改訂新版 世界大百科事典 「スペイン」の意味・わかりやすい解説
スペイン
Spain
基本情報
正式名称=エスパニャ国Estado español
面積=50万5992km2
人口(2010)=4607万人
首都=マドリードMadrid(日本との時差=-8時間)
主要言語=スペイン語
通貨=ペセタPseta(1999年1月よりユーロEuro)
ヨーロッパ大陸の南西に突き出したイベリア半島の約8割を占める王国。スペインは英語による呼び方で,スペイン語ではエスパニャEspaña。半島全体の呼び名としてギリシア語起源の〈イベリアIberia〉とともに〈ヒスパニアHispania〉があったが,これは〈ウサギの海岸〉または〈ウサギの島〉を意味するフェニキア語の〈i-sephan-im〉にその語源が求められ,ローマ人も〈ヒスパニア〉の呼び名を継承し,現在の国名もこれを源としている。従来は,歴史的には15地方,行政的には51県に分けられていたが,1978年新憲法によって17地方に改組された。カトリック教徒が多く,国民性は保守的傾向が強いといわれ,言語など,文化の地域差も大きい。このような状況の母体となったスペインの自然および17世紀までの歴史については〈イベリア半島〉〈スペイン帝国〉などの項を,また日本との関係については〈南蛮貿易〉などの項を参照されたい。
歴史
18世紀スペイン
現代スペインの起源は,カスティリャ国王フェリペ4世(在位1621-65)の寵臣オリバレス伯公爵の次の言葉に集約できる。〈陛下,ポルトガル王国ならびにアラゴン王国,バレンシア王国,バルセロナ伯国の国王であられるだけではなく,“スペインの国王”として君臨されてこそ満足すべきでありましょう〉。つまり,17世紀までのイベリア半島は,独自の法秩序,諸制度および慣習を所有する諸王国が分立し,〈王権の統一〉によって諸王国に承認された共通の国王が名目上君臨しているのみで,〈国家の統一〉は未完成であった。こうした状況が一変したのは,ポルトガル王国が独立し,さらにスペイン継承戦争(1701-14)の結果,初めて〈スペイン国家の統一〉が成就してからであった。現代スペインの記述を18世紀から始める理由もそこにある。
16世紀を最盛期とするスペイン帝国が没落した原因,あるいは18世紀スペインが直面した問題は,ヨーロッパ近代の流れにどのように対処するかであった。ルネサンスとバロックというヨーロッパ近代の二つの流れに次ぐガリレイやデカルトに代表される科学と理性を基にした第三の流れは,スペインのそれまでの歴史および精神と完全に対立した。ヨーロッパ諸国では,ウェストファリア条約(1648)からユトレヒト条約(1713)へ至る間に,キリスト教信仰への理性の反逆が起こり,国家理性に基づき,国民国家を行動単位とする現代の勢力均衡政治の原型が姿を現した。ところが,スペインはキリスト教信仰による普遍性を唱え続け,広いヨーロッパの領土を防衛する軍事力ももたなかった。その結果,ヨーロッパ近代の新たな体制にスペインは参画できず,ヨーロッパ大陸の覇権をめぐるフランスとオーストリア,あるいはイギリス,フランスの対立,さらには世界の海域における覇権を求めたイギリスとオランダの戦いに巻き込まれ,勃興してきたそれらヨーロッパ諸国の格好の餌食となった。
スペインの18世紀は,このような状況下で,スペイン継承戦争を端緒に始まった。この戦争は,カルロス2世(在位1665-1700)の死後に空位となったスペインの王座とヨーロッパの覇権をめぐる列強間の国際的な戦いであると同時に,スペイン国内では,1939年までやむことなく続く内戦のプロローグであった。フランスの中央集権国家体制をスペインに移植することを意図したカスティリャ王国は,フランス王ルイ14世(王妃はカルロス2世の姉マリア・テレサ)の孫アンジュー公フィリップを擁立した。他方,歴史体験に基づくナショナルな感情に依拠して,カスティリャ王国の意図に反対するアラゴン連合王国(アラゴン王国,バレンシア王国,バルセロナ伯国,マリョルカ王国からなる)は,神聖ローマ帝国皇帝の次男カールを次期王位継承者として支持した。国内の戦いでは,緒戦に,アラゴン王国とバレンシア王国がフランス・カスティリャ連合軍の軍門に下り,反逆したかどでカルロス2世の時代まで保持していた特権を剝奪された(1707年6月29日)。しかし,バルセロナ伯国(現在のカタルニャ地方)の首都バルセロナは抵抗を続け,1714年に屈伏した。王位継承戦争を内戦とした根拠は,このバルセロナの執拗(しつよう)な抵抗の事実による。戦争終結のために結ばれたユトレヒト条約によって,スペインはヨーロッパの領土をすべて失い,半島内に押し込められたことはもとより,固有の領土であった,メノルカ島とジブラルタルまでもをイギリスに割譲しなければならなかった。
フェリペ5世の時代
王位継承戦争後に即位したフェリペ5世(在位1700-24,1724-46)は約半世紀にわたる統治期間に,中央集権化政策に基づく政治・行政改革を実施し,スペインの近代化に着手した。1716年に布告された〈国家基本令〉は,中央集権主義による国家の枠組みづくりを意図し,前述したアラゴン地方,バレンシア地方とともにカタルニャ地方も,特権を一方的に破棄された。その結果,バレンシア地方では,中央政府の意向に従う貴族と,王位継承戦争でカールを支持した農民との間に厳しい対立関係が生まれた。このほか,フェリペ5世は中央と地方の行政機構を大幅に改革した。例えば,行き詰まった寵臣政治にかわり,初めて閣僚制度を導入し,外務大臣,法務大臣,陸軍大臣,海軍・インディアス担当大臣の四つの大臣職を設置した。また地方行政も,中央政府が任命した人材を派遣し管理させ,中央の監視の下に置くことにした。いうなれば,このときスペインで初めて法秩序,組織・制度面で〈統一された国家体制〉が築かれた。それゆえに,19世紀,20世紀の歩みはもとより,フランコ以後のスペインにとっても,18世紀の政治・行政改革は,国家のあり方をめぐり重要な意味をもっている。外交面では,ユトレヒト条約によりピレネー山脈のかなたに追いやられたスペインは,政策の舵を中南米へ向けざるをえず,〈新植民地化政策〉と呼ばれる新たな富の模索を開始した。しかし,イタリアのパルマ家出身イサベル・ファルネシオ(第2番目の妻)との結婚によってフェリペ5世はイタリア情勢を無視できず,スペインはヨーロッパの政争に再び関与していかざるをえなくなった。スペインの近代化の第一歩を印したフェリペ5世の統治について,忘れてならないのは,外交面で多大な影響力をもっていたイタリア人司祭アルベローニJulio Alberoni(1664-1752)をはじめ,財政再建や陸・海軍の改革に功績を残したJ.パティニョ,エンセナダ侯爵など有能な側近の存在である。
フェルナンド6世の時代
1746年に王位を継いだフェルナンド6世(在位1746-59)は,フェリペ5世の中央集権主義の路線を踏襲し,ヨーロッパへの関与を避けて中立政策を掲げた。前述した4大臣職のほかに,大蔵大臣の職務を新たに設け,さらに,中央政府が発した法令が円滑に各地方・各県で運用され,機能しているかどうかを監視するための監督局を設けた。ただし,政治の実権は,国王よりも,優秀な側近が掌握していたといえる。親英派のカルバハルJosé de Carvajal y Lancáster(1698-1754)と,フェリペ5世の時代から要職についていた親仏派のエンセナダ侯爵がその筆頭である。経済面では,17世紀以来,コルベールの重商主義とケネーの重農主義の影響を受け,賃金の安定化政策が功を奏した結果,経済復興の足がかりができ上がった。そのうえで,国内産業の保護と国内市場の拡大のために実施した,国内資源の輸出禁止と国内関税の廃止(ただし,バスク地方とナバラ地方は除く)の措置は,中南米の新植民地化政策が最盛期を迎えたこととあわせ,18世紀後半の経済発展の重要な礎となる。
カルロス3世の時代
フェルナンド6世の後を継いだカルロス3世(在位1759-88)は,典型的な専制君主として君臨した。とりわけ経済分野ではフェルナンド6世時代の方針を受け継ぎ,中南米からの富を基盤にして私企業の保護・育成を図った。また,灌漑設備やマドリードを中心に放射状に広がる7本の主要道路の建設など,公共・土木事業を奨励した結果,飛躍的な経済発展を成し遂げた。こうした上からの改革に呼応して,国民の側からの運動が顕著となったのも,この時代の特色である。例えば,あらゆる分野のヨーロッパ化を目ざし,知識人ならびに学生,聖職者らによる〈国の友同志会sociedad de amigos del país〉という組織が各地に結成され,1774年には政府の肝いりで全国的な組織に成長していったが,これらはとくに農業問題に関心を寄せていたといえる。
