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スペイン スペイン Spain

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スペイン
スペイン
Spain

正式名称 スペイン王国 Reino de España。面積 50万5991km2。人口 4721万5000(2011推計)。首都 マドリードヨーロッパ南西端イベリア半島の大部分を占める立憲君主国

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百科事典マイペディアの解説

スペイン

◎正式名称−エスパニャ王国Kingdom of Spain。◎面積−50万5693km2(バレアレス,カナリア諸島,およびセウタ,メリリャなどを含む)。◎人口−4682万人(2011)。
→関連項目アビラの旧市街と塁壁の外の教会群欧州債務問題カーセレスの旧市街バルセロナオリンピック(1992年)

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デジタル大辞泉プラスの解説

スペイン

ジャズのスタンダード曲。作曲:チック・コリア。原題《Spain》。コリアリーダーを務めるバンド、リターン・トゥ・フォーエバーの1972年のアルバム「Light as a Feather」に収録。スペインの作曲家ホアキンロドリゴによるアランフエス協奏曲第2楽章をイントロダクションに使用している。

スペイン

フランスの作曲家エマニュエル・シャブリエ管弦楽のための狂詩曲(1880)。原題《España》。スペイン旅行の印象に基づいて作曲。シャブリエの代表作の一つ。

出典|小学館
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世界大百科事典 第2版の解説

スペイン【Spain】

正式名称=エスパニャ国Estado español面積=50万4782km2人口(1996)=3918万人首都=マドリードMadrid(日本との時差=-8時間)主要言語=スペイン語通貨=ペセタPsetaヨーロッパ大陸の南西に突き出しイベリア半島の約8割を占める王国。スペインは英語による呼び方で,スペイン語ではエスパニャEspaña。半島全体の呼び名としてギリシア語起源の〈イベリアIberia〉とともに〈ヒスパニアHispania〉があったが,これは〈ウサギの海岸〉または〈ウサギの島〉を意味するフェニキア語の〈i‐sephan‐im〉にその語源が求められ,ローマ人も〈ヒスパニア〉の呼び名を継承し,現在の国名もこれを源としている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

スペイン
すぺいん
Spain

ヨーロッパ南西部の立憲君主国。「スペイン」は英語。スペイン語ではエスパーニャEspaaという。古名(ラテン語)はイスパニアまたはヒスパニアHispania。正称Estado Espaol(「スペイン国」の意)。イベリア半島の約5分の4を占め、北東部でフランス、アンドラと、西部でポルトガルと国境を接する。北と南西部は大西洋に、南と東は地中海に面する。国土はイベリア半島のほか、地中海のバレアレス諸島、アフリカ北西岸沖のカナリア諸島を含み、地中海西部に面する北アフリカにセウタ、メリリャの2自治都市を有する。半島南端のイギリス植民地ジブラルタルの領有権をめぐって、イギリスとの間に係争がある。総面積50万5992平方キロメートル、人口4406万8000(2006国連推計値)。
 19世紀初めまではアメリカ大陸に広大な植民地を領有し、とりわけ15、16世紀の大航海時代には大帝国を築いて「黄金の世紀」を迎えたが、17世紀中葉以後は衰えた。またそれ以前の、アフリカを経由したイスラム教徒による支配の歴史があるため、高峻(こうしゅん)なピレネー山脈を隔てた西ヨーロッパの人々の間では、「ピレネーの向こうはアフリカ」といわれてきた。しかしこの地に去来したさまざまな民族が残した文化遺産はいまなお受け継がれ、各地方に維持された特有の文化や言語を誇りとする意識も強く、グレコ、ベラスケスやピカソの絵画に代表されるような優れた芸術も生み出されている。国旗は、国土を表す黄色と血を表す赤で構成されるといわれるが、起源は定かでない。1981年に変更された国旗中の紋章の中央には、ブルボン家を表すユリが配されている。首都はマドリード(人口301万6788、2001)。[田辺 裕・滝沢由美子]

自然


地質・地形
イベリア半島の大部分は先カンブリア紀に形成され、古生代のとくに後期ヘルシニア造山運動によって、スペインの大部分をなすメセタ(スペイン語で「卓状地」の意)とよばれる高原の基盤が形成された。その後、新生代におけるアルプス造山運動によって、全体として西にやや傾斜しつつ隆起し、中央山系やカンタブリカ、イベリカ、ピレネー、ベティカなどの諸山脈が形成され、またエブロ凹地とジブラルタル海峡を生じた。これらの地殻変動と氷河や河川の侵食・堆積(たいせき)などを経て、半島の地質は三つに大別される岩石区よりなる。すなわち、半島西半部に花崗(かこう)岩質、東部に石灰質、メセタの堆積盆地およびエブロ、グアダルキビル両低地に粘土質の各地域が広がる。
 メセタは平均標高600~750メートル、全体としてやや西南西に傾いた広大な高原である。その周囲に、凹地を挟んで2000~3000メートルを超える山脈・山系が取り囲んでいるので、イベリア半島は半島としてはきわめて大陸的である。メセタのほぼ中央部には東北東―西南西に中央山系(グアダラマ、グレドス、ガタ、エストレラの諸山脈)が走り、北部高位メセタと南部低位メセタに分けている。メセタを取り囲む山脈のうち北縁を限るのはビスケー湾沿いに東西に走るカンタブリカ山脈で、北西岸ではリアス式海岸をなし、東でピレネー山脈に連なっている。メセタの北東縁はイベリカ山系が、南縁は東西に走るシエラ・モレナ山脈が限っている。
 メセタの西側には、メセタの傾きに従って西流するドゥエロ川(ポルトガル語名ドーロ川)、タホ川(同テージョ川)などの河川によって分断されてはいるが、ポルトガルの海岸平野がみられる。メセタを西流する諸河川は、ステップ(短草草原)を流れるので流量の季節変化が大きく峡谷部が多いため、舟運には適さないが多目的ダムが建設されている。メセタの東側には、南東流して地中海に注ぐエブロ川の河谷があり、その北から東にかけてバスク山地、ピレネー山脈、カタルーニャ山塊がある。ピレネー南西麓(ろく)を含むエブロ川流域はスペイン電力の約2分の1を生産する発電地帯であり、用水路による灌漑(かんがい)施設の水源としても重要である。
 半島の南縁にはベティカ山系があり、大断層によって生じたグアダルキビル河谷を挟んで、メセタ南縁のシエラ・モレナ山脈に対している。ベティカ山系は、セグラ河谷などの細長い凹地を挟む南北2列の山脈からなる。すなわち、北側のスブ・ベティカ山脈と南側のペニ・ベティカ山脈で、後者にはスペイン最高峰ムラセン山(3482メートル)など3000メートル級の山をもつシエラ・ネバダ山脈が含まれる。グアダルキビル川は、その中・下流に開けたアンダルシア低地を豊かに灌漑している。[田辺 裕・滝沢由美子]
気候・植生
スペインの気候は、地形の影響と、性質を異にする大西洋および地中海の二つの海洋に面することから地域差が大きい。大西洋およびビスケー湾岸では、ほぼ通年降水(年降水量970~1700ミリメートル)があり、冬暖かく夏涼しい西岸海洋性気候を示す。北西ヨーロッパに似てカシやブナなどの湿潤温帯林に覆われ、通年牧草地がみられる。内陸の両カスティーリャおよびエブロ低地では、これとは対照的に厳しい低温の冬と暑い乾燥した夏の大陸性気候を示す。ここではステップに似た植生しかみられず、はげ山と茶褐色の土壌の台地というスペイン的光景をみせている。南部の地中海岸からカタルーニャにかけては、温暖・湿潤な冬と乾燥した夏の地中海性気候である。この地域には硬葉樹林(オリーブ、コルクガシなど)が支配的で、灌漑耕地では豊かな陽光を受けてオリーブ、オレンジ、イネなどが栽培される。北アフリカのサハラに生ずる高気圧の影響を受けて、南部はとくに暑くて乾燥が激しく、それに耐えるシュロの植栽が特徴的で、水の得られる所ではナツメヤシ、バナナ、サトウキビがつくられている。[田辺 裕・滝沢由美子]

