デジタル大辞泉 「大島」の意味・読み・例文・類語
おお‐しま〔おほ‐〕【大島】
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伊豆大島ともよばれ、伊豆諸島中最大の島。都心から南方約一二〇キロ、最も近い伊豆東海岸からは南東方約二五キロの洋上に位置している。面積九一平方キロ。最高峰の
「日本書紀」推古天皇二八年八月条に田史名倉(同書同六年四月一一日条)などが流されており、伊豆島が流刑地とされていたことがうかがえる。神亀元年(七二四)伊豆は安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐とともに遠流の地に定められている(「続日本紀」同年三月一日条)。文武天皇三年(六九九)五月二四日、役小角(役行者)が「伊豆嶋」に流されているが(続日本紀)、「扶桑略記」同日条には「仍配伊豆大島」とあり、小角の配流地は大島と考えられる。永久元年(一一一三)には山城醍醐寺の仁寛(真言立川流の祖)が罪科を得て「伊豆大島」に流されている(「殿暦」同年一〇月二二日条)。保元の乱に敗れた源為朝は近江国
命
中世にみえる島名で、
貞応三年(一二二四)四月一四日の関東下知状写(武雄鍋島家文書)に「大島」とみえ、宇野御厨内の当地などの地頭職が大江通頼に安堵されているが、通頼は「肥前国御家人字峯太郎通頼」ともあるので(同年六月一六日「大宰府守護所牒写」同文書)、峰披の一流であろうと思われる。寛喜元年(一二二九)関東からあらためて当地などの地頭職および神官検非違所・海夫本司が通頼に安堵されており(同年一〇月三〇日「関東下知状写」同文書)、同三年に大宰府守護所から施行されている(同年四月一六日「大宰府守護所牒写」同文書)。通頼の所領のうちで、大島などは通時の兄弟と考えられる通綱の知行となったと思われ(嘉禎四年一〇月九日「関東下知状写」同文書)、文永七年(一二七〇)御家人の大島次郎通綱の子の通清および同じく舎弟の地蔵丸に大島地頭職ならびに検非違所・海夫等本司職が相伝されている(同年九月一五日「沙弥乙啓奉書」来島文書、以下断りのない限り同文書)。
文永一一年三月二七日に通清は和与状を作成しているが、これは通綱の遺領を通清と地蔵丸(通継か)が再配分したものと推定され、大島は通清に伝領されたらしく、通継は嘉元二年(一三〇四)に通明(通清の子)の大島の所領を違乱しないことを約束している(同年三月二〇日大江通継等連署和与状)。この間、大島弥二郎通継は文永一〇年に関東から国々の悪党の蜂起を停止するよう守護を通じて命じられ(同年一一月一六日肥前国守護少弐資能施行状)、正応六年(一二九三)平禅門の乱が起きると関東からの早打に応じて鎮西探題のもとに馳せ参じている(同年五月九日大島通継着到状)。一方、通清は弘安の役に参陣したらしい(弘安六年三月二二日「鎮西御教書」山代文書)。元亨二年(一三二二)「大島地頭」が肥前国一国平均役の
永正五年(一五〇八)頃と推定される
大島の開発時期は明らかでないが、七名の平家落武者によって開発されたという「
外海沖に浮ぶ大島・
小値賀島の南西、
八幡浜港から定期船で五〇分、面積〇・八平方キロの島。「沖ノ大島」ともいった。寛文八年(一六六八)墅截)には「穴井浦之内大島之儀、近年新浦に申付、百姓召付候処、小網一帖仕出度之由、去年も申出」とある。漁場(網代)は「八幡浜十人網と相定」めて認可された。享保三年(一七一八)八月一一日には、「穴井浦之内大島、近年人数多罷成有来候、元網計にてハ渡世難成候ニ付、古網等取合新網壱帖仕出度」(大島井上文書)とあり、新網(結出網)一帖の操業を認可されている。
紀伊長島町の南南東約六キロの熊野灘に浮ぶ無人島。約四〇〇×約六〇〇メートルの主島と、その北部から西にある
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都大島支庁大島町(全島1町)に属する島。伊豆諸島(いずしょとう)最北端にあり、諸島中の最大の島である。伊豆大島と通称される。周囲52キロメートル、面積91.06平方キロメートル、人口8688(2009)。東京の南南西約120キロメートル、伊豆半島下田(しもだ)港の東約40キロメートルにある。富士箱根伊豆国立公園に含まれている。
[菊池万雄・諏訪 彰]
