(読み)カイ(その他表記)sea

翻訳|sea

デジタル大辞泉 「海」の意味・読み・例文・類語

かい【海】[漢字項目]

[音]カイ(呉)(漢) [訓]うみ
学習漢字]2年
〈カイ〉
うみ。「海外海岸海水海浜外海近海公海航海山海四海深海大海内海領海臨海
豊かに集まっているもの。「雲海官海苦海樹海人海
度量が広く大きいさま。「海容天空海闊
〈うみ〉「海辺海山青海荒海内海大海外海
[名のり]あま・うな・み
[難読]海豹あざらし海驢あしか熱海あたみ海人あま海女あま海参いりこ海豚いるか海上うなかみ海境うなさか海胆うに海老えび淡海おうみ海髪おごのり海月くらげ海鼠腸このわた海象セイウチ海馬セイウチ海鼠なまこ海苔のり海星ひとで海盤車ひとで海鞘ほや海人草まくり海仁草まくり海松みる海蘊もずく海神わたつみ

うみ【海】

地球上の陸地でない部分で、全体が一続きになって塩水をたたえている所。地球表面積の4分の3を占め、約3億6000万平方キロメートル。海洋。「川がに注ぐ」「に浮かぶ船」⇔りく
陸地の中で、広くくぼんで水をたたえている場所。大きな湖沼。みずうみ。「余呉の
ある事物が大量に集まっている所。一面に広がっていること。「血の」「あたり一面火のとなる」
すずりの、水をためておく所。⇔おか
[補説]作品名別項。→
[類語]海洋大洋大海海原領海公海大海原青海原内海うちうみ内海ないかい外海そとうみ外海がいかいわたつみ外洋沿海沿岸近海遠海遠洋絶海四海七つの海

うみ【海】[書名・曲名]

文芸雑誌。昭和44年(1969)中央公論社から創刊、昭和59年(1984)終刊。海外作品を多く紹介したほか、村上春樹の評論や唐十郎の戯曲など、さまざまなジャンルの作品を掲載。
近藤啓太郎の長編小説。昭和42年(1967)刊。のち、昭和52年(1977)に第3部を加筆した完成版が刊行された。鴨川の漁師たちの姿を描く。
愛媛県出身の歌人、石榑千亦いしくれちまたの第3歌集。昭和9年(1934)刊。
《原題、〈フランス〉La merドビュッシーの管弦楽曲。1903年から1905年にかけて作曲。「三つの交響的スケッチ」という副題をもつ。印象主義音楽を代表する作品の一つとして知られる。

み【海】

うみ」の音変化。
淡海あふみの―瀬田の渡りにかづく鳥」〈神功紀・歌謡〉

わた【海】

《後世は「わだ」とも》うみ。
荘船かざりぶねふな、―の浦に迎ふ」〈岩崎本推古紀〉

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精選版 日本国語大辞典 「海」の意味・読み・例文・類語

うみ【海】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 広く水をたたえているところ。古くは海洋の他、大きな湖や沼をも指した。
    1. (イ) 地球上、陸地以外の部分で塩水をたたえている所。地球表面積の四分の三弱を占め、三億六千万平方キロメートルに及ぶ。しおうみ。
      1. [初出の実例]「神風(かむかぜ)の 伊勢の宇美(ウミ)の」(出典:古事記(712)中・歌謡)
    2. (ロ) 大きな沼や湖。特に琵琶湖をさすことが多い。
      1. [初出の実例]「鳰(にほ)鳥の 淡海(あふみ)の宇美(ウミ)に 潜(かづ)きせなわ」(出典:古事記(712)中・歌謡)
  3. ( 比喩として、多く「…の海」の形で用いて ) 多くの事物が集まっているところ。液体が多いことや、ある状態が一面に広く、また深くゆきわたっているさまなどを表わす。
    1. [初出の実例]「誰により涙のうみに身を沈めしほるるあまとなりぬとか知る」(出典:浜松中納言物語(11C中)一)
  4. (すずり)の水を入れる部分。⇔陸(おか)
    1. [初出の実例]「海の有故か千鳥のすずり箱〈長吉〉」(出典:俳諧・犬子集(1633)六)
  5. 鞍の一部分の名。鞍の前後輪の山形に沿って、表面を低くそらせている部分。鰐口(わにぐち)の上を高くした磯に対する呼称。
    1. [初出の実例]「鞍の名所、前後の山形、〈略〉前後海」(出典:風呂記(16C後‐17C前か))
  6. 月や火星など他の天体の、比較的平坦な地形の呼び名として使われる。「静かの海」

うな【海】

  1. 〘 造語要素 〙 「うみ(海)の」の意を表わす。「うなかみ」「うなさか」「うなはら」など。
    1. [初出の実例]「水門(みなと)の 潮(うしほ)の下(くだ)り 于那(ウナ)くだり 後(うしろ)も暗(くれ)に 置きてか行かむ」(出典:日本書紀(720)斉明四年一〇月・歌謡)

わた【海】

  1. 〘 名詞 〙 ( 後世「わだ」とも ) うみ。→わたつみ
    1. [初出の実例]「夫れ海(ワタ)の表の諸蕃、胎中天皇(ほむたのみかと)の内つ官家(みやけ)を置(たまふ)し自り」(出典:日本書紀(720)継体二三年四月(前田本訓))

あま【海】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 うみ。
  2. [ 2 ] 〘 造語要素 〙 名詞などの上に付けて「海(うみ)」の意をそえる。「あまへた(海浜)」「あまはた(海浜)」など。
    1. [初出の実例]「海にあまのよみある故はあはむらの反。海上のしほあひは淡のむらたつ也」(出典:名語記(1275)六)

かい【海】

  1. 〘 名詞 〙 うみ。なだ。
    1. [初出の実例]「道不行乗桴浮於海(カイ)〔公冶長篇〕」(出典:文明本節用集(室町中))
    2. [その他の文献]〔論語‐公冶長〕

み【海】

  1. 〘 名詞 〙 うみ。「近江海(おうみのみ)」にみられる語形。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「海」の意味・わかりやすい解説


うみ
sea
ocean

塩(塩類)を含む水の非常に大きな広がりをいう。この水を海水という。塩を構成する元素間の比は海のどこでもほぼ一定である。大きな塩(水)湖のなかには海とよばれるものもある。カスピ海、アラル海、死海である。しかし、塩湖の水に溶けている元素の量の比は海水とはまったく違う。「海洋」は「海」と同義語であるが、どちらかといえば「海洋」はやや改まったことばである。海は単に大きな水たまりというだけでなく、その下の地殻(海洋地殻)の構造が大陸下の地殻(大陸地殻)とはまったく違う。海をもっとも大きく分ければ太平洋、大西洋、インド洋となる。これらの海を大洋といい、それぞれその周りには付属海がある。太平洋の付属海は日本海(韓国では東海)、東シナ海(中国では東海)、黄海などである。大きな海は大洋であるが、一般に海といえば意味は広く、大洋も付属海も含むことが多い。大洋は狭い意味では付属海を含まない。

 「うみ」は「大水(おおみ)」に由来するといわれ、大槻文彦(おおつきふみひこ)の『大言海』にも「大水(オホミ)ノ約転語、湖、海、スベテ大イニ水ヲ湛(たた)フル処(ところ)」とみえており、幸田露伴(ろはん)も『音幻論』で「オホミ(大水)の約転か」と述べている。漢字の「海」は「さんずい(水)」と音を表す「毎(晦(くら)いこと)」をあわせて、人がその果てを知らない広々とした水のあるところを示す。

 海と大洋の英語はsea、ocean(フランス語はmer、océan、ドイツ語はSee、Ozean)である。seaの語源は、古高地ドイツ語のGisig、Gisic(池や沼沢地の意)らしい。merはラテン語のmare(海)に由来する。oceanの語源は、ギリシア語のôkeanos、ラテン語のoceanusである。日本語の海と大洋は英語のseaとoceanに対応するが例外もあって、北極海、南極海の語尾は「海」であるが、英語ではArctic Ocean、Antarctic Oceanで、oceanである。フランス語、ドイツ語でもこれらの海に対してocéan、Ozeanを使う。

[半澤正男・高野健三]

海の名称と区分

世界の海を総称する呼び方に次のようなものがある。

(1)三大洋 太平洋、大西洋およびインド洋。

(2)四大洋 三大洋に北極海を加えたもの。おもに欧米で使われる。

(3)五大洋 四大洋に南極海(南大洋ともいう)を加えたもの。

(4)七つの海 南・北太平洋、南・北大西洋、インド洋、北極海、南極海。世界の海の総称としても使う。

 各大洋の境界は便宜的、習慣的にそれぞれ次のようにされている。

[半澤正男・高野健三]

太平洋と大西洋との境界

ホーン岬からサウス・シェトランド諸島に至り、さらに南極半島に至る線。マゼラン海峡は全部太平洋に属するとみなされている。

[半澤正男・高野健三]

大西洋とインド洋との境界

アガラス岬(アグリアス岬)から南極大陸に至る東経20度線。

[半澤正男・高野健三]

