目次 鏡の文化史 西洋 中国 日本 鏡の歴史 中国 日本--先史,古代 和鏡 西洋 鏡の物理 鏡の製法 われわれが日常使っているガラスの鏡の以前に,金属の鏡があり,金属の鏡が使われる以前に,水の鏡があった。いま,かりに原始人がどこかの水たまりで,自分の姿を見たとする。乱れた髪を直すよりも,汚れた顔を洗うよりも,この原理のわからない〈自己〉の出現に恐怖を感じて,遠くの方に逃げてしまったり,水をかき回したりするかもしれない。鏡に映った姿を人間が平然と見ることができるようになったのは,実にごく近ごろのことである。その証拠に,鏡の面は必ずふたしておくという習慣があったり,鏡は女の魂だという信仰があったり,魔物の正体を見破るような機能があったりする。金属,すなわち青銅の鏡はエジプトに早く発明されて,だんだん世界中にひろがり,中国でも晩周(前5~前3世紀)ころから流行した。それ以前は水をいれた鑑(かん)であって,水鏡であった。皿の上に目がのぞきこんだ象形は鑑の原義を端的に示すものである。しかし,もうこのときは顔かたちを直す化粧道具であり,その言葉はそれから派生して道徳の模範という義にまで発展していた。鋳銅技術において,どこの国よりもすぐれていた中国では,よその国々と違い,とくにスズの比率の多い(およそ23%)白い青銅(白銅)を使った。鏡はふつう8寸というが,それは顔の大きさから割り出されたものである。鏡が少し小さくても,顔全体が映るように鏡面を湾曲させた。後漢時代の小鏡はとくに大きなそりをもたせてある。漢・魏・晋ではすっかり化粧道具になって,化粧匣(けしようばこ)に納められたけれども,まだ魔よけの機能も忘れられてはいなかった。しかし漢・魏の鏡を受け入れた日本では,鏡というものはまったく神聖な神物になってしまって,かずかずの信仰を生んだらしい。しかし,白銅を使ったのは唐までで,その後はふつうの青銅,したがって水銀で磨いて使った。いまガラスの鏡が世界を風靡(ふうび)しているが,その板ガラスの製作により,どんな大きな鏡でも作られるようになったことが,ガラスの鏡による革命である。 執筆者:水野 清一
鏡の文化史 鏡の歴史は人類の文化史を映した。それは鏡が,太古から,認識(とりわけ自己認識)の手段だったからであり,英語のspeculation(瞑想)は,語源的にも,ラテン語で鏡を意味するspeculumと切り離せない。ミルトンの《失楽園》には,イブが初めて水鏡に自分を映して,自己を他者として,そして自己として認識するシーンが描かれる。これは物語であるが,水鏡まで含めれば,鏡は人類の歴史と同じ古さをもつものであろう。そしてプラトンの《国家》第10巻にみるごとく,鏡の認識論的意味は,ソクラテス の対話編にまでさかのぼるのである。ただし古代の鏡は技術的に稚拙な銅鏡であり,それが映す像もおぼろげであった。像(イマーゴ,イメージ)が映ること自体が驚異であったことは確かだが,同時に映像は実体に劣るものという認識も確立した。プラトンのイデア論はこれを比喩に用いているし,キリスト教神学 の基盤となったパウロの教え(《コリント人への第1の手紙》13:12)でも,現世の人間に可能な認識形態はおぼろげな鏡像にすぎぬ,という比喩を立てている。この比喩はキリスト教象徴神学の根幹であり,中世思想を深く支配した。しかし14世紀のベネチアでガラス鏡製造技術の著しい発達がおこり,正確で明るい映像を与える鏡が普及し始めると,鏡は新しい認識論のための比喩となった。すなわち,〈鏡のようにおぼろげにしか映さない〉という比喩が中世象徴主義神学のためにあったとすれば,〈鏡のようにはっきりとありのままに映す〉という比喩は近代リアリズムのためにあったといえよう。レオナルド・ダ・ビンチ は彼の理想の美術のために,シェークスピアのハムレット は彼の理想の演劇のために,そしてスタンダール は彼の理想の小説のために,鏡の比喩を用いた。また西欧の新聞に,英語なら〈ミラー,mirror〉,ドイツ語なら〈シュピーゲルSpiegel〉の名を冠したものが多いのも,〈世相を鏡のように映す〉ことをうたったものであろう。
しかし人類にとって,鏡のこちら側にある実体と,鏡に映った映像との関係は,なかなか容易には整理できなかった。つまり,映像は鏡の向こう側にある,もう一つ別の実体のように感じられたのである。ヨーロッパ の諸言語で〈鏡の中に〉という表現と〈鏡を通して〉という表現と二つがあって,両者に区別がないという事実は,実体と映像,ひいては主体と客体との区別がそれほど明確ではなかったという事情を暗示しているかもしれない。また,英語(glass)でも,日本語でも(たとえば,凹面鏡と凸レンズ両方を意味しうる〈拡大鏡〉の用例),映して見る鏡と通して見るレンズとがどちらも〈鏡〉と呼ばれるのは,もう一つの暗示的なことである。とにかく人類は,鏡の向こう側の世界のふしぎな実体性に魅せられ,またそれを恐れ続けてきた。