地誌


 半島部は自然、文化の両面から、北部(ガリシア、アストゥリアス、バスク)、中央部(カスティーリャ、エストレマドゥーラ、レオン、アラゴン、ナバラ)、東・南部(カタルーニャ、バレンシア、ムルシア、アンダルシア)に大きく3区分することができる。[田辺 裕・滝沢由美子]
北部
スペイン北西部からフランス国境まで高い山脈が連なり、西岸海洋性気候の地域である。牧畜業が盛んで自営小農民が多く、内陸部から隔てられていること、イスラムの支配を受けなかったことなどから北西ヨーロッパの延長とみられる。[田辺 裕・滝沢由美子]
中央部
ピレネー山脈より西、エブロ河谷を中心としたアラゴン地方からメセタの南を限るシエラ・モレナ山脈に至るまでの、国土の約半分を占める広大な地域で、ここに総人口の約3分の1が住む。内陸性気候であり、森林はほとんどみられない。灌漑(かんがい)の施されていない場合には休耕地を伴う穀物栽培や牧羊を主とし、地域によりコルクガシ、ブドウ、オリーブなどが栽培される。かつては牧羊が北ヨーロッパとの羊毛交易により栄え、産業においても人口分布においてもスペインの中心的位置を占めていたが、産業革命に遅れ、大土地所有制の足かせから後進地域となっている。人口密度の低さもこの地方共通の特徴であり、離農者などの人口流出により過疎化、老齢化が進み、地域内の農村と都市とは際だった対照をみせている。おもな都市としては首都のマドリード、旧アラゴン王国首都のサラゴサ、大学や自動車工場のあるバリャドリード、ブルゴス、サラマンカ、バダホス、歴史的都市のセゴビア、トレドがあげられる。[田辺 裕・滝沢由美子]
東・南部
地中海性気候を示す地域で、南であるほど乾燥が激しく乾期も長い。アンダルシア東部のアルメリアからバレンシア南部のアリカンテでは年降水量340ミリメートル以下、乾燥月が9か月に及ぶ。ピレネーの東部分から地中海沿いのカタルーニャ、バレンシアは独自の言語と文化を誇り、カタルーニャにはスペインからの独立運動があり、ムルシアを含めたこれら3地方はスペイン内戦時に共和派の拠点となった所である。とくにカタルーニャの都市バルセロナは、13世紀にこの地方最大の商工業、文化、金融の中心地として栄え、18世紀以来の紡績業から種々の工業が発展した都市で、市民自治の伝統をもったスペインの先進地域であった。現在も人口ではスペイン第二の都市であるが、港湾規模と商工業活動では第1位の産業都市であり、工業発展と急速な人口集中により大都市圏が形成されている。その周辺にはタラゴナ、ヘロナなどの地方中心都市も発達している。さらに南方にはスペイン第三の都市バレンシアがある。
 南端のアンダルシア地方は、イスラムの影響をもっとも色濃く残し、イスラム文化の遺産が多く、グラナダ、コルドバ、セビーリャをはじめ観光都市が多い。グアダルキビル川の低地および海岸平野はよく灌漑されて農業が発達し、オリーブ、ブドウなどが栽培される。大土地所有者による大農場経営、一方では土地をもたない農業労働者が多く、不在地主、生産性の低い経営などが目だっている。工業化政策が進められ、セビーリャ、コルドバ、マラガ、ウェルバ、カディスなどの都市に、金属、造船、化学などの工業が立地しているが、安くて大量にある労働力が十分な教育を受けていないことなどのためあまり活用されておらず、低開発の状態から抜けきれずにいる。[田辺 裕・滝沢由美子]

