制限された。[横田地弘・井上すず]
半大統領制の政治権力の構造
第五共和政特有の半大統領制という政治体制における諸権力の関係は、どのようなものであるか。憲法によれば、政府が国の政策を決定、実施し、首相がこの政府を指導する。他方、国民から直接選出された大統領は、この首相を任命し、大統領が統裁する閣議を通じて政府を指導する。この入り組んだ大統領・政府関係を解く鍵(かぎ)は、大統領と議会多数派との関係にある。もし議会多数派が大統領支持であれば、大統領は意のままに首相を任免し、行政府の主導権を掌握できる。しかし、一度議会に大統領に対立する多数派が成立すると、大統領は首相以下政府構成員をこの敵対する多数派から選任しなければならない。いかに議会の地位が低下したとはいえ、議会は政府を不信任にできるからである。この場合は、外交・国防政策の相当部分を除いて実質的主導権は、首相・政府の側に移行する。いわゆるコアビタシオン、保革共存政権(1986―1988、1993―1995、1997―2002)である。
 このうち最初の保革共存政権で初めて表面化した、人事をめぐる大統領と首相の間の紛争は、むしろそれまでの大統領と政府の多数派が一致していた政権においては、国家枢要の地位の任命権を多数派が容易に独占し、政治の司法への介入すらありうることを示唆していた。
 確かに、多数派権力に対するチェック機能の必要性は、いまだ国民的合意を得たとはいいがたいが「少数意見の尊重」「法治国家」の要請が論議される1980年代末の時代状況もあって、かつてジスカール・デスタン政権下で、憲法院に法律の合憲性審査を付託する権利を両院の少数派(議員60名以上)にも与えたことが(1974年憲法改正)この観点からも再評価されてきた。ただし、この合憲性審査は立法の最終段階での審査であって、通常いわれる違憲立法審査とは異なる。[横田地弘・井上すず]
政党制の発展
第五共和政に入って、政党制は伝統的な形態を残しながらも、しだいに組織化され、4党二極化の方向をとった。まず注目されたことは、右翼の連合による議会多数派の発展であり、単独多数党の出現である。それはいずれも新議会の成立から次の総選挙まで安定した多数派(党)を構成した。例外は1958~1962年の議会で、ここでは、大統領ドゴールがアルジェリア戦争収束政策によって多数派の結集と維持を強いた。
 1962年以降、ドゴール派の新共和国連合(UNR)を中核とし独立共和党(RI)を加えた右翼多数派が形成され、大統領ドゴールの権威と声望の下に維持されるが、UNRがドゴールに忠実な人格的政党であるのに対して、RIのほうはしだいに条件付き支持政党となる。1968年には、ドゴール派の共和国民主連合(UDR)の単独多数党を生むが、連合は維持されて72.7%の議席率を占める。だがこれは、1968年5月の重大危機に対するドゴール以下のすさまじい反撃の成果で、「かつてない議会」と称された。大統領ポンピドー、次の大統領ジスカール・デスタンの下でも、しだいに中央の諸派を取り込むことにより右翼多数派が維持される。1978年には、ドゴール派の共和国連合(RPR)とネオ・リベラルのフランス民主連合(UDF)との連合をみた。後者は、大統領ジスカール・デスタンの党である共和党(PR)を中心に、中央派の民主社会中央党(CDS)、急進党主流、独立・農民派(CNIP)その他を結集した政党連合で、優勢なRPRとの均衡をねらった大統領ジスカール・デスタンの戦略の成果であった。
 この1978年の総選挙までに、右翼多数派を逆転させ、左翼多数派が実現されるはずであったが、社共2党の連合はその前年に破綻(はたん)して、1971年以来の左翼の健闘は実を結ばなかった。左翼は1965年から左翼連合を企てたが、1968年の惨敗の衝撃で解消。1971年、旧社会党(SFIO)にかわった新生社会党(PS)は、第一書記ミッテランの下に新左翼連合の戦略をとるに及んでようやく勢力を伸長し、1981年の大統領選でミッテランが勝利を得た直後に、急造の左翼連合の勝利と社会党の単独多数を実現し、左翼連合の画期的な「大交替」が達成された。しかし左翼多数派はその大胆な社会・経済改革の試みにもかかわらず、1986年にはふたたび右翼多数派にとってかわられた。この選挙は、予想される社会党の敗北を最小限にとどめるため比例代表制で行われたが、結果として極右の国民戦線(FN)の議会進出を生むことになる。その後、選挙制度は旧に復し、国民戦線は議会では勢力を失うが、大統領選挙では、得票率が1988年14.4%、1995年15%、2001年17.79%と上昇の傾向にある。激しい人種差別的言動で知られるルペンを党首とするこの政党は、移民の増大、都市治安の悪化、失業などに不安を抱く民衆に支持を拡大してきた。他方1980年代後半にエコロジストがもう一つの新勢力となって現れた。この派は、都市、青年、高学歴給与生活者などを支持基盤とし、1989年ヨーロッパ議会選挙で初めて得票率が10%を超えたが、党派としての一体性に欠け、各種選挙での得票率も安定していない。これら二つの新勢力は、選挙制度ゆえに4党二極化の政党体制を崩壊させたわけではないが、この体制を弱める要因となった。なお、1988年の大統領選挙でミッテランは再選を果たすが、1993年の総選挙での社会党の惨敗もあって、2期目の統治は活力を欠いた。1995年の大統領選挙では、RPRのシラクが勝利し、14年ぶりに右翼の大統領の誕生となった。シラクは、ヨーロッパ通貨統合への参加の条件を満たすため緊縮政策を行うが、この政策が国民の不満を高めていくことを懸念して、1997年4月に任期前議会解散に踏み切った。その結果は、左翼の勝利で社会党の首相ジョスパンが誕生し、またしても、保革共存政権となった。しかし、2002年5月の大統領選挙では、シラクとの一騎打ちが予想されていたジョスパンが第1回投票でFNのルペンに敗れ3位となり、ルペンとシラクの決選投票となった。結果はシラクが再選を決めたが、ジョスパンは第1回投票の敗退をうけて辞表を提出。シラクは、新たな首相に自由民主党(DL)副党首ラファランを任命。6月の総選挙では保守連合が単独過半数を獲得して圧勝。これによりシラクとジョスパンの下で5年続いた保革共存政権に終止符が打たれた。11月に保守連合は、RPRを中心として、DLやフランス民主連合の一部を加えて国民運動連合(UMP)を発足させている。ラファラン内閣は社会保障制度改革などに取り組んだが、高い失業率や格差拡大などで国民の支持率が低迷し、2004年3月の地方選挙で惨敗した。さらに2005年5月にヨーロッパ連合(EU)の基本法となるヨーロッパ憲法批准承認を問う国民投票では、賛成が45.33%にとどまり、否決された。その結果、首相ラファランが辞任、6月に内相であったドビルパンDominique de Villepin(1953― )が首相に就任し、内閣が発足、UMP党首ニコラ・サルコジが国務相兼内相に就任。2006年3月、若年層の雇用促進を目的としたCPE(初期雇用契約)の導入を巡り、これに反対する学生や労働者たちによるデモやストライキがフランス全土に拡大、4月ドビルパン首相はCPE撤回を表明、支持率を下げた。
 2007年5月に任期満了を迎えるシラクは、次回大統領選挙の不出馬を正式表明。UMP党首ニコラ・サルコジと社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルSgolne Royalの決選投票(5月6日)の結果、保守派のサルコジが当選した。同16日の就任演説でサルコジは「過去との決別」と「改革」を掲げ、市場原理と競争に基づく英米型社会への転換を示した。17日に側近のフランソア・フィヨンFranois Fillonを首相に指名、18日に内閣が発足した。外相として国際緊急医療援助団体「国境なき医師団」創設者の一人ベルナール・クシュネルBernard Kouchnerを起用、また、移民・同化・国家アイデンティティ相が新設された。[横田地弘・井上すず]
第五共和政の対外関係
第五共和政におけるドゴール外交の目標は、実質的には中級国家となったフランスが、いかにして世界的影響力をもつ大国としての地位を確保するかということにある。第四共和政期と同様、東西対立の基本的枠組みでは、西側に帰属しながらも、彼の信念である「国家独立」「フランスの偉大さ」のための自主独立外交の可能性を追求した。1960年代のデタント(緊張緩和)の国際状況ゆえにこのような外交努力が実を結んだことも否めない。この独自外交の不可欠の手段が、何よりも核戦力保有であり、全方位抑止戦略理論を採用して、フランスは1966年NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)の軍事機構から離脱した。ほぼ時を同じくして、東への開放政策(中国承認1964、ソ連訪問1966)、アラブより政策への転換(1967)、ベトナム戦争批判(1966)などいずれも対米追随を非とする外交を展開する。ヨーロッパ経済共同体(EEC)については、ドゴールにとってもフランスの経済力強化のために推進すべきであったが、国家主権の縮小には断固反対した。なお、旧植民地、とくにアフリカ諸国との関係は依然として重視され、多方面にわたる二国間協定を結んで、これらの国々との関係を統轄する協力省を置いた。
 このようなドゴールの対外政策は、その後の国際環境の変化や後継諸大統領の個性によりいくぶん手直しされるものの、冷戦終結(1989)に至るまでは、フランス外交の基本型であった。社会党出身の大統領ミッテランの場合も、就任当初、第三世界重視外交が目をひいたが、とくにこれまでの対外政策の型を逸脱するものではない。ところが、ミッテランが大統領再選を果たしてまもなく、ベルリンの壁崩壊(1989年11月)、湾岸戦争(1990年8月―1991年3月)、東西ドイツの統一(1990年10月)、ソ連解体(1991年12月)というように国際環境が激変する。この戦後の国際政治の基本的枠組み崩壊後のミッテランの外交戦略は、ヨーロッパ統合の強化であった。湾岸戦争は、アメリカの軍事力、日本とドイツの経済力を見せつけた。もはやフランス一国では経済はもとより軍事、外交においても指導的地位は得られないとすれば、強いドイツをヨーロッパの枠の中に封じ込め、ドイツに対するフランスの軍事的外交的優位(核兵器所有、人権大国の声望)を利用して統合の主導権を握り、アメリカの世界支配に立ち向わざるをえない。通貨統合、政治統合への批判の高まるなか、ヨーロッパ連合条約批准の可否を国民投票に問い、条約成立に導いたことはミッテラン外交の成果であった。
