デジタル大辞泉 「唐」の意味・読み・例文・類語
とう【唐】[漢字項目]
〈トウ〉
1 中国の王朝の名。「唐詩/盛唐・
2 中国のこと。「唐音・唐人・唐土・唐本」
3 でたらめ。「
4 だしぬけ。「唐突」
〈から〉中国。「唐草・
[難読]
とう〔タウ〕【唐】
中国のこと。また、外国。
中国,隋に続く統一王朝。618-907年。首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北周王室の宇文氏,隋王室の楊氏とともに,北魏が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,唐の政治と制度には北周と隋のそれらを継承するものが多い。唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。
隋末に各地で反乱を起こした群雄のうちに李淵・李世民父子がいた。この李氏は,武川鎮軍閥のなかでの家格は,隋王室の楊氏よりも上位であった。煬帝(ようだい)が長安を放棄し,江都の離宮に逃避したとの報に接した李淵らは,晋陽(山西省太原)で旗揚げし,国都の長安に無血で入城した。李淵はいったんは煬帝の子を擁立して恭帝とし,江都にいた煬帝を太上皇と称せしめたが,煬帝が殺されたという知らせを聞くや,恭帝に迫って禅譲させ,帝位についた。これが唐の高祖であり,ここに唐王朝が成立した。唐朝は,黄巣の乱後に黄巣の部下であった朱全忠に禅譲させられるまで,およそ290年の命脈を保ったが,8世紀半ばに起こった安史の乱ごろを境として,前半期と後半期とではあらゆる局面で性格を異にする。前半期は隋に引き続き律令体制の社会であった。つまり隋末の反乱は,全国的な規模で行われたにもかかわらず,李淵らによって平定されて出現した唐朝の政治と社会は,大局的にみて隋朝をそのまま引き継いだと考えられるのである。後半期は律令体制の崩壊期で,藩鎮が各地に割拠する社会であり,魏晋南北朝以来つづいてきた貴族制社会の終焉期であった。
高祖李淵は,即位して7年の間に各地の群雄を平らげたが,その際に最も功績のあったのは次男の李世民であった。そこで即位して9年目に位を譲って太上皇となった。この新天子が,名君のほまれ高い太宗である。太宗の治世である貞観年間は,房玄齢,杜如晦,魏徴らの名臣も出て唐の支配体制の基礎が整い,周辺の諸民族も服属させて〈貞観の治〉とたたえられる安定期を現出させた。太宗と臣下との間に交わされた政治上の論議を載せる《貞観政要》は政治の教科書として歴代の為政者に読まれ,日本でも何度か翻刻され愛読された。ちなみに,中国で佚書(いつしよ)となった魏徴の《時務策》の一節を墨書した木簡が,最近日本の大宰府跡から出土している。
国内の統一をなしとげた唐が直面した課題は,対外関係,なかでも北方に強盛を誇る遊牧国家,東突厥(とつくつ)との関係であった。唐が晋陽から興って長安に入ったときに,突厥騎兵の援助を受けていたからである。太宗の時代に,東突厥はますます強盛になったが,たまたま東突厥に起こった内乱に乗じて,630年に唐はこれを滅ぼした。東突厥の崩壊によって,その傘下にいた多くの西北遊牧部族が唐の勢力下に入ることになった。それら諸部族の首長は,まもなく長安に集まってきて,太宗に〈天可汗〉の尊称をたてまつって権威を認めた。〈天可汗〉とは,可汗の上に立つ君主という意味であり,唐の天子は中国の天子であると同時に異民族の首長でもあることが自他ともに認められたのである(ハーン)。東突厥を平定した唐は,吐谷渾(とよくこん)を破り,またトゥルファン(吐魯番)地方に繁栄を続けていた漢人の植民国家である高昌を640年(貞観14)に滅ぼして西州と名づける直轄領とし,この地に安西都護府をおいた。ついでクチャ(亀茲),カラシャール(焉耆)を従え,カシュガル(喀什噶爾),ホータン(于闐)も帰順させ,安西都護府をクチャに西遷させたのである。
西北方への進出を果たした太宗は,隋の煬帝が3度も失敗した高句麗征討の遠征軍を出したが,またも大した戦果をあげえずに終わった。次の高宗は,高句麗討滅に主眼をおいていた従来の方針を一変し,まず海軍を出して百済を攻め,660年(顕慶5)にこれを滅ぼした。この百済滅亡の際に多くの百済人が日本に亡命し,日本古代文化の進歩に貢献したのである。一方,新羅が急に唐との友好関係を深め,650年には唐の年号を使用さえしていたので,百済の滅亡によって高句麗はまったく孤立し,668年には唐に降った。それに先だって657年には西突厥も唐に滅ぼされていたので,ここにいたり唐は東は朝鮮半島から西は中央アジアに及び,北はシベリアの南辺から南はインドシナ半島に及ぶ広大な地域を統治することになった。それらを統治するために,安東,安北,単于,北庭,安西,安南の六都護府を設け,〈羈縻(きび)政策〉を開始した。ただし,新羅がまもなく朝鮮半島の統一に初めて成功したために,唐は平壌においていた安東都護府を遼東まで撤退させざるをえなかった。しかし新羅は唐から完全に独立したわけではなく,これ以後も唐から官爵を授けられた。つまり大唐皇帝から封建された形式であり,このような唐を中心とした東アジア歴史世界の国際関係は,〈冊封体制〉と呼ばれている。それは羈縻関係よりもゆるやかな関係であるが,唐への朝貢の義務を負う臣属関係なのである。
高宗は,在位6年目の655年(永徽6),高句麗討伐を再開したまさにその年の10月に,皇后の王氏を廃して昭儀の武氏を皇后に冊立する詔を出し,ここに則天武后の政権掌握への道が開かれた。武氏が皇后になったということは,南北朝時代以来の貴族社会の変質過程において画期的な意味をもつものであった。なぜなら当時の通念では,正規の皇后には,北周,隋以来の武川鎮軍閥か,名門貴族の娘が冊立されることになっており,武氏のような新興官僚層の娘が皇后になるには,大きな抵抗があったからである。武氏は皇后となるや,病弱の高宗につながろうとする官僚たちを,ことあるごとに排除し,みずからの政治的基盤を固めた。683年の暮れに高宗が亡くなると,武后の猜疑心はますます強くなり,秘密警察を大いに利用して政界粛清の嵐を巻き起こした。また東都の洛陽を神都と改めて事実上の首都とし,官庁名と官職名の改称をも行った。〈則天文字〉とよばれる新字さえも制定した武后は,儒教で理想とされた古代の周王朝を再現することをスローガンとするとともに,当時,中国社会に広範に受容されてきた仏教ムードを巧みに利用して,《大雲経》という仏典に付会した文章を捏造(ねつぞう)させ,武后の即位が仏の意志に合致するのだと宣伝し,いわゆる〈武周革命〉を起こして,ついに皇帝となり,国号を周と改めた。中国史上,女性で皇帝となったのは,ただこの則天武后すなわち則天皇帝のみである。
