(読み)カガミ

デジタル大辞泉 「鏡」の意味・読み・例文・類語

かがみ【鏡/鑑/×鑒】

人の姿や物の形を映し見る道具。古くは青銅白銅・鉄などの表面に水銀すずをまぜたものを塗って磨いて作った。形は方円・八つ花形などがある。現在のものは、ガラス板の裏面に水銀を塗ってある。
(鑑・鑒)人の手本。模範。「人の―」
鏡餅かがみもち」の略。
《形が古鏡に似ているところから》酒樽のふた。「―を抜く」
鏡物かがみもの」の略。
茶碗の茶だまりで、丸く一段くぼんでいる部分。高麗茶碗によく見られるもので、熊川コモガイ茶碗の約束事の一。
書類の一枚目に添える、標題や日付、作成者などを記載した紙。
[補説]作品名別項。→
[下接語]合わせ鏡岩鏡自惚うぬぼれ鏡衣紋えもん懐中鏡浄玻璃じょうはりの鏡・空の鏡・智慧ちえの鏡月の鏡手鏡共鏡野守のもりの鏡初鏡ビードロ鏡びん・懐鏡・丸鏡・水鏡八咫やたの鏡
[類語](1ミラー手鏡姿見鏡台三面鏡凸面鏡凹面鏡/(2手本模範規範モデル典型亀鑑規矩きく見本範例標本サンプルひな型書式模範的象徴的代表的典型的標準的ティピカル規矩きく準縄規則決まり定め規定規律ルールおきて文範好例適例スタンダードフォーマット王道師表基準規準り所類型定型様式化スタイルフォーマル公式正則正統正統派正調本式本格的正規正式まっと正道折り紙付き太鼓判をパーフェクト非の打ち所が無い完璧万全完全無欠傑出大出来紋切り型腐ってもたい

きょう【鏡】[漢字項目]

[音]キョウ(キャウ)(呉) [訓]かがみ
学習漢字]4年
〈キョウ〉
姿を映し見る道具。かがみ。「鏡台鏡面神鏡破鏡明鏡凸面鏡
レンズを用いた器具。「眼鏡検鏡顕微鏡望遠鏡
戒めとなる手本。模範。「鏡鑑」
〈かがみ〉「鏡板手鏡水鏡
[名のり]あき・あきら・かね・とし・み
[難読]真澄鏡まそかがみ眼鏡めがね

かがみ【鏡】[曲名]

《原題、〈フランス〉Miroirsラベルのピアノ組曲。全5曲。1904年から1905年にかけて作曲。第3曲「洋上の小舟」、第4曲「道化師の朝の歌」は作曲者自身により、管弦楽版に編曲された。

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精選版 日本国語大辞典 「鏡」の意味・読み・例文・類語

かがみ【鏡・鑑・鑒】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「影見(かげみ)」で、「かが」は「かげ」の交替形という )
  2. 物の姿や形を映し見る道具。古くから祭具として用いられたため、大切なもの、清く澄むこと、貴く美しいもの、静かな水面などのたとえにも用いられた。古くは青銅、白銅、鉄などで作り、表面に水銀に錫を混ぜたものを塗ってみがいてある。形は方円、八つ花形などがあり、裏面は文様を鋳出し、中央につまみがあり、紐をつけた。現在のものはガラス板の裏面を銀めっきなどで加工して作る。
    1. [初出の実例]「斎杙(いくひ)には 加賀美(カガミ)を掛け 真杙(まくひ)には 真玉(またま)を掛け」(出典:古事記(712)下・歌謡)
    2. 「四方の山のかがみと見ゆる汀の氷、月影にいとおもしろし」(出典:源氏物語(1001‐14頃)総角)
  3. 特に、鏡に映る影をいう。
    1. [初出の実例]「うへも、年頃御かがみにもおぼしよる事なれど、きこしめしし事の後は、またこまかに見たてまつり給ふつつ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)薄雲)
  4. 手本。模範。亀鑑(きかん)
    1. [初出の実例]「見る人の 語りつぎてて 聞く人の 可我見(カガミ)にせむを」(出典:万葉集(8C後)二〇・四四六五)
    2. 「人の鏡ならんこそいみじかるべけれ」(出典:徒然草(1331頃)一)
  5. 様子を見ること。また、その者。見張り。
    1. [初出の実例]「三人をみやこのかかみにせられた」(出典:玉塵抄(1563)二)
  6. かがみもち(鏡餠)」「もちいかがみ(餠鏡)」の略。
    1. [初出の実例]「かねてぞ見ゆるなどこそ、かかみの影にも語らひ侍りつれ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)初音)
  7. 酒樽(さかだる)のふた。円形で古鏡に似ているのでいう。
    1. [初出の実例]「樽之かかみをうちわりふみわり仕体」(出典:細川忠興文書‐寛永七年(1630)五月二二日・細川忠興書状)
    2. 「四斗入りの明樽(あきだる)〈略〉ふみつくれば底もかがみもすっぽりと抜けたるを」(出典:浄瑠璃・鑓の権三重帷子(1717)上)
  8. (くら)、鐙(あぶみ)などで、表面を鏡地または銀や金銅で包んだもの。鏡鞍、鏡鐙、鏡轡など。
    1. [初出の実例]「雲珠。有伏輪、上透唐草、下鏡」(出典:餝抄(1238頃)下)
  9. 馬具の一つ。轡(くつわ)の面掛(おもがい)を受ける金具の大形のもの。鏡板(かがみいた)
    1. [初出の実例]「左の口わきにくつわのかかみあてるやうにおるべし」(出典:弓張記(1450‐1500頃か))
  10. かがみもの(鏡物)」の略。
  11. 底にガラスを張った楕円形の小桶。魚を突く時などに用いるめがね。箱めがね。
    1. [初出の実例]「船頭は此妙な道具を鏡(カガミ)と称へて」(出典:彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉須永の話)
  12. 違いないこと。江戸時代小間物屋の語。
    1. [初出の実例]「いい甲だが、おしむらくは今少しふが切れると、いいぶんはねへ、しかし三分位のもなあ鏡(カガミ)さ」(出典:洒落本・大通契語(1800))
  13. 舞台用語。扉や襖(ふすま)障子を開けた奥に、目かくしに立てておく張り物。

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改訂新版 世界大百科事典 「鏡」の意味・わかりやすい解説

鏡 (かがみ)

われわれが日常使っているガラスの鏡の以前に,金属の鏡があり,金属の鏡が使われる以前に,水の鏡があった。いま,かりに原始人がどこかの水たまりで,自分の姿を見たとする。乱れた髪を直すよりも,汚れた顔を洗うよりも,この原理のわからない〈自己〉の出現に恐怖を感じて,遠くの方に逃げてしまったり,水をかき回したりするかもしれない。鏡に映った姿を人間が平然と見ることができるようになったのは,実にごく近ごろのことである。その証拠に,鏡の面は必ずふたしておくという習慣があったり,鏡は女の魂だという信仰があったり,魔物の正体を見破るような機能があったりする。金属,すなわち青銅の鏡はエジプトに早く発明されて,だんだん世界中にひろがり,中国でも晩周(前5~前3世紀)ころから流行した。それ以前は水をいれた鑑(かん)であって,水鏡であった。皿の上に目がのぞきこんだ象形は鑑の原義を端的に示すものである。しかし,もうこのときは顔かたちを直す化粧道具であり,その言葉はそれから派生して道徳の模範という義にまで発展していた。鋳銅技術において,どこの国よりもすぐれていた中国では,よその国々と違い,とくにスズの比率の多い(およそ23%)白い青銅(白銅)を使った。鏡はふつう8寸というが,それは顔の大きさから割り出されたものである。鏡が少し小さくても,顔全体が映るように鏡面を湾曲させた。後漢時代の小鏡はとくに大きなそりをもたせてある。漢・魏・晋ではすっかり化粧道具になって,化粧匣(けしようばこ)に納められたけれども,まだ魔よけの機能も忘れられてはいなかった。しかし漢・魏の鏡を受け入れた日本では,鏡というものはまったく神聖な神物になってしまって,かずかずの信仰を生んだらしい。しかし,白銅を使ったのは唐までで,その後はふつうの青銅,したがって水銀で磨いて使った。いまガラスの鏡が世界を風靡(ふうび)しているが,その板ガラスの製作により,どんな大きな鏡でも作られるようになったことが,ガラスの鏡による革命である。
執筆者:

鏡の歴史は人類の文化史を映した。それは鏡が,太古から,認識(とりわけ自己認識)の手段だったからであり,英語のspeculation(瞑想)は,語源的にも,ラテン語で鏡を意味するspeculumと切り離せない。ミルトンの《失楽園》には,イブが初めて水鏡に自分を映して,自己を他者として,そして自己として認識するシーンが描かれる。これは物語であるが,水鏡まで含めれば,鏡は人類の歴史と同じ古さをもつものであろう。そしてプラトンの《国家》第10巻にみるごとく,鏡の認識論的意味は,ソクラテスの対話編にまでさかのぼるのである。ただし古代の鏡は技術的に稚拙な銅鏡であり,それが映す像もおぼろげであった。像(イマーゴ,イメージ)が映ること自体が驚異であったことは確かだが,同時に映像は実体に劣るものという認識も確立した。プラトンのイデア論はこれを比喩に用いているし,キリスト教神学の基盤となったパウロの教え(《コリント人への第1の手紙》13:12)でも,現世の人間に可能な認識形態はおぼろげな鏡像にすぎぬ,という比喩を立てている。この比喩はキリスト教象徴神学の根幹であり,中世思想を深く支配した。しかし14世紀のベネチアでガラス鏡製造技術の著しい発達がおこり,正確で明るい映像を与える鏡が普及し始めると,鏡は新しい認識論のための比喩となった。すなわち,〈鏡のようにおぼろげにしか映さない〉という比喩が中世象徴主義神学のためにあったとすれば,〈鏡のようにはっきりとありのままに映す〉という比喩は近代リアリズムのためにあったといえよう。レオナルド・ダ・ビンチは彼の理想の美術のために,シェークスピアのハムレットは彼の理想の演劇のために,そしてスタンダールは彼の理想の小説のために,鏡の比喩を用いた。また西欧の新聞に,英語なら〈ミラー,mirror〉,ドイツ語なら〈シュピーゲルSpiegel〉の名を冠したものが多いのも,〈世相を鏡のように映す〉ことをうたったものであろう。