しかし,カルロス3世治下の経済発展は,今日にまで影響を及ぼすほどの社会変動と問題とを生みだした。まず私企業の保護・育成策はカタルニャ地方を筆頭に周辺部の工業化を促し,他の西欧諸国と同様にブルジョア階級を誕生させた。なかでも,バルセロナとカディス両都市のブルジョアジーが力をつけたが,この新たな社会階級の台頭は,農村部において封建的なオリガルキー(寡頭)支配を,都市部においては同業組合(ギルド)等の古い産業組織の支配を崩していく要因となった。次に,経済発展をしたのが資源に恵まれた周辺地方であるために,半島中央部から周辺部への人口移動が生じた。フェルナンド6世の時代には,総人口約600万人のうち,約1/3が中央のカスティリャ地方以外に分布していた。カルロス3世の時代になると総人口が約1050万人に増加しているが,対周辺部の人口比は定かではない。ただし,中央・内陸部および南部の町村における人口減少が顕著になったことを考慮すると,周辺部の人口が相当数増加したことは十分に推測できる。人口減少現象に対して政府は,プロイセンの例にならい,国内の再植民政策を打ち出さざるをえなかったのである。
18世紀スペイン社会を概括すると,異なった二つの趨勢を指摘できる。一方は,新たに勃興してきたブルジョアジーの動向であり,他方はブルジョアジーへの貴族階級の対応である。カルロス3世の統治期間に,ブルジョアジーは国王を陣営へ引き入れ,貴族階級との対立を深めていくが,争点は,ブルジョアジーが唱える経済改革案と富の分配政策にあった。つまり,ブルジョアジーの主張は,貴族階級が求める門地と血統に依拠した階級社会から,富の力に基づく新たなヒエラルヒーの社会へとスペインを変貌させることを意味していた。貴族階級が本能的にブルジョアジーに対抗する理由はそこにあった。
18世紀の文化
伝統かヨーロッパか,という二つの流れは,18世紀の文化にも脈打っていた。ただ,どちらの流れも,18世紀の主要な思潮である啓蒙主義を受容する点ではかわりがない。問題はその度合であった。まず,伝統に重きをおく思想家,劇作家,随筆家,エコノミストは,キリスト教に基づく啓蒙精神の流布を唱え,カトリック信仰と資本主義精神の調和を考えた。そして,この流れに属する人々に共通するもう一つの意識は,歴史的・社会的にハプスブルク家の統治時代(16~17世紀)を決して批判しないことであった。他方,ヨーロッパに重きをおく人々は,ヨーロッパ諸国の啓蒙専制主義を積極的に導入しようと意図した。とくに,カルロス3世の諸大臣が打ち出した文化振興策は,この流れを強く反映している。美術・建築の分野では,17世紀にスペインへ流入し定着したバロック様式が,18世紀になるとロココ的色彩のつよいチュリゲラ様式として新たな展開をみせる一方,新古典主義様式も開始された。フランス啓蒙主義の影響を強く受けた文学界は,中世および黄金世紀の研究を通じて,あたかも評論家による文学活動の感を呈した。しかし,そうした動きも18世紀末になると一段落し,とりわけ詩文において,伝統と近代の結合を意図した運動が,セビリャとサラマンカを中心にして生まれてきた。
危機の旧体制
1789年に隣国フランスで勃発した革命の余波は,スペインの旧体制を危機に陥れた。政局がいかに不安定であったかは,1812年から76年までに発布された憲法が実に九つ(このうち,二つの憲法は発布しただけで実効はなし)に及んだことが証明している。
フランス革命とスペイン
したがって,1788年に即位したカルロス4世(在位1788-1808)の治世は,フランス革命の影響とフランスをめぐる国際関係の中で揺れ動いた。スペイン継承戦争以降,同族関係にあったスペインとフランスは同盟を結んでいたが,92年にパリ革命政府がルイ16世を処刑し,スペインに宣戦布告をすると,スペインはヨーロッパの王政諸国と歩調を合わせ,革命政府打倒の方針を打ち出した。しかし,革命政府との戦い(1793-95)では,カタルニャ地方やバスク地方が自らのナショナルな感情と王政擁護の立場から果敢な抵抗を試みたものの,スペインは敗北し,戦後処理のために結ばれたバーゼル条約(1795)で,領有していたサント・ドミンゴ島の半分をフランス革命政府へ割譲した。この敗北を機に,カルロス4世の寵臣M.ゴドイは,スペインの海外植民地へ触手をのばし始めたイギリスに対抗するためにも,フランス革命政府,次いでナポレオンに対して宥和政策を打ち出した。その結果,スペインはフランスおよびイギリスの思惑に引きずられ,1805年には,フランスと組みイギリスと対したトラファルガーの海戦で大敗し,18世紀を通じて再建された海軍力に壊滅的な打撃を受け,同時に中南米への交易航路をイギリスにより切断されてしまった。さらに,ナポレオンとゴドイの取決め(1807)により,ポルトガルの軍事制圧を口実に,フランス軍がスペインに侵入し,駐留するという事態に直面した。
このような国際政治におけるスペイン国家の威信の低下と海外植民地経営の危機とともに,国内の政治危機も深まる一方であった。まず,18世紀末から19世紀初頭にかけて,既存の絶対王政下の諸組織・制度を維持しながら新たな時代に対応するのか,それともフランス革命の影響であるルソーの社会契約説に依拠した秩序づくりをするのか,という国家形態にかかわるジレンマに陥った。この問題をいっそう先鋭化させたのは,交易活動で財力を蓄え18世紀半ばより台頭してきた,沿岸諸都市のブルジョアジーである。19世紀初頭には貴族を圧倒するほどに成長したブルジョアジーは,18世紀後半に大学の門がこの新興階級に開かれて以来,それまで教育・文化の分野で力を握っていた聖職者の地位さえも脅かすほどになっていた。18世紀末には,詩人であり政治家でもあったG.M.deホベリャノスやキンタナManuel José Quintana(1772-1857)らが中心となり,19世紀スペインの主要なイデオロギーとなる自由主義思想を導入した。スペインにおいて新たな思想やイデオロギーは,つねに沿岸都市,とりわけバルセロナやカディスの港町を経由して流入するが,フランス革命思想や自由主義思想もこの例にもれず,その結果,ブルジョアジーにとって,かつての啓蒙主義はもはや革新的というよりも,せいぜい穏健的な意味あいにしかならなかった。また,1792年10月には,スペインで最初の新聞がバルセロナで創刊された。当時の新聞は,外国文の翻訳が主であり,発刊も不定期であったが,以後自由主義をはじめとするヨーロッパの思想・文化の導入に関して,重要な役割を担っていくことになる。
前述したフランス軍(ナポレオン軍)のスペイン侵入が1808年に始まると,同年5月2日,マドリード市民は占領軍に対して武器を持って立ち上がった。最終的にナポレオンの大軍の前に屈したにせよ,このマドリード市民の蜂起は,すべてのスペイン人をスペイン独立戦争(1808-14)へ駆り立てる契機になるとともに,スペインの針路を定める役割という点で,民衆が政治の表舞台へ歴史上初めて登場したことを意味していた。スペイン国民の抵抗が続く中で,ナポレオンはカルロス4世がフェルナンド7世へ譲った王位を,兄のジョセフ・ボナパルトへ移譲させるのに成功した(ホセ1世)。しかし,この王位移譲を認めない国民は,事実上の公権力が崩壊した状況の中で,国家の主権と同様の権能を有した〈評議会(フンタJunta)〉を各地方の都市に結成した。そして,唯一の非占領地であった南部の港町カディスに参集した非常に少数の評議会代表者が議会を開会し,自由主義に基づく1812年憲法(カディス憲法)を発布した。
自由主義体制への移行
ところが,独立戦争に勝利した翌年の1814年に復位したフェルナンド7世は,まず1812年憲法の破棄を宣言し,自由主義派との抗争を開始していく。これに対して,1812年憲法を革命の旗印とした自由主義派の反攻が功を奏したのは20年であった。この年,自由主義派のリエゴ・イ・ヌニェス将軍はカディスの近くで蜂起し,自由主義政権(-1823)を樹立させた。しかし,革命が急進化すると,フェルナンド7世は神聖同盟へ援軍を要請し,その求めに応じた〈ルイ聖王の十万の兵士〉と呼ばれる外国の軍隊が侵入して自由主義政府を打倒した。これはヨーロッパ列強によるスペイン国内政治への最初の介入であった。この時期のスペインの政治は,ゴヤの絵画や銅版画,あるいは小説家ペレス・ガルドスの《国民挿話》の中で生々しく描かれている。
