日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス文学」の意味・わかりやすい解説
フランス文学
ふらんすぶんがく
フランスは国土がヨーロッパの中央に位し、気候温和、地味豊かであるうえに、海陸の交通にも恵まれていたので、早くからヨーロッパの文化の中心になっていた。フランスの国民は一般に性格が陽気で、自由と快楽を追求するといわれているが、その反面また厳格なカトリック教徒でもあり、デカルト哲学を生むような合理主義者でもある。また過激で急進的な革命を敢行したが、頑固な保守主義的な傾向も多分にもっている。文学もこうした国民性を反映して複雑多様であるが、概括すれば、ロマン主義的であるよりはむしろ現実主義的である。情熱的というよりはむしろ理知的であって、明快さと秩序と論理を重んじ、感情の自由奔放な表出よりも、形式の調和を尊重する傾向がある。また、他の国の文学に比べて、より人間的であり、内面的な人間研究を重んじるという、いわゆるモラリスト的傾向の強いことも特徴である。
[新庄嘉章・平岡篤頼]
フランス文学の展開
中世――宗教的教化文学 武勲詩 笑いと風刺の文学
フランス文学の開花はほぼ12世紀に始まるが、ラテン語の俗化した古代フランス語で書かれた最初の文学的作品『聖アレクシ伝』la Vie de Saint Alexisは1040年ころにつくられている。もちろんこれはラテン語の著作によるもので、作者は教養ある聖職者と推定されている。これをみても、当時の文化の担い手は聖職者であったことがわかる。ゴールGauleとよばれていたフランスの土地を征服したローマ帝国は、ギリシア、ローマの文明とともにキリスト教をもたらし、その後のフランク王国もキリスト教を尊重した。したがって、教会を通して文化統一が行われ、当時の代表的知識人であった聖職者が一般民衆のために、ラテン語で書かれた著作をフランス語に移したものと考えられる。『聖アレクシ伝』をはじめ多くの聖者伝がつくられたが、これらはまだそれほど文学性の高いものではなかった。
真の文学的作品は、11世紀なかば前ころにつくられたと推定される作者不詳の『ロランの歌』を最高傑作とする、いわゆる武勲詩だといえよう。武勲詩の多くは11世紀後半から12世紀にかけての封建制度確立時代の騎士的情熱と、十字軍戦士にみられるようなキリスト教精神との融合から生まれたものである。これらの聖者伝や武勲詩は旅芸人によって市場の広場などで語られ、巡礼や民衆に教化的な娯楽を与えるものとなった。騎士道文化はさらに一連の宮廷風騎士道物語を生んだが、この物語の特徴は高貴な女性への愛を中心としたことである。また南フランスの吟遊詩人トルーバドゥールたちは、武勲詩にみられる叙事詩形式のものではなくて、個人的感情を優雅に表現する叙情詩のジャンルをつくりだした。
12世紀末から13世紀、さらに14世紀にかけては、『ばら物語』に代表される寓意(ぐうい)文学や、陽気で開放的なゴール精神を母胎とするファブリオーfabliau(滑稽(こっけい)で風刺的な韻文笑話で、対象とされる登場人物は多くは聖職者や金持ちや商人など)、また社会の不正や偽善を風刺した『狐(きつね)物語』などが出てきたことは、文学の主題や読者範囲が貴族階級からしだいに町民階級へ移ってきたことを物語っている。
百年戦争(1337~1453)によって一般に文学的創造力の自然な発現は妨げられたが、宗教劇として聖史劇(ミステールmystère)・奇跡劇(ミラクルmiracle)、喜劇として笑劇(ファルスfarce)・阿呆(あほう)劇(ソチsotie)、また道徳劇(モラリテmoralité)などが大衆娯楽として流行した。なかでも作者不詳の『パトラン先生』は出色のものである。また百年戦争末期の社会的不安と混乱のなかから詩人ビヨンが生まれてきたのは特筆すべきことである。
[新庄嘉章・平岡篤頼]
16世紀――ユマニスムとモラリスム
15世紀後半になると、イタリアのルネサンス文化が徐々にフランスに入ってきて、ギリシア、ローマの古典研究が盛んになり、そのうちに新しい人間の生き方を探究しようとするユマニスト(人文主義者)たちの活動が始まった。また宗教改革の運動は新旧両教徒の争いを激化して、16世紀の後半を血なまぐさい混乱に陥れたが、ユマニスムhumanismeの大きな波の進行を妨げることはできなかった。このフランス・ルネサンスの混沌(こんとん)期を代表する作家はラブレーである。その著『ガルガンチュワ‐パンタグリュエル物語』(1532~64)は、超人的な英雄を主人公とした長編物語で、健康な笑いのなかに、当時の古い制度や風習に対して痛烈な批判を加えている。ラブレーがこの世紀の混沌期を代表するとすれば、円熟期を代表するのは『随想録』の著者モンテーニュである。フランス文学のおもな潮流のなかにモラリスムmoralismeのそれがあげられるが、いつの時代にも、警句とか箴言(しんげん)とかの形で人間の内面を考察し、実践的で中庸な倫理を追求するモラリストがいた。モンテーニュはその最初にして最大の人であったといっていい。詩の世界においては、イタリアの詩の影響はもちろん、ギリシア、ローマの詩の影響もはっきりみられて、ロンサールを中心としたプレイアード詩派の詩人たちがフランス叙情詩の大きな基礎を築いた。