 1995年5月、大統領となったシラクは、前任者の政策を引き継いで通貨統合への努力を続けたが、1996年2月、重大な国防政策の転換を行った。1997~2002年の国防力整備計画のための新方針で、次の3点を柱とする。(1)地上発射核戦力全廃。1995年9月、世界世論の批判を浴びつつも強行された核実験は1996年1月をもって終了。ただし核抑止力は維持。(2)2002年までに徴兵制を廃止し、現存50万の兵力を35万に削減。(3)国防産業再編成、競争力強化。新政策は国防費削減(現行計画より年間予算を200億フラン減じて1850億フランにとどめる)を図るとともに、テロ、人道援助への対応の必要という冷戦後の新状況に備えて、職業軍人による高度の装備と機動力をもつ軍への転換を意図したものである。この結果、2001年に徴兵制は廃止され、志願兵制度が導入されている。
 なお、フランスは、1995年12月NATO内の軍事委員会に出席したのを皮切りにNATOの軍事機構に復帰しつつある。ただしNATOを内側から改革するとして、ヨーロッパにおけるアメリカの指揮権存続には異をとなえている。2003年のイラク戦争に際しては、アメリカ主導の戦争開始には反対の立場を表明。シラク大統領は在任中、ドイツのシュレーダー首相としばしば会談し、ヨーロッパ連合(EU)の主要国同士として対独強調路線を図った。
 2005年5月、フランスでEUの基本法となる欧州憲法(EU憲法)条約批准の是非を問う国民投票が行われ、反対54.87%で否決された。この結果、対外的にヨーロッパ統合を推進する主要国としてのフランスの指導力が問われ、EU内での影響力が低下し、ユーロ導入に続くEUの政治的統合が停滞した印象は否めない。なお、シラク政権は、歴史的につながりのあるアフリカ、中東、アジア各地域の開発途上国との関係も重視した。
 2007年5月16日に第五共和政6人目の大統領に就任したサルコジは、就任直後ドイツを訪れメルケル首相と会談、改めてEU体制の再生と強化をアピールした。また、市場原理と競争に基づく英米型社会への転換を示し、米英協調路線を打ち出した。[横田地弘・井上すず]

経済・産業


混合経済の体制
フランスは資本主義国家であり、経済の仕組みも私企業の自由な経済活動を前提にしてつくられている。つまり、基本的には「営業の自由」を原則にし、国家の干渉や独占の形成を否定する自由主義経済の体制が基調になっている。しかし、他方において、フランスでは歴史的に早い時期から企業の国有化が進行しており、今日では他の資本主義諸国家に比べると国有企業のウェイトがもっとも高い国になっている。これは自由主義経済の新たな局面を示すもので、経済発展をめぐり国家が重要な役割を果たすようになったことの結果である。一般に、こうした状況における私企業と国有企業との共存を「混合経済」の体制とよんでいるが、その典型例がフランスである。なお、フランスの場合には、自由主義経済を踏まえつつも、政府が国有企業の活用によって国民経済の全体を指導し発展させるという考え方(ディリジスムdirigismeの思想)が強く、私企業もそれと協調する体制になっているので、官民の「協調経済」と表現されることも多い。[遠藤輝明]
国有化の進展
企業の国有化は、1929年大恐慌にみられた自由放任経済の破綻(はたん)や、現代における社会主義経済圏の出現と拡大を経験するなかで、経済計画の導入と絡み合いながら進展してきた。それは深刻な経済不況のたびごとに経済振興策の一つとして主張され、フランス労働総同盟(CGT(セージェーテー))など労働組合の強力な支持によって実現されたものである。鉄道と軍需産業が国有化されたのは、1936年に成立した人民戦線内閣によってである。また、一連の基幹産業部門(石炭、ガス、電気)とフランス銀行(中央発券銀行)や四大預金銀行(商工国民銀行、パリ国民割引金庫、ソシエテ・ジェネラル、クレディ・リヨネ)など有力な金融機関、さらに各種の保険会社、ルノー自動車などが国有化されて混合経済の大枠がつくられたのは、第二次世界大戦で反ナチ・レジスタンス運動を経た直後、1944~1946年における労働運動の国民的な高揚期においてであった。さらに、1982年には、社会党に足場を置く大統領ミッテランのもとで、国有企業の新たな拡大が図られた。こうして、前記のほかに航空(エールフランス)、海運(トランス・アトランティク、メッサジュリー・マリティーム)、鉄鋼(ユジノール、サシロール)、化学(ローヌ・プーラン)、航空機(アエロ・スパシャル、ダッソー)、同エンジン部門(スネクマ)などで国有化が進んだ。しかし、こうした動きに対して、資本家諸団体を中心にする自由主義経済の擁護者たちの間から、国有化は経済の国家管理をもたらし「営業の自由」を侵害するという反論が絶えず強力に提起されていた。その結果、1947年以降は国有化の推進案が出されつつも1982年まで実現されなかったし、1986年ごろからは石炭、鉄鋼などの国有企業が収益性を失ったことも重なり、国有企業の民営化(私企業化)がミッテラン政権に対抗する諸党派の主張になった。なお、国有企業の経営には、(1)関係大臣が指名した関連業界の代表者、(2)組合選出の従業員代表、(3)専門職、または消費者代表などが取締役として参加できる「三者協議」方式を採用しており、いわゆる「国営」とは異なることにも注意すべきであろう。[遠藤輝明]
経済成長と経済計画
戦後フランスの経済復興は、有名なモネ・プラン(第一次経済計画、1946~1952)によって推進され、電気、石炭、鉄鋼、セメント、運輸、農業機械の6部門が重点的に復興された。この成果を踏まえ、第二次(1954~1957)、第三次(1958~1961)のプランでは製造業一般の設備近代化=合理化が計画され、国際経済力の増強が図られた。また、第四次(1962~1965)、第五次(1966~1970)、第六次(1971~1975)では、公共施設(学校、病院、文化施設)や国土開発(道路、地域開発)へもプランの対象が拡大され、「社会・経済の発展計画」とよばれるようになった。これらのプランはそれぞれに成果をあげ、1960年代から1970年代の前半にかけては、国民総生産の伸び率が年平均では5%となり、1973年には6.6%というヨーロッパ諸国で第1位の経済成長率を示した。1976年以降は、石油ショックに伴う世界的な景気後退のなかで、失業の増大や貿易収支の赤字幅拡大などにより経済の悪化がみられたが、それだけに経済計画の重要性も高まり、第七次プラン(1976~1980)のもとでは年平均3%台の経済成長を保った。1980年代に入ってからは、第二次石油ショックの打撃を受け、マイナス成長の年もみられたが、平均すれば1.1%の伸び率を示している。経済計画については、第八次プラン(1981~1985)がミッテラン政権の成立により1982~1983年の中間計画に変更されたあと、第九次プラン(1984~1988)で企業の国有化政策が強調されるが、1986年に成立した保守連合のシラク政権により公企業の民営化が打ち出された。そして、1989~1992年の「第十次経済社会文化発展計画」から以降は国家の介入に一定の限度を設け(規制緩和)、民間企業の自助努力による経済発展の方策を強めるようになっている。1986年には約3500社あった国営公共企業は、2002年末には約1600社にまで減少している。[遠藤輝明]
産業構造
2004年における各種産業への就業人口は2472万人(総人口の40%)であり、その産業別構成比は、第一次産業(農業、漁業など)4.0%、第二次産業(製造業、建設業など)24.5%、第三次産業(商業、サービス業など)71.0%になっている。これをイギリスやドイツと比較すると、第一次産業の比重が高く、それだけ農業国としての特徴を残していることになるが、他方で第三次産業の占める割合はドイツやイタリアよりも大きく、世界的にみてもヨーロッパにおいても上位に位置する。これは成熟した先進工業国としての特徴を示すものである。第二次産業の就業人口比は1977年まで増加を続け、その後はしだいに低下する傾向にある。その理由は、成長産業の主軸が鉄鋼、造船など重工業部門から、宇宙、電子、化学など知識集約的なハイテク産業へ移行していることに由来している。サービス業を中心にした第三次産業の就業人口が増加してくるのは、こうした製造業における新たな編成替えを踏まえてのことであるが、フランス経済を全体としてみれば「脱工業化」(産業社会の成熟度指標)の進行を示している。[遠藤輝明]
産業組織
他の先進工業国に比べて、経済集中度は低いほうであり、小規模零細企業の多数存在がフランスの伝統的な特徴になっている。各種企業を雇用従業者数によって規模別に分類すると、1983年に、小売・卸売業の94.8%が10人以下の零細企業であり、製造業の場合でも、10人以下の企業および職人的家族営業が84.4%を占め、500人以上の大企業は0.4%にしかすぎない。また、従業者の分布状況でみると、一般に大企業が支配的とみられる鉄鋼業でも、1979年の従業者数45万5500人のうち、500人以上の大企業で働く者は27%であり、20~499人の中小企業で57%、19人以下の小規模零細企業で16%という割合になっていた。紡績・織布業も同様で、従業者数53万6000人のうち、500人以上に30%、20~499人に59%、19人以下に11%という分布になっている。こうしたなかで、500人以上の大企業が従業者数の大半を雇用している業種は、石炭業(100%)、電気・ガス・水道業、鉄鋼業(90%台)、自動車産業、石油・天然ガス産業、金融機関、海運業、非鉄金属、保険業(80%台)、電気機械産業、化学産業、ガラス工業(70%台)などであり、いずれも国有企業が進出している部門である。また、フランスの経済成長に大きく貢献してきたのも、これらの業種であった。こうして、フランスの産業組織においては、公共的な性格をもつ業種や先端技術を導入した産業のもとで、国有企業を軸にした限られた数の大企業が上部に形成され、その下部に国民経済の豊かな消費を支える伝統的な在来産業(繊維、食品、皮革、流通、サービス業など)の幅広く層の厚い中小零細企業が存在する形になっている。なお、大企業の場合には、経営陣に高級官僚やテクノクラートの養成機関である理工科大学校(エコール・ポリテクニク)などグランゼコールの卒業生が参加し、経済変化へ革新的に対応していく進歩主義がみられるのに対して、中小零細企業では企業所有者による家族的経営が一般的であり、企業行動においても保守的であるのが特徴になっている。[遠藤輝明]
工業地帯
19世紀の初頭から始まる産業革命の展開によって、諸産業の地域的な集中が進んだ結果、次の五大工業地帯が形成され現在に至っている。