玄武岩質の活火山島で、北端の乳(ち)ヶ崎から岡田港付近には第三紀末期の旧火山岩体がみられるが、島の大部分は数万年前の海底噴火から生起した二重式の大島火山でできている。外輪山に囲まれた直径3~4キロメートルのカルデラ内にある中央火口丘を三原山(みはらやま)(758メートル)とよび、内輪山ともいう。有史以後(684年以来)もしきりに噴火を繰り返してきたが、19世紀以後の噴火はすべて三原火口内であった。しかし、1950~1951年(昭和25~26)の大噴火では、砂漠とよばれる火口原にも多量の溶岩が流出した。また1986年の噴火ではカルデラ床や北側外輪山でも割れ目噴火が生じ、溶岩流が海岸近くの集落にまで迫ったため、全島民が約1か月間島外に避難した。1938年に設置された大島測候所(現、大島特別地域気象観測所)では、地上気象観測、地震・津波観測などとともに常時火山観測が行われている。
南端の波浮港(はぶこう)は、小爆裂火口(マール)の跡である。近世初期まで波浮池とよばれていたものが、1703年(元禄16)の地震で海と通じて湾になった。西海岸の緩傾斜に対し、東海岸は150メートル余の垂直に近い海食崖(がい)の連続で、東西非対称である。気候は黒潮の影響が大きく、冬季にツバキが咲き乱れる温暖な海洋性気候であるが、火山島の宿命で水が少なく、近年まで天水依存であった。
[菊池万雄・諏訪 彰]
古くは元町(もとまち)(元村)、岡田は浦百姓(うらびゃくしょう)村あるいは海方村とよばれて漁業に従事し、差木地(さしきじ)、野増(のまし)、泉津(せんづ)は山方村あるいは釜(かま)百姓村といわれて製炭や製塩に従事していた。現在は自給的畑作農業のほか野菜、花卉(かき)などの園芸農業、酪農、椿油(つばきあぶら)の生産などが行われているが、主産業は観光業を中心とする第三次産業である。集落は、中央にある三原山の緩やかな西側山麓(さんろく)に沿って分布している。元町は島の中心集落で、大島支庁や町役場の行政機能が集中しており、島の玄関口でもある。東京、横浜、熱海(あたみ)から定期船が就航しているほか、下田、伊東、館山、久里浜から季節便が運行されている。北部の岡田は、元町の補助港の役目と空港(東京から40分)もあって島外交通の関門であり、また、もっとも漁業の盛んな所でもある。南部の波浮港は漁港であり、避難港である。湾内が浅かったのを浚渫(しゅんせつ)し、差木地村から分村して村づくりをし、1800年(寛政12)築港も完成された。
[菊池万雄・諏訪 彰]
大島は奈良・平安時代には遠流地(おんるち)で、役小角(えんのおづぬ)(役行者(えんのぎょうじゃ))、源為朝(ためとも)の流刑で知られるなど、流人の遺跡がある。江戸時代に流刑地から除かれ、1920年代後半から観光地として注目され、御神火(ごじんか)、アンコ(姉子)、『波浮の港』の歌、牛乳風呂(ぶろ)などで喧伝(けんでん)された。現在は三原山を中心とする自然を求める観光客が多く訪れ、都立大島公園はじめ、自然休養村、筆の穂先を思わせる筆島とオタイネ明神、沖ノ根の椿トンネル、千波(せんば)崎、大島のサクラ株(特別天然記念物)、東海岸の断崖(だんがい)、行者窟(くつ)、風早(かざはや)崎、為朝館跡、大島温泉、伊豆大島火山博物館、大島町貝の博物館ぱれ・らめーるなど観光地も多く、四季を通じてにぎわっている。泉津にあるシイノキ山のシイノキ群、大島海浜植物群落は天然記念物。
[菊池万雄・諏訪 彰]
『立木猛治著『伊豆大島志考』(1969・同書刊行会)』▽『日本火山学会誌『火山・大島特集号』(1971)』
福岡県北部、宗像郡(むなかたぐん)にあった旧村名(大島村(むら))。現在は宗像市。2005年(平成17)宗像市に編入し、宗像郡は消滅。旧大島村は玄界灘(げんかいなだ)東端の大島と、その北西約47キロメートルの海上に浮かぶ沖島(おきのしま)(沖ノ島)からなる。大島は宗像市神湊(こうのみなと)と定期船で結ばれ、古くから海上交通の要衝として開けている。中型巻網、底刺網を中心とする沿岸漁業が行われるほか、農業は米をはじめナツミカン、野菜などを産し、牧場では黒毛和牛が飼育されている。景勝地や好釣り場、海水浴場があり、釣り客や行楽客が増加している。大島には国指定史跡である宗像大社の中津宮(なかつみや)、沖島には沖津宮(おきつみや)があり、海運業者の信仰を集めている。沖島の原始林は国の天然記念物。