則天皇帝は首都を洛陽に移し,首都をはじめ全国諸州に大雲経寺を設け,公式の会合で仏教僧侶は道士よりも上位の席次を与えられることになった。ちなみに,日本の国分寺は,この大雲経寺に範をとったのである。この武周王朝は,わずか1代15年で消滅して唐王朝が復興し,首都は長安に戻された。しかし,その後も武后の再来ともいえる中宗の皇后の韋氏(韋后)によって類似の政治が行われた。
このような政治の混乱を正し,〈貞観の治〉の再現をめざしてクーデタを起こしたのが,のちの玄宗であった。玄宗治世の前半が,年号にちなんで〈開元の治〉とたたえられているのに対し,武后と韋后という女性が権力を握った時代は,儒教に立脚する伝統的な史観から〈武韋の禍〉と称され非難の対象とされてきた。武后は人心収攬(しゆうらん)策として定員外の官職を設けたり,韋后は売官の制,つまり官職を金銭で売る制を始めたりしたからでもある。しかし,この〈武韋の禍〉と目された時期こそ,実は名族の家柄でない新興地主層が経済力を背景に官界へ大幅に進出してきた活気に満ちた社会だったのである。ただし,このような社会変動に必然的に伴う現象として,大量の逃戸を生みだし,新たな社会矛盾をかもしだした。玄宗による〈開元の治〉は,こうした矛盾の緩和という方向で進められたのであって,冗官を罷免し綱紀の引締めを行ったのである。
武韋時期を経過した時点で,隋以来の律令体制の破綻は,もはや誰の目にも明らかとなっていた。例えば,兵農一致の原則に立つ,西魏以来の府兵制は崩れ,傭兵による募兵制が採用され,その軍団の最高司令官として,膨大な兵力を左右できる節度使が設けられた。節度使の起源は,シルクロードの安全を確保するために涼州におかれた710年(景竜4)の河西節度使に始まり,742年(天宝1)には辺境にいわゆる十節度使が設けられるまでになった。辺境に常駐する大軍を手中に収める節度使が出現したことは,中央政府の動向に甚大な影響を与えずにはおかなかった。安禄山が平盧節度使になったのが742年,平盧,范陽,河東の3節度使を兼任したのが751年であった。
政治の安定度を計るバロメーターが,登録戸口数の多少で示しうるとするならば,唐朝の建国以来,玄宗朝の末年までは,武韋時期をも含めて,一貫して上昇カーブを描いていた。〈貞観の治〉と称された貞観年間でさえ300万戸に満たなかったのに,高宗治世の652年(永徽3)は380万戸,武周朝が崩壊した705年(神竜1)は616万戸,玄宗治世の末年たる754年には907万戸,5288万口に達するにいたる。この戸口増加のみられた時期には,北方の遊牧民族との戦禍が内地に及ぶことはなく,いつの世にも起こりがちな内乱もほとんどなかったのである。
玄宗朝の末年,長安の宮廷にはびこる楊貴妃およびその一族の楊国忠の一派と,北辺で3節度使を兼ねた最強の武将安禄山の一派との間で確執が生じた。両者の不和が頂点に達した755年11月,異民族出身で6ヵ国語に通じた安禄山は,楊国忠を誅除することを標榜して范陽(現在の北京)で反乱を起こした。彼は部下の蕃将,蕃兵を駆って南下し,たちまちのうちに洛陽,ついで長安を占領し,黄河下流を戦乱のなかに巻きこんだ。玄宗は西南の蜀をめざして都落ちする途中,兵士の要求に屈して,楊貴妃と宰相の楊国忠を殺さざるをえなかった。安禄山の死後は,部下の史思明が反乱を指導したので,これは〈安史の乱〉と呼ばれる。この乱の勃発に伴い,唐の西北辺境の軍隊が東に移動した間隙に乗じて,吐蕃すなわちチベット人が一時的とはいえ長安を陥れさえした。かくて盛唐の繁栄は一挙に奪い去られ,反乱が終わった翌年の登録戸口数は,わずかに290万戸,1692万口にすぎず,10年前の3分の1に激減してしまったのである。
安史の乱以後になると,中央政府の威令は弱まり,地方では軍閥すなわち節度使などの藩鎮が割拠し,とくに〈河朔の三鎮〉と呼ばれた魏博,成徳,盧竜の3節度使と,〈河南の二鎮〉と呼ばれた平盧,淮西(わいせい)の2節度使は,中央政府に租税を送らず,管内の官吏をみずから任命するなど,ほとんど独立の状態を続けたのであった。つまり安史の乱を境として,律令体制が崩壊し,藩鎮体制が成立した。8世紀後半から9世紀にかけて,河北や河南の藩鎮はしばしば反乱を繰り返したが,唐朝は生産力の高くなっていた江南地方の藩鎮をよく抑えていたので,政権を維持しえたのである。9世紀の前半,中央政府では牛僧孺と李徳裕をそれぞれの領袖とする〈牛李の党争〉がつづき,宦官(かんがん)の派閥と結びついて,互いに攻撃し合った。中央の軍事力を形成する神策禁軍の指揮権も宦官の手に握られた。唐朝の後半期には,天子の交代ごとに宦官勢力が介入し,当時,天子は宦官の門生にすぎぬ,とさえ称された。また,安史の乱の終末期に即位した代宗(在位762-779)から,僖(き)宗(在位873-888)にいたる11人の天子は,なんと在位中に正式の皇后を立てなかった。これほどの長期にわたる皇后の空位という異常事態を引き起こしたのは,表の政治の世界に強く介入しすぎた則天武后,韋后,それに粛宗(在位756-762)の皇后張氏のような皇后が再び出現するのを警戒してのことであるとともに,皇后に伴う外戚勢力の出現を排除しようとした宦官たちの意向が強く働いたからであると考えられる。
朝廷では宦官が権力を握り,地方では軍閥がはびこる9世紀の後半には,農民の逃亡が相次ぎ,各地で農民や軍隊の反乱が続いた。僖宗朝の875年(乾符2)に山東で起こった黄巣の乱は,たちまち全国に広がり,唐朝の支配を根底から揺り動かした。乱の指導者であった王仙芝と黄巣は共に塩の密売商人であった。黄巣の部下であった朱全忠は,907年(開平1)に唐朝を滅ぼし,哀帝から禅譲されて後梁朝を開き,ここに五代十国の乱世が始まる。
唐朝の終焉とともに,南北朝以来の貴族社会もまた完全に崩壊した。300年近くも東アジア歴史世界に君臨した唐朝の権威が衰え,やがて滅亡したことは,近隣の諸国にも重大な影響を及ぼした。唐の西南部,雲南の地に拠った南詔と,東北部かつての高句麗の故地に拠り,日本とも交流のあった渤海とが,唐朝の滅亡の前後に相次いで滅んだのも,けっして偶然の出来事ではなかったのである。
隋から引き継いだ律令体制とは律・令・格・式のかたちで公布された法制(律令格式)を柱とし,均田法とよばれる土地制度,租庸調制とよばれる租税体系,府兵制とよばれる軍事制度,郷-里-保と村(坊)-隣の2系統に組み直された村落組織,の四つを巧みに組み合わせて,人民を把握し支配しようとする体制であった。この体制こそ,政治権力を中央に集中するための基盤であり,その上に三省六部を中核とする中央政府が存在して,国家が形づくられていたのである。