神聖同盟の援助を得て自由主義者を駆逐したフェルナンド7世も,戦いの連続のために疲弊した国家財政の問題では暗礁に乗り上げてしまった。一方,台頭してきたブルジョアジーや独立戦争において主役の座に躍り出た民衆は,教会をはじめとする旧体制の権威からしだいに離反する動きを見せ始めていた。そうした深刻な経済・財政危機と新たな時代の胎動の中で,33年,フェルナンド7世は病没し,生後まもない王女イサベル2世(在位1833-68)が母君マリア・クリスティナを摂政として王位を継いだ。しかし,この王位継承に対して,フェルナンド7世の弟ドン・カルロスを擁立するとともに,地方の特権を求める北部のカトリック伝統主義勢力(カルリスタ)が異論を唱え,ついには内乱へと発展していった。戦いの凄惨さから諸外国に粗暴なスペイン像を与える契機となったこのカルリスタ戦争に際して,摂政マリア・クリスティナはそれまで敵対していた自由主義者の援助を求めざるをえなかった。それゆえ,制度としてこの時からスペインは自由主義体制へと移行し,ヨーロッパ化への道程を歩き始めた。ところが,自由主義体制が定着するには,問題が山積していた。例えば,土地貴族(大土地所有者),教会などの特権階級や大ブルジョアジーからなる一部の〈教養のある富めるスペイン人〉と,国民の大多数を占める〈貧しく無学なスペイン人〉との亀裂は深く,ヨーロッパ化への重要な阻害要因となっていた。そのうえ,自由主義体制下の近代化をめぐって,二つの思潮が激しく衝突し合っていた。34年の欽定憲法の発布と,同年から翌年にかけて頻発した都市民衆による修道院の焼打ち事件および聖職者の殺害を端緒に,それら二つの思潮は自由主義派の分裂へとつながっていく。すなわち,一方はフランスの保守的ロマン主義の影響を受けた伝統的思潮(保守的自由主義)であり,これは自由主義派内穏健派として結束した。他方は進歩的・反教権的思潮であり,進歩派としてまとまった。カルリスタ戦争の最中に生じた自由主義派の分裂は,ちょうどロマン主義がヨーロッパから流入した時期と一致していた。そもそもロマン主義は,フェルナンド7世の粛清でフランスやイギリスに亡命した自由主義者によってもたらされ,ヨーロッパ諸国より数十年遅れて浸透した。そして国を二分して戦う状況を反映して,スペインのロマン主義は,伝統を尊重する立場と個人の自由を高揚する立場の二つに分かれ,前者は穏健派,後者は進歩派の運動へ取り入れられていった。そして,カルリスタ戦争や国家財政の危機を利用して,進歩的な自由主義者メンディサバルJuan Álvarez Mendizábal(1790-1853)が,36年に教会の永代所有財産(土地)を強制的に取り上げ解放したことは,両派の分裂状況をますます深める結果となった。
苦難の自由主義体制
1839年,カルリスタ戦争は自由主義派の勝利に終わった。しかし,18世紀末から続いた戦乱の世がこれで終了したわけではない。今度は,自由主義派内の穏健派と進歩派の権力闘争が繰り広げられた。カルリスタ戦争を平定した進歩派エスパルテロ将軍は,同派の指導者となり,41年には摂政の座についた。ところが,その2年後,穏健派と進歩派内の反エスパルテロのグループが各地で軍事蜂起し,進歩派政権はもろくも崩壊した。続く穏健派政府は,成年に達したイサベル2世治下の政局の安定を目ざして,数々の近代化政策に着手していった。44年に政権を握った穏健派の領袖ナルバエス将軍は,翌45年,憲法を発布するとともに,治安警察Guardia Civilの創設(1844)をはじめ中等教育の制度化,近代的行政官僚機構の設置などの中央集権化政策を徹底させ,さらに進歩派の時代に亀裂が生じたローマ教皇庁との間にコンコルダートを結び(1851),関係の修復にも努めた。また,後にスペイン社会の重要問題となる,地方ボスをはじめとする寡頭支配(カシキスモcasiquismo)の基盤が形成されていったのもこの頃である。
44年から比較的安定していた穏健派政権も,50年代になると内部抗争により基盤が揺らぎ始めた。そして54年に鉄道敷設をめぐる不正事件が発覚すると,オドンネル将軍が政治の刷新を訴え,軍事クーデタを起こした。これに呼応して都市民衆も蜂起し,その結果54年には進歩派が政権に返り咲いたが,これも2年間の短命に終わった。難局の舵を次に握ったのは,穏健派左派と進歩派右派が新たに結成した自由主義連合であり,指導者となったオドンネル将軍は,国内のナショナリズムを高揚すべく,モロッコ戦争(1860)をはじめ,フランスとの共同行動によるインドシナ遠征(1860),サント・ドミンゴの併合(1861-67),メキシコ遠征(1862)などの軍事進出政策を敢行した。しかしながら国内政治に目を転じれば,厳しい制限選挙と寡頭支配者(カシケ)による選挙操作によって,自由主義体制は虚構のものでしかなかった。平和裡の政権交代が不可能なために,反対派は権力を掌握する手段として軍事蜂起に訴えざるをえない。いうなれば,ヨーロッパ諸国で成功した自由主義革命は,スペインにおいては不徹底に終わってしまった。
68年9月19日,カディスにおいて進歩派の主導下に海軍が蜂起した。進歩派の後衛には沿岸都市,とくにカタルニャ地方のブルジョアジーが控え,意図されたのはピレネー山脈のかなたで展開されていたブルジョア革命であった。蜂起は大衆の支援を受けて成功し,イサベル2世はフランスへ亡命した。68年の蜂起とその成功は,ヨーロッパ化ならびに近代化へ向けて自由主義革命に続く第二の好機であるとともに,蜂起後の混乱した状況から生まれ出た体制は,20世紀スペインの幕あけにも通じていた。
自由主義体制下の社会と経済
18世紀末から19世紀後半までのスペイン社会を概観すると,顕著な趨勢としてまず,他のヨーロッパ諸国とほぼ同じリズムで人口増加をみたことがあげられる。1797年には約1000万だった総人口が,1877年には約1660万を記録している。人口増加の要因としては,カルロス3世時代に実施された衛生学上の改善や疫病対策の向上があげられ,それは乳児の死亡率の低下に端的に表れている。独立戦争やカルリスタ戦争,さらに地中海沿岸地帯に発生した黄熱病(1821)や,〈アジア病〉と当時呼ばれていたコレラのバレンシア,アンダルシア両地方への蔓延(まんえん)(1833-35,1853-56,1865)などで死亡率は高まったにもかかわらず,出生率がそれを上回っていた。人口増加とともに,中央部から周辺地方への人口移動が19世紀前半に顕著になった。例えば,1797年から1857年に至る間に,総人口に占めるカタルニャ地方の人口の割合は,8%から10.5%へと増加しているが,旧カスティリャ地方は9%から7.6%に減少している。また,1850年代ころから人口増加率そのものは低下しているが,その原因はアメリカ大陸,とくにアルゼンチンへの移民と,1830年代に始まるアルジェリアとフランスへの移民であった。
次に経済分野では,旧体制への後戻りを意味したフェルナンド7世の時代は,経済活動も停滞した。しかし1820年代後半には,旧体制の基盤を揺るがさない範囲で経済の自由主義化を推進する動きが現れていた。蔵相ロペス・バリェステロスFrancisco López Ballesteros(1770-1833)の方針がそれであり,それゆえ寡頭ブルジョアジーとの接近も可能となった。このほか,1829年に商法がつくられ,その2年後にはマドリードに証券取引所が設置されている。自由主義時代の到来は,イギリスに政治亡命していたブルジョアジーに帰国の道を開いた。また,1820年代の中南米諸国の独立は,資本の還流をもたらした。こうした新たな時代を迎え,工業の中心地バルセロナでは,主要産業である織物工業に蒸気機関が導入され,30年代を通じて近代的工業へ脱皮していった。ただし,綿織物・絹織物の生産高で,カタルニャ地方は当時のヨーロッパの中で第4位を占めていたが,絹織物ではフランスのリヨンに対抗できなかった。他方,鉱山資源に恵まれた北部地方では,1815年ころより製鉄業が興り,なかでもバスク地方では40年から60年の間に続々と溶鉱炉が建設された。北部の鉱山にはイギリス資本が入り,一変してスペインは鉱物資源の輸出国となった。また,48年にはバルセロナと郊外のマタロ間に鉄道が開通して以来,鉄道敷設事業にはフランス資本と北アメリカ資本が参加してきた。金融部門では,サン・カルロス銀行とフェルナンド銀行が合併して,56年に現在の中央銀行であるスペイン銀行が創立されている。
自由主義時代における社会・経済変動の結果,旧体制下で支配的な地位を占めていた貴族は特権階級としての条件を喪失しつつあった。例えば,1812年憲法や1837年憲法では,公的職業への門戸を社会的身分および門地の差別なく全国民に開き,保障している。ブルジョア階級は軍をはじめ,行政・司法部門の官僚機構を通じて社会的地位の向上を実現し,血統による身分の差が少なくとも制度上は減少していった。しかし,現実には貴族,とくに大公などの大貴族は国王の保護によって上院議員の地位と名誉を掌中にしていた。また,寡頭ブルジョアジーの間では名誉と権威に対する願望が強く,経済面の功績により貴族に列せられるものもいた。この新興貴族の中には,今日までスペイン金融界に君臨している人物がいる。ブルジョア階級の台頭とは逆に,自由主義時代の最大の犠牲者は教会であった。1803年から60年までに,聖職者は20万人から5万6000人へと激減した。18世紀後半の啓蒙君主と諸大臣によって,教育の分野と農村地域における教会の権力を抑制する種々の政策がすでに打ち出されていたが,本格的な抑圧は,ナポレオンが修道院の数を1/3まで削減したときに始まる。同様の措置を自由主義政府も継承し,36年のメンディサバルによる教会財産の売却に関する法律は教会の経済的基盤を奪った(〈デサモルティサシオンdesamortización〉と呼ばれるこの法律の評価については,現在でも統一的見解はない)。