つまり鏡は魔術的・呪術的意味をもったのである。カトプトロマンテイア (鏡面魔術)というギリシア語 が暗示するとおり,それはギリシアの昔からあった。そしてフレーザー の《金枝篇》がたくさんの実例を集めているように,未開民族だけでなく文明社会にあっても,鏡面魔術の実例は多く,鏡を恐れるがゆえの迷信は数知れない。日本でも邪馬台国の女王卑弥呼が,魏王から銅鏡百面を贈られたのは,鏡面魔術を駆使するシャーマン的支配者であったことを暗示しているし,鏡面に覆いをする習慣や,鏡が割れると不吉としてこれを忌む習慣は,東西に共通するものである。もちろん,鏡または鏡像に対する恐怖心は,時代による消長があった。とくにデカルト以後の理性の時代には,光学理論の普及とあいまって,鏡が物を映すのはなんのふしぎもない,あたりまえの現象とみなされるようになった。実体は実体,映像は映像と,両者を割り切ってしまうわけである。
しかしこのことも,19世紀のロマン主義時代に入って想像力の復権が始まると,事情が再び変わったように思われる。心の中に思い描かれること,いわば心の鏡に映されるイメージが,新しい生命と実在感を得ていきいきと活動し始めると,鏡の向こう側の魔術的な世界も活気を帯び始めた。〈象徴〉や〈イメージ〉がよみがえったのは,鏡が冷たい無機物の反射をやめたときである。とりわけ,実在性を強めてきた鏡像が,二重身体験(ドッペルゲンガー )を導くのは,ロマン派およびそれ以後の好みのテーマであった。E.T.A.ホフマンは,《大晦日の夜の椿事》で自分の鏡像を失った男を描いた。これはA.vonシャミッソーの《ペーター・シュレミールの不思議な物語(影を売った男)》にヒントを得ている。また,ドストエフスキー の《二重人格》では,小役人の主人公が鏡像に分身願望を託すところから,彼の二重身体験の物語が始まる。フランツ・ウェルフェルの戯曲《鏡人》は,主人公と彼の分身としての鏡像との間に,ファウスト とメフィストフェレス のような関係が成立する話である。そして映画《オルフェ》でコクトーは,鏡の向こうの世界を危険な魅力に満ちた死の国として描き,忘れがたい映像美をつくってくれた。L.キャロルの《鏡の国のアリス》も,鏡の人間にとって無限の問いかけを促す,苦い寓話として読まれるべきであるかもしれない。 執筆者:川崎 寿彦
中国における青銅鏡の出土例は戦国時代以前にまでさかのぼるのであるが,〈鏡〉の字が文献資料に出現するのは戦国時代になってである。それ以前にはもっぱら〈鑑〉の字が用いられていた。鏡と鑑とは語頭子音を同じくし,同源の語であったと考えられる。鑑は,大きなたらい形の容器を呼ぶ名でもあって,金文の字体が, , などと作るように,水を張って〈みずかがみ〉をする器,あるいは〈みずかがみ〉でみずからの姿を照らすことを意味する字であった。《詩経》柏舟篇に〈我が心は鑑に匪(あら)ず〉などとあって日常の道具としての〈かがみ〉の意に用いられるほか,同じく《詩経》蕩篇に〈殷鑑 遠からず,夏后の世に在り〉というように,歴史の教訓という意味でも用いられている。すなわち〈みずかがみ〉でみずからを省みるという行為がより哲学化され,歴史の中で現在を顧みて反省をし,逆にそうした鑑戒(いましめ)の材料を与える過去の歴史をも鑑の語で呼ぶのである。歴史がなによりも現在の鑑戒のために存在するというすでに周代に見える観念は,のちには歴史書自体にも鑑の字を付けて呼ぶことにつながった。范祖禹の《唐鑑》,司馬光の《資治通鑑》などがその代表であり,日本の《大鏡》《水鏡》以下の〈かがみもの〉の歴史書もそうした中国の観念をうけた命名である。
鏡に象徴的な意味,あるいは神秘的な意味を見ようとするのは,諸子百家の中でもとくに道家系の人々であった。鏡の外物をあるがままに映す能力に,みずからを白紙の状態において,来る者は拒まず去る者は追わない,道家的な真人の無為のあり方の象徴を見ようとするのである。こうした鏡に対する意味づけはさらに深化されて,対象の本質を見つめつつ,対象と自己とが合一化してゆく神秘主義的な体験も〈玄鑑〉の語で表現している。
後漢時代に盛んに行われた讖緯(しんい)思想(讖緯説 )では,鏡に政治的な意味を持たせて,聖天子が天下を安定させればふしぎな能力を持った宝鏡が出現するとされ,逆にある王朝の末期に暴君が出ると王朝の伝えていた鏡(この鏡は実物を指すのではなく多分に象徴的なもの)が失われるとされる。そうした政治権力の象徴としての鏡は,〈玉鏡〉〈金鏡〉あるいは〈天鏡〉などとも呼ばれ,天命の思想と結びついたものであったことがうかがわれる。天子が天下を統治することを〈鏡を握る〉と表現するのも,こうした観念に出るのである。