歴史


 スペイン人の祖先は、先住民族のイベリア人と、前1000年ころから北から移住してきたケルト人との混血である。ほかに現在も少数民族として残るバスク人がピレネー西部に住んでいた。前11世紀ごろフェニキア人が半島南岸に渡来し、前6世紀にはギリシア人が東海岸に植民した。前3世紀にはローマ人がイベリア半島の征服に着手してラテン語やキリスト教をもたらし、言語や宗教に影響を及ぼした。また農・工業を発達させ、ローマ水道橋や橋、円形劇場などを残した。5世紀には西ゴート人が侵入するが、8世紀に北アフリカからイスラム教徒が侵入してこれを滅ぼし、以後コルドバの後ウマイヤ朝が滅ぶ1031年まで半島の大部分を支配してイスラム文化をスペインにもたらした。8世紀初頭、キリスト教徒がレコンキスタ(国土回復戦争)を始め、小王国をつくりつつ南下し、そのなかから強大となったカスティーリャのイサベルとアラゴンのフェルナンドとの結婚(1469)によってスペイン統一を完了し(1479)、1492年にはグラナダから最後のイスラム王を駆逐した。この年のコロンブスによる西インド諸島航海に始まるアメリカ大陸の植民地経営は大量の金銀を流入させて商業革命の契機をなし、ハプスブルク家の支配下に空前の繁栄を示して世界最強の帝国として発展した。しかし17世紀中葉以降しだいに衰え、18世紀にはブルボン家の支配下に入った。19世紀初め以来の政治不安と、20世紀に入ってからの労働運動の激化から独裁を招いた。独裁の崩壊と王制廃止に次ぐ第二共和制政府も、フランコ将軍の反乱、それに続くスペイン内戦(1936~39)のなかで崩壊し、フランコ体制は約40年にわたって存続した。[田辺 裕・滝沢由美子]

政治


フランコ死後の民主化政策
1975年フランコの死によりその政治体制はただちに崩壊し、ブルボン家のフアン・カルロス1世が新たに国王に即位し、元首に就任した(1976年7月スアレス内閣発足)。1976年12月、国民投票で政治改革法が認められ、1977年1月公布された。同年4月には共産党の合法化、フランコの率いてきたナショナリスト勢力の解散、検閲制度の全廃が実現、6月には戦後初の総選挙が行われた。1978年12月スペイン新憲法が国民投票により承認され、政治的には議会制に基づく立憲君主制をとる民主主義国家となり、1982年には新憲法下2回目の自由かつ民主的な選挙で中道左派のスペイン社会労働党(SPOE)が政権を握った(ゴンサレス内閣発足)。その後社会労働党の長期政権が続いたが、1990年代にバスク地方の分離独立を求める非合法組織ETA(Euskadi Ta Askatasuna=バスク祖国と自由)のテロが頻発するなかで支持率が低下し、1996年の選挙で中道右派の国民党が勝利し政権交代した(アスナール内閣発足)。国民党は近代化・経済改革を推進したが、2003年からのイラク戦争・占領でアメリカを全面的に支持する親米政策に対して国民の反発は強くなっていった。2004年3月11日マドリード列車爆破テロ事件(死者約190名を出した大惨事)が発生。その3日後に行われた選挙ではイラク派兵に反対した社会労働党が勝利し、同年4月に8年ぶりに政権を握った(サパテロ内閣発足)。翌5月にはイラク駐留部隊の撤退が完了。列車爆破テロの犯人(イスラム過激派)も逮捕された。2006年3月にETAは無期限停戦を宣言し、政府と和平交渉に入った。しかし、2007年6月ETAは停戦の破棄を通告、武装闘争の再開を表明した。2008年3月の選挙では社会労働党が下院で第一党を維持したが、上院では国民党が第一党となっている。
 国会は主権の存する国民を代表し、上院と下院で構成される二院制である。下院議員は300人以上、400人以下とされており、人口に応じた比例代表制による選挙が行われる。近年は350名が選出されてきた。上院議員は地方を代表し、原則として本土の各県から4名ずつ、島嶼(とうしょ)部のバレアレスおよびラスパルマス県から各5名、サンタクルス・デ・テネリフェ県から6名、セウタ、メリリャから各2名の計20名が選出される。さらに自治州議会により選出された51名が加わり合計259名である。立法権は国会にあり、行政府たる内閣は国会に対して責任を負う。内閣は総理大臣と国務大臣(16名)で組織され、行政を担当する。司法権の最高機関は最高裁判所で、立法府、行政府とは独立している。
 地方行政単位は、本土47県、バレアレス諸島1県、カナリア諸島2県の合計50県が区分され、さらに司法管轄上348の郡に分けられている。50県は16の地方にまとめられるが、これらの地方は歴史的にみて中世の小王国としてのまとまりの名残(なごり)と考えられるもので、現在の行政組織とは一致しない。県および市町村の自治行政はそれぞれ県知事および県議会、市町村長および同議会がこれを行うと新憲法に規定されており、1978年7月の地方選挙法の施行後は、従来あった中央政府による地方行政への関与はほとんどなくなった。スペインは伝統的に地方分立主義の強い国であり、とくに独自の言語、文化を有する地方ではその傾向が強い。新政府は自治権要求にこたえて、新憲法では正式に自治州の存在を保障している。自治州は前述の16の歴史的地方を基礎に構成され、カタルーニャ、バスク、ガリシア、アンダルシアなどに首都マドリードを含めて17を数える。うち七つが1県だけからなる。1994年9月には、セウタとメリリャが自治都市となった。外交政策は積極的かつ開放的に展開されている。とくに1980年代からは欧米はもちろん、中南米、中近東、アフリカ、アジア諸国へ積極的な外交を展開している。ロシア、東欧諸国、中国とも大使級の外交関係を結んでおり、外交関係をもたない国はイスラエル、北朝鮮など十数か国である。国王の外国訪問は重要な役割を果たし、1980年、2008年には日本にも公式訪問している。西欧におけるスペイン外交では長年の懸案であったEC(ヨーロッパ共同体)への加盟が1986年1月1日に実現した。さらにEU(ヨーロッパ連合)への移行に伴い、1992年11月にはヨーロッパ連合条約の批准を完了した。1995年3月にはフランス、ドイツなどとの間で調印されたシェンゲン協定(国境検問の廃止)が実施に移されている。また、1988年11月には西ヨーロッパ連合(WEU)にポルトガルとともに加盟した。1996~2004年のアスナール政権では、前述したように対米重視であったが、2004年4月以降のサパテロ政権では、外交の重点地域をヨーロッパに置き、とくにドイツ、フランスとの関係を緊密化している。2005年5月にはEU憲法条約を批准した。[田辺 裕・滝沢由美子]
防衛
1977年6月の総選挙後のスアレス内閣の下に国防省が創設され、それまで一体となっていた軍事指揮部門と行政部門は分離された。兵役はかつては21歳以上を対象に義務制であったが、2001年末で徴兵制は終了し、職業軍人制度に移行した。兵員数は陸軍9万5600、海軍2万2900、空軍2万2750である(2003)。1953年9月締結されたアメリカ・スペイン軍事協定(1976年以後は条約)により、米軍基地が置かれ、スペイン軍は装備などで近代化された。しかし原子力利用反対の国内世論により、核兵器の非貯蔵が宣言されている。1988年12月に防衛協定をアメリカと更新し、米軍基地の撤収、再編成など駐留アメリカ軍の段階的削減が進んでおり、1992年10月にはサラゴサの米空軍基地が完全返還され、スペイン国内の大規模な米空軍基地はすべて姿を消した。1982年5月に加盟したNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)については、国内に共産党や労働団体を中心とする反NATO勢力があるが、1986年の国民投票により約53%の賛成を得て残留が決定して以来加盟国である。ただし、戦闘機の共同開発への参入のような軍事協力は行うが、軍事機構への参加は見合わせる方針がとられている。[田辺 裕・滝沢由美子]

