目次 日本人と東 東洋医術と東 観測者から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに北,北北東,……,東北東,東,東南東,……など16方位で呼ぶのが一般的である。東は,太陽の昇る方向で,英語のeast,ドイツ語のOstなどはギリシア神話 の曙の女神エオスĒōsに由来している。古来,中国や日本では十二支(干支 (かんし))で方位を呼び,東は卯(ぼう)に当たる。
日本人と東 伝統的日本人の〈東〉に対する方位感覚もしくは思想的解釈は,基本的には古代中国人の地理学的世界観もしくは陰陽五行的天文学思想の忠実な受容にすぎなかったのだが,かなり特殊なものである。
第1に,古代このかた,日本人は自分たちが〈東の辺境〉の島々に住まう民であるという認識をもっていた。607年(推古15)の遣隋使派遣に関して,相手方の《隋書》東夷伝は〈日出る処の天子,書を日没する処の天子に致す〉との国書が日本から提出された旨の記事を載せている。ところが《日本書紀》のほうにはこの記載はなく,翌年のこととして〈東天皇敬白西皇帝〉との国書を提出した旨の記録がみえる。明らかに,7世紀初めごろの日本知識階級は自分たちの国土を〈日出処〉ないし〈東〉とみなす対外交渉意識をもっていた。さらに《続日本紀》慶雲1年(704)7月の条にみえる,この月に帰朝した遣唐使の粟田朝臣真人に関する旅行体験談には,〈海東〉とか〈大倭国〉とか〈君子国〉とかの語がちりばめられている。
平安時代に入ってから用いられた〈扶桑(ふそう)〉とか〈夫木(ふぼく)〉とかの日本国の別称も,もともと,中国古代神話において,東海のかなた太陽の出る所にあると信じられた大きな神木をさし,またその地をさしていた。中世から近世にかけて,日本の知識人は自国の異称に〈東海〉〈東洋〉〈東瀛(とうえい)〉〈東鯷(とうてい)〉などの語をそのまま用いたが,これらの異称は,いずれも東シナ海の東方に存在する島国という意味である。別に〈日東〉という異称も頻繁に用いられていた。
かくて伝統的に日本人が自分たちを〈ひがしの民〉としてとらえてきたことは疑いない。ラフカディオ・ハーン が,熊本時代の作品に《東の国からOut of the East》の表題を付したことは,まことに正しかった。日本人は,現在でも,自分たちがユーラシア大陸の〈東のはて〉に住まう民であるとの意識をもつ。ちょうど,アイルランド人がユーラシア大陸の〈西のはて〉に住まう民と信じているのと同じように。
また,日本人の特殊な東についての解釈の第2は,国内政治的な次元において(当然,それに付帯する神話的=祭祀的次元においても)日本を東西に二分する考え方が早くから成立しており,そればかりでなく〈東(あずま)〉〈東国(あずまのくに)〉〈阿豆麻(あずま)〉という語がつねに古代国家からみてへんぴな地方,辺境,未開地域,植民地を意味する特別な概念として用いられていたという点に見いだされる(東国 (とうごく))。
ところで,伊勢神宮とか熱田神宮とかの大和朝廷にとって最高の霊格の鎮座する宮居が,なぜ〈東国〉にまつられねばならなかったか。さらに,香取神宮とか鹿島神宮とかの国土平定の武神の霊格が,なぜはるか東国経営の最前線にまつられねばならなかったか。政治的理由づけとしては,東国経営は大和国家にとってそれほどまでに重大課題であったので,皇祖神を先頭に立てて総力戦を遂行すべき旨の決意を示し,かつその加護を祈ったことのあらわれである,と説明すれば足りるであろう。ふつうにはこの説明が行われている。だが,このほかに,天武朝時代に盛行を極めた陰陽五行思想とのかかわりにおいて,〈国譲り〉や〈皇祖神鎮祭〉などの日本古代信仰が,鹿島・出雲,伊勢・大和の二つの〈東西軸〉上のできごとであることを説明しようとする学説もある。中国哲学すなわち陰陽五行哲学が導入され,定着してからは,国土の東端に鎮座すると考えられた鹿島神は〈東〉〈木気〉〈春〉〈青和幣(あおにぎて)〉〈雷〉〈地震〉などの霊的な性質を帯びるようになり,ついには木気の地震神を金気の石で取り鎮める呪術としての〈要石(かなめいし)〉や〈鯰絵(なまずえ)〉までがつくりだされることになる。一方,沖縄の島々にあっては,強烈な朝日が輝き,巨大な夕陽が一瞬のうちに夜闇をもたらす対比から,人々は,東をアガリと呼び西をイリと呼び,とくに東方はるかかなたの海と空とが一つになった場所にニライカナイ (常世国)を想定している。