[石黒正紀]
2017年、この地域にある宗像大社の中津宮や沖津宮(沖島)などは「『神宿る島』―宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成資産(全8件)の一部として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2017年7月19日]
『『大島村史』(1985・大島村)』
山口県南東部、面積128.3平方キロメートルの瀬戸内海第三の島。周防大島(すおうおおしま)または屋代島(やしろじま)ともいう。安山岩や花崗(かこう)岩からなる沈水島で、屈曲の多い海岸線をもち、平地に乏しい。大島郡の周防大島町に属する。『古事記』の「国生み」に登場する大島とされ、『和名抄(わみょうしょう)』には屋代、美敷(みふ)、務理(むり)の3郷がみえ、中世までに屋代荘(やしろのしょう)、島末(しまずえ)荘、安下荘(あげのしょう)の荘園(しょうえん)が開発された。近世には萩(はぎ)藩大島宰判(さいばん)(裁判とも書く地方行政区画)に属し、勘場(かんば)(代官所)は久賀(くか)に置かれた。天保(てんぽう)年間(1830~1844)すでに人口5万8000人に達した。階段耕地が発達し、サツマイモが栽培され、小松や神浦(こうのうら)、安下庄は製塩業でも知られた。
明治以降はハワイ移民を多く出し、日本ハワイ移民資料館がつくられている。日前(ひくま)に始まった温州(うんしゅう)ミカンの栽培は全島に及び、現在では農地の70%以上を果樹園が占める。沿岸では一本釣りや小型底引網が盛ん。1976年(昭和51)大畠(おおばたけ)瀬戸に大島大橋(1020メートル)が開通し、本土と結ばれた。島の北岸を国道437号が走る。人口2万2384(2000)。
[三浦 肇]
福岡県北部、宗像市(むなかたし)に属する島。同市神湊(こうのみなと)沖合い約7キロメートルにある県内最大の島。筑前大島(ちくぜんおおしま)ともいわれる。玄界灘(げんかいなだ)と響灘(ひびきなだ)の境をなし、沖島(おきのしま)(沖ノ島とも書く。無人島)とともに宗像郡大島村をなしていたが、2005年(平成17)宗像市に編入した。周囲13.5キロメートル、面積7.17平方キロメートル。中央部の御岳(おんたけ)(224メートル)を最高に山地、丘陵が広く、海食崖(がい)が発達している。半農半漁の島で、沿岸漁業が中心である。宗像大社の中津宮(なかつみや)がある。古来、九州と大陸を結ぶ海上交通の要衝として開け、宗像氏の根拠地の一つであった。中世以降は倭寇(わこう)の根拠地ともなった。キャンプ、海水浴、釣りなどの客が増加し、神湊からの定期航路に1981年(昭和56)からフェリーも就航した。人口782(2009)。
[石黒正紀]
2017年、大島にある宗像大社の中津宮および沖津宮遥拝所(おきつみやようはいしょ)は、「『神宿る島』―宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成資産(全8件)の一部として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2017年7月19日]
東京都大島支庁に属し、伊豆(いず)半島の東方、伊豆諸島最北端の大島を町域とする町。1869年(明治2)韮山(にらやま)県、1871年足柄(あしがら)県、1876年静岡県に属したが、1878年に東京府の管轄となる。1955年(昭和30)全島の元(もと)村、岡田村、泉津(せんづ)村、野増(のまし)村、差木地(さしきじ)村、波浮港(はぶみなと)村の6村が合併して町制施行。海洋性の温暖な気候で、サルビア、ガーベラ、エビネランなどの花卉(かき)園芸と野菜栽培、およびイセエビ、トコブシ、イサキなどの漁業が行われる。また、アンコ(姉子)とツバキと活火山の三原山(みはらやま)で知られる観光地でもあり、主産業は観光業を中心とする第三次産業である。大島支庁や町役場のある元町(もとまち)が中心地。面積90.76平方キロメートル、人口7102(2020)。
[沢田 清]