 しかし人類にとって,鏡のこちら側にある実体と,鏡に映った映像との関係は,なかなか容易には整理できなかった。つまり,映像は鏡の向こう側にある,もう一つ別の実体のように感じられたのである。ヨーロッパの諸言語で〈鏡の中に〉という表現と〈鏡を通して〉という表現と二つがあって,両者に区別がないという事実は,実体と映像,ひいては主体と客体との区別がそれほど明確ではなかったという事情を暗示しているかもしれない。また,英語(glass)でも,日本語でも(たとえば,凹面鏡と凸レンズ両方を意味しうる〈拡大鏡〉の用例),映して見る鏡と通して見るレンズとがどちらも〈鏡〉と呼ばれるのは,もう一つの暗示的なことである。とにかく人類は,鏡の向こう側の世界のふしぎな実体性に魅せられ,またそれを恐れ続けてきた。つまり鏡は魔術的・呪術的意味をもったのである。カトプトロマンテイア(鏡面魔術)というギリシア語が暗示するとおり,それはギリシアの昔からあった。そしてフレーザーの《金枝篇》がたくさんの実例を集めているように,未開民族だけでなく文明社会にあっても,鏡面魔術の実例は多く,鏡を恐れるがゆえの迷信は数知れない。日本でも邪馬台国の女王卑弥呼が,魏王から銅鏡百面を贈られたのは,鏡面魔術を駆使するシャーマン的支配者であったことを暗示しているし,鏡面に覆いをする習慣や,鏡が割れると不吉としてこれを忌む習慣は,東西に共通するものである。もちろん,鏡または鏡像に対する恐怖心は,時代による消長があった。とくにデカルト以後の理性の時代には,光学理論の普及とあいまって,鏡が物を映すのはなんのふしぎもない,あたりまえの現象とみなされるようになった。実体は実体,映像は映像と,両者を割り切ってしまうわけである。

 しかしこのことも,19世紀のロマン主義時代に入って想像力の復権が始まると,事情が再び変わったように思われる。心の中に思い描かれること,いわば心の鏡に映されるイメージが,新しい生命と実在感を得ていきいきと活動し始めると,鏡の向こう側の魔術的な世界も活気を帯び始めた。〈象徴〉や〈イメージ〉がよみがえったのは,鏡が冷たい無機物の反射をやめたときである。とりわけ,実在性を強めてきた鏡像が,二重身体験(ドッペルゲンガー)を導くのは,ロマン派およびそれ以後の好みのテーマであった。E.T.A.ホフマンは,《大晦日の夜の椿事》で自分の鏡像を失った男を描いた。これはA.vonシャミッソーの《ペーター・シュレミールの不思議な物語(影を売った男)》にヒントを得ている。また,ドストエフスキーの《二重人格》では,小役人の主人公が鏡像に分身願望を託すところから,彼の二重身体験の物語が始まる。フランツ・ウェルフェルの戯曲《鏡人》は,主人公と彼の分身としての鏡像との間に,ファウストメフィストフェレスのような関係が成立する話である。そして映画《オルフェ》でコクトーは,鏡の向こうの世界を危険な魅力に満ちた死の国として描き,忘れがたい映像美をつくってくれた。L.キャロルの《鏡の国のアリス》も,鏡の人間にとって無限の問いかけを促す,苦い寓話として読まれるべきであるかもしれない。
執筆者:

中国における青銅鏡の出土例は戦国時代以前にまでさかのぼるのであるが,〈鏡〉の字が文献資料に出現するのは戦国時代になってである。それ以前にはもっぱら〈鑑〉の字が用いられていた。鏡と鑑とは語頭子音を同じくし,同源の語であったと考えられる。鑑は,大きなたらい形の容器を呼ぶ名でもあって,金文の字体が,などと作るように,水を張って〈みずかがみ〉をする器,あるいは〈みずかがみ〉でみずからの姿を照らすことを意味する字であった。《詩経》柏舟篇に〈我が心は鑑に匪(あら)ず〉などとあって日常の道具としての〈かがみ〉の意に用いられるほか,同じく《詩経》蕩篇に〈殷鑑 遠からず,夏后の世に在り〉というように,歴史の教訓という意味でも用いられている。すなわち〈みずかがみ〉でみずからを省みるという行為がより哲学化され,歴史の中で現在を顧みて反省をし,逆にそうした鑑戒(いましめ)の材料を与える過去の歴史をも鑑の語で呼ぶのである。歴史がなによりも現在の鑑戒のために存在するというすでに周代に見える観念は,のちには歴史書自体にも鑑の字を付けて呼ぶことにつながった。范祖禹の《唐鑑》,司馬光の《資治通鑑》などがその代表であり,日本の《大鏡》《水鏡》以下の〈かがみもの〉の歴史書もそうした中国の観念をうけた命名である。

 鏡に象徴的な意味,あるいは神秘的な意味を見ようとするのは,諸子百家の中でもとくに道家系の人々であった。鏡の外物をあるがままに映す能力に,みずからを白紙の状態において,来る者は拒まず去る者は追わない,道家的な真人の無為のあり方の象徴を見ようとするのである。こうした鏡に対する意味づけはさらに深化されて,対象の本質を見つめつつ,対象と自己とが合一化してゆく神秘主義的な体験も〈玄鑑〉の語で表現している。

 後漢時代に盛んに行われた讖緯(しんい)思想(讖緯説)では,鏡に政治的な意味を持たせて,聖天子が天下を安定させればふしぎな能力を持った宝鏡が出現するとされ,逆にある王朝の末期に暴君が出ると王朝の伝えていた鏡(この鏡は実物を指すのではなく多分に象徴的なもの)が失われるとされる。そうした政治権力の象徴としての鏡は,〈玉鏡〉〈金鏡〉あるいは〈天鏡〉などとも呼ばれ,天命の思想と結びついたものであったことがうかがわれる。天子が天下を統治することを〈鏡を握る〉と表現するのも,こうした観念に出るのである。

 魏晋南北朝時代になると,鏡の呪術的な能力が日常生活的な世界の中で強調されるようになり,それが神仙・道教思想とからみ合いつつ展開する。その呪術的な力の中心となるのは,妖怪変化の正体をあらわす能力である。人間の姿をとって出現した動物たちの正体を,鏡に照らすことによって見破ったという話は,《抱朴子》など道教系の書物のほか,六朝期の志怪小説にいくつも見える話題である。こうした破邪の鏡の話を集大成した物語として,唐初の《古鏡記》がある。また唐末ごろより地獄の審判の場に鏡が置かれて,死者の生前の善悪の行いがそこに映し出されるといった絵画や物語が多くなるが,これも虚偽を見破るという,前述の鏡の持つ破邪の力によるものである。《西京雑記》に,秦の始皇帝の咸陽宮中には大きな方鏡(四角い鏡)があって,宮女の中で邪心を抱く者をそれで探知したという挿話や,《西遊記》において,暴れまわる孫悟空を照妖鏡に照らしてその変身の能力を封じたことなど,鏡の持つ呪術的な力は,中国の文芸の処々に反映している。

 道教信仰においては,先秦の道家以来の観念をうけて,道教経典の中で鏡の語が比喩的に用いられているほか,実際にいくつかの鏡を用いて行う呪術的な実修もあった。すでに《抱朴子》に二つの鏡を用いる〈日月鏡〉の方,四つの鏡を用いる〈四規鏡〉の方などが見え,それらは鏡を前にして思念を凝らし,鏡の中に神仙たちの姿を出現させる修行であった。また鏡は魔よけのために用いられ,道壇の四方と中央とに鏡を置いて道教儀礼が行われたりするなど,道教と鏡との結びつきはとくに密接である。
執筆者:

鏡は,日本神話では単に姿見の具としてだけでなく,とくに貴重な品物となっており,すでに五部神のうちに鏡作の祖石凝姥(いしこりどめ)命が数えられているのは,それを物語るものである。また人の映った影はその人の霊魂であるとし,霊魂と自分と自意識とをいっしょにして区別しない。そうした性質が鏡をして玉や剣などと同じく,日常身辺にありながら特異な存在とされ,そのためになにか呪力(じゆりよく)でも内蔵しているもののように考えられてくる。鏡が神の依代(よりしろ)となり神体とされ,宗教的に取り扱われるわけもここにあり,日本において神璽や神剣とともに三種の神器と称して神聖視されたいわれもまたここにある。すでに《日本書紀》では神代記事に天照大神(あまてらすおおかみ)が天の岩屋戸にさしこもり,世の中が暗やみとなったとき,思兼(おもいかね)神によって石凝姥命の作った鏡を岩屋戸にさし入れて天照大神の出現を祈った。鏡はその人の真影を映すので,天照大神は孫瓊瓊杵(ににぎ)尊を大八洲国(おおやしまぐに)につかわすときにこの鏡を渡して,もっぱらわが魂としてわが前にいつくがごとくいつきまつれと勅した。その鏡がいまも伊勢神宮に神体として祭られる八咫鏡(やたのかがみ)であるとする。鏡をもって神体とすること《皇大神宮儀式帳》を見ても,荒祭宮(あらまつりのみや)は大神宮の荒魂(あらみたま)宮と称し御形は鏡であるとする。また伊雑(いさわ)宮の場合にも天照大神の遥宮(とおのみや)と称し御形は鏡であるとする。このほかおもな神社には鏡をもって神体とすることも多いが,それも本来は神宝であり,神宝がただちに神そのものと考えられるので思想的にも相当に高いといってよい。

 このようにして鏡はその形と働きとから,太陽の象徴とされ日神の当体であるともされる。太陽が万物を照覧するように,鏡はすべてのものを映して余さず偽らず正邪を判断するとし,玉の仁,剣の勇に対して鏡は智の象徴であるともする。
執筆者: 鏡は影見(かげみ)が語源ともされるが,その映す像はしばしば異界とみられた。地獄の閻魔庁の浄玻璃(じようはり)鏡は生前の罪悪をすべて映し出すとされた。また鏡は未来の姿も映すとされ,井戸や池などの水面に将来の姿が映じた奇跡を語るモティーフは物語によく登場する。《古今著聞集》には九条大相国が宮中の井戸をのぞきこむと大臣の姿の自分が映り,のちに実際に大臣になったという話がみえる。また貴人が姿を映じたという伝承を伴った鏡井,鏡池,鏡石などの伝説も水鏡や石に映った姿で神意を占った神聖な場所といえる。

 鏡は姿を映じる点で水と深い関連をもち,金属鏡はとくに水神祭祀に使われたようである。《土佐日記》には荒れた海に鏡を奉って鎮めた話が出ており,羽黒山や日光二荒山,赤城山などの神池からは多くの古鏡が出土している。水神には鐘や刃物などの金物を好むあるいは嫌うという相反した伝承が伴っており,鏡を水底に沈める風習もこの信仰に基づくものといえよう。

 鏡は女の魂や護身の具ともされ,妊婦が鏡を身につければ葬式や火事の悪い影響を防ぐことができるとされており,逆に,赤子や病人など霊魂の不安定なものは引き込まれることを恐れて鏡を見せることは禁じられている。鏡は光を反射させたり姿を映すことで,悪いものを撃退したり鏡に移したりするというのであろう。中国では家の入口に鏡をかけて魔よけとする習慣があり,西洋には死者が出ると鏡を覆ったり病人は自分で鏡を見てはならぬという言い伝えがある。

 なお,鏡の夢は吉とされるが,鏡が割れたりくもったりするのは不吉とされ,中国の故事に基づいて離婚を破鏡ということもある。
執筆者:

中国

東洋での金属鏡は,前2000年,中国の甘粛,青海地方にひろがった斉家文化に属する1面の青銅鏡が最も古いようである。その後,殷代や春秋時代にも少数の遺品があるが,それらは日常の生活の常用の道具として普及していたものとは思われない。おそらく,特殊な人たちが使用した呪術用具だったとみられる。中国の古代鏡に人々が興味をもちだしたのは唐・宋時代からで,漢と唐との鏡式の違いがすでに認められていた。清代になって考証学が進むとともに,鏡背にある銘文についてすぐれた考証があらわれた。しかし鏡の性質が明らかになったのは20世紀に入ってからである。それは,主として中国以外の人たち,ことに日本の学者の研究によるところが大きい。これは考古学の発達に伴う実物の観察に加えて,新たに確実な遺品が掘り出されたからで,ことに1920年代になって,それまで最も古いとされていた漢鏡よりも古い鏡がおびただしく見いだされたからである。中国の金属鏡は,現在までに発見されたところでは,前6~前5世紀のものが古い。この時代の遺品は,今日,秦鏡,淮河(わいが)式あるいは周代後期の鏡などと,いろいろな名称で呼ばれているが,中国での長い発展の最初の段階を示すとともに,また工芸品としてもすぐれたものである。この種の鏡には,鈕を中にした円い偏平な鏡背に,地文的にその時代の文様をはめただけのものから,円い鏡体にふさわしい装飾文にいたるまで,いろいろの段階のものをみる。すなわち中国特有な蛇崩しの細文を単位ごとに繰り返し,外形とまったく関係のない地文的な装飾を施し,その上に鏡の形に応じて別な文様を重ねたものがあり,この主文の後者がだんだんと発展してもとの地文の方が後退してゆくという一連の系列が認められる。その主文では虺竜(きりゆう)禽鳥を主とした動物文が目だっている。ところが,これらと同時に洛陽金村,安徽省の寿県,湖南省の長沙などの古墓群から発見された鏡に,背文の装飾が整い,表現技術が非常に進んだものがある。浮彫的な虺竜を巧みにからませたアラベスク風の透し文のものをはじめ,金銀の巧みな象嵌で画像なり虺竜文なりを表したもの,鏡背に玻璃(はり)(ガラス)や玉をはめこんだもの,さらに平滑な鏡背に絵を描いたものなどがあって,それぞれの技巧がはなはだ進んでいる。そして鏡の形も,円いもののほかに四角い形があるし,鏡面と背部との二つからなる二重体鏡が上記の透文鏡,象嵌鏡に認められる。なお,この時代に良質の陶土で作って彩画した明器の鏡もまた一部に行われた。

 戦国時代から秦をへて漢代になると,技巧をこらした特殊なものがなくなって,漢鏡として古くから知られていた円鏡がもっぱら行われ,すべて白銅で作られることになった。背文は前代から受け継いだ虺竜文系の帯圏の間に〈大楽富貴〉などのめでたい銘文を入れたものがあり,新たに成立した鏡式として方格四乳葉文鏡,精白鏡など幾何学的な文様のものがあって,おのずから時代相を示している。これらの鏡には〈日の光を見る 天下大いに明なり〉〈久しく相見ず 永く相忘るるなかれ〉などの簡単な4字の対句から,文学的な銘文を特色のある隷書で表したものが多く,なかには〈久しく相見ず 秋風起こって我が志かなし〉などの銘文をも見うける。

 このような傾向をもった中国の鏡に,前漢の後半ころ一つの定まった型ができた。方格規矩四神鏡と内行花文鏡とがその代表的な鏡式である。二つながら平縁と鈕との間に配したその図様は,一方は方格と規矩形に四神その他の禽獣形,それを隆起した細線で表し,周囲の平縁を流雲文で飾り,他方は主文は早くから行われた内行弧文であるが,鈕の四葉座の間に〈長く子孫に宣し〉とか弧文の間に〈寿は金石の如く佳にして且つ良し〉というような銘文を配していて,ともに完成した形である。そして前者には長い7字句の整った銘文のあるものが多くて,尚方の官工で作ったことや,〈漢によい銅があって丹陽から出る〉ので鋳造したことを記し,この種の鏡が漢王室の加護による所産であることを示している。前漢に代わった王莽(おうもう)は,その国号の新を同式の鏡の銘に記録し,また〈僻雍を興し明堂を建て,単于(ぜんう)を侯王に列した〉との功業をたたえた文字を表した。王莽鏡と呼ばれるものがそれである。後漢代では上の鏡式が引き続いて行われるとともに,新たにまたいろいろな鏡式が現れ,それらが諸家の手で鋳造されたことが銘文によってわかる。このうちには鋳造の年代を示す紀年鏡も含まれている。道家の東王父,西王母の神仙物語や,その時代の風俗を表す画像鏡,平面的な表出の夔鳳(きほう)・獣首の両鏡式,肉を盛った彫塑的な禽獣や竜虎で飾った神獣鏡などが著しい新鏡式である。なかでも虁鳳鏡は古い銅器にある禽形を鏡背文にしたもので,鉄で作った遺品があり,金銀の象嵌で図形の細部を表している。神獣鏡は三国から六朝時代に及んで,ことに盛んに作られ,時代の下がるとともにだんだんと肉彫が写実的な様相を加えるが,その縁に新たな帯圏を加えて複雑な断面をもつものと,三角縁のものとが並び存在している。三国時代では,北方の魏の作鏡はすぐれており,南方の呉は粗雑なものが多く,銘文なども整っていない。

 以上一連の鏡式に対して,六朝末からはかなり違ったものが現れる。宋代から,前者と区別されている唐鏡がそれである。これまでの鏡が帯圏の間を幾何学文や禽獣文で飾っているのと違って,鏡背いっぱいに大きな図様を配し,それが装飾的,かつ絵画的になっている。形もまたこれまでの円いものだけでなく,稜形,花形から四角,角丸などいろいろあって,背面の装飾も鋳出しのほかに,鍍金銀貼(ときんぎんばり),螺鈿(らでん),平脱(へいだつ)などの特別な技巧をこらした,いわゆる宝飾鏡が作られ,金属鏡の一つの頂点をなし,唐代文物の精華を反映している。日本の正倉院に伝来する鏡の大部分は,当時渡来したこの類のものである。もっともこの唐鏡という新様式も,一般に隋鏡と呼ばれている初期のものでは,なお前代の神獣鏡のなごりを残したものもあるが,海獣葡萄鏡などはうちに葡萄文を表して,唐鏡の先駆的な鏡式をなしている。盛唐になると双鸞(そうらん)や花枝を中心とするもの,西アジアから伝えられた瑞花の華やかな装飾文で飾ったものなど,いずれも厚手にみごとに鋳上げられている。しかし,この種の鏡も唐の後半になると,だんだんと粗末になり,宋代になると白銅でつくる鋳造の技術が衰退し,青銅の面に水銀を塗ってわずかに実用を弁ずるというまでにたちいたった。この宋代からは,一方で古い鏡式の〈踏返し〉が流行して,金属鏡の使用は清朝まで続いたが,工芸の作品として挙げうるほどのものはなくなった。これらの鏡の実例は高麗(こうらい)の古墓からの出土品に多い。また,この時代南方の湖州で鋳造された遺品(湖州鏡)もやや目だっている。

 中国の金属鏡は,早くから周囲の国々に伝えられ,トルキスタン,インドシナ,朝鮮,満州,モンゴリア,シベリアから遠くロシアの一部にまで及んだ。そして東の方の日本では特殊な発展を示した。
執筆者:

日本列島に最初に登場した鏡は,朝鮮半島で製作された多鈕細文鏡であった。凹面鏡の多鈕細文鏡は,もともと映像の具ではなく,呪術用具であったとみなされており,銅鐸と同じところに埋納された事例もそのような用途であったことを示している。現在までの発見例はわずか5面分だが,最初に遭遇した銅鏡が呪術用具だったことが,その後の日本における鏡の歴史に影響を与えなかったかどうか,興味深いところである。その流入の時期は弥生時代前期末のことだったが,中期中ごろ以降になると,中国の前漢鏡,つづいて後漢鏡が出現する。それらは北部九州地方に集中して出土する傾向を示し,30面以上という多数を1基に副葬した甕棺墓が博多湾岸とその周辺にある点,これらの中国鏡が日本列島への搬入後あまり時間をおかずに副葬されている点が特色といえる。しかし,このころに搬入されたとみられる後漢の方格規矩四神鏡や内行花文鏡が次の古墳時代の古墳からも出土している。この現象をとらえて,弥生時代に中国鏡は広く北部九州地方以外にももたらされたが,近畿地方をはじめ多くの地方では,それらは神威の象徴として保持され,したがって北部九州地方以外の弥生時代の遺跡からは出土することはまれであり,その神威に代わる権力の出現によって,ようやく古墳に副葬されるようになったのだ,とする説がある。弥生時代後期から古墳時代初めにかけて,鏡片を装身具とする習俗があるが,濃淡こそあれ,それが広く西日本を覆っているところからみて,中国鏡は弥生時代遺跡から出土するもの以上に広く分布していた可能性は大きい。

 日本列島における鏡の製造は弥生時代後期に始まっている。その直接的な淵源は朝鮮半島南部で中国鏡を模倣製造したことに始まるのであるが,製品は小型粗製であり,その分布は,これも中国鏡同様,北部九州地方に濃厚である。

 古墳時代の鏡は,祭祀遺跡の出土品もあるが,ほとんどが古墳の副葬品であり,先に挙げた漢鏡に加えて,三国六朝鏡が出現し,さらに日本列島で製作した仿製鏡も多数含まれている。とくに,三国六朝鏡では,三角縁神獣鏡が注目される。魏・晋と邪馬台国との数次におよぶ交渉によって入手されたと推定される三角縁神獣鏡には,同じ一つの鋳型を使って複数の製品を作った同笵鏡が多数存在するのが特色となっている。この同笵鏡の分布状況から,大和を中心とした権力と地方権力との交渉過程を復原する説があり,同笵鏡論と呼ばれている。ただし,三角縁神獣鏡は,これまでに中国における出土例がないところから,日本列島において製作されたものと主張する説もある。古墳時代の仿製鏡は,弥生時代の仿製鏡との関連は不明であるが,その製作は4,5世紀,中国鏡の模倣から始まる。ほぼ同時に中国鏡の図像文様を換骨奪胎したものや,直弧文鏡や家屋文鏡あるいは狩猟文鏡のように独自の図像文様をもつものも登場する。その一つの特色は,径30cm以上といった超大型鏡が径数cmの小型鏡とともにあることである。材質も中国鏡に劣らないものもあるが,平均すれば,銅に対するスズの比率が低く,映像具の機能を果たしえたとは思えぬものも少なくない。おそらく,実用的な映像の機能を必要としない呪術具であったのであろう。

 6~7世紀には日本列島で鏡が製作されたとみられる証拠はほとんどない。そのころの古墳から出土する鏡は,ほとんどが4,5世紀の製品とみてよいものである。この中断期間をおいて,鏡の製作が再開されるのは奈良時代,遣唐使による中国との交渉が開始されたころである。唐鏡の搬入とその技術による仿製鏡の製作が再び始まる。高松塚古墳や正倉院の遺品がそれを代表し,また正倉院文書には,鋳鏡の実態を伝える文書が残されている。しかし,この時代の鏡も,一部を除けば,ほとんどが社寺堂塔の荘厳具であり,祭祀用具であった。