均田制とは,北魏に始まり,国家が一定の均等規模の土地を人民に支給するのをたてまえとする制度で,給田は原則として個人対象で計算されたうえ,戸ごとに支給された。唐では,一般の農民の場合,成人の男子である丁男と,未成丁の中男のうち18歳以上の者に,1人あたり20畝の永業田と,80畝の口分田,合わせて1頃の土地が与えられることになっていた。租税体系たる租庸調も,個々の農民に人頭的に定額で課されることになっており,その単位は丁男であった。このほか,地方官庁の管轄のもとに課された雑徭とよぶ軽い徭役があった。府兵制とは,丁男のなかから3人に1人の割合で折衝府に徴発される徴兵制の軍役であった。折衝府の数は最も多いときで634に達したが,そのうち長安と洛陽とを中心とするごく狭い地域に400府近くをおいて中央を固め,この両都を北東より北西にかけて半月形に取り囲む辺境に近い地帯におよそ200府をおいた。すなわち,中央と辺境近くとに集中して設けられていて,全国均等に配置されていたわけではなかったのである。とくに注目すべきは,府兵の義務は折衝府の設けられている州民にだけ課され,折衝府なき州民には課されなかったことであり,全国におよそ350あった州のうち,折衝府のおかれていた州は90にすぎなかったから,地方によって負担に甚しい格差があったことになる。
均田制,租庸調制,府兵制の規定は,一般良民を家族全体としてではなく,その家族内のひとりひとりを対象としていた。唐朝がとくに重視したのは丁男であり,ついで中男であった。税役と兵制を確保するには,丁男と中男をもれなく把握しなければならない。そのために丁中制とよばれる制度によって,年齢による成年,未成年の別を決めたのであり,その台帳にされたのが計帳と戸籍であった。計帳は,毎年,戸主から提出された手実という申告書に基づいていた。戸籍は,その手実と計帳に基づいて3年ごとに県において作成された。これら計帳と戸籍の記載を正確にし,脱税や徴兵忌避を防ぐために,戸数を規準として人為的につくられた郷(500戸)-里(100戸)-保(5戸)の区分と,村-隣(農村)あるいは坊-隣(都市)の自然区分を併用した村落組織をつくり,連帯責任を課した隣組制度を強化し,人民をして本籍地から離れないようにしたのである。ちなみに,現存する唐の戸籍の大部分は,20世紀の初頭に,敦煌莫高窟からイギリスのM.A.スタイン,フランスのP.ペリオらによって将来されたものであって,トゥルファン出土の戸籍はほとんどが細片である。以上のような人民把握の体制を維持し運用するものとして設けられた律令官制が,三省六部をはじめとする中央官制であり,地方の州県制であった。なお,中央と地方とを問わず,官職についた者は,租庸調などの負担をすべて免除されたし,五品以上の官は同居の家族も免除の特権を享受した。
中央官庁としては,中書省,門下省,尚書省の三省が中核をなし,三省のうち行政官庁たる尚書省は吏部以下の六部からなったが,いずれも文書行政の総元締めに当たり,実務を担当したのは秦・漢以来の系譜をひく九寺五監十六衛などの官庁であった。九寺とは国家の祭祀を担当する太常寺や外国の賓客の接待を担当する鴻臚(こうろ)寺などの九つで,寺とは役所の意味である。五監とは教育行政を担当する国子監などの五つをいい,十六衛とは近衛軍団のことであり,ほかに秘書省,殿中省,御史台もあった。これらの中央官庁は,中書省と門下省が国都長安城の宮城内におかれたのを特例とし,大部分は宮城の南に位置した官庁街たる皇城にいらかを並べていた。なお宮城の東には皇太子のいる東宮が,西には内侍省を含む掖庭宮と太倉が位置していた。
地方制度は,州県制であり,ときに郡ともよばれた州は数県からなり,全国はおよそ350の州と1550の県に分けられていた。なお,唐の官吏登用法は,隋に始まった秀才,明経,進士等の科目からなる科挙の制を受け継いだが,唐初には秀才科が廃絶してしまい,ついで則天武后が権力を握るや,文章の才ある人物を選ぶ進士科を尊重する方向を打ち出し,それまで正統と目されていた明経科の地位が低落してしまった。
唐初の律令体制は,7世紀末以後,つまり武韋時期を経過した時点で破綻しはじめた。均田制は,唐初ですら現実に施行されたのは,華北のごく一部の地域にすぎなかったと考えられるので,ここでは触れない。府兵制についていえば,折衝府(軍府)の極端な偏置に伴う兵役義務の地域による不公平のため,軍府のある州から軍府のない州へ逃亡する者があとを絶たなかった。このような事態に対処するために行われたのが,721年(開元9)から始まる宇文融の括戸政策であり,同時に,徴兵制による府兵の維持をあきらめ,傭兵による募兵制が採用され,その軍団の最高司令官として節度使が設置されたのである。北辺の3節度使を兼任した安禄山による反乱勃発に伴う国家財政の窮乏をまかなうべく,苦しまぎれに考え出されたのが,原価の数十倍もの税をかける塩の専売法であった。第五琦と劉晏の2人によって完成された塩の専売法によって,国家財政は充実し,専売収入はやがて政府の全収入の半分を占めるにいたる(専売)。また780年には,楊炎の提案により,租庸調が廃止され,新たに両税法が始まった。両税法は,本籍地に居住するしないにかかわらず,現在耕作している農民の土地所有を認め,土地の面積や生産力に応じて,夏と秋の2回,銅銭で税を納めさせるという,画期的な新法であった。租庸調制から両税法への移行は,これまでの本籍地主義から現住地主義への変化でもあった。この両税法と専売法は,宋代にも受けつがれ,両税収入と専売益金とは,以後の国家財政の二大支柱となるのである。
府兵制が崩壊して募兵による新兵制が始まり,塩の専売法が新設され,租庸調が廃されて両税法が成立したのに対応して,官僚機構のなかにも令の規定にない特別の官職が新たに登場し,律令官制を有名無実化していった。〈令外(りようげ)の官〉ともいうべき新たな官職は使職とよばれることが多く,とくに宦官の任じられた内枢密使,監軍使などのほか,財務関係の度支使(たくしし),塩鉄使や,節度使,観察使といった藩鎮も使職なのであり,唐後半期の社会はまさに使職の世界ともいうべき様相を呈した。