自由主義政府は,憲法の条文において,私有財産の所有および職業選択の自由などの市民的自由と権利を宣言したが,国民の平等を保障したわけではなかった。一例をあげれば,特権階級やブルジョアジーに有利な農地改革により,多くの農民は土地から切り離された。そのために,大土地所有制が発達している南部のアンダルシア地方やエストレマドゥラ地方では,土地を持たない農民が著しく増加し,社会的矛盾が深刻になっていく。事実,飢えた農民は山賊行為と物乞いに生活の糧を求めざるをえない状況であった。19世紀を通じて南部スペインでは,激しい社会騒擾(そうじよう)事件が噴出した。他方,ギルド組織が廃止され,近代産業が発展しつつあったカタルニャ地方では,労働争議が頻発して,近代的な労働運動の萌芽が現れてきていた。
1860年代までのスペインは,政治的に自由主義,経済的に資本主義,社会的には階級社会の出現に特色づけられるが,他のヨーロッパ諸国に比べて後進性は否めなかった。憲法の制定と議会制の確立の点でも,フランスに数十年遅れていた。また社会・労働運動についても,1848年革命を経験したフランスと異なり,スペインでは68年から73年の革命期まで,ブルジョア階級と労働者階級の同盟関係は続いていたのである。
労働者階級の登場
イサベル2世を退位させた1868年9月の軍事蜂起は,自由主義時代の転換点となった。政治の舞台へ登場してきたのは,ドイツのクラウゼ哲学の影響を受けて,自由主義派内の急進的・革命的勢力を形成した知識人とその指導下にいた労働者階級であった。新たに勃興してきた社会層を前にして,軍事蜂起の中心人物であり,成功後臨時政府を樹立したプリムJuan Prim y Prats将軍(1814-70)やセラノFrancisco Serrano y Domínguez将軍(1810-85)は,いかなる統治形態を築くかに腐心した。とくに次期国王の選出は難航を極めた。結局プリム将軍の後ろ盾により,イタリア国王の次男であるアオスタ伯が指名され,アマデオ1世として即位することになった。有力な後援者プリム将軍の死によって,アマデオ1世は急進的な自由主義諸党派との対立をはじめとする難局を収拾できず,民主的な王政への道が挫折すると,議会は,73年2月11日に共和政を宣言した。
短命の第一共和国
1874年12月まで続く第一共和国は,最初に連邦制,後に中央集権制によって民主主義の定着を図るが,北部でのカルリスタ戦争の勃発(1872年12月)や南部での地方主義者の反乱(1873年5月)により,無秩序と混乱に終始してしまった。以上の推移から明らかなように,1868年革命の目標とされたブルジョア革命の遂行は,まさに砂上の楼閣であった。ヨーロッパ列強が海外市場の開拓と資源の獲得に奔走し,資本主義の飛躍的な発展期に突入していくこの時期に,不徹底な自由主義革命とブルジョア革命に時間を費やしたスペインは,〈遅れた国〉として列強の後塵を拝していく。
19世紀半ばまで,結社・集会の自由ならびに普通選挙制を求める実践行動を通じて,労働者階級は階級意識に目覚めてきたものの,全国的な組織の結成までにはいたっていなかった。その契機となったのは,68年以降の第一インターナショナルとの接触であった。カタルニャ地方を中心にアナーキズムの宣伝・組織活動が行われ,70年6月にバルセロナに第一インター・スペイン支部〈スペイン地方連合〉が創設された。しかし,71年12月,第一インターナショナル内のマルクス派とバクーニン派の対立が地方連合に飛火した。73年のコルドバ大会において地方連合はアナーキズムの道を採択し,敗北したマルクス派はマドリードを拠点にして活動し,82年,P.イグレシアスの主導下に,スペイン社会労働党(PSOE)を誕生させた。こうした労働運動の高まりに対して,ヨーロッパ諸国では社会主義運動を合法的枠内に組み入れたが,スペインでは労働者の政治参加を拒否する措置に出た。そのため,労働者階級による騒乱の要因はつねに存在し,以後,経済危機や政治不安の際には必ず表面化した。
公式のスペインと現実のスペイン
王政復古を意図した保守派の政治家が支援を受けて,まず1874年1月2日に,パビア将軍(1827-95)がマドリードで蜂起し,同年12月,サグントでマルティネス・カンポスArsenio Martínez Campos将軍(1831-1900)のクーデタが勃発したため,第一共和国は直ちに倒れ,その結果,アルフォンソ12世(在位1874-85)が新国王となり,王政が復活した。そして,74年以降の王政復古期の舵は保守派の領袖カノバス・デル・カスティリョの掌中に握られた。カノバスの政治理念は1876年憲法に具現されているように,イギリス型の二大政党制に基づく立憲君主制の確立であった。確かに,カノバスが率いる保守党と,最初は反カノバス・反王政であったサガスタPráxedes Mateo Sagasta(1827-1903)を指導者とし,新憲法の発布を求める諸党の集りである自由党の平和的な政権交代は,19世紀スペイン社会に一時の休戦をもたらした。経済面でも,王政復古期の最初の10年間は,ブルジョアジーへの優遇策を軸に順調な発展をみた。鉄道網の拡充をはじめ,〈リオ・ティント〉〈ソモロストロ〉などの鉱山会社の創設が相次ぎ,株式市場も活況に満ちていた。さらに,バスク地方ビスカヤ県はこの時期に創成期を脱して,一躍国内製鉄業の中心となり,同様にカタルニャ地方の織物業も黄金期を迎えた。
このようにカノバスの時代は表面上順調であったが,初期の段階から崩壊の危険性はひそんでいた。というのは,カノバス体制はブルジョアジーおよび教会,軍部に依拠し,〈上からの改革〉を意図していた。そのために,現実のスペインの動きに十分対処しえていたとはいい難かった。地方連合結成後,アナーキズムは都市労働者および農民の間に浸透していき,無視できない勢力になりつつあったが,政府は労働者・農民の声に私的所有財産への危機を感じ,プロレタリア革命の可能性を予見して,厳しい態度で臨むばかりで,労働者・農民の政治参加の道は閉ざされていた。90年にサガスタが首相の時,普通選挙制度を施行したが,農村地域ではカシケ(寡頭支配者)の投票操作などにより,有名無実の状況であった。
90年代になると,ヨーロッパ列強の資本の攻勢が激しくなり,政府は保護貿易主義によって国際競争力を欠いた国内産業の保護・育成を図った。しかし通貨の下落をはじめ,経済は一転して不況の道をたどり始めた。そのうえ小麦の不作がこの頃に相次ぎ,労働者・農民の生活の悲惨さが世論の注目を引くようになった。こうした状況を背景にして,労働運動は過激化し,テロ行為が19世紀末から日常化してきた。そして,97年,カノバス自身がアナーキストによって暗殺された。スペインにおいて,アナーキズムがテロリズムと同義語になっていくのは,まさにこの時代からである。以上の経緯から明らかなように,政府と労働者・農民の間には,統治する側の〈公式のスペイン〉と,統治される側の〈現実のスペイン〉の背離が存在している。この点を社会科学の立場から深く研究したのが,〈社会改革協会〉(1883設立)であった。代表的な人物はJ.コスタ,マリャダLucas Mallada(1841-1921)らである。彼らの研究活動により,スペイン社会に潜在していた,〈富めるスペイン〉と〈貧しいスペイン〉という二つのスペイン像が,はっきりと姿を現してきた。それゆえに,〈社会改革協会〉の活動は,知識人の眼を現実へ向けさせる推進役になると同時に,19世紀末以降の祖国再生運動の先駆となっていく。
労働運動と並びカノバス体制を覆す要因となったのは,地方主義運動である。固有の歴史体験を基に,独自の言語・文化ならびに法体系,慣習の復活を求める地方主義運動は,スペイン国家を認め,その枠内で地方としてのナショナルな側面を追求し,主体性を確立しようとするものであった。19世紀末にこの運動が最初に勃興したのは,前述したスペイン継承戦争に敗北した結果,マドリードの中央政府に屈したカタルニャ地方であり,後に各地方へと波及していく。また,運動を推進した社会層は,カノバス体制の一翼を担っていたブルジョアジーのほか,知識人,エリート集団であった。とりわけ地方主義の流れに関与しているのは,カタルニャ地方では,建築家A.ガウディ,画家ルシニョール,詩人ベルダケール,バレンシア地方では小説家ブラスコ・イバーニェス,彫刻家ベンジューレらである。また,カタルニャ地方出身の音楽家アルベニスやグラナドスらも,地方の特色を生かした民俗音楽を作曲していった。以上のようなテロ化していく労働運動と18世紀以来の中央集権体制を揺り動かす地方主義運動という,スペイン社会を縦横に引き裂く〈現実のスペイン〉の動きによって,〈公式のスペイン〉は徐々に土台から切り崩されていくのである。
1898年の米西戦争敗北の結果,スペインは黄金世紀の最後の遺産であるキューバ,プエルト・リコ,フィリピンの植民地を失い,国内では政治の刷新の必要性が一段と高まった。しかし,敗北の責任を求める世論,あるいは軍部,地方主義者を前にして,政府はなす術もなく沈黙してしまった。政府の姿勢とは対照的に,〈社会改革協会〉の問題提起をよりいっそう深めて刷新の道を模索したのが,一般に〈98年世代〉と総称される一群の思想家,小説家,芸術家である。
白銀時代