 平安時代中ごろ,日本独自の和鏡が成立する。その背景には,化粧する階層の増大による映像具としての鏡に対する需要の増大がうかがえる。その背面の図像文様は,唐鏡の図像文様の系譜を引き,それを和風化した花鳥の類が中心になっている。同時に湖州鏡をはじめ薄手無文素鈕の宋鏡の影響も現れている。この化粧用具としての鏡の普及とともに,映像機能を高めるためか,スズと水銀を鏡面に塗布する技法が登場するのもこのころからである。和鏡は,材質や製作技術あるいは図像文様においても,鎌倉時代に頂点をきわめる。つづく室町時代には,宋・明鏡に学んだ柄鏡が出現し,以後の和鏡の主流となる。これまた,平安時代以来の実用的な映像具としての発展の一段階として理解できる。それと並行して,呪術具としての鏡の伝統も,神体や神宝の鏡のなかに生きている。その例としては,鏡面に神仏像を線彫や墨画で表現し,それを礼拝する鏡像,あるいは仏像を鏡面に付加した懸仏(かけぼとけ)などがあるし,海浜湖沼へ鏡を供献する習俗も併せて,古代以来の呪術具としての鏡の系譜が中近世以降にまで連続していることを示している。
執筆者:

日本独自の様式をもつ和鏡は平安時代に出現するが,その母胎となったのは中国の唐鏡である。7~8世紀になると,漢鏡に代わって,新たに海獣葡萄鏡など隋唐鏡が日本に舶載された。この時期は古墳文化と仏教文化が重なっているので,高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡や法隆寺五重塔心礎発見の海獣葡萄鏡のように,古墳からも寺院からも発見されている。奈良時代には鏡は寺院で盛んに使われた。《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》によると1寺で1275面もの鏡を所有していたことが知られ,また正倉院には今も56面の鏡が収められている。これらの中には舶載唐鏡のほかに,日本で鋳造されたものがかなりある。舶載唐鏡には正倉院鏡に代表されるように,唐花双鸞文,海礒文,盤竜文,海獣葡萄文など文様の種類が多く,外縁も八花形,八稜形といった華やかなもので,文様表出も鋳銅の高肉表現のほかに平脱とか螺鈿,銀貼,七宝(しつぽう)といった特殊な技法のものがある。当時日本で作られた鏡はほとんどが舶載唐鏡を原型とし,これを鋳型の上に置き,押し当て,型取りして鋳造した〈踏返し〉といわれる方法で鋳造されたコピー鏡である。東大寺三月堂の天井を飾る天蓋にはめられた海獣葡萄鏡は日本で鋳造された踏返し鏡で,同笵鏡がほかにも発見されており,ある程度量産されたことがうかがえる。これらは文様表出が鈍く,鏡胎はやや薄手で,径もわずかながら原型となった唐鏡よりも縮小した雑作の鏡であり,数多く鋳造されたが,長く流行しなかった。

 平安時代に入ると,一面ずつ丹念に鋳型に篦(へら)で直接文様を陰刻するようになり,文様は日本独自なものとなってくる。その祖型となった鏡は興福寺金堂出土の唐花双鸞八花鏡や正倉院の鳥獣花背八角鏡のような左右に鸞を相対させ,上下に唐花を配した対称的構図の鏡で,このうちの唐花を瑞花に双鸞を双鳳に替え,瑞花双鳳鏡となる。これはまだ完全に和様化されていないので唐式鏡といわれており,変化した時期は988年(永延2)の年記をもつものがあるところから10世紀末から11世紀初めに当てられる。瑞花双鳳鏡はやがて瑞花を日本でよくみられる松や楓,梅に替え,鳳凰も空想的な鳥でなく親しみやすい鶴,尾長鳥,鴛鴦,雀などに替え,松鶴鏡,楓双鳥鏡,梅樹雉子鏡などとなり,さらに山岳,洲浜,水流,草花を加えて秋草双雀鏡,洲浜松樹双鶴鏡などといった風景文様を表したものへと発展し,12世紀の初め平安後期にいたり,日本的な情趣をもつ和鏡を完成させる。この時期の鏡の特色は総体に鏡胎が薄く軽量であること,縁も細縁で鈕もつつましい素鈕が多く文様は花鳥を中心とした優雅なものであり,表出も薄肉繊細で,平安時代の貴族の趣好を端的に反映させており,藤原鏡と呼ばれている。山形県羽黒山鏡ヶ池より発見された羽黒鏡はその代表的なものである。

 鎌倉時代は和鏡の完成期である。藤原鏡の洲浜双鳥鏡から発展した牡丹蝶鳥鏡(新田神社),山岳松鶴鏡から発展した蓬萊鏡(大戸神社)などはこの時期の鏡の代表例である。鎌倉時代の鏡の特色は鏡胎が厚手で,鏡縁も厚手で幅広く,鈕も大きく,総体に重量感をもっている。また文様は藤原鏡につながるものであるが,表出は高肉の立体的表現をとり,各種の篦を用い,鳥の羽など一枚一枚を細かく表現するというように写実的かつ技巧的であるといえる。

 室町時代になると,技術的には高度なものが作られるが,末梢的な技巧に走り魅力はなくなる。これを打破しようとして漢鏡にみられる鋸歯文や櫛目文帯を加えた擬漢式鏡や瑞花双鳳鏡の擬古作などが作られた。また室町後期になると,新たに宋鏡の影響を受けて,円鏡に長い持手をつけた柄鏡が出現する。柄鏡は江戸時代に入ると,円鏡よりも好まれ,和鏡の主流となる。柄鏡は鏡背中央にある鈕が不必要なので,鏡背面いっぱいに絵画文様を表すことができ,ここに自由で瓢逸な江戸時代の人々の好みを反映した文様がつけられた。中期になると,貨幣鋳造法にみられる生型(なまがた)鋳造法を利用するようになり大量生産が可能となったので,広く庶民の生活の中にも入るようになった。その反面,粗悪な銅質を材料とした粗雑鏡が一般に普及することになった。文様もまた,一般化するにつれて非常に俗化し,後期には鶴亀・松竹梅,南天(難を転ずるという意)や家紋,寿・鶴亀といった大文字を入れたものなど,慶祥文様が用いられた。また〈天下一藤原光長作〉〈天下一備後守藤原光政〉などの作者銘もつけられている。後期には女性の髪形が大きくなったので,鏡もしだいに大型化し,柄が太く短く径28cmほどの大型鏡がひろく作られた。これらは化粧用に柄鏡2枚を合わせ鏡箱に納めるようになる。伝統的な銅鏡も明治時代に入ると,ガラス鏡が普及し始めるようになり,やがて姿を消す。
執筆者:

西洋

いわゆる水鏡などは別として,考古学的に最古の鏡といえる資料は,トルコのチャタル・ヒュユク出土の新石器時代の資料であろう。これは黒曜石製で円形,周囲をプラスター様のもので囲覆してある。こうした石製の鏡はエジプトのほか,アンデス地帯やメソアメリカの遺跡からも出土する。このうちアンデスではまず形成期に無煙炭を素材とした円形・方形の鏡jet mirrorが出現し,古典期から後古典期にかけて装飾をもつ木製や金属製の枠に鉄鉱石の薄片をはりつけた柄鏡や,金・銀・銅・青銅・黒曜石製のものが作られた。メソアメリカでも形成期に鉄鉱石製のもののほか凹面鏡も作られ,古典期から後古典期にかけては石板の表面に黄鉄鉱の薄片をモザイク状にはり合わせた鏡が盛行し,これは北アメリカにも伝播した。

 金属製の鏡は,新大陸以外では純銅製・青銅製のものがエジプト,イランのスーサをはじめ,シアルクⅢ,シュメールの初期王朝期などの遺跡にみられ,インドではモヘンジョ・ダロハラッパーなどで出土している。いずれも木や象牙・骨製の柄をつけたものが多い。このうちエジプトでは,第11王朝の王妃カウイトの石棺の浮彫にこのような手鏡をもった彼女の姿が表されているし,第18王朝ころになると木柄に黄金をかぶせ,柄頭をハトホル女神の姿につくった青銅製柄鏡そのものが残されている。第21王朝の精巧な柄鏡箱も工芸品として有名である。これら古代エジプトの柄鏡の鏡面はいずれもやや横広の楕円形を呈し,全体としてロータスをかたどっているのが特徴といえる。

 ギリシアでは柄鏡と小型無柄の懐中鏡とがあるが,背面に神話的図像を線刻した例が多い。青銅製円鏡を二枚重ね蝶番で開閉できるようにしたものもある。このギリシア系の柄鏡はエトルリア,スキタイ,そしてローマに受け継がれ,金銀で鍍金するなど豪華なものも作られる。なお,イギリスでも紀元前後ころの遺跡から抽象文で飾られた青銅鏡が出土する。

 ローマではやがてガラスの技術の発達とともに,ガラス片の背面に鉛やスズ,あるいはプラスターを塗ったりしてガラス鏡をつくるにいたる。またガラス片を革製の枠にはさみ込んだ懐中鏡なども工夫された。
執筆者: 金属製鏡は古代から中世期を通じて広く用いられていたが,その形式はほとんど手鏡であった。スズと水銀の合成によるガラス鏡は14世紀にベネチア人によって作られたが,それが実用的なガラス鏡として生産されたのは16世紀中ごろであった。イタリアでそれはまず壁鏡として利用されたが,小型で高価なため豪華な彫刻を全面にほどこした額縁にはめて装飾効果を高めた。イギリスで最も古いジャコビアン期の壁鏡もイタリアの手法に従い,ギボンズG.Gibbons(1648-1721)の華麗な木彫の影響を受けて,額縁の効果が評価された。ルイ14世の時代になると壁鏡は大型になり,さらに木彫の豪華な額縁,それに銀または金の鍍金が施され,宮廷の権威を高める効果を果たした。ロココ様式が流行すると,壁鏡は曲線輪郭の額縁で飾られ室内に軽快で典雅なムードを与えた。イギリスでも重厚なジャコビアン様式から軽快なクイーン・アン様式,そして18世紀中期のチッペンデール様式の壁鏡になると,しだいに大型化するとともに,ロココ様式を取り入れ,楕円,円,不整形など多様な形が現れた。ロバート・アダム(アダム兄弟)の古典様式の壁鏡は直線構成と古代のモティーフでシンメトリカルに設計された。

 小型の鏡はドレッシングミラーとしてスタンドに固定されたり,コモード(整理だんす)やチェストの上にのせて使用された。鏡とテーブルを組み合わせたドレッシングテーブルは17世紀後期のフランスに現れ,18世紀にはプドルーズpoudreuse(poudreは白粉の意)と呼ぶ化粧テーブルが上流婦人に愛用された。イギリスでは18世紀後期には化粧鏡とろうそく台,引出し,棚のついたボー・ブランメルBeau Brummellと呼ぶ男性用化粧テーブルも現れ,ジョージ4世時代に流行した。全身を映す姿見の出現は17世紀後期のフランスにみられたが,ヨーロッパ諸国での本格的流行は18世紀後期からであった。
執筆者:

鏡は,光線がなめらかな反射率の高い面で反射されることを利用したもので,鏡によって光線の進行方向が逆転する。鏡の面の法線と入射光線とのなす入射角は,鏡の面の法線と反射光線のなす反射角と等しいので,一つの点光源から出る多数の光線束は反射され,図のように広がる。これはあたかも鏡について対称の位置に考える別の点光源から出てきたように見える。この仮想的な光源を実際の光源の鏡像という。鏡像は,実際の光源を通る鏡面の法線の延長上の鏡とは反対側にあって,鏡像と鏡との距離は実際の光源と鏡との距離に等しくなっている。

 鏡に姿を映す場合を考えよう。人間の顔は左右対称に近いのであまり明確でないが,この場合でも鏡に映った顔は,軟らかいゴムで顔の面を作り,その面の凹凸を逆にして眺めたものに等しい。鏡に姿を映すということは,自分の上は上の前方鏡の向こう側にその鏡像ができ,下は下の前方に,右は右手の前方に,左は左手の前方にそれぞれの鏡像ができ,これら鏡像の集合である鏡の中の自分の姿に正対して見ることであるからである。この姿はあたかも背中から自分の前面を透かして見たのと同じである。鏡に映った姿は左右が逆になり,直接に物を背後から透かして見た場合と同じになることは,文字を鏡に映してみるとよくわかる。鏡に映した文字はちょうど紙の裏から文字を透かして見た場合と同じに映っている。したがって左右対称な物は鏡に映しても同じに見える。

 平面鏡は厳密に無収差であり,反射光線束の延長は正しく鏡像の位置の1点に集まる。3枚の平面鏡を互いに直角に配置し,光線をおのおのの鏡で1回ずつ反射させると,入射した光線はその入射方向のいかんにかかわらず,必ずもときた方向へ戻る。これは三枚鏡と呼ばれ,車の後部反射鏡や道路標識に利用されている。凹面鏡は光を集めることができる。また凸面鏡は像が光源より近づいて見えるので,像を拡大するために用いられる。多くが球面であるが,特定方向からの光を収差なく集めるために非球面鏡を用いることがある。鏡で構成された光学系はレンズに比べて使用できる波長範囲が広いこと,また色収差がないことが特徴である。また比較的大きく軽量の鏡を作ることができるので,大口径の天体望遠鏡に用いられる。このほか,太陽熱発電のための集光装置などでは多数の鏡を配列して一つの大きな鏡と同じように使う。
球面鏡
執筆者:

ガラスの表面あるいは裏面を反射用の金属で処理することによって製造される。板ガラスメーカーが大量生産している大型の鏡と,手鏡とでは,製法が若干異なる。大型鏡では,像のゆがみを最小にするためにガラスの平面性が要求されるため,高級な鏡は,以前は磨き板ガラスを使用して作られていたが,板ガラスの大部分がフロート法で作成されるようになってからは,鏡の素材も厚さ5~6mmのフロート板ガラスである。周辺部の加工や表面の装飾など事前の加工などを受けたガラス素材はコンベヤに載せられ,まず,表面の洗浄などの前処理を受ける。次に銀を含む溶液が吹き付けられ,無電解めっきの反応によって銀めっきされ,次に同様のプロセスで銅めっきされる。洗浄・乾燥の後,めっき層の保護のためにペイント膜が作られる。高温空気で乾燥され,検査のために表裏反転される。2m×3mを超すような大型の鏡もこのような自動プロセスで製造されている。一方,小型の鏡は,家内工業で製造されることが多い。伝統的な手法では,銀引き(銀めっきの工程のこと)後,酸化鉛を主成分とする赤色の塗料で銀膜を保護している。

 光学用などの特殊な反射鏡には,通常の銀のほかに,アルミニウムの蒸着膜を反射膜にしたものなどがある。また,反射膜を薄くして,透過光と反射光が同程度になるハーフミラーも作られており,各種の光学機器に応用されている。
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鏡(熊本) (かがみ)


鏡(高知) (かがみ)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鏡」の意味・わかりやすい解説

鏡(mirror)
かがみ
mirror 英語
Spiegel ドイツ語
miroir フランス語

金属またはガラスのような物質の表面を、平面または曲面に成形し、表面を研磨して反射率を高くしたもの。必要な場合には表面に金属をめっきしたり、電媒質(電磁波の媒質)の多層膜を真空蒸着法によってつけて反射率を高くする。鏡は、中国や日本の古代においては、単なる化粧用具としてだけではなく、呪術(じゅじゅつ)的な霊力を備えたものとして重要視され、祭器や首長の権威の象徴とされた。

[三宅和夫]

鏡の物理的性質

表面の凹凸が光の波長に比べて小さいとき、鏡に当たった光は反射の法則に従って反射され、進行方向を変える。光が鏡の面に入射する点において、鏡面またはその接平面に立てた法線と入射してくる光線とがなす角を入射角、法線と反射した光線とがなす角を反射角とする。反射の法則は、入射光線と反射光線は法線の両側にあり、三者は同一平面上にあって、入射角と反射角とがつねに等しいことを表している(図A)。

 一つの点光源から出発した光線は、平面の鏡に当たると、それぞれ反射の法則に従って反射され、点光源のある鏡の前側の空間を戻っていく。これらの反射光線を反対の方向に延長すると、鏡の裏側の1点で交わる(図B)。この点を、始めの点光源の鏡による像といい、光源と像とは鏡の平面から等しい距離のところにある。次に、A点の鏡による像を、B点にある肉眼で見る場合を考えよう(図C)。Aから鏡に垂線を下ろし、同じ距離だけ鏡の裏側に延ばした点A'がAの鏡による像である。A'と瞳(ひとみ)の上下の点を直線で結び、それらの直線が鏡と交わる点をC、Dとすれば、Aから出発した光線のうち、CDの間の部分で反射した光線しか瞳に入ってこない。すなわち、大きな鏡があっても、Aの像A'を見るために使われているのは、その一部分にすぎないのである。たとえば木のような大きさのある物体の像は、鏡に平行な上下・左右は同じ向き、鏡に垂直な前後の方向は反対の向きになっている(図D)。しかし鏡に相対して像を観察すると、左右が入れ替わっているように感じられる。

[三宅和夫]

鏡のいろいろ

普通の鏡は表面が平面であり、このことを明瞭(めいりょう)に表すには平面鏡ということばが用いられる。また表面の形が球面のものを球面鏡、回転放物面のものを放物面鏡という。球面鏡で、表面が物体に対してへこんでいるものを凹面鏡(おうめんきょう)、物体のほうに突き出しているものを凸面鏡(とつめんきょう)という。また、用途によって、一部の光を反射し、残りの光を透過させたいときには、鏡のめっきを薄くする。このようにした鏡のことを半透明鏡という。

[三宅和夫]

西洋の鏡

西洋における鏡の起源は正確には明らかでないが、金属器時代の初めにオリエント地域で製作が始められたと思われる。古代の鏡は黒曜石や金、銀、水晶、銅、青銅などの原板を研磨して反射面としたもので、ほとんどが化粧用であった。エジプトでは紀元前3000年ごろから、女性はすでにアイシャドーやアイライン、頬(ほお)紅、口紅などの化粧をしており、そのための鏡も発達した。古王国時代の墳墓からも整った鏡が発掘されているし、第11王朝の浮彫りには、柄鏡(えかがみ)を手にした王女が描かれている。その多くは鏡面の丸い柄鏡で、板の部分は金属、木、象牙(ぞうげ)などでつくられ、神像、人物像、動物、パピルスやロータスなどのナイルの植物でかたどられた。西アジアの鏡もエジプトと形式が似ているが、遺物はきわめて少ない。

 ギリシアではミケーネ時代に、背面を精緻な線刻で飾った象牙の柄をもつ円鏡がつくられた。一般に青銅製が多く、卓上に立てて用いる台鏡の柄の部分は、しばしば美の女神アフロディテの立像で、女神が頭上に円形の鏡面を支える形になっている。また精巧な浮彫りや銀象眼で飾った蓋(ふた)付き鏡もあった。

 エトルリアの鏡は、ギリシアをまねた青銅製の柄鏡が多い。前4世紀ころのパレストリーナ出土の鏡には、ギリシア神話や官能的な装飾主題を流麗な線で描いた銀象眼がみられる。

 ローマ時代の鏡はギリシア、エトルリアの形式を発展させたもので、当時の奢侈(しゃし)な風潮を反映して豪華な装飾を施した鏡が多い。ポンペイ出土の鏡にもさまざまな意匠がこらされており、壁画からも女性たちがそうした手鏡を用いたことがうかがわれる。当時の上流社会では銀製の鏡もみられるが、これは容姿を映すという機能に加えて、財産的価値も求められていたことを示すものである。

 中世に入ると鏡は小型に質素になり、同時に携帯に便利なものが現れた。鉄や銀の金属片を磨いたものを木や象牙の小箱に収めたものや、櫛(くし)の一部にはめ込んだものがあり、貴婦人に愛用された。また中世から17、18世紀にかけては、円筒鏡やピラミッド鏡が占い師や魔術師によって使われた。

 鏡の歴史に革命をもたらしたのはガラス鏡である。ルネサンス期にガラス製作の中心であったベネチアでは、16世紀初め、円筒吹き法によって得た無色透明のガラスを切り開いて鏡板用ガラスをつくり、このガラス板の背面に錫箔(すずはく)を張り付ける鍍錫(としゃく)法が発明された。これが金属鏡にかわってヨーロッパ全土に普及し、重い青銅製などの鏡は姿を消してゆく。1582年に日本のキリシタン大名が派遣したいわゆる天正(てんしょう)遣欧使節は、ローマ教皇謁見後にベネチアを訪れ、市当局から細密画を施した大型鏡4面を贈られたという記録がある。

 当時、鏡は非常に高価で、王侯貴族の占有物であったが、17世紀に大型板ガラスが出現すると、鏡は単なる化粧用としてだけでなく、室内装飾の重要な要素となった。ルイ14世はベネチアから多数のガラス工を招き、パリ郊外のサン・アントアーヌにガラス工場をつくった。そして在来の円筒吹き法でなく、溶液を流し込む鋳造法による平らな大型板ガラスの生産が可能になった。ベルサイユ宮殿の有名な「鏡の間」は、長さ73メートルの廊下の壁面に400枚の鏡がはめ込まれている。こうしてヨーロッパの宮殿や城館の舞踏室や書斎、婦人の居室の内壁を鏡で張るようになって、フランスの鏡は質量ともにイタリア製をしのぐに至った。ドイツやオーストリアでも鏡が生産され、16世紀以来ニュルンベルクの職人組合は豪華な彫刻を施した鏡枠をつくった。18世紀中期にはババリア地方でも鏡の間が流行し、高価な中国磁器やマイセン磁器を飾り、それらが鏡に映し出される効果を楽しんだ。