インド洋と太平洋との境界

アンダマン諸島、インドネシア、チモール島からオーストラリアのタルボット岬に至る線。オーストラリア西岸から東南端のバス海峡に至る線。タスマニア島のサウス・イースト岬から南極大陸に至る東経147度(厳密には東経146度52分)の経度線。

[半澤正男・高野健三]

北極海と太平洋との境界

ベーリング海峡。南太平洋、インド洋、南大西洋の南の部分で南極大陸をめぐる海は南極海あるいは南大洋と総称されることもある。

[半澤正男・高野健三]

海と人間とのかかわり合い

自然環境としての海

海は地球の表面積の70%あまりを占める大きな存在であるが、海の大きさは表面積だけにとどまらない。地球を覆う大気と比べると、質量は260倍、吸収する太陽放射エネルギーは2.6倍、熱容量は700倍、含まれる二酸化炭素は約60倍、含まれる水(水蒸気と氷を含めて)は10万倍である。海中に溶けている二酸化炭素量の60分の1が何かの理由で大気中に放出されても海にはほとんど変化はないが、大気中の二酸化炭素濃度は2倍になる。さいわい海水はいろいろな特殊な性質をもっているため、海は変わりにくい安定な状態を保ち、気温が高くなりすぎれば大気から熱を吸収し、低くなりすぎれば熱を大気に放出するなどして大気の状態があまり変わらないように調節している。

 海の大部分は人間の生活圏(陸)から遠いうえに、海上を吹く風の分布の効果も働いて海の表層は陸に比べて植物の栄養分が少ない。そのため、海の面積は陸の2.4倍もあるのに植物の量は陸上の400分の1たらずしかない。年間の生産量(新たに生えてくる量)は海での観測がむずかしいので正確にはわからないが、陸地の生産量の半分ないし陸地の生産量並みであり、陸地とほとんど差がない。海の植物は陸地の植物とは違い、世代交代が速いからである。植物の生育には太陽エネルギーと二酸化炭素が必要だから、海の植物が消費する二酸化炭素量は陸地の植物に匹敵する。

[高野健三]

海と人間

人間にとって海は水の障壁であるが、交通・交易のための空間でもあった。新しい航路の発見が国々の興亡にかかわったこともある。世界の大都市の多くは海あるいは大きな川に面している。航海の安全と高速化を図ることが新しい科学・技術の発展を促した。ヨーロッパ人は11世紀の初めには面積のうえで海全体の約5%、陸地全体の約17%、15世紀の初めには海全体の約7%、陸地全体の約25%の存在を知っていたようである。その後、新しい世界を次々と発見し、19世紀末には海全体の約98%、陸地全体の約90%の存在を知る。当時よくわかっていなかったのはおもに北極と南極の周りであった。造船・航海術の進歩によって航海は少数の冒険者たちだけのものではなくなった。その結果、植民・移民が盛んとなり、新しい経済・文化圏が生まれた。

 海は魚介類の供給源でもある。沿岸海域の調査・研究はまず漁業のための調査・研究で始まることが多かった。

 第二次世界大戦後は、ミサイル潜水艦の出現によって軍事上の海の重要性は著しく高まった。一方では、海が地球気候に対して大きな働きをしていることが少しづつわかってきて、地球気候との関連で海を見るようになった。また、埋め立て、港湾の整備、養殖業の拡大、レクリエーション、石油などの海底資源の採掘や海上輸送・貯蔵、廃棄物の処理など海の利用はさまざまな面にわたるが、それだけに沿岸海域だけではなく外洋も汚染のおそれが増し、全海洋の環境と開発という問題が大きくなってきた。

[高野健三]

資源・エネルギー源としての海

塩、魚介類、海藻類は食糧として古くから利用されてきた。海底の石油、石炭、天然ガス、錫(すず)、土木・建築用の砂・小石はすでに採掘されていて、海底石油生産量は全生産量の20%を占める。海藻を養殖して、食糧と工業原料にすることも研究されている。

 商業採掘に向けて調査中のものには、マンガン団塊、熱水鉱床、コバルトクラストメタンハイドレート、大陸棚オイルシェール、タールサンド、ウランなどがある。海底には場所によっては肥料の原料として重要な燐鉱塊もある。

 地下水を除いて地球上の水の98%あまりは海にあり、海の最大の資源は水である。この水は海面からの蒸発→降水→河川水→海という自然のサイクルのなかでその一部(陸から海に流れ込む水の10%たらず)が農業・工業・家庭用水となっている。海水は発電所の冷却水として使われているが、積極的に表層と下層から海水を汲み、その水温差を発電に利用する試みもある。温度差発電(OTEC:ocean thermal energy conversion)という。規模は小さいが下層の海水を汲み上げて飲料の原料や養殖などに使われている。

 また、フランス北西部を流れるランス川の河口では潮汐発電所が1966年から稼動している。ロシアのキスラヤ湾やカナダのノバスコシアでも稼動しており、中国にもいくつもあると伝えられる。うねりを利用する小さな波力発電装置は航路標識ブイに多数使われている。一般に陸上よりも海上のほうが風は強いので、海上風力発電も研究されている。

 海水中にはさまざまな物質が含まれている。濃度は非常に低くても海水量が莫大なので総量としては大きい。陸地下の推定埋蔵量に比べて金は約150倍、ウランは約800倍、銀は約300倍である。探査法の進歩によって陸地下の推定埋蔵量は増えているが、海中のほうがずっと多いことは変わらない。有用金属のうち陸地下のほうが多いのは鉄と鉛くらいである。これらのうち、抽出法が研究されているのはウランである。第一次世界大戦に敗れたドイツは、敗戦の7年後、おもに南大西洋で大規模な海洋調査を行った。その目的の一つは海水から金を抽出して国家経済の立て直しを図ることだった。

 海は外洋クルージングを含めて観光とレクリエーションの空間であり、海水療法の空間でもある。海は一部の廃棄物の捨て場になっており、地球温暖化を抑えるために大気中から二酸化炭素を抽出して海に捨てることも研究されている。

 20世紀の中ごろ、海洋開発に大きな期待が寄せられた。その重要課題の一つは海を研究して気候のしくみを理解し、気象・気候の長期予報の精度を高めることである。精度が高くなると、翌年の天気に適した種子や苗を用意できる、大雨をずっと前から予報できたら貯水池の水位をあらかじめ下げておいて洪水を防げる、大土木工事に際して労働力や資材の調達・貯蔵の手配に無駄がなくなる、などいろいろな面で経済効果は大きい。アメリカでの見積もりによると、その利益は、漁業の改良や海上輸送の改善、沿岸海域の保全やレクリエーション施設の適切な運用、鉱物資源の開発などがもたらす利益の合計よりも大きい。

[高野健三]

海に対する認識の変遷

地球が球形であること、海がその上に広がっていることは紀元前4世紀のころには知られていたが、海の深さの分布、つまり立体としての海の形がある程度わかるのは、19世紀のなかばであり、そのころが近代海洋学の誕生期である。

[半澤正男・高野健三]

古代人の海洋観

もっとも特徴的なのは、海を大河(オケアノスokéanos)とみていたことである。紀元前5世紀ころのヘカタイオスの世界図も、当時知られていた陸地や地中海の様相が驚くほど正確に再現されているが、その周り、すなわちヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の外はオケアノスとして表現されている。古代インドのバラモンの神話にも世界は七つの陸地に分かたれており、それを取り巻く七つの海があるといった世界観がみられる。

 アリストテレスは地球が球形であると主張し、さらに海水の塩分の起源や大気と海の間の水の循環を論じている。

 エラトステネスは、地球一周の長さを約4万5000キロメートルと計算した。この値は正しい値よりも10%ほど大きいだけである。その後、ポセイドニオス(天文学者)はそれよりも30%近くも短い値を算出した。K・プトレマイオスは、ポセイドニオスの値が正しいとしたので、そして、のちに、長さの単位の換算を間違えたことも重なって、長い間にわたって地球の大きさ、海の大きさは過小視されることになった。ヨーロッパから西に進んでアジアまでの距離も過小視され、これが、のちにコロンブスに大航海を決行させる一因となった。また、彼が1492年に西インド諸島に達してから1506年に死ぬまで、アジアの東端にたどりついたと信じていた一因となった。

[半澤正男・高野健三]

中世の海洋観

ギボンによれば、ヨーロッパの中世は「評論家や解説者が多すぎて、学ぶことの意味があいまいになり、真の才能が抑えられた時代」である。ギリシアとアラビアの文献がラテン語に翻訳され、先進国である中国やアラビアから科学・技術が輸入された。十字軍(1096~1270)はこの輸入に貢献しただけでなく、北・西ヨーロッパ間の文化・文明の交流にも貢献した。その結果、北方型帆船と南方型帆船の構造が混じり合い、帆走能力が高くなるなど大航海時代への準備を整えていた。

 この時代、初めは「海」や「船乗り」は、魔物、飢え、寒さ、ならず者、など悪い意味を連想させがちであったが、13世紀ころから、挑戦、積極性など良い意味と結びつけられるようになった。

[半澤正男・高野健三]

