京都(府)(読み)きょうと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「京都(府)」の意味・わかりやすい解説

京都(府)
きょうと

近畿地方の中央部から北部にかけて細長く伸び、東は福井・滋賀・三重の各県に接し、南は奈良県、西は兵庫県・大阪府と境し、北は日本海に面する。五畿内(きない)の山城(やましろ)一国と、山陰道の丹波(たんば)国の大部分および丹後(たんご)国全域からなる。山城国にあたる南部の京都盆地は早くから開発が進み、ことに平安京が置かれて以来、明治に至るまで1000余年にわたって王城の地として、日本文化の中心をなした所であり、現在も京都市は大阪市、神戸市とともに京阪神大都市圏を構成し、西日本の中枢的地位を占めている。2020年(令和2)10月現在、15市6郡10町1村からなる。府庁所在地は京都市。

 京都府の総人口は1878年(明治11)の81万4000人から、2000年には264万4391人、2010年には263万6092人と約3.2倍の増加を示している。しかし、2000年の段階で府総人口の約81%は京都市のある旧山城国に集中し、人口増加率は1990~2000年の10年間に2.1%(人口集中の激しかった1975~1980年の5年間では4.8%)、人口密度は1平方キロメートル当り1850人に達し、京都市を除いても1239人と稠密(ちゅうみつ)である。これに対して、府の面積の75%を占める旧丹波・丹後国にあたる北部の大部分は山地が多く、府の総人口の20%に満たない。亀岡(かめおか)盆地や福知山(ふくちやま)盆地、舞鶴(まいづる)市などにやや人口の集中がみられるが、人口密度は1平方キロメートル当り142人。人口増加率も平均3%減、旧北桑田・船井・加佐郡の山村地域では5~7%(1975~1980年では5~10%)も減少し、過疎化により廃村となった所もある。面積4612.20平方キロメートル。人口257万8087人(2020)。

[織田武雄]

自然

地形

地形上、南部の京都盆地と北部の丹波高地、丹後山地に大別される。京都盆地は瀬戸内(せとうち)陥没地帯の延長にあたる地溝盆地で、更新世(洪積世)の湖盆の時代に堆積(たいせき)した洪積層が盆地周辺に乙訓(おとくに)、長岡などの台地や丘陵を形成した。また盆地床は沖積層で占められ、宇治(うじ)川、木津(きづ)川、桂(かつら)川、鴨(かも)川が貫流したあと、合流して淀(よど)川となって大阪湾に流入する。宇治川の天ヶ瀬(あまがせ)ダムから上流は宇治川ラインとよばれ、琵琶(びわ)湖国定公園の一部に含まれる。盆地床の最低所は標高10メートルで、1941年(昭和16)に干拓されるまでは遺跡湖の巨椋(おぐら)池があった。また京都の北東と北西にそびえる比叡(ひえい)山や愛宕(あたご)山も標高900メートル前後にすぎない。

 丹波高地も標高600メートルほどの定高性を示す開析隆起準平原で、大部分は古生層からなり、多くの断層が交差し、福知山、亀岡などの小盆地がみられる。大堰川(おおいがわ)、由良(ゆら)川の本・支流が山地を侵食し、大堰川は南流して保津(ほづ)川・桂川となり、由良川は北流して日本海に注ぐ。大堰川の亀岡と京都嵐山(あらしやま)との間を屈曲して流れる保津峡や、大堰川支流の園部(そのべ)川にある瑠璃(るり)渓はともに渓谷美に優れている。

 おもに花崗(かこう)岩からなる丹後山地は、日本海に向かって奥丹後(与謝(よさ))半島となって突出し、その東に広がる若狭(わかさ)湾沿岸はリアス海岸をなし、舞鶴湾、宮津湾などのいくつかの小湾をつくり丹後天橋立大江山(たんごあまのはしだておおえやま)国定公園、若狭湾国定公園に含まれる。宮津湾と阿蘇海(あそかい)を隔てる砂州(さす)は、白砂青松の天橋立として古来日本三景の一つに数えられる。半島の北東端の経ヶ岬(きょうがみさき)以西の海岸は、断崖(だんがい)、砂丘、砂浜、湾入が続いて変化に富み、一部は丹後天橋立大江山国定公園に、一部は山陰海岸国立公園に指定されている。2016年、中央部の丹波高原が京都丹波高原国定公園に指定された。なお、府立自然公園には笠置(かさぎ)山、保津峡、るり溪の三つがある。

[織田武雄]