 こうしたロココ様式の装飾美術の発達は、家具としての鏡を再認識させ、化粧机の鏡台やマンテル・ミラー、衣装戸棚の扉に張る鏡がつくられ、優れた家具工がこれらをデザインした。

 19世紀に入ると、ガラスの量産に加えて、フランス人フランソア・プチ・ジャンによって鍍銀(銀めっき)法が発明され、鏡は一般家庭にまで普及したが、美術的には後退した。現代では、化粧用に限らず、ホールや舞台のミラーボール、レストランや商店の室内装飾などに用いられて、演出効果を高めたり空間感覚を拡大する目的に使われている。また、探照灯やヘッドライトに使われる凹面鏡、自動車のバックミラーの凸面鏡など、鏡の用途は現代生活のなかで多方面にわたっている。

[友部 直]

東洋の鏡

東洋の鏡は中国鏡を主流とし、日本・朝鮮など周辺地域の製品を傍流とする。それらは円盤形が基本となり、背面を図像文様で飾り、その中央に鈕(ちゅう)を備え、それに紐(ひも)を通して支持する形状をとる。周縁に突出した長方形の柄をもつ柄鏡ははるかに遅れて出現し、早くから柄鏡を中心に発達した西方世界の鏡とはその点で大きく異なる。材料はほとんどが銅と錫(すず)を主成分とし、ときにはそれに鉛を加えた銅合金であったが、鉄鏡や鉛鏡が製作されたこともあった。その製品は、銅製容器類と並んで美術的に高く評価されるものが多く、同時に考古学・歴史学研究の資料としても重要視されてきた。

[田中 琢]

戦国鏡

これまでに発見されている最古の中国鏡は、紀元前2000年、斉家(せいか)文化期に属する青海省の出土品で、すでに円盤形をとり、背面を単純な直線文様で飾り、その中央に鈕をもつ。その後、殷(いん)あるいは春秋時代初期、少数例ながら墓に副葬された銅鏡があるが、これら初期の銅鏡は、形状あるいは出土状況からみて、ごく少数者の用いる特殊な道具、おそらく呪術(じゅじゅつ)具であった可能性が高い。多量の鏡の製作使用は、戦国鏡あるいは先秦(せんしん)鏡、先漢(せんかん)鏡などとよばれた一群に始まる。その多くは、戦国時代後半から前漢時代の前3世紀ごろまでに流行したもので、小型の単位文様を碁盤目状に反復配列して鏡背面を埋めるのを特徴とした。その単位文様は、霊獣の体躯(たいく)の一部を切り取った羽状獣文や細地文ともよばれる幾何学文で、ときにはそれらを地文として、その上に重ねて霊獣その他の大型の図像を表現したものも少なくない。中央の小型の鈕は、3本の紐をあわせた表現をとる。鏡面は平坦(へいたん)でほとんど反りがない。そのほか、霊獣の全身像を背面いっぱいに大きく表したもの、霊獣を透彫り風に鋳出した銅板と別につくった鏡面部分とを重ね合わせたもの、金銀象眼の手法で図像を表現したものなど、特殊なものもある。これら戦国鏡が流布しえたのは、映像化粧具として鏡を使用した社会階層が成立したことによるのであろう。

[田中 琢]

漢鏡

漢代は古代中国鏡の確立の時代であり、三国六朝(りくちょう)時代の製品もあわせて漢鏡とよばれる。そこでは、鈕は半球形の大型となり、鈕と厚く頑丈につくられた周縁との間は同心円状に区画され、その中に、新しく創案された鏡固有の図像文様を配する。鏡面も反りをもった凸面へと変化する。戦国鏡の一部にすでに登場していた銘文も広く採用され、重圏銘帯鏡のごとく、銘文のみで鏡背を構成する型式すら出現する。これらの銘文からは、鏡がもつと信じられた呪力に託された至福、富貴、長寿、立身出世などの願いを読み取ることができる。

 図像文様も、多くは当時の中国人の抱いた宇宙像、あるいはそこに躍動すると信じた神仙霊獣を表したもので、この鏡を身辺に置くことによって、天地の動きに同調し、それによって、鏡に託した願望が実現することを期待したのであった。この漢鏡の典型は、後漢(ごかん)初めに完成した方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡や内行花文(ないこうかもん)鏡、さらにその中ごろ以降盛行する各種の神獣鏡である。漢代に一つの頂点を極めた中国鏡は、三国六朝時代になると、しだいに様式的に衰退期に入る。そのなかで注目されるのは、魏(ぎ)・晋(しん)代に製作された三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)である。三角縁神獣鏡は日本でのみ出土し、一部に日本製説もあるが、中国王朝と本格的な交渉をもった邪馬台(やまたい)国への下賜用として製作されたものとみるべきであろう。

[田中 琢]

唐鏡

海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)を典型とする唐鏡は、隋(ずい)代を準備期として唐代に成立した新様式である。やや厚手で重厚な鏡体では、円盤形に加えて、稜(りょう)形、花形が盛行し、方形その他もある。図像文様では、伝統的な神仙霊獣のほかに、狩猟や奏楽など風俗的画面や古典にある伝説を画題としたものも多く、さらに葡萄唐草文(からくさもん)や蓮華文(れんげもん)、宝相華文(ほうそうげもん)などの植物系文様が多用され、この植物系文様のみで鏡背を飾ったものも少なくない。あるいは、鍍金(ときん)や金銀平脱(へいだつ)、螺鈿(らでん)、七宝(しっぽう)などの技法によって飾ったものや、図像文様を打ち出した銀板を貼(は)り付けたものなどの存在も大きな特色である。これら形状・図像文様の特色からすれば、唐鏡は、繊細ともあるいは華麗ともいえるであろう漢鏡に対して、豪華絢爛(けんらん)と形容できるものであった。

[田中 琢]

宋鏡

この唐鏡と交代するように出現したのは、実用的で簡素な宋鏡である。それを代表するのは、浙江(せっこう)省湖州を中心に南宋時代に製作された湖州鏡である。その鏡背には、鋳鏡者が良好な鏡であることを願った銘文を入れるだけで、図像文様をいっさい欠くものが多く、たとえそれを入れても、わずかに飛雲や蝶(ちょう)、蜻蛉(とんぼ)などを置く簡素なものにとどまる。材料の銅合金も錫の比率が低く、鉛の含有率の高くなったものが少なくなく、研磨して映像面を形成するには、質の低下は否めない。それを補って、錫と水銀のアマルガムによる錫めっきが採用され、新しく映像機能を保証する技法となる。図像文様に乏しく、粗製ともいえる湖州鏡が広く普及した理由はここにあったのであろう。背面中央に鈕を備えた円盤形という中国鏡の原則が放棄され始めるのもこのころからであって、鈕は位置を定めず、さらには柄鏡が出現する。宋鏡以後、なお中国鏡は製作され続け、なかには優品も皆無ではないが、美術的にはみるべきものは少なく、明(みん)代に輸入普及し始めたガラス鏡が中国鏡の歴史に終止符を打つ。

[田中 琢]

日本列島の鏡

日本列島に銅鏡が登場するのは弥生(やよい)時代以降である。最初に出現したのは、朝鮮半島で製作、搬入された多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)で、西北日本の弥生時代前期末ないし中期の墓の副葬品にみられる。ついで北部九州地方の中期以降の墓から漢鏡が出土する。これに対して、その他の地方の弥生時代の遺跡から出土する鏡は多くない。しかし、銅鐸(どうたく)といっしょに埋納された多鈕細文鏡が近畿地方にあり、そのほか少数ながら鏡の出土もみる。またおそらく装身具に転用されたものとみられる鏡の破片も北部九州地方を含めて広く出土する。この状況からみると、弥生時代、日本列島とくに西日本には広く鏡が流布しており、北部九州地方で遺物として多数の鏡が残存しているのは、それを墓に副葬する習俗があったからで、その他の地方では、もともと鏡が流入しなかったのではなく、それを副葬する習俗を欠いていたために、遺物として残存しえたものが少なかった可能性がある。鏡の鋳造も弥生時代後期に開始されている。この鋳鏡は、朝鮮半島で前漢鏡を模倣製作したのを端緒とし、その系譜に連なるものとして、これまた北部九州地方を中心に行われた。その製品は、面径7センチメートル内外のやや小型品で、鏡背の図像文様も曖昧模糊(あいまいもこ)とした粗製品がほとんどである。

 本格的な鋳鏡は古墳時代に始まる。中国から舶載された三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡、方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡、内行花文(ないこうかもん)鏡、画文帯神獣鏡、盤竜(ばんりゅう)鏡、獣帯鏡など、各種の中国鏡を手本として製作されたもの、この模作品から変貌(へんぼう)して手本の推定すら困難な図像文様をもつに至ったものに加えて、家屋文鏡や直弧文(ちょっこもんきょう)鏡など、中国鏡にない独得の図像文様を創作したものもある。これらはすべて背面中央に鈕をもつ円盤形である点では、中国鏡の大枠を脱しえていない。しかし、それにみられない特色をあげることもできる。その一つとしては、面径3センチメートル以下の極小品がある一方に、46.5センチメートルを計るような超大型のものがあって、面径のばらつきがきわめて大きい点が指摘できるし、さらに鏡面を十分に研磨していないもの、銅に対する錫の比率が低く、映像具としては良質でない材料によるものなどが多い点も見逃せない。舶載されてきた中国鏡もあわせて、遺存しているこの時代の鏡のほとんどは古墳の副葬品であるが、1埋葬に30面以上の多数を副葬した事例が象徴しているように、この時代の鏡には映像用の実用具としての機能がどの程度期待され、またその機能をどの程度発揮したものであったのか、きわめて疑わしい。5世紀の日本鏡を代表する鈴鏡(れいきょう)は、中国鏡はもちろん、世界の鏡のなかでも他に類をみない特殊なもので、円盤形の周囲に4個から10個の鈴をつけ、それはまた、巫女(みこ)を表したとみられる埴輪(はにわ)の女性像の腰部に着装した状況で表現されていることがある。巫女の所作に音響を添える鏡、それはむしろ鏡とよぶにふさわしいものではない。古墳時代の鏡の用途はこの姿に集約されているといってよい。

 6~7世紀、日本における鋳鏡は衰退、中断する。その再開は奈良時代、海獣葡萄鏡をはじめとする唐鏡の搬入期と一致する。ここで再開された鋳鏡活動では、鋳型土に直接図像文様を彫り込んで鋳型を作成する従来からあった技法のほかに、新しく蝋(ろう)型の鋳造技法が加わっている点は興味深い。その詳細は正倉院文書にある「東大寺鋳鏡用度文案」によってうかがうことができるが、そこでは、径1尺の円鏡の製作に延べ31人日を要したこと、あるいは鏡工人が、仏工に次いで、木工や瓦(かわら)工の数倍の日当を受ける高級技術者であったことなどを知ることができる。しかし、この時代の鏡では、唐鏡を直接鋳型土に押し付けて図像文様を写し取った、いわゆる「踏み返し」の技法によるものが多く、それらには粗悪品も少なくない。このようにして製作された多量の鏡は、社寺の堂塔の荘厳具であり、墳墓の副葬品やその他各種祭祀(さいし)に使用されるものであって、映像あるいは化粧の道具としての機能はなお低かった。