唐の文化の特色をひと口で表現すれば国際色ゆたかな文化ということになろう。シルクロードは,唐初にあっては,ペルシア文化東漸の道であった。ササン朝ペルシアは,広大な地域を約400年も支配し,建築,彫刻や工芸などにすぐれた業績を残したが,その最後の王が651年にイスラム軍に敗北したとき,王子のペーローズPērōzが救援を求めてはるばる唐にやってきたこともあり,滅亡の前後に,その文物が盛んに中国に流入した。唐の金銀器や染織の意匠と文様には,忍冬(にんどう)唐草や騎馬狩猟文が多く,胡騎ともども,ササン朝様式が濃厚にみられる。国都の長安には,西域からの胡客や南海からの蕃客が集まり,西市の付近に住んで異物を売買し,異国情緒に満ちあふれた。胡姫といわれる,目が青く鼻の高い美女が,ペルシアの踊りをみせたり,酒場でサービスすることも珍しくなかったのである。西安の唐墓から楽器を携えた胡人たちを背に乗せたラクダの唐三彩俑が出土したりして,当時の雰囲気を今に伝えてくれる。ペルシア渡来の勇壮なポロ競技,すなわち馬上ホッケーが貴族や後宮の美女たちのあいだに流行し,若き日の玄宗もそれに夢中になったという。従来もポロに興じる女性を模した陶塑が出土していたし,近年,乾陵(けんりよう)の陪冢(ばいちよう)の一つである章懐太子(李賢)墓から,ポロ競技を活写した美事な壁画が現れたのも偶然ではなかったのである。
唐は隋に引き続き,行政や軍事といった国家の根幹にかかわる制度については,おもに北朝の伝統を受け継いだが,芸術や文学については,漢民族の伝統を守ってきた南朝の貴族文化を受け継ぐことが多かった。唐初の人物画の名手であった閻立本(えんりつぽん)は顧愷之(こがいし)の手法を発展させたし,初唐の三大書家といわれる虞世南,欧陽詢,褚遂良(ちよすいりよう)は王羲之の正統を伝えて楷書を完成させた。儒教においても,太宗が孔頴達(くようだつ)に命じて編集させた《五経正義》は,漢以来の古典解釈学を集大成したものであるが,多く南朝の学説が採用された。ただし《五経正義》によって経書の解釈が統一され,科挙の出題の基準となった結果,思想の自由が失われて,儒教の発達が阻害されたのであった。そして則天武后が文学の才能のある人物を好んで抜擢したこともあって,科挙の科目のうちで儒学の知識を試す明経科より,詩文の才能を試験する進士科が尊重されるようになり,これに伴って,高い内容と格調をもつ,南朝伝来の詩を中心とする文学が盛んとなった。唐代のみならず,中国史を通じての最大の詩人は,盛唐の李白と杜甫であり,中唐の白居易は,用語が平明であったこともあって,日本で平安朝以後の知識人たちに愛読され,大きな影響を与えた。中唐の時期には,韓愈と柳宗元が出て,四六駢儷(べんれい)文とよばれた六朝以来の美文を批判して,古文運動を始めたばかりでなく,いっそう読みやすい文章で書かれた伝奇とよばれる短編小説が,にわかに出始めたのであった。
→唐詩
唐代の宗教,思想界において全盛をきわめたのは,インド起源の仏教であった。唐初にインドへの求法の旅をして,膨大な仏典をもたらした玄奘(げんじよう)は,帰国後に《大唐西域記》を著すとともに,76部1335巻に及ぶ大翻訳事業を完成し,その忠実な逐語訳は〈新訳〉と称されている。南北朝時代にあっては,中国固有の儒教とは異質の珍しい教学として,知識教養の宝庫として迎えられる傾向の強かった仏教であったが,末法思想が興って以後の隋・唐時代になると,生活に密着し,宗教的な情熱に燃えた実践的な宗教として,特色ある中国仏教が形成されたのであった。浄土教の道綽(どうしやく)と善導,南山律宗の道宣,法相宗の玄奘,禅宗の慧能(えのう),華厳宗の法蔵,密教の善無畏と不空などのすぐれた人物が輩出して,黄金時代を現出した。彼らは,それぞれの教理を統一ある組織にし,その実践化に努力した。しかし,845年(会昌5)に断行された武宗による会昌の廃仏と,955年(顕徳2)の五代後周の世宗による廃仏で迫害をうけ,禅宗と浄土教を残して,ほかは衰えていくのである(三武一宗の法難)。
→仏教
たまたま会昌の廃仏に際会して還俗させられた日本からの入唐僧円仁は,旅行記《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》のなかで,廃仏の実態を記録している。会昌の廃仏は仏教教団自体の腐敗堕落と国家財政上とに起因するとともに,さらには武宗の道教信仰による,道教教団側の策動が功を奏したからであった。道教は,始祖の老子(李聃)が唐の宗室と姓を同じくするところから,唐代を通じて大いに帝室に重んぜられた。しかし,それは反面において,道教教団の腐敗無力化の端を開くものであった。唐代には,ネストリウス派キリスト教の景教,ゾロアスター教の祆教(けんきよう),マニ教などの西方の宗教も伝来し,長安に三夷寺が建てられたが,会昌の廃仏の際,異国の宗教として仏教とともに禁絶させられた。このときに倒されて地下に埋まったと考えられる《大秦景教流行中国碑》が明末に出土し,今は西安の陝西省博物館の碑林に陳列されている。
→隋唐美術
執筆者:礪波 護
唐の建国後5年,623年(推古31)に新羅を経由して唐から帰国した留学生恵日(えにち)(薬師恵日(くすしえにち))らは,唐に滞在している留学生の召還と,〈かの大唐国は,法式備り定れる珍(たから)の国なり。常にかよふべし〉と進言した。この進言は,630年(舒明2)の第1次遣唐使として実現し,これ以後9世紀半ばまでに十数回の遣唐使が派遣されることになる。また第1次遣唐使帰国の際には,二十数年間中国に滞在していた僧旻(みん)(新漢人旻(いまきのあやひとみん))ら留学生もいっしょに帰り,さらに10年後には,留学生の南淵請安(みなぶちのしようあん),高向玄理(たかむくのくろまろ)らも唐から帰国した。彼らは,隋が滅び唐の国家が形成される経過を目のあたりに見てきたと推測されるが,彼らの知識と体験は,大化改新の際に重要な役割を果たした。
大化改新は,唐の太宗による第1次高句麗遠征の年に起こっており,日本の国制改革も,唐を中心とする東アジアの動向と密接に関連していたと考えられる。大化改新が一段落した653年(白雉4),第2次の遣唐使が派遣され,多くの留学生が随行した。このころから朝鮮半島をめぐる情勢は緊迫し,唐と新羅が同盟して,高句麗・百済を攻め,660年にはついに百済が滅亡した。百済の復興を図るため,日本は援軍を送るが,663年(天智2),日本軍は唐・新羅軍と白村江に戦って大敗する。敗戦後,朝廷は唐・新羅軍の進攻に備えて,山城(さんじよう)や烽を築き,北九州に防人を配置するなど防備に努めた。また,ほぼ全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじやく)を作ったり,いわゆる近江令(おうみりよう)を制定したりして,集権的な国家体制を形成していった。この間にも,戦後の関係を修復するために遣唐使が派遣されているが,7世紀後半には,遣新羅使を通じて唐の法制などを学ぶことが多かったと推定される。672年の壬申の乱の際,東国の軍隊を動員した大海人(おおあま)皇子が近江朝廷に勝利したのは,西国の軍隊が外征で疲弊していたことなど,国際関係も影響していたと推定される。壬申の乱に勝利した天武天皇と,その後をうけた持統天皇は,唐の律令制を包括的に継受しようと努め,文武天皇の701年(大宝1)には,日本の律令国家の骨格を定めた大宝律令が,唐の永徽(えいき)律令を手本として完成した。新羅など朝鮮諸国が編纂しなかった律令法典を日本が編纂したのは,日本の国際的地位とも関係があったと考えられる。日本は唐に対して朝貢したが,新羅とは異なって,唐から冊封を受けず,新羅を朝貢国とする小帝国をめざしていた。律令法典はまさに蕃夷の国を従える帝国の法であった。