気候

京都府の年平均気温は14℃か15℃であるが、8月の平均気温は京都盆地では28℃に達する所もあり、丹後地方がこれに次ぎ、丹波高地の東部では26℃以下である。1月の平均気温は京都盆地や丹後地方では3℃、また対馬(つしま)暖流の流れる日本海に面する丹後半島では4℃以上にもなるが、丹波高地では2℃以下の所が多い。気温の年較差も、日本海に臨む舞鶴では23.5℃に対して、京都市は25℃であり、京都盆地などはそれだけ内陸性を示している。気候の南北の対比は降水の関係によく現れる。年降水量は京都盆地では1400ミリメートルに満たない所もあるが、丹後半島の一部では2600ミリメートルに達し、日本海沿岸では年降水量の40%は冬に降り、冬は曇天か雨天の日の多い日本海型気候を示し、山間部では1メートルを超える積雪がある。これに対して丹波高地南部から京都盆地にかけては、年降水量の半分以上が6~9月の夏に集中し、太平洋型気候を示している。

[織田武雄]

歴史

先史・古代

奈良盆地に接する京都盆地の歴史は古く、縄文時代の遺跡は高燥な京都市の北白川(きたしらかわ)扇状地や乙訓(おとくに)丘陵などに発見されているが、弥生(やよい)時代になると、桂(かつら)川流域をはじめ、南山城の木津川沿岸などに多くの遺跡がみられ、盆地床の低湿地を利用して水田耕作が営まれたことがうかがわれる。大和(やまと)朝廷の中央集権化が進むに伴って、大和に隣接する後背地として京都盆地には地方豪族が輩出し、盆地周辺の台地や丘陵には前方後円墳などの多数の古墳が築造された。なかでも盆地開発の中心的役割をなしたのは、今日の京都市域の太秦(うずまさ)や深草(ふかくさ)を根拠地とした渡来系氏族の秦氏(はたうじ)であり、7世紀には秦河勝(はたのかわかつ)によって太秦に蜂岡(はちおか)寺(広隆(こうりゅう)寺)が創建された。

 ついで784年(延暦3)には律令(りつりょう)体制の再編成のために桓武(かんむ)天皇によって平城京(奈良市)から長岡京(向日(むこう)市・長岡京市)に、さらに794年には平安京(京都市)に遷都が行われた。それ以来、京都は時代によって盛衰はあったにしても、東京遷都(1868)に至るまで、「都(みやこ)」として日本の政治・文化・学芸の中心をなした。長岡京は水害や怨霊(おんりょう)などの問題によって造営なかばのわずか10年で終わったが、発掘調査によって、内裏(だいり)などはすでに完成していたことが知られる。平安京や長岡京も平城京と同じく中国の都制を模しているが、平安京では朱雀(すざく)大路を中心に左京・右京の条坊が広がる広大な規模を有していた。しかし遷都後まもなく右京は土地が低湿のために荒廃したのに対して、左京は鴨(かも)川を越えて洛東(らくとう)に広がり、法勝(ほっしょう)寺や白河殿などの寺院や貴族の邸宅が設けられた。10世紀以後になると律令国家は徐々に解体していった。12世紀末、鎌倉幕府の成立により、政治の中心は鎌倉(神奈川県)に移った。

 京都盆地以外の府の代表的な先史遺跡は、縄文時代に属する京丹後市の浜詰(はまづめ)遺跡、舞鶴市の桑飼下(くわがいしも)遺跡など、また弥生時代には、大陸との交通を物語る中国の貨泉が出土した京丹後市の函石浜(はこいしはま)遺跡など、多くは丹後地方の日本海沿岸にみられるが、古墳時代には亀岡盆地福知山盆地峰山盆地に地方豪族の築造になる前方後円墳などがみられる。しかし京都府の北部は畿内の中心から離れた位置にあるため開発も遅れ、丹波国が丹波と丹後の2国に分けられたのは713年(和銅6)である。平安京遷都によってようやく都と丹波・丹後地方との関係も密となり、ことに丹波の木材が造都の用材として大堰川によって輸送されたが、城下町のような都市的集落の発達がみられたのは近世になってからである。

[織田武雄]

中世

12世紀末には幕府が鎌倉に開かれ、京都には鴨東(おうとう)に六波羅(ろくはら)探題が置かれたが、室町時代には幕府は京都に移り、ふたたび政治の中心となった。しかしたびたびの戦乱を受け、ことに応仁文明(おうにんぶんめい)の乱(1467~1477)によって京都は焦土と化した。その後、町衆(まちしゅう)の手によって京都の復興が図られた。