 平安時代後期の和鏡の成立は、化粧具としての鏡の普及を基盤とする。その過程では、唐鏡にみられる唐草を松や桜、藤(ふじ)など日本の自然にみられる樹木草花にかえ、鳳凰(ほうおう)を鶴(つる)や雁(がん)、雀(すずめ)といったこれまた身近な鳥に置き換えるといった図像文様の和風化が進行し、さらに簡素で実用的な宋鏡の影響が加わる。その影響のなかでは、鏡面の錫めっきの技術の採用と柄鏡の登場がもっとも著しい。鋳鏡と並んで鏡磨きが鏡に関連する職業となるのも、有毒の水銀を扱う特殊な技術が不可欠となったためである。そして、室町時代に始まる柄鏡は和鏡の主流となり、明治のガラス鏡の普及に至る。

[田中 琢]

朝鮮鏡

朝鮮半島における鋳鏡活動はけっして活発ではなかった。中国遼寧(りょうねい)地方に起源する呪術用の多鈕細文鏡が前3世紀のころから前1世紀にかけて製作されて以降は統一新羅(しらぎ)時代まで、中国鏡の流入はあったが、顕著な鋳鏡活動はなく、墳墓に鏡を副葬する習俗も、このころまでは中国や日本のようには一般的でなかった。わずかに朝鮮独自の鋳鏡活動の製品とされる高麗(こうらい)鏡も、多くは唐鏡あるいは宋代から元代にかけての中国鏡の影響のきわめて濃厚なものであった。しかし、その時代が日本の和鏡の時代とほぼ符合する点は、中国鏡の影響下にあった地域における鏡の歴史に共通する興味深い現象である。

[田中 琢]

鏡と霊力

鏡に映った像を当の人物の分身とみなし、鏡像を実在に準ずる「存在」と感じるのは、古代人や未開人に共通の自然な傾向である。たとえば日本神話の八咫鏡(やたのかがみ)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の姿を映したゆえに、大神の御魂(みたま)として、依代(よりしろ)として斎(いつ)き祀(まつ)るべきものとなった。およそあらゆる道具のなかで、鏡ほど魂に近接した位階を保った特権的な道具はない。

 こうした鏡の神秘的性格からして、古来、洋の東西を問わず、鏡占いやそれに準ずる水鏡による占卜(せんぼく)、さては水晶球凝視(クリスタル・ゲイジング)の類が現在に至るまで広く行われているのは、むしろ自然なことといえよう。いまここに、古代中国の道教の鏡を中心に、鏡の霊力を示す例をいくつかあげる。

 道士が修行のために山に入るとき、鬼神邪魅に害せられぬよう、護符や鏡を携えて行くことが望ましい。なぜ鏡かといえば、鏡は化け物の正体を暴くからである。甲羅経た老獣の類が人間の姿をしていても、鏡にはその「真形(しんけい)」が映るので、老魅もあえて近づかない。ゆえに、いにしえの道士は、入山の際、直径9寸以上の鏡を背に掛けたものである(『抱朴子(ほうぼくし)』による)。

 妖怪変化(ようかいへんげ)の正体を映し出す鏡の破邪の力は、日本でも広く信じられ、妖魅の真形を鏡で見破る話は至る所に分布している。日本の山岳修行者も、道教の影響で、背に鏡を掛けて入山した者もあった。ヨーロッパでも吸血鬼は鏡を恐れるとされるが、その理由は、正体が映るからではなく、なにも影が映らないからであって、影がないことで尋常の人間でないことが暴露されるからである。

 鏡にはまた不可視の存在を映し出す力があり、『抱朴子』によれば、「明鏡(めいきょう)の九寸以上なるを用いて自ら照らし、思存する所有ること七日七夕なれば、則(すなわ)ち神仙を見るべし」とある。そしてひとたび神仙の姿が示されれば、心中おのずから、千里のかなたのことと、将来のこととが知られる。この仙術には鏡を1面用いる場合と、2面または4面用いる場合とがあった。

 2面の鏡を向き合わせれば、その間の物の像を互いに反映しあい、映像を限りなく増殖させるというのも、鏡の無類の不思議さである。道教には「分形の道」と称するものがあった。よく明鏡を修めて、その鏡道が成就すれば、「則ち能(よ)く形を分ちて数十人と為(な)り、衣服面貌(めんぼう)は皆一の如(ごと)し」とある。

 近代ヨーロッパの帝王たちは、宮殿に「鏡の間」を設けて、反映しあう映像の増殖を楽しんだが、この趣向は、すでに古代ローマ時代、奢侈(しゃし)に慣れた人々の間で知られていた。頽唐(たいとう)期のローマ人たちは鏡を室内装飾に用い、壁面に吊(つ)るすのはもとより、食卓上の皿や酒杯や碗(わん)に小さな鏡をはめ込み、饗宴(きょうえん)の会食者の映像を幾重にも反映させて楽しんだのである。プリニウスはこれをpopulus imaginum(映像の大群)とよんでいる。ただしここでは「鏡の遊戯性」が強調され、神秘性には乏しい。

 伝えられる最古の宮殿の鏡としては、秦(しん)の始皇帝の咸陽(かんよう)宮の方形の鏡がある。幅4尺、高さ5尺9寸と記され、これは当時としては抜群に大型で、豪華な室内装飾であっただけでなく、道教を信じた帝王にふさわしい霊力を備えていた。「人直(まむかい)に来りて之(これ)に照せば影は則ち倒見す。手を以(もっ)て心を捫(お)して来れば、則ち腸胃五臓を見(あらわ)し、歴然として礙(さまた)ぐるなし」、そして病の在所を知らせ、女子に邪心があれば「胆張りて心動く」ので、始皇帝はつねにこの鏡で宮女たちを照らし、邪心ある者を殺した、と『西京雑記(せいけいざっき)』にみえている。

[多田智満子]

鏡の民俗

鏡は、今日のようにガラスが発明利用されるまでは金属製のものであった。しかも鏡は貴重品であり、庶民には簡単に手に入らぬものであった。鏡研師(とぎし)がいて鏡のくもりを研(と)いだものであった。三種の神器の一つに鏡が入っているように、鏡は多くの神社の御神体とされている。鏡が一般の人々に使用される以前には、水鏡といって水面に姿を映してそれを見たのである。伝説に鏡池とあるのはこの水鏡のことを語ったものであるが、鏡岩、鏡石というのが各地にある。平らな岩石を磨いてそれに姿を映したのである。鏡を主題とした伝説昔話では松山鏡の話がよく知られている。島根県美濃(みの)郡美濃村(益田(ますだ)市)には、和泉式部(いずみしきぶ)が水鏡した鏡の釣井という井戸があった。奈良県吉野郡天川(てんかわ)村には、弘法(こうぼう)大師が姿を映したという鏡岩というのがある。長野県南佐久郡北相木(きたあいき)村には、戦いに敗れた更級姫(さらしなひめ)が姿を変えて上州方面に落ち延びるとき、岩に姿を映して見たという鏡岩がある。福島県の北部で語られている昔話に、老婆を咬(か)み殺した猫が逃げて榎(えのき)に登ったのを鉄砲で撃ち殺した。そのとき、かちんと音がした。死んだ猫を見ると鏡を手に持っていた。それは金物の鏡で、鉄砲の弾丸を防ぐためであった。鏡についてはいろいろの俗信がある。岩手県遠野(とおの)地方では生児に鏡を見せると魔がさすという。妊婦がやむなく野送りをするときは、帯の間に鏡を入れて行けという。また鏡をもらう夢をみるとよい子供ができるという。

[大藤時彦]

『多田智満子著『鏡のテオーリア』(1977・大和書房)』『田中琢著「古鏡」(『日本の原始美術8』1979・講談社)』『京都府埋蔵文化財調査研究センター編『謎の鏡――卑弥呼の鏡と景初四年銘鏡』(1989・同朋舎出版)』『菅谷文則著『日本人と鏡』(1991・同朋舎出版)』『孔祥星・劉一曼著、高倉洋彰・田崎博之・渡辺芳郎訳『図説 中国古代銅鏡史』復刻版(2001・中国書店、海鳥社発売)』『リチャード・グレゴリー著、鳥居修晃・鹿取広人・望月登志子・鈴木光太郎訳『鏡という謎――その神話・芸術・科学』(2001・新曜社)』『サビーヌ・メルシオール・ボネ著、竹中のぞみ訳『鏡の文化史』(2003・法政大学出版局・りぶらりあ選書)』『葛洪著、石島快隆訳注『抱朴子』(岩波文庫)』『由水常雄著『鏡の魔術』(中公文庫)』



鏡(熊本県)
かがみ

熊本県中部、八代(やつしろ)郡にあった旧町名(鏡町(まち))。現在は八代市の北西端部を占める。旧鏡町は1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)文政(ぶんせい)、有佐(ありさ)の2村と合併。町名は「印鑰(いんにゃく)明神池の別称、鏡池」による。2005年(平成17)八代市に合併。旧町域はJR鹿児島本線が通じる。全域沖積層で覆われ、最高標高でも8メートルに満たない。西の八代海に臨む海岸線から、3~5キロメートルほど東に入った地点までは、17世紀以降に干拓された標高2メートル以下の低平地で、町域の約80%を占める。東部の約20%は、断層線崖(がい)(臼杵(うすき)‐八代構造線)を横切る氷(ひ)川、鏡川、大鞘(おざや)川の搬出する砂礫(されき)、泥土の堆積(たいせき)によって自然に陸地化した地形面で、有佐貝塚、蘇我(そが)石川宿禰(すくね)(奈良時代)を祀(まつ)る印鑰神社があり、開発の古さを示す。主産業は農業で、稲作と水田裏作としてのイグサ栽培や施設園芸(イチゴ、トマト、メロン)が中心。ほかに干潟、浅海を利用したアサリ、ノリ養殖も盛んである。湿田、干潟に依存した生活様式が、かつては鏡熱とよばれたウイルス性腺熱(せんねつ)を多発させたが、土地改良事業の完成とともに消滅した。4月7日に鏡池で催すフナの手づかみどりは、印鑰神社の鮒(ふな)取り神事として知られている。

[山口守人]


鏡(高知県)
かがみ

高知県中央部、土佐郡(とさぐん)にあった旧村名(鏡村(むら))。現在は、高知市(こうちし)北西部の一地域。2005年(平成17)、土佐山(とさやま)村とともに高知市に編入。旧村域は、鏡川の中流域に位置し、狭小な河岸段丘がみられるが平坦(へいたん)地に乏しい山村地帯。産業は林業が中心である。木炭、用材のほか、かつては繭、コウゾも産したが衰退した。農業ではウメ、ショウガ、ミョウガの生産が盛んであるが、近年は通勤兼業が増加している。高知市中心市街地への都市用水の供給と発電を目的とする鏡ダムがある。926メートルの雪光(せっこう)山(国見山)、森林公園などがあり、平家の落人伝説が残る。