〔1〕北フランス 消費財から生産財に至る各種の産業が相互に連関をもちながら多面的に展開しており、工業化と社会的分業とがもっとも進んだ地域である。とくに、広範な農村工業から出発し産業革命の母胎になった繊維産業は、リール―トゥールコアン―ルーベー―アルマンティエールの一帯で発達し、亜麻(あま)、綿、羊毛を素材とする紡績、織布、染色、捺染(なっせん)、仕上げなど多様な諸工場の密集地帯をつくりだしている。また、採掘量でフランス最大を誇る炭田がアンザンAnzinからパ・ド・カレー地方に広がっており、フランス石炭公社の有力な炭鉱やコークス工場、火力発電所が展開しているほか、バランシェンヌ、ドゥエ、ダンケルクなどに大規模な製鉄所が立地し、それをめぐって大小さまざまの鉄加工業(車両、造船、鋼管、製缶、機械など)が発達している。
〔2〕東部フランス ロレーヌはフランス第一の鉄鋼生産地(銑鉄と鉄鋼の60~70%を生産)であり、ロンウィLongwy、エアンジュHayange、ティオンビル、オメクールHomcourt、メス、ポンタ・ムーソンPont--Mousson、ナンシーなど多数の著名な鉄鋼都市がド・バンデル社やシデロール社、ユジノール社系の大型銑鋼一貫工場を中核にして形成されている。しかし、北フランスと異なり、鉄加工業の発達はみられない。アルザス地方では、ミュルーズがリール―トゥールコアンやルーアンと並んで綿織物工業三大中心地の一つであり、とくに高級捺染綿布の生産が著名である。また、ベルフォールとモンベリアルでは機械工業の展開を踏まえてプジョー社が自動車を生産している。
〔3〕ノルマンディー地方 産業革命の発祥地であるが、その担い手となった独立自営の家族的小経営が、中小零細企業として根強く生き残っている。この特徴は、とくに金物と綿布の生産でみられる。工業地帯形成の起点になったのは、フランスのランカシャーといわれ綿織物工業で富を築いたルーアンであり、ここからセーヌ川の河口にある工業港ル・アーブルへかけて各種の工業都市が連なっている。ヤンビルYainville(火力発電と化学製品)、グラン・クビリLe Grand-Quevilly(造船)、デュクレールDuclair(金物、ボルト、銅加工)、ル・トレLe Trait(造船)、ポール・ジェロームPort-Jrme(石油精製、プラスチック、合成ゴム)、ゴンフルビルGonfreville(石油精製の臨海基地)などである。また、ルーアンより上流には毛織物の工業都市エルブーフElbeufとルービエLouviersがある。ノルマンディーの西部では、カーンを中心に、鉄鋼、機械、家電器具の生産が行われている。
〔4〕パリ地域 パリは商業・金融の中心であるほか、人口集中による豊富な労働力の集積があり、最新技術の研究・開発機関も多いので、冶金(やきん)・製鉄業を除き、すべての工業生産がパリと周辺の郊外地に立地している。製造業の就業人口は全体の22%をこの地域で占めており、フランス第一の工業地帯である。もっとも重要な産業部門は、自動車(ルノー、シトロエン)、航空機(スネクマ)、および、電気機械、電子機器、カメラ、工作機械、工具類などである。これらの生産工場は、大部分がパリを取り巻く衛星都市に立地しており、新たな人口集中をもたらしている。たとえば、パリ北部のサン・ドニ、オーベルビリエAubervilliers、サントアンSaint-Ouen、アニエールAsnires、南西部のビヤンクール(ブローニュ・ビヤンクール)、イシーIssy-les-Moulineaux、南東部のイブリーIvry-sur-Seineなど。ルノー工場はビヤンクールにあり、従業者数3万8000人を擁する巨大企業であるが、工具類などは5人前後の小企業であることが多い。また、伝統的産業では、生地(きじ)加工、縫製、食品、印刷などが、パリ市内や周辺部で盛んである。
〔5〕ローヌ―アルプ地方 リヨン、サンテティエンヌ、グルノーブルの3都市を拠点にする工業地帯である。19世紀のなかばごろから、リヨンの絹織物とサンテティエンヌの石炭・鉄鋼とが二大推進力になり、各種の関連産業を急速に発展させた。現在、絹織物業は主要な生産地をリヨン地域から低ドフィーネや南ジュラの農村へ移し、織物業における地位も相対的に低下したが、染色や仕上げ加工の部門はリヨンに残り、それとの関連で、高度な化学技術を利用する染料や化学繊維の生産が発達している。サンテティエンヌはリヨンから南西へ走る国有鉄道で1時間たらずの距離にあるが、この間に、ジボルGivors(ガラス、各種機械)、リーブ・ド・ジエRive-de-Gier(鋳鉄、特殊鋼)、サン・シャモンSaint-Chamond(特殊鋼、金物、化学製品)などの工業都市が並び、煙突が林立している。サンテティエンヌは、これらペイ・ノアールpays noir(英語の「ブラック・カントリー=黒郷」と同じ意味)と通称されてきた地域の中心であり、特殊鋼の生産と並んで銃砲、自転車、工具・金物、工作機械、起重機などの製造で著名である。一般に工場の規模は小規模であるが、企業組織としては大部分が二つの大会社(コンパニー・デ・ザトリエ・エ・フォルジュ・ド・ラ・ロアールとエタブリスマン・シュネーデル)にグループ化されている。グルノーブル地域では北アルプスの豊富な水と水力発電を基盤にして、製紙業、電気精鋼、アルミニウムの生産などに労働力が集中している。
 以上の五大工業地帯のほか、地域開発による地方都市の工業化(トゥールーズの航空機産業、クレルモン・フェランのゴム、医薬品など)や、港湾都市の臨海工業地帯化(ボルドーの石油製精、セルロース、リン酸塩、食品、マルセイユの石油化学、造船など)も進んでいる。[遠藤輝明]
農業
農林水産業の就業人口は1977年の201万3000人から1984年の165万9000人、2003年の78万1000人になった。また、農家戸数も70年の158万8000戸から2000年には66万4000戸になった。この推移は「小農経営の国」と特徴づけられてきたフランスでも大規模経営への集中が進んだことを示している。農業経営の規模別分布によると、20ヘクタール以下の小経営が急速に減少し、100ヘクタール以上の大経営が増加している。農地の利用面積でみると、2000年に20ヘクタール以下の経営はわずかに6.6%を占めるのみで、100ヘクタール以上の経営が45.6%を占めている。しかし、資本家的借地農による大規模経営の形成は歴史的に主として北部の穀倉地帯でみられ、ナントとスイスのジュネーブを結ぶ線の南側と東部フランスとでは伝統的な小規模零細経営が依然として支配的である。こうした北と南の格差は産業構造の近代化が進むなかで広がっており、その是正が農業政策の最大の課題になっている。農産物の生産高(基準価格)は2003年に643億ユーロであった。内訳は生産高の多い順に家畜(18.4%)、穀物(14.9%)、牛乳・その他の動物性農産物(13.2%)、果実・野菜・ジャガイモ(12.3%)、飼料・植物・花(12.0%)などである。この年に小麦の生産量は全世界の5.4%を占め、中国、インド、アメリカ、ロシアに次いで第5位であった。農業生産の地理的分布をみると、小麦と大麦の生産高がもっとも大きいのは、ボースとパリ盆地を主力とする北部の大農経営地帯である。150から600ヘクタールに及ぶ大農場があり、農業機械化も進んでいる。また、パリや北フランスの製糖業へ供給するテンサイの栽培もこの地方に集中している。世界に誇るワイン生産国としてブドウは重要な農作物であり、ナントからシャルルビル・メジエール(アルデンヌ県)へ斜めに結ぶ線を北限にして全県で栽培されている。ブドウの栽培耕地面積は2002年に85万2000ヘクタール(農用地総計の4.6%)であり、2000年には595万キロリットルのワインを生産した(全世界の39.2%)。しかし、主要山地は南部フランスにあって、作付面積はアキテーヌ盆地のジロンド県と、地中海沿岸のオード、エローの両県とが最大である。牧畜はブルターニュ地方を中心にした大西洋沿岸地帯と中央山岳地帯とで盛んである。[遠藤輝明]
鉱工業
鉱業では、ロレーヌの鉄鉱石(ミネット鉱)、プロバンスのボーキサイト、リムーザンの亜鉛などが世界的に名声を得てきたが、総じて鉱物原料の自給率は低く海外への依存度が高い。ただし、ニューカレドニアのニッケル鉱は生産が多い。1995年に鉱物原料の輸入額が73億6800万フランに達したのに対して輸出額は15億7200万フランであった。工業では、石油ショック(1973)までの高度成長を踏まえ、生産量で世界の10位以内に入る部門が鉄鋼、化学、機械、繊維などの分野で出現した。しかし、これらの諸部門も1985年を100とする指数でみると、1994年における鉱工業全体の伸び率116.0を鉄鉱石・鉄鋼(90.8)、繊維(80.8)などが下回り、平均を超えたのは化学製品(154.6)、自動車(122.9)、建築業(123.6)であった。主要な企業として、化学ではローヌ・プーラン、ペシネイ、エア・リキード、ロレアル、コダック・パテ、クリスチャン・ディオール、サノフィ、自動車ではルノー、プジョー・シトロエン、鉄鋼ではユジノール・サシロール、クルーゾ・ロワール、ユージヌ・アシエ、電気ではジューモン・ジュネデール、繊維ではプルボスト、ブサック、ルベなど。[遠藤輝明]
エネルギー
国内のエネルギー資源は全般的に不足しており、経済発展の大きな足かせになってきた。1980年におけるエネルギーの総生産量は石油換算100万トンの単位で34.6、総消費量は163.2であった。したがって、エネルギーの輸入依存度は79%になっていた。同じころに日本は90.2%、旧西ドイツが53.5%であった。すでに石炭と天然ガスの生産はしだいに減少しており、エネルギー消費の52%は石油であるが、その国内生産量は消費の2%を補う程度であった。こうしたなかで、エネルギーの節約強化と原子力発電の推進がエネルギー開発政策の基本となり、1990年度を目標にして輸入依存度を50%にまで引き下げる政策がとられた。その結果、1980年以降、工業生産指数のなかで電力生産が毎年1位の高い伸び率を示し、1993年には総消費量2億1860万トンのうち1億1340万トンを生産し、輸入依存度を48.1%とした。同年に日本が80.2%、ドイツが54.9%の輸入依存度になっていることと比較すれば、フランスにおけるエネルギー政策の成功を読み取ることができる。しかしその後は輸入依存度は上昇し、2002年にはエネルギー総消費量は2億4442万トンで、輸入依存度は66.1%となっている。
 その後、エネルギー自給率は50%前後が続いたが、2005年には自給率が49.8%となっている。2005年のエネルギー総消費量は2億7650万トン、電力総生産量は5754億キロワット(石油換算で1億2270万トン)で、そのうち原子力発電が79%、水力・風力・太陽光発電が10%、火力発電が11%となっている。原子力発電の割合が高く、原子力発電が一次エネルギー総生産量に占める割合は、1973年には9%だったのに比べ、2005年には85.5%にまでになっている。[遠藤輝明]