701年,日本は30年ぶりに遣唐使を派遣したが,このとき唐に対して初めて正式に〈日本〉の国号を用いた。〈日本〉は唐からみて〈日出づる処〉の意で,唐を意識してつくられた国名であったといえる。この遣唐使が大宝律令を持参した可能性も想定されている。日本の平城京は唐の長安を意識してつくられ,和同開珎は唐の開元通宝を模して鋳造された。大宝から和銅・養老年間(708-724)には,大宝律令に描かれた青写真をもとに律令国家が建設されていったが,それは同時に,唐の大帝国を手本とする東海の小帝国の建設でもあった。717年(養老1)に出発した遣唐使には,阿倍仲麻呂,吉備真備(きびのまきび),玄昉(げんぼう)らの留学生が随行し,唐の文化の本格的な摂取が企てられた。彼らが将来した《唐礼》《大衍(だいえん)暦》や漢訳仏典などの書物や楽器,武器などは,唐の文化を総合的に学ぼうとする意気込みを感じさせる。法律や政治のしくみだけでなく,貴族の生活様式や思考様式も,唐の文化の強い影響を受け,年中行事のなかには,後世の日本人に継承されていくものもあった。このような唐の文化の幅広い摂取の上に,いわゆる天平文化が開花したが,国分寺の制度など唐の影響のもとに生まれてきたものが多く,仏像も唐における作風の変遷を継承している。《万葉集》の歌も中国の詩の影響なくして生まれえなかった。
→奈良時代美術
遣唐使が帰国するとき,唐の朝廷は送使を付して日本まで送らせることがあり,送使のなかにはそのまま日本にとどまるものもあった。また遣唐使の帰国の際,ともなわれて来日した唐人もあり,なかでも袁晋卿(えんしんけい)は音道の発展に貢献し,鑑真(がんじん)とその弟子たちは日本の仏教や美術の発展に大きな役割を果たした。また,遣唐使とともに唐に来ていた外国人の僧も来日し,インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)は,東大寺の大仏開眼の導師をつとめた。
平安時代に入ると,804年(延暦23)に出発した遣唐使に最澄と空海が随行し,帰国した彼らは,唐の仏教と日本の固有信仰との交渉のなかから,日本的な仏教が生まれてくる基礎を築いた。このころには,唐の文化の理解も進み,留学生も疑問をただすための短期の請益生が多くなった。平安前期は唐風の文化が栄えた時代であったが,同時にそれが消化されて日本的な文化が生まれてくる胎動期でもあった。9世紀中ごろから唐の勢力が急速に衰えていくと,日本の律令体制も(とくに集権的・軍事的側面が)弱体化していった。9世紀末には遣唐使の派遣も停止され,日本独自の国制や文化がしだいに成長していった。
唐は,日本古代の国家や文化のあり方に,決定的ともいえる大きな影響を及ぼした。古代の日本人は,朝鮮半島南部の地域名〈から〉を,中国をも指す言葉に転用していったが,南の長江(揚子江)流域は〈くれ(呉)〉とよばれ,おもに北の黄河流域をさした〈から(漢・唐)〉と区別された。〈くれ〉の地域は古墳時代以来,百済を媒介として日本の古代文化の形成に大きな影響を及ぼし,奈良・平安時代にも,遣唐使の一行のうち長安まで行ったのは少数で,大部分は揚州など〈くれ〉の地域に滞在していた。長安・洛陽の〈から〉の文化とともに,〈くれ〉の文化も,日本文化の重要な要素となったと考えられる。唐が滅亡したのちも,〈唐〉は〈漢〉とともに中国をさす語として,日本では広く用いられた。
→遣唐使
執筆者:吉田 孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国の王朝(618~907)。帝室は李(り)氏、14世代20代を数え、首都は長安。洛陽(らくよう)を東都、太原(たいげん)を北都とした。中国古代帝国の最後を飾る時代で、国威は周辺に広がり世界帝国の偉容を誇った。
[池田 温]
唐室の李氏は隴西(ろうせい)を本貫とし、西涼(五胡十六国の一つ)の王室の裔(えい)を称するが、北魏(ほくぎ)時代モンゴリアと接する北辺の軍鎮に駐屯していた軍人の家柄で、北周の宇文氏、隋(ずい)の楊氏と姻戚(いんせき)関係にあり、鮮卑(せんぴ)族と通婚して北族的要素も受け継いでいた。唐室やそれを中核とする支配者集団を、中国の歴史家陳寅恪(ちんいんかく)(1890―1969)は「関隴(かんろう)集団」と名づけ、広く学界で採用されている。彼らは6世紀を通じ陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)地方の土着勢力と融合した鮮卑・漢混血貴族グループで、武勇に優れ、漢代以来の華北の伝統文化を吸収していた。約400年続いた魏晋(ぎしん)南北朝の分裂を克服し、ふたたび大統一をもたらした隋朝が、急速な中央集権化の破綻(はたん)と高句麗(こうくり)遠征の失敗によって、末期は農民蜂起(ほうき)の怒濤(どとう)のなかで崩壊に瀕(ひん)し、各地に群雄が割拠した。当時、突厥(とっけつ)防衛の要衝太原に留守(りゅうしゅ)として駐在した李淵(りえん)父子は、天下の形勢をうかがい旗揚げし、突厥の援助を得て南進、数か月で長安を抑え、隋の皇子代王侑(ゆう)を擁立した。まもなく江都に遊幸中の煬帝(ようだい)が親衛隊の叛(はん)にあい弑(しい)されたと聞くと、受禅を強要して李淵(諡(おくりな)高祖)が唐朝を創建した。唐朝の国号は、北周以来李氏が唐郡公・唐国公に封ぜられたのにちなむ。太子建成と世民兄弟の活躍により、数年間のうちに王世充、李密、竇建徳(とうけんとく)、梁師都(りょうしと)、薛挙(せっきょ)、杜伏威(とふくい)、蕭銑(しょうせん)ら群雄を平定、全国を統一した。唐初の内政のスローガンは、煬帝の暴政を廃しすべて隋初の開皇の制に復帰することであり、隋の官僚や群雄配下の知識人も多く新王朝に吸収された。
[池田 温]
