京都府南部の市。府庁所在地で,政令指定都市。2005年4月旧京都市が京北(けいほく)町を編入して成立した。人口147万4015(2010)。
京都
京都市中南部の旧市で,府庁所在地。1889年市制。人口146万7785(2000)。府の政治,経済,交通,文化の中心をなすばかりでなく,国際的文化観光都市として著名である。地形的には京都盆地の北東部に位置し,南部と西部が低く,北部と東部が高い。市街東縁部には東山の連峰が連なるが,それを越えた東側の山科(やましな)盆地も京都市域に属する。歴史的には794年(延暦13)に建設された平安京が都市としての起源で,平安京は朱雀(すざく)大路を中心に左右両京に分かれていた。低湿な右京(西部)はやがてさびれ,高燥な東部,北部へと発展し,平安京の東縁であった鴨川の東へも早くから市街が広がっていった。
市制施行時には面積は約30km2で,上京,下京の2区のみであったが(現在の両区とは範囲が異なる),その後市域が拡大し,1929年には上京,下京,中京,左京,東山の5区となった。31年には伏見市などを編入して伏見区,右京区が設けられ,第2次世界大戦後にはさらに北方の丹波高地や南西方の町村を合わせ,59年約610km2の市域が成立した。また1955年には上京,下京が分区されて北区と南区が生まれ,76年には東山区から山科区,右京区から西京(にしきよう)区が分かれて,合わせて11行政区となっている。なお1956年9月政令指定都市となった。
平安京の町割りは,豊臣秀吉によって大きく改造され,さらに明治以後もさまざまの改変を受けたが,中心市街には現在も,東西南北の整然たる方格状の街路網がよく残っている。現在ビジネスの中心をなすのは東西の四条通りと南北の烏丸(からすま)通りの交わる付近であり,多くの金融機関や企業のオフィスが集まっている。四条通りと河原町通りの交わる付近は繁華街をなし,周辺には飲食店やみやげ物店の集まる新京極や,魚,青物市場の錦小路通などの通りもある。そのほか千本通りや伏見大手筋などにも繁華な商店街が成立している。卸売業も重要で,ことに室町通りを中心とする絹織物関係の卸売商は,全国的に大きな力をもっている。
市内での就業者数の産業別内訳では製造業が28%(1995)を占め,また市内純生産のうち製造業の占める比率も32%(1994)で,京都市はふつう考えられるよりは工業都市的色彩が強い。京都市の工業は繊維工業を主とし,その代表は市街北西部の西陣を中心とした西陣織で,高級呉服地や帯地の生産が行われ,また元禄年間(1688-1704)に絵師宮崎友禅によって始められたといわれる友禅染も重要である。そのほか東山の山麓で慶長年間(1596-1615)から発達した清水焼や,京仏具,京漆器,京扇子など,京都の工業は工芸品的な高級品製造を行う伝統工業に特徴がある。これらの伝統工業がおもに旧市街内部の比較的小規模な事業所で行われるのに対し,その西方から南方にかけての周辺部は近代工業地区をなし,電気機器,輸送用機器,一般機器,化学,金属製品,印刷などの比較的大規模な工場がある。
市街の北部には京都大学,同志社大学,立命館大学,京都工芸繊維大学,京都府立医科大学などの国公私立大学や,美術館,資料館,京都会館,京都国際会館などがあって,文教地区をなしている。市の人口は1960年128万人,70年142万人,80年147万人と漸増してきたが,その後は停滞している。住宅は,市街中心部にも商住混合,工住混合の形で多くの古くからの住宅がみられるが,純住宅地区は北東,北,北西方面に広がり,近年は南東の山科,醍醐,日野,向島でも住宅地化が進み,また市域南西端部にも大規模な洛西(らくさい)ニュータウンが建設されている。