運輸・通信
鉄道はフランス国有鉄道会社SNCFの経営で、2001年の従業者数は18万2800人、営業キロ数は2万9352キロメートルであった。路線は、パリから四方へ放射状に延びる五大幹線を軸にして、支線が網目のように敷設されている。1981年にはパリ―リヨン間を超高速列車TGV(テージェーベー)が最高時速270キロメートルで営業を始め、その後も路線網を広げている。在来線乗り入れを含めると、南東へニース、西へはブレスト、西南へはボルドー、北はリール、カレーなどの国内のおもな都市をパリと結び、2001年にはバランスとマルセイユを結ぶ地中海線が開通している。さらにブリュッセル、スペインのイルン、ミラノ、ジュネーブなど近隣諸国へも乗り入れている。また、1994年、英仏海峡トンネルの開通に伴い、パリ―ロンドン間を直通専用列車ユーロスターが走り出した。道路は経済計画で高速道路の建設が促進され、パリを中心にフランス縦断や横断の道路がつくられた。1992年における高速道路の延べキロ数は7000キロメートル(1974年=100として255の伸び)であり、国道総計2万8000キロメートルの25%に相当する。河川と運河は、鉱石、石油、肥料、農産物などの輸送に利用されており、とくに五大工業地帯で重要な役割を果たしている。輸送船が航行可能な延べキロ数は8500キロメートル(うち、3000トン以上は1647キロメートル)であり、鉄道の4分の1強にあたる。海運は世界第9位の規模で、1986年の船舶所有数は311隻(うち、客船27、貨物船221、タンカー63)、総トン数は583万トンであるが、1981年にタンカー108隻を含む424隻の船舶を保持した時点と比べ、海運不況の影響を強く受けている。航空輸送は、エール・フランスとUTAが世界へ路線を開き、エール・アンテールが国内路線を担当していた。しかし国際路線の合理化と競争力促進のため、エール・フランスは1990年にUTAを買収した。また同年、エール・フランスはエール・アンテールの株式を約74%取得し、実質的にフランス航空業を独占した。1997年にはエール・フランスにエール・アンテールの運行業務が統合されている。1998年度のエール・フランスの航空機所有数は209幾、従業員数5万4000人。さらに、エールフランスは2003年にKLMオランダ航空と経営統合し、エールフランス・KLMグループとしてヨーロッパ第1位の航空グループとなった。通信では、1981年に電話網の大規模な整備計画が実施された結果、1000人当りの電話普及率は、1975年の235から2004年には560に上昇した。また移動電話の契約数は2004年で4455万で、1000人当り737となっている。テレビの保有世帯率は95.1%、インターネットの利用者数は約2500万人で、ヨーロッパではドイツ、イギリス、イタリアに次ぐ第4位を占めている。[遠藤輝明]
貿易
2004年の輸入総額は3743億1300万ユーロ、輸出総額は3607億6800万ユーロであり、貿易収支は135億4500万ユーロの赤字であった。輸入額と輸出額の合算による貿易規模は、アメリカ、ドイツ、中国、日本に次いで世界第5位である。また、国内総生産の貿易依存度は、輸入、輸出ともに21%であり、ドイツに比べれば低いが、アメリカ、日本よりも高い。貿易収支が黒字基調であったのは1992年からの数年間であり、石油ショックを境にして1970年代の後半からは赤字が恒常化していた。1982年には過去最高の1515億フランの赤字を記録している。このように貿易収支が悪化した主要な原因としては、エネルギー資源の対外依存度が高いフランスにとって石油価格の高騰が大きく影響したこと、それに伴って製造業の経営内容が悪くなり、国際競争力が低下したことなどをあげることができる。その後、エネルギー開発政策の推進により、1990年代からエネルギー資源の輸入量が大幅に急減し、貿易収支の改善をもたらした。各種物品の輸出額を輸入額で除した輸出入カバー率をみると、1994年に100%を超えているのは、上位から順に、陸運関係車両・部品136.4、農産加工・食品126.8、農水産物124.0、生産設備機械112.7、自動車・部品108.6などである。なお、100には満たないが、化学製品99.0、金属・加工品98.0、消費財96.7などが注目される。これらの数値はフランスが農業国としての伝統を保持しつつ機械、自動車、化学など近代的な科学技術のセクターで世界経済のなかへ進出していく姿を示唆している。貿易規模の地域別構成比は、EU(ヨーロッパ連合)45.0%、OECD(経済協力開発機構、EUを除く)16.6%、アフリカ5.3%、アジア(日本を除く)5.2%であり、国別ではドイツ19.6%、イタリア9.6%、イギリス8.9%、アメリカ7.7%の順になっている。日本は2.8%を占めている。[遠藤輝明]
金融・財政
1970年代の前半期まで設備投資の年平均伸び率は7.5%であり、旧西ドイツの4%を大きく上回っていた。しかし、その結果はインフレの高進をもたらし、その継続のなかで貿易収支の悪化に伴う深刻な経済不況を迎えた。これに対して、1981年にフランを3%切下げ(マルク5.5%切上げ)輸出の振興を図ったが失敗に終わり、1982年にふたたびフランの5.75%切下げ(マルク4.2%切上げ)を実施するとともに、財政収支の赤字幅を国内総生産(GDP)の3%以内に収める均衡財政を目ざしてインフレを抑制する政策をとった。また、規制緩和、自由化による国際化への対応も打ち出されるようになった。こうして、フランスの経済動向が示すように、1986~1991年に財政の健全化が進み、鉱工業生産指数の向上により1988年には経済成長率が4.5%に達するなど、景気も明るさを取り戻した。失業率も1989~1991年には9~8%台に落ちている。しかし、そのころ、景気の過熱により公定歩合が高騰しており、それとともに1991~1993年に鉱工業生産指数が低下し、経済成長率も下降、1993年にはマイナス1.3になった。その結果、1992年から税収の伸び悩みによって財政赤字がふたたび増加し緊縮財政が求められている。1995年の財政規模は歳入1兆4952億6000万フラン、歳出1兆8365億8000万フランであり、国庫特別会計を合算すると3445億2000万フランの赤字であった。この歳出は国内総生産の23.3%を占め、イギリスの28.6%より低いが、ドイツ15.5%、アメリカ21.8%よりも高い。なお、1996年度の主要な歳出の構成比は文化・教育費22.4%、国防費15.6%、産業・運輸通信費5.3%、保健・雇用費10.8%などである。また、主要な歳入の構成比は、直接税35.8%(うち所得税17.7%、法人税10.4%)、間接税64.2%(うち付加価値税46.0%)である。
 ヨーロッパ統合にむけての経済政策上の重要な課題である通貨統合が行われた。それにより、2002年1月から通貨がフランからユーロに変更となった。また、2002年の財政収支は、歳出2801億ユーロ、歳入は2301億ユーロで、500億ユーロの赤字となった。この結果、財政赤字が国内総生産(GDP)比で3.3%となり、ヨーロッパ連合(EU)の財政安定成長協定の基準違反となったため、財政改善が重要な課題となっている。[遠藤輝明]

社会


地域構造
パリ(大都市圏)は964万4507(1999年国勢調査、2005年推計で985万4000)の人口を擁し、政治、経済、文化の一大中心地をなしている。これに次ぐ大都市としてはリヨンとマルセイユ‐エクサン・プロバンス、リールが100万を超え、ボルドー、トゥールーズ、ニース、ナント、トゥーロン、ドゥエ‐ランスが50万以上を数えるが(いずれも大都市圏人口)、パリには遠く及ばない。このように極度の中央集中のため、地方の経済活動や文化生活は活発とはいえず、あらゆる面でパリと地方(プロバンス)との格差がつねに問題となっている。とくに地図上でル・アーブルとマルセイユを結ぶ線を境にして南西にあたる諸地方は、パリを含む北東部に比べて経済開発が進まず、生活上の格差も大きい。所得の面からみると、たとえばブルターニュ地方やラングドック地方はパリ首都圏の60%程度にすぎない。また、これらの地方からの離農、人口流出はかなりの勢いで進んできた。
 こうした中央集中の地域構造を是正するため、1964年、いくつかの県をまとめて広域化した計画化地域(レジオン・ド・プログラム)が全土で21(のち22)設けられ、その枠組みのなかでそれぞれの地域の開発計画を策定して開発が進められ、ある程度の成果をあげている。しかし、長い歴史をもつ中央集権の体制は一朝一夕に変更しうるものではなく、課題は今後に残されている。工業の中心は、多くがル・アーブルとマルセイユを結ぶ線の北東、すなわちパリ首都圏、リールを中心とする北部、アルザス・ロレーヌ、ローヌ川の谷などにあるが、1960年代以降は南西地方でも、ナント、ボルドー、トゥールーズなどを中心にいくつかの工業地域が生まれている。西欧先進国のなかでは高かった農民人口の割合も著しく低下し、1984年には7%、1993年には4.5%、1997年には4.0%、2003年には2.9%にすぎなくなった。[宮島 喬]
人口
フランスは久しく人口に関しては増加の鈍い停滞的な国であった。さまざまな原因があるが、やはり二度の世界大戦で多くの青年人口を失い、そのために著しい出生減を経験してきたことが大きく作用しているといえよう。1932年以来、家族手当が制度化され、子供の数に応じて支給されてきたのも、この人口政策の観点からであった。しかし、第二次世界大戦後は人口増加に転じ、1946年に約4050万であったのが、第四、第五共和政のもとでの経済成長に伴い、1990年に5807万4215、さらに1999年には6018万5831、2005年(推計)では6281万8000と推移している。
 1999年の資料によると、20歳未満の人口は24.6%、20~39歳の人口は28.1%、40~59歳の人口は26.0%、60~74歳の人口は13.6%、75歳以上の人口は7.7%となっている。人口の都市集中は著しく、首都圏(パリとその周辺地域)は全人口の16%を占め、それを除く都市圏人口10万以上の都市の人口が28%に達している。その一方で、人口500以下の農村の人口は1%に満たず、減少の一途をたどっており、こうした小コミューヌ(町村)は過疎化の悩みのなかに置かれている。