〈ひがし〉の語源については,日が出る方向に由来すると説く貝原益軒・新井白石の流儀と,ヒムカシという風の名前に由来すると説く本居宣長の流儀との二つが行われ,近代現代の国語辞典はこの太陽説か風説かのどちらかを採択して載せている。
貝原益軒《日本釈名》(1700)には,〈東(ひがし) 日頭(ひがしら)なり。らの字を略す。日のはじめて出る所,かしら也。西 いにし也。日は西へいぬる日のいにしと云意。いを略す。南 万物皆みゆる意。日の南にある時,あきらかにしてみな見ゆる也。北 直指抄云,北方は其色黒し。上古には黒き色をきたなしと云。なしの文字は無の字の義にあらず,語の助也〉とある。また,新井白石《東雅(とうが)》(1719)には,東西南北の方位に関する語源がいっこうにはっきりしないので〈我疑ひ思ふ所をしるしぬるなり〉と前置きして,〈東をヒムガシいひしは。ヒは日也。ムカとは向也。シと云ひしは語助也〉と述べられている。
次に,〈ひがし〉という語はもともと風の名〈ひがし〉に淵源しているとする説は本居宣長によって唱えられた。《古事記伝》に,仁徳天皇の大后石之日売(いわのひめ)の嫉妬(うわなりねたみ)を受けて吉備国に逃げ帰った黒日売(くろひめ)の歌〈倭方(やまとへ)に西風(にし)吹き上げて雲離(くもばな)れ退(そ)き居(を)りとも我(われ)忘れめや〉に次のごとき注釈を加えている。〈此歌に依て考るに,比牟加斯(ひむかし)爾斯(にし)と云は,もと其方より吹風(ふくかせ)の名にて,比牟加斯は東風,爾斯は西風のことなりしが転(うつり)て,其吹方(そのふくかた)の名とはなれるなるべし〉〈斯(し)は風にて,風神(かぜのかみ)を志那都比古(しなつひこ)と申す志(し),又嵐(あらし)飇(つむじ)などの志(し)も同じ〉〈さて東風(ひむかし)西風(にし)と云名の意は,比牟加斯(ひむかし)は,日向風(ひむかし)なり〉というのである。 執筆者:斎藤 正二
東洋医術と東 東の文字は,太陽が地上に現れ,木の間ごしに日が射してきた状態を示している。いったん西に沈んだ太陽が,翌日は必ず東から昇って万物をはぐくむ力に,古代人は神秘を感じたにちがいない。エジプトの壁画に描かれた霊鳥フェニックスが,東方の不死と青春の泉に生きた後アラビアに去って灰となり,再生して東方に現れるという伝説や,秦の始皇帝が不死の薬を求めて採薬使を派遣したという話は,東方への限りないあこがれを示している。10世紀に日本で撰集された《医心方》にみられる隋・唐代以前の中国の医書でも,〈東〉の蘇生力をきわめて重要視していたことがうかがわる。5~6世紀の陶弘景は〈つねに日光に当たっている東に面した壁の上側の土〉を東壁土といい,小児の臍風瘡の薬としており,脱肛やしりのできものに塗布したり,悪寒発熱や黄疸に熱湯を注いで汁をとって服用したり,キノコの解毒剤として用いた。《枕中方(ちんちゆうほう)》には老子の〈東に伸びた桃の枝を採り,日の出前に三寸の木人を作って衣服や帯の中に入れると,世人から貴ばれ,敬愛される〉という言葉がある。そのほか《如意方(によいほう)》の長髪術では薬剤に東へ向かってはっている桑の根を用い,葛洪(かつこう)は《抱朴子(ほうぼくし)》で月が東井(とうせい)という星座に宿る日に洗髪入浴すると病気にかからないと説いている。東を流れる川の水も,東の井戸の水も薬効や呪力を強める力があると信じられていた。竜樹は相愛術で〈望む相手の名を紙に書き,東を向いて日の出を正視しながら,最初にくんだ井戸水でのめ〉と指示している。
東は陰陽学では春を意味し,干支では甲乙(きのえきのと)で首位や芽立ちの象意があり,五行では木をあらわす。皇位継承の皇子を東宮または春宮というのもこのためで,東風は万物を育成する風で,清風,明庶風,嬰児風などと呼ぶ。こうした考え方が古代医術の理論の根底にあったのである。 執筆者:槙 佐知子