経済・産業


産業構造
産業革命により一斉に経済発展を遂げたヨーロッパ先進国に遅れて、スペインでは19世紀後半から、外国企業の進出、政府の国内産業保護などにより工業化が進んだ。1959年、外国資本の積極的導入のための経済安定計画が策定され、さらに経済社会開発計画(第一次1964~69年、第二次1968~71年、第三次1972~75年)により水力開発、工業および交通の近代化が進められた。その結果、短期間のうちに第一次産業の労働人口および国内総生産に占める割合は第二、三次産業のそれを下回り、その重要性は急激に低下して、農業社会から工業社会への移行を示した。EC(EU)への加盟後、共通した政策、制度への積極的関与、国内の産業、金融の再編成が推し進められている。しかし、国民所得において下位にある6自治州は、EC内の低開発地域に数えられ、カナリア、バレンシア、アストゥリアスを含めた9自治州が1990年にはECのヨーロッパ地域開発基金の援助対象になったほどであり、増大する17自治州間の格差、貿易収支の赤字の増大、失業率の増加、企業の国際競争力の点で問題が指摘されている。GDP(国内総生産)構成比は、農林水産業3.4%、鉱工業30.1%、商業・サービス業66.5%(2002)となっており、労働人口も農業従事者が減少し商業・サービス業従事者が増加している。EU依存の経済関係が推進されつつあるなか、EUへの出稼ぎ労働者が減少し、逆にポルトガルやモロッコなどの北アフリカ、南米やアジアからの流入労働人口が増加した。政府は1986年から実施した外国人登録法を1991年に強化した。[田辺 裕・滝沢由美子]
資源・エネルギー
スペインの鉱物資源は種類が多く豊富で、カンタブリカ、シエラ・モレナ、ペニ・ベティカの各山脈に多く分布する。採掘の歴史は古くローマ時代以前に始まった。19世紀末にはヨーロッパ先進国の投資による開発が盛んに進められて多量の鉱石が輸出され、このため鉱業はスペインの工業化にほとんど寄与せず、しかも良質な鉱床や採掘に有利な鉱床は枯渇してしまった。急速な工業化に際しては外国からの鉱産物の輸入が増加し、1960年代後半にはその額が同輸出額の2~4倍にもなった。このような輸入鉱産物への依存から脱却するため、鉱山の調査開発および外国での採掘に力が入れられるようになり、ブラジルでの鉄山、ボーキサイト鉱山の採掘に参加している。石炭は国内消費の2割であり、主産地はアストゥリアス地方、品位は中程度である。鉄鉱石の主産地は北部のビルバオ周辺であるが、生産量は約26万トン(2002)で1985年の1割程度まで減少している。またケイ酸分が多く低品位であり、国内消費をまかなえずブラジルやギニアから輸入している。アルマデン鉱山(シウダー・レアル県)の水銀、リオティント鉱山(ウェルバ県)の銅はともに古くから生産が行われ世界的によく知られ、水銀の生産量は世界の37.5%(2003、世界第1位)を占めている(ただしアルマデン鉱山は2004年7月操業中止)。ほかに亜鉛、ウラン、鉛などを産する。1950年には消費エネルギーの70%が石炭であったが、1973年には石油にかわった。その消費量は急速に増加し、総エネルギー消費量の47.1%を占めている。国内9か所(2004)に製油所があるが、原油自給率は0.6%(2001)にすぎず、大部分を輸入に依存している。発電量は年々増えており、発電量2247億キロワット時の約56.1%が火力発電、約14.2%が水力発電、約27.7%が9か所の原子力発電所によっている(2000)。1990年代中ごろより再生可能なエネルギーの促進のため風力発電などの開発が進められており、風力発電設備導入量は約9000メガワットでドイツに次いで世界第2位(2005)となっている。[田辺 裕・滝沢由美子]
農牧業
降水量の年変化、季節変化が大きいため灌漑(かんがい)しなくとも十分農業を行えるのは北部・北西部に限られ、しかも灌漑耕地面積は321万ヘクタールで全耕地面積1995万ヘクタールの16.1%にすぎないこと、おもにタホ川以南地域で大土地所有制が広く存在すること、各農地が狭小で近代化が妨げられてきたことなどの悪条件により、スペインの農業は他の産業部門と比較して大きく立ち後れている。
 土地所有についてみると、地主の92%が全経営農地の10.5%を分け合い、平均所有面積は5ヘクタール以下であるのに対して、1%の地主が53%の土地を分け合い、各自100ヘクタール以上を所有する。スペインにおいては経営規模50~200ヘクタールが採算のとれる適正規模といわれているが、50ヘクタール以下の小経営が総経営体数の95%、経営面積の34%を占める。一方、大経営農場では多数の農業労働者により粗放的農業が行われ、地主は貯蓄のために土地を所有する者が多く、利益は他の産業部門に投資される。そのため収益性が低く、資本の蓄積がなされないため、技術水準や、穀物の耕地1ヘクタール当りの収量など、農業の生産性は他の西ヨーロッパ諸国に比べて低い。しかし、EU加盟により生産性向上への圧力が強まっており、機械化がかなり進み、近代的、集約的な農場経営がみられるようになった。
 農業就業人口は年々減少しており、2004年現在総就業人口に占める割合は5.5%となっている。農業総生産高は286億1500万ユーロで増加傾向にあるが、国内総生産に占める割合は3.4%と低い。農産物で生産量の多いものは、大麦(833万トン)、小麦(678万トン)、トウモロコシ(446万トン)などの穀類、トマト(387万トン)、ジャガイモ(295万トン)、タマネギ(110万トン)などの野菜、ブドウ(560万トン)、オレンジ類(286万トン)、レモン・ライム(93万トン)などの果実である。オレンジ類、レモン・ライムはそれぞれ世界の輸出量の37.5%、28.9%を占める(2002)。ワインの生産量は407万キロリットルで世界第3位。またオリーブの栽培が盛んであり、オリーブオイルの生産量は141万トンで世界第1位である(2003/2004)。