 また、今日のフランスでは外国籍居住者の人口が326万3186(1999)の多数に上り、人口全体の5.6%となった。その大部分を占めるのは、南ヨーロッパ、アフリカおよび開発途上国からの移民労働者とその家族である。これは、二つの世界大戦によって人口の減少ないし増加の停滞が生じ、労働力不足をきたした結果、これを補うべく計画的に移民を導入してきたことによるもので、ポルトガル人(57万3000)、アルジェリア人(54万5000)、モロッコ人(44万5000)などの順で多くなっている。これらの移民は、主として単純労働、一部は半熟練労働に携わっており、フランス経済にとって不可欠の役割を果たしているが、その労働条件、生活条件は本国人労働者に比べてかなりの差があり、社会的な問題にもなっている。1980年代以降これら移民労働者の定住化が進んだが、2005年10月末、パリ郊外の移民ら低所得者が多く住む地域で、アラブ系を中心とした移民の若者らによる暴動が発生した。暴動はフランス全土に広がり、11月には政府が非常事態宣言を発動する状況となったが、暴動拡大の背景には、移民層の失業、差別、貧困などに対する不満があったと考えられる。
 すでに述べたように農業人口は5%を割り、他方、カードル層(管理職、専門職、技術職)や事務員が増加し、いわゆる「新中間層」に該当する層が50%近くを占めるようになっている。また経済の脱工業化に伴い、サービス業従事者も増加している。なお、有業人口に占める女子の割合も高まり、1984年の42%から1999年の57%へと増加をみている。結婚し、出産してのちも仕事を続けるという女性が増え、30歳代の平均の有職率が77%を超えるに至っている点は、女子の社会参加の増大を示すものとして注目されてよい。[宮島 喬]
国民生活
国民1人当りの平均年間所得は2万4431ドル(2003)であり、ヨーロッパの国々のなかではスイス、スウェーデン、デンマーク、ドイツなどに次いで高い。しかし、すでに述べたように、パリ首都圏を含む北東地方と、後進的な南西地方の間には所得格差がある。また、高所得層と低所得層との開きも欧米先進国のなかでは大きいほうに属する。これを職業階層別にみると、経営者、自由業および上級のカードルの所得がとくに高く、中間層をかなり引き離し、生産労働者のそれの平均4倍前後にも及んでいる。これは、上層への資産の偏在を意味するとともに、のちに述べるこの国の一種のエリート養成の教育制度をも反映している現象である。この所得の不平等の是正が政策の重要な課題とされ、法定最低賃金の引き上げ、最低所得補償制度の実施、税制改正の努力が進められている。上級カードルと生産労働者の所得の倍率は、1970年4.5倍、1975年3.9倍、1980年3.6倍と、1970年代にやや縮小の傾向がみられた。なお、所得の面で事実上最下層をなすのは、すでに述べた移民労働者層(フランス国籍をもつ者も多い)である。彼らの多くは法定最低賃金に近い所得に甘んじている。加えて、熟練水準が低く、社会的差別も重なり経済的不況期には真っ先に雇用不安にさらされる存在であり、社会経済的不平等はここにいちばんしわ寄せされているといってよい。
 生活様式の面で今日のフランス国民を特徴づけるものの一つは、バカンスの名でよばれる長い有給休暇とそれを楽しむ習慣である。バカンス制度は1936年のいわゆる人民戦線内閣に始まるといってよく、同内閣は週40時間労働と年に15日の有給休暇を定めた。この有給休暇は以後しだいに延長され、1969年には4週間近くとなり、さらに1982年には5週目が認められるに至った。ことに「グランド・バカンス」grandes vacancesとよばれる夏季休暇は、一般の勤労者はもとより、カードル、経営者、自営業主などにも広く普及しており、夏のバカンス出発率は国民全体で60%に達し、1人当り休暇の平均利用日数も27日強に及んでいる。この時期、地中海岸、大西洋岸、あるいは国境を越えてスペイン、ポルトガル、イタリアなどに向けて大きな人口移動がおこり、都市生活は活気を失い、政治、経済の動きも鈍りがちである。国民のうちには、夏のバカンスで1年の貯えをほとんど使い果たし、秋からまた翌年の夏のバカンスのために働き始めるという者も少なくない。ただし、この長期有給休暇の制度化は、1980年代から「雇用の分かち合い」、高失業率への対応のために必要と認識されるようになっており、雇用政策との関連が無視できなくなっている。[宮島 喬]
労働
フランスでは、労働組合の法的承認は19世紀後半とかなり遅く、それに加え、いくつかの労働組合センターが分立しているため、労働者の組合への組織率はかならずしも高くない。1895年結成というもっとも長い歴史をもつ「労働総同盟」(CGT)は、共産党と緊密な連携関係を保ってきた。このCGTから1948年に分裂した非共産党系の労働組合センターとして「労働者の力」(FO)がある。また、その前身がカトリック系の労働組合組織であった「フランス民主労働連合」(CFDT)は、現在では社会党と密接な関係を保っている。このほか、教員は以上とは別個の組織をもっており、「全国教員連盟」(FEN)を結成している。これら労働組合の活動の力によって、労働条件、労働時間はしだいに改善されてきた。1936年の人民戦線内閣のもとで労働時間は週40時間と定められたことはすでに述べたとおりであるが、ミッテラン社会党政権下の1982年にはさらに週39時間となり、今日では週5日制も広く普及し、年次有給休暇も拡大の一途をたどっている。さらに2000年にはジョスパン内閣によって週35時間労働制が導入された。しかし、経済競争力の低下を招くとして、2005年に就業時間延長を認める法が成立している。また1952年以来職種を問わず定められた最低賃金については、労働組合はその引き上げに熱意を注いでいる。
 他方、政府も、第二次世界大戦後、雇用問題や労使関係の調整を自らの責任とみなすに至った。それは、たとえば従業員100人以上の事業所に「企業委員会」の設置を法によって義務づけるといった点に現れている。これは、従業員から選出された代表と経営側との間で労働条件の改善等について協議を行うための機関である。また、1950年の法律では、雇用主と被雇用者の間の団体協約の締結が義務として定められ、採用、解雇、給与などに関する条件がその対象とされた。なお、1945年から1946年にかけて、のちに述べるように諸種の社会保険が整備・確立されてきた。しかしEC(ヨーロッパ共同体)からEU(ヨーロッパ連合)へとヨーロッパの統合が進むなかで、一国のなかでの雇用、労働政策には限界が生じており、共通社会政策の推進、EU社会憲章の法制化などが望まれている。
 1980年代から、欧米全般での景気後退のなかで失業者が増大し、失業率は1997年には12.4%に達したが、その後はやや低下し、2004年には10.0%となっている。とりわけ若年層において失業率は高い。このため労働者の雇用防衛の運動も強いものがあり、1990年代に課題となった国有企業民営化、企業の整理、統合に伴う合理化には、激しい抗議行動が起きた。なお、こうした景気後退のなかで事実上移民労働者の導入は停止されているが、現にフランスに滞在中で失業の状態にある移民の数はかなり多く、社会問題ともなっている。また2006年3月に、若年労働者を雇用から2年以内なら無条件に解雇できるようにした「若年向け雇用制度(CPE)」をめぐって、大規模な反対デモが発生した。そのため、制度の導入は撤回され、シラク体制に大きな打撃を与えた。[宮島 喬]
社会保障
フランスの社会保障の諸制度は、すでに述べたように1945~46年にかけて整備・確立されているが、さかのぼれば、1930年の社会保険法(勤労者、農業労働者の廃疾、退職、死亡など)や1932年の家族手当法がその基礎となっているといってよい。社会保険については、その原理がすでにヨーロッパの主要国に普及し終えた時期に初めて制度化されるなど、立ち遅れをみせたが、家族手当の面では、この国特有の人口問題の解決という強い要請もあって、ヨーロッパのなかでも制度化は早かった。
 1946年の法律によって明確化された社会保障の諸原則は、イギリスのビバリッジ・プランから部分的に影響を受けているといわれ、古くからある保険の観念を保障の観念に置き換え、賃金とは別個に、国民的連帯性により拠出される社会的所得を設けようとするものであった。保険は義務的であり、老齢、廃疾、死亡などの保険が定められた。受益権は当初は賃金生活者に与えられたが、全フランス人に拡大されるべきものとされ、1968年からは手工業者や独立自営業者にもこれが適用されていく。
 社会保障支出費は、約1兆5000億フラン、国内総生産の30%近くを占める。その財源構成は、使用者50.6%、被保険者23.4%、国、地方公共団体23%となっている(1992)。一般保険の財源は使用者と被保険者によって負担されるが、労災補償と家族手当は使用者のみによって負担される。老齢年金の受給年齢は60歳からで、この時までに37.6か月の被保険期間があれば、完全年金が保証され、被保険期間がこれに満たない場合には比例年金が適用される。支給額はもっとも所得の多かった(退職直前の、ではない)10年間の平均賃金年額の50%に相当する額とされる。なお、2004年の社会保障給付金は4804億4200万ユーロとなっている。
 特色があるのは、きわめて多種に及ぶ家族手当である。この制度は1939年の家族法典のなかに盛られ、戦後は社会保障制度のなかの主要なものの一つとなった。子が1人の場合には支給されないが、2人以上の子をもつすべての家庭(外国人家庭も含めて)に所得制限なしに適用される。支給額は算定された基礎月額に対する一定の割合で決められるが、3子、4子、5子以上と増えるごとにその割合は大きくなり、子供の加齢に応じても割増しが行われる。この他、家族給付としては、家族補償手当、遺児手当、単親手当、乳幼児手当、さらに住宅手当などがあるが、このなかで乳幼児手当などには出産奨励という給付のねらいが強く現れている。[宮島 喬]
教育
大革命のさなかに布告された一七九一年五月三日憲法は、「すべての人間にとって不可欠な教育を無償とし、すべての市民に共通であるような公教育が創設されるであろう」と述べ、あまねく国民に教育を受ける権利があることを宣言した。しかし、公教育をその根幹とする現在の教育制度が確立されるのは第三共和政の時期である。その理念とするところは、教育の自由、すなわち公私両教育の併存(ただし、比重は公教育が大きい)、公教育の無償と非宗教性(ライシテ)、そして公開試験による選抜と資格付与、などである。なお、この最後の点は、激烈な試験を勝ち抜いてきた少数の者に英才教育を施すこの国独特の高等教育制度の存在と結び付いている。第二次世界大戦後、ランジュバン‐ワロン教育改革案などによって進学制度の民主化の努力や、大学進学者の増大にこたえての諸改革が行われてはきたが、高等教育のあり方はつねに論議の的となっている。