兄の建成と弟の元吉を玄武門の変により打倒した李世民は、父の禅を受け2代皇帝(諡は太宗(たいそう))となり、房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)らの名臣をよく用い、民生安定と国威伸張に努め、貞観の治を現出した。いわゆる律令(りつれい)体制は貞観律令と引き続く永徽(えいき)律令・律疏(りつそ)の編纂(へんさん)を通じ完成期を迎え、広範な小農民を基礎とする大帝国の充実をみた。李靖(りせい)、李勣(りせき)ら名将の活躍により東突厥、吐谷渾(とよくこん)、鉄勒(てつろく)諸部、西突厥を相次いで撃破し、吐蕃(とばん)を抑え、高昌(こうしょう)から亀茲(きじ)(クチャ)、于闐(うてん)(ホータン)など西域(せいいき)の要地に前進基地を置き、漢代以来空前の版図を広げた。このような背景の下に、インドへ求法(ぐほう)の大旅行をした玄奘(げんじょう)や、三度インドに使者となり武功で名をあげた王玄策も現れた。高句麗に対しては太宗の親征も失敗したが、3代高宗期に新興の新羅(しらぎ)と連合してまず百済(くだら)を滅ぼし、腹背から攻撃を加えついに高句麗を倒した。しかし遺民の抵抗はなお続き、結局朝鮮半島では新羅の支配が確立し、高句麗遺民の一部はやがて靺鞨(まっかつ)と合流して東北に渤海(ぼっかい)国を形成するに至る。初唐から盛唐まで、各種族の内部自治を保障し、都護府の管轄下に名目的な州県支配を行ういわゆる羈縻(きび)政策はおおむね功を奏し、六都護府体制の下に世界帝国の繁栄が続き、通商は隆盛を極めた。
[池田 温]
この間、高宗の妃武照(則天武后)は、術策を弄(ろう)して皇后となり、やがて帝権をも左右し、ついに中国史上唯一の女帝として周朝(690~705)を建てた。武后の評価は善悪極端に分かれているが、六朝(りくちょう)以来の貴族官僚の支配が行き詰まり、新しい文臣官僚が進出し、また社会経済の安定につれて地主や商人が勢力を伸ばし伝統的体制にしだいに対抗するようになった時代状況を考えると、武后の破格の用人や旧来の法度を無視した諸施策も一定の積極的役割を果たしたとみなされよう。武后政権がついえたあとも、中宗の韋(い)后や安楽公主、太平公主らプリンセスの政権干渉が続き、国政は退廃したが、李隆基(諡は玄宗(げんそう))のクーデター(710)により彼女らは一掃され、やがて玄宗の即位とともに盛唐の華やかな幕が開かれた。
[池田 温]
姚崇(ようすう)、宋璟(そうえい)、張説(ちょうえつ)、張九齢ら名相にリードされた開元の時代は、人口増による耕地不足、商人高利貸などの農民収奪、逃戸の増加、兵農一致の府兵制の崩壊、仕官希望者の激増、上流の奢侈(しゃし)と貧富の懸隔など、増大する社会矛盾に対処して、国初の貞観の制への復帰を目ざし、武后期の潮流に対してむしろ反動的政策を推進した。一方、社会の変化に対応するため、専門能力に優れる実務官僚を登用し、律令制の外皮の下で、戸口の流動や流通経済の浸透に応ずる異質な新国制――使職の増加、税銭増徴、料銭支給、徴募兵制の普及、漕運(そううん)の改革――が形成されていった。玄宗治世の後半の天宝時代は、老境に入った帝の政務弛緩(しかん)と楊貴妃(ようきひ)とのロマンス、姦臣(かんしん)の聞こえ高い李林甫(りりんぽ)・楊国忠らの専権、辺防十節度使体制と藩将の重用などにより、中央の圧倒的強みが揺らぎ、地方勢力の比重が高まる形勢となり、深刻な危機が進行した。伝統的に史家が開元・天宝の間に時代のくぎりを置き、上昇下降の分界としたのも理由がある。
[池田 温]
西域ではタラス川の戦い(751)で東進するアッバース朝勢力に敗れ、対外的にも退勢に向かい、755年「漁陽(河北省の郡名、安禄山(あんろくざん)の根拠地)の兵鼓」をどよもして十数万の漢・蕃兵を率いる安禄山の反乱が勃発(ぼっぱつ)し政局は激変した。太平に慣れた中央政府や正規軍は叛軍に対抗しえず、洛陽、長安も占領され、玄宗は四川(しせん)に逃れ、途上で楊国忠と貴妃は激高した兵士により、禍乱の源として血祭りにあげられた。一方、反乱に対抗して顔真卿(がんしんけい)らが義兵をあげ、許遠が睢陽(すいよう)の守城に死力を尽くすなどにより揚子江(ようすこう)流域を確保した唐朝は、西北で即位した粛宗(しゅくそう)の指導下に体制の立て直しを図り、叛軍将帥が内訌(ないこう)により安禄山、安慶緒、史思明、史朝儀と次々に交代したのにつけこみ、回紇(かいこつ)(ウイグル)の援兵を頼って乱の平定にこぎ着けた。しかし10年近いこの動乱を通じ唐前期の支配体制は決定的打撃を受け、律令制的人民支配は全面的に破綻(はたん)し、在地勢力による軍事的割拠が表面化した。さらに反乱討伐に辺防軍が動員されたすきをついて、外族が軍事的に優勢を占め、吐蕃が河西を席巻(せっけん)して一時長安まで侵入し、唐の勢力は西域からまったく駆逐された。漠北では突厥にかわった回紇が全盛となり、唐への兵馬援助につけこみ回紇人が華北に進駐し、また絹馬交易を通じ経済的に唐朝を苦しめた。西南では南詔がしばしば侵入の勢いを示し、8世紀後半以降はそれまでの漢族優位が全面的に逆転し、周辺諸民族の積極的活動期を迎えた。
[池田 温]
安史の乱中に内地各所にも兵権を握る節度使が列置され、民政をつかさどる観察使などを兼ね、文人を幕下に召すとともに、牙(衙)(が)軍を中核とし鎮将以下の出先機関を設け、強力な支配権力を築いてしばしば唐朝に反抗するようになった。財政的にも両税の過半を留使・留州として保留し、中央へは3分の1しか上供せず、また領内でかってに通関商税などを賦課しながら、兵士の軍糧を中央に強要するなどして唐朝を窮迫させた。なかでも反乱の本拠となった河朔(かさく)地方の魏博(ぎはく)・幽州・成徳の三鎮では藩帥の世襲が実現し半独立地帯となった。かくて中唐以降は王朝中央権力と有力藩鎮の対立抗争が政治・軍事の主流となり、徳宗の宥和(ゆうわ)策にかわって憲宗の強圧策が採用され、唐は関中と江南などをおもな地盤としてなお1世紀存続した。
[池田 温]
中央では三省六部が形骸(けいがい)化し、翰林(かんりん)学士ら内相の権力が外朝に拮抗(きっこう)し、そのうえ、皇帝に近侍する宦官(かんがん)が政治的実権を握り、神策軍(北衙(ほくが)禁軍の一)を率い、監軍使として出征軍を監察するなど兵権にさえ関与するようになった。中・晩唐の皇帝はみな宦官の擁立により帝位に上ったので、「定策国老」「門生天子」(宦官が試験官にあたる国家の元老で、天子は彼らに及落を決められる受験生の意)といわれた。かかる情勢下に中央官僚は科挙を媒介として党派をつくり、名高い牛李の党争が起こり、流動的な職任や行政方式が目だつようになり、宋(そう)以後の中世的官僚支配への傾斜を示した。盛唐以前に比し国勢規模は減半し中央の権威も相対的に衰えたが、陸贄(りくし)、裴度(はいど)、李徳裕、牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)ら著名な宰相が輩出し、在地に根を張る地主土豪層や富商・知識人らと連係を深め、唐朝の維持に努め、憲宗の元和年間(806~820)や宣宗の大中年間(847~859)のような中興をうたわれる安定期を生み出した。これら外朝の官僚と宦官の抗争は甘露の変(835)のような政変を挟みながら唐末に及んだ。地方では揚子江沿いの揚州や四川盆地の成都、華南の広州など、交通貿易の要衝は非常な繁栄をみせ、貨幣流通も農山村に浸透し、塩をはじめ茶・酒に及ぶ専売の利益が財政収入の主流となり、城市の伝統的市制が崩れて営業の自由が増すといった変化が静かに進行し、社会経済面でも中世的様相が漸次姿を現した。