 スペインの農業は気候条件や歴史的条件を反映しているので、地域的に分けて考えると理解しやすい。北部のガリシアからバスクにかけては、トウモロコシ栽培と牧牛が、樹木に囲まれた農地(ボカージュ)の細分された土地で、自営小農により行われている。カンタブリカ山脈地域においては、都市の発達による生乳と肉の需要に応じて、牧牛と生乳生産およびその加工業が発達している。地中海地方では、乾燥した丘陵上でオリーブ、ブドウ、イナゴマメ(英名carob、学名Ceratonia siliqua)、アーモンドが栽培され、山麓(さんろく)緩斜面に開かれた灌漑耕地(ウェルタhuertaとよばれる)で柑橘(かんきつ)類や促成野菜が、低地で稲が栽培される。ほかにサトウキビ、クワもみられ、養蚕が行われる。南部アンダルシアではグアダルキビル河谷の肥沃(ひよく)な黒土にフィンカfincaとよばれる大農場で粗放的農業が営まれ、トウモロコシおよび綿花と小麦との輪作、オリーブ、ブドウの栽培が、人口1万~5万人の村落に住む日雇い農業労働者により行われている。近年はトラクターなどの機械の導入も進められている。[田辺 裕・滝沢由美子]
林業・水産業
森林面積は1437万ヘクタール、国土の約28.8%を占める(2000)。木材の生産量は1583万立方メートル(世界の生産量の0.4%)で、木材の輸入国である。林業の国内総生産に占める割合は0.1%に達せず、経済面での重要性は低い(2002)。オウシュウウバメガシ、カイガンマツ、ユーカリ、セイヨウハコヤナギなどが、木材、パルプ用材として生産される。南部ではコルクガシが多く生産・加工される。
 水産業も主要産業の一つである。イワシ、マグロ、タラなどの年間漁獲量は114万トン(2002)の水産国である。しかし同時に日本、アメリカに次ぐ水産物の輸入国でもあり、1人1日当り魚貝類の消費量も多い。ビーゴ、ラ・コルニャの漁港を中心とした北西部、南部大西洋岸、北部ビスケー湾岸がその中心で、北西部のビーゴではスペインにおける缶詰製造の約半分を生産する。[田辺 裕・滝沢由美子]
工業
近代工業は18世紀末、バルセロナ地域におこった紡績業から始まり、セメント、ガラス、製紙の諸工業に発展した。19世紀後半には石炭と鉄鉱の資源を基礎に、ビスカヤ製鉄の発足など、バスク、アストゥリアスに重工業が立地した。しかし、自給自足経済体制下の1941年に国家資本による持株会社「産業公社」Instituto Nacional de Industria(略称INI)が創立されて以来本格的な工業化が始まり、基幹産業の援助が図られ、国家に重要な工業がおこされた。1959年の経済安定計画では施設、機械、特許の輸入自由化が行われ、さらに1964年からの3次にわたる開発計画では外国資本の流入が図られ、ダム建設および建築用セメント、化学、肥料、造船、自動車など特定の工業に対して特別の発展措置がとられた。一方では離農者、女性の就労による豊富な労働力、観光客および海外出稼ぎ労働者からもたらされる資本の蓄積があり、1960年代以来急速に工業化が進んで、工業生産が農業生産を上回る経済構造となり、国内総生産は世界的にみてかなり高くなった(2003年、9位)。
 工業部門は多様であるが、伝統を受け継いだバスク、アストゥリアス、カタルーニャ、および近年大工業都市に発達したマドリードの4地域に集中している。製鉄業は、INIの設立による国営製鉄株式会社(ENSIDESA)を通して政府が直接参入、ドイツ、アメリカの技術援助により発展し、粗鋼生産量は1782万トン(2005)で、ビルバオ、アビレス、サグント(バレンシア)に大溶鉱炉がある。機械工業では、手厚い保護を受けている造船(カディス、エル・フェロル、セビーリャ、ビルバオ、サンタンデル、ビーゴの各地にINIや民間の企業が多い)は別として、外国資本の力が強い。とくに自動車は、フィアットと提携するセアト(SEAT、スペイン乗用車工業会社)を筆頭にルノー、シトロエン、フォードなど全企業が外資系で、外国の特許を受けて製造している。工場はバルセロナ、マドリード、バリャドリード、ビーゴ、バレンシアなどに立地する。乗用車は生産が増加傾向にあり、自動車生産は301万台で世界第7位である(2004)。化学工業はマドリード、バルセロナ、ビルバオに立地し、セメント、硫酸、再生ゴム、カリ肥料は世界でも十指に入る生産量をあげている。ほかにプラスチック、カ性ソーダ、タイヤ、化学繊維などを生産している。繊維工業はカタルーニャ地方に発生し、現在もその3分の2が同地方に集中している。[田辺 裕・滝沢由美子]
貿易
1960年まではオリーブ油、缶詰、ワインなどの食料品が輸出総額の75%を占め、鉄鉱石などの鉱物原料15%、製造品10%であったが、工業化の進展とともに自動車、機械類などの工業製品が増加し68.0%(2002)を占めている。食料品は、小麦、大麦、ブドウ、柑橘(かんきつ)類、ワインなど13.7%であるが、オレンジ類、レモン・ライムの輸出は世界の首位にある。輸入では、機械類、自動車、化学薬品などの工業製品、原材料や原油などの燃料が急増し、それぞれ63.8%、10.9%を占める。貿易主要相手国は輸出入ともにフランス、ドイツ、イタリア、イギリスで対日貿易は輸出17億ドル(輸送機械、魚貝類など)、輸入48億ドル(機械類、電気機械、乗用車、自動車部品、精密機械など)で互いに大きな比重を占めていない。貿易収支は1959年の自由化以降、工業化に必要な原材料類や機械類、生活水準の向上に必要な機械類や食料品の輸入が急増し、1960年を除いてつねに赤字で輸出比率(総輸出入額に対する輸出の割合)は43.1%(2002)である。国際収支の点では、他に特許や技術のための支出、観光による収入が多い。国際観光収入は1950年代から大幅に伸び、2003年には総額369億ユーロに達した。観光客数は5360万人(2004)である。[田辺 裕・滝沢由美子]
交通
鉄道のほとんどは国有で、総延長1万3868キロメートル、約54%が電化されている(2000)。なお、国有鉄道は2005年に鉄道施設管理機構と列車運行管理機構に2分割された。道路総延長は約66万4852キロメートル(2001)、高速道路を含めて道路網は整っている。航空はイベリア航空がヨーロッパ主要都市との間に運航されているほか、アビアコ航空が国内各地を結んでいる。[田辺 裕・滝沢由美子]