魏晋南北朝時代になると,鏡の呪術的な能力が日常生活的な世界の中で強調されるようになり,それが神仙・道教思想とからみ合い つつ展開する。その呪術的な力の中心となるのは,妖怪変化の正体をあらわす能力である。人間の姿をとって出現した動物たちの正体を,鏡に照らすことによって見破ったという話は,《抱朴子》など道教系の書物のほか,六朝期の志怪小説 にいくつも見える話題である。こうした破邪の鏡の話を集大成した物語として,唐初の《古鏡記》がある。また唐末ごろより地獄の審判の場に鏡が置かれて,死者の生前の善悪の行いがそこに映し出されるといった絵画や物語が多くなるが,これも虚偽を見破るという,前述の鏡の持つ破邪の力によるものである。《西京雑記》に,秦の始皇帝の咸陽宮中には大きな方鏡(四角い鏡)があって,宮女の中で邪心を抱く者をそれで探知したという挿話や,《西遊記》において,暴れまわる孫悟空を照妖鏡に照らしてその変身の能力を封じたことなど,鏡の持つ呪術的な力は,中国の文芸の処々に反映している。
道教信仰においては,先秦の道家以来の観念をうけて,道教経典の中で鏡の語が比喩的に用いられているほか,実際にいくつかの鏡を用いて行う呪術的な実修もあった。すでに《抱朴子》に二つの鏡を用いる〈日月鏡〉の方,四つの鏡を用いる〈四規鏡〉の方などが見え,それらは鏡を前にして思念を凝らし,鏡の中に神仙たちの姿を出現させる修行であった。また鏡は魔よけのために用いられ,道壇の四方と中央とに鏡を置いて道教儀礼が行われたりするなど,道教と鏡との結びつきはとくに密接である。 執筆者:小南 一郎
日本 鏡は,日本神話では単に姿見の具としてだけでなく,とくに貴重な品物となっており,すでに五部神のうちに鏡作の祖石凝姥(いしこりどめ)命 が数えられているのは,それを物語るものである。また人の映った影はその人の霊魂であるとし,霊魂と自分と自意識とをいっしょにして区別しない。そうした性質が鏡をして玉や剣などと同じく,日常身辺にありながら特異な存在とされ,そのためになにか呪力(じゆりよく)でも内蔵しているもののように考えられてくる。鏡が神の依代(よりしろ)となり神体とされ,宗教的に取り扱われるわけもここにあり,日本において神璽や神剣とともに三種の神器と称して神聖視されたいわれもまたここにある。すでに《日本書紀》では神代記事に天照大神(あまてらすおおかみ)が天の岩屋戸にさしこもり,世の中が暗やみとなったとき,思兼(おもいかね)神によって石凝姥命の作った鏡を岩屋戸にさし入れて天照大神の出現を祈った。鏡はその人の真影を映すので,天照大神は孫瓊瓊杵(ににぎ)尊を大八洲国(おおやしまぐに)につかわすときにこの鏡を渡して,もっぱらわが魂としてわが前にいつくがごとくいつきまつれと勅した。その鏡がいまも伊勢神宮に神体として祭られる八咫鏡(やたのかがみ)であるとする。鏡をもって神体とすること《皇大神宮儀式帳》を見ても,荒祭宮(あらまつりのみや)は大神宮の荒魂(あらみたま)宮と称し御形は鏡であるとする。また伊雑(いさわ)宮の場合にも天照大神の遥宮(とおのみや)と称し御形は鏡であるとする。このほかおもな神社には鏡をもって神体とすることも多いが,それも本来は神宝であり,神宝がただちに神そのものと考えられるので思想的にも相当に高いといってよい。
このようにして鏡はその形と働きとから,太陽の象徴とされ日神の当体であるともされる。太陽が万物を照覧するように,鏡はすべてのものを映して余さず偽らず正邪を判断するとし,玉の仁,剣の勇に対して鏡は智の象徴であるともする。 執筆者:原田 敏明 鏡は影見(かげみ)が語源ともされるが,その映す像はしばしば異界とみられた。地獄の閻魔庁の浄玻璃(じようはり)鏡は生前の罪悪をすべて映し出すとされた。また鏡は未来の姿も映すとされ,井戸や池などの水面に将来の姿が映じた奇跡を語るモティーフは物語によく登場する。《古今著聞集》には九条大相国が宮中の井戸をのぞきこむと大臣の姿の自分が映り,のちに実際に大臣になったという話がみえる。また貴人が姿を映じたという伝承を伴った鏡井,鏡池,鏡石などの伝説も水鏡や石に映った姿で神意を占った神聖な場所といえる。
鏡は姿を映じる点で水と深い関連をもち,金属鏡はとくに水神祭祀に使われたようである。《土佐日記》には荒れた海に鏡を奉って鎮めた話が出ており,羽黒山や日光二荒山,赤城山などの神池からは多くの古鏡が出土している。水神には鐘や刃物などの金物を好むあるいは嫌うという相反した伝承が伴っており,鏡を水底に沈める風習もこの信仰に基づくものといえよう。
鏡は女の魂や護身の具ともされ,妊婦が鏡を身につければ葬式や火事の悪い影響を防ぐことができるとされており,逆に,赤子や病人など霊魂の不安定なものは引き込まれることを恐れて鏡を見せることは禁じられている。鏡は光を反射させたり姿を映すことで,悪いものを撃退したり鏡に移したりするというのであろう。中国では家の入口に鏡をかけて魔よけとする習慣があり,西洋には死者が出ると鏡を覆ったり病人は自分で鏡を見てはならぬという言い伝えがある。
なお,鏡の夢は吉とされるが,鏡が割れたりくもったりするのは不吉とされ,中国の故事に基づいて離婚を破鏡ということもある。 執筆者:飯島 吉晴