 義務教育は6歳から16歳までの10年間で、小学校から中学校(コレージュ)を経て高等中学校(リセ)または職業高校(LEP)の1年次修了時までがこれにあたる。高等中学校の3年次修了後、大学入学資格(バカロレア)を取得して高等教育に進む者もあれば、また職業教育高校を卒業して実社会に出る者もある。近年、バカロレアの取得者は増え、同年齢層の60%前後を推移している。ただしここには比較的最近設けられた科学技術バカロレア、職業バカロレアの取得者も含まれていて、彼らの場合、高等教育に進む者は少ない。これを差し引いた普通バカロレアの取得者は同年齢層の約35%である。大学(ユニベルシテ)は、標準的には18歳からの3年間で、一般教育的な第1課程と専門の第2課程に分かれる。従来、大学では応用的な科学や技術教育が比較的軽視され、純粋科学と人文教育の偏重の傾きがみられた。また、大学卒業生の就職難は1970年代から強まった。このため、1970年代、1980年代には幾度か実社会、産業界の要請にこたえるように専門課程の改革が行われてきたが、反面これは大学の職業教育機関化であると学生の反発も招いた。
 バカロレア取得者には門戸が開かれる一般の大学に対して、厳しい試験の結果入学を許される高等専門学校(グランゼコールgrandes coles)が別にある。したがって、フランスの高等教育は二元化しているといってよい。後者に進学するためには、バカロレア取得後、通常、有名リセのなかに設けられた「受験準備級」で2年間勉強し、入学試験を受けることになる。有力なグランゼコールでは、高度に専門的でありまた実際的でもある教育が行われ、卒業後はその席次順に、官庁、企業などでそれぞれに高い地位が与えられていく。このようにグランゼコールはいわゆるエリート養成機関としての性格を濃厚にしており、それだけに、一般の大学との勉学条件や教育条件における大きな格差がしばしば論議の的となるのである。[宮島 喬]

文化


「フランス文化」への疑い
フランスは世界の国々のなかでもとりわけその文化によって注目される国であり、またフランス人の間でも自国の文化を誇りたいせつにする気風が強いことは確かであろう。フランスの社会では伝統的に文化に大きな役割と高い価値が与えられており、そのことは国家のレベルにおいても当てはまる。文化省が設立されたのはたかだか50年前(1959)にすぎないが、フランスには国家らしきものが成立して以来つねに有形無形の「文化政策」が存在していた。こうしてフランスが文化の国であり、フランス文化が優れた文化であることは、パリを中心としたいわゆる高級な文化(ハイ・カルチュア)を問題にする限り、一見、自明なことのように思われる。だがそれは、はたしてフランスの文化なのであろうか。また文化の定義を個々人の生活様式に深くかかわるものとして考えるとき、そもそも「フランス文化」なるものは存在しうるのであろうか。これまでフランス文化の存在が自明のこととして論じられることが多かっただけに、われわれはそれを疑うことから出発してみよう。
 実際、一つの文化の単位を国境によってくぎることが可能であろうか。パリの文化はフランスのブルターニュ地方やマッシフ・サントラル地方の農民の文化よりも、むしろロンドンやニューヨークの文化に近いし、同じパリであっても知識人の生活と労働者の生活の違いは大きい。しかもパリ在住の知識人にしても労働者にしても、かなり大きな部分を外国人や移民が占めており、それらの異質な要素を排除すれば、フランスの社会そのものが崩壊するだろう。都市と農村の文化的な差異は別としても、フランスの地方にはパリと異なったさまざまな異質な文化が存在している。フランスは人種の混合体であって、特定の人種の特徴からフランス文化を論じることはできない。フランス語は一つの目安となるだろう。だが19世紀のなかばころには、まだフランスの地方の住民の半数はそれぞれの方言を用いていて、いわゆるフランス語が使えなかったことを忘れてはならないだろう。それにこの場合、海外諸県や海外自治体、カナダ、スイス、ベルギーあるいはアフリカにおけるフランス語圏の文化との関係をどのように考えればよいのであろうか。たとえばカナダのケベック州の文化は、フランス語を話す住民による文化の、フランスとは異なったもう一つの可能性を示している。
 こうして単一不可分の共和国に見合った単一不可分の均質な「フランス文化」の存在は一種の神話であり、中央集権的なイデオロギーの生み出した一つの幻想にすぎないのではないかという疑いが強くなる。だがここで注意すべきは、かりにそれが幻想にすぎないとしても、そのような幻想自体もまたすでにフランス的な文化の特徴的な一側面をなしているということである。現在フランスとよばれている国の文化の特徴を観察するためには、文化を変化の相のもとにとらえて、その多様性と普遍性に注目しつつ、対立と葛藤(かっとう)、そして局地的な均衡と調和を繰り返しながら形成されつつあるダイナミックな文化のモデルを考える必要があるだろう。以下そのような文化モデルを思い描いた場合に、重要だと思われる特徴を要約的に記しておこう。[西川長夫]
多様な民族、多様な文化
近代国家の形成という観点から眺めるとき、すでにみたように、フランスは地理的にきわめて恵まれた条件を備えていた。農用地率は55%を超えており、「うまし国フランス」の呼び名にふさわしいこの豊かな土地には、古来さまざまな人種が住み着き、また通り過ぎていった。南フランスのドルドーニュ地方で発見された人骨(クロマニョン人)は旧石器時代後期に属するものとされ、ラスコーの洞窟(どうくつ)の壁画は1万7000年前、ブルターニュの巨石文化は紀元前2000年ぐらいのものと推定されている。だが現在のフランス文化に直接かかわる歴史的事件としては、前9世紀におけるケルト人のガリア移住以後を視野に収めればよいであろう。
 ドナウ川流域からガリアの地に移動してきたケルト人の社会は、貴族(武士)、平民、僧侶(そうりょ)に分かれ、優れた鉄器文化と樹木や泉を崇拝し、霊魂の不滅を信じる信仰(ドルイド教)をもっていた。ローマとキリスト教による支配ののちも、ケルト文化は民間伝承や習俗として残り、フランス文化の祖先を求めれば、多くの場合、900年にわたってガリアの地を支配したケルト文化に行き着くようである。
 前2世紀の末から南ガリアに進出していたローマの勢力は、前58~前51年にかけてカエサルに率いられた軍勢によってガリア全土の征服に成功した。当時のガリアの状況やガリア気質とでもいうべきものを、われわれは今日カエサルの残した『ガリア戦記』によって知ることができる。以後500年にわたるローマの支配は言語(ラテン語)、法律、行政制度、宗教、建築などの領域にきわめて大きな影響を残した。現在も残されているニームやアルルの神殿や闘技場、ポン・デュ・ガールの水道橋、パリのクリュニー美術館の庭にある浴場跡など、当時の雄大なローマ文化をしのばせる遺跡がフランス各地に散在している。今日に至るラテン系文化の最初の特徴はこの時期に深く刻まれた。
 紀元後4世紀に始まったゲルマン人の大移動はガリアの地にさまざまな部族を送り込んだが、最終的な支配者としてこの地に定住したのは、ライン川の下流から移動してきたフランク人であった。476年の西ローマ帝国滅亡後、フランク人の首長クロービスが王となって481年フランク王国が建設される。だがゲルマンの支配と影響力がとくに強かったのはロアール川以北であり、ロアール川以南にはローマの影響が残存した。こうして北フランスと南フランスの風土的な差異に重ね合わされて、今日にまで続く南北の文化的な違いが形成される。北のゲルマン法に対する南のローマ法、北の単婚家族・均分相続に対する南の拡大家族・長子相続制、北のウマを中心とした三圃制(さんぽせい)と南のウシによる二圃制、さらにはオイル語とオック語といった言語の違いなど、対照的な文化が存在したのであった。最初に高度な宮廷文化が誕生したのは南フランスのほうであったことも忘れてはならないだろう。
 ガリアの地に展開された諸民族の移動と定住の跡をたどることは、この地が諸民族にとっていかに開かれた土地であり、ヨーロッパにおける民族の交差点をなしていたことを証明することになる。地中海と大西洋の二つの海に面しているフランスでは、縦横に走る河川を通じて二つの海が容易に結び付く。自然国境のように存在するピレネー山脈やアルプスの山岳地帯、あるいはライン川などの大河も、交流を妨げる大きな障壁とはなりえなかった。フランスの自然的な条件はその地にいくつかの文化圏や政治権力を成立させる程度には変化に富んでいたが、それらを孤立させ交流を妨げるほどの決定的な障壁は存在しない。こうして多様な人的構成と多様な文化の存在を許したこの土地は、国民的な文化の成立以前に、すでにある種の普遍的な文化への志向と可能性を秘めていた。[西川長夫]
普遍的な文化への志向
フランク王国の最初の王であったクロービスが496年にランスの聖(サン)レミの洗礼を受けてカトリックに改宗したことは、それ以後のフランスにおける王権とカトリックの密接な関係の端緒として重要な事件であるばかりでなく、普遍性を目ざす国民的な文化におけるカトリックの役割を考えるうえでも興味深い。クルティウスが『フランス文化論』で指摘しているように、フランスにおける文化意識(したがって国民的な感情)の高揚期には、つねにキリスト教が大きな役割を果たしている。11世紀の後半から12世紀のなかばに至る武勲詩(シャンソン・ド・ジェスト)やゴシック芸術、あるいは十字軍などは、いずれも国民的な使命をキリスト教に結び付けるものであった。13世紀初頭の南フランスにおけるアルビジョア十字軍の背後にあったのは、異端討伐の名を借りた北による南の支配と統一の意志である。15世紀中葉のジャンヌ・ダルクの出現は、国民的な感情と宗教的な感情の融合に特色が認められる。その二つの感情のいずれが歴史の主流であったかは、フランス全土に支配を及ぼすような強大な王権の成立とともにおのずと明らかになるだろう。シャルル8世やフランソア1世のイタリア遠征は、領土拡大の野心とともにフランスの文化的な覇権の願望を秘めていた。国民的な感情と普遍的な文化への志向が合体してそれにふさわしい表現形式をみいだしたのは、ようやくルイ14世時代の古典主義においてであろう。文化的な普遍主義が政治的な統一と拡大のイデオロギー的な表現でありえたことはいうまでもない。
 18世紀の啓蒙(けいもう)主義は、ブルジョアの時代にふさわしい、キリスト教にかわる新しい普遍的な文化の理念を提供する。人類の歴史を進歩の相のもとにとらえ、万人が享受しうる普遍的な価値を想定する「文明」という概念は、しかしながらフランスの国民的な文化が普遍的なものであるという確信に支えられていた。フランス大革命のナショナリズムはこの「文明」概念に支えられており、イギリスを除く全ヨーロッパを席捲(せっけん)したナポレオン軍は、その意味では一種の近代的な十字軍である。現在のフランスにも根強い中華思想は、この「文明」概念に深くかかわっている。[西川長夫]