近代海洋学の誕生

19世紀なかばに近代海洋学が生まれるきっかけは次の三つである。

(1)海底電線敷設のため海の深さを正確に測ることになった。海図に大陸棚の深さが記入されるのは16世紀の終りころであるが、19世紀なかばになって海岸の形だけではなく、深さまで加えた立体像がしだいに明らかになる。

(2)海底電線敷設に伴い、深海にも生物がいることがわかり、新しい生物学が生まれた。また、海底電線引き上げに伴って海底堆積物が採取され、海底堆積学という新しい学問分野が生まれた。

(3)高速帆船の時代で、インドの新茶を少しでも早くイギリスに運ぶ必要があった。また、カリフォルニアゴールドラッシュで、南アメリカ大陸のホーン岬沖経由の北アメリカ大陸東岸とカリフォルニア間の航海日数をできるだけ縮める必要があった。そのため、風と海流の利用が重要課題となった。M・F・モーリーの努力によって多数の海流・風データが集められ、さらに、将来にわたってデータ集積が継続される国際協力体制ができあがり、海流の研究に弾みがついた。

[半澤正男・高野健三]

海と日本人

日本人の海洋認識

古代の日本人の海洋認識をうかがう史料としては、まず『古事記』(712年成立)がある。気をつけてみると、これには意外に海洋、航海、造船の記事が多く、古代人の海とのかかわりあいの深さを示している。『古事記』は冒頭で「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時」と宇宙創成を述べる。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)両神による天(あめ)の浮橋(うきはし)から天(あま)の沼矛(ぬぼこ)を使った国土創造の段に至り、「塩こをろこをろに画(か)き鳴(なら)して、引き上げたまふ時、其(そ)の矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩累(かさ)なり積(つも)りて島と成りき」など、海洋についての記述がある。『古事記』にはこのほか「塩盈珠(しほみつたま)」「塩乾珠(しほひるたま)」の描写や、「速吸門(はやすひのと)」といった記事もあり、潮汐(ちょうせき)現象、潮流、航海難所に古代人がすでに相当の知識があったことを示している。しかしもっとも注目すべきものは「海界(うなさか)」の考え方である。うなさか(海境・海坂・海界)とは「上代、海上にあると信じられていた、海神の国と人の国との境界。海のはて」(小学館『日本国語大辞典』)である。『古事記』上巻に「即ち、海坂(うなさか)を塞(さ)へて返り入りましき」、『万葉集』巻9に「水江(みづのえ)の浦島子(うらのしまこ)が鰹(かつを)釣り、鯛(たひ)釣り矜(ほこ)り七日まで家にも来(こ)ずて海界(うなさか)を過ぎて漕(こ)ぎ行くに」などとみえている。古代ギリシア人が地中海もオケアノスも同じ水の集合体(物質、物体)としているのに対し、海坂は、海の果ては海神の国という、ある意味での精神世界を想定している。この歌は、「日本に漂着した先祖の故郷は海のはるかかなたにある」という潜在記憶の表われとも解釈できる。このあと、「はるかに遠い海」という意識は薄くなってゆく。海にかかわる歌は多いが、浜辺から眺めた沖の海、岸にごく近い海上から見た陸の風景が詠われていて、欧米の文学作品に見られるような外洋を帆走する爽快(そうかい)感、外洋での風や波との闘いなどはまったく現れない。7世紀の初めから9世紀の終わりまで、遣隋使(けんずいし)、遣唐使の時代の海は東シナ海や黄海だった。派遣された使節や学生たちはすべて使命に燃えていたのではなく、多くの人々は、船が日本を離れるとすぐに船酔いに苦しみ、望郷の念にかられて早く家に帰りたい、と気持ちはひたすら内向き、消極的になり、落ち込んでしまう。海国日本というが実態は海に取り囲まれているというだけの海岸国にすぎなかった。京都の商人田中勝介(たなかしょうすけ)のメキシコ渡航(1610)と支倉常長(はせくらつねなが)ら遣欧使節(1613~1620)の太平洋横断航海はあったが、ほかの航海があとに続いたわけではない。日本人の海に対するこの姿勢は鎖国によってますます強くなる。太平洋は江戸幕府(1603~1867)の末期まで日本人にとっては存在しないも同然だった。江戸時代、黒潮についての記述がごくわずかにあるだけである。柳田国男(やなぎたくにお)は著書『海上の道』のなかで、「四面海をもって囲まれて、隣と引き離された生存を続けていた島国としては、この海上生活に対する無知はむしろ異常である」という。

 太平洋あるいは広く外の世界を意識するのは幕末である。林子平(はやししへい)の『海国兵談』全16巻(1787~1791)は国内に安住する日本への警鐘であり、1853年のM・C・ペリーのアメリカ艦隊とプチャーチンのロシア艦隊の出現は否応なしに太平洋とその向側の国々に目を向けさせた。やがて多くの日本人が欧米の文明を学ぶために太平洋やインド洋を超えてゆく。

 文部省唱歌『われは海の子』(1910)は、海浜と海浜から眺めた陸の風景で始まるが、外洋への期待で終わる。20世紀になって、ようやく海の大きさ、広さが認識されるようになった。

 現在、日本人の国際性の乏しさがしばしば指摘される。海洋研究でも、20世紀の後半、日本での研究対象がほぼ沿岸海域に集中していた時期が長く続いた。「日本は輸出入の多くを船に頼っており、その船の多くは外洋を航行しているのだから、外洋研究に力を注がなければならない」という批判が外国から出たこともある。沿岸海域への研究の集中は、幕末までの海とのつきあい方と無縁ではないようである。

[半澤正男・高野健三]

海の民俗

わが国は海に取り囲まれた島国であり、古来海に対する関心は深かったが、西日本を中心に一部存在した家船(えぶね)や海女(あま)・海士(あま)を除けば、生粋(きっすい)の海上生活者の数は多いとはいえず、沿岸や島嶼(とうしょ)部に住む人々でも実際には海に背を向けた生活が比較的多かった。それゆえか、漁民の信仰生活などをみても、えびすなどの漁業神や船霊(ふなだま)様などの船の守護神については、ほぼ全国的に具体性をもって語られているが、海そのものに対する信仰や儀礼となると、そうともいえないようである。記紀、『万葉集』など各種の古典記録にみるように、古代社会においては海神の存在する海底の宮、つまり綿津見(わたつみ)の国とか根の国、常世(とこよ)の国なるものが観念されており、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫(とよたまひめ)の神話や、浦島太郎説話にあるように、鳥や魚が海神の使者であって、それを助けた者が海底の宮に迎えられるという話は、海底の宮と人間界との交渉を伝えるものとして今日も語られている。しかし現実の民間の諸習俗のなかにこうした考えが広く展開されているとはいえない。ただ沖縄を中心とする南方の島々では今日もニライカナイ、ニルヤ、リューグーなどとよんで海上かなたの他界が観念されており、そこは人間の祖霊の赴くところであって、稲や火、さらには鼠(ねずみ)のようなものまでがその他界から人間界に持ち込まれたと考えられている。そして各種の祭祀(さいし)儀礼のなかにこの他界の観念が象徴されているし、沖縄本島中・北部の村落では海神を迎えて行う海神祭(ウンジャミ)が営まれている所もある。

 ところで「板子一枚、下は地獄」ということばが漁師や船乗りの間で語られるように、海上での生活はきわめて多くの危険や制約を伴うものである。そこで航海の安全を祈り、生業の繁栄を願って彼らに広く受容されているのが船霊信仰とえびす信仰である。船霊は船に祀(まつ)り込められる神で、地方により相違はあるが、一般には、さいころ、六文銭、女性の毛髪、人形などを御神体とする。船霊が漁の吉凶や天候の急変などを泣いて告げてくれるという信仰はほぼ全国一様で、また船霊は女性神だとする考え方もほぼ共通している。海上では沖ことばといって、特定のことばは用いることを忌み、他のことばで代用する習慣がみられるが、とくに猿や蛇の語はほぼ全国で忌まれている。その説明としてしばしば語られるのは、船霊様がこれを嫌うからということである。また女性1人を船に乗船させることを嫌う風習も各地にあるが、それに対しても船霊様が嫉妬(しっと)するからという説明が語られる。海上での漂着物は、遭難者の遺体(流れ仏)をも含めて、漁民の間では吉報と考えられることが多い。それゆえこれを丁重に扱うのが常で、こっそり自宅の庭に埋めたという話は各地で聞かれる。このような態度は、元来漂着神とみなして各地の漁村で祀られているえびす神への信仰と結び付く結果であろう。現に漂着物や流れ仏をえびすとよぶ地方は多い。そのほか海上での制約、俗信、禁忌は限りがないが、たとえば、海中に金物や梅干しの種を落とすことを嫌う(海中の神ともいわれる竜神が嫌う)、海上では口笛を慎む(荒天をよぶ)、船中では茶碗(ちゃわん)をひっくり返さない(船の転覆をよぶ)などというのは、ほぼ各地に共通する。