[織田武雄]

近世

豊臣(とよとみ)秀吉は天下を統一すると大規模な都市計画に着手した。1587年(天正15)聚楽第(じゅらくだい)を造営し、市街の町割を整備して外側に御土居(おどい)を巡らすなど京都の再建に努め、さらに伏見(ふしみ)に伏見城を築城した。1603年(慶長8)徳川家康は江戸に幕府を開き、政治の中心は江戸に移ったが、幕府は京都に二条城を築いて所司代(しょしだい)を置き、京都の繁栄を維持せしめた。したがって京都は江戸時代にも日本文化の中心をなし、人口は40万以上を数え、江戸・大坂とともに三都とよばれた。また伏見城は1623年(元和9)に解体されたが、伏見は京都と大坂を結ぶ淀川水運の発達によって河港として栄えた。宇治川と木津川が合流して淀川となる地には、かつて秀吉が築いた淀城があったが、1622年江戸幕府は京都守護のため新たに築城し、松平(久松)定綱(さだつな)が入封して淀藩が成立し、幕末まで続いた。

 丹波・丹後地方のおもな城下町としては、亀岡盆地の南部には亀岡、北部には園部(そのべ)がある。亀岡は明治以前は亀山とよばれ、1579年(天正7)に明智光秀(あけちみつひで)が亀山城を築き、江戸時代には藤井松平氏5万石の城下町となり、園部も小出(こいで)氏2万5000石の城下町である。福知山盆地東端の綾部(あやべ)は九鬼(くき)氏2万石の城下町であり、盆地西端には朽木(くつき)氏3万2000石の城下町福知山があり、由良(ゆら)川河口までの水運の河港をも兼ねた。また綾部市南部には谷氏山家(やまが)藩1万6000石の陣屋が置かれた。丹後では田辺郷(舞鶴市)に1580年細川藤孝(ふじたか)が築城し、その後、牧野氏田辺藩(舞鶴藩)3万5000石の城下町となり、宮津も細川氏に始まる城下町であるが、江戸時代には西廻(にしまわり)海運の発達によって、日本海沿岸屈指の港町としてにぎわった。峰山には1万3000石の京極(きょうごく)氏峰山藩があった。

[織田武雄]

近代

江戸幕府の大政奉還により、1868年(慶応4)には京都府が置かれ、山城国の大部分の行政にあたった。また山城、丹波、丹後には淀などの9藩と久美浜県が置かれていたが、1871年(明治4)の廃藩置県のあと、淀、亀岡、綾部、山家(やまが)、園部の5県は京都府に、福知山、舞鶴、宮津、峰山と久美浜の5県が但馬(たじま)(兵庫県)の豊岡(とよおか)県に合併された。しかし1876年には、豊岡県下の丹後国全域と丹波国のうちの天田(あまた)郡が京都府に編入され、いまの京都府の全域が成立した。

 明治以後の京都市は、東京遷都によって大きな打撃を受けたが、いち早く開化政策を取り入れ、舎密(せいみ)局や勧業場を設け、琵琶(びわ)湖疏水を開通させるなど、積極的に産業の近代化が図られ、西陣(にしじん)織、清水(きよみず)焼などの伝統産業の育成にも努めた。また教育面でも、全国に先駆けて学区制を採用し、1869年(明治2)には小学校、翌年には中学校も開設された。しかし近代産業の発達にとっては、京都市は内陸に位置して港湾を欠き、後背地に恵まれないなど立地条件に劣っているため立ち後れ、これまで観光・文化の都市として発達してきた。しかし、1960年代から名神高速道路など交通の開発に伴って、京都市の南郊では阪神工業地帯の延長として諸工業が発達した。また府下では1901年(明治34)舞鶴に軍港が置かれ、綾部、福知山に製糸工業の発達がみられ、第二次世界大戦後は舞鶴の旧軍港の諸施設が平和産業に転換された。現在の京都府は、人口、産業、都市機能の多くが京都市とその近郊部に集中し、地域間に格差がみられる。府では均衡ある地域構造の確立のため、低開発地域である北部の丹後リゾート開発や中部の丹波複合中軸都市群の整備、府全体の総合交通体系の整備などを目ざした「京都府総合開発計画」を策定し、1990年(平成2)から2000年まで第四次計画に取り組んだ。2001年からは「新京都府総合計画」、2011年からは行政運営の指針となる「明日の京都」を遂行している。