ところで,政治・経済・社会の混乱とはまったく逆に,〈98年世代〉を含む文化面でスペインは輝かしい成果をあげた。1875年ころから1936年までのスペイン文化は,〈白銀時代〉と呼ばれ,この時代はさらに,1902年を境に二つの時代に区分できる。その前半期の顕著な趨勢として,第1に,医学者のラモン・イ・カハル,文学とスペイン文化の研究者メネンデス・イ・ペラヨらに見られるような旺盛な学問への研究意欲があげられる。第2に,ヨーロッパ化の努力があげられ,前述した〈社会改革協会〉や左翼知識人の組織である〈自由教育学院〉(1876創立)の業績は見逃せない。第3に,絵画のみならず文学でも,自然主義によって支配階級に対する痛烈な社会批判が展開された。第4に,とくに建築分野で顕著であった,ヨーロッパとスペイン的なものとの折衷主義が出現した。マドリードの国立図書館やスペイン銀行の建築物がこの流れの具体例である。第5に,マドリードでは文化センターとして進歩的な〈アテネオ・デ・マドリード〉,バルセロナではオペラやバレエが演じられる〈リセオ劇場〉を中心にして,典型的なブルジョア文化が開花した。
二大政党制の崩壊
20世紀に入り,政治指導者は保守党がA.マウラ,自由党がカナレハスJosé Canalejas Méndez(1854-1912)にかわった。マウラは,カノバスと同様に〈上からの革命〉を目ざしたが,既存の保守層の支持のほかに,プチ・ブルジョアジーと農村部の小土地所有者も自らの陣営に引き入れようと努めた。その対象となった一例が,〈ソリダリダード・カタラナSolidaridad Catalana〉(1906結成)という党派に結束したカタルニャ地方主義者であり,マウラは中央集権体制を崩さない範囲で一定の行政裁量権を同地方へ付与し,相互の協力関係を成立させた。しかし,当時膠着(こうちやく)状態にあったモロッコ戦争の打開策として,既婚の予備役兵までも動員したため,労働者・農民の反発を受け,1909年7月には〈悲劇の1週間〉事件へと発展した。この事件の根底には,富裕階級の子弟が金銭により徴兵を逃れていたことへの一般大衆の不満が介在していた。さらに,事件の扇動者として逮捕したアナーキストのフランシスコ・フェレールFrancisco Ferrer Guardia(1849-1909)を処刑したことは,国際的な抗議行動を沸き上がらせた。国内外の反政府運動を前にして,結局マウラは政権の座を降りねばならなかった。他方,社会党員がマドリードをはじめ大都市の議員になっていたものの,まだ国会の議席を獲得していない20世紀初頭において,カナレハスは合法的な国会内革新勢力の扇のかなめの役割をしていた。それだけに,12年11月,カナレハスがマドリードにおいてテロ行為の犠牲になったのは,革新勢力の分裂はもとより,二大政党制を崩壊へ導く誘因ともなった。カナレハスの死とマウラが失脚した後の政局は,有力な指導者の不在から多数政党の乱立状態となり,保守党と自由党のほかに,左派ではアナーキスト,社会党,連邦共和国主義者,統一共和国主義者,右派ではカルリスタというように,二大政党制の枠外で勢力を得た諸政党,諸政治グループが分立していた。
1876年体制を崩壊へ導く直接的な事件は,1917年に起きた。当時スペイン社会は第1次世界大戦をめぐり,同盟国側を支援する大資本家と,協商側支持の中産階級との間に亀裂が生じていた。また,治安問題をはじめ諸問題に対する政府の姿勢と対応に軍部も不満を抱き,政治家の中にはバルセロナでの新議会創立の動きも出てきた。こうして国論が二分している間も,賃金の上昇を20%も上回る恒常的な物価上昇が労働者階級を直撃していた。そして8月13日,社会党がゼネストを宣言した。サボタージュや職場放棄はもとより,官憲との衝突も数日間繰り返され,死者は72名にも及んだ。最後は軍部の力によってゼネストは終止符を打つが,この時以後,労働者階級と軍部は敵対していくことになる。この17年の騒擾事件を境にして,カノバス体制は実質的に崩壊したといえる。というのも,17年以降,挙国一致内閣とはいうものの,23年までの6年間に,実に13回にわたる内閣改造と,30回に及ぶ閣僚の人事刷新が行われ,二大政党政治は完全に姿を消した。
勢力を増す左派
諸政党,諸政治グループが乱立する1910年代から30年代にかけては,ブルジョアか労働者か,王政か共和政か,中央集権か地方主義か,教会支持か反教会か,という四つの重要な選択肢が相互に関連しながら複雑に絡み合っていた。同様に,イデオロギー,思想の面でも混沌とした時代であった。おもなものを羅列すると,(1)マルクス主義とバクーニン主義の教条的な唯物論,(2)オルテガ・イ・ガセットの生の哲学とM.deウナムノの実存主義,(3)自由教育学院の教育世俗化の主張,(4)行政機構はもとより軍部の要職にまで浸透したフリーメーソン,(5)保守主義か,それとも社会・大衆の立場に立つかで分離したカトリシズム,(6)フェルナンド・デ・ロス・リオスFernando de los Ríos(1879-1949),J.ベステイロ,ルイス・ヒメネス・デ・アスア(1889-1970)らの大学教授が社会主義へと傾倒していった〈大学の社会主義化〉の現象,などがあげられる。また,〈アテネオ・デ・マドリード〉は反体制の拠点となった。
このような状況下で,いっそう勢力を増していったのは左派の運動であった。労働者・農民の間で最も支持を得ていたアナーキズム運動は,1910年に結成したアナーキスト系労働組合〈全国労働連合(CNT)〉が,多大な影響力をもつ組織に成長して,17年には加盟者が70万人にも及んだ。CNTはとくに,地中海沿岸一帯,アンダルシア地方東部,内陸部ではサラゴサ,ログロニョなどに勢力を拡大していったが,19世紀末から1920年代にかけて,テロ行為も辞さない過激な路線を歩んだために,アナーキズムは一般世論からは不評をかっていた。社会党は20世紀初頭にテロ行為を是認するか否かの瀬戸際にいたが,1910年に共和国主義者の支援を受けて,P.イグレシアスをマドリードから初めての国会議員に当選させ,議会主義の道を歩み始めた。富裕階級のクラブやアテネオに対抗して,社会党は〈人民の家〉を設立し,啓蒙・文化活動を展開した結果,20年には都市工場労働者を中心に党員が20万人に達した。社会党の党勢に比例して,社会党系労働組合〈労働者総同盟(UGT)〉(1888年結成当時の加盟者1万5000名)もバスク地方ビルバオ,アストゥリアス地方,レオン地方,ガリシア地方へと支持基盤を広げていった。さらに,CNTとUGTのほかに,カトリック系労働組合もサンタンデル,エブロ川流域,ブルゴス,ソリア,オレンセなどに勢力を伸ばしていた。
1917年のロシア革命の影響で,左派の運動は暴力化した。21年,首都で保守党のダト首相が殺され,次いで23年には教会に対する暴力行為がピークに達し,サラゴサ枢機卿が暗殺された。続発するテロ行為とストライキ,収拾がつかない議会,モロッコ戦争の失敗の責任をめぐる政府と軍部の対立など,まさにスペイン社会は混乱のきわみに達していた。
独裁政
1923年9月12日早朝から翌13日にかけて,当時カタルニャ方面軍総司令官であったプリモ・デ・リベラ将軍が,祖国救済をスローガンとしてクーデタを起こし,国王アルフォンソ13世に全閣僚の罷免と憲法の効力停止を求めた。国王は将軍の要求を受け入れ,首相は辞任し,閣僚らはピレネーの国境を越えてフランスへ亡命した。プリモ・デ・リベラ将軍は,あらゆる機能を掌中にした軍人指揮官として国家を統率することになったが,ブルジョア階級はこのクーデタを歓迎し,文民政治家は沈黙した。
クーデタ成功後,プリモ・デ・リベラは,当時泥沼に陥っていたモロッコ戦争の戦局を好転させ(1925年9月),27年には完全に平定した。内政面では,1925年12月に専門技術官僚(テクノクラート)を中心にした文民内閣をつくり,スペインの刷新に取り組んだ。プリモ・デ・リベラはムッソリーニのイタリアを理想として諸政党,諸政治グループの大同団結を意図した〈愛国同盟〉を結成(1924),あるいは社会党およびUGTと協力関係を結び,社会党の指導者の一人ラルゴ・カバリェロを国家顧問に任命した(1924年10月)。しかしプリモ・デ・リベラは,現実にはファシズムにくみしなかったし,できる状況でもなかった。旧体制派の政治家から進歩的な知識人にいたるまで,独裁政の可否とその存続をめぐって意見が分かれ,支持基盤は脆弱(ぜいじやく)であった。支持層の点ではむしろ,アナーキスト系労働者・農民を除く一般大衆に好意をもたれていた。社会・経済政策では,公共秩序の回復とともに,公共事業による完全雇用を基本とした経済振興政策が初めて導入された。しかし公共投資の増加は,あくまでも第1次世界大戦の軍需景気による見せかけの活況に依拠していた。1920年代後半になると,経済構造は弱さを露呈し始め,中小の銀行の破産が相次ぐようになった。それに追打ちをかけたのが世界大恐慌である。通貨の下落に対処するため再建策を掲げても,国内金融市場を掌握している諸外国の金融資本の前に思うにまかせず,暗礁に乗り上げた。経済危機が広がるなかで,徐々に議会制への回帰が叫ばれ,大銀行は野党の共和主義勢力や社会党への資金援助を開始していった。25年以降の反地方主義政策は,政府にとって有力な支持基盤となりえたカタルニャ・ブルジョアジーとの亀裂を生み出した。カタルニャ地方では,この事態を契機として,19世紀末以来同地方の地方主義運動を推進してきた保守・ブルジョア階層が勢力を弱め,プチ・ブルジョア階層を中心とする左派カタルニャ主義者に運動の主導権が握られていくことになる。労働・治安問題に関しては,プリモ・デ・リベラとの協力関係を築いた社会党とは異なり,CNTは非合法団体として地下活動を強いられた結果,過激なイデオロギー・グループFAI(イベリア・アナーキスト連合。1927結成)の指導下におかれ,つねに公共秩序を乱す主因となった。経済危機と諸政党の離反が相次ぐなかで,プリモ・デ・リベラは1929年,独裁政権の長期化をねらった諮問機関として〈国民会議〉を新たに設置し,新憲法草案をはじめ国家組織に関する諸法,教育計画案とやつぎばやに重要法案の作成を試みた。本来,暫定的なものとして出現した独裁政のこのような変容は,国民諸階層の支持を得られないばかりか,政治的思慮を欠いた行為とされ,30年1月末,国王から引退を迫られたプリモ・デ・リベラはパリへ去った。