鏡の歴史 中国 東洋での金属鏡は,前2000年,中国の甘粛,青海地方にひろがった斉家文化に属する1面の青銅鏡が最も古いようである。その後,殷代や春秋時代にも少数の遺品があるが,それらは日常の生活の常用の道具として普及していたものとは思われない。おそらく,特殊な人たちが使用した呪術用具だったとみられる。中国の古代鏡に人々が興味をもちだしたのは唐・宋時代からで,漢と唐との鏡式の違いがすでに認められていた。清代になって考証学が進むとともに,鏡背にある銘文についてすぐれた考証があらわれた。しかし鏡の性質が明らかになったのは20世紀に入ってからである。それは,主として中国以外の人たち,ことに日本の学者の研究によるところが大きい。これは考古学の発達に伴う実物の観察に加えて,新たに確実な遺品が掘り出されたからで,ことに1920年代になって,それまで最も古いとされていた漢鏡よりも古い鏡がおびただしく見いだされたからである。中国の金属鏡は,現在までに発見されたところでは,前6~前5世紀のものが古い。この時代の遺品は,今日,秦鏡,淮河(わいが)式あるいは周代後期の鏡などと,いろいろな名称で呼ばれているが,中国での長い発展の最初の段階を示すとともに,また工芸品としてもすぐれたものである。この種の鏡には,鈕を中にした円い偏平な鏡背に,地文的にその時代の文様をはめただけのものから,円い鏡体にふさわしい装飾文にいたるまで,いろいろの段階のものをみる。すなわち中国特有な蛇崩しの細文を単位ごとに繰り返し,外形とまったく関係のない地文的な装飾を施し,その上に鏡の形に応じて別な文様を重ねたものがあり,この主文の後者がだんだんと発展してもとの地文の方が後退してゆくという一連の系列が認められる。その主文では虺竜(きりゆう)禽鳥を主とした動物文が目だっている。ところが,これらと同時に洛陽金村,安徽省の寿県,湖南省の長沙などの古墓群から発見された鏡に,背文の装飾が整い,表現技術が非常に進んだものがある。浮彫的な虺竜を巧みにからませたアラベスク風の透し文のものをはじめ,金銀の巧みな象嵌で画像なり虺竜文なりを表したもの,鏡背に玻璃(はり)(ガラス)や玉をはめこんだもの,さらに平滑な鏡背に絵を描いたものなどがあって,それぞれの技巧がはなはだ進んでいる。そして鏡の形も,円いもののほかに四角い形があるし,鏡面と背部との二つからなる二重体鏡が上記の透文鏡,象嵌鏡に認められる。なお,この時代に良質の陶土で作って彩画した明器の鏡もまた一部に行われた。
戦国時代から秦をへて漢代になると,技巧をこらした特殊なものがなくなって,漢鏡として古くから知られていた円鏡がもっぱら行われ,すべて白銅で作られることになった。背文は前代から受け継いだ虺竜文系の帯圏の間に〈大楽富貴〉などのめでたい銘文を入れたものがあり,新たに成立した鏡式として方格四乳葉文鏡,精白鏡など幾何学的な文様のものがあって,おのずから時代相を示している。これらの鏡には〈日の光を見る 天下大いに明なり〉〈久しく相見ず 永く相忘るるなかれ〉などの簡単な4字の対句から,文学的な銘文を特色のある隷書で表したものが多く,なかには〈久しく相見ず 秋風起こって我が志かなし〉などの銘文をも見うける。
このような傾向をもった中国の鏡に,前漢の後半ころ一つの定まった型ができた。方格規矩四神鏡と内行花文鏡とがその代表的な鏡式である。二つながら平縁と鈕との間に配したその図様は,一方は方格と規矩形に四神その他の禽獣形,それを隆起した細線で表し,周囲の平縁を流雲文で飾り,他方は主文は早くから行われた内行弧文であるが,鈕の四葉座の間に〈長く子孫に宣し〉とか弧文の間に〈寿は金石の如く佳にして且つ良し〉というような銘文を配していて,ともに完成した形である。そして前者には長い7字句の整った銘文のあるものが多くて,尚方の官工で作ったことや,〈漢によい銅があって丹陽から出る〉ので鋳造したことを記し,この種の鏡が漢王室の加護による所産であることを示している。前漢に代わった王莽(おうもう)は,その国号の新を同式の鏡の銘に記録し,また〈僻雍を興し明堂を建て,単于(ぜんう)を侯王に列した〉との功業をたたえた文字を表した。王莽鏡と呼ばれるものがそれである。後漢代では上の鏡式が引き続いて行われるとともに,新たにまたいろいろな鏡式が現れ,それらが諸家の手で鋳造されたことが銘文によってわかる。このうちには鋳造の年代を示す紀年鏡も含まれている。道家の東王父,西王母の神仙物語や,その時代の風俗を表す画像鏡,平面的な表出の夔鳳(きほう)・獣首の両鏡式,肉を盛った彫塑的な禽獣や竜虎で飾った神獣鏡などが著しい新鏡式である。なかでも虁鳳鏡は古い銅器にある禽形を鏡背文にしたもので,鉄で作った遺品があり,金銀の象嵌で図形の細部を表している。神獣鏡は三国から六朝時代に及んで,ことに盛んに作られ,時代の下がるとともにだんだんと肉彫が写実的な様相を加えるが,その縁に新たな帯圏を加えて複雑な断面をもつものと,三角縁のものとが並び存在している。三国時代では,北方の魏の作鏡はすぐれており,南方の呉は粗雑なものが多く,銘文なども整っていない。
