百科事典マイペディア「京都[市]」の解説
京都[市]【きょうと】
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…江戸時代,幕府の直轄都市で人口などの面でずぬけて規模の大きかった京都,江戸,大坂をいう。元禄期(1688‐1704)ころの三都の人口はほぼ35万人前後であったが,同じ幕府の直轄都市堺が約6万,長崎が約5万,また城下町として最大規模の金沢,鹿児島,名古屋が約5万であったから,三都の大きさがわかる。…
…国府都城【鬼頭 清明】
【中世】
日本の中世都市に関する古典的研究は,西欧の古典的中世都市論の影響の下に,古代都市を統治機能中心にみるのと対の形で,経済すなわち商業手工業中心に自治の達成を規準としながら論じられてきた。したがって中世前期は古代の残影という視角で三都(京都,奈良,鎌倉)の変貌,形成をとらえ,商業・手工業の発達する中世後期に及んで地方を含めて多様な中世都市が一律に自治的要素をもって本格的に成立するとみる傾向が強かった。さらに三都や城下町,門前町,寺内町,港町等々の多様な地方都市の質的差異や,構造的連関まで論じられることは少なかった。…
…すなわち長安は五胡十六国時代の前趙,夏,前秦,後秦と西魏,北周,隋,唐の各王朝の首都であり,洛陽は三国の魏,西晋,北魏,後唐の首都で,隋と唐の副都とされた。そして日本で〈千年の古都〉と称される京都が,平安時代に西半分の右京が長安,東半分の左京が洛陽の別名をもった,という事実が示唆するように,日本古代の都城は,中国の長安と洛陽との両都城を模倣したものなのであり,さらに時代を限定すると,北魏王朝の首都たる洛陽城と,それにひきつづく隋・唐王朝の首都たる長安城との都城制を移入したのである。ただし留意すべきは,儒教の古典たる礼制に記載され,伝統的に中国人一般が抱いてきた都城のイメージにおいて,北魏の洛陽城と隋・唐の長安城とは,ともに正統ではなく異端の位置にあったという点である。…
※「京都[市]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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海上保安庁に所属し海上の警備と救難業務を行なう船。外洋で行動する大型で航洋性があるものを巡視船といい,港内や湾内などのかぎられた水域で行動する 100総t程度以下の小型のものを巡視艇と呼ぶ。武器として...
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