独裁政崩壊後,再び1876年の立憲体制が復活したが,それから15ヵ月間は体制の変革をめぐり大きく揺れ動いた。まず30年8月,共和主義者,社会主義者,左派カタルニャ主義者は,共和政樹立へ向けて〈サン・セバスティアン協定〉を結び,協力関係を築いた。続いて,同年12月には,ウエスカ県ハカにおいて,同地の駐屯軍が共和政を求めて武装蜂起を起こした。そして蜂起の主謀者2名を処刑したことは,アルフォンソ13世への支持をますます失わせる要因となっていった。こうしたできごとと共和政への世論の高まりを前にして,政府は国民の総意を問わざるをえない状況に追い込まれた。そこで政府は総選挙に直接訴えるのではなく,有権者の動向を探る意味で,まず自治体選挙を実施した(1931年4月)。選挙結果は,王政支持派の自治体議員が全国で計2万2150名,反王政の議員は5775名にすぎなかった。ところが,マドリード,バルセロナをはじめとする大都市では,王政支持派が軒並み大敗した。とりわけ全国の県庁所在地では,計4議席しか獲得できなかった。ここにも,〈都市のスペイン〉と〈農村のスペイン〉が鮮やかな対照を示している。アルフォンソ13世は王政を存続させる自信を失ってフランスへ亡命し,ここに1876年体制は完全に幕を閉じた。
第二共和国の誕生
1931年4月14日,国民の共存の枠組みづくりに向けて第二共和国が誕生した。立憲議会開設までの臨時政府の首班には,ブルジョア層を代表するアルカラ・サモラが就任した。そして6月28日,立憲議会選挙が行われ,共和政支持派の勝利に終わったが,その一因として,王政支持の右派勢力が選挙体制を一本化できずに分裂していたことがあげられる。選挙後,共和国政府は新憲法の起草に取りかかるが,諸党派に分立していた共和主義者や社会党員からなる政府は,イデオロギー的に多様化しすぎていた。12月9日に発布した第二共和国憲法はその点を反映し,例えば私有財産制や社会的平等に関する諸原則の明示に具体性が欠ける結果となった。新憲法に関して注目すべきは,地方の自治権が1716年の国家基本令以来初めて明文化されたことである。つまり,18世紀以降の〈画一的なスペイン〉を排して,第二共和国は〈多様なスペイン〉を選択した。
新憲法制定後,初代大統領にアルカラ・サモラ,首相にはM.アサーニャが就任し,一般に〈ジャコバンの2年間(革新の2年間)〉(-1933年11月)といわれる時代が始まった。アサーニャ内閣の基本政策は,第1に,大土地所有者ならびに教会,軍部の影響力の排除にあった。一例をあげれば,2年間にわたる議会審議時間の約6割を費やしたといわれる農業問題への対処である。当時,総人口の50%以上を農民が占め,また第1次産業部門では,臨時雇用労働者の占める割合が45%に達していた。農業生産の効率化はもとより,こうした土地をもたない農民の増加に直面して,政府は旧体制の時代から続いている大土地所有制の抜本的改革を掲げ,その基本理念を平等な土地分配においた。したがって,大土地所有者や土地貴族らの反発をかうのは必至であった。ところが,農地改革の目的をめぐって,政府内部でも小土地所有農民の輩出を意図する共和主義者と,集産的運営を主張する社会主義者の間で対立が生まれ,後の統一行動に禍根を残すことになる。さらに,アサーニャの反教会政策は修道院の焼打ちや司祭への迫害に油を注ぎ,同様に反軍的言動は国家統一のかなめと自認する軍部を刺激せずにはおかなかった。
第2に,地方自治に関する憲法の条項に従い,32年9月15日カタルニャ地方は自治権を獲得した(バスク地方は内乱の最中,1936年10月4日に自治権を得る)。しかし自治権の承認は,画一的な中央集権化政策を唱えるスペイン人にとって,国家の統一を失わせる以外の何ものでもない。左右両派のイデオロギーの対立とともに,国家の統一方法をめぐる確執は,国論を二極化させていく要因であった。第3に,アサーニャは公共秩序の安定に力を注ぐが,現実には功を奏さず,憂慮すべき状態に陥った。とくに,労働大臣の職にあったラルゴ・カバリェロと敵対していたCNTは,ストライキ戦術と街頭でのテロ活動に激しさを加えていった。さらに南部の社会党系の農民組合が議会主義路線に飽き足らず過激化し,CNTに近い路線を採用する事態も生じてきた。このような状況のなかで32年8月10日,またも軍事クーデタが企てられ,これは未遂に終わったが,政治改革への対応に関してスペインは依然19世紀にとどまっていたといえる。
33年11月の総選挙では,左派勢力が足並みの乱れを示したのに対して,右派勢力は諸政党,諸政治グループがスペイン自治右派連合(CEDA)を結成して勝利した。選挙後,CEDAの支援の下に,急進党を中心に成立した中道右派連立内閣は,前政権が推進した改革案を否定し,反革命ともいえる路線を打ち出した。それを契機に,アナーキストはもちろんのこと,社会党内においても過激派が台頭して,力と力による対決の様相が深まっていった。他方,右派の中にも,暴力には暴力でこたえることを辞さないファランヘ党が誕生した。ファランヘ党は当初少数政党にすぎなかったが,34年2月に他のファシスト的グループ国民サンディカリスト行動隊(ホンスJONS)と合併して以来,右派陣営の一角に重要な位置を占めるようになった。こうした暴力の風潮が蔓延するなかで,同年10月,北部アストゥリアス地方の鉱山地帯とバルセロナで革命を意図した労働者による大騒擾事件が勃発した。どちらも担い手は社会主義者とアナーキストであったが,バルセロナの場合,カタルニャ地方の独立を求める左派分離主義者も戦列に加わった。結果は,バルセロナでは簡単に鎮圧されたが,アストゥリアス地方では約2週間にわたり戦闘が繰り広げられた。そのため政府は,屈強な精鋭部隊を派遣して鎮圧したが,その部隊は後のスペイン内乱においてその実力をいかんなく発揮する北アフリカ駐屯軍であった。
しかし,左右両派の対決は,これで決着がついたわけではない。36年2月16日の総選挙が第2幕の幕あけであった。この時,左派陣営は統一行動をとれずに敗北した前回の総選挙を反省して,36年1月15日に選挙協力を内容とした人民戦線を結成し,政権の奪還を期した。選挙戦の結果,人民戦線派が勝利したものの,開会した議会は野次と怒号の応酬の場となり,正常な機能は停止していた。選挙後の数ヵ月は,〈悲劇の春〉とも呼ばれるが,公開された議会議事録のヒル・ロブレスの演説によれば,2月16日から6月15日にかけて,死者269,重軽傷者1287,襲撃・放火された教会251,完全に破壊された教会160,住宅,政党関係の建物への襲撃・破壊381,ストライキ228,ゼネスト113などが起こった。こうした状況下で,7月17日,スペイン領モロッコにおいてスペイン内乱の火の手があがったのである。
→スペイン内乱
20世紀の文化
20世紀初頭からスペイン内乱へといたるこのような歴史の歩みは,前述した〈白銀時代〉の後半(1902-36)の趨勢にも強く反映している。まず,〈白銀時代〉の前後半をつなぐ役割を果たし,後のスペイン文化に多大な影響を及ぼした〈98年世代〉を概括すると,代表的な人物として,哲学者,小説家のM.deウナムノ,著述家R.deマエストゥ,小説家P.バローハ,音楽家グラナドス,作家バリェ・インクラン,散文家アソリンとミロGabriel Miró(1879-1930),詩人M.マチャードとA.マチャード兄弟,ならびにJ.R.ヒメネスらがあげられる。〈98年世代〉に共通しているのは,スペインの黄金時代の終末を深刻に受けとめ,スペインの本質を究めたうえで,そこから刷新の道を選ぶか,それともヨーロッパ化に活路を求めるかの二つの途を熟慮したことであるといえる。ところが,〈98年世代〉はあまりにも個人主義的・懐疑的態度に終始してしまった。それゆえに,第二共和国を積極的に支援したA.マチャードは例外として,〈98年世代〉はスペインを支配し続けてきた〈少数の為政者〉を攻撃しても,社会問題を前面に押し出し,その解決の方途を提示するにはいたらなかった。またスペインの大地あるいは風景に愛着を寄せ,その本質に迫ろうとして彼らが描いたのは,スペインの一部,すなわちカスティリャにすぎなかった。したがって,貧しさと困窮に身を置いた〈現実のスペイン〉や各地方の主体性が脈打っている〈多様なスペイン〉を,彼らが十分に把握していたとはいい難い。