藩鎮は兵士の給養のため過酷な収奪を管内の農民・商人に加えたので人民の怨嗟(えんさ)は深まり、軍隊では下剋上(げこくじょう)の紛乱が後を絶たず、政治権力の分散多元化は政局をますます混迷に陥れた。やがて裘甫(きゅうほ)・龐勛(ほうくん)の乱を経て僖宗(きそう)の乾符年間(874~879)に至り、災害の飢饉(ききん)も伴い、ついに王仙芝(おうせんし)・黄巣の大農民反乱が起こり、流寇(りゅうこう)が全国的規模で移動しつつ広範な民衆を抵抗に立ち上がらせた。専売に苦しむ住民と連帯関係にある私塩の徒がこの乱の中核となり、下級兵士や飢民を加えて一時は長安を占領し天下に号令する勢いをみせたものの、有力藩帥、とくにトルコ系沙陀(さだ)族出身の李克用らが僖宗に従って討伐に力を尽くしたので、内部分裂もあって農民軍は瓦解(がかい)した。その後は黄巣の部下で汴(べん)州の要地を押さえた朱温(のち五代後梁(こうりょう)の太祖)の勢力が強まり、やがて宦官を一網打尽にして実権を握り、ついに唐の禅を受けて五代の新局面に移行した。
[池田 温]
律(刑法)、令(れい)(行政法)、格(かく)(律令を補訂する勅令集)、式(官庁の例規・書式)が整備され、正一品(せいいっぴん)~従九品(じゅうきゅうひん)の流内、流外、雑任の3段階よりなる身分官人制を基軸とした唐の支配体制は、優れて法規の体系性と形式的整合性を備え、一貫した文書主義により統治技術として実効をあげ、周辺の東アジア諸国にまで継受された。皇帝の命令たる詔勅の起草にあたる中書省、上奏・詔勅案の審査検討に任ずる門下省、そして吏・戸・礼・兵・刑・工の六部(りくぶ)とそれを統括する左右司の都省よりなる行政中枢としての尚書省、以上三省を中心に、九寺、五監などの中央行政官庁、十二衛以下の近衛(きんえい)軍、全国10~15道の約300府州、千数百県に及ぶ地方行政機構と約600の折衝府(せっしょうふ)を通じ、帝国支配の貫徹を期した。盛唐の登籍戸数1000万に近く、人口5000万を数える大帝国は、流内京官二千数百人(うち五品以上の貴族官人約300人)、流内の外官一万数千人、流外その他下級吏員内外計五万数千人、そして底辺の雑任など職掌人約30万人の定員で統治されるたてまえであった。
国政を総括し政策決定を行う宰相には、初唐は三省の長官が任じ、盛唐では中書門下の政事堂で皇帝の委任を受けた数名の高官が同平章事などの銜(かん)を帯び合議により政務を決した。安史の乱後、前期の三省六部二十四司の機構は漸次形骸化し、臨時の差遣により任ぜられる使職が発達し、ことに財政は判戸部、度支使、塩鉄使の三者を中心に運用され、やがてこれらが合体して五代には三司使が成立した。官人任用には、詩賦(しふ)の文才をおもに試験する進士科が重視され、父祖の官品による蔭(おん)の出身や経書の暗記を主とする明経科を押しのけるようになり、後期の宰相や学士の主流は進士出身者が占めるようになった。安史の乱後は、節度使以下の使職の辟召(へきしょう)(人材を招いて部下に任命すること)による任用が一般化し、さらに公課や役務を免れるため、商人・土豪などが官庁に名目的ポストを占める影庇(えいひ)さえ盛行をみるに至る。
州県郷里を通ずる人民支配の網の目は全国を覆い、100戸1里、5里1郷を基準に毎年戸主の申告に基づいて計帳をつくり、また3年ごとに全戸口と各戸の已受田土(いじゅでんど)を網羅する戸籍を作製して中央に申報させた。成丁(せいてい)を中心に一定面積の田土を班給する均田制が定められ、それに対応して丁男1人当り毎年粟(あわ)2石(租)と絹2匹(8丈)、綿(まわた)3両あるいは麻布2端(10丈)、麻糸3斤(庸調)を徴収する税制が行われた。給田は一部の地域を除き実施困難であったにもかかわらず、徴収は実現された。両京を中心とする折衝府配置地域では3丁に1人の割で府兵が差点され、交代で首都の宮衛警備に上番し、また国境の防備に派遣された。地方州県では年間50日(一説40日)以内の力役が雑徭(ざつよう)として丁男と中男に課された。これら前期の諸制度は盛唐期に崩れ、780年に租庸調廃止と両税法の制定により大転換を遂げた。これにより課税対象は人丁から田地にかわり、従来すべて中央の差配にまった集権的財政は、以降在地の自主性が強化され、地方の留州・留使と上供に三分され、節鎮の分立の形勢に対応した。後期の蕃鎮の分立抗争は重税をもたらしたが、同時に特産品の生産を促し流通経済や貿易も発達し、越州窯・銅官窯の陶磁器、徽(き)州や蜀(しょく)の紙・文具、并(へい)州の鉄、華南の銅など重要産業の成長をみた。
[池田 温]
古代王朝文化の完成を迎えた唐代は、宗教・文学・美術各分野に多彩な黄金時代であった。初唐の『五経正義』欽定(きんてい)により、経学は思想的生命力の枯渇を免れなかったのに対し、伝訳の充実を背景として仏教は最高の人材を輩出し、吉蔵(きちぞう)の三論、智顗(ちぎ)の天台、玄奘(げんじょう)の法相(ほっそう)、道宣の律、法蔵の華厳(けごん)、善導の浄土と多彩な中国的教学体系を産出し、8世紀以降は南北の禅宗諸派が旺盛(おうせい)な活動を展開した。唐室の庇護(ひご)を得た道教も玄宗の天宝期をピークに伸張し、釈蔵に倣って道蔵を編成するに至る。後世への影響のとくに大きかったのは文学で、唐詩は中国文学の精華とされ、李白(りはく)、杜甫(とほ)、王維(おうい)、白居易(はくきょい)ら大詩人が競い起こり、今日まで5万首近い作品を伝存する。また中唐の韓愈(かんゆ)、柳宗元(りゅうそうげん)らが六朝以来の修辞技巧の勝った駢文(べんぶん)を排し、達意の古文を鼓吹してから新しい文風が広まり、同時に伝奇小説も流行し、庶民教化をねらう語物(変文)の普及がみられ、より広い階層に文学が受け入れられるようになった。中唐以降社会の変質に呼応して文化にも新傾向が芽生え、もっとも伝統的な経学にあっても経典に対する批判的検討が柳宗元らを先駆けとしておこり、また李翺(りこう)らによる禅家思想の摂取融合は、宋学の源流となった。学術面でも、制度史の範をなす杜佑(とゆう)の『通典(つてん)』や、賈耽(かたん)の地志地図が生まれ、絵画も前代の彩色絢爛(けんらん)たる壁画にかわり、心意を重んずる単色の水墨技法が発達し小品の鑑賞が広まり、書法も初唐に虞世南(ぐせいなん)、欧陽詢(おうようじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)により古典的完成をみた流れが、顔真卿に至って均整より意志的表現が目だってくる。文化の担い手が貴族から士大夫(したいふ)、さらに富裕な庶民に広がるにつれ、その性格も変質を示した。