以上一連の鏡式に対して,六朝末からはかなり違ったものが現れる。宋代から,前者と区別されている唐鏡がそれである。これまでの鏡が帯圏の間を幾何学文や禽獣文で飾っているのと違って,鏡背いっぱいに大きな図様を配し,それが装飾的,かつ絵画的になっている。形もまたこれまでの円いものだけでなく,稜形,花形から四角,角丸などいろいろあって,背面の装飾も鋳出しのほかに,鍍金銀貼(ときんぎんばり),螺鈿(らでん),平脱(へいだつ)などの特別な技巧をこらした,いわゆる宝飾鏡が作られ,金属鏡の一つの頂点をなし,唐代文物の精華を反映している。日本の正倉院に伝来する鏡の大部分は,当時渡来したこの類のものである。もっともこの唐鏡という新様式も,一般に隋鏡と呼ばれている初期のものでは,なお前代の神獣鏡のなごりを残したものもあるが,海獣葡萄鏡 などはうちに葡萄文を表して,唐鏡の先駆的な鏡式をなしている。盛唐になると双鸞(そうらん)や花枝を中心とするもの,西アジアから伝えられた瑞花の華やかな装飾文で飾ったものなど,いずれも厚手にみごとに鋳上げられている。しかし,この種の鏡も唐の後半になると,だんだんと粗末になり,宋代になると白銅でつくる鋳造の技術が衰退し,青銅の面に水銀を塗ってわずかに実用を弁ずるというまでにたちいたった。この宋代からは,一方で古い鏡式の〈踏返し〉が流行して,金属鏡の使用は清朝まで続いたが,工芸の作品として挙げうるほどのものはなくなった。これらの鏡の実例は高麗(こうらい)の古墓からの出土品に多い。また,この時代南方の湖州で鋳造された遺品(湖州鏡 )もやや目だっている。
中国の金属鏡は,早くから周囲の国々に伝えられ,トルキスタン,インドシナ,朝鮮,満州,モンゴリア ,シベリアから遠くロシアの一部にまで及んだ。そして東の方の日本では特殊な発展を示した。 執筆者:梅原 末治+田中 琢
日本--先史,古代 日本列島に最初に登場した鏡は,朝鮮半島で製作された多鈕細文鏡 であった。凹面鏡の多鈕細文鏡は,もともと映像の具ではなく,呪術用具であったとみなされており,銅鐸と同じところに埋納された事例もそのような用途であったことを示している。現在までの発見例はわずか5面分だが,最初に遭遇した銅鏡が呪術用具だったことが,その後の日本における鏡の歴史に影響を与えなかったかどうか,興味深いところである。その流入の時期は弥生時代前期末のことだったが,中期中ごろ以降になると,中国の前漢鏡,つづいて後漢鏡が出現する。それらは北部九州地方に集中して出土する傾向を示し,30面以上という多数を1基に副葬した甕棺墓が博多湾岸とその周辺にある点,これらの中国鏡が日本列島への搬入後あまり時間をおかずに副葬されている点が特色といえる。しかし,このころに搬入されたとみられる後漢の方格規矩四神鏡や内行花文鏡が次の古墳時代の古墳からも出土している。この現象をとらえて,弥生時代に中国鏡は広く北部九州地方以外にももたらされたが,近畿地方をはじめ多くの地方では,それらは神威の象徴として保持され,したがって北部九州地方以外の弥生時代の遺跡からは出土することはまれであり,その神威に代わる権力の出現によって,ようやく古墳に副葬されるようになったのだ,とする説がある。弥生時代後期から古墳時代初めにかけて,鏡片を装身具とする習俗があるが,濃淡こそあれ,それが広く西日本を覆っているところからみて,中国鏡は弥生時代遺跡から出土するもの以上に広く分布していた可能性は大きい。
日本列島における鏡の製造は弥生時代後期に始まっている。その直接的な淵源は朝鮮半島南部で中国鏡を模倣製造したことに始まるのであるが,製品は小型粗製であり,その分布は,これも中国鏡同様,北部九州地方に濃厚である。
古墳時代の鏡は,祭祀遺跡の出土品もあるが,ほとんどが古墳の副葬品であり,先に挙げた漢鏡に加えて,三国六朝鏡が出現し,さらに日本列島で製作した仿製鏡 も多数含まれている。とくに,三国六朝鏡では,三角縁神獣鏡 が注目される。魏・晋と邪馬台国との数次におよぶ交渉によって入手されたと推定される三角縁神獣鏡には,同じ一つの鋳型を使って複数の製品を作った同笵鏡 が多数存在するのが特色となっている。この同笵鏡の分布状況から,大和を中心とした権力と地方権力との交渉過程を復原する説があり,同笵鏡論と呼ばれている。ただし,三角縁神獣鏡は,これまでに中国における出土例がないところから,日本列島において製作されたものと主張する説もある。古墳時代の仿製鏡は,弥生時代の仿製鏡との関連は不明であるが,その製作は4,5世紀,中国鏡の模倣から始まる。ほぼ同時に中国鏡の図像文様を換骨奪胎したものや,直弧文鏡や家屋文鏡あるいは狩猟文鏡のように独自の図像文様をもつものも登場する。その一つの特色は,径30cm以上といった超大型鏡が径数cmの小型鏡とともにあることである。材質も中国鏡に劣らないものもあるが,平均すれば,銅に対するスズの比率が低く,映像具の機能を果たしえたとは思えぬものも少なくない。おそらく,実用的な映像の機能を必要としない呪術具であったのであろう。