20世紀に入ると,新たな知識人,芸術家の一群が登場してきた。哲学者オルテガ・イ・ガセットをはじめ,著述家E.オルス,政治家であり著述家でもあったS.deマダリアガ,画家P.ピカソ,音楽家M.deファリャおよびトゥリーナらを代表とするそれら知識人,芸術家は,ほぼ1880年から90年にかけて生まれた世代であり,一般に〈1900年世代〉と呼ばれる。彼らは明確にヨーロッパへの門戸開放を掲げた。そして続々とピレネー山脈を越えて,ヨーロッパの自由主義的な知性を獲得していった。彼らは商業芸術の中心となり,あらゆる主義・主張のるつぼと化したパリへ,創作に不可欠の自由な雰囲気を求めて赴いた。ピカソもその例外ではない。スペインの芸術家のパリへの移住は,独裁政成立以後恒常的になるが,これはとくに絵画の分野において,主要な潮流がイベリア半島からヨーロッパへと逆流したことを意味していた。なぜなら,19世紀以来,ヨーロッパの著名な画家はほとんどスペインで研鑽を積んでいたからである。〈1900年世代〉の巨匠オルテガはスペインの政治組織,近代国家の形成,大学の使命などにわたって独創的な見解を展開し,その内容はスペインの若者にとって新たな道を開くための価値基準になっていった。概して〈1900年世代〉は,ヨーロッパの思想家あるいは芸術家としての地位を獲得したが,決してスペイン人であることをやめたわけではなかった。むしろスペイン文化のヨーロッパにおける評価を高め,後の世代へと引き継いでいったといえる。
独裁政下の1927年,スペイン・バロック時代の詩人ゴンゴラの死後300年祭を契機として,1890年代から1905年にかけて生まれた若者のグループが,〈1927年世代〉を形成した。詩人,劇作家として活躍したヘラルド・ディエゴ,D.アロンソ,ガルシア・ロルカ,R.アルベルティのほかに,画家のJ.ミロ,S.ダリ,映画監督L.ブニュエル,小説家R.J.センデル,評論のホセ・ベルガミン,ヒメネス・カバリェロ,R.レデスマ・ラモスらがこの世代に該当する。この〈1927年世代〉は文化や芸術の範疇(はんちゆう)を越えて,政治の世界へと踏み込んでいった。例えば内乱直前の前衛芸術はダダをもとに,革命的・社会的意味あいを色濃く映し出し,暴力の香油に満たされ道標を失った1930年代のスペイン社会を反映していた。というのも,〈1927年世代〉は,右翼か左翼かの選択を必然的に迫られ,最終的に彼らは,スペイン内乱の戦場で相まみえることになる。
フランコ体制
スペイン内乱は,1939年4月1日に終結した。戦いの勝利者F.フランコはその後,敗北者側の同胞を排除することにより,新たな国家体制の建設に取りかかった。とはいえ,フランコ体制の礎はすでに内乱中にできあがり,制度化していたといえる。それには,二つの段階があった。第1は,反乱の主謀者の一人であるモラEmilio Mola Vidal将軍(1887-1937)が,内乱勃発直後の1936年7月23日に設立した国家防衛評議会である。右派諸政党が同評議会を無条件に支持したことは,政治的にも反乱軍が主導権を掌握していく契機となった。第2は,同年10月1日,同評議会の陸海空三軍総司令官と新たに設置された国家首長の座にフランコが就任し,軍事面はもとより政治面でも権力を掌中にした時である。そして37年4月には,支援する政党,政治グループをすべて〈国民運動〉(〈スペイン伝統主義ファランヘ党と国民サンディカリスト行動隊FET y de las JONS〉)と呼ばれる統一党に吸収して,フランコは党首の座に就いた。
フランコ体制の枠組みは,憲政上の柱となった〈国家首長継承法〉(1947年7月6日の国民投票によって可決)の四つの基本原則に集約できる。第1は,統治形態として王国であること,第2に,宗教教義はカトリック教,第3に,社会正義に依拠する国家,第4は,家族,市町村,組合等の自然な人的・社会的きずなで結ばれた諸団体を母体として組織化された国家,である。この中で,第1の原則に関しては,王政復古を意味して,フランコ政府は単なる過渡期の政権にすぎないのか,それともフランコ体制の正統性から生まれ出る新王政の樹立であるのか,非常にあいまいであった。国民運動内部においてもその点は議論が分かれるところであり,〈国民運動基本原則法〉(1958布告)でも結論は避けている。この問題に結着をつけたのは,フランコ政権も末期に近い67年の〈国家組織法〉であり,結局新王政として定義された。〈国家首長継承法〉はこのほか,第10条において,それまでに布告した〈労働憲章〉(1938年3月),〈議会設立法〉(1942年7月),〈スペイン国民憲章〉(1945年7月),〈国民投票法〉(1945年10月)の諸法律を列挙し,フランコ体制の具体的な骨格を明示している。とりわけ,〈議会設立法〉は議会を国民の参加に基づく最高の立法機関と定義しているが,もちろん〈国民の参加〉の内容は民主主義体制下のそれとは異なっている。議会は一院制で,政府機関や国民運動の主要な組織の代表者計447名の議員からなり,役割は法律の立案と起草に限定されていた。
フランコ体制は約40年の長きにわたった。おおまかに区切れば以下の4期に分けられるであろう。
孤立化と国内統合
1939年,文化行政の主要な機関として高等科学研究所を設立し,国民の教化と教育分野の統轄を図るとともに,40年には農耕地拡大のため植民を奨励した〈農業改革法〉を布告したが,この法律は軍事クーデタを支持した国民および諸団体への報奨の意味が強かった。また同年,スペインの分裂はフリーメーソンの策謀が原因であるとするフランコの考えに基づいて〈反フリーメーソン法〉が布告された。外交分野では,フランスとの国境の町アンダイで,フランコとヒトラーの会談が行われ,第1に第2次世界大戦におけるスペインの中立政策,第2に枢軸国と友好関係を保ちつつも,戦争協力はしないことが取り決められた(しかし,最近,第2の点には疑念が出ている)。ところが41年,フランコはロシア戦線へ〈青い旅団〉(計約5万人。フランコ体制の一翼を担ったファランヘ党の青色の制服を兵士が着用したため,こう呼ばれたといわれる)を派遣した。このため第2次世界大戦後ソ連はスペインが国際連合の原加盟国になることを承認せず,その国連も46年にはスペイン排斥決議案を可決した。一方,国内では1942年,議会(コルテス)を開会し,フランコの政府が民主的な議会制に基づく政府であるとの印象を連合国側に与えるように努め,ファシスト流の儀礼作法を禁止した(1944)。44年には国外に亡命した共産党の主導のもとにゲリラが侵入したが,すべて失敗に帰した。47年には〈国家首長継承法〉が布告され,アルフォンソ13世から王位を譲渡された三男のバルセロナ伯爵(ドン・フアン)は,継承法に反対の声明を発表した。
国際社会への復帰
米ソの冷戦が始まり,1950年,国連総会でスペイン排斥決議が解除され,国際社会復帰への第一歩を印した。国連食糧農業機関(FAO)(1950),ユネスコ(1952),国連(1955)に加盟。53年にはアメリカ合衆国への軍事基地提供と引換えに経済援助をうけるスペイン・アメリカ相互防衛・経済援助協定(マドリード条約)に調印し,バチカンとの間でコンコルダートに調印した。56年にモロッコの独立を承認すると,翌57年,スペイン領イフニへ,モロッコからゲリラが侵入し,独立運動が激しくなった。
経済成長と体制の矛盾
1959年,経済安定計画が発表され,60年代に入ると徐々に経済が復興するが社会格差も増大し,フランコ体制は矛盾を露呈し始め,労働運動が盛上りを示し始めた。62年にはアストゥリアス地方の労働者がゼネストを決行して,非常事態宣言が出された。また,ミュンヘンで開かれたヨーロッパ統一運動の大会に参加した国内外の反フランコのスペイン人(キリスト教民主主義者,自由主義者,社会党員)は,民主的なスペインを建設する目的で〈ミュンヘン協定〉を結んだが,指導者らは帰国後逮捕された。また,共産党員フリアン・グリマウを内乱中の犯罪行為により逮捕し,処刑した事件(1963)は,諸外国で反響を呼び,反フランコ・デモを引き起こした。国内では,労働運動とともに民主化を求める学生運動が激しさを加え,68年には警官隊との衝突を繰り返すという最大の高まりを見せた。この年バスク独立運動過激派ETA(〈祖国バスクと自由〉)による最初の暗殺テロが起きた。69年,スペイン領イフニをモロッコへ返還。労働運動・学生運動とともに,ETAのテロ活動が公然化し,全国に非常事態宣言が発令された。フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)がフランコの後継者に指名され,国会で宣誓。70年にはブルゴスにある軍事裁判所でETAのテロリストに死刑の判決が下ったが,内外の恩赦を求める声の高まりによって禁固30年に減刑された。