社会・文化


住民・言語
スペイン人は地中海人種に属するイベリア人を祖先としつつも、多くの民族の侵入により混血が進み、現在は民俗、風俗、言語などにおいて強い地方的特色がみられる。大別するとカスティーリャ人(カスティーリャ語)、カタルーニャ人(カタルーニャ語)、ガリシア人(ガリシア語)、バスク人(バスク語)からなっている。カスティーリャ語はカンタブリカ山脈からカスティーリャおよびアンダルシア地方まで、スペインの中心部にあたる広い地域で使用され、19世紀以来スペイン語とよばれている。スペイン語は15世紀以降はアメリカ大陸へももたらされ、現在メキシコ、アルゼンチンなど19か国の公用語であり、また国連でも英語、フランス語などと並ぶ公用語となっている。バスク人は西・南欧唯一の非インド・ヨーロッパ語族といわれる起源不明のバスク語を話す特異な少数民族で、北部のバスク地方に住み、フランス側のバスク人とともに独立を主張して、ときどき問題を起こしてきた。スペインの公用語は、このような各地方の独立運動を反映して、カスティーリャ語のほかに前記3言語も含めて4言語とされている。[田辺 裕・滝沢由美子]
国民生活
スペインの人口は死亡率の著しい低下と高い出生率の維持により、19世紀に入って急に増加し始め、1857年(第1回公式国勢調査)には1545万人であったが、1950年に2798万人となり、約100年間で2倍弱の増加を示した。しかし移民流出の影響を強く受けて、実際の人口増加率は年間1%前後である。移民は19世紀なかばから1958年まで行われた南米への移住と、第一次世界大戦時より続いている西ヨーロッパへの移住の二つの系統がある。後者の場合、土木・建設業関係の肉体労働者が中心で、女性は家事労働に従事する者が多い。
 人口密度は1平方キロメートル当り80人(2001)で、西ヨーロッパ諸国に比べて低い。しかしその分布は非常に不均等で、マドリードを除くと内陸部には希薄であり、西部から北部にかけての海岸地帯、エブロ川低地、バルセロナ周辺からレバンテ地方(バレンシア、ムルシア)にかけておよびカディス周辺の密度が高く、総じてイベリア半島周辺部の工業中心地、観光地に人口が多い。かつてはむしろ内陸部のほうが高密度であったが、18世紀以後、とくに1950年前後からの急速な工業化と都市の成長に伴って、半島周辺部の密度が高くなった。これは農業から工業・サービス業への若年層を中心とした労働人口の移動、すなわち、農村から都市への人口移動が引き起こされた結果である。このため農村では人口減少とともに老齢化が進み、一方、都市では旧市街地での土地および住宅に対する需要が急増し、アパートの密集する人口稠密(ちゅうみつ)な地区の形成、都市域の拡大がおこっている。19世紀中ごろには人口10万以上の都市はマドリード、バルセロナ、セビーリャ、バレンシアの四つにすぎず、その合計は約69万人であったが、1960年にはマドリード、バルセロナが100万都市となり、両大都市圏に全人口の17%が集中した。人口50万人以上の都市はマドリード(301万6788)、バルセロナ(152万7190)を含め、バレンシア(76万1871)、セビーリャ(70万4114)、サラゴサ(62万0419)、マラガ(53万5686)の6都市で、30万都市が6、20万都市が10、10万都市が32ある(2001)。
 スペインの社会構成は、中間層を欠く階層格差の大きい点に特色がある。農村を支配する大地主と羊毛ギルドの指導者、都市を支配する高級官僚や貴族などが強固な上層階級をつくっている。上層階級では、1日の食事ではもっとも重要な昼食とシエスタ(昼寝)のために3~4時間休むなどの習慣を残し、都市部においては午前10時~午後2時、午後は4時ごろから7時半ごろまで仕事をし、夕食が10時ごろ始まるという生活が営まれる(2006年1月1日より国家公務員のシエスタは廃止され昼食時間は正午からの1時間に限定された)。しかし下層の労働者や農民は早寝早起きで勤勉である。カトリック教会も大地主として上層階級と結び付き、政治的にも右派を構成してきた。
 1人当り国民所得は2万1210ドル(2004)であるが、物価は日本よりかなり低く、果物、野菜、肉類などは豊富である。庶民の住宅にはピーソpisoとよばれるアパートが多く、その平均面積は65~100平方メートルで、一般に設備がよく整い、上級のものにはセントラル・ヒーティングやガレージなどが完備されている。人口の都市集中に伴う住宅事情の悪化を反映して、諸物価のうちでは住居費の値上りがいちばん大きい。
 スペインでは1世帯の平均構成人員が4人であり、一般に映画鑑賞や友人との会食、サッカーや闘牛などのスポーツ見物などの都市型の娯楽を好む傾向にあって、都市部に住む人が多い。レジャーなどは家族中心で、西欧諸国と同様、多くは8月に海や山などへ休暇で出かける。労働基準法で有給休暇が最低年21日と定められており、8月には官公庁も開店休業状態となる。夏には商店やレストランなども1か月ほど閉店し、一般企業も夏時間(8~15時)の勤務体制をとるところが多い。[田辺 裕・滝沢由美子]
教育・宗教
1990年の教育法の改正により、91年より漸次新システムが導入された。幼児教育は6歳まで、義務教育は7~12歳の初等教育と中学校4年間の計10年間である。その後高校2年間、実業高校2年間に分かれ、さらに大学がある。この制度により、初等、中等教育が無償の義務教育となった。大学は全部で公立大学が50校、その他の大学は21校ある(2003)。13世紀にパレンシア、サラマンカ、セビーリャに大学が創立され、さらに16世紀にも多くが創設されており、古い歴史をもつ大学が多い。家庭にいて郵便、ラジオ、テレビを利用した通信教育で大学教育を受けられる国民大学のセンターがマドリードにある。
 380年2月に「テサロニカ勅令」が公布されキリスト教が国教として定められ、以来キリスト教は国民生活、政治などに深くかかわってきた。1966年に信教の自由が認められたが、国民のほとんどがカトリック教徒である。全スペインの首都大司教であるトレドの大司教のもとに、全土を教区が覆っており、教徒の教会外結婚は許されない(民法上は可能)など、日常生活の端々にまで影響を及ぼしている。しかし、カトリック信者の反対にもかかわらず1981年に離婚法が成立、1985年には妊娠中絶が一部合法化された。また、2005年には同性結婚を認める民法改正案が成立した(ヨーロッパではオランダ、ベルギーに続き3か国目)。[田辺 裕・滝沢由美子]
文化
保守的な階層社会であるスペインでは、伝統的な祭り(フィエスタfiesta)が社会生活の特徴となっている。1年を通じてのさまざまな宗教的儀式、巡礼のほかに、市(いち)やカーニバルも開かれる。また闘牛は国技となっている。宗教行事として最大のものは3~4月の間の1週間、キリストの受難を記念するセマーナ・サンタsemana santa(聖週間)で、マドリード、セビーリャなどの都市をはじめ地方の村々まで全国一斉に行われる。
 スペインの民俗音楽と踊りは、それに用いられる楽器とともに地方色があり、アンダルシア地方のファンダンゴ、同南部の少数民族ロマ(かつてジプシーとよばれた)より発展したフラメンコ、カタルーニャのサルダーナ、アラゴンのホタ、バレアレス諸島のボレロなどがよく知られている。また、ガイダといわれるバッグパイプ、横笛とドラムなど独特なものがある。数多くの民族が集まり、それぞれの文化遺産が後世に伝えられてきたことや、地形や気候的風土が地域的に大きく異なり、山脈などに遮られて交流が十分に行われにくかったことなどのため、スペインの音楽や美術には多様性が特色として指摘される。
 表現、集会、結社の自由はそれぞれ憲法によって認められており、出版物、新聞の検閲などは現在行われていない。日刊新聞は約90紙あり、合計約400万部が流通している。全国紙6紙のほかに、各地方独自の政治状勢や文化などを反映して地方紙が非常によく発達している。出版物の約8割はマドリードとバルセロナで刊行され、出版社がこの2都市に集中しているが、バルセロナではカタルーニャ語による刊行物が多い。
 博物館、美術館は1400以上を数え、各地に歴史的建造物や遺跡、歴史的町並みも数多く、よく整備、保存され、観光資源ともなっている。アルハンブラ宮殿、アルタミラ洞窟、コルドバの歴史地区、エル・エスコリアル修道院など、多くの世界文化遺産が登録されている。[田辺 裕・滝沢由美子]