 またもう一つ大きな禁忌として穢(けがれ)に対する観念がある。日本人の穢の観念としては、出産にかかわる赤不浄と、死にかかわる黒不浄の二つが代表的なものであるが、漁民の場合、先の流れ仏の扱いでもみたように、全国一様とはいえないが、死に対する忌みは一般にそれほど強くはないようである。しかし出産に対する忌みは各地できわめて厳格であって、出産のあった家に出入りすれば一定期間海には出られないとか、自宅で出産があっても一定期間は家に戻らず他家に宿泊するというような習慣は各地にある。漁業は、もちろん個人的に営まれる場合もあるが、多くの場合は共同労働を要し、それは社会的な営みともなる。それだけに日常の海上生活ではむろんのこと、陸での生活に関しても多様な禁忌を厳守することが不可欠となるのである。

 海上は一面きわめて恐ろしいところと考えられている。水死人の亡霊が船の形となって現れ杓子(しゃくし)を貸せという。貸すと水を船中に汲(く)み込まれるので、底を抜いて貸すとか、これを餓鬼として扱い食事を与えると消えていくという。また巨人の妖怪(ようかい)といわれる海坊主(うみぼうず)が出現する。こうした怪異を経験しても他者にはいっさい口にしてはならず、自然に消滅するのを待つのが漁民や船乗りの間での通例である。全国各地にある特定の岬や岩礁では、そこを通過するときに異変がある、あるいはかならず時化(しけ)がおこると信じられている。そのため、そうした土地では船霊様を祀って安全を願うとか、海中に供物(くもつ)を落とすなどということも行われている。

[野口武徳]

海の神話と伝説

陸地を取り巻く海は、古代から、人間に神秘的なるもの、無限なるもの、原初的なるものの観念を与え、畏敬(いけい)の念と同時に、底知れぬ恐怖心をも抱かせてきた。他面、海は古代から人間の交通路であり、陸地間の接触の媒体であったから、諸民族の商業、軍事活動の大きな舞台であり、船と航海者の独自の世界が形成されてきた。

 哲学の祖といわれる紀元前6世紀のイオニアの都市ミレトスのタレスが「万物のもとは水である」と述べたことは有名である。しかし、水ないし海が宇宙開闢(かいびゃく)のときにあって、あらゆるものの根源となったという考え方は、古くメソポタミア文明の時代にまでさかのぼってみられる。前4000年以後発達したシュメール文明において、天と地を生んだ母である女神ナンムは、海を表す表意記号によって示されていた。バビロニアの神話でも、天地創造以前には、淡水の海アプスーと塩水の海ティアマトしかなく、この二つの結合から、空、地、水などのさまざまな神が生まれることになっている。エアとよばれる水神は知とあらゆる魔術の神でもあり、それから英雄神マルドゥクが生まれるが、その前に、原初の海とその子の神々の間に争いがおこる。結局エアの力でアプスーは眠らされ、多くの怪物に囲まれたティアマトはマルドゥクに殺されたのち、天に磔(はりつけ)にされる。メソポタミアの創造神話においては、海は混沌(こんとん)たる無秩序の元素であり、その混乱を克服し、宇宙に一定の秩序がもたらされるとき、人間の歴史が始まる、という考え方が示されている。メソポタミア神話の影響を強く受けたヘブライ神話でも、宇宙の初めには闇(やみ)に閉ざされた原始の海があり、神の霊風がその表面を吹きまくっていたとされる。わが国の『古事記』に現れた日本神話によれば、「浮かべる脂(あぶら)の如(ごと)くして水母(くらげ)なす漂える」状態に世界があったとき、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の2神が、天の沼矛(ぬぼこ)で海水をかき回し、矛の先からしたたる塩が積もってできた淤能碁呂(おのころ)島で、日本列島と神々の創造を行ったことになっている。

 エジプト神話において、太陽神アトン・ラーは、他の多くの神々を生み出した主神だが、その神自身が、ヌンすなわち原始の大海から生まれ出たとされる。そして大地は平板で水の上に浮かび、その水は宇宙全体を満たしている。太陽神ラーは日中舟で天空を漕(こ)ぎ渡り、夜は大地の下を行くのである。興味深いことに、この世界像は、アメリカ大陸メキシコのトルテカ文化アステカ文化におけるそれとよく似ている。すなわち、古代メキシコにおいては、トラルティクパク(地)は宇宙の中心に位し、水平・垂直に延びた円板で、その周りを巨大な水(テオアトル)が取り囲んでいる。そこで世界はセムアナワク(完全に水で取り囲まれたもの)とよばれた。

 ギリシア神話では、海は天地創造以前の元素ではなく、カオスすなわち混沌のなかから生み出されたものとされ、人格的な神として表されている。ヘシオドスの『神統記』によると、カオスから大地ガイア、および奈落(ならく)・地下のタルタロスが生まれ、ガイアが天空ウラノスと海原ポントスを生んだ。そしてポントスはガイアとの間に、怪獣、鯨などの巨大な魚族ケトや、優しい海の老人ネレウスを生んだ。ネレウスは、海底の洞窟(どうくつ)に50人もの娘たちとともに住み、「偽りを知らず……頼りになり、優しい気質で、掟(おきて)を忘れず、正義と親切をわきまえる」と歌われ、おだやかな日和(ひより)の海を象徴している。そして、人間や神々に対して親切な忠告や預言をするが、これは、海という世界の水を集める千古の秘密をたたえた場所には知識が凝集している、という古代ギリシア人の考え方を現している。そしてネレウスと娘たちは、ギリシア人の住んだエーゲ海の穏やかな美しさを反映しているといっていい。娘たちのなかにはプロト(帆を走らせる女)、グラウケ(海の青い輝き)、キモトエ(波の速さ)などがいる。一方海神としては、有名なポセイドンがいるが、ネレウスとは対照的に気むずかしく、しばしば荒天や嵐(あらし)の海を表す。ポセイドンは、地中海世界を縦横に航海した海洋民族としてのギリシア人が抱いた、大洋の荒々しさの観念を象徴している。

 ギリシア人同様、海洋民族であったヨーロッパの北方民族が、ポセイドンと同じような荒々しい海神を構想したのは当然である。アイスランドのスノッリ・スツルソンの『エッダ』によれば、海を治める神はエギルで、この神のあごが、海に迷った船を飲み込むと考えられた。そして大海は、しばしば航海者を滅ぼす狂暴な存在として描かれ、エギルの妻ランが船に網をかけて水中に引き込むとされた。したがって、後期の『サガ』では、暴風になったとき、水夫たちがランの館(やかた)に空手で行かないように、主人公が船上で金(きん)を分配することが歌われている。古代英語で海を表す詩語はガルセックであって槍(やり)を持つ人を意味し、三叉(さんさ)の矛(ほこ)を持ったポセイドンのイメージとよく似ている。

 エギルの9人の娘が、航海する船を押さえて止めるという伝説の主題は、中世ドイツの詩や伝説にも現れる。中世ヨーロッパを通じて、大洋すなわち大西洋は無気味な世界と考えられ、そこにさまざまな化け物が空想され、船乗りが裸の人魚を見ると海が荒れるとか、悪魔が迷える魂を迎えにきたとき、また海上で口笛を吹くときには嵐がおこるとかいったことが信じ込まれた。わが国でも、船幽霊(ふなゆうれい)、海坊主(うみぼうず)など、海の妖怪(ようかい)の数は多く、各地の漁村で語り伝えられていた。

 海のかなたに神秘的な未知の国があるという空想は、古くはプラトンのアトランティスや、ピュテアス(前4世紀の探検家)が伝える地の果てのトゥーレなどにみられる。中国の伝説で、東海にあるとされた仙人の住む霊山である蓬莱(ほうらい)山もその類(たぐい)であり、秦(しん)の始皇帝は、その島の黄金の宮殿に蔵された不老不死の薬を求めて、使者を遣わしたと伝えられる。わが国の上代人の間にあった海神(わたつみ)の宮ないしは竜宮の観念は、海のかなた、または海底にあると信ぜられた一種の理想郷を表す。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫(とよたまひめ)の神話、浦島太郎の伝説などは、海神の宮と人間界との交渉を主題としている。また、上代人は、根の国、底つ国という、死者の霊の赴く世界を水平線のかなたに想像していたようである。沖縄のニライも同様の観念である。北欧神話にも、海を渡って行く死者の観念がある。イギリスの中世叙事詩『ベオウルフ』には、デネのスキュルディング王朝の創始者スキュルドが死んだとき、股肱(ここう)の臣たちは、彼の遺体を宝物とともに船に乗せ、潮に乗せて大海に送り出した、と歌われている。また中世ヨーロッパには、遠洋航海者が大西洋のかなたに理想郷をみいだした話がいくつか伝えられている。たとえば、アイルランドの布教者聖ブレンダヌス(484―577)が、17人の修道士とともに、小舟で「聖者の約束の島」を発見するため大西洋を7年間航海し、ついに目的の島に至った、という伝説が『聖ブレンダヌスの航海物語』として残っている。また8世紀初め北アフリカからイスラム教徒が侵入したとき、イベリア半島のポルトの大司教が、6人の司教を伴って大西洋に逃れ、ある島にたどりついて「シボラの七つの都」を建設し、大いに繁栄した、という伝説もある。これらの地名は大航海時代の地図にも記入され、航海者たちの目標の一つとなった。