[新庄嘉章・平岡篤頼]
17世紀――古典主義の確立
ひと口に17世紀は古典主義の時代といわれているが、古典主義の文学が確立されたのは、この世紀中葉のルイ14世の親政以後のことである。もちろん世紀の初めにも、整然とした詩形や純化された用語の必要を説いて、古典主義美学の端緒をつくったマレルブのような詩人もいた。しかし世紀の初期はまだ動乱の前世紀の延長で、文学が栄えるに好適な社会環境は十分に整備されてはいなかった。ルイ14世は1661年に親政を開始するとともに、封建諸侯の権力を弱めて中央集権の実をあげた。政情が安定するとともに、文学も整理と純化の方向に向かい、やがて秩序と調和と平衡を特徴とする、いわゆる古典主義文学の時代が到来した。なかでもコルネイユによって確立され、ラシーヌによって完成された古典悲劇は、「三一致の法則(三単一の法則)」、優雅な言語という厳しい制限を、自律的な規則に変えて、意志の力と運命的な情念との心理的葛藤(かっとう)をみごとに表現した。喜劇もモリエールによってフランス喜劇の伝統が確実に築かれたが、彼もまた同時代の古典主義者と同じように、理性と良識を重んじ、それらから外れた自然らしからぬものは、笑いと風刺の制裁を受けねばならないと考えた。
そのほか、フランスの心理分析小説の祖といわれるラファイエット夫人、軽妙洒脱(しゃだつ)な寓話作家ラ・フォンテーヌ、格調高い雄弁で有名な説教家ボシュエ、古典主義の理論家ボアロー、モンテーニュの流れをくんだモラリストのラ・ロシュフコーとラ・ブリュイエール、書簡文学のセビニェ夫人など多くの文学者が輩出した。こう列挙してみると、17世紀は、古代芸術のもっている美に対する憧憬(しょうけい)と、真実を求める近代的理念とがみごとに均衡調和を保った文学の黄金時代といえよう。
哲学者であり思想家であるデカルト、パスカルも文学の世界と無縁の人とみることはできない。デカルトの理論が古典主義の理念の形成に役だったか否かについては論議の余地があるが、18世紀以後の文学や思想に多大な影響を及ぼしたことは否定できない。パスカルは理性に対する不信と強力な想像力とによって、この世紀の古典主義者たちとは一線を画しているが、とくに19世紀の多くの文学者に深い影響を与えている。
[新庄嘉章・平岡篤頼]
18世紀――啓蒙時代 思想文学の台頭
17世紀の終わりに、詩人のペローが古典主義者たちの古代崇拝を批判し、ボアロー一派を相手に「新旧論争」といわれる大論戦を展開した。この論争は18世紀になって再燃し、近代派の主張が急速に一般に認められるようになった。近代派の主張は、デカルト的合理主義のいっそうの徹底、人間の自然性の尊重、諸科学の発達による相対主義的世界観の重視というものであった。18世紀前半の啓蒙主義(けいもうしゅぎ)の代表者はモンテスキューであり、中ごろと後半の代表者はビュフォン、ディドロ、ルソーである。そして前半・後半を通じて活躍したのはボルテールである。モンテスキューは法律、政治、社会、歴史など広い分野にわたる文明批評家として大きな啓蒙的役割を果たした。ビュフォンは博物学者としてその知識をわかりやすく表現し、その大衆化を図った。ディドロは、ダランベールをはじめ多くの文学者、思想家、科学者の協力を得て、途中刊行禁止の命令を受けながらも、膨大な『百科全書(アンシクロペディ)』を完成した。ルネサンス以来発達した諸科学の目録をつくり、あわせてその発展を期すというのが編集目的であったため、いきおい既存の宗教、政治、文学などに鋭い批判を加えることになり、ボルテールやルソーの著作とともに、後の大革命の重要な思想的源泉となった。
ボルテールは風刺詩人として、また劇詩人として、当時の文壇に大きな地位を占めていたが、この領域においては結局擬古典主義者の域を出ることはなかった。しかしイギリスに滞在して、議会政治をはじめ、社会、文化などを研究し、これまでのフランス社会の封建的性格に不満を抱き、自由思想のために戦った。ルソーの『社会契約論』に説かれた人民主権説はロベスピエールはじめフランス革命の指導者たちの思想を支える基盤となった。文学に対する彼の貢献はこれに劣らぬものがあり、『告白』(『告白録』または『懺悔録(ざんげろく)』)、『新エロイーズ』をはじめとする文学的作品は、18世紀文学の主流であった合理主義思想を排し、自然への復帰、自我の解放、感性の謳歌(おうか)などを説いて、19世紀のロマン主義文学への道を開く先駆的作品となった。また彼の影響はフランスだけではなく、外国にも広く行き渡った。