[織田武雄]

産業

農業

京都盆地を除けば、丹波高地をはじめ府下の大部分は山地で占められ、農地の宅地への転用も多く、京都府の総耕地面積は2002年(平成14)現在3万3700ヘクタールで、1970年に比べて18%減少し、耕地率も7.3%で、全国平均の12.8%よりはるかに低い。また2000年現在の農家戸数は1980年の6万2575戸からさらに減少して4万2374戸、そのうち専業農家は4788戸で11%にすぎない。また農家1戸当りの耕地は0.6ヘクタールで、全国平均の約2分の1である。ことに京都市の近郊では0.3ヘクタール以下の零細経営が27%を占める。水田率は約80%で、とくに京都盆地や亀岡盆地に水田が多い。2002年産水稲の10アール当り収量は508キログラム(全国平均は524キログラム)である。積雪の深い府北部では一毛作田が多く、南部の二毛作田では裏作として麦、菜種などが栽培されたが、需要の減退や労働力の不足で裏作も一部にしか行われなくなった。

 京都盆地や亀岡盆地では古代に条里制が敷かれ、開発が早かったことがうかがわれる。ことに京都市周辺では、江戸時代からすでに聖護院(しょうごいん)カブラ、賀茂(かも)ナス、九条ネギなどの名で知られた市場向けの野菜の産地をなしていたが、京都市の市街地拡大に伴い、近郊野菜の集約的栽培地帯は遠心的に広がり、南山城や亀岡盆地が近郊農業地帯となり、野菜のビニル栽培や温室栽培がみられるようになった。さらに京都盆地東部の宇治市を中心とする洪積台地では茶園が開かれ、茶の栽培が盛んである。生産額では全国の3%(2001)にすぎないが、すでに室町時代ごろから禅宗や茶道の興隆によって発達し、碾茶(てんちゃ)(抹茶)、玉露(ぎょくろ)の高級品を産し、「宇治茶」は品質の高さで全国に名高い。しかし宇治市では住宅化によって茶園の壊廃が進み、現在では宇治市南東部の宇治田原(うじたわら)町や和束(わづか)町が茶の主産地である。宇治田原町では玉露を主とし、和束町では煎茶(せんちゃ)の産出が多い。盆地西部の乙訓(おとくに)長岡の洪積層丘陵には孟宗竹(もうそうちく)の竹林が広く分布し、良質のタケノコの産地として知られる。福知山盆地では由良川の氾濫原(はんらんげん)の砂礫(されき)地を利用して古くから桑畑が開かれて養蚕が行われ、昭和初期の最盛期には約6000ヘクタールに達したが、2001年には最盛期の約200分の1に減じている。なお南山城の木津川の旧河床や、日本海に面する奥丹後の海岸砂丘地帯ではモモ、ナシなどの果樹栽培が行われ、奥丹後ではチューリップの栽培もみられる。

 牧畜はとくに盛んではないが、福知山盆地周辺の丹波高地では、中国山地の産牛地帯の延長として牛の放牧が行われる。牛の飼養頭数は1985年(昭和60)ごろより漸次減少しているものの、1戸当りの頭数は乳用牛が1980年の3倍、肉用牛が8倍になり規模拡大が進んでいる。一方、豚の飼養頭数は減少状態であり、1戸当りの規模は全国水準を下回っている。鶏卵の生産は、南丹・中丹・山城地域の順に多く、ブロイラーの生産は中丹地域が中心となっている。

[織田武雄]

林業

山地の多い京都府は総面積の約75%が森林に覆われ、ことに丹波地方では林業は重要な産業である。森林のほとんどは私有林で経営規模も零細であるが、植林によるスギ、ヒノキの人工林がよく発達し、ことに京都市の北西から丹波高地南部にかけては、スギの集約的管理による「北山丸太」とよばれる磨き丸太の特産があり、高級建築材としての需要が多い。また林業の副産物としてはシイタケマツタケ、クリ、竹材などがある。生シイタケは複合経営生産物として府内各地で生産されており、大消費地に近い南部地域では年間を通じて生産されている。丹波マツタケは、高い香りと優れた風味で知られているが、アカマツ林の荒廃などにより減産傾向にある。クリは、樹木の老齢化や病害獣被害のため減少傾向にあり、植え替えなどの改善が望まれている。竹材は、優れた品質と加工技術により、「京銘竹」の銘柄で、工芸品や建築、庭園資材の原料として広く活用されている。