 海水に霊力があり、病気を治す力をもっているという信仰は、世界各地にみられる。ギリシア時代には悪霊を追い払うため海水で身を清めたと伝えられるし、ヨーロッパの多くの地方で、傷や病を治療するために海水が用いられる習慣がみいだされる。

[増田義郎]

交通路としての海

海は、ときとして荒れ狂い、人間に災厄をもたらすが、にもかかわらず太古の昔から、人間にとって重要な交通路として利用されてきた。15世紀末からの大航海時代までは沿岸航海が主体であったが、それでもバイキングのように、遠洋航海をした例は珍しくない。ホメロスの『オデュッセイア』に示されたように、ギリシア人は地中海の海洋民族であったが、ジブラルタル海峡を越えて大西洋に進出していたらしい。前500年ごろカルタゴ人ハンノが西アフリカ航海を行ったことを示す史料があり、プリニウスによれば、マウリタニア王ユパ(前25ころ―後25ころ)がカナリア諸島に航海したという。またヘロドトスは、前6世紀エジプト王ネコの時代にフェニキア人がアフリカ回航をしたと伝えている。アリアヌスの『インド誌』に引用された、アレクサンドロス時代のネアルコスの『インド航海誌』は、150隻の船隊でインド洋を航海したと記している。

 1世紀後半の無名ギリシア人による『エリトラ海案内記』は、紅海、東アフリカ、インド洋の旅行、航海の手引書として知られている。古代世界に開拓されたインド洋の航海通商路は、中世のアラブ人に引き継がれ、東アジアで中国人や琉球(りゅうきゅう)人が開拓した航路と結び付いて、東と西をつなぐ遠距離貿易の発達を促した。このインド洋貿易圏の末端がイスラム時代に地中海世界に香料、絹などの奢侈(しゃし)品の販路を求めて市場を開拓したため、イタリアの海事都市が急速に発達し、やがてそれがイベリア半島のスペイン、ポルトガルを刺激して開始されたのが大航海時代である。大航海時代に大西洋、太平洋の航行が開始されたため、地中海からインド洋を経て東シナ海に至るヨーロッパの海洋貿易圏が一挙に拡大し、全世界的なコミュニケーション・システムが、海を媒介として成立した。

[増田義郎]

『宇田道隆著『海洋科学基礎講座補巻 海洋研究発達史』(1978・東海大学出版会)』『アラステア・クーパー著、奈須紀幸他訳『世界海洋アトラス』(1983・講談社)』『浜田隆士編『海と文明』(1987・東京大学出版会)』『和達清夫監修『海洋大事典』(1987・東京堂出版)』『野崎義行著『地球温暖化と海』(1994・東京大学出版会)』『東京大学海洋研究所編『海洋のしくみ』(1997・日本実業出版社)』『寺本俊彦著『地球の海と気候』(2000・御茶の水書房)』『日本海洋学会編『海と環境』(2001・講談社)』『佐々木忠義編『海と人間』(岩波ジュニア新書)』『R・カーソン著、日下実男訳『われらをめぐる海』(早川書房・ハヤカワ文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「海」の意味・わかりやすい解説

海 (うみ)
sea

地球上の陸地以外の凹所に水をたたえ,全体がひとつづきになっているところが海(海洋)である。それを満たす水が海水で,その塩分の組成率は,世界中ほぼ一定している。海岸近くの入江や,浦,潟(かた)を海とするか湖沼と呼ぶかは,多分に従来の習慣によっている。

海を分類するには,その位置や大きさ,形状,海水の特性などにより,大洋と付属海に分け,付属海はさらに地中海(大・小地中海),縁海に分ける。大洋とは太平洋,大西洋,インド洋の三つであって,その他の海は,いずれもこれらのどれかに付属させる。大洋は形も大きく,またおのおの独立した海流系をもつ。とくに注意すべきは南極海(南氷洋)で,地理的にみれば,太平洋,大西洋,インド洋の各一部にすぎないが,南極大陸をとりまく海として,このように名づけられている。海流も南極大陸をめぐって流れる東向きの周南極海流がある。

 なお太平洋,大西洋をそれぞれ南北に分け,それにインド洋,南極海,北極海を加えて俗に〈七つの海〉(全地球上の海の意)と呼ぶことがある。

 付属海は,その付属する大洋の海流の影響をうけ,独自の海流はもっていない。付属海中で最大のものは北極海だが,それでも大洋中最小のインド洋にくらべ,面積はわずか1/5にすぎない。大地中海とは,二つ以上の大陸にかこまれた海を指し,小地中海は大陸の中に深く湾入していて,その出入口が内部の面積にくらべて狭いものをいう。縁海とは,島や半島で不完全に大洋の本体から区切られた海をいう。大洋中最小のインド洋と,付属海中最大の北極海とでは,面積では5対1の大差があるほか,平均深度も4000m対1000mとひらきが大きい。これからしても,大洋と付属海との間には,著しい差のあることがわかる。また,三大洋で,全海洋の面積の89%を占めている。

海の総面積は361.059×106km2で,地球の総面積509.951×106km2の70.8%を占めている。北半球は陸地39.3%,海60.7%(154.695×106km2)で,南半球は陸地19.1%,海80.9%(206.364×106km2)であり,北半球より南半球に海が多い。またフランスのロアール河口のナント付近とニュージーランドの南東のアンティポディーズ諸島付近をそれぞれ極とする半球をつくると,前者において陸地,後者において海洋の割合が最大となり,それぞれを陸半球,水半球(海半球とも)と呼ぶ。陸地と海洋の割合は前者で49.0%:51.0%,後者で9.4%:90.6%となり,前者の陸半球には全陸地の約84%が含まれる。

世界の海洋の深度は,平均約4000mであるが,世界で最も深い記録は,太平洋のマリアナ海溝にあり,1万0920mにも達する。一般に海面から約200mの深さまでは陸地の延長とみられ,大陸棚と呼ばれる。ここから約4000mまでの深さの海底の占める面積は小さく,その傾斜は急で,これを大陸斜面という。しかし,約4000mから約6000mまでの海底の占める面積はきわめて広大で,全地球の面積の半分を占めており,これが深海底の部分である。さらに約6000mよりも深いところはごく狭く,全海洋の1.2%しかない。この部分は海溝の中にある。
海底地形

地球は,45.5億年ほど前,宇宙空間の星間ガスとちりが凝縮してできた。地球内部からでてきたガスによって大気がつくられ,それに含まれていた水蒸気が冷却して凹地に水がたまり,海がつくられた。堆積作用のあったことを示す38億年前の岩石が発見されていることから,38億年以前に海が存在したことは明らかである。海水の量がどのように増加してきたかについては,地球の誕生後約5億年でほとんどが形成されたとする説と徐々に増加してきたとする説があるが,前者の説を支持する人が多い。

地球のいちばん外側の殻,地殻は,大陸では軽い花コウ岩質層とその下の玄武岩質層からなり,厚さ20~70km,平均33kmであり,大洋底では玄武岩質層からなり厚さ7kmと薄く,両者はまったく異なる構造をもつ。前述のごとく大陸からは堆積作用のあったことを示す38億年前の岩石が見つかっているのに,海洋底の岩石は最も古いもので2億年前のものである。これはプレートテクトニクスによれば,中央海嶺で新しい海洋底地殻がつくられ,年間数cm~十数cmの速さで移動してゆき,海溝で再び地球内部にもぐりこむことで説明される。このことは海底の堆積物の厚さが海嶺付近で薄く,海溝に近づくにつれ厚くなること,あるいは海底の縞状磁気異常などから確かめられる。また,後者からは2億年前以降の海洋地殻の運動状態が復元でき,大陸上の古地磁気などのデータと合わせ,大陸が分裂・移動したこと,これに伴って新しい海が誕生したことが確かめられている。たとえば,大西洋は2億年前にできた大陸の裂け目が拡大してつくられたと考えられている。この考え方を過去に延長し,大陸は分裂・移動・集合を繰り返し,海の分布もこれに伴って変化してきたとする説もある(ウィルソンサイクル)。
大陸移動説 →プレートテクトニクス

地球上に約1.4×1018tの海水がある。海水は約96.5%の純水と3.5%の溶解物質とからなり,数十種の元素が含まれているが,そのうちおもな成分は,ごく沿岸域を除く外洋では,ほぼ一定の組成比をもっている。したがって,たとえば塩素の濃度(Cl)がわかれば塩分全部の濃度(S)を知ることができ,S=0.030+1.8050Clというクヌーセンの公式が成り立つ。これは地球上に海水が生成されて以来,長期間にわたって,循環,対流,拡散などによりよく混合されてきた結果である。
海水

海底を形成している物質を底質といい,基盤岩とその上の堆積物とからなる。海底堆積物とは海水によって運搬されて海底に沈着した物質で,これには陸上の風化物が河川によって海に運び込まれたものもあれば,風によって海上に飛ばされ,後に海に沈着したものもある。また陸上生物,あるいは海中生物の遺殻,遺体なども含まれる。