山口県南東部、大島郡にあった旧町名(大島町(ちょう))。現在は周防大島(すおうおおしま)町。1952年(昭和27)小松町と屋代(やしろ)村が合併して成立。1955年沖浦、蒲野(がまの)村を編入。2004年(平成16)久賀町(くかちょう)、東和町(とうわちょう)、橘町(たちばなちょう)と合併、周防大島町となる。旧町域は、瀬戸内海に浮かぶ周防大島(大島または屋代島ともいう)の西部を占め、国道437号が通じ、大島大橋で対岸(本土)の柳井(やない)市と結ばれる。西方海上の笠佐(かささ)島を含む。島内最高の嘉納(かのう)山(685メートル)の西麓(せいろく)で、屋代川の谷に平地が開ける。屋代川には、1990年に屋代ダムが建築され、周辺は屋代ダム公園として整備されている。古代の屋代郷の地。明治以降、海外移民の母村として知られる。果樹栽培が中心で、山口ミカンの特産地。小松塩田跡地ではクルマエビを養殖する。小松に独立行政法人国立高等専門学校機構の大島商船高等専門学校がある。西長寺の木造阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像は「日見の大仏(ひみのだいぶつ)」とよばれ、国の重要文化財に指定される。
[三浦 肇]
新潟県南西部、東頸城郡(ひがしくびきぐん)にあった旧村名(大島村(むら))。現在は、上越(じょうえつ)市の東部を占める一地区。2005年(平成17)安塚(やすづか)町、柿崎(かきざき)町、大潟(おおがた)町、吉川(よしかわ)町、板倉(いたくら)町、名立(なだち)町、浦川原(うらがわら)村、牧(まき)村、頸城(くびき)村、中郷(なかごう)村、清里(きよさと)村、三和(さんわ)村とともに上越市に編入。旧村域は、東頸城傾動地塊山麓(さんろく)を流れる保倉(ほくら)川の上流侵食谷に分散する約26集落からなり、北越急行ほくほく線、国道253号、403号、405号が通じる。主産業は農業であるが、急斜面の棚田に依存する稲作は豪雪や地すべりに悩まされる。過疎化、老齢化が著しい僻村(へきそん)からの脱却を目ざし、園芸など新分野の開拓や工業、観光にも力を入れている。大山温泉、菖蒲(しょうぶ)高原などがある。
[山崎久雄]
長崎県西彼杵半島(にしそのぎはんとう)西部、西彼杵郡にあった旧町名(大島町(ちょう))。現在は西海市(さいかいし)の北西部を占める。旧大島町は1949年(昭和24)黒瀬(くろせ)村が町制施行して黒瀬町となり、同年大島町と改称。2005年(平成17)西彼(せいひ)町、西海町、崎戸(さきと)町、大瀬戸(おおせと)町と合併、市制施行して西海市となった。旧大島町は半島の西方海上の大島、寺島およびその小属島からなる。旧藩時代から北岸の黒瀬本郷、西岸の大島郷、南岸の蛤(はまぐり)郷の三つを主とする零細な漁村であったが、1935年(昭和10)松島炭鉱大島鉱業所が設立されて、東岸の馬込(まごめ)に坑道が開かれ、ボタによる埋立地が造成され、石炭積出し港の整備とともに、人口も東岸に集中した。大島鉱業所は年産70万トンの粘結炭を産出するビルド鉱に発展したが、1970年ついに閉山した。1973年鉱業所跡には大島造船所(住友系)が誘致された。さらに企業誘致により1970年にはアサヒ、1988年にはイズミソーイングが進出した。属島の寺島は大村藩が牧場を開き、牧馬を行った島。半島とは大島大橋、寺島大橋によって結ばれ、旧崎戸町の蛎ノ浦(かきのうら)島との間には中戸大橋がかかっている。
[石井泰義]
富山県北西部、射水郡(いみずぐん)にあった旧町名(大島町(まち))。現在は射水市の北西部を占める地域。旧大島町は1969年(昭和44)町制施行。2005年(平成17)新湊(しんみなと)市、射水郡小杉(こすぎ)町、大門(だいもん)町、下(しも)村と合併して射水市となる。射水平野の南部で、旧町域全域が標高3~8メートルの水稲単作の農村であった。しかし富山・高岡両市の中間に位置しており、中央を東西に旧国道8号が通ってから国道に沿って中小工場、資材置場、商店ができ都市化した。あいの風とやま鉄道越中大門(えっちゅうだいもん)駅は南域にあり、新日本電工北陸工場、東洋紡庄川(しょうがわ)工場、その他の金属工場が近くにある。
[深井三郎]
『『大島村史』(1963・大島村)』