[正木久仁]

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普及版 字通 「鏡」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 19画

(旧字)
19画

[字音] キョウ(キャウ)
[字訓] かがみ・てらす・あきらか

[説文解字]

[字形] 形声
声符は(きよう)。〔説文〕十四上に「景なり」とあり、畳韻の訓。古くは鑑といい、金文には監という。監は皿(盤)に臨んで見る形。古い鏡銘には略体としての字を用いる。

[訓義]
1. かがみ。
2. かんがみる、てらす、みる。
3. あきらか。
4. 馬のひたいの旋毛。

[古辞書の訓]
〔和名抄〕 加々美(かがみ) 〔名義抄〕 カガミ・ミル・アキラム・キヨシ・ウツス・テル・アキラカナリ・カガミル/臺 カガミカケ

[語系]
・景kyangは同声。監・鑑keam、光kuang、曠khuang、煌・晃huangは畳韻の語で、いずれも声義が近い。

[熟語]
鏡影・鏡架・鏡花・鏡戒・鏡誡・鏡監・鏡檻・鏡鑒・鏡見・鏡匣・鏡光・鏡・鏡象・鏡照・鏡色・鏡心・鏡水・鏡清・鏡台・鏡断・鏡中・鏡・鏡天・鏡発・鏡・鏡餠・鏡銘・鏡面・鏡鸞・鏡裏・鏡輪・鏡奩・鏡
[下接語]
映鏡・瑩鏡・円鏡・掩鏡・遠鏡・海鏡・開鏡・看鏡・鑒鏡・眼鏡・亀鏡・窺鏡・夾鏡・鏡・玉鏡・金鏡・月鏡・古鏡・合鏡・細鏡・執鏡・粧鏡・照鏡・浄鏡・心鏡・神鏡・人鏡・水鏡・清鏡・霜鏡・澄鏡・鉄鏡・天鏡・銅鏡・破鏡・氷鏡・俯鏡・芳鏡・宝鏡・法鏡・摩鏡・磨鏡・明鏡・幽鏡・覧鏡・鸞鏡・臨鏡・弄鏡

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百科事典マイペディア 「鏡」の意味・わかりやすい解説

鏡【かがみ】

古くは金属や黒曜石をみがいた鏡があったが,現在一般に用いる鏡は,硝酸銀溶液をガラス板に塗って銀膜を作り,光明丹(四三酸化鉛)で保護する。理化学用や反射望遠鏡,バックミラーには銀,アルミニウム,鉛等を真空蒸着する。銀の厚さが数百オングストローム以下なら半透明になり,暗所から明所を見れば透明で,逆に見れば鏡になる(マジックミラー)。平面鏡のほか凹面鏡凸面鏡がある。 鏡は姿見の道具としてだけでなく,宗教的な呪力(じゅりょく)をもつという考えから古くから用いられていたが,中国系の円形で鏡背に鈕(ちゅう)のあるものと,エジプトに始まりギリシア・地中海沿岸を中心とする柄鏡とに分けられる。中国の鏡は青銅,鉄などを材料とし,春秋初期から戦国(春秋戦国時代),漢代(漢鏡),三国,唐代(唐鏡),宋元代(宋元鏡)とそれぞれ特徴をもっている。鏡背につけられた文様も神獣鏡画像鏡など種々あり,唐代には海獣葡萄(ぶどう)文鏡,騎馬狩猟文鏡なども見られる。 日本では,弥生(やよい)時代や古墳時代の遺跡から漢鏡が出土するが,古墳時代から舶載鏡を模した【ぼう】製(ぼうせい)鏡も作られ宝器とされたり,権威の象徴とされた。幾何学文様で飾った直弧文鏡,家屋文鏡,狩猟文鏡等に独自の意匠が見られる。奈良時代,唐鏡の影響をうけた鏡がつくられ,平安時代には優雅な草花やチョウ,鳥等をあしらった日本独特の和鏡が完成,鎌倉・室町時代を経て江戸時代までさかんにつくられた。
→関連項目青銅器先秦鏡

鏡[町]【かがみ】

熊本県中部,八代(やつしろ)郡の旧町。八代平野中央部を占め,大部分は近世の干拓地。米作,野菜などの施設園芸,イグサ栽培と畳表製造が盛ん。八代郡北部の商業中心地であり,肥料,縫製などの工場もある。東部に鹿児島本線が通じる。2005年8月八代郡千丁町,坂本村,東陽村,泉村と八代市へ編入。28.24km2。1万6432人(2003)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鏡」の意味・わかりやすい解説


かがみ
mirror

一般に光をよく反射するようにした滑らかな面をいう。面の形によって平面鏡,凹面鏡,凸面鏡などがある。現在一般に使われる鏡は,ガラスの裏面に水銀アマルガムをつけ,その上に保護膜をつけたものである。科学的な目的にはガラスの表面に真空蒸着でアルミニウム,銀,プラチナなどの膜をつけ,その金属面のほうを鏡面として用いる。これを表面鏡という。真空蒸着法で鏡をつくるとき,膜を薄くつけて光が半分透過するようにしたものを半透明鏡という。鏡の歴史は古く,現在発見されている世界最古の鏡は,アナトリアのチャタル・ヒュユク遺跡から出土した黒曜石をみがいた円鏡で,前 6000年頃と推定されている。 15世紀にベネチアでガラス鏡がつくられる以前は,青銅,白銅,鉄などを磨き上げた金属鏡が使われた。形はおもに円鏡,方鏡,柄鏡で,西洋ではエジプト第 11王朝の浮彫に残された鏡以来柄鏡が伝統で,中国では円鏡が圧倒的に多く,裏 (鏡背) に文様が鋳出される。その文様によって細線鋸歯文鏡,内行花文鏡,人物画像鏡,神獣鏡,海獣葡萄鏡などと呼ばれたり,製作技術によって螺鈿鏡,玻璃鏡,鍍金鏡といわれたりする。在銘のものは多く吉祥句,故事が書かれ,紀年銘のあるものもある。日本では弥生・古墳時代以来,中国鏡 (舶載鏡) を盛んに輸入したが,これを型にしたり,模倣したものを 仿製鏡という。平安後期以後のものは日本的な秋草,流水,花,鳥などの文様をつけたので和鏡と呼ばれ,そのうちでも室町末期には柄鏡が使われはじめた。また物を映すだけでなく,凹面鏡などの光を集める作用から,太陽神崇拝,それに付随する権力者の象徴,神宝などに,さらには現実世界の投影という意味から歴史書の意味にも使われる。


かがみ

熊本県中南部,八代市北西部の旧町域。八代平野中部にある。 1889年町制。 1955年有佐 (ありさ) 村,文政 (ぶんせい) 村と合体。 2005年八代市,坂本村,千丁町,東陽村,村の5市町村と合体して八代市となった。鏡,文政,有佐の3地区からなり,そのうち文政地区は文政4 (1821) 年に干拓された地域。八代海に面する地域ではノリの養殖が行なわれている。イグサ栽培,米作,野菜の促成栽培のほか,イグサ加工による畳表の製造が盛ん。


かがみ

高知県中部,高知市北西部にある鏡川中流域の旧村域。 1889年村制。 2005年高知市に編入。第2次世界大戦前は養蚕が盛んであったが,その後農林業が主産業になった。 1966年高知市の用水と防災機能などを目的とした鏡ダムが鏡川に建設された。雪光山や平家の滝などの景勝地があり,南東部は北山県立自然公園に,北部は工石山陣ヶ森県立自然公園に属する。

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デジタル大辞泉プラス 「鏡」の解説

フランスの作曲家モーリス・ラヴェルのピアノ曲集(1904-1905)。原題《Miroirs》。全5曲。第3曲『洋上の小舟』、第4曲『道化師の朝の歌』はラヴェル自身による管弦楽編曲版がある。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【ラベル】より

…これが問題化して,音楽院院長がT.デュボアからフォーレへと更迭された。この05年にラベルは,ピアノのための《ソナチネ》とピアノ曲集《鏡》,ハープと室内合奏のための《序奏とアレグロ》を書き上げる。ラベルのうちの古典主義を《ソナチネ》が,描写的な音感覚を《鏡》が,装飾的感性を《序奏とアレグロ》が,うかがわせるといってもいいだろう。…

【鏡作部】より

…日本古代の職業部の一つ。鏡の製作に従事した。伴造(とものみやつこ)は683年(天武12)に連(むらじ)姓を与えられた鏡作造で,その本拠は《和名抄》にみえる大和国城下郡鏡作郷であろう。…

【鏡磨ぎ】より

…鏡を磨ぐことを仕事とした旅職のこと。鏡は材質にガラスが用いられる以前は,長い間銅または青銅であったから,たえずその曇りを磨ぐ必要があった。…

【鏡像】より

…鏡面に神仏の姿や梵字などを線刻または墨書し,社寺に奉納,礼拝したもので,御正体(みしようたい)とも呼ばれる。日本では平安時代から江戸時代まで盛んに製作された。…

【古墳文化】より

…少なくとも,古墳発生直前の日本は,東アジアにおける孤立した存在ではなく,中国のすすんだ文化に畏敬の念をもって対していた。その社会においては,弥生時代に輸入した漢のが,神宝的な器物として,首長のあいだで伝世していたし,大量に将来した魏の鏡は,さらに大きな憧憬の的となった。しかし,国産品をもって新しい宝器を作る風習は,まだ顕著でなかった。…

【室内装飾】より

…イスラム世界の住宅では,婦人などが室内にいて外が見えても,外からは内部が見えないように,目の細かい木格子を窓につけた。 鏡は,はじめベネチアの独占工芸であったが,17世紀にはフランスで生産されるようになり,室内装飾にも用いられるようになった。そのもっとも豪華に実現されたのは,ベルサイユ宮殿の〈鏡の間〉である。…

【隋唐美術】より

…6世紀末が李和墓,張盛墓,7世紀初頭が李静訓墓,姫威墓,7世紀中葉が鄭仁泰墓,李爽墓,そして8世紀初頭の状況が永泰公主墓章懐太子(李賢)墓懿徳(いとく)太子(李重潤)墓によって知られる。 漢代以来の伝統工芸である鏡鑑は,漢三国時代に完成し,六朝時代はそのおそらく亜流にとどまったが,隋・初唐になると,まず四神鏡,規矩鏡などの在来形式を基礎にしつつ,銘文字体や施文に新たな動きをみせて製作され,次いでまったく新しい形式である団華文鏡をはじめとする新形式が生まれ,また西方の文様の消化吸収のうえに白銅の葡萄鏡が出現して好まれた。この中には方形鏡もある。…

【梵鐘】より

…中帯と下帯の間の横長の区画を草の間(くさのま)と呼ぶ。撞座は鏡とも八葉とも呼ぶが,普通,蓮華文を浮彫に表す。蓮華文はその時代の瓦当や,磬(けい),鰐口(わにぐち)などの撞座と共通した意匠をとるが,八弁蓮華文が多く,少ないものは四弁,多いものでは十六弁まである。…

※「鏡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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