石(いし)(読み)いし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石(いし)」の意味・わかりやすい解説

石(いし)
いし

山の石を岩(いわ)と称し、海の石を石(いし)とよんだ。中国隋(ずい)の『玉篇(ぎょくへん)』に「磯(いし)、水中磧(せき)」とあり、『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「石、凝土也」とし、「以之(いし)」と読む。

 本項では、種々の点から、石と人間生活のかかわりについて、総称としての石に触れる。地質学上の解説は「岩石」「鉱物」の項、土木・建築については「石材」、考古学的知見については該当する石製品の項を参照されたい。本項は、いわゆる民俗学的な視点から石を敷衍(ふえん)したものである。

[石上 堅]

石と生活

石の古代建築

石による建造物は数多い。いまその若干を取り上げてみよう。ギリシアアテネにあるアクロポリスパルテノン神殿は、壮大な白大理石の円柱列で名高い。また、ベスビオの噴火にうずもれたポンペイの廃墟(はいきょ)は、舗道の敷石に馬車の轍(わだち)の跡が残り、その道のわきに、石彫りの水神をのせた水道槽もある。ローマ時代の石造建造物も、エジプトのスフィンクス、ピラミッド、オベリスク同様、当時の生活をしのばせる。中国の『神仙通鑑(つがん)』には、羿(げい)は玉亀山で山霊を使役し、瑪瑙(めのう)の敷石・階(きざはし)をしつらえた宮殿を16もつくり、西王母(せいおうぼ)がそこに好み住んだと記す。

 日本では、ストーン・サークル(環状列石)などの巨石記念物が知られている。ケルン積石塚)は石塊で築いた古墳である。秋田県立石・大湯のメンヒル(立石)は招魂・昇魂を期した建造物であろう。中国渡来の石人・石馬は九州地方に多い凝灰岩製の出土品である。

[石上 堅]

彩りの呪

石の彩りにかかわる伝承も多い。ざくろ石、赤めのうは、その色から、皮膚病の護符として古代ギリシア時代から身に着けられ、たんぱく石(オパール)は不幸をもたらすと伝える。紫水晶(アメシスト)は、酒に酔わぬための呪物(じゅぶつ)ともいうが、悪魔を祓(はら)い、英才を賦与するともいう。こはくの珠(たま)は弱視をよみがえらすとされる。北欧平原では、オパール、碧玉(へきぎょく)など緑色の宝石は、傷害を招く不吉な石とされ、所持者の皮膚までが緑色になるとして嫌う。北アフリカ諸国などでは、山羊(やぎ)の心臓を腑分(ふわ)けすると、青い炎が燃え盛るが、トルコ石の青と同じく生命の徴証であるという。また、赤石には等しく、呪いを防ぎ、魔を追い払う力があるとされた。

[石上 堅]

石の供献具

日本の例をあげよう。天神地祇(ちぎ)や祖霊を祀(まつ)る祭儀は、大陸から渡来したとされる。山・川・島を神体にみなす土地に真向かう地域から、器具・什器(じゅうき)類の供献具の出土がみられる。石斧(せきふ)・石鑿(いしのみ)・石鍋(いしなべ)・石鉢などの工具、供食具、機織(はたおり)具である。さらに祭儀を侵す邪霊を祓う武器、石剣・石盾・石槍(いしやり)も出土する。石製の服装品も数多い。勾玉(まがたま)、彩礫(さいれき)、管玉(くだだま)、切子(きりこ)玉、棗(なつめ)玉、丸玉をそれぞれ一重・二重に連綴(れんてい)したり、さまざまに組み合わせ、頸(くび)・腕頸に巻き付けた。これらを身にまとうと、「マナ」(超自然力)が人々の願いをかなえ、霊威を発揮する。

[石上 堅]