18世紀は思想文学が主流を占めていた世紀ではあるが、そのほかに問題とすべき作家・作品がないわけではない。むしろ多種多様の文学が発生し始めた世紀といっていい。世紀の前半にはすでに、人間の本能尊重を主張するロマン主義の萌芽(ほうが)ともみられるような、アベ・プレボーの『マノン・レスコー』があり、後半にはルソーの影響を受けたベルナルダン・ド・サン・ピエールの『ポールとビルジニー』が、自然美に対する新しい感覚と美しい描写で、異国趣味文学流行のきっかけをつくった。またラクロの『危険な関係』は、発表当時は好色的な背徳的作品として非難を受けたが、20世紀に入ってからは異色の心理解剖小説として再評価されるに至った。劇の分野では、マリボーが恋愛心理、とくに女性の恋愛心理の分析に独特の天分をみせて、19世紀のミュッセに少なからぬ影響を与えた。ボーマルシェは陽気で軽妙な喜劇の底に、強烈な社会批判をみせ、『フィガロの結婚』では、主人公が大革命直前の貴族階級の横暴に挑戦している。
18世紀には詩の収穫は少なかった。優れた詩人としてはわずかに、大革命のおり穏健派のゆえをもって断頭台に送られたシェニエだけといっていい。彼は叙情的な詩によってロマン派詩人の先駆者ともいえ、ユゴーなど多くのロマン派の詩人たちに影響を与えた。しかしまた、新しい思想を古い詩句で歌おうとした古典派の最後の詩人でもあり、後の高踏派(パルナシアン)の詩人たちと呼応するものがある。
[新庄嘉章・平岡篤頼]
19世紀前半――ロマン主義の勝利 小説の時代
文学におけるロマン主義は、感情や想像力を理性より優位に置いて、自我の解放、個人主義の勝利を歌ったもので、18世紀にすでにその萌芽はあったが、19世紀に入ってみごとに開花した。その気運を助けたものの一つに、外国文学の移入がある。大革命と、それに続くナポレオンの専制政治は、多数の人々を外国に亡命させ、その結果ドイツやイギリスの文学が移入されることになった。これらの文学は、すでに衰退していた古典文学に飽き足らぬフランスの文学界に大きなショックを与えた。ロマン主義文学の父はシャトーブリアン、母はスタール夫人といわれている。シャトーブリアンは世紀の初頭にすでに、豊かな想像力と詩情、それに華麗な文体でロマン派の先駆者となった。スタール夫人は『ドイツ論』(1810)で、これまでフランスではほとんど知られていなかったドイツのロマンチック文学を紹介した。その結果多くのロマン派詩人が輩出したが、瞑想(めいそう)的な美しい叙情詩のラマルチーヌ、恋愛の苦悩を歌う悲歌詩人ミュッセ、孤独の詩人ビニー、叙情詩・叙事詩・風刺詩などあらゆる詩の分野に旺盛(おうせい)な想像力を発揮した国民詩人のユゴーなどがその代表者であった。
劇の世界では、この世紀に入っても擬古典主義が頑強に最後の抵抗を試みていたが、1830年にユゴーの『エルナニ』が上演されてからは、ロマン主義の勝利が決定的なものとなった。ミュッセもシェークスピア劇の影響を受けて、喜劇、風刺劇、悲劇などあらゆるジャンルの要素を混ぜ合わせた独特の劇を書き、なかでも『ロレンザッチョ』Lorenzaccio(1834)はロマン派演劇の傑作である。ビニーは、不遇のうちに18歳で服毒自殺したイギリス・ロマン派の天才詩人を扱った名作『チャタートン』Chatterton(1835)を書いた。
フランスのロマン主義はまず詩の世界で開花したが、小説の世界で結実したといえよう。しかし小説家を代表する2人の大立て者バルザックとスタンダールはすでに次の新しい世界への先達となっていた。バルザックは、2000人を超える人物が登場する膨大な『人間喜劇』を書いたが、各種の情熱の権化ともいうべき人物をみごとに活写した点において、まさにロマン派の大作家といえる。だが作品の背景には、大革命直後から二月革命直前に至るまでの約50年間の政治、経済、風俗が克明に描かれている点において、次の時代の写実的なレアリスムの要素を多分にもった作家といえよう。またスタンダールも、不朽の名作『赤と黒』『パルムの僧院』のなかにロマンチックな情熱をたぎらせているが、同時に、感傷におぼれることなく、透徹した目で人間の心理を分析し、社会を描写している。ただ彼は時代に先んじたがために、当時はバルザックほどの人気はかちえなかった。詩人のミュッセはサンドとの悲恋を材料として長編小説『世紀児の告白』を書いたが、これは現実に対する幻滅から生じる憂愁、不安に悩む当時の世紀病を描いている。ほかにこの時期、活躍した作家にサンドとメリメがある。サンドはロマンチックな恋愛を賛美して女性の自由な情熱の権利を主張したり、民主主義的な田園小説を書いたりして、ロマン主義の作家といえる。メリメはしばしば情熱的な性格を描いている点でロマン主義的なところもあるが、自我の露出を嫌い、正確な観察と簡潔な表現を重んじている点、むしろ写実的な作家といえよう。