交通の面では,東海道本線,新幹線が通じ,山陰本線と奈良線が分岐し,また大阪方面への阪急と京阪,奈良方面への近鉄など,私鉄もよく整備されている。道路も国道1号線と名神高速道路のほか,山陰方面へ9号線,奈良方面へ24号線が通じ,交通の結節点をなしている。ただし市内交通はほとんど路面交通に依存し,地下鉄は四条通りの地下を東西に阪急電鉄が通じているだけであったが,1981年5月に市営の地下鉄が烏丸通りの地下を南北に京都駅から北大路まで開通して,その後,南は竹田,北は国際会館まで延び,さらに97年10月には二条~醍醐間(現在は太秦天神川~六地蔵間に延長)の東西線が開通した。1895年全国で最初に通じた市電は1978年までにすべて廃止されている。市内は第2次大戦で戦災を受けなかったためもあって,狭い街路が多く,近年の自動車普及の結果,しばしば交通渋滞を生ずる。
古い歴史をもつ京都市には,旧市街の内部(洛中)にも周辺部(洛外)にも,多くの有名な古社寺や史跡があり,また嵐山などの名勝にも恵まれているため,国際的な観光都市として知られる。観光客が多く訪れる社寺は清水寺,八坂神社,金閣寺,平安神宮,銀閣寺,知恩院,三十三間堂,東西両本願寺,竜安寺などであり,地区としては四条河原町付近,嵐山,嵯峨野,八瀬(やせ)大原,三尾(さんび),比叡山,鞍馬貴船などである。1994年京都市,宇治市,滋賀県大津市の寺院などが,〈古都京都の文化財〉として世界文化遺産に登録された。
執筆者:浮田 典良
歴史
平安遷都
京都は,8世紀の末,桓武天皇により山城国葛野(かどの)郡に造営された平安京を母体とする。まわりを山に囲まれた盆地にあるが,この地が選ばれたのは,長岡京以上に水陸の交通の便に恵まれていたことによる。以来1200年に及ぶ生命力を持ち続け,今日に至ったが,その間,一般名詞であった〈京都〉が平安後期には固有名詞(地名)化している。
平安京の造営は,長岡京の放棄を決意した桓武天皇により793年に開始され,翌年10月22日,革命の日を期して新京に移っている。翌月の詔で国名を山背から山城に改め,新京は平安京と名付けられたが,造都工事は緒についたばかりで,これ以後本格化した。しかし長岡京につづく造都事業,それと並行して進められた蝦夷経営による民苦を放置できなくなった天皇は,805年12月,造宮職(ぞうぐうしき)の廃止を決定,これにより造都事業は終息した。ただしここが宮都として定まるのは,嵯峨天皇の時,平城上皇が平城京への遷都を呼びかけて失敗した,810年(弘仁1)の薬子の変以後のことである。
平安京の規模は東西約4.7km,南北約5.4kmで,この京域の北部に大内裏がつくられたが,その平面構成は,当初,大内裏の北に2丁の余地を残す藤原京型であり,それが9世紀末に北闕(ほつけつ)型に改められ,それにともない宮城門も14にふえたと推定される。京中は朱雀大路によって左京と右京に分けられ,条坊制に基づく大小の道路による町割りがなされたが,低湿地の多かった右京域については,未造成に終わった部分もあったと推測され,早くすたれた。遷都後20~30年たったころで京中の町数は580余町と報告されており,平安京は実質予定の半分の規模であったと思われる。10世紀後半に書かれた慶滋保胤の《池亭記》にも,右京は人が去ってさびれ,左京の方に人口の集中したようすが記されている。嵯峨天皇の時,唐の都城名をかりて左京を洛陽(城),右京を長安(城)と名付けたことから,衰微した右京にかわり,左京の洛陽が平安京の代名詞ともなった。9世紀の段階における平安京の人口については決め手の史料を欠くが,宅地を班給されて京中に住んだ貴族をはじめ,課税が他地域に比して軽かった一般庶民,地方から徴発された課役民などをあわせ,10万人から15万人までの間であったろう。このうち左右京職(きようしき)によって戸籍に付された住民を京戸(きようこ)といい,その多くは,京外,ときには山城国以外の遠隔地に口分田を与えられた農民的存在であったが,口分田の耕営は不利な条件にあったから,農業生産を離れ,官衙や貴族の家政に関わるもの,東西市の市人をはじめとする商工業に従事するものなども,早くから現れていたと考えられる。また地方からの課役民には諸司厨町(しよしくりやまち)という宿所が用意された。この厨町は,中世になってその住民が官衙での職掌をもとに商工業の座を形成したものがあり,これが京都特有の座となったことでも留意される。京中の民政は京職が当たったが(京外は山城国司),10世紀以降治安警察は令外官である検非違使(けびいし)(庁)が当たり,中世に及んだ。