 200mより浅い陸棚の海底には,陸地から運びこまれた,わりに粒の粗い陸性堆積物がある。深さ200m以深の大陸斜面では陸から運ばれてきた泥や砂は少なくて,おもにプランクトンの遺骸からなる遠洋性の堆積物と,粒の細かい陸源の泥を含む亜洋性堆積物がある。もっと深い大洋底は非常に細かい生物の遺体からできたどろどろの軟泥からなる。
海底堆積物

海水の運動は種々雑多であるが大別してほぼ定常的なものと,だいたい一定の周期をもって繰り返すものがある。前者に属するものは海流で,後者に属するものには潮汐による潮浪,潮流,湾の振動(セイシュ)および津波風浪うねり,内部波などがあり,日常生活に短期間周期の影響を与える。

 海流によって気温,水温,塩分などの分布が支配され,またそれに従って気候,風土,生物などの分布が定まり,文明までがその影響を受けたと考えられる。

太陽系の惑星で現在海のあるのは地球だけである。たとえば,金星では表面が高温なため水が液体として存在し得ず,火星では液体の水はなく,両極に氷があるのみである。このように地球に液体の水,すなわち海があるのは太陽からの距離と水を地球につなぎとめておくための地球の大きさが適切であったからである。

 金星は大きさも密度も,地球とほぼ同じであるが,気圧は90気圧と著しく高い。また金星大気の96%を二酸化炭素が占め,いわゆる温室効果により金星表面は非常に高温となっている。もともと地球も金星と同じような大気組成をもっていたと考えられている。地球大気中に二酸化炭素がほとんど存在しない(したがって気圧も1気圧と低い)のは,海があり海水が二酸化炭素を吸収し,石灰岩やその他の炭酸塩として固定し,地殻のなかにとじこめたためである。

 海水にはさまざまな化学成分が含まれており,環境の激変をやわらげることから,生物の発生,生存に好都合であったと考えられる。

 日本や北アメリカ東部海岸の夏季における高温多湿は,居住するのに不快な気候として有名であるが,これに反して,北ヨーロッパや北アメリカ西部海岸は,冬季に暖かく,夏に涼しい。それはこれらの地方が,大洋の東岸にあるか,西岸にあるかで決まり,海や海流が,その地方の気候風土を支配するためである。人間生活は,古代から現代にいたるまで,海の支配する気候条件と,その風土との影響を受けることには変りがない。

 古代においては,海は交通路として,陸地よりもはるかに重要であった。日本人の祖先は,大陸伝いに渡来した北方系と,黒潮にのった南方系との混合といわれる。ヨーロッパの文化も海を利用してメソポタミア平原から,地中海沿岸各地をへて遠く北ヨーロッパ,イギリスまで伝えられた。その先駆的役割を果たしたのは古代フェニキア人であるが,彼らはさらに遠くサルガッソー海までも航海していたと考えられている。しかし,彼らは商船の運航ルートを秘密にしていたので,海図や文書が現存せず,ごく一部がギリシアに口伝えされたにすぎない。前5世紀のヘロドトスの著作には,早くも大西洋の名が姿を現し,ヨーロッパ,アジアの大陸もみられる。こういった交易によって,各地の産物,文明の交流が盛んになったが,海はその物資のルートに一役を買ったばかりでなく,精神文化,各人種間の交流ルートとしても,重要な役割を担うことになったのであった。

 食料の源として,古来,日本人はとくに海からタンパク質を多く求めてきた。海の面積が陸地の2倍もあり,数千mの深海まで生物が生息しているので,最近はこの深い層の魚まで漁獲の対象になっているが,それは世界の大陸棚で自由に魚がとれた時代が去って,経済水域200カイリの時代が到来しつつあることにもよる。しかし,このままではいずれ魚資源の枯渇は免れないであろう。水産資源の育成が重要な課題となりつつある。

 水産資源のほかに注目されるのは,海底の鉱物資源である。海にはないものはないといっても過言ではないが,ただそれが商業ベースとして引き合うかどうかである。現在,いちばん利用されているのは食塩であるが,岩塩も石油もみなかつて海で生成されたものである。海底探査の進歩により,数千mの海底に,直径数cmのボール状のマンガン団塊が数多く分布していることがわかり,採集に関心が集まっているが,問題はこれら海底資源が決して無限ではないことである。

 近年,新しく問題になってきたのは,海洋汚染である。とくに石油(重油)による汚染は生物を殺し,そこの生態系までも破壊しかねない。そうなると回復に数年,数十年の年月を要し,ときには回復不能の事態さえ生ずる恐れがある。また原子力の開発による海の放射能汚染も重要になってきた。こうなると,海洋汚染の人類への影響は,ただたんに食料供給の面だけでなく,海に入る太陽熱,海水の蒸発など気候への影響といった面でも無視できなくなってくるであろう。海は人類共通の財産と考えねばならないところにきている。
海気相互作用 →海洋開発 →地球
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20億年以上前に,生命が誕生したのは,浅い海であったといわれるように,海は太古の昔から無数の生物をはぐくんできた。現在でも海は非常に多くの生物種が生活している場所である。海産のおもな動物群は,古生代の初め(カンブリア紀)にそのほとんどが出現しており,魚類は少しおくれて,オルドビス紀に原始的な甲冑魚として出現する。陸の生物が海から移りすむのは,その後のシルル紀である。海の生物の中には,顕花植物のアマモや,哺乳類のクジラ,アザラシ類などのように,陸上で進化したグループが,再び海に生活の場を求めて適応進化したものもいる。

海の生物の生活型は,大きくプランクトンplankton(浮遊生物),ベントスbenthos(底生生物),ネクトンnekton(遊泳生物)の三つに区別される。プランクトンは,海水中に浮遊して生活し,自らの能力で移動しないものを指し,ネクトンは,強い遊泳能力をもって水中で生活するもので魚類や,イカ・タコの類,エビ類,それに水生哺乳類などが含まれる。ベントスは,海底表面や底土の中などにすむ生物群を指す。もちろん,この二つ以上の範疇に入るものや,中間的なものも多い。

 海洋の生物は,例えば海水中では,サメ,クジラなどの大型の動物が,小型の魚類(イワシ,サンマ,イカなど)を食べ,小型魚類などは,橈脚類copepodaなどの動物プランクトンを食べ,動物プランクトンは植物プランクトンや,生物の死骸が分解する途中にできる生物残査(デトリタスdetritus)を食べるというように,高次消費者-二次消費者-一次消費者-生産者という食物連鎖関係で結び合った生物群集を構成している。海の基礎生産は,植物プランクトンと,海藻および顕花植物の海草の光合成によっている。光合成には太陽光線が必要であるので,これらの植物の分布は海の浅い部分に限られている。植物プランクトンは,光が海面照度の1%になる深さまで(有光層)分布しており,海藻や海草は,一般には2~30mの深さを超えない。海の植物プランクトンによる生産量は,1ha当りほぼ1~4.5tくらいであるが,もちろん海域によって変化する。基礎生産は,海水中の無機栄養塩を利用して行われるが,特にリン酸塩と硝酸塩の量によって生産量が左右される場合が多い。栄養塩の豊富な沿岸海域では,黒潮などの貧栄養海域と比べて,数倍も生産量が高く,海底の栄養塩が有光層に常に持ち上げられている湧昇流海域では,さらに高い生産量がある。海藻や海草による生産量は,1ha当り25~85tにもなり,浅い沿岸域や小湾では,基礎生産の3分の2以上がこれら海藻(海草)による場合も知られているが,一般の海域では,基礎生産の大部分は,植物プランクトンの光合成に負っている。サンゴ礁では,サンゴ虫の肉質部に共生するゾーキサンテラzooxanthella(褐虫藻類)や,死んだサンゴ表面に付着した微小藻類による生産量が著しく大きく,海の中でも異常に高い例として知られている。

 植物(生産者)によって生産された有機物は,植物食である一次消費者に食べられる。プランクトンでは,動物プランクトンの多くの種(例えば,橈脚類のカラヌス目など),ベントスでは,アミ,エビ類,ヨコエビ類やコツブムシ類などの小型甲殻類,巻貝類などが植物食性である。しかし,植物体の多くの部分は摂食されずに,バクテリアなどの微小生物によって分解される。分解の過程で,植物の遺骸や細片がデトリタスとして,多くの低次消費者たちに利用される。生きた植物を食べることによって成立する食物連鎖と,このデトリタスを基礎とするデトリタス食物連鎖とが相まって,海の生物群集の特徴的な構造をつくっている。

 メビウスK.Möbiusが,海底にある一塊りのカキに多くの動植物がすみついているのを見て,〈生物共同体=生物群集〉の概念を初めて提唱したように,海の生物は,よく見える形で互いに緊密な関係をもっているものが多い。カキ礁,サンゴ礁藻場などはその比較的大規模な例であるし,クマノミとサンゴイソギンチャクやハゼとテッポウエビの相利共生,他の生物の体をすみかとする種の豊富なこと,オトヒメエビやホンソメワケベラの掃除行動など,興味深い種間関係がみられる。これらの種間関係も,海の生物群集構造の主要な一面を形づくっている。