なお19世紀の小説を語る場合に忘れてはならぬ作品がある。それはこの世紀の初めに書かれたコンスタンの自伝的小説『アドルフ』である。これは恋愛の心理学ともいわれているもので、小さな作品ではあるがフランスの心理小説史上の傑作である。デュマ(父)の歴史小説や主著『モンテ・クリスト伯』は芸術性の点からみれば大衆的な通俗小説だが、そこに描かれた情熱と行動の激しさによって、やはりロマン主義の作品といえるであろう。小説というジャンルは19世紀になって初めて文学の主役となったが、これは、ブルジョア階級の現実への強い関心、教育の普及、さらにジャーナリズムの発達で読者層の拡大したことなどがその原因になっている。最後に、この世紀の前半から後半にかけて批評の分野で活躍したサント・ブーブの名をあげねばならない。彼はロマン派の詩人として出発し、さらに小説も書きながら、批評の世界で印象主義と科学主義とを融合した新しい型を創始し、近代批評の先駆者となった。
[新庄嘉章・平岡篤頼]
19世紀後半――写実主義 象徴主義
19世紀後半になると、ロマン主義の文学がしだいに勢力を失い、レアリスムの文学、すなわち写実主義あるいは現実主義とよばれる文学が台頭してきた。とくに小説の世界においてそれが顕著になった。フロベールは性格的には孤独と夢想を愛するロマンチストであったが、小説は客観的、没個性的、無感動なものでなければならぬと主張した。その自論の具体化として『ボバリー夫人』(1857)を完成したことによって、写実主義の大家と銘打たれることになった。その後写実主義の小説はしだいに自然科学の影響を受けるようになった。その代表者がゾラである。彼は、テーヌの社会環境論や、心理学者クロード・ベルナールの『実験医学研究序説』(1865)による遺伝の問題などを参考とした連作『ルーゴン・マッカール双書』を書いた。このように当時の科学の影響を受けて、実験的な自然主義文学を提唱したが、その意図はかならずしも作品に完全に現れたわけではなかった。しかし、従来あまり描かれていなかった社会の暗黒面を取り上げたり、性欲の大胆な官能描写を敢行したことは大きな特徴である。写実主義の主要な作家として、それぞれ傾向は異なるが、ゴンクール兄弟とモーパッサンの名をあげねばならない。ドーデは現実を直視した作家ではあるが、温かい詩的情緒にあふれた感性をもっている点において、他の写実的作家とはやや異なっている。なおこの時期における異色の作家としてユイスマンスがある。彼は初めゾラ流の作品を書いていたが、のちに感覚的な人工楽園を求める作品を書いたり、中世の神秘学の世界を描いたりした。
詩の世界では、ルコント・ド・リールを中心とする高踏派(パルナシアン)が、ロマン派の極端な自己発現を抑制して、造形的な美を追求しようとした。彫琢(ちょうたく)の詩人エレディアはもちろん、ロマン派のゴーチエをはじめ、のちには象徴派を形成するボードレール、ベルレーヌ、マラルメもこの派に属していた。象徴派の指導的役割を果たしたのはボードレールである。これまでの詩はたとえ主観的な産物ではあっても、結局描写でしかなかった。だがボードレールは、ことばは対象を表現する単なる記号ではなくて、イメージを喚起する象徴である、そして詩人の歌う自然のイメージと詩人の魂との間には交感がなくてはならないと主張し、そうした方法によって初めて人間の心の深層意識を表現できるとした。ベルレーヌは詩句の音楽的なリズムで心の微妙なリズムをみごとに表現し、マラルメは詩人としての重要性はもちろん無視できないが、火曜会のサロンによって多くの芸術家を育てたのも特筆すべきことである。なおこの派の詩人には上記の3人に鬼才ランボーを加えねばならない。
演劇の世界では、世紀前半にユゴーが『エルナニ』で輝かしい勝利を得て、ミュッセやビニーなどの詩人が劇作に筆を染めたものの格別の発展はなく、またデュマ(父)のロマンチックな劇も結局メロドラマ的な作品に堕落してしまった。世紀後半になると、エミール・オージエやデュマ(子)が社会問題や家庭問題を真剣に扱った劇を書いたが、後世に残るほどの作品は生まれなかった。1877年に書かれたベックの堅実な写実劇『からすの群(むれ)』が1882年にやっと脚光を浴びたのを最後に、自然主義劇の幕は下りた。1887年にアントアーヌが演劇革新の希望に燃えて自由劇場を創立し、イプセン、ストリンドベリ、ハウプトマンなど外国作家の劇を紹介し、また無名の新人も起用して、フランスの近代劇に少なからぬ貢献をしたが、1896年にいちおうその役割を終えて劇場は閉鎖された。
[新庄嘉章・平岡篤頼]
20世紀の到来――動乱と不安 第一次世界大戦
1894年に端を発したドレフュス事件は、ユダヤ人を対象とした冤罪(えんざい)・疑獄事件として国論を二分した。そればかりでなく、やがてヨーロッパ全体を覆うことになる戦争の脅威に伴って、階級闘争とナショナリズムを激化させる遠因となったという意味で、動乱の20世紀を開幕する大事件であった。温和な趣味人的作家アナトール・フランスが、ゾラやまだ若いシャルル・ペギーと並んでドレフュス大尉を擁護するかと思えば、『自我礼拝』でスタンダール的個我の確立を唱えたはずのバレスが、郷土と民族への復帰をうたう情熱的思想家として、ユダヤ人排斥と愛国主義を鼓吹した。その志向はシャルル・モーラスの『アクシオン・フランセーズ』紙に引き継がれ、第二次世界大戦まで反議会主義的右翼の精神的支えとなった。