実用具・呪具としての石器

いわゆる石枕(いしまくら)と称されるものがある。死者の頭をのせる中央のへこみの周囲に孔(あな)をあけ、蝶(ちょう)形の石製飾りを6本ほど挿す。千葉県に多い出土品である。近畿・中部地方では碧玉製品が出土する。『浅草寺観音縁起(せんそうじかんのんえんぎ)』にも石の枕に関する次の説話がある。風のすさぶ一夜、浅茅ヶ原(あさじがはら)の一つ家に宿を請う者があった。老婆は宿を供するが、富裕そうな旅人のようすをみるにつけ、邪心を募らせる。ついに老婆はその金品を奪おうと石の枕で旅人を打ち殺す。ところが、老婆に打たれていたのは観音であったという。老婆の石の枕は、へこみのあるつまらぬ丸石だった。

 石鏃(せきぞく)は、江戸時代には「星の糞(くそ)」、俗に矢の根石ともよばれ、その神秘性が語られた。鍬(くわ)形・紡錘(つむ)形など種類も多い。長野県一帯では黒曜石製の腸抉(わたぐり)式のものがある。狩りの獲物の鳥の腸を肛門(こうもん)から抜き取るために用いた。

 出土品の石刀、石斧、石鏃、石棒、石弾子(せきだんし)などは武器でもあり、呪具でもあった。記紀の俗に剣となす大量(おおはかり)も、邪霊・汚穢(おえ)を祓うのにあずかったものであろう。

 北欧の『エッダ』に、トールと巨人ルングニイルが争い、ルングニイルが赤髯(あかひげ)のトールに石棒を投げつける伝説がある。石棒を投げつけられたトールも槌(つち)を投げるのであるが、この二つは空中で激突し、石棒は砕け、その破片がトールの頭に突き刺さる。巨人ルングニイルは敗死したという。石棒はおおむね青石・安山岩・砂岩製である。石理(きめ)をわきまえた彫刻を施し、金精(こんせい)神や族神になぞらえ、広く路傍や小祠(しょうし)の神体として祀る。道祖神と同じく豊産・子授けを祈るのである。フランス、ブルターニュ地方には、裸祭りの日に花崗(かこう)岩製の石棒に肌を触れれば妊娠するという故事がある。

[石上 堅]

石と漁労・農耕

漁労の歴史は古い。当初は河川・沿岸でのそれが主であった。東北地方に出土する丸形・四角形の、孔や括(くく)りに糸をつける軽石の石錘(うき)は、釣魚に用いられた。牡蠣(かき)・鮑(あわび)を岩からはがしたり、貝の口をこじ開けるのに、珪石(けいせき)・硬砂岩製の、楕円(だえん)、横・縦形の石匙(いしさじ)を使用した。

 漁労に石を利用した例は、時代が下ってもある。台湾のアミ族の人々は田植が終わると、コムリッシ祭用の魚とりをする。コムリッシ祭は日本のさなぶりにあたる。河床の石河原に小屋(タロアン)を設け、石を積み、その上に芋の葉をかぶせ、砂利をのせ、流れをせき止めるのである。魚は網ですくい上げる。オーストラリアにも興味深い伝承がある。北西部、ラグランジュ湾の、雀(すずめ)の一種のズイの漁法である。ズイは海岸の浅瀬を小石で半円形に囲み、潮が引くと中に魚が残るように仕向けた。魚は鰡(ぼら)であるが、ズイはその鰡をつつき殺したという。鰡は石になり、この湾岸は鰡の豊富な漁場になった。

 農耕にかかわる石の伝承も少なくはない。沖縄県那覇市の地名起源である。大昔、呉氏宅に野菰(やこ)(俗称は奈波(なば)。茸(きのこ)形の石で、生産をつかさどる神の象徴)があったので、那覇となったというもの。奈波(キノコの方言)は土地神であり、農耕の増殖・生産を地中からの呪力で守り、豊饒(ほうじょう)をもたらす。沖縄の古代生活を多くの事例で語る『遺老説伝』中の一話である。

 オーストラリア、ニューギニアの諸民族の伝えもある。ここでは希望の大きさの石を土中にうずめておくと、願いどおりにそれなりのヤムイモタロイモが増殖するという。感染呪術を示唆するものとみてよい。また雨乞(あまご)いの際には、男たちは水に由縁する動物の踊りを舞いながら、女たちを囲んで石の粉をまきかける。石の粉は、水晶を槌石(つちいし)で粉末にしたもの。水晶は雨の石とよばれる。