都市としての発展
平安京を舞台に貴族政治が展開し,王朝文化が開花したが,今日,市中には王朝の遺構はほとんど残っていない。京都御所は本来の内裏ではなく,960年(天徳4)を初度として内裏がたびたび罹災したことで利用された里内裏の一つ,東洞院土御門殿の後身であり,現在の建物は,江戸後期,松平定信により古制に戻して再建された寛政度造営内裏をもとに,1855年(安政2)につくられたものである。摂関家によって東京極の東(京外)に造営された法興院や法成寺なども遺構をとどめず,ただ醍醐寺五重塔とか宇治平等院鳳凰堂などが周辺地域に残っているにすぎないが,葵祭などに王朝の風流をしのぶことができよう。ちなみに平安京でも,寺院勢力を排除した長岡遷都の意図が踏襲され,東西両寺は別として,京中に寺院を建立することはなかった。京中に寺院が出現するのは,鎌倉後期,日蓮の法孫日像が関東から上洛し,富裕町人の帰依を得てその屋敷地に寺を建てたのがはじめである。なお10世紀の半ば,比叡山延暦寺が摂関家の帰依を得て権門の寺となったが,これが以後京都の宗教界はもとより,政治的・社会的な影響を強く及ぼすことになる。
院政期に下ると,右京の衰微はいっそう進み,市域は鴨川の東へと広がった。〈国王ノ氏寺〉といわれた法勝寺以下の六勝寺や,白河殿などの離宮が相ついで営まれ,市街化したことから,〈京・白河〉の称も生まれた。この鴨東には,それより南に,台頭した平家の一門や郎等,所従らの集住する一大集落が出現したことも見落とせない。のちここには六波羅探題が設置される。洛南の鳥羽も,相前後して御堂や水閣が営まれ,さながら都移りのごとくであったといわれた。市街地の偏在化が進んだために,このころになると本来の朱雀大路が西朱雀路と呼ばれる一方,東京極大路に東朱雀大路,鴨川(原)に朱雀河(原)の呼称が生まれている。また市域も二条大路を境に,上辺(かみわたり)・下辺(しもわたり)と呼ばれたが,これは中世では上京・下京という呼称にかわる。また条坊制の四行八門の制による地点表示法が崩れはじめ,道路を基準とする表示法,たとえば〈油小路西,六角通北〉といったいい方が11世紀の後葉に登場したのも留意されるところで,これは人為的な都市が生活に即した形に変容しはじめたことを物語っている。道路の通称が現れ,それを覚えるための口遊(くちずさみ)が生まれたのもそれで,京都のわらべうたとして知られる〈アネ,サン,ロッカク,タコ,ニシキ……〉という,道路名を歌い込んだ歌の原型が平安後期には現れている。
都市の発展にともない,いわゆる都市問題が発生した。記録の上では,9世紀半ばすぎ,貞観年間(859-877)あたりから顕著となる。とくに863年5月,流行する咳逆(がいぎやく)病を鎮めるため,神泉苑で催した御霊会(ごりようえ)は,その後に展開する各所の御霊会の最初となったが,その一つ祇園社の御霊会がもっとも典型的な都市型祭礼として発展し,今日に及んでいる。生活基盤の弱体であった京中住民の救済のために,水旱損のおこるたびに米塩を放出支給する賑給(しんごう)がしばしば行われ,のちには年中行事化した。日照り続きには神泉苑で祈雨の法会が行われ,またその水が灌漑用に開放された。このように天変地異の被害は人口の集中する都市であるがために増幅された。平安末期,1177年(治承1)4月の大火は,2万余家が焼亡し,死者も数千人にのぼったという空前の火災で,世に〈太郎焼亡(じようもう)〉と称される。この大火により大内裏の諸官衙が焼失したが,大極殿はこののち再建されることはなかった。大内裏の中は荒廃の一途をたどり,鎌倉時代には一面野原となり,内野(うちの)と呼ばれた。
武家政治の時代と京都