1940年代までは、刊行点数からいえば、小説の黄金時代であった。このジャンルが主導権を確立した前世紀のレアリスムを、さらにいっそう総括的な認識と表現の手段たらしめようとして、1人ないし数人の主人公の生涯と、彼らを取り巻く環境の変遷とを相関的に描く大河小説roman-fleuveが誕生したのも、この時代の新しい現象である。27巻からなるジュール・ロマンの『善意の人々』(1932~46)をはじめとして、マルタン・デュ・ガール、ロマン・ロラン、デュアメルらのむやみと長い大長編が続出した。これは大衆小説の発達とともに、読者層の急激な拡大を証明するもので、それ以前にも異国趣味の小説を書いたロチ、テーヌの実証主義を受け継ぎながら、小説の形で知性偏重の害を立証しようとしたブールジェらが読まれたのも、その恩恵による。
[平岡篤頼]
20世紀小説の開幕
しかし、真の意味の20世紀小説は、ジッド、プルーストとともに始まったといえる。マラルメに私淑したジッドは、詩と批評のバレリー、詩と演劇のクローデルとともに、この時代の象徴主義的精神風土を代表する作家で、1909年に『NRF(エヌエルエフ)』を創刊して以来、50年近く文壇の隠れた実力者でもあった。詩的散文から出発したが、文学者としての誠実さを問う過程で、矛盾こそ誠実さを証明するかのように、大胆に官能を謳歌(おうか)する作品と、『狭き門』などの禁欲的な心理小説とを交互に書いた。こうした自意識の追求の記録として、『日記』はジッドの貴重な作品である。自己懐疑は小説家としてのメチエ(技術)にまで及び、『法王庁の抜穴』では偶然を主人公ラフカディオの行為のなかに導入し、『贋金(にせがね)つかい』では、作者を作中に登場させて伝統的な小説観に挑戦した。
プルーストは最初、浮薄な社交界の青年とみなされ、『スワン家のほうへ』をジッドにさえ没にされたが、これを第1巻とする大作『失われた時を求めて』の完成のために、喘息(ぜんそく)を口実に、コルク張りの書斎に閉じこもり、執筆と推敲(すいこう)に生命をすり減らして、ついに最後の数巻は校正刷りを見ることができなかった。この不滅の長編は、鋭い観察と生彩ある風刺に満ちた社交界風俗小説でもあるが、構造的には話者の意識の一貫性に支えられている。
作者同様マルセルとよばれる、虚構の人物である話者が、ある日自分の過ぎ行く過去を定着しようと書き始めるものの、真実はそうした知的意図を逃れ、そのかわりに紅茶に浸したスポンジケーキの味のような不随意的な感覚が、突如過去の別の時点で味わった同じ感覚と結び付く。その結果、思いがけず現れたその過去の全容をとらえようとして、無限に細緻(さいち)で息の長い文体で分析の筆を進めるが、ふたたび不可能性の壁に突き当たる。そのとき、また別の感覚的刺激が別の過去をよみがえらせる。作品は現在とさまざまの過去が迷路のように交錯する複雑な構成をとりながら、ふたたび過去を総括的に定着しようとする話者の決意にたどり着く。その間繰り返し登場する人物たちは、話者自身をも含め、不連続的で異質の断片的イメージの集積でしかない。精妙な芸術論的・文学的考察を作品の中核に据えているという点でもまた、他に類のない小説であった。
ジッドとプルーストが彼らの主要な作品を発表した第一次世界大戦直後は、初めての世界的規模の戦争の惨禍が人々に深刻な不安を味わわせ、当然数多くの戦争文学を生んだが、目を外に転じることによって不安から脱出しようとする文学も生まれた。モラン、ラルボー、サンドラールらの異国趣味、モンテルランのスポーツ賛美、ジロドゥーの逆説的幻想、さらにはサン・テグジュペリやマルローの冒険志向すらその観点から眺めることができる。小説ジャンルそのものからの逸脱も試みられ、モンテルラン、ジロドゥーはのちに劇作に転じて秀作を発表するし、コクトーは詩、小説、戯曲、映画、絵画の多方面にわたって鬼才を発揮する。
もちろん、伝統的小説も健在で、ラクルテル、モーロア、シャルドンヌ、ドリュ・ラ・ロシェルらの心理小説、カルコ、ダビ、エーメらの庶民の風俗誌、コレットの女性心理の直写、ジオノ、ラミュらの地方小説は読者を楽しませ、バルビュス、ギユーLouis Guilloux(1899―1980)、中期のアラゴンの社会主義的リアリズムも無視できない。なかでも注目すべきは、信仰と自由、魂と肉の相克を真正面から取り上げたフランソア・モーリヤック、ジュリアン・グリーン、ベルナノスらカトリック作家たちの呪縛(じゅばく)的な作品で、『夜間飛行』のサン・テグジュペリや『人間の条件』のマルローらにみられる、生の悲劇的感情とも呼応する、時代の苦悩の表現であった。ほかに、夭折(ようせつ)した異才として、アラン・フルニエとラディゲがいる。
[平岡篤頼]
シュルレアリスム