 石臼(いしうす)にまつわる韓国、台湾その他の説話もある。たとえば、太古から天と地が石臼のように回転していて、善人のみがその孔(あな)の間に残って栄えた。あるいは、大洪水で世界の人類がすべて滅亡したが、ただ2人の兄妹が二つの峰に残り、石臼の重なるのをみて、それを神の啓示として結婚し、人類の祖となった、などである。

 農耕用の石製の出土品に石包丁がある。櫛(くし)形、長方形を呈するが、石板の上方に孔を二つあけ、紐(ひも)を通して、刃の部分で稲穂を摘んでいた。福岡県遠賀(おんが)郡水巻町の出土である。弥生(やよい)時代の石包丁には打製と磨製があって、形や刃のつけ方は一様ではない。打製の、サヌカイトを材料にしたものは、中部瀬戸内地域に多い。

[石上 堅]

石の民俗と伝承

山の神の石

人間の霊魂は動物の腑分(ふわ)けなどの印象から、形は丸形であるとか、三角形であると信じられてきた。丸形・三角形はそれぞれ心臓・肺臓の形である。こうした形の石に霊魂が宿り込むと、その石は成長し、増殖するとされた。小石一つであっても、山へ持って行けば、山の神は喜び、山はそれだけ高くなるという。「山の背競(せくら)べ譚(たん)」には以上のような背景がある。

 剣摺鉢(つるぎすりばち)で知られる有明(ありあけ)山(信濃(しなの)富士)は、岩木山津軽富士)同様、日に日に大きくなると伝えられていた。ある日、それを見ていた女が立ち小便をしながら、「毎日、毎日、そんなにせり上がって、どういうつもりなのか」と冷笑したので、山はそれ以来高くなるのをやめてしまった。ここには、山の神、石を祀る者が女性であり、その女性が不浄を行い、禁忌を犯せば、神の天降(あまくだ)りや祭祀(さいし)の中絶されうる事実が示されている。

 山の神は石・木の小祠に祀られる場合が多く、炭焼き、杣(そま)、鍛冶(かじ)、木地師、修験(しゅげん)など、霊山の麓(ふもと)から出て定住せずに旅を続けた人々の、山の神にまつわる口沙汰(ざた)も知られている。高さを誇る山の石を借りてきて、疣(いぼ)をなでさすり取り除く疣とり石・疣石は、鋳物師(いもじ)の足跡を示し、「芋掘り長者譚」を分布させた。

[石上 堅]

試練の石

石を抱き上げて、その重さ軽さで病気、失(う)せ物、商売繁盛などを占う伺(うかが)い石がある。力石は、鬼・弁慶・天狗(てんぐ)などが力試しをした石である。佐用姫(さよひめ)・聖徳太子が腰をかけた石の由縁で、力持ちになり、英才を発揮した、また疲れが回復し、病気も治癒した、などという休み石は、人々の尊び敬う祭壇石である。『古事記』中巻に以下の説話がある。麗しい伊豆志袁登売(いずしおとめ)の愛をかちえた春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)をねたむ兄秋山之下氷(したび)壮夫を懲らしめるべく、兄弟の母は伊豆志河の石を拾う。石を塩でもみ、竹皮に包み、かまどの上に置き、「この石の沈むが如(ごと)、沈み臥(ふ)せ」と呪うのである。母の祈念に、兄は八年(やとせ)を病みつき、臥した。いわばこの石は、成年戒の試練の石である。これに類する説話は、地境の石による呪術などのほか、地蔵、平将門(まさかど)の武勇、災害を防ぎ止める防圧語りにもみられる。