[織田武雄]

漁業

北部の丹後地方は日本海に臨み、定置網、釣り、小型底びき網などの沿岸漁業が営まれている。沿岸地域は日本海を流れる対馬(つしま)暖流にのって回遊するブリをはじめ、アジ、サバの好漁場をなしている。京都府の年間総漁獲量は約2万トン(2000)、その52%は定置網による。定置網では丹後半島の伊根(いね)のブリ漁業が古来有名である。1982年ごろからマダイ、ヒラメ、サザエなどの栽培漁業が始まり、1992年ごろからは資源の持続可能な利用を目ざした資源管理型漁業が進められている。

[織田武雄]

鉱工業

地下資源はきわめて乏しく、鉱業としてはみるべきものはない。

 京都府の工業製品出荷額は2000年(平成12)現在約5兆9719億円であるが、全国の約2%にとどまり、工業活動は盛んであるとはいえない。また工業事業所数は1万8153であるが、従業者3人以下の事業所が58%を占め、1事業所当りの平均従業者数は10.8人で、全国平均16.4人の半分強にすぎず、零細家内工業が多いことがうかがえる。それは、古い歴史をもつ伝統工業が盛んだからである。ことに京都市には、平安時代に起源する西陣(にしじん)織をはじめ、清水(きよみず)焼、友禅(ゆうぜん)染、漆器、象眼(ぞうがん)、扇子(せんす)、仏具などがあり、丹後地方にも江戸中期に西陣織の技術が伝わって、冬の農閑期を利用して発達した丹後縮緬(ちりめん)の機業があり、京丹後市の峰山と網野、および与謝野(よさの)町などが主産地である。これらの伝統工業はいずれも高度の技術を必要とする家内工業で、高級品の生産を誇るが量産には適しない。また良質の硬水が湧出(ゆうしゅつ)する伏見(ふしみ)では、江戸時代初期から酒造業が発達し、今日でも銘酒の産地として兵庫県の灘(なだ)とともに全国的に著名である。

 京都府における近代工業の発達は、原料や製品の輸送に不利な地理的条件もあって立ち後れているが、名神高速道路や産業道路の開通によって京都市南部には阪神工業地帯の一環をなす洛南工業地帯(らくなんこうぎょうちたい)が1970年(昭和45)ごろ形成され、繊維、染色、機械、金属、化学、食料品などの諸工業が集まった。また府下では、宇治市に化学繊維や輸送機械、養蚕業が発達していた綾部市、福知山市では製糸・繊維工業、舞鶴市では旧軍港の施設や敷地を利用して、造船、板ガラス、化学工業などが立地し、1970年には福知山市の南部に長田野(おさだの)工業団地が造成された。1996年(平成8)には綾部市に綾部工業団地が完成した。

[織田武雄]

水力発電

1890年(明治23)の琵琶湖疏水(そすい)の開削により、京都市の蹴上(けあげ)に、疎水の水を利用して日本最初の水力発電所が設けられ、ついで宇治川でも宇治発電所が開設された。また1952年(昭和27)に発電のほかに流量調節を兼ねて大堰(おおい)川の世木(せぎ)ダム、1962年に由良川の大野ダム、1968年に名張川の高山ダムが設置された。宇治川には9万2000キロワットの天ヶ瀬(あまがせ)ダムが完成し、さらに1970年には宇治川上流に、46万6000キロワットの出力を有する、国内では珍しい揚水式の喜撰山発電所(きせんやまはつでんしょ)が新設された。

[織田武雄]

交通

平安時代以来首都であった京都を中心に、東へ東海道、南西へ西国(さいごく)街道、南に大和(やまと)街道、北西に山陰道が通じていたが、今日ではそれぞれ国道1号、171号、24号、9号となり、いずれも主要幹線道路となっている。そのほか京都から福井県へは国道162号、367号が走り、日本海に沿っては27号がある。京都市の南を名神高速道路、京滋バイパスが走り、ほかに舞鶴若狭(わかさ)自動車道、京都縦貫自動車道、第二京阪道路があり、京奈和自動車道も一部開通した。比叡(ひえい)山や高雄などへのドライブウェー、丹後半島一周道路(国道178号)も開設され、京都市を中心にバス交通も発達する。JRは東海道本線・新幹線が府の南部を通過し、京都駅からは山陰本線と、木津で関西本線・片町(かたまち)線(学研都市線)と接続する奈良線が分岐、山科駅から湖西線が滋賀県に向かう。JR山陰本線綾部駅と東舞鶴駅間にはJR舞鶴線が通じ、東舞鶴駅でJR小浜(おばま)線、西舞鶴駅で京都丹後鉄道宮舞線と接続する。京都丹後鉄道は、宮舞線(宮津―西舞鶴間)・宮豊線(宮津―豊岡間)・宮福線(宮津―福知山間)からなり、このうち宮福線は西日本初の第三セクターとして1983年に起工され、1988年7月開通した。また山陰本線福知山駅は大阪方面へJR福知山線を分岐する。