6~7世紀には日本列島で鏡が製作されたとみられる証拠はほとんどない。そのころの古墳から出土する鏡は,ほとんどが4,5世紀の製品とみてよいものである。この中断期間をおいて,鏡の製作が再開されるのは奈良時代,遣唐使による中国との交渉が開始されたころである。唐鏡 の搬入とその技術による仿製鏡の製作が再び始まる。高松塚古墳 や正倉院の遺品がそれを代表し,また正倉院文書 には,鋳鏡の実態を伝える文書が残されている。しかし,この時代の鏡も,一部を除けば,ほとんどが社寺堂塔の荘厳具であり,祭祀用具であった。
平安時代中ごろ,日本独自の和鏡が成立する。その背景には,化粧する階層の増大による映像具としての鏡に対する需要の増大がうかがえる。その背面の図像文様は,唐鏡の図像文様の系譜を引き,それを和風化した花鳥の類が中心になっている。同時に湖州鏡をはじめ薄手無文素鈕の宋鏡の影響も現れている。この化粧用具としての鏡の普及とともに,映像機能を高めるためか,スズと水銀を鏡面に塗布する技法が登場するのもこのころからである。和鏡は,材質や製作技術あるいは図像文様においても,鎌倉時代に頂点をきわめる。つづく室町時代には,宋・明鏡に学んだ柄鏡が出現し,以後の和鏡の主流となる。これまた,平安時代以来の実用的な映像具としての発展の一段階として理解できる。それと並行して,呪術具としての鏡の伝統も,神体や神宝の鏡のなかに生きている。その例としては,鏡面に神仏像を線彫や墨画で表現し,それを礼拝する鏡像 ,あるいは仏像を鏡面に付加した懸仏 (かけぼとけ)などがあるし,海浜湖沼へ鏡を供献する習俗も併せて,古代以来の呪術具としての鏡の系譜が中近世以降にまで連続していることを示している。 執筆者:田中 琢
和鏡 日本独自の様式をもつ和鏡は平安時代に出現するが,その母胎となったのは中国の唐鏡である。7~8世紀になると,漢鏡に代わって,新たに海獣葡萄鏡など隋唐鏡が日本に舶載された。この時期は古墳文化と仏教文化が重なっているので,高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡や法隆寺五重塔心礎発見の海獣葡萄鏡のように,古墳からも寺院からも発見されている。奈良時代には鏡は寺院で盛んに使われた。《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》によると1寺で1275面もの鏡を所有していたことが知られ,また正倉院には今も56面の鏡が収められている。これらの中には舶載唐鏡のほかに,日本で鋳造されたものがかなりある。舶載唐鏡には正倉院鏡に代表されるように,唐花双鸞文,海礒文,盤竜文,海獣葡萄文など文様の種類が多く,外縁も八花形,八稜形といった華やかなもので,文様表出も鋳銅の高肉表現のほかに平脱とか螺鈿,銀貼,七宝(しつぽう)といった特殊な技法のものがある。当時日本で作られた鏡はほとんどが舶載唐鏡を原型とし,これを鋳型の上に置き,押し当て,型取りして鋳造した〈踏返し〉といわれる方法で鋳造されたコピー鏡である。東大寺三月堂の天井を飾る天蓋にはめられた海獣葡萄鏡は日本で鋳造された踏返し鏡で,同笵鏡がほかにも発見されており,ある程度量産されたことがうかがえる。これらは文様表出が鈍く,鏡胎はやや薄手で,径もわずかながら原型となった唐鏡よりも縮小した雑作の鏡であり,数多く鋳造されたが,長く流行しなかった。
平安時代に入ると,一面ずつ丹念に鋳型に篦(へら)で直接文様を陰刻するようになり,文様は日本独自なものとなってくる。その祖型となった鏡は興福寺金堂出土の唐花双鸞八花鏡や正倉院の鳥獣花背八角鏡のような左右に鸞を相対させ,上下に唐花を配した対称的構図の鏡で,このうちの唐花を瑞花に双鸞を双鳳に替え,瑞花双鳳鏡となる。これはまだ完全に和様化されていないので唐式鏡といわれており,変化した時期は988年(永延2)の年記をもつものがあるところから10世紀末から11世紀初めに当てられる。瑞花双鳳鏡はやがて瑞花を日本でよくみられる松や楓,梅に替え,鳳凰も空想的な鳥でなく親しみやすい鶴,尾長鳥,鴛鴦,雀などに替え,松鶴鏡,楓双鳥鏡,梅樹雉子鏡などとなり,さらに山岳,洲浜,水流,草花を加えて秋草双雀鏡,洲浜松樹双鶴鏡などといった風景文様を表したものへと発展し,12世紀の初め平安後期にいたり,日本的な情趣をもつ和鏡を完成させる。この時期の鏡の特色は総体に鏡胎が薄く軽量であること,縁も細縁で鈕もつつましい素鈕が多く文様は花鳥を中心とした優雅なものであり,表出も薄肉繊細で,平安時代の貴族の趣好を端的に反映させており,藤原鏡と呼ばれている。山形県羽黒山鏡ヶ池より発見された羽黒鏡 はその代表的なものである。