 立場石(たてばいし)の伝承もある。徳島県海部(かいふ)郡志和岐(しわき)浦に玉依姫(たまよりひめ)という娘がいた。娘は嫁に行く際に、生家を離れがたく思い、庭の石を拾って袂(たもと)に隠し、途中山の頂にかかるあたりで、小石をことりと捨てた。やがて3年が過ぎ、慈しみ深い父の死にあう。懐かしさのあまりその場所を眺めると、石はだれの目にもそれとわかるほど大きくなっていた。この石は、その上に石を供えると、良縁を得るといまだに信じられている。玉依姫は、この伝承からすれば、霊魂を招き寄せ、移し込める役割の巫女(みこ)であるらしい。玉依姫を名のる旅渡りの巫女は幾人もいて、祈祷(きとう)、まじない、供養(くよう)も行えば、男女の仲をとりもつための物語、あるいは処女懐胎、神の子の神秘な生誕の語りを、世過ぎの術にしている。

[石上 堅]

赤石・赤色の霊威

ブリタニア系の人々は、へこみのある石にバターや蜜(みつ)を入れ、酒や油を塗り清浄に保ち、女陰の形を彫り、赤く彩色して、豊饒(ほうじょう)・妊娠を念じるという。これは、日本における孕石(はらみいし)、局部を赤く塗られて路傍に立つ庚申(こうしん)石像と同じく、式部、虎(とら)、小町、五郎などの語りと共通の要素がある。二又(ふたまた)の木に石を供えてもよいのである。

 ローマの古語り(人狼伝説)がある。ある夜来客があった。所用を思い出し、客に頼む。客はやむなく引き受け、着衣を脱ぎ、狼(おおかみ)となり、森深く入り込んだ。そのとき着衣は石になり、くぼみに血をたたえていたという。

 静岡県掛川市の孕石天神は、社殿が赤石の上にある。赤石から、子石が毎日一つずつ生まれ落ち、その石を拾い、寝室に隠しておけば、かならず妊娠すると伝える。記紀にも、赤色にまつわる説話がある。たとえば、男神と人間の女が結婚する際には、男神は丹(に)塗りの矢となる。また、古く大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)に住んでいた隼人(はやと)は、神に仕える際に、体中を赤く塗りつぶしたとされる。「天道さん金(かね)の綱譚」にも赤色が出現する。子供たちを襲い、とって食う人食婆(ひとくいばば)が、逃げる子供たちのよじ登る天からの綱に追いすがる。しかし、綱は重さで切れて落ち、婆は石にぶつかり死ぬ。植えてあった近くの畑の唐黍(とうきび)の根は、婆から流れ出る血に染まり、赤くなった。ここでは、石が赤くなったとは説かれないが、天降(あも)るものが赤で表される。

 奈良県高市(たかいち)郡真菅(ますが)村小槻(おおづく)(現、橿原(かしはら)市)の宮に赤くへこんだ大岩がある。雷の落ちた跡だという。雷は大日様に捕らえられ、褌(ふんどし)を外され、二度とこの村に落ちぬと誓い、天に戻った。大岩のくぼみには褌の縫い目まで残るらしい。これは、赤色に関していえば、人間以外の神・精霊が人間に近づく過程を表し、褌の縫い目は霊威あるものの呪力を示すと思われる。

 船玉(船霊)(ふなだま)(船の守り神)として祀られる石もある。沖縄県宮古島の伝えである。遠く、長い航海に出た父を慕う子供がいた。子供は父恋しさのあまり、仲間嶽(なかまだけ)の奇石を守護神として舟に乗せ、海の果てに父を追う。波まかせの子供はおぼれ死ぬ。航海から戻った父は子供の死を悲しむが、舟の石を子の魂と思い定め、嶺(みね)に捧(ささ)げる。その後人々はこの山の石をいただき、赤糸を巻き結んで箱に収め、舟に供えた。

[石上 堅]