第一次世界大戦後のもう一つの大きな動向は、思考と表現の方法の革命的変革を図ったシュルレアリスム運動である。ジャリやアポリネールにも萌芽がみられたが、スイスでダダイスムを唱えたツァラの刺激を受けて、ブルトン、スーポー、アラゴン、エリュアールらは1924年『シュルレアリスム宣言』を発表し、自動記述、ことば遊び、パロディーなどの手法によって、文学言語の組織的な解体と、偶然の仲介による無意識の解放を実験した。ランボーとロートレアモンの精神を受け継ぐこの運動は、多くの前衛的な芸術家の共感をよび、その活動は美術から映画、音楽にまで及んだ。また、奇抜な行動によって、因習的な社会道徳やブルジョア的世界観に果敢に挑戦したので、世の顰蹙(ひんしゅく)を買った。そのうえ、盟主ブルトンが次々に同志を除名し、ことに共産党への加盟問題でアラゴンらとたもとを分かって以来、運動としてのエネルギーは失った。だがその周辺でルーセル、アルトーが限界的な業績を残したばかりでなく、詩人シャール、ボンヌフォア、ミショー、小説家グラック、ピエール・ド・マンディアルグ、クノーらを間接的に育てたし、第二次世界大戦後の注目すべき思想家バタイユ、精神分析のラカン、人類学のレビ・ストロースにまで影響を及ぼした。今日、産業技術の発達と消費社会の成立とともに、シュルレアリスム的イメージはマス・メディアを通じて、われわれの日常生活のなかに浸透し尽くしている。
[平岡篤頼]
ファシズムの勃興
ファシズムの勃興(ぼっこう)とヒトラーの政権掌握は、ふたたび戦争の脅威を増大させ、共産主義寄りのアラゴン、マルローとともに、書斎派のジッドや『プロポ』の哲学者アランまで反戦運動に奔走した。しかし、人民戦線の崩壊とスペイン内戦(1936~39)を経て、情勢は一気に第二次世界大戦へとなだれ込んだ。スペイン人民政府に加担して義勇軍飛行隊長として活躍したマルローは、大戦中はドゴールの自由フランス軍師団長として奮戦する。アラゴンとエリュアールは歌謡の伝統に帰り、レジスタンスの闘士たちを鼓舞する詩集を秘密出版する。その一方では、開戦前、忌憚(きたん)のない俗語調の『夜の果ての旅』で、現世のあらゆる欺瞞(ぎまん)をえぐってセンセーションを巻き起こした徹底的なニヒリストのセリーヌは、激越な反ユダヤ主義と対ドイツ協力のため、戦犯のレッテルを貼(は)られる。この作品に触発されたサルトルの『嘔吐(おうと)』と、アメリカ小説に学んだカミュの『異邦人』が、やがて戦後の実存主義文学ブームを準備することになる。
[平岡篤頼]
20世紀後半――第二次世界大戦後の文学から現代まで
実存主義l'existentialismeとは、「本質」よりも「実存」を優先させるキルケゴール以来の哲学の一思潮であるが、ハイデッガー、フッサールに学んだ秀才サルトルは、第二次世界大戦中に大著『存在と無』でその思索を集大成し、戦後は非公式の伴侶(はんりょ)ボーボアールとともに、小説、劇作、評論、哲学論考の多彩な形でこの思想の深化と普及に努めた。人間は状況内存在であるが、その状況を自らつくっていくべき自由を運命づけられているという考えから、『レ・タン・モデルヌ』誌を創刊し(1945)、共産党との離合を繰り返しながら、反体制的な政治活動を果敢に実践した。傑出した批評家でもあり、次の時代の文学と思想の萌芽は、ほとんど彼の著作のなかにみいだされる。
アルジェリア出身のカミュは、終生海と太陽にあこがれながら、マルローに近い、もっと感性的な「不条理l'absurde」の意識から出発して、伝達不可能性と相互の無理解という条件に閉ざされながら、なおも友愛を求めて死や悪と戦おうとする孤独な人間の反抗を繰り返し描いた。犯罪者として牢獄(ろうごく)生活を経験し、同性愛者でもあるジュネは、汚辱と退廃の叙事詩を典雅な音調の小説や戯曲の形で発表して、注目を集めた。トランペット吹きのボリス・ビアンは、奇想に満ちた作品のなかに愛と死の切実さを響かせ、いまも若い読者に愛されている。
[平岡篤頼]
ヌーボー・ロマンの軌跡
生を受苦ととらえる実存主義的きまじめさの反動として、洒脱(しゃだつ)で無軌道な若者たちを描いたサガン、ニミエらの小説が、一時人気をよぶが、1950年代後半から、「アンチ・ロマンAnti-roman」(後のヌーボー・ロマンNouveau roman)の難解だが真摯(しんし)な作家たちの実験が脚光を浴びる。
内閉的な意識の最後のよりどころとして、主人公たちが解体の歩みのなかで果てしない無意味な独白を繰り広げるベケットを先駆として、逆説的な循環形式のなかで、過度に克明な事物の無機的な描写が、実は主人公の白熱する情念と表裏一体となっているロブ・グリエ。恐るべき綿密さで計算し尽くされた構成を通して、多元的な世界の全体像をとらえようとし、ついには小説の枠を破砕してしまうビュトール。回想のなかの純粋に写実的な微細画を音楽的に組み合わせることによって、内的世界の混沌(こんとん)を構造的に再現しようとするシモン。知的な分析の単位である心理的要素をさらに細かく分解し、心理の動きを潜在意識的な微粒子の散乱現象と化してしまうサロート。そして愛の物語というよりは、愛の情念の不随意性と凶暴さと眩惑(げんわく)を、簡潔で巫女(みこ)的な文体で飽きることなく生け捕りにしようと努めるデュラス。