鎌倉時代は和鏡の完成期である。藤原鏡の洲浜双鳥鏡から発展した牡丹蝶鳥鏡(新田神社),山岳松鶴鏡から発展した蓬萊鏡(大戸神社)などはこの時期の鏡の代表例である。鎌倉時代の鏡の特色は鏡胎が厚手で,鏡縁も厚手で幅広く,鈕も大きく,総体に重量感をもっている。また文様は藤原鏡につながるものであるが,表出は高肉の立体的表現をとり,各種の篦を用い,鳥の羽など一枚一枚を細かく表現するというように写実的かつ技巧的であるといえる。
室町時代になると,技術的には高度なものが作られるが,末梢的な技巧に走り魅力はなくなる。これを打破しようとして漢鏡にみられる鋸歯文や櫛目文帯を加えた擬漢式鏡や瑞花双鳳鏡の擬古作などが作られた。また室町後期になると,新たに宋鏡の影響を受けて,円鏡に長い持手をつけた柄鏡が出現する。柄鏡は江戸時代に入ると,円鏡よりも好まれ,和鏡の主流となる。柄鏡は鏡背中央にある鈕が不必要なので,鏡背面いっぱいに絵画文様を表すことができ,ここに自由で瓢逸な江戸時代の人々の好みを反映した文様がつけられた。中期になると,貨幣鋳造法にみられる生型(なまがた)鋳造法を利用するようになり大量生産が可能となったので,広く庶民の生活の中にも入るようになった。その反面,粗悪な銅質を材料とした粗雑鏡が一般に普及することになった。文様もまた,一般化するにつれて非常に俗化し,後期には鶴亀・松竹梅,南天(難を転ずるという意)や家紋,寿・鶴亀といった大文字を入れたものなど,慶祥文様が用いられた。また〈天下一藤原光長作〉〈天下一備後守藤原光政〉などの作者銘もつけられている。後期には女性の髪形が大きくなったので,鏡もしだいに大型化し,柄が太く短く径28cmほどの大型鏡がひろく作られた。これらは化粧用に柄鏡2枚を合わせ鏡箱に納めるようになる。伝統的な銅鏡も明治時代に入ると,ガラス鏡が普及し始めるようになり,やがて姿を消す。 執筆者:中野 政樹
西洋 いわゆる水鏡などは別として,考古学的に最古の鏡といえる資料は,トルコのチャタル・ヒュユク出土の新石器時代の資料であろう。これは黒曜石製で円形,周囲をプラスター 様のもので囲覆してある。こうした石製の鏡はエジプトのほか,アンデス地帯やメソアメリカ の遺跡からも出土する。このうちアンデスではまず形成期に無煙炭を素材とした円形・方形の鏡jet mirrorが出現し,古典期から後古典期にかけて装飾をもつ木製や金属製の枠に鉄鉱石の薄片をはりつけた柄鏡や,金・銀・銅・青銅・黒曜石製のものが作られた。メソアメリカでも形成期に鉄鉱石製のもののほか凹面鏡も作られ,古典期から後古典期にかけては石板の表面に黄鉄鉱の薄片をモザイク状にはり合わせた鏡が盛行し,これは北アメリカにも伝播した。
金属製の鏡は,新大陸以外では純銅製・青銅製のものがエジプト,イランのスーサをはじめ,シアルクⅢ,シュメールの初期王朝期などの遺跡にみられ,インドではモヘンジョ・ダロ やハラッパー などで出土している。いずれも木や象牙・骨製の柄をつけたものが多い。このうちエジプトでは,第11王朝の王妃カウイトの石棺の浮彫にこのような手鏡をもった彼女の姿が表されているし,第18王朝ころになると木柄に黄金をかぶせ,柄頭をハトホル女神の姿につくった青銅製柄鏡そのものが残されている。第21王朝の精巧な柄鏡箱も工芸品として有名である。これら古代エジプトの柄鏡の鏡面はいずれもやや横広の楕円形を呈し,全体としてロータスをかたどっているのが特徴といえる。
ギリシアでは柄鏡と小型無柄の懐中鏡とがあるが,背面に神話的図像を線刻した例が多い。青銅製円鏡を二枚重ね蝶番で開閉できるようにしたものもある。このギリシア系の柄鏡はエトルリア ,スキタイ,そしてローマに受け継がれ,金銀で鍍金するなど豪華なものも作られる。なお,イギリスでも紀元前後ころの遺跡から抽象文で飾られた青銅鏡が出土する。
ローマではやがてガラスの技術の発達とともに,ガラス片の背面に鉛やスズ,あるいはプラスターを塗ったりしてガラス鏡をつくるにいたる。またガラス片を革製の枠にはさみ込んだ懐中鏡なども工夫された。 執筆者:菊池 徹夫 金属製鏡は古代から中世期を通じて広く用いられていたが,その形式はほとんど手鏡であった。スズと水銀の合成によるガラス鏡は14世紀にベネチア人によって作られたが,それが実用的なガラス鏡として生産されたのは16世紀中ごろであった。イタリアでそれはまず壁鏡として利用されたが,小型で高価なため豪華な彫刻を全面にほどこした額縁にはめて装飾効果を高めた。イギリスで最も古いジャコビアン期の壁鏡もイタリアの手法に従い,ギボンズG.Gibbons(1648-1721)の華麗な木彫の影響を受けて,額縁の効果が評価された。ルイ14世の時代になると壁鏡は大型になり,さらに木彫の豪華な額縁,それに銀または金の鍍金が施され,宮廷の権威を高める効果を果たした。ロココ様式 が流行すると,壁鏡は曲線輪郭の額縁で飾られ室内に軽快で典雅なムードを与えた。イギリスでも重厚なジャコビアン様式 から軽快なクイーン・アン様式,そして18世紀中期のチッペンデール様式 の壁鏡になると,しだいに大型化するとともに,ロココ様式を取り入れ,楕円,円,不整形など多様な形が現れた。ロバート・アダム(アダム兄弟 )の古典様式の壁鏡は直線構成と古代のモティーフでシンメトリカル に設計された。