日本との関係


 日本とスペインの関係は、スペイン領フィリピンを介したキリスト教の布教を通して始まった。1549年(天文18)スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到来した。しかし、日本の布教はイエズス会ポルトガル管区の管轄下にあったために、スペイン系修道会の来日は16世紀末になってからであった。1593年(文禄2)フランシスコ会、1602年(慶長7)ドミニコ会がそれぞれマニラから来日した。この間、日本布教熱をヨーロッパで高めるために天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)が計画された。1582年(天正10)長崎を出発した4人の少年使節は2年後スペインに至り、時の国王フェリペ2世に謁見した。
 他方フィリピンを舞台として、倭寇(わこう)の流れをくむ日本人とスペイン人の接触もみられた。1584年マニラから平戸(ひらど)に来航したスペイン船を歓迎した領主松浦法印(まつうらほういん)(隆信(たかのぶ))は、フィリピン政庁との友好関係の促進を図った。メキシコ―フィリピン―中国のガレオン貿易は日本側にとって魅力あるものであった。1592年(文禄1)豊臣秀吉(とよとみひでよし)は原田孫七郎の進言をいれ、フィリピン総督に招降の書を送った。結局、1596年(慶長1)、マニラ―メキシコ間を航行中のスペイン商船が暴風雨のため土佐浦戸(うらど)(現高知市)に漂着し、秀吉がその積荷を没収したサン・フェリペ号事件は、日本とスペインの関係に暗い影を落とすことになった。しかし、メキシコ貿易に熱心な徳川家康の時代になって、メキシコを介するスペインと日本の関係は一時的に好転した。1606年スペイン商船が来航(長崎)し、また1610年には前フィリピン代理総督ロドリゴ・デ・ビベロが家康から託されたフェリペ3世あての書簡を携えスペインに渡った。この間1613年、伊達政宗(だてまさむね)の使臣支倉常長(はせくらつねなが)が、キリスト教の布教と貿易の振興を図る目的でメキシコを経てスペインに渡り、1615年(慶長20)時の国王フェリペ3世に謁見した。しかし、政宗の遣使の助言者兼案内者であったソテロの言動が災いして目的は果たされなかった。
 1624年(寛永1)、幕府は宣教師の潜入を防止するためと称して対スペイン通商禁止令を出し、75年間にわたる日西交渉史は絶たれた。以後明治維新後まで日本とスペインの関係は途絶することになり、国交の再開は1868年(明治1)の日西(日本・スペイン)修好通商航海条約の成立まで待たなければならなかった。なお1897年、この条約は日西修好交通条約をもって改正された。のち1930年代に起こったスペイン内戦(1936~39)に際し、日本政府はフランコ政権を支持した。一方、第二次世界大戦期に中立の立場をとったスペインは1945年(昭和20)4月対日断交に及び、外交関係が再開されるのは1956年になってからである。日西関係が再開して約130年、両国の関係は概して希薄であった。やっと日本経済が世界的規模で成長する1980年代以降、日本側においてスペイン研究が、スペイン側において日本研究が盛んとなり、従前の異国趣味的な相互イメージを脱脚する兆しがみえ始めた。が、なお現在両国が抱く相互イメージには、スペイン側の工業中心の対日観、日本側の芸術中心の対スペイン観という偏りがみられる。こうした偏りが、どう是正されていくか興味深いところである。[塩崎弘明]
『●地理・スペイン一般 ▽並河萬里著『地中海の中のスペイン』(1977・玉川大学出版部) ▽竹内啓一著『イベリア半島』(木内信藏編『世界地理6 ヨーロッパ1』所収・1979・朝倉書店) ▽斉藤孝編『世界現代史23 スペイン・ポルトガル現代史』(1979・山川出版社) ▽M・マニエーロ他著、福井嗣子訳『全訳世界の地理教科書シリーズ27 スペイン その国土と人々』(1980・帝国書院) ▽H・カメン著、丹羽光男訳『スペイン――歴史と文化』(1983・東海大学出版会) ▽有本紀明著『スペイン・聖と俗』(1983・NHKブックス) ▽黒田悦子著『スペインの民俗文化』(1991・平凡社) ▽野々山真輝帆著『すがおのスペイン文化史――ライフスタイルと価値観の変遷』(1994・東洋書店) ▽田辺裕監修『図説大百科 世界の地理10 イベリア』(1997・朝倉書店) ▽寿里順平・原輝史編『スペインの社会――変容する文化と伝統』(1998・早稲田大学出版部) ▽杉浦勉編『ポストフランコのスペイン文化』(1999・水声社) ▽メアリー・ヴィンセント、ロバート・A・ストラドリング著、・小林一宏監修、滝本佳容子訳『図説 世界文化地理大百科 スペイン・ポルトガル』(1999・朝倉書店) ▽坂東省次・戸門一衛・碇順治編『現代スペイン情報ハンドブック』(2004・三修社) ▽ラファエル・ラペサ著、山田善郎監修、中岡省治・三好準之助訳『スペイン語の歴史』(2004・昭和堂) ▽堀田善衛著『スペイン断章』(岩波新書) ▽A・M・エスピノーサ編、三原幸久編訳『スペイン民話集』(岩波文庫)』