 海(海底と水中)の環境は,深さに沿って浅い方から,潮間帯,亜潮間帯と上部表層,陸棚と下部表層,陸棚斜面と漸深層,深海底と深海層,海溝に区分される。光の影響があるのは陸棚までであり,それ以深は暗黒の世界である。生物は,それぞれの区分に対応して,違った生物群集を構成している。海底にすむベントスは深くなるにつれて,大型化した種が目だつようになるが,魚類では,むしろ小型で奇妙な形をしたものが多い。また,発光器をもつ生物も多くなる。深海の水温は一年を通じて1~4℃とごく低温で,生物の代謝・成長も著しくおそい。そのため,寿命も長く,小型の二枚貝でも,100年を超えると考えられている。有光層よりも深い海の生物群集は,生産者をもたないので,主として上層の有光層から供給される有機物のくず(デトリタス)や動物の死骸を食べて栄養を取っているものと,それらを食う肉食性の動物,およびバクテリアから構成されている。そのため,浅い海と比べて,生物量や個体数は著しく少ないが,各種あたりの個体数が少ないので,種の多様性は大きいといわれている。その説明には,〈時間-安定説〉が採用されている(後述)。最近,太平洋のガラパゴス海嶺など数ヵ所のマグマの湧き出し口付近で,硫黄バクテリアの化学合成を基礎生産として,深海としては異常に豊富な生物量をもつ生物群集が発見されている。

地理的な海の生物群集の分布は,大きい海流の勢力と,温度変化によって区画されている。寒帯や亜寒帯の海では,表層の海水が冷やされて下へ沈み,代りに深層の富栄養の海水が表層に上昇するという循環を繰り返しているため,栄養塩が豊富である。しかし,水温があまり低いと生物の増殖が抑えられるため,寒流が南下して暖められたり,寒流と暖流の潮境などには,生物量が非常に多いところが出現する。

 寒帯・亜寒帯の海は,熱帯・亜熱帯の海に比べて,種類数が少ないこと,ほんのわずかの種類がおびただしい数で出現することなどの特徴が見られる。その原因については,暖かい海の高い生産性が,多くの種を養ってゆくことができるとする〈生産力説〉や,捕食者の多い熱帯・亜熱帯海域は競争種の共存を許すことができるとする〈捕食者説〉,環境が安定で種分化に必要な十分な時間があったところで種多様度が高いとする〈時間-安定説〉など,他にもいくつか考え方が提出されているが,いずれもすべての場合を説明しうるものではない。

 沿岸の海は,栄養塩の豊富な陸水の流入があるために,常に豊富な生物量を維持している。また沿岸は,陸と海の相互作用によって,さまざまな形態の場所をつくり上げている。例えば,潮だまりのような小規模なものから,干潟,藻場,塩水沼沢地,汽水域,塩水湖,潟湖,入江,サンゴ礁,マングローブ沼沢地,内湾,内海などがあげられる。これらの環境は,その物理的性質によって,それぞれ特有の生物群集を擁している。これらの生物相の特徴をもとに,海洋に関しても陸上と同じく,海洋生物地理区を設定することができる。

海底にすんでいる動物も,分布域の拡大と個体群間の遺伝子の交流のために,生活史の初期,プランクトン生活をする幼生の時代を経る。底生生物の生活史の中で,この浮遊幼生期は,最も死亡率が高く,環境の影響を受けやすく,捕食者も多い。浮遊生活には,プランクトンを食べて成長するプランクトン栄養の幼生と,孵化(ふか)しても餌を取らず,変態し定着するまで卵黄からの栄養だけによって生活する卵黄栄養の幼生があり,後者は一般に大型卵である。卵黄栄養の幼生の浮遊期間は,プランクトン栄養の幼生より短く,この期間の死亡率を下げるために有利な形態である。そのほかに,卵胎生もしくは直達発生によって,浮遊幼生生活をもたない種類もある。この生活史型は系統分類上のグループと関係なく,ほとんどの海産動物分類群中にいくらかずつあり,一般に小型のものが多い。これら幼生の生活型は,分散の拡大と死亡率の低下という互いに相反する要求をうまく折り合わせて,進化してきたと考えられている。
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日本の神話では,太古にイザナキとイザナミの夫婦神によって,最初の陸地オノコロ島が造られる以前には,下界はただ一面の海原で,その上を陸の原質が,水に浮く油かクラゲのような状態で漂っていたとされている。原古には,下界が一面の海だったと見なす発想は,多くの神話に共通して見られる。旧約聖書に見られる古代イスラエル人の神話でも,神が天地を創造する以前には世界は一面の海原だったとされ,そのありさまが《創世記》の冒頭に,〈地は形なく,むなしく,やみが淵のおもてにあり,神の霊が水のおもてをおおっていた〉と記されている。インドの神話によれば,世界のはじめには,茫漠たる大洋の上で宇宙の維持者である大神ビシュヌが,一頭の巨大な蛇を寝台にして長い冥想の眠りに耽っている。時が熟するとこの神の臍から蓮が生え出て花を開き,その中に創造神ブラフマーが誕生することによって,世界の創造が開始される。古代エジプトの神話では原初には大洋ヌンだけが存在したが,そのただ中に太陽神ラーが,まずピラミッドの形をした丘の形で出現した。それから彼は,自身にほかならぬその丘の上で自瀆して男神シューと女神テフヌートを生み出し,この両神から大地ゲブと天空ヌートが生まれたという。ユーラシアから北アメリカにまたがる広大な地域には,神が水鳥などに命じて原初の大洋の底から土を取ってこさせ,それから陸地を造ったという神話が見いだされる。ポリネシアには,太古に神が魚を釣るようにして海底から陸地を釣り上げ,それによって一面の海原だった世界に,島が出現したという神話がある。

 ギリシア神話によれば,海ポントスは大地女神ガイアの息子だが,母と交わって多くの子孫を得た。その中の長子が,〈海の老人〉とあだ名される非常な知恵者で年寄りの海神ネレウスで,あらゆるものに自在に変身する能力をもち,ネレイデスNērēidesと呼ばれる50人(または100人)の美神たちの父親である。海の支配者は最高神ゼウスの兄弟のポセイドンで,武器としても漁具としても使われる三つ股の矛を持ち,地震や津波の神としても恐れられた。彼の妃はネレイデスの一人であるアンフィトリテAmphitritēで,この夫婦の息子で下半身が魚の形をしたひょうきんな海神トリトンも,ネレウスやその同類のプロテウスやグラウコスなどと同様に,非常な知恵と変身の能力の持主である。日本神話の塩土老翁(しおつちのおじ)も,変身の能力をもつ知恵者の海神であるという点で,これらの同類と認めることができる。

 北欧神話の海の主エーギルÆgirは,大洋そのものを表すと思われる大釜の持主で,それで大量のビールを造り,神がみのために豪華な宴会を催す。彼の妻ラーンRánはきわめて貪婪(どんらん)な女巨人で,海難に遭った人間を網で捕らえては海底の館へ連れてきて,黄金を厳しく要求する。この夫婦の娘は,9人姉妹の波の女精たちである。
海神 →創世神話
執筆者: 海についての伝説,禁忌も数多くある。エッダによるとボルの息子らが,殺された巨人ユミルの血から海をつくったといい,フランスの海岸地方では,神がそれぞれの島にパラダイスから水滴を運ばせてつくったといい,あるいは悪魔が神の仕事を邪魔するために海をつくったともいい伝えている。神が水ばちと3粒の塩から海をつくり,太陽がかつて地上に降り聖者を小便によって追い払ったために海ができ,そのために塩辛いとも伝えられる。海水が塩辛いことを説明するのは,塩吹き臼が海底に沈んだためだという物語は世界的に伝承されている。メーゲンベルクK.von Megenbergの《自然の書》(14世紀)によると,太陽とその他の星とはいつも海の上にあり,海底の世界から地上の霧をぬきだし,水と混合したから塩辛くなったのである,と説明している。フランスでは,海が塩杭(しおくい)のある地方に浸透してきたので,そのために塩辛くなったとも,魔女の夫がスープの中に塩がはいっているのを発見し,海に捨てたとも伝えている。波浪の原因についても多数の伝承がある。フランスでは,船乗りが裸の人魚を見ると海が怒り,悪魔が迷える魂を迎えに来ると荒れる。海上で口笛を吹くとあらしになる。また海上で〈塔〉や〈教会〉という言葉を使ってはならない。沖言葉として〈鋲(びよう)〉とか〈とがったもの〉といわなければならない。動く海は生物と考えられ,さらに海にはあらしをよび起こす悪魔が住んでいると伝えられている。西ユトランド地方では,海岸に流れついた死体を埋葬すると大あらしとなり,死体を掘り出して海に流してやると,おさまると伝えられている。死者は海人であり,海は自分の死者を要求すると伝えられている。また海水は医療に用いられた。ダルマティア人は眼病,傷,毒ヘビにかまれたときは海水で洗った。南方諸民族では下剤として海水を飲み,レライ島,ラコール島の原住民は個々に,毎年,いっさいの病気のために若干の米,果実や,鶏,卵二つを舟にのせて流す。ポンメルン地方では水浴する女たちは,最後に花輪を海に流すと病気にかからないと信じていた。これらの供物を海にささげるのではなく,病気をこれらの品に移してこれを流すことによって,永久に病気から解放されると考えられているのである。川の水が身を清めるというのも,これと同様の信仰にもとづくものである。またギリシア時代にも,家の中の悪霊を払うのに海水はとくに清浄力をもつものとされた。《イーリアス》にも海水で身を清めたことが述べられている。フランスでも,同様の目的をもって儀礼的な水浴が行われ,また海水をふりかける慣習がある。海水は清浄であり,すべて不純なもの(悪魔)を払う力をもっている。また死の国は,海のかなたにあって,海を渡って行かなければならないとする。ジグムントは死んだシンフィエトリを,渡し守に変装したオーディンに引き渡し,彼はその死者を海を渡って運んで行った。《ベーオウルフ》の死せるスクルドは,宝物を積んだ舟に乗せられ,北欧神話のバルドルの死体は海浜の舟の上で火葬されたのである。フランスの民間信仰でも,死者の行くところは地中の海とされている。
執筆者:

海に囲まれて生きてきた日本人ではあるが,今日,現実には,海に背を向けた生活がむしろ支配的になっている。しかし,海とかかわりをもった生活に根ざす伝統が,脈々と息づいている事がらも多い。人間の出産と死亡の時刻が潮の満干と密接に関係しているといわれることや,チャンス到来を〈潮時〉といい,〈待てば海路の日和あり〉という言葉などは,帆船時代からの海の生活に由来するものであろう。〈海千山千〉というのも,海に千年,山に千年住んだ蛇は竜になるという伝承にもとづき,世の中の裏も表もわきまえた老獪(ろうかい)な人物を婉曲に指すのである。〈海のものとも,山のものともつかない〉など,海と山とが二項対立的,ないしは相互に融和したかたちで表現されることが多い。

 海上から山を目標にして船の所在を知ることを〈ヤマアテ〉といい,〈タケ(岳)をミル〉ともいう。〈山に求めた海の道〉といわれるのは,近代的操船以前の伝統的技術であり,海上で生活する人々にとって,実利と信仰のなかから生まれた端的な表現である。諸国に霊山が多いなかで,海上を航行する人たちが,ことさら崇敬の念を寄せてきた山々は,太平洋岸でも日本海側でも,切れ目なく連なっている。海の神と山の神の婚姻譚は,このような海と山との密接なかかわりを,如実に反映したものであろう。海から寄り上がったものを神体とする神社は多く,それが安置されている場所はたいてい山頂であるが,その地方としては,海をもっとも眺めやすいところに好んで祀るという神社も数多い。

 《延喜式》に記載される祭りの供物をみると,海産物の方が農作物より多く,全体の6割以上を占め,多い順に塩,カツオ,ワカメ,アワビをあげることができる。アワビは神饌として重視され,志摩半島の海人たちは例年朝廷に奉献することを義務づけられていた。海水や海藻,浜の砂,塩などを潔斎の意味で信仰行事に用いる習俗は,海辺地域はもちろん,内陸の村々にもみられ,これを〈お潮井(しおい)〉といい,海に対する伝統的な心意を伝えるものである。ノシアワビは神饌として重視されてきたほか,現在でも贈物のシンボルとしてノシ(熨斗)が使われる。

 塩は人間が生きてゆくのに欠かせない。日本には岩塩がほとんどないので,塩は海の水から得てきた。海辺でできる海塩が,人の背や牛馬・川船などで山奥へも運ばれ,〈塩の道〉がきりひらかれ,張りめぐらされた。

 海のかなたに神の国・仏界があり,そこから年ごとに神々が人間のもとに訪れ,祝福を与えるという信仰もある。その仙界を奄美・沖縄諸島方面では,ニライカナイとかニルヤ,リュウグウという。ニライカナイは,人間生活万般につながる聖地と観念され,人間の生命もそこから生まれ,死後に行く浄土でもあり,五穀の種子や火もそこからもたらされたと信じられている。海亀はニライカナイの神の使いとされ,ときには海難から救ってくれると信じられてきた。このことは浦島太郎譚の亀と竜宮を想起させる。ニライカナイは,太陽の昇る水平線のかなたの聖地ともいうが,海と天とが日本語ではつながっているとも考えられている。原始・古代人の思考にみる根の国,底つ国,常世(とこよ)も,この海のかなたの聖地のことであったろう。
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普及版 字通 「海」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 9画

(旧字)
人名用漢字 10画

[字音] カイ
[字訓] うみ

[説文解字]
[金文]

[字形] 形声
声符は(毎)(まい)。(悔)(かい)の声がある。〔説文〕十一上に「天池なり。以て百川をるるなり」とあり、天池とは大海をいう。

[訓義]
1. うみ。
2. ものの多く集まるところをたとえていう。大きく、ひろいところ。
3. と通じ、くらい。

[古辞書の訓]
〔和名抄〕 宇美(うみ) 〔名義抄〕 ウミ 〔字鏡集〕 ウミ・アヲウミ・アヲウナハラ・オホキナリ・オホフ・サムシ

[語系]
xuは同声。声符のmuは、祭祀に従う婦人が、多く髪飾りを加える形で、上を覆う、暗い意がある。冥のところを海といい、それを畏れる心情を悔という。

[熟語]
海宇・海雲・海運・海・海裔・海塩・海・海屋・海蝦・海外・海角・海・海岳・海壑・海涵・海寰・海岸・海眼・海気・海・海沂・海客・海徼・海・海曲・海隅・海月・海估・海賈・海吼・海寇・海槎・海砂・海際・海産・海市・海士・海師・海次・海日・海若・海獣・海商・海城・海上・海色・海人・海神・海陬・海誓・海・海石・海汐・海・海舌・海扇・海鮮・海鼠・海藻・海賊・海・海内・海獺・海胆・海站・海鳥・海潮・海天・海甸・海島・海頭・海濤・海道・海豚・海暾・海馬・海髪・海畔・海・海表・海・海浜・海・海・海鳧・海風・海物・海氛・海辺・海浦・海防・海鰻・海霧・海面・海門・海洋・海容・海・海陸・海流・海量・海路・海楼
[下接語]
雲海・海・沿海・烟海・河海・外海・学海・寰海・環海・観海・巨海・近海・苦海・硯海・湖海・公海・江海・航海・黄海・山海・四海・酒海・樹海・周海・曙海・深海・人海・塵海・制海・青海・絶海・浅海・宗海・掃海・滄海・蒼海・大海・海・智海・潮海・渡海・東海・踏海・韜海・騰海・海・内海・南海・入海・汎海・氷海・表海・浜海・海・赴海・文海・碧海・辺海・防海・北海・墨海・奔海・冥海・溟海・陸海・領海・臨海

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「海」の解説

うみ【海】

鹿児島の芋焼酎。地元の契約栽培の原料芋を黄麹で仕込み、低温発酵で醸す。蒸留法は減圧蒸留。垂水の温泉水「寿鶴」を割り水に使用。原料はベニオトメ、米麹。アルコール度数25%。蔵元の「大海酒造協業組合」は昭和42年(1967)鹿屋管内の焼酎製造業者9社が協業し創業。所在地は鹿屋市白崎町。

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デジタル大辞泉プラス 「海」の解説

海〔唱歌:井上武士〕

日本の唱歌の題名。作詞:林柳波、作曲:井上武士。発表年は1941年。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定された。

海〔クラシック〕

フランスの作曲家クロード・ドビュッシーの管弦楽曲(1903-1905)。原題《La mer》。印象主義音楽を代表する作品の一つとして知られる。

海〔焼酎〕

鹿児島県、大海酒造株式会社が製造する芋焼酎。黄麹と赤芋「ベニオトメ」を使用。

海〔文部省唱歌〕

日本の唱歌の題名。文部省唱歌。発表年は1913年。

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百科事典マイペディア 「海」の意味・わかりやすい解説

海【うみ】

海洋

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【硯】より

…形は長方形,正方形,円形,楕円形,風字形のほか,自然や人工の姿にかたどって種々の名称がつけられている。硯の表面を硯面,背面を硯背,側面四囲を硯側,硯面の縁周を硯縁,頭部を硯首,墨をする所を墨堂,墨道あるいは墨岡,墨汁をためるくぼみを墨池,硯池あるいは海,墨堂と硯池の境界部を落潮,硯背の足を硯足,硯背の空隙部を挿手あるいは抄手(しようしゆ)などという。硯面には無数の微細な鋒鋩(ほうぼう)があり,これに墨がひっかかってすりおろされる。…

【ドビュッシー】より

…とはいえ,自由を信条とした彼の個性的天才を一つのイスムの枠内におしこめようとするのは,結局徒労に終わる努力でしかないのかもしれない。 《ペレアスとメリザンド》のあと,ピアノ曲集《版画》(1903),《影像(イマージュ)》第1集(1905),第2集(1907),管弦楽曲《海》(1905)によって,さらに新しい進展がくりひろげられた。2度目の結婚で子どもが生まれ,ピアノ組曲《子供の領分》(1906‐08)を彼に書かせる。…

※「海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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