鎌倉幕府の成立は,京都の政治的地位を低下させた。とくに承久の乱後に設置された六波羅探題(南・北)は,京都朝廷の監視をはじめ洛中の警固に当たったことから,武家の力が京都に貫徹するに至ったが,一方検非違使の機能もなお保持されている。鎌倉時代の京都では,仏教界の新しい動きがみられた。法然,親鸞や日蓮といい,栄西,道元といい,宗祖の多くが比叡山で学んだ天台の僧であったのが特徴的で,これらの新仏教が都市の宗教として浸透するのは室町時代であろう。市街に釘貫(くぎぬき)といって,町の入口に木戸を構えることが,鎌倉前期には確認されるが,これは都市民の間に共同体的な関係が成長していたことを物語っている。商工業者の成長も著しく,なかでも〈山門気風の土倉(どそう)〉といわれる,比叡山延暦寺の管轄する法体の土倉が高利貸業者として活躍した。土倉は室町時代には幕府の財政を支える重要な存在となる。
建武中興とその瓦解,それにつづく足利氏の京都開幕は,地方の大名武士を多数上洛集住させることとなり,京都は公家よりも武家の町となった。その結果,政治の上はもとより,文化的にも公・武,都・鄙が接触,混淆し,京都を場として新しい武家文化の形成される要因となった。室町時代,京都の都市的発展も進み,道路によって区画された条坊制の町から,道路をはさんで向かい合う居住者によってつくられた町,いわゆる〈両側町〉が生まれた。京都の代表的な祭礼として発展した祇園祭は,典型的な両側町である山鉾町の町人によって支えられた好例である。公家,武家の邸宅や西陣機業者の集まる上京に対して,商工業者の集住する下京という地域性も明確となり,革堂(こうどう)・六角堂がそれぞれの町堂として市民生活の中核となった。現世利益を説く法華宗が町衆に受容され,洛中法華二十一ヵ本山と呼ばれるほど多数の寺院が市中に建立されるとともに,町衆の法華一揆がしばしば一向一揆に対抗した。
応仁・文明の乱は京都の町の大半を焼いたが,都市の発展はむしろこれ以後に本格化した。〈市中の山居〉をたのしむ茶の湯や立華が盛んになったのも戦国時代のことで,都市文化の出現とみなされる。一方,地方大名のなかには積極的に京都文化を摂取して領国文化を育成し,その城下町に京都の自然的・人文的な景観を移したものも少なくなかった。西の京都といわれた大内氏の周防山口,越南の都とうたわれた朝倉氏の越前一乗谷,あるいは一条氏の土佐中村などがその代表であろう。《洛中洛外図屛風》が,そうした京都の景気を描いたものとして地方大名に愛好されたのも,同じ理由による。
執筆者:村井 康彦
近世における京都の改造
1568年(永禄11)織田信長が入京し,近世的統一国家構想の中心に京都を据えたことにより,京都は本格的な政治・経済の舞台となる。信長は村井貞勝を,信長の後継者豊臣秀吉は前田玄以を,京都奉行あるいは所司代に任じて京都の支配に当たらせたが,彼らの役割は京都に常駐できない信長や秀吉にかわって,国家統一の拠点としての京都をいかに統治していくかにあった。しかし豊臣秀吉は天下統一がすすむと,統一の拠点としての京都を一歩すすめて,近世的統一国家の中核にふさわしい近世都市へと改造した。
秀吉が天下の統一をほぼ完了した1590年(天正18)から翌年にかけて行った京都の都市改造は,短冊型町割り,寺院街の形成,御土居(どい)の築造,地子銭の免除からなる総合的な都市改造であった。この都市改造以前には,上京と下京の市街地は連続せず,二条近辺は荒地となって城構えの妙顕寺や妙覚寺などが散在し,外来の地方軍団などの進駐するところとなっていた。秀吉は,下京の商業繁華地域など特定地を除き,平安京以来の東西南北路に加えて,新しい南北路をその中間に貫通させる町割りを行った。これによって,道路で区画される町地が従来の1町(約109m)四方の正方形から,南北1町,東西半町の短冊型となった。短冊型町割りは道路に面する町並みを増加させ,空地となっていた中央部を活用させるという,市街地再開発がねらいであった。また秀吉は,市中に散在する中小寺院を市街地の東端と北端に集め,寺町および寺之内とよばれる寺院街をつくった。これには,市民と寺院との精神的な結びつきを断つ宗教政策的な意味と,市中にあって相当な面積を占めていた寺院を郊外に移転させ,その跡地を町地に転用する意味もあった。京都を囲繞(いによう)する堤は御土居と呼ばれるが,これは秀吉が,京都の市街地を鴨川の洪水から守る役目と,京都の都市規模を策定するために建設したのではないかと考えられ,注目される。秀吉による京都改造は,1591年の洛中地子永代免除によって終結するが,地子銭の免除は,貴族や社寺などが京都市中に設定していた地子徴収の領主権をことごとく否定し,近世的統一権力が京都という都市を独占的に掌握するための措置であり,それはさらに都市民の懐柔と都市の経済的保護育成をねらいとしたものでもあった。秀吉は,この都市改造で京都の商工業機能を発展させることにより,近世社会の石高制を支える中央市場として京都を位置づけようとしたようである。以後京都の発展はめざましく,17世紀初頭には人口30万人以上,洛中町数1300町余を数える大都市に成長したのである。