フランス語にみる普遍性と多様性
フランス精神の具現として、フランス的なものの第一にあげられるフランス語にも、この普遍性と多様性の対立葛藤(かっとう)の歴史が深く刻まれている。フランス語の母胎はガリアの地に広がって変形していった俗ラテン語であった。フランク人のゲルマン語はゲルマン的な生活や制度にかかわる数多くの語彙(ごい)を残し、音韻体系にも大きな変化をもたらしたが、それ自体がラテン語にかわることはできなかった。北フランスのオイル語が南フランスのオック語を放逐してゆく過程は、北フランスの政治的な支配の確立と対応しているが、しかしその間フランス語は統辞法の確定を進める一方で、近接の言語から多くの単語を導入して豊富な語彙を形成する。国語の統制が強力に推進されるのは17世紀の絶対王政の成立とともにであり、辞書の編纂(へんさん)を通じて国語に強力な規範を与える公的な機関としてアカデミー・フランセーズが設立されたのは1635年のことであった。18世紀におけるリバロールの「明晰(めいせき)でないものはフランス語でない」という有名なことば(『フランス語の普遍性について』1783)はまさしくフランスの文化的な覇権の宣言であったが、それが言語の明晰性の主張として述べられているところに特色がある。フランス語が明晰でなければならぬのは、それが普遍的な理性の実現を目ざすものだからであるが、他方この普遍的な理性は学者の科学的な研究や高邁(こうまい)な精神の働きにではなく、サロンの会話や市民の日常生活のなかに求められたところにフランス的な特色が認められよう。
 フランス大革命はジャコバン派とジロンド派の対立によって中央集権的な普遍主義と地方分権的な個別主義の対立を浮き彫りにしたが、言語の問題がもっとも劇的な様相を示したのも革命期のフランスにおいてであった。唯一不可分の共和国の理念は、いわゆるフランス語の法令を地方のことばに翻訳することを義務づける一方で、国語としてのフランス語の支配と方言の抑圧にかつてない強い力を発揮したからである。ジャコバン的なデモクラシーと文明の理想は、地方の伝統的で多様な文化の破壊に導いたのであった。だがそうした中央政権の意図がかならずしも成功しなかったことはその後の歴史が示している。フランスの地方の農民が国民的な統合のなかに組み入れられる時期はきわめて遅く、ようやく20世紀初頭においてであるとする説(ユージン・ウェーバー『フランス人になった農民』Peasants into Frenchmen――The Modernization of Rural France。1976)もあるほどである。またパリにおいても規範的なフランス語と大衆によって実際に使われることばの差異は大きく、「ビラング(2国語)の国」といわれていることを付け加えておきたい。[西川長夫]
「国民性」といわれるもの
フランスの国民性についてもっともみごとに述べているのは、おそらくモンテスキューの次のことばであろう。「社交的な気質、開いた心をもち、生活を楽しみ、自分の考えを伝えることを好み、またそれをやすやすと行い、活発で人当たりがよく、陽気で、ときには軽率で、しばしば不謹慎だが、それらに加え勇気があり、寛大・率直で、なにほどかの誇りさえもっている国民」(『法の精神』)。シーグフリードはイギリス人の不屈性とドイツ人の規律に対してフランス人の知性を強調した。マダリアーガはスペイン人の美的受動性やイギリス人の行動性に対してフランス人の思考と享楽への志向を指摘する。だがパリ中心のフランス文化の説明としては説得的なこうした性格特性に対しても、ドフィーネ地方の農民の非社交的なはにかみと頑固さ、ブルターニュの農漁民の冒険心と瞑想(めいそう)性、等々地方的な特色をあげた反論が可能である。むしろフランスの文化も個人も普遍性と多様性との矛盾と葛藤のなかでときに引き裂かれ、ときに調和的であるというべきだろう。フランスの個人主義は国家権力や社会の全体主義的な流れには強固に抵抗するが、ときに独裁者を容易に受け入れる。フランス人の自由の感覚はきわめて無政府的で享楽的であるが、ナショナリズムの波に飲まれやすい。フランス人は外国人と外国の文化を寛大に受け入れるが自らは外に出て行こうとしない、等々。[西川長夫]
国家の時代の文化
フランスの国家予算のなかで、教育・文化部門の占める割合は、他の諸国と比べて例外的に高い(ミッテラン政権下では22%を超えた)。フランスは普遍的な文明の概念を通して、中央集権的な高度の文化の形成に成功した国である。コレージュ・ド・フランス(1530)、アカデミー・フランセーズ(1635)、コメディ・フランセーズ(1680)、中世に起源をもつユニベルシテ(総合大学)やフランソア1世の王室図書館に始まる国立図書館、さらに時代は下るが、ルーブル美術館(1791)、オペラ座(1875)なども含めて、大部分はパリに存在するこれらの古い文化的機関は、そうした国民的な高い文化を代表するものとして現在も機能している。またそうした古い文化装置と並んで、ポンピドゥー芸術文化センターや新オペラ座など、新設のさまざまな文化機関や建造物がパリの街を彩っている。これらの諸制度を通じて生み出された文化の輝かしさは、それらに活力を与えてきたフランスの地方の文化的な豊かさと多様性を覆い隠すように作用してきた。だがパリに代表される文化は国家の時代の文化であって、もしそのような強力な国家の時代が終わりを告げようとしているとすれば、フランスの文化的な未来はどうなるのであろうか。1970年代に入ってから目だち始めた地方分権によるフランス活性化の試みと地方文化再興の運動はその点でも興味深い。この点でとくに注目されるのは、ヨーロッパ統合がECからEUへと展開されるなかで生じている文化変容の動きである。ヨーロッパ共同体の実現は、ヨーロッパ人やヨーロッパ市民という理念の追究でもあり、内包する多様性や差異への権利が認められるようになってきた。しかし、それは一方で、民族や伝統に執着する極右的ナショナリズムを導き出し、フランスの国民文化の概念に深い動揺をもたらしている。たとえば、多言語・多文化主義が論じられ、外国語の学習が推奨される一方、フランス語の擁護が叫ばれたり、ヨーロッパ内で人と物の移動の自由が実現しつつある一方、マグレブ地域(アフリカ北西部)からの移民が排除されたり、ユダヤ人墓地が荒らされるなど、反ユダヤ主義の根深い動きもある。また、ヨーロッパ統合に伴う地域的な再編は、かっての中央と地方、中核と周辺の関係に変化をもたらし、アルザスのように新たな照明をあびる国境地帯もあれば、コルシカやブルターニュのようにいっそうの周辺化をおそれる地域もあり、地域文化の位置と意味にも変化が現れている。[西川長夫]
新聞・テレビ・ラジオ
最後にフランスの新聞・放送事情について簡単に触れておこう。日刊紙は全国に81紙あり、うち10紙がパリ発行の中央紙、経済やスポーツなどの専門紙が10紙で、残りが地方紙である。パリで発行される中央紙の代表的なものには、『フランス・ソワール』(夕刊紙、7万7400部)、『ル・モンド』(同、36万部)、『ル・パリジャン・リベレ』(36万部)、『フィガロ』(34万5000部)などがある。地方紙ではレンヌの『ウエスト・フランス』(76万5000部)、リヨンの『ル・プログレ』(25万9000部)、ボルドーの『スッド・ウエスト』(32万部)、グルノーブルの『ラ・ドフィーネ・リベレー』(25万3000部)などの有力紙がある(数値はいずれも2002)。
 テレビ放送は地上波テレビ、衛星テレビ、ケーブルテレビからなる。おもなチャンネルはティー・エフ・ワン(TF1)、フランス・ドゥ(France 2)、フランス・トロワ(France 3)、カナル・プリュ(Canal Plus)、ラ・サンキエーム(La Cinquime)、エム・シス(M6)、アルト(Arte)の7局である。[西川長夫]

日本との関係


日仏交流の先駆者たち
フランス人が日本を最初に知ったのはマルコ・ポーロの『東方見聞録』(1298)の記述を通じてのことであった。一方、日本人は1549年(天文18)に来日した宣教師フランシスコ・ザビエルによってフランスのことを初めて知ったものと考えられる。だが、最初にフランスの地に足を踏み入れたのは、伊達政宗(だてまさむね)がローマ教皇に使節として派遣した支倉常長(はせくらつねなが)とその一行である。1615年(元和1)10月、常長一行は暴風雨を避けるためにスペインのバルセロナからイタリアのジェノバに向かう途中で南フランスのサン・トロペに上陸し、3日間ほど滞在した。現在、ボークリューズ県カルパントラのアンギャンベール図書館に常長一行に関する記録(羊皮紙6葉)が残されている。これにはサン・トロペの領主たちがみた日本人の印象が綴(つづ)られている。一方、最初の来日フランス人は、トマゾ・サント・ドミンゴというスペイン風の名を用い、ドミニコ派の僧服をまとってマニラ経由で琉球(りゅうきゅう)に潜入したギヨーム・クールテ神父であった。だが、クールテ神父はただちに捕らえられ、1年後には長崎に送られて拷問(ごうもん)のすえに斬首(ざんしゅ)処刑された。1637年(寛永14)9月29日のことである。キリシタン禁制下のクールテ神父の殉教のあと、日仏の直接の交流は絶えたが、オランダ商館を通じて間接的な交流は行われた。アンブロアーズ・バレの『外科学概論』(1551)、ノエル・ショーメルの『百科事典』(邦訳名『厚生新編』)などがオランダ語訳本から日本語に翻訳されてフランスの科学が紹介された。モンタヌスが1680年(延宝8)にアムステルダムでフランス語による『日本皇帝のもとに遣わされたオランダ連合州東インド会社の使節団』を著し、クラッセ神父の『日本教会史』(同『日本西教史』)、シャルルボア神父の『日本史』(1725)などが刊行され、日本の地図も出回る。1787年(天明7)8月、ラ・ペルーズは宗谷海峡を探検し、これを「ラ・ペルーズ海峡」と命名した。[富田 仁]
日本文化のフランス流入