宮城県北東部、気仙沼湾(けせんぬまわん)にある島。気仙沼市に属す。県下最大の島で、面積9.05平方キロメートル、海岸延長24.3キロメートル。古くは薬師島といい島名由来の薬師堂(久須志神社(くすしじんじゃ))がある。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の検地の際に伊達政宗(だてまさむね)が大島と改称したと伝えられる。島の経営耕地規模は小さく、漁業が主体。大島漁師とよばれる遠洋漁船の乗組員が多く、沿岸漁業、カキ、ノリなどの養殖業も盛ん。西部にある浦の浜から気仙沼へフェリーが通じる。中央の亀山(235メートル)は山頂へリフトが通じ、そこからは気仙沼湾や唐桑(からくわ)半島、南に牡鹿(おしか)半島や金華山が望める。ツバキが多く、十八鳴(くぐなり)浜は鳴り砂で知られ、小田の浜には海水浴場がある。島一帯は三陸復興国立公園(旧、陸中海岸国立公園)に含まれ、海域公園も2地区指定され、また休暇村がある。人口3409(2009)。
[青柳光太郎]
愛知県蒲郡市(がまごおりし)三谷(みや)海岸から南西方約3キロメートル沖合いにある島。無人島。三河大島(みかわおおしま)ともいう。蒲郡市沿岸海域には竹島、大島、小島、仏島など片麻(へんま)状花崗(かこう)岩からなる小島が散在するが、最大の島が大島。面積0.06平方メートル。最高点約44メートル。『東三河地区の地盤』(松沢勲(いさお)著)によると、蒲郡市東部地区は、片麻状花崗岩からなる山地とあり、竹島、大島などはその連続と考えられる。東西約800メートルの大島東海岸の突出した州の北側が急傾斜になっているのは沿岸潮流の影響。国指定天然記念物ナメクジウオの生息地。潮干狩や海水浴客でにぎわう。夏期には蒲郡から定期船がある(15分)。
[伊藤郷平]
愛媛県東部、燧灘(ひうちなだ)南部にある島。面積2.13平方キロメートル。新居浜(にいはま)市に属し、市街地東部の1.3キロメートルにあり、「新居大島」ともよばれる。西隣の黒島(陸繋島(りくけいとう))はかつての属島であった。南北朝、室町時代に村上三島水軍の本拠地で、城塞(じょうさい)、船隠し跡が残る。水軍は豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵攻の際に大いに功があり、江戸時代には千石船(せんごくぶね)の大型廻船(かいせん)が盛んで、瀬戸内海から蝦夷地(えぞち)にまで交易を広げた。現在は半農半漁で、ミカンや特産の白イモがつくられる。黒島港から連絡船が就航している。人口307(2009)。
[深石一夫]
長崎県北松浦(きたまつうら)郡にあった旧村名(大島村(むら))。現在は平戸市(ひらどし)域。旧大島村は2005年(平成17)平戸市に合併。平戸島の北方に浮かぶ大島からなる。『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』には大家(おおや)島として記録され、中世には松浦(まつら)党に属した大島氏の居城跡が神浦(こうのうら)の背後にある。神浦が首邑(しゅゆう)で、1625年(寛永2)捕鯨基地として開かれ繁栄し、捕鯨衰退後はイワシ漁業で栄えたが、現在では零細な一本釣りを主とし地元漁業は不振で、生月(いきつき)島の遠洋漁業従事者としての出稼ぎが多い。玄武岩台地上に散在する農村は畑作とともに、多くの溜池(ためいけ)利用による水田も多く、米は島外へ移出している。畑作は葉タバコを特産とし、牧牛も盛んである。盆に行われる須古踊(すこおどり)は国選択無形民俗文化財。
[石井泰義]
和歌山県最南部、潮岬(しおのみさき)東方にある島。東牟婁(ひがしむろ)郡串本(くしもと)町に属す。紀州最大の島なのでこの名がある。東西8キロメートル、南北2.5キロメートル、周囲28キロメートル、面積9.68平方キロメートル。全島40~80メートルの平坦(へいたん)な海食台地で、海食崖(がい)に囲まれる。吉野熊野国立公園の一部。岩礁も多く、樫野(かしの)崎には1890年(明治23)に遭難したトルコ軍艦の碑とトルコ記念館がある。また、ペルー来航以前にアメリカ帆船がこの島に寄航しており、日米修交記念館がつくられている。避難港を兼ねる大島と、樫野、須江(すえ)、白野の4漁港があり、敷網漁業が多い。対岸の串本港から1.8キロメートル沖合いにあり、1999年(平成11)くしもと大橋が開通、本土と結ばれた。人口1515(2000)。
[小池洋一]