 京都市では1895年(明治28)蹴上発電所の完成に伴って日本最初の市街電車が登場したが、1978年(昭和53)までに全線撤去され、1981年5月新たに京都市内を南北に走る市営地下鉄烏丸(からすま)線が、さらに1997年(平成9)10月には市営地下鉄東西線が開通した。郊外電車も発達し、大阪へは京阪電鉄・阪急電鉄、奈良へは近畿日本鉄道京都線、大津へは京阪電鉄京津(けいしん)線、宇治へは同宇治線が走る。京都市郊外の名所地を結ぶ京福電鉄の嵐山(あらしやま)本線・北野線、叡山電鉄の叡山本線・鞍馬(くらま)線がある。そのほか、保津川沿いにトロッコ列車の嵯峨野(さがの)観光鉄道がある。また舞鶴には旧軍港の埠頭(ふとう)が1万トン級十数隻を接岸しうるので、戦後は日本海沿岸有数の貿易港となり、とくに対ロシア貿易による木材などの輸入が多かった。2010年国際埠頭が完成し、5万トン級のコンテナ船の就航が可能となった。

[織田武雄]

社会・教育

教育・文化

日本の文化の中心として長い歴史を有する京都は、東京遷都による打撃を避けるために開化政策が推進されたが、教育の面でもいち早く近代化が図られ、旧来の町組を学区制に改編して、1869年(明治2)には小学校、翌年には中学校・女学校が全国に先駆けて開設された。1897年には京都帝国大学が開学されたほかに、同志社、立命館大学が開学し、また中世、近世初期に起源をもつ本願寺の学寮が大谷大学、龍谷(りゅうこく)大学として発足した。2008年(平成20)には京都府の大学は31校、短大16校を数える。学校の多くは京都市に集中し、市の学生数は約14万で、市民の約1割を占める。学生の割合は全国でももっとも高く、学術都市としての特色を示している。そのほか学術的な施設としては、京都国立博物館、京都国立近代美術館、京都市美術館などがあるが、江戸時代に江戸と並んで盛んであった出版文化は今日では振るわず、地方新聞もおもなものは、1885年発行の『日出(ひので)新聞』に起源をもつ『京都新聞』1紙のみである。

 また古来さまざまな芸能文化がはぐくまれてきたので、花道、茶道、舞踊などの諸流派がおこり、それら宗家も多い。芸能文化の発達に伴って、美術工芸ばかりでなく、建築、造園なども京都が中心となって発達した。今日でも市民の間には、これらの芸能文化や古いしきたりがよく守られているが、その反面、開化政策にもみられたように、西欧の理化学を取り入れるため1870年(明治3)には舎密(せいみ)局が設けられ、疎水、水力発電、市街電車、博覧会などでも京都が日本の先鞭(せんべん)をつけたように、進歩的な面もあり、政治的にも革新勢力が強い。これに対して、丹波・丹後地方は交通が不便で、近畿地方の中心の阪神地方から遠く隔たり、京都市と比較するとなお文化的較差が大きい。大部分は農山村であるが、農事慣行などには、それぞれの地域とのつながりが認められる。

[織田武雄]

生活文化

住居や暮らし、年中行事などの庶民の日常生活にも古くからの伝統が残っている。俗に「京の着倒れ」といわれるように、西陣織や友禅染の名産をもつ京都人は、衣服には金をかけ、また洗練された感覚をもっているが、大原女(おはらめ)や白川女(しらかわめ)にみられるように、紺木綿(こんもめん)に三幅前垂(みはばまえだれ)の農村婦人の仕事着にも優雅さがうかがわれる。