異形の呪

たとえば、石を縄で縛り、神仏に行うように願掛けをする行為がある。かなえば縄を解く。縛り石・縛り地蔵などとも称するが、呪を効果あらしめるための縛りである。サン、シメ、シメボシ、ツツダテ、ウケなどともいい、小枝、草、小石ものせる。異形をことさらに誇示し、神・呪物とするのである。『大和(やまと)物語』の、大宰大弐(だざいのだいに)小野好古(よしふる)と歌を唱和した檜垣(ひがき)の御(ご)は、石を祀り、その来由を語り、信仰を説く巫女(ふじょ)であった。福岡県太宰府市の観世音寺裏門前には、檜垣の御の上屋をしつらえた石墓があるが、眼病に効ありと木札を下げたその右わきの石にたまる濁り水は、いまは石はおろか信仰さえ影も形もない。

 蛇枕石の伝えは愛知県岡崎市(旧福岡町)にある。夫の浮気を恨み、妬心(としん)を募らせ、妻は岬の海に入水(じゅすい)して大蛇となる。大蛇は遊行の途次の蓮如(れんにょ)上人に会い、その説教をひたすらに聞き、彼岸の大石を枕に天女と化し、昇天する。この伝えは、石に憑(よ)る霊魂を招き、眠りを契機に異形・変身を成就する信仰の継承を明示している。

[石上 堅]

夫恋いの石

「つまごいのいし」と読む。峠の山道の日なたや、田んぼのあぜ道で抱擁しあい、屈託なげにくつろぐ爺婆(じじばば)石・夫婦(めおと)石はあちこちにある。田の神は爺婆の姿で、山上から田畑を眺め渡し、実りを予祝するが、これは山見・作見の名で知られる。郷土芸能などに存するカマケワザも、豊饒を祈る性交呪術である。『万葉集』にある大伴旅人(おおとものたびと)の歌「とほつ人松浦佐用媛(まつらさよひめ)夫(つま)恋ひに領巾(ひれ)振りしよりおへる山の名」は、以下の伝承を踏まえている。宣化(せんか)天皇の時代、新羅(しらぎ)征討に船出した大伴佐提比古(さてひこ/さでひこ)を、佐用媛が鏡山から見送り、領巾を振り、別離を嘆きながら、そのまま石に化したという。『古今著聞集』にもみえる望夫石(ぼうふいし)である。この望夫石は、佐賀県唐津(からつ)市呼子(よぶこ)町沖合い2キロメートルの加部島(かべしま)佐用姫神社の社殿下にある。また、他の望夫石は、福井県敦賀(つるが)市曙(あけぼの)町の気比(けひ)神宮にも、社殿下に白々とある。

[石上 堅]

神の石、石の白

松浦・松王・松童(まつわらわ)などのマツは、神に侍する意の「まつらう」、すなわち仕えることで、日待(ひまち)・酉待(とりのまち)のマチと同じく祭事を意味している。松童などは、サヨ・サヤと似寄りの、石語りを説き歩く信仰者である。

 祭りを執り行う祭壇の石は甑(こしき)石・俎板(まないた)石とよばれる。調理した供え物を捧げる。鮭(さけ)・鯖(さば)などが石の上に跳ね上がったとも言い伝えられる。鯖は「産飯(さば)」に通じ、食物の少量を取り分けて鬼神などに供するもの。関西地方で、盆の生御魂(うぶみたま)のおりに、両親の魂栄(たまはや)しに刺鯖(さしさば)を持参し供える例と同じで、古くは魚類以外をもさした。

 神への供物は、祭儀のあとの直会(なおらい)に際し、人々に供される。祭りに加わらぬ人々は、祭壇には登れず、供献の品々に触れることも許されなかった。神の石、祭壇は、清く保たれねばならず、汚穢は忌まれた。

 白い石は、子供の夜泣きや女の乳房にかかわる病を癒(いや)すと伝えられている。しかし、白色は、清浄のみを意味するものではなく、恐怖すべき呪力・威力をも象徴した。たとえば、夜更けに、炉端に座り込んだ山姥(やまうば)に、白丸餅(しろまるもち)のかわりに白丸石を焼き与え、追い払う話は、炉辺に生き続ける数多い口承とともに、村々の子供たちを喜ばせてもいる。

[石上 堅]

『石上堅著『新・古代研究』全3巻(1978・雪華社)』『石上堅著『日本民俗語大辞典』(1984・桜楓社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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