愛媛県北部、芸予諸島にある島。大三島に次いで大きく、今治(いまばり)市に属す。面積41.87平方キロメートル。今治市街地から4キロメートルの距離にある。南東部は断層海岸で急崖(きゅうがい)をなすが、西および南部では湾入や岬角(こうかく)の多い複雑な海岸線で景観に優れる。花崗岩(かこうがん)帯で良質の石材を産出する。2泊3日の行程で一巡できる大島島四国八十八か所巡り(しましこくはちじゅうはっかしょめぐり)や、水軍史跡巡りのコースが整備され、瀬戸内海国立公園に含まれる。西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)が島を南北に通過、大島北と大島南インターチェンジが設置されている。伯方(はかた)・大島大橋で伯方島と、来島(くるしま)海峡大橋で今治市街地と結ばれている。人口8372(2000)。
[深石一夫]
山口県中北部、日本海沿岸にある島。面積3.00平方キロメートル。萩(はぎ)市に属し、萩ノ大島ともいう。玄武岩台地で、集落は南岸に密集し、浜崎港との間に1日4便(夏季5便)の定期船がある。北長門(ながと)海岸国定公園に含まれる。藩政時代からの半農半漁村で、幕末には海上防備の番所や大砲台場が置かれた。平坦(へいたん)な台地の畑作は葉タバコやブロッコリーが多く、近海はブリ、イワシ、アジ、イカなどの好漁場。人口914(2009)。
[三浦 肇]
長崎県平戸島(ひらどしま)の北方にある島。平戸市に属する。もとは北松浦(きたまつうら)郡旧大島村に属していたが、2005年(平成17)に平戸市に合併。西海(さいかい)市の大島に対して的山大島(あづちおおしま)の名で知られ、平戸大島ともよぶ。面積15.19平方キロメートル。大陸交通の要衝にあたり、遣隋(けんずい)使、遣唐使の寄港地をなし、さらに室町、足利(あしかが)時代には倭寇(わこう)の根拠地をなした。第三紀層上に玄武岩台地が広がる低平な島で、最高峰の平ノ辻(ひらのつじ)は216メートル。台地上には溜池(ためいけ)が多く分布する。南岸に的山湾、神浦(こうのうら)の湾入があり、北岸は海食崖(がい)に富むが大根坂湾の湾入がある。平戸港から連絡船がある。人口1424(2009)。
[石井泰義]
大分県南東部、佐伯湾(さいきわん)入口にある島。佐伯市鶴見(つるみ)地区に属する。鶴見半島地蔵崎沖合い約500メートルに、元ノ間海峡(もとのまかいきょう)を隔ててある。面積1.63平方キロメートル、最高点193メートル。東岸は50~100メートルの海食崖(がい)が発達し、海食洞門壇ノ窓(だんのまど)がある。日豊海岸国定公園(にっぽうかいがんこくていこうえん)に含まれる。西側緩斜面に畑と集落がある。サワラ、タイなどの一本釣りが盛ん。1618年(元和4)庄屋市兵衛(しょうやいちべえ)が佐伯藩命で開発、また、遠見番所が置かれていた。1955年(昭和30)離島振興法適用。1977年鶴見半島から海底送水、水不足が解消した。佐伯港から定期船で約40分。人口226(2009)。
[兼子俊一]
徳島県南東部、海部(かいふ)郡牟岐(むぎ)町にある島。牟岐港の南東海上7キロメートルにある。面積1.76平方キロメートル。江戸時代には海上監視のための番所が設けられ、明治初期には戸数18戸に達したが、現在は無人島。磯(いそ)釣りの名所であり、島の周囲は室戸阿南(むろとあなん)海岸国定公園に含まれ、北端と西端の海域は、阿波(あわ)大島海域公園に指定されている。
[高木秀樹]
長崎県西彼杵半島(にしそのぎはんとう)西方にある島。西海市(さいかいし)に属する。面積12.14平方キロメートル。夾炭(きょうたん)層を含む古第三紀の砂岩、頁岩(けつがん)、凝灰岩からなる丘陵の島で、最高峰の百合(ゆり)岳は標高194メートル。丘陵は、数列の並行する北東―南西方向の山稜(さんりょう)線に分かれ、西側が緩傾斜、東側が急傾斜の斜面をなす典型的なケスタ地形を示している。1935年(昭和10)東岸の馬込(まごめ)を坑口とする海底炭田が開発されたが1970年閉山した。半島部とは大島大橋、寺島大橋によって結ばれている。佐世保(させぼ)港から定期船がある。人口5867(2000)。
[石井泰義]