 京都の町屋の住居は、通りに面しては紅殻格子(べんがらごうし)に上げ床几(しょうぎ)と虫籠(むしこ)窓をもち、その平面形態は「うなぎの寝床」のたとえのように、片側の土間の通り庭から奥庭、土蔵へと続く奥行の深い形態をなしている。農村の民家は切妻(きりづま)の裾(すそ)に垂れをつけ、上に破風(はふ)をのせた入母屋(いりもや)造であり、破風にはその家の定紋や防火のまじないに水や川の字を透彫りしたものがみられる。丹波・丹後地方では冬が長いので、居間にはいろりが掘られ、山間部では積雪を防ぐための雪囲いが設けられる。なお丹後半島の伊根では、母屋(おもや)と道を隔てた海岸に船小屋が並び、船置場の上は部屋や物置になっている。

 年中行事も、京都市中では5月の葵(あおい)祭、7月の祇園(ぎおん)祭、10月の時代祭の三大祭のほかに、大晦日から元旦(がんたん)にかけての白朮(おけら)参りに始まり、2月の節分会(せつぶんえ)、壬生(みぶ)寺の壬生狂言、4月の都をどり、6月の鞍馬(くらま)の竹伐り会式(たけきりえしき)、8月の大文字(だいもんじ)の送り火、12月の南座の顔見世(かおみせ)興行など、きわめて多彩である。府下でも、物忌みの行事として南山城の精華(せいか)町の祝園(ほうその)神社では正月に斎籠(いごもり)祭が行われ、それとともに大松明(だいたいまつ)のもとで、木製の農具を使って耕作の所作が演じられるが、京都市嵯峨清凉寺(さがせいりょうじ)の3月15日の涅槃会(ねはんえ)に営まれる御松明(おたいまつ)も斎籠堂の松明行事が仏事に結び付いたものである。豊作を祈るお田植祭は芸能化された田楽(でんがく)も伴って、丹波から丹後にかけての農村にかなり伝承されているが、ことに京都市右京区京北(けいほく)地区の日枝(ひえ)神社や南丹(なんたん)市の大原神社の田植祭は古風を伝えている。また6月5日には宇治市県神社(あがたじんじゃ)で梵天(ぼんてん)とよばれる依代(よりしろ)が暗夜に渡御(とぎょ)する奇祭があり、8月14日には亀岡市の稗田野神社(ひえだのじんじゃ)で灯籠(とうろう)祭と人形浄瑠璃(じょうるり)が演じられる。8月のお盆には精霊送りの行事として府下では宮津の灯籠(とうろう)流しが有名であり、盆踊りは各地で行われるが、なかでも福知山の盆踊りは盛大である。秋祭では、9月の城陽市の水渡神社(みとじんじゃ)の祭礼に宮座(みやざ)の古式が残っている。10月の木津川(きづがわ)市御霊(ごりょう)神社と岡田神社の御輿太鼓(みこしだいこ)祭なども民俗として興味深いものがある。

[織田武雄]

文化財

京都府の文化財や史跡も多くは京都市に集まる。それらは京都市の項目で触れるとして、府下のおもな文化財には次のようなものがある。宇治市には藤原道長(みちなが)の別荘を受け継いだ平等院があり、鳳凰堂(ほうおうどう)とよばれる阿弥陀(あみだ)堂には、平安時代を代表する定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来(にょらい)坐像(国宝)が安置される。また1661年(寛文1)に隠元(いんげん)禅師が開創した万福寺は、黄檗(おうばく)宗の本山で「山門を出づれば日本ぞ茶摘唄(ちゃつみうた)」と歌われるように、日本では珍しい中国風の建築である。そのほか南山城には、宇治川、木津川、桂川の3川合流点の南岸近くに接する小丘陵上には石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)があり、対岸の天王山は豊臣秀吉と明智光秀(あけちみつひで)の古戦場として知られる。また奈良県と境する木津川(きづがわ)市の旧加茂町地区には、定朝様式の9体の阿弥陀如来坐像(国宝)を安置する本堂(国宝)などのある浄瑠璃寺(じょうるりじ)や岩船(がんせん)寺、木津川に沿っては南朝の史跡に富む笠置(かさぎ)山(国の史跡・名勝)がある。

 丹波地方では、亀岡市に円山応挙(まるやまおうきょ)の山水画(国の重要文化財)など応挙の作品を多く収蔵する金剛寺(こんごうじ)、綾部市には聖徳太子創建と伝える光明寺(こうみょうじ)に鎌倉時代の建築二王門(国宝)がある。丹後の舞鶴市には、平安時代の絹本着色普賢延命像(国宝)のある松尾寺(まつのおでら)、平安・鎌倉時代の仏像を多く蔵する金剛院などがある。国指定史跡には、山城、丹波、丹後の各国分寺跡や、銚子山(ちょうしやま)古墳、神明山古墳(京丹後市)、長岡京跡(向日(むこう)市・長岡京市)、正道官衙(かんが)遺跡、平川廃寺跡(城陽市)などがある。