小型の鏡はドレッシングミラーとしてスタンドに固定されたり,コモード(整理だんす)やチェストの上にのせて使用された。鏡とテーブルを組み合わせたドレッシングテーブルは17世紀後期のフランスに現れ,18世紀にはプドルーズpoudreuse(poudreは白粉の意)と呼ぶ化粧テーブルが上流婦人に愛用された。イギリスでは18世紀後期には化粧鏡とろうそく台,引出し,棚のついたボー・ブランメル Beau Brummellと呼ぶ男性用化粧テーブルも現れ,ジョージ4世時代に流行した。全身を映す姿見の出現は17世紀後期のフランスにみられたが,ヨーロッパ諸国での本格的流行は18世紀後期からであった。 執筆者:鍵和田 務
鏡の物理 鏡は,光線がなめらかな反射率の高い面で反射されることを利用したもので,鏡によって光線の進行方向が逆転する。鏡の面の法線と入射光線とのなす入射角は,鏡の面の法線と反射光線のなす反射角と等しいので,一つの点光源から出る多数の光線束は反射され,図のように広がる。これはあたかも鏡について対称の位置に考える別の点光源から出てきたように見える。この仮想的な光源を実際の光源の鏡像という。鏡像は,実際の光源を通る鏡面の法線の延長上の鏡とは反対側にあって,鏡像と鏡との距離は実際の光源と鏡との距離に等しくなっている。
鏡に姿を映す場合を考えよう。人間の顔は左右対称に近いのであまり明確でないが,この場合でも鏡に映った顔は,軟らかいゴムで顔の面を作り,その面の凹凸を逆にして眺めたものに等しい。鏡に姿を映すということは,自分の上は上の前方鏡の向こう側にその鏡像ができ,下は下の前方に,右は右手の前方に,左は左手の前方にそれぞれの鏡像ができ,これら鏡像の集合である鏡の中の自分の姿に正対して見ることであるからである。この姿はあたかも背中から自分の前面を透かして見たのと同じである。鏡に映った姿は左右が逆になり,直接に物を背後から透かして見た場合と同じになることは,文字を鏡に映してみるとよくわかる。鏡に映した文字はちょうど紙の裏から文字を透かして見た場合と同じに映っている。したがって左右対称な物は鏡に映しても同じに見える。
平面鏡は厳密に無収差であり,反射光線束の延長は正しく鏡像の位置の1点に集まる。3枚の平面鏡を互いに直角に配置し,光線をおのおのの鏡で1回ずつ反射させると,入射した光線はその入射方向のいかんにかかわらず,必ずもときた方向へ戻る。これは三枚鏡と呼ばれ,車の後部反射鏡や道路標識に利用されている。凹面鏡は光を集めることができる。また凸面鏡は像が光源より近づいて見えるので,像を拡大するために用いられる。多くが球面であるが,特定方向からの光を収差 なく集めるために非球面鏡を用いることがある。鏡で構成された光学系はレンズに比べて使用できる波長範囲が広いこと,また色収差 がないことが特徴である。また比較的大きく軽量の鏡を作ることができるので,大口径の天体望遠鏡 に用いられる。このほか,太陽熱発電のための集光装置などでは多数の鏡を配列して一つの大きな鏡と同じように使う。 →球面鏡 執筆者:三須 明
鏡の製法 ガラスの表面あるいは裏面を反射用の金属で処理することによって製造される。板ガラスメーカーが大量生産している大型の鏡と,手鏡とでは,製法が若干異なる。大型鏡では,像のゆがみを最小にするためにガラスの平面性が要求されるため,高級な鏡は,以前は磨き板ガラスを使用して作られていたが,板ガラス の大部分がフロート法 で作成されるようになってからは,鏡の素材も厚さ5~6mmのフロート板ガラス である。周辺部の加工や表面の装飾など事前の加工などを受けたガラス素材はコンベヤに載せられ,まず,表面の洗浄などの前処理を受ける。次に銀を含む溶液が吹き付けられ,無電解めっきの反応によって銀めっきされ,次に同様のプロセスで銅めっきされる。洗浄・乾燥の後,めっき層の保護のためにペイント膜が作られる。高温空気で乾燥され,検査のために表裏反転される。2m×3mを超すような大型の鏡もこのような自動プロセスで製造されている。一方,小型の鏡は,家内工業で製造されることが多い。伝統的な手法では,銀引き(銀めっきの工程のこと)後,酸化鉛を主成分とする赤色の塗料で銀膜を保護している。
光学用などの特殊な反射鏡には,通常の銀のほかに,アルミニウム の蒸着膜を反射膜にしたものなどがある。また,反射膜を薄くして,透過光と反射光が同程度になるハーフミラー も作られており,各種の光学機器に応用されている。 執筆者:安井 至