彼らは党派を組むわけではないが、いずれも伝統的小説形式に反逆し、その基本要件である主人公の性格、筋の一貫性、動機と行動の因果関係、作家の側からのメッセージなどを否定したので、既成文壇から人工的という激しい批判を浴び、一般読者をも当惑させた。カフカ、ジョイス、フォークナーの後を受けて、小説を折り返しのきかない新しい言語空間に踏み込ませたとして、世界的に評価されたが、同時に、小説というジャンルの息の根を止めてしまったおそれもないではない。その間にも彼らより小説らしい小説を書いて、彼らより多くの読者に迎えられた作家たちがいないではないが、時代に即した新しい思考様式を模索する彼らの試みは、諸外国に大きな波紋を及ぼした。
1970年以降、わずかにル・クレジオとソレルス、ついでトゥルニエとペレックGeorges Perec(1936―82)とモディアノが若い世代としてめぼしい活動をみせたが、エネルギーは批評と思想のほうに移っていく。なかでも際だったのはソレルスの動向で、後出のバルトやフーコーらの支援のもとに、雑誌『テル・ケル』でいっそう過激な書法の改革の旗を振ったが、1968年の五月革命とともに政治的にも毛沢東主義に肩入れした。その結果ジョイス的な分節のない多重言語を駆使した彼の野心作『楽園』が、彼の呼びかける労働者たちには1行も理解できないというジレンマに直面し、突如平易な文体による官能謳歌(おうか)の小説『女たち』で、人気作家の路線に復帰せざるをえなくなる。それと軌を一にするかのように、フランス小説全体に「私」志向が蔓延(まんえん)し、トゥーサンJean-Philippe Toussaint(1957― )らのミニマリスム作家を登場させ、デュラスの『愛人(ラマン)』のようなベストセラーが誕生する。あるいは、映画やSFや推理小説の影響のもとに、エシュノーズJean Echenoz(1947― )のような作家が出現する。
[平岡篤頼]
ヌーベル・クリティックの波紋
第二次世界大戦前、『NRF』周辺にデュ・ボス、チボーデらを輩出させた文芸批評は、精神分析、マルクス主義、ニーチェに多くを学んで、バシュラール、プーレ、ジャン・ピエール・リシャール、ジュネットGérard Genette(1930― )ら「ヌーベル・クリティックNouvelle critique」(新批評)の優れた批評家たちを登場させたが、ドイツ・ロマン派やヘーゲル哲学、ソシュール以後の言語学や構造主義の富が加わり、ブランショ、バタイユ、バルトという3人の無比の「思想家(パンスール)」に結実した。今日の文学青年は創作を志すよりは、この3人やフーコー、デリダ、ドルーズ、ラカンらの思索的著述を読み、彼らを通してサドやマラルメやルーセルやアルトーを再発見している。
詩の分野では、以上あげた名前のほかに、宇宙的な幻視の人サン・ジョン・ペルス、『物の味方』のポンジュ、下町の民衆詩人プレベールを無視することはできない。演劇では、職人芸の達人アヌイ、「不条理演劇théâtre de l'absurde」の第一人者イヨネスコと、自身名優・名座長であるばかりでなく、これら2人をはじめ、クローデル、モンテルラン、ジロドゥー、サルトル、カミュ、ベケット、デュラスの名作を次々にヒットさせた無類の批評眼の持ち主ジャン・ルイ・バローの名を逸するわけにはいかない。
[平岡篤頼]
フランス文学と日本
明治期
日本文学に最初に大きな影響を与えたのは、ルソーであろう。中江兆民(ちょうみん)が1882~83年(明治15~16)『民約訳解』と題して翻訳注解した『社会契約論』は、自由民権思想を鼓吹するうえで重要な役割を演じたし、『告白』(邦題『懺悔録(ざんげろく)』)は、島崎藤村の『破戒』や『新生』をはじめ、その周辺の作家たちの自然主義小説に、嗜虐(しぎゃく)的な自己暴露という特徴をもたせるに至った。すでにベルヌ、ユゴー、デュマの作品も、通俗読み物として翻訳・翻案されていたが、多くは英訳からで、田山花袋(かたい)、正宗白鳥(まさむねはくちょう)らも英訳を通してゾラ、モーパッサンに学んだ。一時ゾラを模倣した永井荷風(かふう)は、外遊から帰国後『珊瑚集(さんごしゅう)』でボードレール以後のフランス詩を紹介し、それに先だつ1905年(明治38)の上田敏(びん)の訳詩集『海潮音』とともに、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、蒲原有明(かんばらありあけ)、北原白秋(はくしゅう)らの詩人たちを象徴詩に開眼させた。続いて萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、西条八十(やそ)、堀口大学もフランス詩に傾倒し、とりわけ堀口は翻訳者としても、生涯新しいフランス文学の紹介に貢献した。
[平岡篤頼]
大正・昭和期以降