17、18世紀リヨンの絹織物は中国物をモデルにしたが、日本の錦(にしき)もオランダ経由で入手、珍重された。牡丹(ぼたん)のモチーフが長いこともてはやされた。18世紀には日本から輸入した漆塗りのパネルで家具を飾ることも流行し、マリ・アントアネットまでが日本の漆器を集めるほど日本趣味が深まった。19世紀、ポール・サバティエは日本の植物を採集し、フランシェとの協力でフランスに紹介し、『花彙(かい)』と題する著作を刊行した。また、1867年のパリ万国博覧会で浮世絵が展示されるが、それに先だってゴンクール兄弟が1851年に初めて日本の美術品を購入し、『北斎(ほくさい)』『歌麿(うたまろ)』を出版し、印象派の人々に反響をよぶというように、日本趣味(ジャポニスム)が芸術界に一大旋風を起こした。後のオートビーユ派、ナンシー派などの美術家にもその感化が及んでいる。パリの社交界では日本の扇が使われ、サン・サーンスは日本に取材したオペラ『黄色い王女』(1872)を発表するなど、日本趣味は広がった。ロダンが日本の舞踊家ハナコのデッサンや彫刻を制作し、ポール・クローデルが二度来日して、『繻子(しゅす)の靴』など日本の影響をみせる作品を書いた。日本語の研究も、1863年にレオン・ド・ロニーによって東洋語学校に日本語講座が開かれたことで本格化した。ロニーは多数の日本語研究の書を残し、新聞『よのうはさ』も刊行した。[富田 仁]
フランス語辞書の編纂
19世紀に入ると、日本でもフランス語の学習の機運が兆す。フランソア・ハルマの蘭仏(らんふつ)辞書に基づいたいわゆる『ハルマ辞書』がつくられ、江戸時代の蘭学者に大きく貢献するが、1817年(文化14)ごろには、フランス系オランダ人のピーテル・マリンの仏蘭辞書から、長崎のオランダ通詞本木正栄(もときまさひで)が中心になってオランダ商館長ドゥーフの指導下に『拂郎察辞範(ふらんすじはん)』『和仏蘭対訳語林』を編纂(へんさん)する。1854年(安政1)ごろ、村上英俊(むらかみひでとし)が佐久間象山(さくましょうざん)に頼まれて、独学でフランス語を学んだ知識を生かして仏英蘭3か国語対照辞書『三語便覧』を刊行する。『五方通語』『仏語明要』などの辞書の編纂に加えて、私塾・達理堂におけるフランス語教育によって村上英俊は幕末・維新のフランス学の第一人者となる。その功労で晩年には東京学士会院会員に推され、フランスからレジオン・ドヌール勲章の「シュバリエ」(勲五等)を叙勲された。[富田 仁]
技術・文化交流の活発化
日本とフランスの外交折衝も琉仏条約締結(1855)を経て、1858年に日仏修好通商条約が結ばれることで本格化し、1864年(元治1)に横須賀(よこすか)製鉄所設立が建議され、シャノアーヌ大尉を団長とするフランス軍事顧問団の来日、横浜仏語伝習所の開校、さらには1867年(慶応3)パリ万国博への将軍の名代・徳川昭武(とくがわあきたけ)の派遣など、幕府とフランスの結び付きは密接になった。明治維新後も、1872年(明治5)に開業した最初の官営工場・富岡製糸場へのフランス式製糸技術の導入、生野鉱山(いくのこうざん)に技師コワニエ、ガス事業にプレグランの雇い入れなど技術面でフランスに多くを負っている。日本からも西陣(にしじん)の織工がリヨンに研修に赴き、山梨県勝沼の2青年がぶどう酒の技術を学びにトロアに留学するというように日仏の技術交流が盛んになる。また、法律顧問として活躍したボアソナードの法典編纂、明法寮などでのフランス法の教育の功績も見落とせない。明治期では、ジャン・ジャック・ルソーの思想の移植者・中江兆民(なかえちょうみん)の存在は大きい。自由民権運動に兆民の『民約訳解』(ルソーの『社会契約論』の訳題)やモンテスキューの『法の精神』などが与えた影響は大きい。
 日本人留学生・黒田清輝(くろだせいき)がパリのラファエル・コランに学び、1930年代にはエコール・ド・パリで藤田嗣治(ふじたつぐはる)が活躍するというように、フランス画壇との交流も活発になる。ジョルジュ・ビゴー(滞日1882~99)が明治の社会・風俗を風刺し、雑誌『トバエ』を刊行する。ピエール・ロチが二度にわたり来日し、『お菊さん』(1887)、『日本の秋』(1889)などを発表する。クロード・ファレルの『戦闘』(1909)のヒロインの名にゲランの香水「ミツコ」の名が由来する。[富田 仁]
会館・学会設立と経済交流
1924年(大正13)、詩人大使ポール・クローデルは渋沢栄一と図り、日仏文化の探究、交流、伝播(でんぱ)をその使命とする文化機関として日仏会館を発足させ、『日仏文化』などの機関誌のほか、『日本歴史辞典』ほかの学術書をも刊行している。この種の団体としては1886年(明治19)に仏文会を改組した仏学会が組織されたのが最初である。今日では、各大学の教師・研究者によって、日本フランス語・フランス文学会、日本仏学史学会など全国的規模の学会が組織されて活動を重ねている。フランス語学習人口も第二次世界大戦後に急増している。1878年(明治11)6月のジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』の翻訳(川島忠之助(かわしまちゅうのすけ)訳)に始まるフランス文学の翻訳・紹介もしだいに活発になり、主要作品のほとんどが伝えられるようになった。第二次世界大戦後はサルトル、カミュなどの実存主義思想が迎え入れられ、1953年(昭和28)には日仏文化協定も結ばれた。最近では、1997年パリに日本文化会館が開館、1997年から1998年にかけて「フランスにおける日本年」が開催された。1998年から1999年には「日本におけるフランス年」も開催されている。
 一方、日仏間の産業、経済面での交流も、1971年以降はヨーロッパ共同体(EC)、ヨーロッパ連合(EU)との間で貿易交渉を行っているが、交流は盛んであり、2004年のフランスの日本からの輸入額は84億7673万ドル、フランスの日本への輸出額は67億6253万ドルとなっている。[富田 仁]
『●総論・自然・地誌 ▽井上幸治編『世界各国史2 フランス史』(1968・山川出版社) ▽Y・ラコスト他著、岡津守彦他編、高橋伸夫訳『フランス――その国土と人々』(『全訳世界の地理教科書シリーズ1』1977・帝国書院) ▽河野健二著『世界現代史19 フランス現代史』(1977・山川出版社) ▽日高達太郎著『ふらんす 味覚と風土』(1977・柴田書店) ▽谷岡武雄著『フランス』(木内信藏編『世界地理7 ヨーロッパ』1978・朝倉書店) ▽高橋伸夫著『フランスの都市』(1981・二宮書店) ▽J・プズー著、柏岡珠子訳『フランス――風土と生活』(1982・三修社・フランス教養叢書) ▽『JETRO貿易市場シリーズ230 フランス』(1983・日本貿易振興会) ▽菊池一雅著『フランスの産業と地域』(1983・大明堂) ▽谷岡武雄著『フランスの都市を歩く』(1983・大阪書籍・朝日カルチャーVブックス) ▽A・ヤング著、宮崎洋訳『フランス紀行』(1983・法政大学出版局・叢書ウニベルシタス) ▽外務省監修『世界各国便覧叢書 フランス共和国』(1984・日本国際問題研究所) ▽日高達太郎著『ふらんす 音の風景』(1989・六興出版) ▽R・クロジエ著、鈴木昭一郎・青木伸好訳『フランスの地理』(白水社・文庫クセジュ)』
『●政治 ▽J・シャルロ著、野地孝一訳『保守支配の構造 ゴリスム1958―1974』(1976・みすず書房) ▽舛添要一著『赤いバラは咲いたか――現代フランスの夢と現実』(1983・弘文堂) ▽桜井陽二著『フランス政治体制論――政治文化とゴーリズム』(1985・芦書房) ▽J・E・S・ヘイワード著、川崎信文他訳『フランス政治百科』上下(1986、1987・勁草書房) ▽中木康夫編著『現代フランスの国家と政治』(1987・有斐閣) ▽藤村信著『パンと夢と三色旗と――フランス左翼の実験』(1987・岩波書店) ▽P・ビルンボーム著、田口富久治監訳『現代フランスの権力エリート』(1988・日本経済評論社) ▽奥島孝康・中村紘一編『フランスの政治』(1993・早稲田大学出版部) ▽M・デュベェルジェ著、時本義昭訳『フランス憲法史』(1995・みすず書房)』
『●経済・産業 ▽J・ボーミエ著、青山保訳『フランス財閥物語』(1971・ダイヤモンド社) ▽井上隆一郎・伊沢久昭編『フランス・イタリアの政府と企業』(1975・筑摩書房) ▽藤本光夫著『転換期のフランス企業』(1979・同文舘出版) ▽原輝史編『フランス経営史』(1980・有斐閣) ▽遠藤輝明編『国家と経済――フランス・ディリジスムの研究』(1982・東京大学出版会) ▽長部重康編『現代フランス経済論』(1983・有斐閣) ▽中木康夫編『現代フランスの国家と政治』(1986・有斐閣) ▽遠藤輝明編『地域と国家――フランスレジョナリスムの研究』(1992・日本経済評論社) ▽ベルナール・シュノ著、長谷川公昭訳『フランスの国有企業』(白水社・文庫クセジュ) ▽ピエール・マイエ著、千代浦昌道訳『フランスの経済構造』(白水社・文庫クセジュ)』
『●社会 ▽G・デュプー著、井上幸治監訳『フランス社会史』(1968・東洋経済新報社) ▽J・J・デュペイルー著、上村政彦・藤井良治訳『フランスの社会保障』(1978・光生館) ▽谷川稔著『フランス社会運動史』(1983・山川出版社) ▽寿里茂著『現代社会学叢書12 現代フランスの社会構造――社会学的視座』(1984・東京大学出版会) ▽工藤恒夫著『現代フランス社会保障論』(1984・青木書店) ▽宮島喬・梶田孝道・伊藤るり著『先進社会のジレンマ――フランス社会の実像を求めて』(1985・有斐閣) ▽A・レオン著、池端次郎訳『フランス教育史』(白水社・文庫クセジュ) ▽G・ルフラン著、谷川稔訳『フランス労働組合運動史』(白水社・文庫クセジュ)』
『●文化 ▽A・ドーザ著、松原秀治・横山紀伊子訳『フランス言語地理学』(1958・大学書林) ▽G・デュビィ他著、前川貞次郎他訳『フランス文化史』(1969・人文書院) ▽クルティウス著、大野俊一訳『フランス文化論』(1977・みすず書房) ▽饗庭孝男編『フランス六章――フランス文化の伝統と革新』(1980・有斐閣) ▽西川長夫・天羽均・宮島喬他著『現代フランス生活情景』(1983・有斐閣) ▽渡辺守章・山口昌男・蓮實重彦著『フランス』(1983・岩波書店) ▽西川長夫著『フランスの近代とボナパルティズム』(1984・岩波書店) ▽J・ショーラン著、川本茂雄・高橋秀雄訳『フランス語史』(白水社・文庫クセジュ) ▽桑原武夫著『フランス学序説』(講談社学術文庫)』
『●日本との関係 ▽富田仁・西堀昭著『日本とフランス――出会いと交流』(1979・三修社) ▽西堀昭著『日仏文化交流史の研究――日本の近代化とフランス人』(1981・駿河台出版社) ▽高橋邦太郎著『日仏の交流――友好三百八十年』(1982・三修社) ▽富田仁著『日佛のあけぼの』(1983・高文堂出版社) ▽富田仁著『フランス語事始――村上英俊とその時代』(1983・日本放送出版協会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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