[織田武雄]

伝説

代表的な伝説は浦島太郎と安寿(あんじゅ)・厨子王(ずしおう)であろう。浦島伝説の原型は『丹後国風土記(ふどき)逸文』にみえる水の江の浦嶼(うらしま)の子である。浦島太郎を祀(まつ)る宇良神社(うらじんじゃ)(伊根町)には、海のロマンを語る浦嶼の子の絵巻が伝えられている。宮津市の由良川左岸の上石浦に、安寿・厨子王の伝説で知られる山(三)椒太夫(さんしょうだゆう)の屋敷跡がある。この伝説は古説経節によって諸国に語り伝えられた。同地には身代り地蔵、山椒太夫の首塚がある。丹波の大江山は、酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼が山塞(さんさい)を構えた伝説があって、鬼ヶ茶屋、童子屋敷跡、鬼の岩屋などの伝説地が山中に散在する。京都市東山の三十三間堂(蓮華王院)は棟木(むなぎ)にまつわる樹木伝説で有名。棟木は熊野山中から切り出したヤナギの大木で、その伝説は浄瑠璃『三十三間堂棟木由来(むなぎのゆらい)』に脚色されて広く知られるようになった。同じく京都市黒谷(くろだに)の金戒光明寺に熊谷直実(くまがいなおざね)が源空(法然)の弟子となって髪を下ろしたときに、鎧(よろい)をかけた鎧かけ松があり、熊谷堂には直実、平敦盛(あつもり)の供養塔がある。左京区東北院の軒端(のきば)の梅は和泉式部(いずみしきぶ)遺愛の老樹で、その梅に供養すると式部の霊が出現するという伝説がある。謡曲『東北(とうぼく)』はそれに取材する。鹿ヶ谷(ししがたに)の安楽寺は、源空の弟子住蓮、安楽が刑死となった承元の法難で知られている。松虫・鈴虫という後鳥羽(ごとば)上皇の愛妾(あいしょう)が仏門に入ったことが原因の法難で、源空は土佐へ流罪になった。同寺に松虫・鈴虫の塚がある。宇治市の宇治橋守護神の橋姫の祠(ほこら)が橋の南にある。伝説によれば、男の心変わりを恨んで相手の女を呪(のろ)い殺し、橋姫は生きながら鬼になった。そのため、婚礼の行列は祠の前を避けて通ったという。小野小町(おののこまち)の屋敷跡は山科随心院(やましなずいしんいん)にある。付近に化粧井、文塚、小町の文張り地蔵がある。百夜通いの伝説で有名な深草少将(ふかくさのしょうしょう)の屋敷は、伏見区深草の欣浄寺(ごんじょうじ)の近くにあったと伝え、同寺に少将の墓が残っている。蛇蟹(へびかに)合戦の伝説を伝える蟹満寺(かにまんじ)(木津川(きづがわ)市)の寺号は『今昔(こんじゃく)物語集』(巻16)の「山城国の女人、観音の助けにより蛇の難を遁(のが)れる語(ものがたり)」の伝説によるという。

[武田静澄]

『『京都府の自然と名所』(1951・京都府)』『『図説日本文化地理大系』(1960・小学館)』『二友長平著『京都の民話』(1965・未来社)』『『京都府資料所在目録』(1968・府立総合資料館)』『『日本の文化地理』(1968・講談社)』『赤松俊秀・山本四郎著『京都府の歴史』(1969・山川出版社)』『『京都府関係雑誌論文目録』(1971・府立総合資料館)』『『野田宇太郎文学散歩第18巻 関西文学散歩 京都・近江編』(1977・文一総合出版)』『『日本歴史地名大系27 京都市の地名』(1979・平凡社)』『『日本歴史地名大系26 京都府の地名』(1981・平凡社)』『『日本地名大辞典 京都府』全2巻(1982・角川書店)』『『図説日本の歴史26 図説京都府の歴史』(1994・河出書房新社)』『『京都大事典 府域編』(1994・淡交社)』『山本四郎著『新版 京都府の歴史散歩(上・中・下)』(1995・山川出版社)』『平山輝男他編『日本のことばシリーズ26 京都府のことば』(1997・明治書院)』『浅尾直弘他著『京都府の歴史』(1999・山川出版社)』


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