1963年の第1次発展計画,68年の第2次発展計画によって〈奇跡的〉な発展を達成した60年代のスペイン経済は,閣僚やテクノクラート官僚に多大な影響力をもったオプス・デイ勢力が指導したという。GNPの伸び率では,1959/60年度および1970/71年度に日本,ギリシアに次ぐ7.2%を示し,総額では1971年にOECD諸国内の第9位にランクされた。また経済発展による社会の変貌を産業別労働人口比でみると,1960年には第1次産業42%,第2次産業29%,第3次産業29%であったのに対して,70年にはそれぞれ25%,37%,38%と変化し,ほぼ先進国なみの構成比になった。さらに,この時代の顕著な動向として,国外労働移民の存在があげられる。そのピークは1964年から65年にかけてであり,両年ともヨーロッパだけで10万人以上の数にのぼった。半永久的な国外労働移民数としては,1961年の10万8209名,62年の10万1348名という記録が残っている。これらの国外労働移民は,脆弱な国内経済・社会構造による潜在的な国内失業者の数を減少させたという意味で,経済発展に寄与したといえるかもしれない。なぜなら,75年ころまで続く国外労働移民は,石油危機によるEC諸国の不況により,大多数が帰国せざるをえず,必然的に国内失業者の増加という問題を生じさせたからである。
フランコ体制の動揺
1973年,石油危機により貿易収支の赤字が増大し,一転してスペインは経済危機に陥った。同年,カレロ・ブランコ首相がETAのテロによって暗殺され,衝撃を受けたフランコ体制は翌74年政治結社の自由,地方自治体の改革などを骨子とした民主化案を発表するが,反対意見が強く暗礁に乗り上げた。75年,マドリードでテロリストに対する軍事即決裁判が開かれ,5人が処刑された。同年11月20日,フランコが死去し,同22日,フアン・カルロス王子が新国王フアン・カルロス1世として即位した。
今日のスペイン
政治
1982年10月に行われた総選挙で,社会労働党(正称はスペイン社会主義労働党。社会党とも略称する)が第1党となり,同党書記長マルケスFelipe González Márquez(1942- )を首班とする新政権が誕生した。フランコの死から数えて7年後のこの大きな変化は,NATO加盟の諸国のみならず,世界の国々に強い衝撃を与えた。
この総選挙にいたる国内の改革の足どりは,ゆるやかなものであった。まず1976年12月15日には,〈政治改革法〉が国民投票にかけられ,圧倒的な支持を得た。その後の民主化路線は,この法律を基礎に,フランコ体制下の国家の枠組みを改革していくことになる。〈政治改革法〉では,まず議会がこれまでの法案の起草にとどまらず,採択する権能も付与され,同時に一院制から二院制(上院350議席,下院207議席)へ移行した。また,議員の選出も国民運動を支える諸組織,諸団体から,県単位の直接選挙に改められた(ただし,上院の1/5は国王の任命による)。いうなれば,国民運動に基づく組織化された代議制が,民主的な内容へと変化した。ただし,ここで注意しなければならないのは,〈政治改革法〉がけっしてフランコ体制を否定してはいない点である。事実,この法律の起草から布告まで,すべてフランコ体制下の諸法律の手順に従っている。つまり,古い法体系を生かしつつ,新たな法律の目的を国民の参加により達成しようとしたのである。そこに,フランコ体制から民主体制へと平和裡に移行できた理由の一つが見いだせる。確かにフランコ以後のフランコ主義者は,民主化をめぐり再び国民が分裂することを避けて,政治の近代化に努めた。とはいえ,約40年間にわたるフランコ体制の正統性を認めたうえでなくては,〈政治改革法〉はもとより民主主義の命題,すなわち多数意見に基づく国民の意思の尊重を,フランコ主義者が容易に受け入れるのは不可能であったろう。とにかく,スペインは国家体制の変容による国民の分裂という危機を克服した。これはフアン・カルロス1世とフランコの死後に成立した二つの政権がなしえた大事業である。とりわけ,76年7月に首相の座についたアドルフォ・スアレスAdolfo Suárez Gonzárez(1932- )は,議会と国民投票によってフランコ体制下の基本諸法を修正・廃棄し,民主化への道を開いた。
77年には共産党が合法化され,41年ぶりに行われた総選挙で民主中道連合が第1位を占めた。第2位は社会労働党で,親フランコ主義派は共産党にも及ばず完敗した。スアレスの民主中道連合政権の下で,共産党委員も加えて新憲法の草案づくりが始まる。翌78年に新憲法が制定され,スペインは〈自治共同体comunided autónoma〉国家となった。79年には,その新憲法によって,カタルニャ,バスク両地方で住民投票が実施され,それぞれの自治権が承認された。このようにして,現在,国内には17の自治共同体が存在する。ここで注意しなければならないのは,これら一連の民主化の過程で,その原動力となったのは首相スアレスではなくて,憲法ではあまり権力を認められていない国王フアン・カルロス1世であったという点であろう。
ともあれ,1977年の総選挙は,フランコの独裁体制との訣別(けつべつ)を決定づけたものとして,大きな意義をもつものであった。しかし82年10月の総選挙は,それ以上の重要な意味をもつものとなった。すなわち,前回第2位にとどまった社会労働党が議席数の過半数を26も上回る201議席を獲得。右派の民衆同盟は106議席,そしてカルタニャ同盟12,バスク国民党8,共産党5議席,前与党の民主中道連合は12議席にとどまった。この結果に基づいて,12月に社会労働党政権が誕生したが,これは1936年2月成立の人民戦線政府成立以来,約半世紀ぶりの〈事件〉であった。
社会労働党の勝利は,一面では民主中道連合の内紛に助けられたものではあったが,より大きな変化を求める国民の願いを反映するものであった。新政権は翌年2月,従業員数6万を超える,スペイン最大のルマサ財閥系企業を国有化し,5月に行われた統一地方選挙でも社会労働党は43.3%の投票を得,躍進を示した。
国内で多発するバスク・ナショナリストらのテロ行為に関しては,83年11月,テロ活動防止法案が可決された。ただ,官僚出身者の少ない社会労働党政権の将来を危惧する声も聞かれ,84年初めから着手した教育改革と司教行政の再編には,強い反対の声があがっている。
外交
1960年代からEC加盟問題が一つの焦点であった。EC諸国はフランコ体制下では政治的理由でスペインの加盟を拒んできた。フランコ以後には農産物や漁業の面でのフランス,イタリアとの経済摩擦が理由とされてきたが,その障害も取り除かれ,86年1月にはポルトガルとともに加盟が実現する見込みである。
もう一つの焦点はNATO加盟問題である。1982年5月,民主中道連合政府はNATOへの加盟を決定した。しかし,この決定は社会労働党,共産党をはじめ,当時の世論の多くの反対を無視したものであり,批准はまだ行われていない。同年秋に誕生した社会労働党政権は,総選挙の公約に基づき,85年に実施される国民投票で残留か脱退かの態度を決定する予定である。
経済
スペインは鉱物資源には恵まれている。ミナス・デ・リオティントの銅,ビスカイア県の鉄,アルマデンの水銀などは古くから知れている。しかし全体的にみて,開発は遅れており,設備の近代化も十分に進んでいない。そのうえ,近年の工業化の急速な進展に伴って,かつて鉱産物の輸出国として知られたこの国は,いまや大量の輸入国となっている。
農業は小麦とオレンジが中心であり,ブドウ酒はフランス,イタリアに次ぐ世界第3位の生産国である。しかし,国土全体が山がちで耕地が少ないうえ,零細な農地が多く(1960年代以降,統合がかなり進められたが),降水量も年,季節により変動が激しいため,農業の生産性は他の西ヨーロッパの国々と比べて低い。
スペインは長い間,農業国と呼ばれてきた。そのスペインが1960年代以降〈奇跡〉といわれる経済発展を遂げ,同国の経済構造は工業生産が農業生産を上回る西ヨーロッパなみのものとなった。現在の工業地帯は,北部(鉄鋼,造船,化学),バスク地方(織維,化学,製紙)とカタルニャ地方(繊維,化学,機械)に展開している。しかし,世界的な石油危機と不況のあおりで,スペイン経済も通貨不安,インフレ,失業などの深刻な問題に直面することになった。ペセタは前年比で57%も下落した。失業者も社会労働党政権になってから増加し,84年には全労働人口の20.3%に達することが予想されている。
貿易面では,1959年の自由化以降は,工業化や生活水準の向上に必要な機械類,原材料類や食料品の輸入が急増し,輸入総額が輸出総額を上回る状況がつづいている。そのため国家財政の赤字は前政権下の80年から82年にかけて3倍に増え,83年にはGNPの5.9%に当たる1兆3400億ペセタに上るものとなった。また,スペインの課税率はOECD諸国のなかでスウェーデンに次いで高く,これも国民生活の重圧となっている。
このようななかで,労働組合と経営者団体との間で労資間の諸問題について4年間の協定が結ばて,社会の安定と経済発展の面での効果が期待されている。
執筆者:フアン・ソペーニャ
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報