宮崎県南部、日南海岸(にちなんかいがん)最大の島。日南市に属する。目井津港(めいつこう)の沖合い約2.5キロメートルにあり、面積2.08平方キロメートル。南北約3.5キロメートル、東西約1.5キロメートルで、最高点は206メートル。海岸線は海食崖(がい)のところが多く、集落は、竹之尻港以外は60メートル以上の緩傾斜面に位置している。西側斜面は草地、中部、東部は亜熱帯、暖帯性植物が繁茂する。藩政時代は飫肥(おび)藩の馬牧が開かれた。無霜地のため、これを生かしてエンドウの早期栽培を行っている。人口8(2009)。
[横山淳一]
香川県北部、高松(たかまつ)市に属する島。面積0.7平方キロメートル。ハンセン病の療養所である国立療養所大島青松園がある。同園は明治期に設置された。庵治(あじ)港、高松港との間に定期船がある。人口290(2000)。
[坂口良昭]
伊豆諸島最北部にある最大の島。東京都大島支庁大島町に属し,1島1町をなす。面積91km2。人口8461(2010)。活火山三原山(758m)を最高点とする火山島である。北北東~南南西に長い紡錘形の島で,東部や北部の海岸は急崖をなす。源為朝などが流された島として知られ,江戸時代は韮山代官が支配した天領であった。おもな集落は西および南側の緩やかな斜面の海岸近く(卓越風の風下)に発達している。約9000年前から人が住み,最も早く開かれたのは,かつて新島村といわれた現在の元町で,この島の西玄関口となり,中心集落でもある。北西端の乳ヶ崎(ちがさき)をはさんで東側には岡田があり,西風の時は岡田港が,東風の時は元町港が利用されている。また南東端の波浮港(はぶみなと)は860年(貞観2)ころの大噴火に伴ってできた火口湖を利用して人工的に開いた港で,漁船の避難港,南の島々への中継港として重要性をもっている。泉津と波浮港の一部を除いては地表水に恵まれず,天水依存の島として知られていたが,現在は地下水源を利用した簡易水道が発達している。島の経済は,かつては漁業や林業に依存していたが,現在は観光地としてサービス業の発達が目立っている。ツバキの種子を原料とするツバキ油の生産が古くから有名で,明治以後商品化された。また乳牛の飼育も行われ,近年は花卉や野菜の栽培も盛んになって,それらが観光ともかかわりあっている。島の北部には大島空港(1955年開設)があって,羽田から1日2往復の空の便がある。
執筆者:大村 肇
大島は数十万年前の三つの火山島の残骸(現在の地名をとり岡田火山,行者の窟火山,筆島火山と呼ぶ)を,その後生じた大島火山の噴出物が覆って一つの島となったものである。大島火山の海面上での噴火は数万年前に始まり,約2万年前以降は三原山の位置にあった中心火口から100年ないし200年ごとに巨大噴火を百数十回繰り返している。現在の大島火山は頂部に約3km×4kmのキラウェア型カルデラをもつ玄武岩質成層火山で,カルデラ南西部に後カルデラ丘の三原山がある。このカルデラは700年(文武4)ころの,最後から11番目と12番目の大噴火時に生じたらしい。また現在の三原山は1777年(安永6)に始まり数年間つづいた最後の大噴火である安永噴火によって形づくられた。側火山は1420年(応永27)までの大噴火に伴って約40個生じている。1420年の大噴火は最後から4番目のもので,この時岳平(たけのひら)が生じた。1550年(天文19)ころの大噴火以降,噴火はすべて三原山付近だけで起こってきた。最近では1986,87年に大噴火がおこり,とくに86年には全島民が1ヵ月間にわたって東京都内の本土に避難したほどであった。
執筆者:中村 一明
愛媛県北東部,今治市本土の北北東約4kmの島。越智(おち)郡吉海町と宮窪町からなり,人口は両町合わせて8470(2000)。2005年1月合併により今治市の一部となった。東の旧宮窪町には精錬で有名な四阪島が含まれる。面積約47km2で芸予諸島では大三島に次いで大きい。かつては能島(のしま)と呼ばれ,室町時代には村上水軍の根拠地となった。旧宮窪町はかんきつ類の栽培や漁業が盛んで,北部の余所国(よそくに)を中心に良質の大島石(花コウ岩)の産出,海運や杜氏(とうじ)としての出稼ぎで知られる。西の旧吉海町はかんきつ類のほか,米,野菜栽培,漁業,造船がみられ,南西部にある下田水(しただみ)は旧今治市への玄関港である。1999年大島と旧今治市の間に本州四国連絡橋の来島海峡大橋が開通。
執筆者:穐岡 謙治