他方唐代は東西文化交流の最盛期にあたり、侍衛の質子や使節・蕃将をはじめ来華外人もおびただしく、両京や主要都市に雲集し、仕官して顕著な事績を残した者も少なくない。凹凸画で名高い尉遅(うっち)氏父子や、インド暦法の瞿曇悉達(くどんしった)、密教を伝えた善無畏(ぜんむい)、不空三蔵はその代表であり、日本の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(朝衡)も高官に上り、王維、李白ら詩人と交わり、歴史に名を残している。
唐初にササン朝ペルシアから王子が亡命してきたほか、中央アジアを経て祆(けん)教(ゾロアスター教)、波斯(はし)教(マニ教)、景教(ネストリウス派キリスト教)の西方3宗教が伝えられ、長安はじめ、若干の都市に夷(い)寺が建設され、マニ教、景教の教典が漢訳された。これら外教は在留外人の庇護下に栄えたが、9世紀の会昌の廃仏で大弾圧を被り、表面から姿を消した。イスラム圏との交渉が南海貿易を通じ深まると、広州などに蕃坊とよばれるイスラム商人居住区ができた。そのほか音楽、舞踏、雑戯、飲食など生活に密着した諸文化に外来要素が豊富に取り込まれ、エキゾチシズムの盛行が著しい。
[池田 温]
『布目潮渢・栗原益男著『中国の歴史 4 隋唐帝国』(1974・講談社)』▽『日比野丈夫編『図説中国の歴史 4 華麗なる隋唐帝国』(1977・講談社)』▽『D. Twitchett ed.The Cambridge History of China vol. 3, Sui and T'ang. Part 1 (1979, Cambridge Univ. Press.)』
中国、五代の一つで、後唐(こうとう)ともいう。
[編集部]
中国、十国の一つで、南唐ともいう。
[編集部]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
618~907
中国の統一王朝。隋末の乱に突厥(とっけつ)防衛のため山西太原にいた唐国公李淵(りえん)(高祖)は,長安を占領して煬帝(ようだい)の孫の恭帝を立て,煬帝が江都(揚州)で殺されると,禅譲によって即位した。その創業を助けた次子李世民(りせいみん)(太宗)は,皇太子建成(けんせい),弟元吉(げんきつ)を殺してあとを継ぎ,628年全国を統一し,均田制,租庸調,府兵制に基礎を置く律令政治を整え,唐朝支配の基礎を固めた。また太宗とその子高宗は,突厥,鉄勒(てつろく),西域諸国,百済,高句麗などを討って領土を広めた。しかし高宗の末頃より均田制の動揺がみえ,皇后の則天武后は中小官僚,新興地主の支持で政権を奪い,一時周朝(武周)を建てた。武后死後復位した中宗の皇后韋后(いこう)も夫を殺して政権を握ろうとしたが,のちの玄宗がクーデタを起こして父の睿宗(えいそう)を位につけ,ついでみずから即位した。玄宗は均田制を立て直し,大運河によって江南の新財源を求め,辺境に節度使を置いて国力を充実し,文化史上でも詩人の李白(りはく),杜甫(とほ),絵の呉道玄,李思訓(りしくん),王維(おうい),書の顔真卿(がんしんけい)らを輩出した。しかし末年に安史の乱が起こって繁栄は終わり,節度使が内地にも置かれて民政を兼ね,しばしば反乱を起こした。また均田制の崩壊も決定的となって,塩専売や茶税,両税法がしかれた。これらの財政措置の結果,一時憲宗期の中興があり,白居易(はくきょい)の詩や韓愈(かんゆ),柳宗元の古文復興もこの頃行われたが,以後中央では宦官(かんがん)の専権や官僚の党争が続いた。地方では,農民の没落が進んで黄巣(こうそう)の乱を起こし,乱軍からいったん投降した朱全忠(しゅぜんちゅう)が昭宗,哀帝を擁し,禅譲の形式で国を奪い,後梁(こうりょう)王朝を建て,唐は20代約300年で滅んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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中国,隋末の混乱のなか李淵(りえん)(高祖)が恭帝の禅譲をうけて開いた王朝(618~907)。都は長安。子の李世民(りせいみん)(太宗)は名臣を得て,貞観(じょうがん)の治の繁栄を迎える。律令格式を制定し,均田制・府兵制を整備して強大な中央集権体制を築いた。また突厥(とっけつ)・吐谷渾(とよくこん)・百済・高句麗を破り,羈縻(きび)政策および冊封(さくほう)体制によって外夷を治め,世界帝国としての国際関係を築いた。690~705年の間,則天武后(そくてんぶこう)が政権を奪うが,8世紀初めには玄宗のもとで開元の治の安定をみた。しかし755年からの安禄山(あんろくざん)の乱で都は荒廃。さらに875年の黄巣(こうそう)の乱で王朝は大きく衰退,地方では節度使(せつどし)の割拠が進み,哀帝が黄巣の部下朱全忠(しゅぜんちゅう)(五代・後梁の太祖)に禅譲して王朝は滅んだ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北周王室の宇文氏,隋王室の楊氏とともに,北魏が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,唐の政治と制度には北周と隋のそれらを継承するものが多い。唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。…
…〈地主(ちしゆ)〉という語そのものは近代以前の文献に見られるものの一般的ではなく,むしろ他の呼称が普及しており,それが本格的に用いられるようになったのは1920年代の現代農民運動以来のことである。
[唐以前]
すでに春秋末期から戦国時代,前5世紀前半から前3世紀後半にかけ,各国の卿(けい),大夫(たいふ),士などの支配階級が国君からの賜与やみずからの武力行使によって私的に土地を領有しており,商人や地方の豪民の私的大土地所有も存在した。漢代とくに後漢では,地方における有力豪族の大土地所有が発達し,自営の小経営農民の土地所有と,年長者の統率する地域の在来の共同体の存立とをおびやかした。…
※「唐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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