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)がアナトール・フランスを愛読したことは知られているが、森鴎外(おうがい)がフランスの短編や戯曲を訳し、谷崎潤一郎がスタンダールを訳していることは、あまり知られていない。谷崎は、一時バルザック風の本格小説を書こうとして低迷した。1923年(大正12)、山内義雄(やまのうちよしお)によるジッドの『窄(せま)き門』の名訳が出、辰野隆(たつのゆたか)、鈴木信太郎による充実した研究が発表されるにつれ、フランス文学熱はいっそう加熱した。辰野の門下の小林秀雄は、ランボー論から出発し、ジッド、バレリー、アラン、サント・ブーブを熟読して、日本に初めて創造的な文芸批評のジャンルを確立した。彼の周辺の河上徹太郎、三好達治(みよしたつじ)、中原中也(ちゅうや)、大岡昇平が歴然たるフランス派であることは、否定の余地がない。中原はランボーの詩集を訳し、大岡は第二次世界大戦前から屈指のスタンダール研究家として知られていた。
堀辰雄(たつお)も早くから原書でフランス文学に親しみ、プルーストやラディゲの方法を自分の作品に取り入れようとしたモダンな作家である。その門下から、第二次世界大戦後活躍する中村真一郎、福永武彦(たけひこ)、加藤周一が現れる。新感覚派とよばれた横光利一(りいち)の初期の作品には、明らかに『夜開く』のポール・モランらの刺激をみてとれよう。『新青年』(1920創刊)に拠(よ)った久生十蘭(ひさおじゅうらん)にとっても、フランス留学の痕跡(こんせき)は生涯消えることがなかった。やはりフランス帰りの岸田国士(くにお)や岩田豊雄(とよお)(獅子文六(ししぶんろく))が、文学座を中心とした新劇に残した足跡も大きい。豊島与志雄(とよしまよしお)と片山敏彦(としひこ)は、ロマン・ロランを紹介して多くの読者を得た。
詩の分野でも、昭和初年代のモダニズムのブームのなかで、『詩と詩論』(1928創刊)などの雑誌で盛んにシュルレアリスムなどの新思潮が取り上げられ、その影響下に西脇順三郎(にしわきじゅんざぶろう)、滝口修造(たきぐちしゅうぞう)のような異才が現れた。大岡信(まこと)、飯島耕一(いいじまこういち)、天沢退二郎(あまざわたいじろう)、入沢康夫(いりさわやすお)らはみなその後継者といっていい。
戦後登場する作家では、石川淳(じゅん)はジッド、モリエールの名訳をものしたフランス語教師出身であり、坂口安吾(あんご)はアテネ・フランセの優等生、織田作之助(おださくのすけ)はスタンダールの心酔者であった。三島由紀夫(ゆきお)の初期の作品や大岡昇平の『武蔵野夫人(むさしのふじん)』(1950)には、顕著なラディゲの影響がみられる。野間宏(ひろし)はバレリー、ジッド、サルトルに学び、初期の大江健三郎、開高健(たけし)にとっても、サルトル体験は決定的であった。遠藤周作、高橋たか子のモーリヤック体験はそれに匹敵するし、辻邦生(つじくにお)、加賀乙彦(おとひこ)はフランス留学時代に作家としての自己形成を行った。
1980年以降、日本ではフランス文学の人気は落ち目といわれるが、蓮實重彦(はすみしげひこ)(1936― )のような批評家、澁澤龍彦(しぶさわたつひこ)(1928―87)のような作家の存在は、そうした悲観的観測を否定するだけの力をもっていよう。1990年代に入っても、シモンの文体の影響を受けた金井美恵子(1947― )、フランス文学の研究者から転じた松浦寿輝(ひさき)(1954― )や堀江敏幸(としゆき)(1964― )の活躍は注目に値する。
[平岡篤頼]
『ランソン、テュフロ著、有永弘文・新庄嘉章・鈴木力衛・村上菊一郎訳『フランス文学史』全3巻(1954~63・中央公論社)』▽『日本フランス語フランス文学会編『フランス文学辞典』(1974・白水社)』▽『福井芳男・菅野昭正・清水徹・渡辺守章他著『フランス文学講座』全6巻(1976~80・大修館書店)』▽『富田仁・赤瀬雅子著『明治のフランス文学』(1987・駿河台出版社)』▽『饗庭孝男・朝比奈誼・加藤民男編『新編 フランス文学史』(1992・白水社)』▽『ベルナール・フェー著、飯島正訳『現代のフランス文学』(1995・ゆまに書房)』▽『ロベール・ファーブル著、大島利治他訳『最新フランス文学史』(1995・河出書房新社)』▽『田村毅・塩川徹也編著『フランス文学史』(1995・東京大学出版会)』▽『古屋健三・小潟昭夫編『19世紀フランス文学事典』(2000・慶応義塾大学出版会)』▽『渡辺一夫・鈴木力衛著『フランス文学案内』(岩波文庫)』▽『チボーデ著、辰野隆・鈴木信太郎訳編『フランス文学史』全3巻(角川文庫)』▽『Raymond QueneauLittérature française(Collection Pléiade, Gallimard, Paris)』▽『Claude PichoisLittérature française, 9vols.(Poche Arthaud, Paris)』