江戸幕府の京都支配
1603年(慶長8)に徳川家康が江戸に開幕したことは,信長,秀吉の構想した京都を中心とする畿内近国型の経済や文化を基調とする統一国家ではなく,江戸および関八州を基盤とする国家構想を提示したことであった。東日本と西日本の差異を認めたうえでの選択であったから,江戸幕府にとってみずからの統一国家構想のなかに,西日本をどのように位置づけるかは大きな課題となった。京都には朝廷や公家,社寺などの伝統的勢力があり,また町人の経済力は無視しがたく,さらに反徳川で結集しようとする豊臣方の勢力も京坂一帯では根強かった。こうした状況のなかで,京都はもとより西日本支配の大きな権限を所司代に付与し,所司代を中心に八人衆と呼ばれる合議体制を設けて,江戸の政治からは相対的に独自な幕政を行わせた。所司代は,幕初の板倉勝重につづいてその子息の板倉重宗が継承し,板倉父子の支配は約半世紀に及び,重宗のあとは牧野親成が就任した。板倉父子および牧野親成の所司代時代に,京都の市中法度が制定され,町共同体と町組の組織も干渉を加えられ,行政機構として整備された。町組は上京12組,下京8組のほか禁裏六町町組と東西両本願寺の寺内町組があり,全町組は町代を通じて奉行所から政令を伝達された。また町組所属以外の洛外町続町および農村部も,雑色(ぞうしき)と呼ばれる触頭(ふれがしら)を通じて所司代の直轄下に組み込まれていた。
1668年(寛文8)に京都町奉行が設置されると,京都市中および山城の支配も,その権限が所司代から町奉行へと移された。京都町奉行は東西の2員制で,一時元禄年間に伏見奉行廃止にともない3名となったこともあったが,幕末まで基本的に変更はなかった。
市勢と構造
近世の京都は,秀吉の都市改造によってその原型が決定した。市街地は,北は鞍馬口通り,南は七条で一部東寺辺が九条まで,東は寺町通り,西は北部が千本辺,南部は大宮通りといったところであったが,統一権力の保護育成によってしだいに市街地も拡大し,とくに寺町以東の河原町および木屋町辺の市街化,南東部の東本願寺新屋敷辺,北西部の千本以西地域などの開発が盛んであった。また東海道である三条通りの鴨川以東地域,祇園社周辺地域,大仏回り,伏見街道沿線など,鴨東の発展も著しく,17世紀末までには近代京都の市街地原型がほとんどできあがっている。《京都御役所向大概覚書》という江戸中期の記録によると,町数は洛中1615町,洛外町続町228町で合計1843町,家数は洛中3万9649軒,洛外5258軒で合計4万4907軒,人数は洛中30万2755人,洛外4万1624人で合計34万4379人と記されている。もちろんこれは平民数と考えられるから,僧侶や公家,武家などを加えると人数で40万人前後となるかもしれない。京都の景観や構造をうかがわせるものに《洛中洛外図屛風》や京都絵図,京都案内記などがあるが,それらを総合的に復元した《京都の歴史》近世巻の別添地図によると,洛中の中心部に禁裏御所を中心とする公家屋敷街と,二条城を中心とする武家役所街が形成されている。武家役所街とは二条城北の所司代,二条城西の二条城番,蔵奉行,鉄砲奉行,西町奉行,京都代官,南では東町奉行といった役所であり,これらをとりまくように有力大名の京屋敷もあった。もちろん,すべての大名屋敷や公家屋敷がこの地区にのみあったわけではなく,市中の町屋のなかに散在するものも少なくなかった。社寺は寺町,寺之内をはじめ,西では千本,西ノ京および大宮通り,南では東西本願寺寺内町と,文字通り市街地外縁部に多いが,市中各所にも散在している。