『●歴史 ▽J・ビセンス・ビーベス著、小林一宏訳『スペイン――歴史的省察』(1975・岩波書店) ▽W・M・ワット著、黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム・スペイン史』(1976・岩波書店) ▽J・H・エリオット著、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡 1469―1716』(1982・岩波書店) ▽川成洋・渡部哲郎著『新スペイン内戦史』(1986・三省堂) ▽バーネット・ボロテン著、渡利三郎訳『スペイン革命――全歴史』(1991・晶文社) ▽芝修身著『近世スペイン農業――帝国の発展と衰退の分析』(2003・昭和堂) ▽近藤仁之著『スペイン・ユダヤ民族史――寛容から不寛容へいたる道』(2004・刀水書房) ▽碇順治著『現代スペインの歴史――激動の世紀から飛躍の世紀へ』(2005・彩流社) ▽アントニオ・ドミンゲス・オルティス著、立石博高訳『スペイン三千年の歴史』(2006・昭和堂) ▽ピエール・ヴィラール著、立石博高・中塚次郎訳『スペイン内戦』(白水社・文庫クセジュ)』
『●日本との関係 ▽『日欧通交史篇1、2』(『幸田成友著作集3、4』1971・中央公論社) ▽岡本良知著『ユーラシア叢書3 十六世紀日欧交通史の研究』改訂増補(1974・原書房) ▽武田修著『スペイン人と日本人』(1993・読売新聞社) ▽岸野久著『ザビエルと日本――キリシタン開教期の研究』(1998・吉川弘文館) ▽長谷川高生著『独裁から民主主義へ――スペインと日本』(1999・ミネルヴァ書房) ▽坂東省次・川成洋著『イスパニア叢書 スペインと日本――ザビエルから日西交流の新時代へ』(2000・行路社)』

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世界大百科事典内のスペインの言及

【イベリア半島】より

…東西約1100km,南北約1000kmのほぼ方形をなし,総面積58万1353km2。北端のエスタカ・デ・バーレス岬と南端のタリファ岬(ともにスペイン)は,それぞれ北海道の中央部,関東地方の霞ヶ浦と同緯度にあたる。北および西を大西洋に,南と東を地中海に囲まれ,半島の付け根,北東部は幅約435kmにわたり,ピレネー山脈によってヨーロッパ大陸部と画されている。…

【大航海時代】より

…これらの島々ではサトウキビやブドウがプランテーション方式で生産され,アフリカ西海岸で入手した黒人奴隷が使用された。こうして,のちにスペインが新大陸で行ったプランテーション経営の原型が生まれた。 カスティリャもポルトガルに対抗するために海上に進出したが,カナリア諸島を支配下におさめただけであった。…

【南蛮貿易】より

…1540年代より約1世紀にわたり,当時は南蛮人と称されたポルトガル,スペイン両国人の渡航によって日本商人等との間に展開された商取引。1543年(天文12)ポルトガル人の種子島漂着を契機にして,ポルトガル商船および彼らのジャンク船がリャンポー(寧波(ニンポー)),マラッカ等から西南九州の鹿児島,山川,坊津,府内,平戸等の各港に来航した。…

【ラテン・アメリカ】より

…ラテン・アメリカは,アングロ・アメリカに対する概念であり,カナダ,アメリカ合衆国を除く北アメリカと南アメリカの諸地域,すなわち,メキシコ以南の大陸部およびカリブ海地域の諸島の総称である。
【総論】
 この地域においては,スペイン語,ポルトガル語,フランス語などラテン系言語が公用語として用いられ,文化伝統もラテン系であるため,ラテン・アメリカの名称が生まれた。ただし,カナダには多くのフランス語を話す住民がおり,アメリカ合衆国は2000万以上のスペイン語人口を擁する一方,ラテン・アメリカにも,英語,オランダ語を使用する地域があるから〈アングロ〉〈ラテン〉の区別は必ずしも厳密なものとはいえない。…

※「スペイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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