紀伊半島の最南端,潮岬の東方にあり,紀州最大の島。もと和歌山県東牟婁郡の大島村,1958年に串本町に編入。面積9.9km2。島の大半は火成岩からなり,海岸段丘が発達している。黒潮が南岸を洗い,西岸の大島港は,沖合の捕鯨,カツオ漁の基地で,帆船時代には熊野灘通航の廻船の避難港でもあった。海上2km離れた串本に通じる巡航船は《串本節》で有名だが,72年にフェリーに替わった。吉野熊野国立公園に含まれ,特に東岸は海金剛と呼ばれ,海食崖が美しい。東端の樫野崎には1870年(明治3)設置の灯台があり,90年トルコ軍艦が遭難,587人が死んだ事件の記念碑がある。
執筆者:水田 義一
宮城県北東部,気仙沼市に属し,気仙沼湾口を扼(やく)する島。東西約3km,南北約5km,丘陵性の地形を有する。面積約9km2の島には4243人(1995)が住み,おもに沿岸養殖業や漁業を営む。全島ツバキが多く,亀山(235m)からは遠く金華山までのリアス海岸の眺望がよい。鳴り砂で知られる十八鳴(くぐなり)浜,海水浴場の小田ノ浜,男性的な海食地形を誇る竜舞崎などもあって,1964年には陸中海岸国立公園に指定された。
執筆者:長谷川 典夫
宮崎県南部海岸,日南市の旧南郷町の沖合約3kmにある島。日向大島ともいう。東西約1.3km,南北約3.5km,周囲約12km,面積約4.6km2。島は新第三紀の砂岩と泥岩の宮崎層群によって構成され,東側は高い絶壁をなすが,西側は崖の間に狭い平地が点在する。江戸時代には飫肥(おび)藩の牧場があった。無霜地のため,エンドウの露地栽培が古くから行われた。南端の鞍崎鼻に灯台がある。
執筆者:下村 数馬
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…伊豆諸島最北部にある最大の島。東京都大島支庁大島町に属し,1島1町をなす。面積91km2。…
…福岡県北部,宗像(むなかた)郡に属する島で,北西47kmの沖島(おきのしま)(無人島)とともに大島村(1995年の人口917)を形成する。周囲約14km,面積7.5km2。…
…面積15.1km2。1島で北松浦郡大島村をなし,人口2005(1995)。リアス式海岸が発達し,的山,神浦(こうのうら)などの良港をつくり,的山港は遣唐使船の寄港地として知られ,江戸時代には捕鯨,明治以降はイワシ漁などで活況を呈した。…
…全域が伊勢志摩国立公園に含まれ,海水浴場,キャンプ場も多い。南の沖合にある大島はハマユウなど暖帯性植物が茂り,旧暦6月1日には奇祭潮かけ祭が行われる。中心地の和具にある和具観音堂の銅造如来座像は重要文化財。…
…面積15.1km2。1島で北松浦郡大島村をなし,人口2005(1995)。リアス式海岸が発達し,的山,神浦(こうのうら)などの良港をつくり,的山港は遣唐使船の寄港地として知られ,江戸時代には捕鯨,明治以降はイワシ漁などで活況を呈した。…
…鹿児島県南部,奄美諸島の主島。大島または本島ともいう。面積712km2。…
…伊那盆地のほぼ中央,天竜川の沿岸に位置し,西は飯田市に接する。中心の大島は江戸時代に伊那往還の宿駅として栄えた。天竜川西岸には河岸段丘が発達し,段丘面でリンゴ,梨などの果樹栽培をはじめ米作,畜産,野菜栽培などが行われる。…
…東京都に属し大島支庁(大島町,利島(としま)村,新島村,神津島(こうづしま)村),三宅支庁(三宅村,御蔵島(みくらじま)村),八丈支庁(八丈町,青ヶ島村)管轄下の島嶼(とうしよ)群をいう。かつては伊豆諸島以南の地も含めて漠然と豆南(ずなん)諸島と呼ばれた。…
…愛媛県北東部,越智(おち)郡の町。今治市の北東に浮かぶ大島の西半分と津島,大突間(おおづくま)島,武志(むし)島,中渡(なかと)島などからなる。人口5224(1995)。…
…外浦は古くは対外貿易の寄航地であった。日向灘沿岸一帯は日南海岸国定公園に属し,沖合3kmにある大島周辺は海中公園に指定されている。また目井津港の北には今は地続きとなった虚空蔵(こくぞう)島の亜熱帯林(天)があり,ビロウやフカノキなど多くの熱帯植物が自生し,アコウの巨木が群生する。…
…周防(すおう)大島または大島ともいう。山口県の南東部に浮かぶ防予諸島の主島で,面積129.7km2,瀬戸内海第3の島。…
※「大島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...
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