寺院の多くは,本末制度のなかで各宗派の本山と呼ばれて全国寺院に君臨する格式をもち,京都の宗教都市としての性格をかたちづくっていた。京都には,ほかに歴史と伝統をほこる諸職名匠をはじめ,特権的な御用達町人,当代一流の学者や医師,文人なども多く居住していた。町人の地域的な住み分けも見られ,それが京都内部の地域的特色ともなっていた。たとえば,商業中心地区は下京の四条通り,新町・室町通り一帯で,ここには有力な京都商人が軒をつらねていたし,学者や文人たちは公家街の南西のいわゆる新在家辺に多く,公家街と武家街をつなぐ上京の下立売通り,中立売通り一帯には呉服所や幕府,諸大名の御用達町人が多かった。また市街地北西部にあたる西陣地域には,機業家や染色,糸屋などの織物業関係の人々が集住していた。
産業と文化
西陣が,応仁の乱後の復興のなかで大舎人座の系譜などによって,高級絹織物業の同業者街となったのはよく知られている。江戸中期におけるその範囲は,堀川以西,一条または中立売以北で,その町数は168町と数えられている。江戸初期の状況を伝える俳書《毛吹草》にもすでに西陣の撰糸,金襴,唐織,紋紗等々が名産として記されている。《毛吹草》によって京都の名産を紹介してみると,安居院(あぐい),寺之内の畳縁,筆柿,白みそ,一条の薬玉(くすだま),似紺染,二条の薬種,はかり,きせる,洗鮫,三条の袈裟(けさ),蚊帳(かや),四条の屛風,五条の扇地紙,渋紙,紙帳,六条の仏具,灯籠細工,山川酒,七条の編笠団子,八条の浅瓜,九条の真桑,芋,藍といった具合である。手工業品が市中に多いのに比較して,南部に農産物系統のものが見られるように,周縁部では加工品や農産品が名産にまで成長していた。《京雀》や《京羽二重》という京都案内記でも,京都の産業分布をうかがうことができるが,全体として高級手工芸品の生産・小売業が多く,禁裏や幕府との密接な関係をもつ特権的町人として,名誉と技術を相伝するのも,京都産業界の特徴である。
幕末の京都
京都盆地は内陸に位置して海がないために,京都は都市として発展すると,物資の運搬に苦慮した。舟運としては角倉氏の高瀬舟のみであった。全国的な商品流通の発達のなかで,大堰川と由良川とを結んで日本海と京都を舟で往来しようという通船計画や,琵琶湖疏水計画が江戸中期以降たびたび企てられ,これは実現しなかったものの京都の内発的な都市改造の欲求として注目される。
ところで,実際に京都を変貌させたのは,幕末の政治的動乱である。ペリーの浦賀来航によってにわかに京都朝廷の政治的意味が浮上し,幕府や雄藩は京都へ政治的な働きかけを開始した。所司代の上位に京都守護職を置き,将軍みずからも上洛を繰り返して,幕府みずから京都の政治的意味を強調する結果となった。攘夷と開国,佐幕と勤王,公武合体などの論が複雑にからみ合い,京都では寺院は諸大名の本陣と化し,大名の京屋敷は拡大・新築され,市中の旅館や町の会所や民家の離れなどにまで,入京した武士が投宿,人口は約2倍にも増加し,物価は上昇,都市の構造も市民生活も激変した。結局,政治に引きまわされた京都には,西高瀬川が残されたくらいで,市民のための町づくりという大きな課題が明治以後に残された。
執筆者:鎌田 道隆
京北
京都市北西部の旧町。旧北桑田郡所属。人口6686(2000)。旧京都市の北に接する。標高600~700mの丹波高地を大堰(おおい)川が刻み,町域の大半を山林が占める。高級建築材北山杉の産地として知られ,1962年ころより素材生産中心から木材加工へ比重を移し,みがき丸太生産が盛んとなる。農業は宅地化の進行,農業人口の減少により,衰退傾向にある。中心集落は明智光秀の築いた周山城跡がある周山で,京都市から周山街道(国道162号線)が通じ,商業が盛ん。山国(やまぐに)は古くから皇室と関係が深く,平安時代から皇室領の山国荘があり,南北朝期には北朝の光厳天皇が常照皇寺を開き,隠棲の地とした。境内には光厳天皇陵,後花園天皇陵があり,天然記念物の九重桜もある。また,明治維新で討幕のために活躍した農民隊の〈山国隊〉でも知られている。
執筆者:松原 宏